八 角 形 に ゅ ー す
2000年7月2日
聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会
「堅信式」のミサの説教から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・横浜教区司教 梅村昌弘
“ルカ福音書を祈る”シリーズ(1)前置き1.“受け身の祈り”について・・・・・・・・・・・・・・・・M.ハンラティ神父
堅信の喜び・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・M.Y.
堅信式を終えて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢1区 岡田
教会の遠足・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢2区 根本
ボーイスカウトデー、バザーに寄せて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・団委員、バザー担当 平井
北1、北2ブロック黙想会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・六会 日野水
聖体奉仕派遣式・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・六会 日野水
「壮年部歓迎会」についての報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢1区 古沢
ゴスペル・ミサ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・湘南台 荒井
ルワンダへ愛をこめて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山野井
「堅信式」のミサの説教から
横浜教区司教 梅村昌弘
私達、復活節の第6主日を迎えております。復活節、皆さん主が復活なさったことを祝っての季節だと思っていらっしゃると思いますけれど、復活節というのはそれだけではありません。実は復活節というのは、聖霊降臨に向けての準備の季節であります。ですから復活節には第一朗読で、必ず使徒達の宣教、使徒言行録が読み継がれます。聖霊を受けた弟子達が、力強く宣教し教会が発展していったその様子を伝えています。聖霊を受けた使徒たちが手を置いた人々に聖霊が降って教会がますます発展していったということでありますけれども、聖霊というと、何かこの突然降って湧いた神様の力のように思われる方もいらっしゃるかなと思います。
私の子供の頃は、ポパイの漫画がありましたけれどもポパイがホーレン草を食べると、とたんに力が湧いて悪者を退治するというような話でした。水戸黄門みたいに、見ていて安心ですね。必ず最後にそういう場面が出てきますから。でも実は、ポパイのホーレン草ようなものではありませんね、神様の息吹である聖霊というのは。
父である神様と御子であるイエス様との、その深ーい一致と交わり、その結びつきが聖霊というものだと思います。ですから、この復活節にあたって福音書はそのことを私達に告げています。今日の福音書にもありました。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。私の愛にとどまりなさい」。
父である神様と、御子であるイエス様が如何に密接にかたく結ばれていたかということを弟子達に告げると同時に、「あなた方もわたしに同じようにとどまっていなさい」。ぶどうの木の譬えも私達は耳にしました。「わたしに、つながっていなさい」。父である神様と御子のつながり、そのつながりに更に私達がそれぞれに結ばれる。それが復活節にあって、私達に告げられている福音の内容であります。
聖霊を受けるというのは、イエス様を通して私達が父である神様としっかりと結ばれること、それが神の息吹である聖霊のもたらす恵みだということだと思います。復活したイエス様、復活節の第2主日に読まれた福音でありますけれども、復活なさったイエス様、次のように弟子達の前に現れたと記されています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子達はユダヤ人を恐れて、自分達のいる家の戸に鍵を掛けていた。そこへイエスは来て真ん中に立ち“あなたがたに平和があるように”と言われた」。これは第四福音書のヨハネの福音書だけではありません。教会福音書のルカの福音書もひもといてみて下さい。復活なさったイエス様は、必ず弟子達の真ん中に立って「あなたがたに平和」と言われたとそのように記されています。“弟子達の真ん中に立って”と復活なさったイエス様は、等距離にいてくださるということを表しています。“真ん中に立って”、誰それには特別近くということもなく、誰それにとっては遠くにあってということもなく、復活なさったイエス様は一人ひとりと同じように側にいて下さるということを表していると思います。あの人はイエス様から遠い人、あの人はイエス様に近い人ということは決してありません。復活なさったイエス様は、誰の側にも、側にいて下さるということです。真ん中に立ってということは、そういう復活なさったイエス様の有りようが語られています。そして更に、復活なさったイエス様は弟子達の真ん中におられる。
