八 角 形 に ゅ ー す

2000年4月2日

聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会


目次

ゆるしを求めて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・李鍾昇神父

教会委員会報告

沢田神父様をお迎えして・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宣教部 大泉 仁

「交わりのなかで」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・善行 岡村 正

私のミサのあずかり方(その6)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・マラキ・ハンラティ神父

葬儀祭壇展示を終えて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂2区 佐々木美奈子

「フィリピンの子供に学書を」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・サンパギータの会

「女性と子供の一時保護」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ミカエラ寮

4月の主な行事

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ゆるしを求めて
李鍾昇神父

四旬節に入ると私たちの過ちを省みることになるのでしょう。

勿論、私たちが個人として誤ったことに対して反省するし許しを求めるべきです。

特に家族や親戚になどに対しては心から謝って許してもらうべきだし、許してあげるべきです。勿論、そういうことが一番難しいだろうと思います。夫婦同士の仲直りは絶対必要です。

それから、もっと大事に考えなければいけない罪は社会的な罪です。力持ってない個人個人は悪くないけど、集団になったら悪くなる傾向があるのです。そういう集団的な罪をも反省しなければいけないのです。

ちょうど、この間カトリック教会では素晴らしいことが起こりました。

カトリックの代表者である、教皇ヨハネパウロ2世が3月12日、四旬節第2主日のミサの時、共同祈願を通して、ユダヤ人や異端者、女性や先住民たちへの対応を含む教会の過去の過ちについて、許しを願ったということです。教皇在位中、最も重要な行動の一つとなった今回の総括的なゆるしの願いは、カトリック教会史上始めのことだそうです。

私は一人の信者として教皇様の行動に対して誇りを持っています。それから、カトリック教会は素晴らしいと思い、感謝しています。皆さんも多分私と同じ気持ちだと思います。

そういう素晴らしいカトリック教会は日本人にとても大事な宗教だと思います。

特に人生の意味を失った方々には人生を見直すチャンスにもなるでしょう。この間、ニュースによると年間自殺者は3万人に上っているそうです。それから、自殺未遂者はその10倍に至るそうで30万人のいるそうです。こういう人々に神様のメッセージを伝えることが大事だと思います。それが、四旬節で自分のことを反省しながら、少しでも積極的に罪を償いもなるでしょう。

私のことで恐縮ですが、藤沢に来て丸4年になるところです。今まで、いろいろな話をしましたし、書きました。私のつまらない話を聞いてくださった方や拙文を読んでくださった方に心より感謝しております。それから、私が間違えたことがたくさんあったと思いますので、四旬節に入って皆様にこの4年間謝ったことに対して許してくださるようにお願い申し上げます。

最後にヨハネの福音の一部分を皆様と一緒に分かち合いながら、終わらせて頂きたいのです。

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ 8:31−32)



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教会委員会報告

1.静思のひととき

ローマの教会への手紙8章31節〜34について、しばし黙想をおこなった

2.来年度活動計画について

来年度の年間行事がまとまったので、復活祭の案内と一緒に配布することになった。なお、今後計画する行事については、この配布される一覧表を参考にしていただきたい。

3.委員改選について

任期2年の各ブロック委員や活動部委員が交代することになり、ほぼ各委員が選出された。一部ブロックや活動部で未定のところがあるが、今月中には確定するとのこと。また教会委員会の委員長と副委員長については、信徒総会前までに決定することとし、主任司祭に一任することになった。

4.信徒総会について

4月9日に開催する信徒総会の資料は、4月2日までに作成して配布することになった。総会資料の内容は事業報告、教勢報告、会計報告、湘南台センター報告、委員会のあり方、活動部・地区からの報告、防災計画、ホームレス等に関する報告となっている。

信徒総会に関連して、テハン主任司祭から復活祭以降は李神父が休暇のため帰国されるのでその後任は未定である。しかも今後は、補充される保障はないとのこと。つまり3人から2人に減る可能性が大きいので、いまから信徒の認識として考えておく必要があるとのこと。

