八 角 形 に ゅ ー す
2000年5月7日
聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会
新司祭誕生・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・トーマス・テハン神父
私のミサのあずかり方(その7)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・M.ハンラティ神父
「聖霊に満たされなさい」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・秦野教会 寺田正明
大聖年巡礼の旅・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・酒井牧子(聖母訪問会)
アジア宣教のために若ものを・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・信徒宣教者会
障害者の生活道具を考える・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ジョティフの会
聖歌を中心としたミサの勉強会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・典礼部
新司祭誕生
トーマス・テハン神父
2000年3月20日、大阪カテドラル玉造教会で、クラレチアン宣教会東アジア管区会員梅崎隆一さんが、レオ池永潤大阪大司教様司式のもとに、司祭に叙階されました。
私は藤沢教会の信徒数人と叙階式に参加しました。玉造教会は大阪城公園に近く、環境に恵まれている所に有りました。新幹線で行き早めに大阪に着き、玉造教会と大阪城公園をゆっくり見ることができました。これは初めての体験でしたが、叙階式の前の準備として良かったと思いました。
午後2時には、教会は人で一杯でした。音響のよい教会で、天のエルサレムのような感じでした。叙階の儀で諸聖人の連願の時、ペトロ梅崎隆一さんは、祭壇の前に敷いてある赤い絨毯に俯せになりました。その姿を見、キリストに従う者の精神の表れを感じました。ヨハネ福音書15:16「あなたたちがわたしを選んだのではなく、わたしこそあなたたちを選んだのである。あなたたちが出かけていき、実をみのらせ、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたたちがわたしの名によって父に願うことは、何でもかなえていただけるようになるためである。」と書いてあります。
諸聖人の連願後、ペトロ梅崎隆一さんはすべてをキリストにささげ、司祭の祭服を着け、両手にあふれる塗油を受け、カリスとパテナを授与され、もうすっかり新しい実が実っているような感じでした。ヨハネ福音書12:24「もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである。しかし、死ねば豊かな実を結ぶ。」を思い出しました。つづいての聖霊の続唱の内容は、その精神と喜びが表れています。こうして新司祭が誕生しました。5月14日召命祈願日に、ペトロ梅崎隆一神父様は藤沢教会に来られ、共同体と共に初ミサをさゝげてくださいます。大きな喜びの日となりますよう、お祈りいたします。
4月9日(日)に今度年の信徒総会が開催されました。その概要をご報告いたします。テハン主任司祭のご挨拶とお祈りに始まり、資料に沿って牧野教会委員長、川辺事務局長、前山財務部長、増田湘南台センター担当による説明の後、質疑応答があり、テハン主任司祭の終わりの言葉とお祈りで無事終了した。今年の総会はなるべく多くの方の質問を受け、意見を聞きたいということで、説明は簡単に行われた。(説明、報告事項については総会資料をご覧下さい)
最初に、川辺事務局長から既に教会に寄せられている質問と意見が紹介された。
▼本年度の活動方向の中で、「一人一人が大切にされる教会に向けて」とあるが、具体的な取り組みはありますか。リーダーの養成がまず必要に思います。
▼「信徒の築く教会へ向けて」とありますが、具体的には、入門講座の刷新・メニューの多様化、典礼への参加拡大等はお考えですか。
