八 角 形 に ゅ ー す
2000年2月6日
聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会
神父のつぶやき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・李鍾昇 神父
聖書を祈る 神殿で見い出す(ルカ2章41〜51)・・・・・・・・・M・ハンラティ神父
リコーダーのクリスマス会に寄せて・・・・・・・・・・・・・・・・・長後 鈴木智子
湘南台センターコールエンジェルだより・・・・・・・・・・・・・湘南台 中山利美子
エルダーズのクリスマス会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・善行 岡村孝子
湘南台センターのクリスマス会・・・・・・・・・・・・・・・・・中学1年 彦坂幸乃
壮年部新年会に出席して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大庭 飯田治平
婦人部新年会に参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・長後 中村裕子
洗礼式の思い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢1区 古郡与四郎
「交わりのなかで」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・北1 岡村 正
キジト神父さまをお援けする会・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂1区 浮田久子
静修の日の指導司祭、澤田和夫神父様のご紹介・・・・・・・・・・辻堂2区 浅野士良
神父のつぶやき
李鍾昇 神父
1月21日婦人会の新年会で私の神父論について話をしました。 神父はサービス業である」と、だから、婦人会の新年会で歌って皆さんを喜ばせる義務がある?。もしかしたら、一般信者から見たら神父の仕事は大変に見えるかもしれません。だから、特に息子を持っている母親の立場から見たら神父はいろんな仕事をしなければいけないし、説教の準備などもあるし、その上、歌まで歌うし辛そうに見えたら、誰も自分の息子が神父になって欲しいとは思わないでしょう。そうすると現在一粒会ががんばって神学生を募集活動している事に反することを婦人会がしていることになるでしょう。
なぜ、このように神父に歌を歌ってくれと頼んでいるかと言えば、担当者が毎年変わっていて前年度の通り続けなければと思っているからでしょう。でも、婦人会の責任者達は全体的に内容検討しなければいけないだろうと思うのです。むしろ、問題を起こしたくないという気持ちが強いかもしれない。 しかしもう少し視野を広げて欲しいと思うのです。
さて、去年の12月司教座聖堂で司教様は説教の中でこう述べられました。教区長就任にあたって司教の紋章のコムニオ・コムニオヌムという標語を選びました。その標語の意味は交わりあるいは一致と訳されます。
交わりにはいろんな次元の交わりがありますが、その一つは諸教会の交わりです。ところが現在問題なのは小教区中心主義であるということです。
小教区中心になると何事をするにも小教区単位で考えてしまう。 例えば、教会の建て替えなどが代表的例としてあげられるでしょう。 隣の教会が貧しくても資金で苦しんでいてもうちは大丈夫だから知らん顔することになるのです。(でも、実際金銭の事は全部宗教法人横浜教区の責任であり、権利である事)そうするといろんな名目で小教区の構成員だけが仲良く楽しめば良いと思うことになってしまう。だから、現在小教区で行っている行事事態が小教区中心であって、もっと検討する必要があるのではないでしょうか。
例えば、バザー、ガーデンパーティーなどをも含めて考えるべきでしょう。
こういうことを言ったら、反発するグループがあるでしょう。もしかしたら、自分たちが今までやった事を全面的に批判されていると思われるかも知れません。でも、そういう人々は本来イエス様が何をおっしゃったか思い出すべきでしょう。教会で出身学校や社会的地位について自慢話をしていると何か勘違いしているかもしれません。教会は信仰共同体ということを忘れてはいけません。
司教様が望んでおられる一致に反する事はこういうことだろうと思います。つまり、信徒と司祭の対立です。信者と摩擦を起こしたくないなら、適当な線で司祭が妥協していく事になるし、神父が強すぎると摩擦が続くでしょう。お互いに神様のもとで交わりを頭に入れて考えるべきです。
第2バチカン公会議は教会をして「キリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類の一致のしるしである道具である」と定義しました。教会は、父と子と聖霊の交わり、三位の神の交わりへ人々を導く使命を担っています。