会計担当から、維持費を払う世帯数の数が減っている。何らかの対策が求められている旨説明があった。

5.委員会規約改定について

委員会規約改定について意見を求めたところ、阿部、魚津両名から貴重なご意見が寄せられた。ご意見には、改正委員会を設けて検討したらという提案もなされているので、今後も意見を求めるとともに、時間を掛けて検討することになった。

6.その他

  1. 祈りの新しい口語訳ができた。ただし、今後今までのものが廃止されすべて口語訳に変えられるというわけではない。当分の間は、試用しながら口語訳に親しんでもらうということである。特に子供たちの典礼では積極的に使用していきたい。

  2. 横浜のセント・ポールコーナーが閉鎖されたがために、当教会の売店の利用者げが増えているとの報告あり。必要があれば営業時間の延長なども検討して見てはとの提案もあった。

  3. 4月1日に債務帳消しの集いがあるので是非出席してほしいとのこと。

  4. ホームレスの方々のために炊き出しをおこなっているが、その際に使用される食器については、別に購入してあるとのこと。

  5. 堅信式は5月28日、梅村司教をお迎えして行なわれます。50名を越える申込があり、そのための準備会も3月に既に2度行われ、5月にも2回予定されている。

  6. クラレチアン会の梅崎師が20日に大阪・玉造教会で司祭叙階を受けられる。また横浜教区の保久要師の叙階式が、3月25日に鶴見の聖ヨゼフ学園講堂に於いて行なわれます。新司祭の誕生をともに祝いしたい。

  7. 今の委員会メンバーの大半はは本日の会議を以て任期満了になるが、次の新しい委員に今までの委員会での懸案事項については、必ず申し送りすることを確認した。



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沢田神父様をお迎えして
宣教部 大泉 仁

『灰の水曜日』を前にして、恒例の一日黙想会が開かれました。

西暦2千年に当る今年は、私たちにとって神様のみ心に適う刷新を、更めて問い直す大切な時を与えられました。この基本的な問いかけに応える「静修の集い」のご指導を、東京教区の沢田神父様にお願いしましたところ、快くお引き受け下され、2月27日の主日のミサから一日黙想会が開かれることとなりました。

テーマは『聖書によって生きる』です。

第1講話は旧約聖書を中心に、第2講話は新約聖書を中心として進められました。講話の根底に、この西暦2千年に当って、本来、『全て良し』とされた天の神様のみ心に添う生き方とは、私たちが日々の生活の中で神様のみ心を再認識し、軌道修正を通してこそ本来の姿に立ち帰れると諭しておられたと思います。その時の講話の概要を少し書き留めてみます。

旧約聖書では、創世記第1章から「神はお造りになった全てをご覧になり、それは極めて良かった」と。大自然界を眺めて、本来『全て良し』とされた神のみ心に感謝と賛美でお応えするはずのものが、「禁断の木の実」(創3章)の逸話を通して、人間の我儘から神のみ心に添わないものとなった。このことを私たちはもう一度問い直す必要があります。私たちは日頃、子供も大人も我儘いっぱい自分勝手な生き方をしているではないでしょうか。先進国は先進国なりに自分のことのみを主張していては天の理に適いません。

当時イスラエルに大飢饉が起こって、やむをえず隣國エジプトに食料の買出し(創45章)に行きます。奴隷として売り飛ばされた弟ヨゼフは、今やエジプトの総理大臣職についていました。兄たちを見て憐れに思い豊かにもてなして全てを赦します。私たちもお互い兄弟不和になったり、恨み合ったりしますが、神様は人間の悪さをも利用して良いことを引出され、乗り越えるよう計らって下さいます。こうした箇所を読むにつけ神様のお計らいに感謝と祈りの大切さを味わいます。