▼現状の役割マップを作成し、公開した上で、一人一役運動とか、責任者の兼務・任期の制限等を検討しても良いのではないか。
▼一人一役に賛成です。3000人以上の信徒がいて、五分の一の参加があっても600人になので、ぜひ推進して欲しい。しかし、それには声掛けが必要であろう。
▼今年も婦人部の役員を決める会議は重苦しかった。今は働く主婦が多いので、婦人部の仕事や行事を見直して欲しい。婦人部、壮年部の分け方をなくしてブロック単位で活動するという話はどうなったのでしょうか。
以下は会場での意見と質疑応答ですが、活発な議論がなされました。
▼現在の教会委員会の運営は委員会規約から外れているのではないか。委員会規約に則って運営して欲しい。
△ 現在の規約は1992年に出来たもので、司祭、委員長、副委員長、財務部長、壮年部長、婦人部長で構成される運営委員会で運営することになっている。今は、一つの一致の心を求めて行くことが大切であると考えて、便宜的に委員会の運営をしている。
▼ 在現の規約を作った者の一人として、規約改正の問題が生じている間、何も聞いてくれなかったのは淋しく思っている。また、法律も規約も同じですが「条文は人を殺す。精神は人を生かす」という言葉を忘れてはなりません。
△ これまでは委員会の中で議論してきたので、おっしゃる通りです。これからは広く意見を求めていきたいと思っています。
▼委員会改組のためのフォーラムの開催をどうするのか早く決めて、一刻も早く開催すべきではないですか。委員会改組の話は断片的に入ってくるので何が問題なのか話が良く分かりません。また、どのくらい掛けて検討するのですか。
△ 委員会改組の経緯は八角形ニュースの中に逐一報告されていますが、基本的な問題は活動部の皆様方の活動が反映しきれているかということです。検討の時間についてはあまり拙速はしたくないし、あまりだらだらとやるのも良くないと思うので現在答えが御座いません。
▼ 司祭の数が減っていく、召命も減少していく中で信徒の役割が重視されています。教会はどうしたら良いかというと、活性化されなければなりません。そのためには組織は淀んではいけないということです。
▼ 教会の運営がどうしたら旨くいくかということの考え方の中で、教会委員が教会活動全般に精通することが先で、教会委員会に活動部の代表を参加させて教会の活動を理解しようというのは逆ではないですか。そのためには、教会委員は先頭にたって教会活動の中に入り込んでいき、話を聞き、話もして、一緒に汗を流すべきではないですか。
△ 耳の痛い話が多く、大変参考になります。貴重なご意見ありがとうございました。
▼ 一人一役運動は非常にすばらしいことなのですが、教会のために何かやりたいと思っても誰にどのようにいってよいのかいう場所がない、働く場所がない、分からないというのが現実のようです。そこで、一人一役運動を今度の委員会改組の中に採り入れて欲しい。
△ 一人一役運動はぜひ推進していきたいのですが、それには入念な準備が必要です。そこで、基本的な計画を立てた上で、来月ぐらいから一人一役運動に一役として参加してくれる人を募集して、その人達が集まって準備を進め、来年度ぐらいから定期的に行なえるシステムを今年中に作たらと思っています。早めに進めたいと思いますので、宜しくご協力お願いします。
皆の教会であるという意識のもとに、弱い人や困っている人を助けるように心がけ、愛を持った一致を大切にしていきましょう。
私のミサのあずかり方(その7)
エマオの話(ルカ24章13〜35)を思い巡らしながら
M.ハンラティ神父
ルカ24章のエマオの話を思い巡らしている内に、私は復活のイエスの弟子として、自分はどの程度の者だろうか?と考えてしまいます。日々の生活の中で、心配事や困難に出会った時に、私はしばしばその苦しみに打ち負かされてしまい、後になってから復活のイエスがずっと私と共にいて下さっている事を完全に忘れてしまっていたと、気が付きます。この箇所は、イエスは負けないどころか、すべてに打ち勝ったのだという事実に私の目を開けてくれます。イエスは新しい命に復活なさいました。そしてまさに私の苦しみの中に入って、私と共にいて下さいます。苦しみは私が新しい方法でイエスに出会うことが出来る場所なのです。
この箇所はまた、イエスがどんなに忍耐をもって私と共にいて下さるかを、思い出させてくれます。特に、苦しい時、間違ってしまった時に、私と共にいて下さる為に急いで来て下さるという事を。