皆さん、こういう使命を果たすために心をこめて努めましょう。
(筆者註:司教様の文章「交わり(communio)としての教会」からたくさんのところを引用しました)
1.静思のひととき
詩編40を聞きしばし黙想をおこなった。
2.来年度予算について
4月からの新年度予算については、今月中に事務局に提出すること。事業内容については、具体的に指定用紙に記入し、2月の教会委員会で検討を行う。なお、今年度は大幅な祭儀収入減があり、さらに維持費の納入も減少しているので、厳しい予算が求められている。
また今年度の収支決算では約200万円のマイナスが予想されているとのこと。
3.地区割り検討小委員会について
各ブロックより委員を出していただくことになっているが、未だ決定されていないブロックがあるので、今月中にメンバーを確定したいとのこと。なお、各ブロックからのメンバーは男女各1名とすることに訂正された。現在の地区割りは、1970年頃に決定され、以後若干の手直しはあるものの、30年以前のものであり、現状とは大幅に相違している地区もあるので、検討小委員会を設置して全体を見なおすということである。
なお、検討小委員会での検討内容については、教会委員会に報告され、最終的には教会委員会で決定することになった。
4.委員会規約改定について
現在の委員会は、暫定的なものであり、現状にあった規約に改定するには、時間的に拙速であり、出来るだけ多くの信徒の声を反映した規約にするためにも、もう少し時間をかける必要がある。将来を見越した規約という意見もあるが、現状に見合ったもので充分であるという意見もある。基本的には、委員会は信徒全体の信仰を下からささえるものであり、指導するものではない。ともあれ信徒のご意見を伺って検討することになった。そのため、信徒の皆さまから意見を求めることになった。
5.その他
キリスト教一致のための合同祈祷会が、29日(土)午後2時より藤沢バプテスト教会で行われる。教会よりご一緒される方は当日1時まで集合のこと。
一粒会メンバーに、若い人が参加していただくことになった。一層の飛躍発展と充実が期待される。
エルダーズの会では、4月10日(月)にテハン神父同行による、バスによる神山復生病院と富士吉田巡礼を開催することになった。
16日、9時半ミサ終了と同時に、壮年部防災委員会が中心となって、非難訓練を行なう。
テハン主任司祭から、信徒会館を利用する際には、責任を必ず明確にすること。また部屋の利用に当たっては戸締り、電灯、暖房等は必ず確認すること。最近、使用中のままで帰ってしまう場合が多くみられるとのこと。気が付いた方は、そのつど確認して欲しい。
八角形にゅーすの委員会報告で、ここ数カ月委員会で、教会委員会規約の改定についての話し合いが行われているのをご存じだと思います。この背景について簡単に説明したいと思います。
現在の委員会規約は1991年に規約検討委員会が設置され、半年ほどにわたる検討を経て、教会の運営に中心的に関わる運営委員と地区ブロックの代表者からなる委員会という形で規約を作り、信徒総会の承認を経て1992年4月より施行されました。これは、それまでの活動グループ中心の委員会ではなく、信徒全体の幅広い意見を反映出来る組織作りを目指したものでした。また、日常の運営についての決定は小さなグループである運営委員に任せ、細かい事柄での小回りの利く運営をも考えてのものでした。
しかしながら、実際には地区ブロックのあり方についても、その後現在に至るまで様々な試行錯誤が重ねられ、まだ当初期待されたようには軌道に乗っていないという現実があり、また教会運営や様々な活動については、諸活動部の代表者が委員会に出席する必要も多く指摘されてきました。
そこで、1998年6月より暫定的に諸活動部を代表して3名の方が委員会に出席しています。この現状に合わせ、委員会規約の改定案を作成し検討を始めたところです。現在の所、運営委員に地区ブロック代表者を加えた現在の形にさらに各活動部の代表者を加えた形を想定し、検討しています。
これで教会全体を縦横に網羅した形での意見交換は可能な形となりますが、構成メンバーが多すぎ、実質的な話し合いは難しくなるのではとの指摘もあります。そのような検討を少しずつ積み重ねながら教会のすべての活動を下支えして行かれるような委員会のあり方を考え、それを生かせる規約を作っていきたいと考えています。
皆様のご理解とご協力をお願いいたします。なお、この件につきましてご意見やご提案をお持ちの方は、教会委員会までお知らせ下さい。
(教会委員会)
聖書を祈る 神殿で見い出す(ルカ2章41〜51)
M・ハンラティ神父
この箇所は私にとって、祈りの大変力ある助けとなっています。 私はイエスを充分によく知っていない、という事に気付かせてくれます。もっと意識して彼との関係を深めるように呼びかけてくれます。イエスとのまた、ある特定の人達との関係を育てる為に、私はよくこの箇所を祈り思い巡らします。