出エジプト記3章から、モーゼに引率されてエジプトから脱出する話、たとえ幾多の苦難に合ってもモーゼに導かれたように神様の『全て良し』とされたみ心は、何百年、何千年経ってもその方向に変わりはないことを歴史の現実として実感されます。その意味で、私たち一人一人、或いは教会全体が今様エジプトかもしれません。神様のお導きに対する信頼と感謝と祈りを通して、全てがイエス様の前触れのように思われます。

「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、あなたの神、あなたの主を愛しなさい」(申命記6章4節から22節)旧約の教えを纏めて言えばこの教えに集約されます。こちらの力の及ばないことには、神様のみ業が行われる(イザヤ45章8節)ことを汲み取る必要があります。何もかも自分で決断を下し実行するだけではなく、もっと深い次元で行っておられる方がお出でになる、ということを受け入れなければなりません。

その意味で、私たちは本当の知恵が欲しいという渇きを覚えます。「神様のみ心は何なのか」を知って行う力と勇気が欲しい(格言8章)と思います。しかし天の神様は「天より露を滴らせ」るように、神様の方から本当の智恵を下さいます。それを素直に受け取り幸せな人生に生かすよう励まして下さいます。一般社会の常として、私たちは自分が主となり他を支配に置くことを無意識のうちに期待しています。しかし、「私」が小さく「主」が大きく、主が私を導いて下さるならば何の不足もありません。

主は緑の牧場(「神様のみ言葉」という牧場)に私たちを導き、憩いの水辺に伴われます(詩篇23章)。詩篇は祈りの宝庫です。さて次の第2講話は新約聖書が中心です。天地創造の神様は、『全て良し』とお造りになった。しかし人間の我儘勝手がそれを駄目にしてしまった。しかし何度も預言者を遣わして、正しい道に導かれる(ヘブル1章)。そして終りの日には御子を通して私たちに同じことを語られます。

預言者の中には、もしかすると日本の幾多の指導者を通して語られているかもしれません。例えば、大乗仏教の中には不思議な、何か福音と相通じるものかあるように感じます。阿弥陀様の本願におすがりするというのはイエス様におすがりしているようです。阿弥陀様はイエス様の別名かといいたくなる程、福音に相通じるものがあります。

日本には古来から『禊』という儀式がありますが、旧約聖書には洗礼というものがなかったようで、ヨハネが初めて行い洗礼者の冠が付いたのかもしれません。悔い改めを必要とする人のために、悔い改めの“禊”をしているヨハネ、そこにイエス様がお出でになる。何の悔い改めの必要がないイエス様が、罪人の中に自分を置き、洗礼を受けられる(マタイ3章13節から)。高いところからの呼びかけではなく、ご自分を下の方から人々を押し上げるようになされます。

贖いという難しい言葉がありますが、平たくいえば神様が「これは私の愛する子」として一人一人を招いておられると理解できますが、これが福音であり贖いです。

当時に限らず、社会的に高い地位にある人が個人的なことで人に尋ねるとすれば、繁多な日中を避けて夜に時間を使うのでしょう。ニコデモも夜イエスに尋ねました。イエスは簡潔に自分の教えを「新しく生まれる」という言葉で説明します(ヨハネ3章1節から16節)「昨日までいなかった子が今ここにいる」ということです。

洗礼を準備している方は、洗礼の当日「今、新たに生まれる」を体験します。20年前、30年前に受洗された方にとっても、その恵みに今日も生きて、「今、新たに生まれる」と自覚されておられると思います。これは洗礼に慣れっこになって、昔の出来事と思うのと違います。このことがニコデモに開口一番伝えたかったことなのでしょう。

新約の宝物は、洗礼によって新たに生まれることです。しかし、洗礼の恵みに預かれなかった人はどうなるのでしょう。イエスの伝える洗礼は、定員以外は排除する入学試験とは違います。全ての人を招いておられますが、新たな惠みを下さるために洗礼があるのであって、それ以外の人を突き放すためにあるのではありません。