この気付きは私を変えます。イエスの私への忍耐、ゆるしが分かれば分かるほど、私は寛大になり、忍耐強くなり、間違ってしまった人の役に立てるようになります。苦しみに囚われてしまっている人達に、希望と喜びを与えることがもっとよく出来るようになります。
また特にこの箇所は、共に聖書を分かち合うこと、主の晩餐を共に祝うこと即ちミサが、私たちを復活のイエスの近くに運んでいただく為にどんなに大切かを私に教えてくれます。
私はこの箇所をしばしば祈ります。祈る前にそのつど、どの位の時間祈るのかを決めておきます。その箇所を見つめながら聖霊の導きを待ちます。聖霊の導きは、心が動かされて新しい見方が出来るようになったり、新しい望みが心に湧き上がってきたり、新しい招きを感じたりすること等々です。想像していく内にその場面の中に引き込まれていく事から始まります。その例を次に書きます。
エルサレムからの道をうなだれて、とぼとぼ歩いている二人が見えてきます。とても疲れていて元気がないようです。ずっと見続けている内に二人の気持ちが伝わってきます。二人ともとても力を落としていて当惑しているようです。衝撃を受けている様子です。恐ろしくまたまったく面目の立たないやり方で、イエスが辱められ、打ち負かされ、殺されたさまを見たのです。他の弟子たちと共にパニック状態に陥り、隠れました。
本当に全て信じ難い事でした。二人は二年前、この預言者イエスに従う為に、自分達の村を離れたのでした。(時々私はこの二人が夫婦だったと想像します。)イエスの話を聞き、なさる事を見て、とても寛大な心でイエスに従う為に家を出たのでした。イエスと共に話し、食べ、旅してきました。イエスはすべてに於いてこの二人の指導者となったのです。「神がイエスと共におられる」と分かるすべての印を見ました。そして、イエスが新しいモーゼとして新しいイスラエルを誕生させてくれるという熱い期待を抱いたのでした。
しかし、今すべての期待は粉々になりました。敵側は自分達の方が強いと証明しました。イエスの弟子達は今、人々の中で面目を失い、迫害を恐れて隠れています。事件は今、「神はイエスと共にいなかった」と語っているのです。
自分達はとんでもない間違いをしてしまったのでしょうか?二人は今、欺かれ、裏切られたと感じています。しかし、イエスが捕えられる前に起こったすべての事を思うと、それもまた信じ難い事なのです。イエスがまだ生きておられるという噂もちょっとの間ありました。でもまやかしの希望にすぎませんでした。混乱して何が何だかわからない。心は打ち砕かれ、傷つき、うろたえ、自分達の選んだ道を悔み、これから役人や周囲の人達が何をしてくるのかと恐れる。故郷に帰れば安泰だというわけではないけれど、エルサレムよりはずっとましだ。逃れる場所ではある。
イエスがこの二人を捕まえて、一緒に添うようにして歩いていらっしゃる様子が見えてきます。私はそれがイエスだと知らされていますが、この二人は気付いていないことにびっくりします。いったい何故だろうと思い巡らします。同じイエスでありながら、全く同じではないと結論を出します。
また、イエスが御自分である事をすぐに告げられない事にも驚きます。イエスが二人の間違った考えをすぐに正されない事にも驚きます。二人が間違った道を歩いている事をおっしゃらない事にも驚きます。エルサレムは神の新しい御業が行われる中心であるのに…。イエスは忍耐して二人と一緒に間違った方向に行かれるのです。
過ちを正す代わりに、イエスは二人の心を占めている大きな心配事は何か?と尋ねます。そして、二人の混乱した感情と、粉々になってしまった希望も疑いも全部聞きます。話し尽くすまで全部聞きます。二人がすべてを話し終わってから、イエスは彼らの間違った考えを正し、説明し始めます。
イエスは、二人がイスラエルの解放について、また新しいダビデの黄金時代についてのくだりにだけ集中して聞いていて、御父の御計画についてイエスのおっしゃった事、イザヤの"苦しむ僕(しもべ)"についてイエスのおっしゃった事を本当には聞いていなかった事を指摘します。