次の準備をした時によい結果が得られると感じています。
今この箇所をどの位の時間祈るのかを、前もって決めておく。
私の今の状態、気分を見つめて、私の心が今何処に引っぱられているのかに気付き、その所で改めてもっと親しく神様に出会えるようにと願います。
テキストを見て、聖霊が私を何処に導いてくださるのでしょうか?と待ちます。
エルサレムへの旅ある時は、初めて巡礼でエルサレムに登っていく少年イエスの興奮した気持ちへと導かれます。前々からずっと楽しみにしてきたと想像します。 色々準備し、グループで早朝に出発、3日間の徒歩の旅では、歩きながら詩編や讃歌を歌ったり祈ったりしながらだったでしょう。 少ない食事、野外での宿泊等々想像を巡らします。
エルサレムの塔、光を受けてまばゆい程の神殿、初めて見る光景にわくわくなさった事でしょう。街が近づくに従って、イスラエルの歴史に働いていらっしゃる神様について、エルサレムについて、神殿について、聞いていた沢山の事が洪水のように次から次へと思い出された事でしょう。
過越のまつり少年イエスは、このひどく混雑した街に初め圧倒されただろうと想像します。イスラエル中から、また色々な国々からやって来たユダヤ人達が大勢そこにひしめきあっていました。ヨゼフが過越の祭りの小羊を選んで買い求めます。幾千もの小羊と一緒に犠牲として捧げる為に持って行くのを、よく見て深く考えを巡らしているイエスを想像します。
過越の食事はグループの他の二、三の家族と一緒に祝っていると想像します。そして彼等が神様の慈しみを思い出している時の、イエスの気持を想像しようとします。エジプトでの奴隷生活から導き出して下さった、砂漠の中で一つの民族にまとめて下さった、約束に地に運んで下さった、“行きつ戻りつ”“上ったり下ったり”の繰り返しを通して、今この時まで導き続けて下さった父なる神に感謝しています。彼等と共にイエスは契約を新たにし、ご自身を改めて委ねます。
答えを探すイエスこれらのすべてはイエスの心に強く触れます。父なる神への感謝は段々に大きくなっていきます。すべての人を救いたいという御父の望みも段々によく分かっていきます。ご自分が父なる神と特別な関係をもっていることも、段々にはっきりと気が付いていきます。でもよく分からない事がまだまだ沢山ある。次々と沢山の質問が湧き起こってきます。聖書を思い巡らし祈ってもそんなに沢山の答えは出てきません。
また、彼は一緒にいる人達のもつ信仰、感謝、忠実さを深く心に感じています。でも他の多くの人々にとって、契約への応えは表面的に過ぎないと感じます。御父のイメージは大変狭く、自己中心的で、少ししかお委せしていない。 神殿でさえもあるべき祈りの雰囲気が欠けている。
不必要な商売が多すぎる。イエスは、この状況の中で御父の望みは何ですか?と尋ね祈っていると私は想像します。“見せて下さい、教えて下さい、導いて下さい、この状況の中であなたは私に何をお望みですか?”というイエスの祈りが聞こえてきます。このように寝ても覚めても思い巡らし祈っているイエスを想像します。
神殿で毎日教えている学者達に尋ねてみたい。けれど彼らの囲りには大きな人垣があって近づく事ができない。それが出来るのは祭が終って人々が帰り始めた後だ。その時近づいて質問出来る。12歳の少年からこのように深く意欲的な質問を受けた学者達の驚きを、私は理解できます。
このように丁寧にみていく内に、私もまたもっとよく知る必要があると気付き始めます。
イエスを探すまた別な時には、祈り始めるとすぐイエスを見失ったマリアとヨゼフのショックへと導かれます。大きな責任を果し損なう恐れ、早く取り戻さなければと駆り立てらる気持を感じます。夜明け前に出発して、エルサレムへの長い道程を急ぎ戻りながら、道々出会う他のグループの人達に尋ねている光景を想像します。私には彼等の“何故?”“何故?”という気持がよく分かります。 私も神様に“何故あなたは私にこのようになさったのですか?”と尋ねる時があります。答えをいただいて理解する私の聖霊降臨まで、マリアのように私も信仰の内に待つでしょうか。
イエス、あなたをよく知らない私の場合は、この箇所を祈り始めるとすぐに、“あなたは知らなかったのですか?”“私が父の家にいるはずだと知らなかったのですか?”の言葉に強く引っ張られる事が一番多いです。“私と御父との特別な関係を、あなたは知らないのですか?”と彼は言います。
これらの言葉は私に強く触れます。それらは勿論イエスが福音書の中で語る最初の言葉です。“あなたは知らないのですか?”私に向って彼が言う最初の言葉でもあります。すぐに“私はイエスを充分に知らない”と正直に認めます。確かに私はよく知っているつもりになっていますが、私に向ってあなたから改めてこのように聞かれたら、私は本当に“ほんの少ししか知らない”と気付きます。 そして私はいつも何回も何回も長い間“イエス、私はあなたを充分に知らない”という言葉を繰り返します。私はこの言葉に捕まったように感じます。この言葉は徐々に私の内に深く落ちていき“その通りだ”と心から分かります。そしてこの言葉を繰り返し続ける事は、私の心を鎮める効果があると分かりました。 自分の内深くに引き込まれ、指導を受ける必要がある、新しい目で物事を見る必要がある、と気が付いてきます。戴くように、導かれるように、心が開かれていきます。その後私に何が起るのか、ここで喜んで待ちましょう、という気持になっていきます。