ローマ書6章1節から3節では、わずか数行の中に沢山のことが入っています。キリストに一致するために洗礼を受けるのであって、私たちの力で勝手に新たに変わるわけではありません。キリストに一致して『キリストに結ばれる』ことで、キリストと私たちは、例えていえばお風呂に入るように自分の肌の全表面が、キリストの肌の全表面と結ばれているということだと思います。

パウロは『キリストを着るものとなった』と表現しました(ガラテア3章27節)。肝心なことはキリストの中にドブンと浸かること、キリストに包まれ、キリストを着るものとなることです。キリストから来る清らかさかさと暖かさと光が、自分の肌の中に吸収されて生きるものとなることがキリスト教徒になるということです。

教会は、お風呂の例えで言えば大きな野天風呂のようなものです。そこには男も女も、あらゆる国の人々、あらゆる身分の人々が一緒にキリスト風呂に浸かっている状態です。教会は組織ではありません。団体でもありません。組織は単なる道具であって使うものです。キリストの体、キリストを着るものとして、キリスト風呂にドブンと浸かった姿です(・コリ12章12節、13節)。

さて、キリスト教は世にあまたある宗教の中で、教祖様を食べる珍しい宗教です。これは最後の晩餐で定めて下さったことです(・コリ11章23節から26節)。イエス様は、世の一般的な価値観と全く違う教えを説いて、沢山の信奉者を集め、宗教当局者と相容れない情勢になりました。しかし、イエス様は自説を曲げるわけにはゆきません。貧しい人々に福音をのべ伝えるために、天の御父とともに働くと説きました。

しかも身の危険を顧みずエルザレムに行かねばなりませんでした。いよいよ最後の時と思い、弟子たちと共に最後の晩餐を催されることを望まれました。この時大切な命を糧として下さったのです。教祖様を食べてもよいという『命の糧』をお与え下さいました。これは凄いことです。慣れっこにならないようにご聖体の在り方を再発見しましょう。

洗礼の時はドブンと浸かって外側から包んで下さった。そして今度は『命の糧』を通して内側から新しい命へと力づけて下さる。

ミサの中で「ここに供えたパンは〜,ブドー酒はあなたから頂いたもの」と。全ての捧げもの、単にパンとブドー酒だけでなくそれこそ全ての生活、家庭生活は勿論職場生活の全てがあなたから頂いたものとして、この奉納があります。

いよいよ、ミサの中心部で「あなた方のために渡される私のからだ」「あなた方のために流される私の血」と十字架を通してイエス様の全てを捧げ尽くされるのです。

パウロは「私を愛し、ご自分を捧げられた」と言います。勿論パウロ一人ではなく、百人、千人、一億人いても同じ「私」です。この神秘を通して初めて聖体拝領の意味が伝わってきます。そこに洗礼とミサの再発見そして許しの秘蹟の再発見につながっていくのでしょう。

『聖書によって祈る』をテーマにした一日黙想会は、本当に充実した集いでした。沢田神父様のお年を超越されたエネルギッシュな語り口と、平易な言葉の中に含まれる霊性豊かな聖書解釈は、私たちの日々の生活に多くの示唆を与えて頂きました。

感謝と許しと刷新を求める2千年期に当たって、更めて聖書と共に生きる大切さを深く受け止めさせて頂きました。

−神に感謝−



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「交わりのなかで」
善行 岡村 正

キリストのいのちを生きる。

それが、福音を生きるということです。

わたしたちを、そのとらわれや思い込みから解放し、わたしたちにいのちを生む交わり。それは、どんな交わりなのでしょうか。

わたしとちの思う交わりとどこが違うのでしょうか。わたしたちの交わりに何が足りないのでしょうか。

ミサ聖祭は、それをわたしたちに示しています。「聖霊の交わりのなかで」いのちがわたしたちに生まれると。

では、すべてを変えすべてを解放する聖霊は何を通してわたしたちに入って来るのでしょうか。

もしも、話し合いのなかで日常の出来事にそれを感じられたら幸いです。

毎週金曜日夜7時半から9時までセンター2階203号室でお待ちします。何時でも何方でもどうぞお出で下さい。



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私のミサのあずかり方(その6)
聖書を祈ることに助けられて
マラキ・ハンラティ神父