教会、それは私達一人ひとり思っていることですけれども、私達はイエス様を中心に集まるそのつどい、共同体であるということであります。私達は復活なさったイエス様を中心に共につどう、そうした共同体です。イエス様を中心に、ということはただ単に距離的なこと、位置的なことを表しているだけのものではありません。イエス様を中心にというのは、私達自身の生き方そのもの、私達の存在そのものが、いつもイエス様を中心にしているということであります。私達は、日々の生活の中で物事を考え、そし行動していく時にいつもイエス様を中心にしているかどうか。真のキリスト者とよばれるのは、いつも復活なさったイエス様を中心にして生きるということです。何を考えるにつけても、イエス様なら考えたことに従って決断し、行動していく時にもイエス様だったらどうするかなということをいつも心に留めながら生きていく、それがキリスト者の有りようだと思います。
復活なさったイエス様を真ん中にして生きる者、それがキリスト者です。それがイエス様と結ばれて、かたく結ばれて生きる。その結びが聖霊の恵みということではないでしょうか。
今日、私達の中から堅信の秘跡を受ける兄弟姉妹の方々がおられます。聖霊の恵みというのは、今お話したようなことであります。その恵みが真に一人ひとりの内にあって実現していきますように、実りをもたらしますように、共に心を合わせてお祈りしたいと思います。
2000年5月28日
広報部記
1.静思のひととき
明日は聖霊降臨の主日なので、3分間のお祈りの後、聖霊の続唱を歌う。
2.堅信式・司教訪問について
5月28日(日)の堅信式と司教の公式訪問について、報告と反省を行った。
まず、委員長からの報告で、53名の方々が堅信の秘跡を受けられた。関係する皆様のご協力により無事終了した。司教様との懇談の席上、色々な質問を頂いたが、その中で司教様にとってもこの教会が大事な教会であるということを感じた。また、司教様はフォローアップの大切さを強調されていた。今後、もっと頻繁に司教様においで頂く機会を作りたい。
反省点としては、堅信式の準備の期間が学校の行事と重なった子供達がいたので、時期を選ぶ必要がある。時期に関しては、司教様の都合等があるので自由にはならないが、なるべく重ならないようにしたい。しかし、教会の行事を考えると5月、6月、9月位しか無いのではないか。司教様は第5地区で合わせて堅信式を行うことも考えておられるようである。その他、司教様を迎えるにあたって、今も含めて、教会をもう少しきれいにできたら良い、司教様と一般の信者との交流の時間が短かったという意見があった。その他に何かご意見がありましたら事務局までお寄せ下さい。今後の参考にさせて頂きます。
3.委員会のあり方に関するフォーラム開催について
まだ準備ができなかったため、フォーラムの本格的検討は次回にした。壮年部の勉強会の様子を紹介してもらい、本委員会でも、新任教会委員も多いので、改めて現行の「教会委員会規約」を配布し、小藤さん(鵠沼ブロック委員)に現規約を作った時の考えを解説して頂いた。
4.第5地区合同巡礼について
10月14日(土)に横浜教区巡礼指定地「聖母の園」で第5地区(大船教会、鍛冶ヶ谷教会、片瀬教会、戸塚教会、中和田教会、原宿教会、藤沢教会)合同巡礼が行われるが、これまでの巡礼企画小委員会における検討結果の概要が説明され、対応を検討した。司教様は、既にスケジュールが詰まっているので、御出席願えない。
合同巡礼の主旨は大聖年のしるしである巡礼を通して第5地区内の小教区間の交流を図り、併せて大聖年のイメージを心に残すことである。年齢を問わず多くの人を対象とするが、特に教会の未来を担う若い人達の参加を期待し、子供・中高生・青年に強く声掛けを行う。時間は昼食を挟んで11時から15時迄で、内容は野外ミサ(雨天の場合は大聖堂)、ミニ巡礼、交流の時間である。
藤沢教会の担当はミサ典礼で、典礼部を中心に準備を進める。藤沢教会としては、会場までブロック毎に集まって行くことにして、体の不自由な人や子供達を誘う方法、会場までのルートをブロック毎に検討することにした。
子供達を誘うのであれば、典礼の中で子供達もミサに参加するように考えるとか、子供向けの説教をするとか、子供向けの行事をいれて欲しいという要望がなされた。また外国人コミュニティーにも声を掛けて、参加するなら典礼もそのように考えるべきであるとの意見も出た。第5地区全体でやる最初の大きな行事なので、是非成功させたい。
6.「新生の明日を求めて」配布と今後
阪神淡路大震災の後で大阪教区から出された本「新生の明日を求めて―交わり証する教会」は教会の進むべき道について、示唆に富んでいるので、分かち合ったらどうかということで配布され、検討した。教会委員会では次回までに各自第1部を読んでくることになった。教会でまとめて購入したので、グループを作って分かち合いをしたい方は事務局まで申し出て下さい。