こうして待っている間にどうなっていくのか、それは時によって様々な枝分かれをします。その例を挙げます。
御父をもっとよく知る事にもなるあなたについてもっとよく知るように、あなたが私を引っ張っていらっしゃると分っていく事は、御父の心と救いのご計画について、あなたが知っていらっしゃる事を、もっともっと私に分かち合って下さる事に繋がり、御父をもっとよく知る結果をもたらします。
関わりあいの成長の苦労あなたとの関係が変えられ、深められていく時のマリアとヨゼフの痛みを感じます。頼ってくる子供から自分で責任をとる青年になっていく変化が、もう始まっていると分かる事はショックです。混乱と痛みの時です。それは委ね続けていく信仰の旅路の一場面です。勇気をもって、寛大に、信頼するように呼びかけられる時です。また小さな家庭的な近しさからより大きな共同体へと成長していく為のもっとずっと広い分かち合いへ、この心配にもなる動きを受け入れなければなりません。私のもっているいくつかの関係を写す鏡のようだと感じながらこの光景を眺めます。
日常生活での関わりを通して神に近づく時にはこの箇所を祈り始めるとすぐに、私のもっているある関係を見つめるように導かれます。それは家族とか友人のような実りある幸せな関係であったり、また特別に難しい避けたい関係であったりします。それはたぶん祈る前に認識した私の状態に関連しているのでしょう。でも“イエス、私はこの関わりの中であなたを充分によく知りません”と繰り返し続ける内に段々、よりはっきりと、より正直にそれを見る事ができるようになります。またその関わりを見るよりもイエスを見つめ続けなければならないと気付いていきます。中心に彼を据える事が大切です。そうしたら3人の関係、三角形の祈りとなります。こうしてこの言葉を繰り返す内に、新しい目で見れるようになったり、私の内に寛大な心が生まれて来たと感じるようになったりします。
祈りの実り時には何も起こらないと思えることがあります。祈りの時間が終わるのに私はまだ気が散ったままだったり、混乱したままだったり、またうまく祈れないと感じていたりします。このような場合でも、その日1日の間では、びっくりする程心が変えられ寛大に応えている自分に気が付きます。夜1日を振り返った時に、それが“うまくいかなかったと思った祈り”の実りだったと分かります。
すぐに再生“私はこの中でイエスよあなたをよく知りません”の祈りは、1日中大変実り豊かに使う事が出来ます。助けや導きが必要な時に、使うというよりそのような時に自然に湧き起ってきます。その一言をいうだけで、すぐにその瞬間に、その時の気持も含めて、戻され再体験させてもらえるのです。丁度テレビのスポーツ番組で、重要な場面、また興奮する場面をすぐにビデオ再生して見せてくれるのと同じようです。祈りの時の気持に即引き戻してもらえます。
神様との、また人との関係を発展させる為に、このテキストは大変よい助けになると気が付いたのは、かなり最近のことです。そして今でも新しいことを見いだし続けています。もっと早くこの事に気が付いたらよかったと思っている程です。
リコーダーのクリスマス会に寄せて
長後 鈴木智子
12月16日、湘南台センターにて、小さな音楽会がありました。 それは、リコーダー、コーラスを楽しむ会の、年一回のささやかな発表会でした。テハン神父様もご一緒して下さり、メンバー全員が、演奏者でもあり、観客でもあるわずか20数名のこの小さな音楽会は、それはそれは、温かく和む会でした。
リコーダーは、小学校中学校で、だれもが習う簡単な楽器ですが、その木をくり抜いただけの素朴さ故に、その音色は、素直に心に響くのだと思います。ソプラノ、アルト、バスと、アンサンブルで奏でるクリスマスキャロルは、荘厳で、それでいて静夜に相応しい祈りのようでした。
私は、入会してまだ数カ月なのですが、皆さんと共に練習する中で、決して上手でなくても、共に楽しむことのすばらしさ、音楽の楽しさを教えて頂いたような気がします。ご指導して下さる野澤先生はじめ、メンバーの方々がとても温かくて、月2回の練習日を楽しみにしています。
今年のクリスマス会にむけて、皆様も、ご一緒しませんか。
湘南台センターコールエンジェルだより
湘南台 中山利美子
年が明けて2000年、ずい分長生きしたような気分になってしまいます。
大都会になった湘南台の駅前に、湘南台センターが出来て何年になるでしょうか。野澤先生のコーラス会が発足するというので、ご近所のお友達と参加させて頂くことになりました。発生練習を始めてからうたに入るのですが、一人では出ない声も、皆んなでうたっていると、素晴らしいハーモニーとなって、1時間半天国へでも行ったような気分になってしまいます。