最後の晩餐に於て、イエスの心にあった主な感情は何だったと思いますか?私は多くの時間をかけてこの事を思い巡らしてきました。そしてこの事は、私がよりよくミサにあずかる為の助けとなり、また私の日々の生き方にも影響を与えてくれると気付きました。聖書を祈ることが大きな助けとなっているのです。ルカの22章をよく使います。

最後の晩餐前のイエスの苦しい闘い

過越の食事を控えたその週に、イエスの心の中では何が起こっていたのでしょうか?と想像し始めます。その間ずっとすごく苦しい闘いが続いていた事でしょう。丁度大河からの奔流が荒波に流れ込んだ時に起こる激しい波のぶつかりあいを見ているようです。日々新たな出来事が起こり、それがまた新たな落胆、悲しみ、疑い、怖れの波を引き起こします。次から次へと襲う波がイエスを打ち倒し、おぼれさせるぞと脅します。イエスはご自分のもっていらっしゃる信頼、感謝、希望、愛の奔流が、これらの攻撃に打ち勝つよう祈り続けなければなりません。

このことをもう少し詳しく説明します。

☆打ち砕かれた気持

最初に襲われた二つの大きな気持ちは、絶え間ない落胆とすごい悲しみでした。イエスはよい事をし、癒し、慰め、解放し、一致させながら三年間旅してきました。そして今ユダヤ人の生活のど真中に達して、国のリーダー達が聞く耳をもち、考えを改め、変わるように命がけで悟らせようとなさいます。それでも彼らはかえって益々公然と、イエスを拒否し続けます。賛美と感謝の心でイエスに従った人々も、国のリーダー達の側についてしまい、彼らに与えたいとイエスが切に望んだ贈り物をやみくもに断ります。

弟子たちでさえもイエスの心を潰します。弟子たちが十分にご自分の仕事にあずかり、それを広げ、続けていくようイエスは望んでいました。それなのに弟子たちはイエスの言うことを聞いていない、危機が来ていることに気付きもしない、自分の関心事に捕らえられている。支えにならない。頼りにならない、一人は裏切ってイエスを敵に渡そうとたくらんでさえいる。

すべての仕事は完全な失敗に終わりそうだ。後には何も残らないのか?怖れと疑いが起こります。国のリーダー達はイエスを偽預言者と呼びます。歴史を見れば偽預言者と呼ばれた人達は、恥ずかしめられ殺されている事をイエスは知っています。 リーダー達は、なるべく大勢の面前でイエスを恥ずかしめ殺したい、過越の祭りで沢山の人々が集まっている今がその時だ、と考えているでしょう。恐ろしい屈辱的な苦しい死は避けられそうもない!それは本当に恐ろしい。

イエスの使命がこのように終わることが、本当にみ旨なのでしょうか?人の目には何の希望も見いだせない状況で、今死ぬ事がみ旨なのでしょうか?それともこの対立が益々大きくなっていく中で、尚神殿で教え続けるべきか?時が経って民衆が気が付き事が変わるまで、あるいは弟子たちがご自分の仕事にふさわしくもっとしっかり育つまで離れていればよいのか?新たな落胆に陥る度に、このような疑いが起こります。屈辱的な死になりそうだと感じる度に、怖れは増していきます。

☆イエスの積極的な応え

これらの気持ちに対して、イエスはご自分のなさっている事を忠実に続けるのだと、いう強い決意の奔流で押し返します。この事に対して信頼と希望をもって自分自身を完全に与えるのだ、と心は決められています。これはご自分を引き渡してしまうこと、もし必要ならご自分の命さえも、ご自分のなさった事すべても含めて引き渡してしまう事を意味します。イエスはすべてを御父の御手に渡しています。ご自分を空にしています。聖霊が働いて下さる事ができるようご自分をむなしくしています。