7.ガーデンパーティ、バザーについて
(1)ガーデンパーティ(8月5日(土)ミサはPM5:00から)
国際屋台村にベトナム、フィリピン、韓国のコミュニティーは参加を決定し、南米は未定である。壮年部と婦人部の有志で運営するので、近々壮年部代表、婦人部代表、国際部代表でスタートの打合せをする。婦人部の手伝いが旨くいくように、婦人部と国際部で台所の期間割を決める話し合いをしたい。近隣に迷惑を掛けないようにスピーカーの音量を上げすぎないようにする。
(2)バザー(10月22日(日)北1、北2ブロック担当)
バザー委員長に大庭の荒井夫妻が決まり、各地区から3名の委員を選出してもらって6月18日に第1回目の委員会を開催する。
8.その他
(1)区割り検討小委員会について
6月18日に第1回目の委員会を開催する。「新生の明日を求めて」の第1部は地区割の参考になるので、地区割委員にも読んでもらうことにした。
(2)一人一役運動準備委員会について
教会活動の役割リストを作ることから始めたい。なかなかスタッフが集まらず、スタートできないので、近々一人一役運動のために皆で話し合おうという集まりを開くことにした。
(3)足や体が不自由な方とお年寄りのための優先席用に肘掛け椅子を10脚購入することにした。
(4)聖堂のオルガンを移動し、先唱者に近づけることにした。
(5)行事予定
6月25日(日)10時より戸塚教会で創立50周年記念ミサが行われる。
7月23日(日)14時より大船教会で創立50周年記念ミサが行われる。
8月19日(土)14時より当教会で平和のための合同祈祷会を行う。
“ルカ福音書を祈る”シリーズ(1)
前置き1.“受け身の祈り”について
M・ハンラティ神父
“聖書を祈る”ことについてのシリーズを始めたいと思います。私自身が25年以上にわたってこの方法で祈った経験に基づいて話します。私はこの祈りの実践によって沢山の霊的賜物を戴き、霊的に成長しました。それで皆様にもこの祈りの価値を体験していただきたいと思います。このシリーズではルカ福音書中のエピソードを使います。
先ず“聖書を祈る”とは何を意味するのかを説明する必要があります。初めの2回をそれに使います。この第1回では、“聖書を祈る”為の祈りの仕方について説明します。私はそれを“受け身の祈り”と名付けてみました。“聖書を祈る”為にこの祈りがとても大切です。
以前“日常生活の中で神を発見する”というシリーズを出しました。その中で“神様、今日あなたが私に下さったよかったことを見せて下さい”“私の歴史の中であなたが働いていらっしゃることをもっとよく見せて下さい”“この花であなたは私に何を教えて下さりたいのですか?”等々の祈りのエクササイズを勧めました。これらのエクササイズが霊的に実り豊かであることを体験した人は、この“受け身の祈り”をすでに理解しています。
私が初めて“受け身の祈り”について習ったのは25年前、“聖書を祈る”ことを習った時でした。それ以前のほとんど40年間、私は、“能動的祈り”をしていました。最初に教えられて以来ずっと、一日に何回もこの“能動的祈り”をしていました。しかしこの祈りは主に自分の力で、自分から働きかける祈りです。私は賛美や感謝、悲しみ、嘆願を感じよう表現しようと非常に努力したのです。よくよく考えて、努力して忍耐して、決心してやっていました。今振り返ると、自分がしなければならないと思い込んでいた、自分が中心だったと認めます。祈りは頑張って覚悟してする義務となってしまい、私の気持ちに力も喜びも、感謝も信頼ももたらしてはくれませんでした。教えられた神様はいつもはるかかなたに離れていたのです。
その後私は“受け身の祈り”を教えられて試しました。それがとても実り豊かであると分かりました。祈りのあるべき姿にずっと近いと今感じています。こちらの方がずっと神様が中心になっています。そのやり方は・・はじめにどの位の時間祈るかを決めて、後は神様に向かって出来るだけ何もしないようにするだけです。丁度リモコンのスイッチを神様に預けて神様にテレビを見せて戴くように、神様が見せて下さるのを待つのです。神様がお見せになりたい事を、神様がお望みの方法で、お望みの時に見せて下さるのを待つのです。戴くのを待つのです。私の為によい事を神様が下さる、と信頼して待つのです、導かれるのを待つのです。
この種の祈りは、何らかの方法で神様の働きを見つめることに始まります。それは、生活の中の出来事であったり、自然界のことであったり、聖書の中の話であったりします。いずれにしろ決めた時間、この信頼して戴く姿勢で見つめるのです。
そうすると段々に三つの事が起こり始めると気付きます。
以上の三つです。もう少し詳しく話します。神様が働いていらっしゃる事が段々見れるようになると、それによって引き出されてくる自分の気持ちに気がつくようになります。