新しいうた、若もののうた、はじめは難しいと思っても先生が根気よくご指導下さるお蔭で、いつの間にか歌えるようになっています。
今では20人を越えるお仲間がソプラノ、アルト、メゾソプラノと別れて素晴らしいコーラス隊に発展しました。
昨年のクリスマス会には30人以上の方々(信者さんは5人程) がテハン神父様と共にリコーダーグループ、コーラスグループが参加し、楽しみと喜びの内に「幼な子誕生」を賛美しました。感動的なひとときでした。1ヵ月に2回の練習が待ち通しくてたまりません。健康維持のためにもずーっと続けて行きたいと思っています。
皆様も一度お遊びにいらっしゃいませんか。
エルダーズのクリスマス会
善行 岡村孝子
エルダーズの会が生れてから3回目のクリスマスの集いが、12月20日(月)に開かれました。
エルダーズの会は、一人ひとりが余り気張らず気楽に集って、その日に出た話題を展開させ、お互いに率直に話し合ううちに交わりが深まって行く話題は実に多岐にわたりますそんな会として続いて来ました。時には、会に来ていらっしゃる方々のご希望やご協力によって、また、神父様や教会側のサポートも頂き、演奏会や黙想会、巡礼や展覧会行きを計画し、皆様にも呼びかけて多くの方々とご一緒に集ったり出かけたりということもして来ました。
今回のクリスマス会は、御降誕の日も間近く、神父様方は「ゆるしの秘蹟」でお忙しくておいで頂けませんでしたが、20名程集まり、迫り来る暮の忙しさをしばし忘れて、ゆっくりと楽しく過ごすことが出来ました。
この日は、長後の金子カツ子さんがお友達二人と共にいらして下さいました。金子さんはご病気を乗り越えられ、生き生きとしたトークを交えながら、ヘンデルの「ラルゴ」と、同じくヘンデルのメサイアから「いざ喜べ叫べ、シオンのむすめ喜べ」を歌って下さいました。お友達の寄藤さんは、レハールのメリーウィドウから「ヴィリアのうた」と、マスカーニの「カヴァレリア・ルスィチカーナ」より「アヴェ・マリア」を、とピアノ伴奏の好川さんと共に、お3人が私共のために心をこめて素晴らしい音楽を聴かせて下さいました。いつもの集りより少し奮発して、ショートケーキやフルーツポンチ、チョコレートや紅茶などを頂きながらの時間はいつしか流れ、最後は、ジャンケンで勝った人からプレゼントを選んで行くというゲームで終りました。プレゼントといいましても、百円ショップの実用品やかわいいリボンで結んだ袋入りのリンゴやオレンジといったささやかなものですが、結構楽しんで頂けたようです。
今年も亦、1月17日(月)から週1回月曜日に204号室で午前10時から12時まで集って居ります。
湘南台センターでも、1ヵ月に1回第3木曜日午前10時12時に集って、もう10ヵ月経ちました。
どうぞ誰方でもお気の向いた時にのぞいて見て下さい。
湘南台センターのクリスマス会
中学1年 彦坂幸乃
私達中高生会は、12月25日の湘南台のクリスマス会に参加しました。
楽器の演奏と人形劇をやりました。この二つは何回にもよる話し合いにより決まりました。楽器の演奏の方はなかなか全パートがあうものがなく、探すのにとても時間がかかりましたが、その結果全パートによくあった曲を選び出す事が出来たので時間は長くかかってしまったけれども結果的には大成功でした。次に人形劇です。人形劇は人があまり集まらず少人数でやる事になり色々と準備など大変でしたがメンバーみんなでお互いに一致してやる事が出来たので思ったより、てきぱきと順調に進んでいくことが出来たのでよかったです。
こんな準備もどんどんと日が過ぎていき、いよいよ本番の12月25日がやってきました。とてもみんな緊張していました。さてここで本番参加したメンバーを紹介します。
梅沢君、工藤君、長嶋さん、平野さん、山根君、彦坂の中学1年6名、スタッフの方は李神父様、梅崎助祭、石岡先生、原先生、佐藤先生の5名でした。
緊張のなかやったせいか、楽器(アルトリコーダー、リコーダー、クラリネット、ヴィオラ、バイオリン)の演奏、曲目、きたれ友よ、喜びの歌は自分達のもっている力をあまり発揮出来ず、お客様は喜んでくださったけれどもやっている方はちょっと失敗してしまったかな?という気持が多かったです。
人形劇の方も一人一人がその人物になりきり最後までやりとげる事が出来、神様のお恵みの中でとても素晴らしいものが出来たのではないかと思いました。たくさんの方に見守られて無事に終わる事が出来たし、また新しい恵みを一人一人の心の中に頂けたのではないかと感じました。
こんな中高生会です、今6年生、そして中高生なのに迷っている方がいらしたらぜひぜひ中高生会をのぞいて見て下さい。
壮年部新年会に出席して
大庭 飯田治平