私はイエスの忍耐に驚嘆するばかりです。二人に添って歩き、十分に話を聞き、そして二人に沢山の説明をなさるのです。私は、イエスが二人の話をそれほど良く聞いたからこそ二人が変わったのだと悟ります。二人の心は今もっと聞けるように開かれます。そしてもっともっと聞きたいと思うようになります。
家に着いたのはもう夕暮れ時でした。イエスは、なお先に行こうとなさいます。二人はおもてなししたくて、泊まって下さるように頼みます。先に進む様子を示される事によって、イエスは強いて留まろうとなさるのではなく、二人の自由に任せるのです。二人の望みに任せます。でも、二人は本当にもっと長い間一緒にいてほしかったし、もっと沢山聞きたかったのです。
家の主人が、食前の祝福の祈りをお客様に頼む習慣がありました。しかし、今イエスのそのなさり方が重要です。その様子が、イエスと共にいた時に、イエスが何回もパンを祝福して皆に分けてくださった、その事を思い出させました。聖書の説明を聞いて、心燃え、心が開かれた上で、今この行為に触れて、二人はイエス御自身がもう一度一緒にいて下さっていると、はっきり認識する事が出来ました。
この事がわかった瞬間の喜びとおそれと感謝はいかばかりだった事か!瞬間呆然としてしまったその時にイエスは見えなくなった!何が起こったのか二人が把握するには時間がかかったことでしょう。(私にとっても、それが二人に何を意味し、私を含めて今のキリスト者に何を意味するのか把握するのに時間がかかります。私は多くの時間をかけてこの事を思い巡らしました。)
イエスは再び去ってしまったけれど、二人はこの時の喜びを失っていません。いまや二人は、イエスを見ることが出来なくても一緒にいて下さっていると知ったのです。苦しみや過ちの中でさえ共にいて下さっていると分かりました。そして、二人は以前とは違う人になりました。
二人は直ちに暗闇の中を出かけていきます。仲間達にこの事を伝えようと、エルサレムへの12kmの危険な夜道を急ぎ戻ります。イエスは死者の中から復活して、今も「共にいて下さる」というこの「よい知らせ」(福音)を分かちあおうと急ぎます。気持ちも外見も居たい場所も、すべてが完全に180度変わります。
行ってみたら、他の弟子たちの雰囲気も全く違っていたのでびっくりしました。イエスはグループの長であるペトロにもお現われになっていて、興奮したお祝いの雰囲気でした。
二人は自分達のすごい体験を分かちあいます。イエスが一介の弟子にすぎない二人にいらっしゃって下さった事、「パンを裂かれた」ことでイエスだと分かったことを、誰もが知ってほしいのです。
ルカはエフェゾでこの福音を書きました。エフェゾは今のトルコにあります。イエスの死と復活から30年余り経っていました。未熟な自分のキリスト者の共同体を考えていました。キリスト者となったユダヤ人、ギリシャ人、ローマ人、そして元からの土地の人々の混ざった集団でした。多くの人達はイエスに従うそのグループに入る為に沢山の犠牲を払っていました。家族や地域の人々から排斥されたり、欺かれたり、社会では信用されず虐げられていました。しかし、それ以上にがっかりさせられた事は、自分達の新しい共同体の内にある苦しみでした。実践に当り分裂や論争がありました。例えば、イエスをどう教えるか、ユダヤの伝統をどの位保つか、今わかってくる旧約聖書の新しい解釈についてなどです。特に二つの大きな疑問がありました。「もしイエスが復活されたのなら、何故私たちはこのように苦しんでいるのか」「もしイエスが本当に復活されたのなら、何故私達に御自身を示して下さらないのか」の二つです。ルカはこの話を使って、これらの質問に答えようとしました。
ルカは、目には見えないけれど、イエスが忍耐をもって共同体のメンバー一人一人と一緒に歩いて下さっている事を、もっとよく悟るようにと強く勧めます。しかも苦しい時こそ、また、誤ったり正しくない道を行く時こそ一緒にいて下さるという事を。イエスは一人一人がご自分のことをもっと正しく、深く、そしてもっと近くで知ってほしいのです。この事がよく分かると、共同体の人達一人一人とも一緒に歩いて下さっている事が信じられるようになり、他人への態度が変わります。
さらにルカは、共同体の中で各々がイエスとの自分の体験を分かち合うよう強く勧めます。これによって復活のイエスとの個々の関わりがより深くされます。より大きな感謝、喜び、お互いの支え合い、一致へと導かれます。このようにして、共同体で一緒に祈ったり、聖書を分かちあったり、「主の晩餐」を記念して「パンを裂い」たりする中で、「復活の主」を見つけていくのです。それによって新たにされて、弟子達はこの「よい知らせ」をすべての人に、迫害する人達にさえ広げようと出かけることが出来るのです。