それは時によって感嘆、感謝、希望であったり、困惑、恐れ、後悔などであったりします。短い言葉を繰り返すことはこの気持ちに留まれるように助けてくれます。例えば−目の前に現れたものを見つめている内に、私はいつしか“すばらしかった!すばらしかった!”と繰り返している自分に気が付きます。そのように繰り返している内に、感嘆や賛美の気持ちが心に湧き起こり始めます。そしてこの気持ちに導かれるままにまかせたい、と心が動いていくのを感じます。
驚嘆、感謝、優しさが私から引き出される例を話しました。けれども不平、心配、恐れ、警戒心、拒絶等の気持ちも起こり得ると認めなければなりません。現実にこのように心が動き始めてしまう時があるでしょう。例えば、体の調子がとても悪い日、ひどく傷ついたり、大失敗をしてしまった日、感謝や喜び、賛美の心で祈ることが出来ません。そんな時私はどうするのでしょうか?
そんな時私は、先ずこのマイナスの感情を認めます。今この時に私が感じているままに、それを受け入れます。そしてそれを神様の前で正直にかかえます。“これが私です”と私は言います。(神様の前でこのようにマイナスの感情を述べるべきではない。と誰かに聞いたり、自分が思い込んでいる事があるかも知れません。が、それこそ不尊なことです。私達は神様と向き合う前に、非常なる努力をして先ず自分の気持ちを変えるべきだと教えられたかも知れません。私も若い頃から長い間、その習慣をもっていました)
今私は、この考え方が祈りの中で本当に神様に出会う事を邪魔する巨大な障害物であると認めています。
一つの理由はもちろん、このような場合私は自分を変える力をもっていないからです。もう一つの理由は、私への神様の心を誤解しているからです。神様が私をあるがままに受けいれて下さっている事を信用していないからです。自分のこの暗い面を神様に見せる時、神様への信頼を示しているのです。“私を癒し変える事が出来るのはあなただけです”と私は言い伝えます。はじめは勇気がいるでしょう。でもやってみたら、本当の私のこの祈りに神様は答えて下さる事をすぐ体験できるでしょう。本当の私が歯医者さんに行ったり、美容院に行ったり、手術室に入ったりするのと同じです。自分で直してから行く所ではありません。そこに身を置くだけでよいのです。
神様は新しい事を私に見せて下さることによって私を変えて下さる、と分かってきます。神様の前でマイナスの感情をかかえると、次第に何か新しい事が私の心の中に入ってきます。新しい視点から物事を見はじめます。それを見ている内に私の気持ちは変わり始め、私の心構えも変わり始めます。(心構えが変わると、行い方も変わってくると後で気が付きます)神様が私の心にこの新しいことを入れて下さったのだと、後になって了解します。
新しい事を私に示す前に、神様は時々私の思い出や想像をお使いになられる事も見い出しています。神様は私を過去の出来事の記憶へ引き戻されます。そこで神様が私の為に働いて下さった事が分かると、私の中から新しい気持が引き出されます。それは例えば、感謝や賛美の気持だったり、今何か新しい事をするようにという招きだったりします。
神様は私の想像力もよく使われます。特に聖書を祈る時にです。その光景を想像し、その場面に引き入れられると感じたりします。私の目の前で起っている光景を見つめている内に、新しい気持が私から引き出されます。神様は私を導き変える為にこれらを使われます。
神様はシンボルもお使いになります。シンボルを通して強いメッセージや深い気持を与えて下さいます。
例えばイエスが私をガラクタだらけの部屋に連れて行き、そこで私が片付けるのを手伝って下さるイメージ、また友達の話ですが、神様が赤ちゃんにするように彼女をお風呂に入れて下さっているイメージ等々です。
“言葉を繰り返すこと”神様がして下さっている事を画面の中に見つめながら、私は一人言のように言葉を繰り返している事がよくあります。静かにリズムをもって自然に口から出ているのです。私がその画面に集中して留まれるように助け、私が受け身でい続けられるように助けてくれます。例えば次から次へと見せて戴く過去の出来事を通して導かれる間、“あなたがよくやって下さった!あなたがよくやって下さった!あなたがよくやってくださった!”と繰り返している自分に気が付きます。その言葉は後で“ありがとう!ありがとう!”に変わっていたりします。
またマイナスの感情から祈りが始まったり、そうでなくても祈っている間にマイナスの感情が湧き出てくる時、“これは好きではない、これは好きではない、これは好きではない”と繰り返している自分に気が付きます。その言葉は時によって“私は怒っている”とか“私は心配だ”とか“助けて下さい、助けて下さい”だったりします。この習慣は片方でプラスの感情が深められ、もう片方でマイナスの感情が次第に変えられるのを私が待つ事が出来るように助けてくれると気付きました。
時には同時に反対方向に引っ張られます。もっと寛大に勇気を持つようにと引っ張られると同時に、自分を失う恐れや警戒心の方にも引っ張られるのです。こんな時は神様の前で信頼して両方とも抱えて、前向きな方向にもっと強く引っ張られるように導かれるまで待たなければなりません。
祈りが実り豊かかどうかは、祈りが私達を変えたかどうかで判断します。最終的に心構えや行ないが変わる結果となりましたか?