皆様西暦2000年を迎えまして、誌上より新年明けましてお目出とうございます。昨年暮れの12月24日に、家内共々洗礼を受けましてまだその感激に浸っている今日この頃です。これも周囲の信者の方々のご支援の賜物と感謝している次第です。
そうこうしている内に壮年部より新年会の案内を頂き、身体の不自由な家内を残し出席はできないものと諦めておりましたが、思い切って幹事のO氏に相談したところ、「是非一緒に参加して欲しい」と言う温かい応援があり、根がワイワイ賑やかな雰囲気が大好きな私共にとっては新年早々楽しいプレゼントとなりました。
1月15日(土)の新年会当日は、日中から天気も良く5時には年齢を感じさせない若々しい?総勢48名の方々がセンターホールに集合しました。女性はK氏の奥様と家内の紅二点で、多少の色どりになったものと思います。また、テハン神父様はじめ3名の神父様も参加されてABCDの4つのテーブルに各々着席し、早速会は開始されました。幹事さんのご挨拶や乾杯の音頭もソコソコにビール、ワイン、そして有志の方々の差し入れによる銘酒を片手に、豪華な料理を食べながら各自しばしの歓談。アルコールがまわるにつれ幹事さんの誘導により、各テーブルの有志から、新年の抱負、壮年部に対する期待の言葉、辛口の進言、はたまた教会労働奉仕の勧誘など、色々述べられアッという間に時間が過ぎ去って行きました。
私はといえば、新米の洗礼者として家内共々皆様と一緒に新しい信仰の道を歩む決心を披露させて頂きました。最後は神父様を囲み記念撮影、記念すべき大聖年の新年会も楽しく無事終了いたしました。この会を企画された幹事の皆様本当にご苦労様でした。
帰宅後、遠い北海道の函館に住む90歳の老母に、同じく洗礼を受けた事、新年会の席上で信仰の決意を表明した事を伝えたところ、大変喜んでくれました。以上拙い文章ですが壮年部新年会の報告といたします。
神に感謝
婦人部新年会に参加して
長後 中村裕子
大聖年という千年に一度の大きな節目1月21日(金)藤沢カトリック教会婦人部新年会が90名の参加者で10時のごミサに引き続き開催されました。1月18日に着任されたティム神父様が紹介され、テハン神父様はフルート演奏、李神父様はギターと歌、藤沢1区の皆さんによる手話を使っての歌、プロの方による独唱あり、午前の部をしめくくるハンラティー神父様によるお話と祈りでアッという間に時は流れ昼食タイム。お名前を交換したり歓談も進み、午後は鈴木さんの手品で始まり、シスター我妻も加わっての寸劇藤沢3区の皆さん、沖縄琉球舞踊を見て、どれをとっても出し物がスバラシイ拍手拍手とアンコールの声がかかり最後はコールセシリア野澤先生の指導で早春賦と花を全員で合唱、ひとときがなつかしき学生時代にタイムスリップ、この楽しい場所に参加でき良き思い出となり感謝の気持ちでいっぱいです。今月の当番地区長後、湘南台の皆さん前日からの準備、進行とお疲れさまでした。
来年こそは見る側から何か発表出来る者となれるよう頭をみがき、心をみがき、芸をみがいて共に参加しましょう。
婦人部の皆さんが木の根(根っ子)がしっかりと根強くはり、1年がささえられて行くことでしょう。共同体のすばらしさを実感した1日でした、ありがとうございました。
去る16日、9時半ミサで2人の成人が祝福をうけられました。心からお祝い申し上げます。当日祝福をうけられた畠山君は「神父様が目の前で祝福してくれたことに感謝します」と述べられている。
当教会には、成人を迎えられたもっと多くの方々がおられるので、参加されなかったことは残念です。来年はもっと多くの方々が参加し、神様の祝福をうけられることを願っております。(編集部)
洗礼式の思い出
藤沢1区 古郡与四郎
壮年部の新年会が1月15日センターホールで開催され、私もはじめて出席し、楽しく過ごすことができました。昨年5月に受洗したので、教会もはじめてです。イエズス会のアルカラ神父さまの聖書研究会には数年出席していたのですが、神父さまが北若山へ移動され聖書研究も終わりになり、昨年3月に聖研のメンバーで巡礼の話がでてアルカラ神父が同行する旅行が5月に実現されたこの巡礼のときに受洗することにした。決心するまで長い道程でした。スペインのイエズス会本部聖堂で志願式を行いパンブローナのザビエル城聖堂で洗礼式を行った。ザビエル城の神父さまが、ミサのときに地元の人たちに日本からきて、洗礼式をすることをまえもって、お話をしていたため、地元の人々も出席して、祝福され感激したことも、思い出の一つです。ザビエル城の神父さまから、ここで、洗礼式をしたのは、日本人で、はじめてとのこと。また、式が終わって外に出ると雷とスコールで足どめ、しばらくすると晴れて大きい虹が、聖書研究会のメンバーに「神さまからも祝福されたね」と言われ、感動したことも、それとマンレッサの洞窟聖堂での体験(すべてを神に委ねて)心の中が見えるような今では、すべてを神さまに委ねると軽くなったようです。ミサの中で洗礼式があると思い出すこともあり、洗礼式があるたびに、感動しています。受洗まえにサンティヤゴの巡礼路やポルトガルのファティマの聖地へ旅行したが、そのときは受洗するとは思っていなかった。