それで、私はミサの中で、イエスが私と共にいて下さっていると想像しようとします。まず最初に、イエスが私をゆるし続けて下さっている忍耐に気付きます。それから他の人達に目を向け、彼らも同じ贈り物を戴いていると気付くように導かれます。この気付きによって私達のグループが変えられる事を、新しい方向に進んでいく事を、イエスは待っていらっしゃるのです。イエスは、小さくて取るに足りない、全然英雄的でない私達のグループが、この「よい知らせ」を広げるように、より広い社会へ導きたいのです。「よい知らせ」とは「イエスは復活して私達と共にいる」という事、「イエスはすべてに打ち勝った」という事です。イエスは私達にゆるしと喜びと希望を広げてほしいのです。
私は復活の主のよりよい弟子となる為に、まだまだ長い旅をしていくのだと感じています。そして“パンを裂く事”(ミサ)についてももっと理解を深めていくよう成長する必要があると感じています。
「聖霊に満たされなさい」
秦野教会 寺田正明
当藤沢教会で始めた『神奈川祈りの集い』は今年発足10周年を迎えます。この良い年月に歴代の神父様と信徒の皆様の暖かいご支援をいただき無事に続けることができましたことを心から感謝致しております。
『神奈川祈りの集い』の主な活動は、神に賛美と感謝を捧げ信仰の成長を促すための「祈りの集い」であり(毎月第2、4日曜日午後2時から4時まで204号室で)もう一つは、聖霊の満たしを体験するための「聖霊による生活刷新セミナー」の提供です。
私は今から丁度20年前カトリック『聖霊による刷新』グループの生活刷新セミナーに参加し、聖霊の満たしを受けました。その時から私の生活のすべてが文字通り刷新されました。私の性質も人格も霊的な信仰生活もすべてが新しくされたのです。私の心の中で聖霊が力強く働かれていることをしばしばきづきます。
私のうちに聖霊の実が実り、恵みの賜物(カリスマ)が与えられ、神のために生きること、神のために働くべきことなど、基本的なことをきちんと悟ることができるようになりました。私はその当時従来とは違う意味でというか、もしかしたらその時始めて『イエス様は主である』ことを知ったのでした。そして、生き生きとした信仰を持つことができるようになりました。聖書を読みたいと言う気持ちが増えるとともに、よくわかるようになってきました。また、キリスト者として生き方をただし、成聖への強い望みがわいてきたことなどがありました。また、心とからだのいやしを経験したことも大きな喜びであり、感謝でした。私が受けたこれらの恵みのすべて、すなわち『喜びの体験』を分かち合いたくて出会う人々にいつも話しています。
*第二バチカン公会議以降に出現した「聖霊による刷新」=カリスマ刷新について、神学者のF.サリバン神父は米国の司教団の要請を受けて実態調査を行い神学的解説書(霊の賜物とカリスマ刷新)を著されました。それには、「第二バチカン公会議にて信徒憲章の草案審議の際(1963)、神学的問題として今まで考えられていなかったテーマ「信者のカリスマ」が提案されていました。信者のカリスマとは信徒各自がキリストのからだの一員として果たさなければならない役割や職務を遂行するとき、秘跡からだけでなく、神の直接介入によって「あらゆる序列の信徒」に分け与えられる恵みの賜物である」と信徒憲章12項後半に初めて規定されたいきさつが述べられています。その後1967年には早速その実際的な聖霊による刷新体験が米国のデュケーヌ大学の信徒(教授)たちの間で現われ、それがいまや世界中に爆発的に発展していった経緯があり、今日に至っています。
*聖霊による刷新を通しておきた聖霊降臨のような体験は新約聖書に合致した現象で初期の教会では普通の現象として記述されています。その他にも聖霊の満たしについての記述が多くあります。中でもパウロ書簡の全編は聖霊の満たしを受けていることを前提として語られています。例えば「祈りの集い」のような典礼集会の様子やその集会での信徒のカリスマの使い方に関する秩序について指示する記述があります。(1コリント14章)したがって、品位と慎みの霊を受けた者はすべて聖書の規制の範朗内で主の教会に奉仕するのです。また、聖霊の満たしを受けた人々が問題を起こしてる様子を読み取ることができる内容として、異言を重視したコリント人へ(12、13、14章)とか、霊的な恵みを受けたのに人間的な生活に戻ってしまうガラティア人(3・1〜5)などに、注意を与えているのです。