祈りの時間の終りに必ずしもこの事に気付けるとは限りません。時には何回もこの葛藤に戻らなければならないでしょう。けれども次第に変化していきます。それに長い時間がかかる場合は、むしろ最終的に深い変化がもたらされるものです。
この祈りを通して、神様は私に御自分について段々によく理解させて下さり、神様により近づけて下さる、と分かってきました。同時に私が自分をもっとよく知っていくようにも導いて下さり、また神様との係わりあいをどう増やしていったらよいのかも教えて下さいます。更にこの事によって他の人達にも近づけて戴くと分かってきました。
まだこの祈りを試していない人達は、複雑すぎるとか、とても出来そうもないと感じていたのだと思います。しかし秘訣はやってみることです。実践から学びます。練習なしには理解する事さえ出来ません。運転の仕方、ピアノのひき方、夕食の作り方、テニスの仕方等を本で知っているだけで語るようなものです。でも練習をする内に段々難しくなくなり、かえって簡単になります。上達の為には度々することが必要です。同時に一回一回に時間をかける必要もあります。このように受け身の祈りで待つ事を学ぶ事は5分間では出来ません。私は“回数を多く、一回に時間もかけてやってみて下さい、必ず上達します”と勧めます。
次回は、この“受身の祈り”をどのように使って聖書を祈るのか、という事について書くつもりです。何故ルカの福音書を選ぶのかについても説明します。
その次の4回を使って、ザカリアとエリザベトの話、お告げ、エリザベト御訪問、イエスの誕生を私がどう祈るかを分かりあうつもりです。その後で、この祈り方についてもう一度説明したいと思っています。
この祈り方を習いたいと思っている人達に勧めます。末月までの間に私がここで言った事を実際に体験してみて下さい。“受け身の祈り”をする時間を決め、それからあなたの日常生活の中で、あなたの歴史の中で、また例えばあなたの庭の中など自然の中で、神様がどのように働いていらっしゃるかをもっとはっきり見せて下さいと頼んで下さい。あるいはあなたは私の経験について読む前に、ルカ1章、ザカリアとエリザベトを祈ってみたいかも知れません。もちろん何回でもやってみて下さい。
堅信の喜び
M.Y.