ステンドグラスや、大聖堂に魅せられた巡礼人となっての旅行で、ヨーロッパや、スペインの大聖堂を訪ね歩く旅でした。受洗後にフランスのシャルトル大聖堂を訪ねたときは別のような感じがした。
パリのサンジャック塔の前では中世の人たちがここからサンティヤゴへと旅立っていったことを思いながら、立ち止まる。今年も3月ごろにマヨルカ島の旅と5月にローマとエルサレムへと巡礼の旅を予定しています。またこの旅でなにかを得るかも、ガリラヤ湖やヨルダン川も訪れてみたいところです。
なにか、アドバイスがあればお知らせ下さい。
「交わりのなかで」
北1 岡村 正
わたしは、この12年余「ミサと共に」の集いを続けてきました。 それは、ミサ聖祭こそ何が福音で、それが何故福音なのかを人々に現していると確信したからです。
ミサ聖祭がどのように福音を現しているか分かったら、イエスの伝えようとなさったメッセージは受け止められたのだと思います。 この集いにおいでになる誰方とでも、そのことを話し合いたかったのです。
「聖霊の交わりのなかで」ということばの内容を、わたしはずっと思い巡らしています。今、新たな要望に応えて、この集いを再出発させるにあたり今まで考えてきたことをまとめておこうと思います。
わたしたちは誰でも、生きるこの世界は唯一であって選べません。 その世界に結ばれてわたしたちは唯一のいのちを生きています。
それで生まれてこの方、わたしたちは誰でも選べない他者との交わりのなかで、育まれ成長してきました。
引き合わされ与えられたこの唯一の世界に結ばれてわたしたちには、関係ないことは何一つありませんし、同じはたらきも何一つないのです。
ですから、交わりは、常に選べない交わりであり、異なるはたらき同士の交わりなのです。その交わりから生まれる新たなはたらきがいのちで、交わりによって造り変えられない者は一人もいないのです。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」ヨハネ1516いのちは得たのではない、与えられたのです。それがどのように必要なはたらきか、どのように唯一のはたらきなのかは、誰でも選べない交わりのなかで知る他ありません。
そして、選べない交わりのなかのどこにキリストは居るのか、どのように福音が語られているのか、交わりのなかで気付いて聴き取ることが出来るでしょう。予めそれを知って居て応えることは誰にも出来ません。
「交わりのなかで」という集いがはじまります。
日時:毎週金曜日夜19:30ー2100 時
場所:カトリックセンター203 号室
担当:岡村 正
連絡先:0466(23)6986
この集いは、冬休み夏休みを除き年中、集いに出入りは自由です。テキストはなく、その時々の話題に聖書や福音書を照合します。わたしたちにとって何が福音か、それが何故福音なのか、に関心をお持ちの方なら誰方でも何時でもどうぞお出掛け下さい。
なお、この集いの姉妹会「社会に生きる人の聖書」が、毎週日曜日午前10:00ー12:00時に湘南台センターで集まっています。そちらへもどうぞお出かけ下さい。
キジト神父さまをお援けする会
辻堂1区 浮田久子
東アフリカの惨状とひとびとの苦しみを知るために、どうぞキジト神父さまからのこの手紙を読んでくださいますようにお願いいたします、ジュビリー2000運動の資料の一つとしてもお読み下さいませ。
−キジト神父さまのお手紙から−
クリスマスおめでとうございます。
特に大聖年にあたり、たくさんの平和とよ ろこびがありますように。
でもアフリカの私たちはこの大陸に平和が成就しない限り、大聖年の恩恵にあずかることはできないのです。「平和だけでは充分じゃない。アフリカは債務から解き放たれなければならない」と大勢のひとびとが主張しつづけています。
アフリカは苦しんでいます。でも世界は沈黙したままです。いつも愛と心配りをもってうむことなく多額の援助をつづけてくださるあなた方を除いては。それでも私たちは皆さまに共にいて頂いて、この大聖年がアフリカの地に成果をもたらしてくれることをかたく信じています。その時こそすべてのキリスト教会がともに立ち、心を合わせて主の祈りをその真の意味において歌うことができるのです。
債務の重荷とはどんなものでしょうか。アフリカ各国の政府は本来国民のために支出すべき(道路、学校、保健医療施設の建設や安全な飲み水確保のため等に)何百万ドルもの莫大なお金を債務支払いに回さなければならないのです。その結果どういうことになるのか 私の住む西ウガンダのホイマ地区に限っても、新生児の30%は誕生日を迎える前に死んでしまう。身ごもった女性は、そうでない女性の3倍も出産前に命を落すと推察されている。25%の人が安全な飲み水にこと欠き、54%は保健や医療にあずかれないと報告されています。こうして私たちの上に債務以上にも生きていくことの重荷がのしかかっているのです。