全生涯でイエスは信頼を示しました。砂漠の体験から様々な対立に出会うことまで、あらゆる困難の時に“御父が共にいて下さる”と信頼する事が出来ました。ご自分のもっているものすべてが愛する父からの贈り物であると、深く解っていらっしゃるからお出来になるのです。今この最大の試練の中で、イエスはもう一度信頼してご自分自身を与えます。何の意味も見い出せない、この最も恐ろしい経験の中でさえも、尚御父がすべての人を救う為に働いていらっしゃると信頼なさいます。

希望をもってイエスはご自分を与えます。全くの暗闇に入っていくようなものです。これをうまくひっくり返すよい方法はもうなさそうです。それでもイエスは“御父はご自分のなさった約束に忠実である”というご自分の信仰にしがみつきます。それに向けてご自分自身を投げ出します。どんなに出来そうもない状況でも、尚“ご自分の明け渡しを通して、御父はすべての子供たちとの関わりあいを、もっと大きく強くなさるおつもりだ”と信じています。更にイエスは、当てにならない覚悟も出来ていない弟子たちが、この新しい関わりあい、新しい契約の始まりとなるだろうという希望をもっています。弟子たちが最初の“新しい家族”となり、とても無理だと思えてしまう時でもすべての人を救うイエスの仕事をし続け、この一致を皆一緒に天でお祝いし続けることになるだろうという希望です。御父の力に希望をおいているが故に出来ることです。

☆ご自分の心の分かちあい

イエスは弟子たちにご自分の霊を与えたい。弟子たちがご自分と同じ心をもってほしい。御父に対しても、他の人達に対してもご自分が今感じているように感じてほしい。成長してご自分のように行ってほしい。

救いの道具となってほしい。ゆるしの道具、一致の道具となってほしい。

イエスは絶え間なく祈っています。ご自分自身の為に力を願っています。弟子たちの為に力を願っています。すべての人の為に、国のリーダー達の為にさえ祈っています。いえ、むしろ彼らの為にこそ一生懸命祈っています。すべての人が救われるよう祈っています。 そしてこの祈りに弟子たちも加わってほしいのです。

これが最後の晩餐の時の、イエスの心の状態です。

最後の晩餐の時がくる

主に四つの理由でイエスはこの食事を弟子たちと共にしたいと切に願っていました。

先づ、イエスはご自分の使命を果たす為に、“一緒に食べる”ことをいつもとても大切にしてきました。

“一緒に食べよう”と人をよく招きました。“ご一緒にお食事を”という人からの招待をすべて受けました。イエスにとって“一緒に食べる”ことは、寛大な御父から皆一緒に戴くことを表しているのです。食べ物を一緒に分かちあう事は、皆同じ父の子供たちである事を表します。よそ者でなく仲間として歓迎されていると感じてほしくて招きました。それはゆるしと慰めと一致を表しています。

次に、イエスは今これが告別の食事になるだろうと解っていらっしゃいます。一緒にとる最後の食事となるのですから、大変大きな感情が動きます。今までのお互いの関わりあいのすべてをここで味わいたい。弟子たちへご自分の愛を出来るだけ深く表したい。その弟子たちを通してご自分の愛をすべての人に示したい。

第三に、これは過越しの食事で、一年で一番重要な、宗教的な食事です。誰もがその食事をしたいのです。非常に遠方からも沢山の人々がやって来て、この食事をする為に大変な準備をしました。自分たちの民族の為にかって神様がして下さったすばらしいことを記念しながら、今ここでも自分たちを救う為に神様は働いていらっしゃると、意識したいのです。過越の食事は、先祖がエジプトでの奴隷生活から食事を通して救われたこと、不思議に海を渡らせて下さり、砂漠で奇跡的に養って下さり、絶え間ない忍耐とゆるしの心を戴いた事を思いおこし、それらを通して神様が新しい民族に形づくって下さった事を記念し祝う式です。つまり、この契約、神様とのまた他の人たちとの関わりあいを新しくして下さった事を記念しながら、神様が今ここでも同じ方法で行っていらっしゃる事を祝うのです。