大聖年巡礼の旅
酒井牧子(聖母訪問会)
桜の花が満開の藤沢教会を、私たち巡礼団を乗せた二台のバスは、一路神山へと走り出しました。テハン師の先唱で巡礼の旅の無事と大聖年の恵みを、みんな心を一つにして祈り合いました。
一度伺いたいと思っていた神山復生病院、そして富士の聖母像と富士吉田教会、どれも私にとってははじめての所ばかりで、心はとてもはずんでいました。しかし、単なる好奇心でこの巡礼の旅を迎えようとしている自分に気づきつつ、エルダーズの皆さまが作って下さったプリントに目を通していました。その時『巡礼に出ることは、あがない主ご自身のあとを信じる人のだれもが歩むものだということを思い起こさせます。それは、つらい苦行を人間の弱さの償いとして行なうこと、自分の弱さから目を離さないこと、心から自分を改革することです。神の恵みを支えとして、「成熟した人間になり、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長すること」エフェゾ4:13を目指して努力するのです』(教皇ヨハネパウロ二世キリスト者として巡礼すること、より)との言葉がとびこんできました。年を取るにつれ自分の持っている仕事や能力が少しずつ取り去られてゆく今それでもまだ、責任や地位を望んでしまったり、相手を一つの型にはめこもうとする。ゆうずう性のきかない自分自身のおろかさや弱さを、この巡礼を通して、熱く静かに湧き上がってきました。
秦野、足柄を過ぎて、バスはもう神山復生病院の近く迄来ていました。
私たち一行は、桜の花が四分咲き、こぶしが満開の神山復生病院聖堂へと歩き出していました。聖堂での祈りのあと、藤原さんという、一人のハンセン病の方が、お話をして下さいました。昭和二十年に十二才で両親、兄弟と別れて隔離されたきり、何がつらいといって、親や兄弟はもちろん、誰からも期待されず、何も役にたたないということ、しかし、イエスさまは、私たちを必要とされている、親が弱い子供を大切にするように、弱いからこそ、イエスさまは私たちを大切にして下さるのだ…と。
私はバスの中で自分の思いと重なって、涙があふれそうでした。私の弱さを変えていただく丈でなく、弱さそのものになったときにも、愛する心、やさしい心、思いやりの心、祈りの心が、残っていますように……。
予定を変更して墓参したとき今は天国でイエスさまや聖母マリアと共に喜びの歌を唱っているでしょう。ハンセン病で亡くなられた方々の取り次ぎを祈りました。
その後、私たちバスは東富士五湖道を須走、富士吉田、二合目まで、走り続けました。バスを降りると、寒さでふるえそう、急に冬に逆もどりした様にあたりに残雪、雪をふみしめながら、急な坂をのぼり、ふりあおぐと、白い聖母子像がやさしく微笑して私たちを迎えてくれました。富士吉田教会では、いよいよ巡礼最後の感謝のミサ、テハン、ティム両神父様共同司式で、皆それぞれに、心に得たものを深い想いと共にお捧げし、祈り合いました。
今回の巡礼の旅を通して心に得たもの、それは『成熟した人間となり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長すること』そのきずきが、なお、私の心にひびき続け、今日もそして明日も変えられることを、信頼し、祈りつづけていくことでしょう。
途中、ビデオを用意して下さった大津留さん、お話を聞かせて下さった金子さん、エルダーズの会の皆様との出会いを、心から感謝しながら、この辺で私の巡礼記を終わらせていただきます。
アジア宣教のために若ものを
信徒宣教者会
バザーの収益金から多大なご寄付をいただき、ありがとうございました。
運営費の一部として大切に使わせていただきます。
会の事務局長を当教会出身の山口道孝神父様が担当し、アジア各地を飛び回って活躍しておられます。