さらに罪深いことにはアフリカから超大国に輸出される原材料が武器装造のために大量に使われ、それが私たちを死に追いやっているのです。一体誰が、なぜ、こんなことをするのでしょうか。
暴力はいまも続いています。私の働くこの地域を囲むコンゴ共和国、ルワンダ、ブルンジそして南スーダンで戦争は収まっていません。ウガンダの他の地域では内戦がつづいています。アミン元大統領が亡命先のサウジアラビアからの帰国を計って謀反の後押しをしているともいわれています。去年3月の内外人の大量殺戮が私たちばかりか諸外国にも衝撃を与えたことは以前にも述べました。
このような状況のもとで私たちは前述の国々から難民を迎え入れています。この辺りはそれぞれの国と国境を接していますから彼らにとっては安全な避難所なのです。主な難民キャンプは3箇所で、大体1万人ずつが居られますが、正確な処はわかりません。毎月のように新入りがあるからです。流入率は高く、激増する傾向にあります。というのも戦闘の当事者間の平和交渉が一向に実を結ばないからです。殊にコンゴと南スーダンではそうです。私は難民のお世話のほかに教区で2万人以上のウガンダ人信徒を抱えております。
タイプの違う二つの共同体の仕事は何れも重要で片手間でかたづけられるものではありません。こういうわけで私の司祭職は相変わらずひとびとの生活全般にかかわるものです。
しあわせなことに皆さまからのお祈りやご寄付、お手紙や小包による定期的なこ援助のお蔭で私は非常に多くの人々を助けることができています。例えば
地域内の4つの泉が汚染されないように防護されました。
128人の孤児たちのための学校はつづいています。
この子らに卵や鶏肉を供給する小さな養鶏場ができました。
難民のためのCo-op For Family Dev. として知られる協同組合が2年前につくられました。この組織を通し、またSrフィデリスの尽力で難民のための仕事や寄付がチャンネルされました。これによって私は彼らの問題を処理する上で大いに助けられています。
20ヘクタール以上の土地にダイズ、トウモロコシ、キビ等を植え付けました。貧しいひとびとの食料を確保するためです。
もし資金が得られれば山羊を飼う計画もあります。山羊乳は栄養失調の子供たちや妊産婦には絶体的に必要なものですから。
いつものようにこのクリスマスのお便りをすべてについての感謝の言葉でおわりたいと思います。どうぞこれからも変わらないご支援をお願いいたします。新しいミレニアムの前途に何が待っているのかわからないからです。お互いに連絡を取り合い、お友達でいましょう。祈りとともにあなた方の苦しんでいるホイマの いとこ達に代わって
キジト神父
主にあるいとこ達へ 12月3日 聖フランシス・ザビエルの祝日
静修の日の指導司祭、澤田和夫神父様のご紹介
辻堂2区 浅野士良
「神父様、俺たちにパンを呉れないなんて不公平だよ。キリスト様がそれじゃおかしいよ」 山谷でのごミサの時のことです。澤田神父様は、それからは信者のためのホスティアの他にパンを用意されて、ごミサに来られる山谷の方たちを迎えるための心遣いをされたそうです。
またある若い夫婦から聞いたことですが、生後8ヶ月のお嬢ちゃんを連れて黙想会に出られた時のこと、赤ちゃんは盛んに「はーい」というように声を発するのだそうですが、神父様はその都度、声を出してその声に応えて「はーい、あなたもごミサに参加しているんですよね」と仰って下さるのを聞いて、ますます神父様のファンになったということです。澤田和夫神父様は今、東京教区浅草教会の主任神父として、80歳というご高齢にも拘わらずお元気に聖務を果たしておられますが、貧しい人とともにあることを大切にされ、清貧の観想生活をされることを大きな目的とされて、今から20年ほど前、自らお望みになって山谷に住まわれ、そこで聖書を読む集まりを開いておられましたが、そこに多くの人々が神父様を慕って集まって来られました。最初に触れましたエピソードはその時代のことなのです。
このように、接する人々一人ひとりを大切にされるお人柄と、わかりやすい言葉で語られるお話しぶりは、多くの人々の心を惹きつけずにはおかないことでしょう。浅草教会の主任司祭としての、毎主日の心に響くわかりやすいお説教は、聴く人々の心に深く大きな影響を与えているとのことですが、そのような神父様に黙想のご指導をお願いする方が多く、人気抜群の司祭であると言えましょう。
それだけに、この度の黙想会は心待ちにされるのです。
静修の日 2月27日(日)、9時30分のミサより東京教区の澤田神父さまをお迎えしての1日黙想会です。どうぞご予定ください。 |
4(金)初金ミサ、例会
6(日)ベトナム旧正月
7(月)14・21・28 エルダーズ午前10時、28日はお食事会
11(金)横浜教区典礼研修会午前10時
12(土)ケア・セミナー 午前10時
17(木)湘南台センター・エルダーズ
26(土)福祉部例会
27(日)静修の日9時30分ミサより