しかし今イエスは、この三つの理由に勝るもっとずっと大きな理由があって、弟子たちと共にするこの食事を待っていらっしゃいます。イエスは新しい“出エジプト”が今まさに始まろうとしている事を示していらっしゃるのです。イエスがご自分を与える事によってなさろうとしていらっしゃることを通して、人々の新しい解放があるのです。これが新しい契約になります。そしてこの新しい契約をを記念してお祝いする食事が、最後の晩餐の繰り返しです。

パンとぶどう酒のシンボルも、この神秘を私がもう少しよく理解できるよう助けてくれます。食べ物は力と命と慰めを与えてくれますが、改めて考えてみれば、食べ物はそれ自身を何も残さず完全に与えてしまっています。すべてを与えてしまう事によって、私の部分となって色々な方法で私を変えます。この事を想うこともまた、イエスが私たち皆の為にして下さっている事を解らせてくれます。

☆聖書の言葉を思い巡らすこと

聖書の言葉を思い巡らす事は、今私にとって意味を増してきています。“私は苦しみを受ける前に、あなた方とこの過越の食事をしようと切に望んでいた”の言葉に捕まえられます。弟子たちと一緒に食事をなさりたいだけでなく、私の周りの人達とも一緒に食事をなさりたいイエスの望みを強く感じます。また“あなた方の為に渡される”と“流される”の言葉は、今私にとって更にずっと意味をもってきています。イエスが完全にご自分を与えて下さる事を理解する事によって、私からも寛大さがもっと引き出されます。

“神の国で”の意味をもう少しよく理解する事によって、私たちが皆分裂なしに一つの大きな家族として、神様の周りに一緒に集められている最後の時の光景を思い描きます。

“私の記念としてこれを行いなさい”の言葉は、“私がしたようにこの食事を繰り返しなさい”を意味するだけでなく“これを繰り返す時、私と同じ心をもちなさい”という事を意味していると、私は今悟っています。

ご復活や聖霊降臨の後、弟子たちにこの事が現実に起こった事を聖書の中に見つける事が出来ます。弟子たたの内でイエスの心が、イエスの霊が働いて、彼らの日々の生き方に影響を与えているのを見る事が出来ます。こうして聖書を思い巡らす事は、イエスをもっとよく知る為の助けとなります。復活のイエスが今だにミサの中でして下さっている事を、私によく分からせてくれます。ミサの言葉をもっとよく聴くように助けてくれます。私の日常生活で、もっともっとイエスのように行えるよう私を変えてくれます。



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葬儀祭壇展示を終えて
辻堂2区 佐々木美奈子

昨秋9月、葬儀に関するアンケートをお願いし、2百名近い方から回答をいただきました。その中、8割の方から簡素で教会にふさわしい“基準”があったら・・との要望がありました。費用は30万〜50万円位までとのことでした。

アンケートを基に、11月に「葬儀を考える会」を開きました折にも、葬儀の費用や教会へのお礼に関する質問が多く寄せられました。以上の事を踏まえた上で、メンバーが葬儀社の方々と会い、時間をかけて意見交換をし、その結果3月5日ミサ後に葬儀祭壇の展示が実現致しました。今回は2種類の区別を明確にするため、ピンク系の花とブルー系の花を用いたそうです。花の色については希望により、何色の花にでも変えられるとのこと、また今までセット料金の中には含まれていなかった献花用の花百本と、どの場合にも必要な寝台車輛含んで料金を設定してもらった為に、予定価格より大分上まわったようです。