去年、北一ブロックの米谷和江さんがネパール派遣を終えて帰国され、彼女の貴重な体験と共に私たち共同体も多くのことを分かち合うことが出来ましたが、それに続く若ものたちが、インド、パキスタン、ロシア、フィリッピン等に派遣出来たら、どんなにすばらしいことでしょう。
人が神からあたえられている、最もすばらしい贈り物は愛することが出来る力だといわれています。
特に若い人、そのあふれるエネルギーは手ごたえのある生き方を求めます。
有志信徒の宣教を推進する信徒宣教者会は、世界に開かれた視野をもつボランティアの若ものたちを送り出すために志願者の養成を行っています。
この会の運営はすべて、個人、教会、修道会などからの寄付によってまかなわれております。
その運営費は年間二千万円近くかかりますが、絶対的資金不足に悩み、それを祈りと努力で推し進めています。
どうぞ今後共,ご支援くださればと思います。
障害者の生活道具を考える
ジョティフの会
先日は私たちジョティフ(JOTIF)の会に活動資金をいただき、感謝しております。
障害者の自立を助ける道具を考える会として出発しましたが、いろいろな道具を考案していくうちに、さらに快適な生活行動が出来るような発想をもとに長短二種類の持ち運び可能な折りたたみ式スロープを製作しました。
最近、電車など交通機関も駅のエレベーター設置などで便利にはなりましたが、まだ不便さも、いなめません。そこで今回の電車とホームのスキ間や段差を解消するなど使い方もいろいろですが、手を貸す側にはとても使い勝手が良いと喜ばれています。
この運動には手を借りる側の障害者に、手を貸す健常者たちが心を使うきっかけを作る意味も含まれています。ジョティフの最大の目的は、お金や物を提供するだけでなく、その関わり合いを通して、共に生きる意識を育てていくことにあります。
そのような製品を生活の中で、必要とされている方をご存知でしたら、情報をお知らせいただければ、ありがたいのです。
お体が不自由で、こんなものがあればと日頃考えておられる方からの情報もお願いいたします。
もしかしたら、お役に立てることがあるかもしれません。(文責・下村)
聖歌を中心としたミサの勉強会
典礼部
典礼部では下記の要領で、聖歌を中心としたミサの勉強会を企画いたしました。
今回はミサ奉仕して下さっている方はもとより、一人でも多くの方に参加して頂きたいと思い、他教会のお友達もお誘いくださって、どうぞどなたでもご参加下さい。
記
日時 6月4日(日)9時半のミサ〜12時半まで
場所 聖堂
講師 フランシスコ会 南雲正晴神父様 (聖アントニオ神学院と東京カトリック神学院「典礼神学」教授、カトリック中央協議会典礼委員)
第2部として昼食を南雲神父様とご一緒し「ブロックが中心になって奉仕するミサ」の勉強会を2時頃までホールで致します。尚、昼食のお世話は辻堂ブロックでさせていただきます。600円のお弁当を用意致します。
お弁当の申込み
辻堂ブロックの方は地区世話人まで、他の地区の方は、浅野まで、5月29日(月)までにお願いいたします。
問い合わせ、大野まで
7日(日)初聖体
12日(金)ミサ、例会午前9時30分
14日(日)日曜学校一年生開始・梅崎神父初ミサ・召命祈願日・北ブロック巡礼
20日(土)藤沢ブロック新入者歓迎
21日(日)共助組合総会
28日(日)堅信式・司教訪問
31日(水)教会遠足
「八角形にゅーす」105号(6月)より内容が少し変更になります。教会委員会報告・行事報告・各活動部の内容等教会に関するニュースを載せていくことになりました。従って個人の寄稿はクリスマス特集号の時にお願いいたします。新企画として「ひとこと欄」(200字以内)を設けます。教会共同体にふさわしい建設的で前向きの投書を期待します。匿名は採用しません。採用不採用は広報部で決めさせて頂きます。ワープロ・パソコンで原稿を寄せられる方は必ずフロッピーと印刷原稿を添えて下さい。皆さまのご協力を心よりお願い致します。
また、広報部では紙面を縦書きから横書きにすることも検討しております。ご意見を頂ければ幸です。5月号より編集長が高野 修から丸茂 斉に変わりました。
最後になりましたが、「八角形にゅーす」1号より編集、印刷をお引き受け下さいました野村純一郎さんが4月12日に天国に召されました。永遠のやすらぎをお祈り致しますと共に「八角形にゅーす」にご尽力下さいましたことを心より感謝申し上げます。