私は1歳の時に幼児洗礼を受けました。以来、日曜日には両親と共にミサにあずかることが習慣となりました。この頃、ミサの間には祭壇の上の十字架をじっと見上げ、イエズス様の受難を思い、赦しに心から感謝していたことを覚えています。祈り、感謝することが当たり前の、素直な信仰を持っていた時期でした。
ところが、中高時代は学校や受験に気をとられ、それまでの信仰を心の奥深いところにしまい込んでしまったまま、あっという間に過ぎていきました。
その後希望の大学に入学すると、私は母校、湘南白百合学園にご挨拶に伺いました。今振り返るとそれが、私の信仰生活の一つの転機だったと考えています。希望の大学合格を報告すると、「良かったわね、頑張ってきたから神様が道をつけて下さったのよ」とのお返事を頂きました。この言葉が胸に深く刻み込まれました。私が望んだ道を歩けているのは、自分の努力だけではない、神様のお導きに他ならないのだ、と。
とはいっても大学時代はまた、教会から遠い日々が続きました。
その後、もう一つの転機が訪れました。昨年、私は病気に罹り、一時的にではありますが死を覚悟しました。とても辛い時期でしたが、数々の信じられないほどの幸運に恵まれ、沢山の方々のお祈りを頂いて、最善の結果で乗り切ることができた時、私は再び先程の言葉を思い出しました。「神様が道をつけてくださった」のだ、と。長い道のりではありましたが、この時、幼児洗礼以来の信仰を、本当の意味で確認することができたと思っています。
堅信を受けるため10年ぶりに教会に入り、子供の頃たくさんの祈りを抱えて見上げた十字架を再び見上げた時は、涙が溢れてくるのを止めることができませんでした。堅信のミサの時の司教様のお話のように、私もこれからは「イエズス様を中心に集う」教会の一員でありたいと思っています。
最後に、神様のお導きにより6月、結婚することになりました。これからどんな時も、神様が「道をつけて」下さったものと受けとめて、その道の上を歩いていきたいと思っております。
堅信式を終えて
藤沢1区 岡田
僕は、「けんしん式」と聞いた時に「献身式」とは、神様に身をささげる式だと理解していましたが、講座を受けるときに場所を示すホールの文字の下に、「堅信の準備」と書かれているのを見て、「献身」ではなく「堅信」だったのかと思い、では堅信とは一体何なのだろうと考えました。
その後、ボーイスカウトのキリスト教章を取るための講座で、信仰宣言とは神様と、その子であるイエス・キリストを信じて尊敬の念を示すものだと習い、「あっ、堅信式の時に信仰宣言を唱えたのは、このことが関係しているのか」と気づきました。堅信式とは神様とイエス様に「あなたのことを心から信じています。これからもずっとです」と示す式だったのかと知ることができました。
堅信式を終えて、より一層、神様に近づくことができたと思います。
これからも更に神様にちかづいていきたいです。
教会の遠足
藤沢2区 根本
5月31日(水)皇居『東御苑』に行って参りました。
多くの方が知っているようで知らない、又、話には聞いているけれど行ったことがないと言われている場所で、この際皆で訪れてみようと、行き先を決めました。
当日は、今にも雨の降りそうなくもり空。又、集合時間の頃には、人身事故により上り電車が遅れているとのアナウンス。どうなることやらの出発でしたが、東京駅にはほぼ予定通りに到着し、お花の美しい庭園を散策しました。途中では、青梅を(あくまで下に落ちていたもの)拾いおみやげにしました。
今回も「教会の遠足」ということで予定しましたが男性の参加がみられず残念でした。
ボーイスカウトデー、バザーに寄せて
団委員、バザー担当平井
早朝から恵みの雨に見守られながら今年のバザーテント設営が、教会の皆様、団委員長、隊長、リーダー、スカウト達の掛け声が飛びかう中で、無事出来上がり感謝の気持ちでいっぱいです。また、保護者の皆様も雨という不安を抱えながら朝早くから準備に走りまわって下さりありがとうございました。雨だからこそ「がんばるぞ!!」というエネルギーが不思議に湧いてくるように思えるのは、私一人だけでしょうか。一方、スカウト達はいつもの活動より足が地についていないようにも思えましたが、声を掛けあいながら作業している姿は見ていても楽しくなりました。1ヵ月前から着々と準備して参りましたバザーも、今年で何回目になるのでしょうか?.藤沢16団、25周年の道のりは、スカウトバザーの道のりでもありますが、バザーという行事の流れの中に様々な出会いがあり、人間模様があり、いろいろな空気があり、この流れが教会とのコミュニケーションの場になっている事を思います。皆様がいつも明るく、楽しく参加している事で、スカウトバザーが支えられているのだと思います。バザーは主にキャンプ費用捻出の目的で行われていますが、団員の増加にともない運営も厳しい状況にあり、備品などの購入にも役立てております。