葬儀社にとっても、現物を展示することは全くはじめての試みとのこと、快く引き受けて下さいました。

「揺籃から墓場」までお世話になる教会も、今まで仲々葬儀に関しては典礼以外具体的な関わり方は出来難かったと思います。「死」 が忌み嫌われて来た日本でも、最近自分なりの葬儀を考える方向に動き出しています。「今も臨終の時も・」と祈る私達は、教会としての葬儀のあり方を、今後も皆様とご一緒に考えて行きたいと思います。今回、ご案内が足りなかった為か、沢山の方がミサに与っていらした割に、近くで見て下さる方が少なかったように思われ残念です。祭壇の写真や代金の明細につきましては、事務所に常時ファイルした物を用意致しますので、いつでもご覧下さい。教会では年に20件以上の葬儀がありますが、費用については殆んど知識のない方が多いと思われます。その点、今回の展示は、40万〜55万円位でこんな祭壇が出来るとの一つの目安になったのではないでしょうか。

今は関係のないことかも知れませんが、いづれ一人残らずお世話になることですので、その時あわてないように、また深い悲しみに更に加えて、こんなに高いはずではなかったと不快にならない為にも、元気な中に考えておきましょう。

今後、今回の展示を基にして、値段の事や内容について再度葬儀社の方と話し合い、より良いものにして行きたいと思います。また毎年死者の月である11月には「死(葬儀)」を考える会を持ちたいと思いますので、ご意見、ご感想など、よろしくご協力をお願い致します。



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「フィリピンの子供に学費を」
サンパギータの会

サンパギータを子どもたちに贈る会がフィリピン・ミンドロ島の子供たちの学費と学校設備援助のため、藤沢教会の浄財を送りはじめてもう8年目になりました。

マドレーヌを通して集められたお金に加えて、毎年教会で行われているバザーの収益金から分配金をいただき、送られるお金は現地で大きく役立っております。

昨年の教会報クリスマス号でもご報告したように、現地から感謝の気持ちと状況報告が届いております。

また今年になって送られてきた感謝のカードと奨学金を受け勉強している学生たちの名前も報告されていますが、現地学生たちに必要な学費は年間一人当たり10万円と伺っております。

今後もどうかたゆまぬご支援をお願いしたいと思います。

学校設備の援助は、トイレの新設、運動場の整備、用具設備が主なものですが、現地の要望では、そこで働いておられる神父様やシスターの方々の判断におまかせし、基金を活用していただくことにしております。

トイレも完備したことで、病人が減ったこと、運動具が整ったことで村中の人たちが健康になったことと、いろいろ喜びに満ちた報告をいただいております。ありがとうございました。



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「女性と子供の一時保護」
ミカエラ寮

私たちは礼拝会創立者、聖マリア・ミカエラの精神に基ずいて、礼拝と解放の使命を遂行しております。

特にミカエラ寮では、さまざまな事情によって、自分の心身の置き場所を失ってしまった女性と、その子供たちを一時的に保護するという援助をおこなっております。

こうした事業は多くの方々の祈りと犠牲に支えられていることを、職員一同、感謝をもって心にきざみ込んでおります。

お送りいただいたご寄付金は以下のように使わせていただきました。

  1. 藤沢教会から一時保護の相談を受け、それを受理した滞日外国人家族の利用料が4日分未払いになっておりましたので1万880円を充当しました。

  2. クリーナー2万4864円

  3. 炊飯器修繕費1万5000円

私どもは公的援助を受けずに、バザー等の収益金、あるいは後援会会員の会費で何とか運営しております。

景気低迷するなか、失業、借金、家庭内暴力などで家族生活に破綻をきたした方々が一時保護を求めてくるケースが益々増えております。

そのため、出来ましたら、後援会にご参入いただき、ご支援いただければと思っております。祈りのうちに。(文責・下村)



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4月の主な行事

7日(金)初金・例会(新旧交代)

8日(土)ケア・セミナー10時

9日(日)藤沢教会信徒総会

10日(月)大聖年巡礼



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