雨も影響してか今年のバザー目標額には残念ながら達しませんでしたが、多くの方々に足を運んでいただきました。感謝!感謝です。7月末のキャンプ迄にはまた、ミニバザーを何回か行う予定でおります。終りになりましたが、スカウト・バザーのために不用品、手作りクッキー等多くの方からご寄付をいただきありがとうございました。また、いつもご協力下さる神父様はじめ教会の皆様に心から感謝申し上げます。
いつもいつも奉仕の心を秘めながら活動していきたいと思います。
北1、北2ブロック黙想会
六会 日野水
6月3日、緑濃い鵠沼アトンメント黙想の家で、ティム神父様をお迎えして、北1、北2ブロック合同の黙想会がございました。
「御ミサについて、御聖体について」
母親が家族への思いやりと愛情で作る食事に対して、家族は心からその努力に感謝し、父親が朝早くから夜遅く迄、苦労し、悩み、汗して今の厳しい時代にお金をかせいで来る、その努力に家族が心の目で見て感謝する。このお互に感謝し合う食卓は、体の為だけでなく、心の糧にもなります。イエス様の食卓に招かれた私達との繋りに似ています。イエス様の深い愛とご苦労を、私達も心の目で見て感謝します。神様との良い繋がりは他人との繋がりでも同じです。外見上私は御ミサにあずかっていますが、本当に神様と繋がっているでしょうか。
神の食卓において、御聖体はイエス様が、ご自分の御体として私達の為にご生涯をかけて準備された食物です。ただのおせんべいではありません。信者はこれを心の目をもって見て、イエス様が、どんなにユダヤ人や、ファリサイ派の人達と論争され、誤解され、苦しまれたか、それから逃げないで、最後迄、ご使命を完うされたか、その愛を心より感謝してご聖体をいただいているでしょうか。南米の人種問題で苦労され犠牲になられた弁護士さんの話も例にとられ、権威や、既成概念との闘い、その時代の人々に理解される事の難しさも話されました。
午後は、ヨハネ6章1節ー69節迄を各自で読み黙想し、午前中のお話を心にとめて、ごミサにあずかりました。お茶の時に、ティム神父様のご家族のお話や、召命に応えられた前後のお話をうかがい、思いやりのある素晴らしいご家庭である事が分かりました。
終りに、今日の為に前々より心のこもった準備をして下さった皆様に深く感謝申し上げます。
聖体奉仕派遣式
六会 日野水
6月11日、聖霊降臨の主日に、聖体奉仕派遣式がありました。
ごミサの最後に8名の奉仕者が、それぞれのピクシスにご聖体を入れて頂きました。そして、ご病人の待つご自宅へ、老人ホームへと出かけて行きました。
病気でごミサに来られない方達にも、「いつも心は共にあります」という教会の皆様の気持を伝えに行くのは、本当に大切な事と感じながら、少しでも早くと車を走らせました。
老人ホームに着いて「教会からきました」とお部屋を訪ねますと、本当に嬉しそうに体を起こされ、「今日は聖霊降臨で・・」と話かけますとそうでしたか、と何度も何度もうなずかれていました。お祈りをし、お話をして、共に静かな時を過ごすことができました。1年程前に、初めてご聖体を持って行った時は本当に私がこんな事をしてもいいのだろうかという不安でいっぱいでしたが、皆さんの豊かな人柄や、信仰心にふれ、私の方が励まされて来たように思います。帰る時、「教会のみんなで祈っています。早くお元気になって下さい」と伝えますと涙ぐんでおられました。ご病人の上にお恵みがたくさんありますようにと、祈りながら私も温かい気持ちでいっぱいになって、家に帰る事ができました。
「壮年部歓迎会」についての報告
藤沢1区 古沢
6月11日(午前11時20分〜12時30分)に、壮年部の新入者歓迎会が教会センターホールで行われましたので報告します。
私は今年の復活祭の徹夜祭で受洗した新人ですので、全てが初めてで状況が良く分かりませんが、昨年5月からの大泉仁さんによる入門講座を新部長の窪田さんと一緒に受けていた関係で、会が終了してからこの報告書を書くように言われて仰天しました。招待されたからには受けざるを得ず、不適切な表現があった場合はご容赦をお願い致します。
副部長の浮田さんの司会進行で、窪田さんの挨拶と壮年部の概要説明、テハン神父様のご挨拶、委員長の牧野さんのご発声による乾杯の後、暫くの歓談(ビール・ワインと弁当の食事)の時間があり、新入者紹介(目標2分ずつの自己紹介)、今年度活動計画の説明、最後にテハン神父様のご挨拶と比較的短時間にしては内容は盛り沢山な会でありました。
テハン神父様のご挨拶は、大聖年に当たって多くの新入者を迎えるのは意義深いこと、教会の地域との繋がりを維持していくには壮年部の活動に負うところが大きいこと、男性は一人になると危ない?ので同じ信仰を持つ人達が友達になり親睦を深めるような活動を期待すること等でありました。
今年の新入者は、転入11名、受洗7名でしたが、参加者9名の自己紹介で、いろいろなタレントを持っておられる方が多いことが分かりました。
部長としては、今年の活動計画も盛り沢山ですが、先ずは8月5日のガーデンパーティーを自分の予定表に書き込んで是非積極的に参加してほしいこと、イベントに追われないように皆さんのご協力を得て活発にやりたいことなどの抱負が述べられました。
これを受けてのテハン神父様のご挨拶は、皆それぞれの賜物を受けているのでそれを生かして欲しいとのお話でありました。
今回初めて参加させていただいて感じたことは、いわゆる懇親の時間が殆どなかったというのが正直な印象です。すぐ隣に座られた方とは話しましたが、ブロック内でも他の人とは話す時間がありませんでした。皆さんそれぞれご多忙な為、止むを得ないかとは思いますが、・・・。
ゴスペル・ミサ
湘南台 荒井
まず初めに、ゴスペル・ミサを準備する私達に絶大なるお力添えをして下さいましたテハン神父様とティム神父様に心から感謝致します。そして、私達青年兄弟姉妹を陰で支え、偉大なる助言を与えて下さいました典礼部の浅野さんにも感謝しなければなりません。我等が浅野さんに対する尊敬の念は、全く止むことを知らないのです。この方のアドヴァイスがなければ、実際ゴスペル・ミサは成り立たなかったでしょう。そして、神父様という絶大なる権威を持ちながら、それを周りに感じさせず、十年来の親友の如く、否本当の兄のように私達に接して下さいましたティム神父様は、ゴスペル・ミサの日程決めや、冊子の印刷及び折り込み作業等裏働きを快く引き受けて下さいました。
本当に、このような事まで神父様にしてもらってよいのか!と、お叱りの言葉が聞こえて来そうですが、神父様の折り込み作業の早い事。顔や余裕ですが、その下の指先は獲物を狙う鷹の如く、大胆にして鋭い動き、しかしその作業の正確さといえば、スイスの時計職人顔負けでございます。ゴスペル・ミサを行うにあたり、テイム神父様に総指揮の采配を振るって頂きました。本当に有り難うございました。また、かけがえのない私達の家族であるベイブさんを初めとしたフィリピノクワイヤーの皆さん、彼らの力なくしてはゴメスペルソングは一曲も演奏も歌うことも出来ませんでした。これを機に、私達はこれからもずっと一緒に歌を歌っていくことを、熱く誓い合いました。仲間を募集中です。また私達を広い心で見守って下さった藤沢教会のみなさま、皆様と共にゴスペル・ミサにあずかることをお許し頂けたこと、心より感謝し、神を賛美致します。そしてなにより、ゴスペル・ミサの火付け役であり、藤沢教会の主任司祭であるテハン神父様の革命的なお考え、またそのお力添えがなければ、あの日、やはり何も起こらないままでした。お許しが頂けるならば、またいつかゴスペル・ミサを行いたいと思います。全ての出来事を心から神に感謝して。
ルワンダへ愛をこめて
山野井
ルワンダで義足を作っている吉田真美さんを支援しようと、6月11日青年会主催で現地活動報告会を行いました。
短い時間でしたが、地雷などで足を失った人たちに義足を提供するだけではなく、義足により、自分達の力で立ち上がった彼らを、自分達の力で生きる第一歩を踏み出すため、彼らの自立を助けたいという、活動の内容と、今ルワンダで起きているさまざまな問題を通して、私達に理解と協力をしてほしいと、お話くださいました。私はこのルワンダに限らず、困っている人や貧しい人たちに、何かしてあげたい、と思ったとき、とにかく力を貸してあげる、援助してあげる、という傲慢さがいつもありました。
しかし、今回吉田さんの話を聴いてそのような気持ちは決して持ってはいけない、間違いだと気がつきました。
これからどのようなかたちで私達青年がルワンダで活動している吉田さんを応援できるか模索中ですが、真心をこめて、協力し合い、支え合い、愛し合って、つながってゆきたいと思います。
2(日)鵠沼ブロック集会
7(金)初金ミサ・例会
13(木)環境科学センター見学(平塚)
22(土)教会学校デイキャンプ
30(日)幼児洗礼9時30分ミサ中