八 角 形 に ゅ ー す
2000年8月6日
聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会
「目覚める」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・主任司祭 トーマス・テハン神父
ルカ福音書を祈るシリーズ(2)“受け身の祈り”を使って聖書を祈る・・・・・・・・・・・・・・M・ハンラティ神父
教会学校デイキャンプ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・企画担当リーダー 川辺千佳子
鵠沼ブロックの集い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼2区 小藤 晃
藤原さんのお話について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂2区 宮内 毅
「キリスト受難劇」観賞と聖体行列の旅に参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢1区 高野 修
労働は祈り・総務部の紹介・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・総務部長 高柳栄一
「目覚める」
主任司祭 トーマス・テハン神父
アイルランドの北西の湖の中にある聖パトリック煉獄で、6月31日から7月2日まで3日間の巡礼に参加しました。私の生まれた町ナノヴンから24人と一緒でした。出かける前に天気予報を調べたところ雨天でした。雨が降り、夜になると寒く、そうすると聖パトリック煉獄は地獄になります。何故なら、そこでは履物を脱ぎ、はだしで濡れた岩の上を歩くので足を滑らす心配があります。そう考えれば考える程、巡礼に出掛けるのを躊躇しましたが、その考えを止め、神に委ねて皆さんと一緒に出発しました。昔のアイルランドの田舎道は大変でした。しかし今は良くなり、目的地にはとても早く到着しました。バスの中でロザリオの祈りを3環、つまり喜び・苦しみ・栄の奥義を唱え、唱え終ったころ着きましたので、皆びっくりしました。24回目の方は、朝10時半頃湖の船着き場に着いたのは初めてだったと言っていました。
雨も降らずいいお天気でした。10分位船に乗り、聖パトリック煉獄に着きました。そこの神父様から歓迎の挨拶を受け、受付で説明書を頂き、荷物を置き、いよいよ巡礼の祈りが始まります。まだ人が大勢ではなかったので、岩の上を歩くことも、岩の上に跪くことも楽だったと皆が言っていました。私にとって岩の上に跪くことは苦しかったでした。きっとこの体験から煉獄と名付けられたのだと思いますが、よく当たっていると思いました。勿論3日間断食しましたが、私にとって大変とは思いませんでした。少し痩せたらいいなーと思いましたが、かえって少し増えてしまいました。断食といっても、一日一回だけは何もつけないトーストを食べてもよかったのです。最初の日は皆よく食べましたが、その後はあまり頂きませんでした。巡礼の中心は、始めの日の夜10時から翌日の夜10時まで徹夜することです。ある人にとって徹夜するのは難しいことですが、殆どの人は問題ありませんでした。夜中皆と一緒に祈りました。間によく休憩がありました。2日目の朝のミサ中、特に神父様の説教中に負ける人が増えてきました。その日も天気が良く、外で座るのは部屋の中よりも気持がいいのですが、背中を伸ばさないとすぐ居眠りが出ます。私は毎日瞑想していましたので、自然にその行動に入ることが出来、隣に座っている人々と話をし、深い交わりが出来ました。
目覚めることの大きな妨げの一つは、考えることだと思います。目覚めることは心の持ち方と、リラックスした精神からの反応だと思います。聖パトリック煉獄の2日目の素晴らしい体験は、3日目の皆さんの輝いた顔を見るとすぐ分かりました。
瞑想者ヨハネ・メーンによると、沈黙と動かないこと、単純に考えること、この3つのことを通り、心の世界に入ることが出来ると言っています。目覚めるということは、そのところから生活をすることだと思います。
聖パトリック煉獄は、一千年前より伝わった知恵のある伝統です。これは天国への道を歩むためよりも、現代を生きるために役立つ方法の一つではないでしょうか!
1.「新生の明日を求めて」第1部を読んだ感想(宿題)の分かち合い
掲記の本(第1部)を読んだ感想を各委員が一言ずつ述べ、分かち合いをした。具体的なことが分かりやすく書かれている、谷間に置かれた人々の心を生きる教会へというところに共感を覚えたという感想が多かった。
2.委員会に関するフォーラムと一人一役運動について
教会委員会に関するフォーラム準備会は7月23日(日)9時半のミサ後、聖堂側室で開催します。この件は原点に帰って議論を始めた方が良いと考えます。準備の方は、壮年部で議論を重ねていますが、委員会としても片桐副委員長にお願いし、藤沢教会の未来を考える会がまとめた4つの教会像、横浜教区が目指すもの、大阪教区の求めていく教会像、NICE1の3本柱を土台にして準備をしています。
一人一役運動の準備会は7月16日(日)9時半ミサ後、開催の予定で、事務局の試案として、日を決めて各活動部に説明会を開催してもらい、勧誘することから始めることも考えている。これ等のことを踏まえて、もっと良い提案が出ることを望みながら、明日の準備会に臨みます。
3.ガーデンパーティ、バザーについて
8月5日のガーデンパーティ準備状況について、中心になっている壮年部の浮田氏から説明がありました。午後5時から国際ミサで、5時45分〜8時までパーティです。今年の国際屋台村の参加は韓国、ペルー、ベトナム、アイルランド、フィリピン、婦人部、壮年部、中高生会です。各国料理の手伝いや当日の会場準備の声掛けを宜しくお願い致します。
10月22日のバザー準備進行状況についてバザー委員長の荒井康昌氏から説明がありました。6月18日以来バザー委員会を3回開催し、着々と準備を進めています。荒井氏からバザー委員会の教会内における位置付けおよび聖堂の使用の可否について問題を提起され、検討しました。バザーは、ガーデンパーティと同様に信徒の自主的な活動であり、バザー委員会は独立した組織で、教会委員会の下部組織ではないが、全教会的な行事であり、教会委員会としても責任を取らなければならないと考えています。聖堂の使用に関しては、バザーは商売ではない、現聖堂の設計時の趣旨、バザーの時には祭壇はブロックしてある等の理由で問題がないと考えます。主任司祭も、皆が同じ方向を向いて一つであるという印象が残ることが大切であるが、聖堂を使わないとバザーの纏まりがなくなること、また祈りの場を広い意味でとらえ問題ないと考えています。今年のバザーのテーマは「大聖年喜び感謝そして希望のバザー一人一人がキリストと出会う日」と決まりました。食堂関係の細かいことを引き継ぐため、次の担当の鵠沼ブロックから1名参加してもらうよう要請がありました。
4.地区割り検討小委員会報告
配布された6月18日開催の掲記小委員会議事録を基に事務局長から説明がありました。第1回目の会合なので、現状の把握とブロック制度の将来への提言を踏まえた検討を行ったとのことであります。その中で教会委員会への提言として次の二つがありました。
(1)ブロック長の合同ミーティングを定期的に開催する。
(2)ブロック制度を継続させるべく「リーダ」養成の方法を検討頂く。
ブロック長の合同ミーティングは鵠沼ブロックの小藤氏が音頭を取って早速8月から毎月開催されることになった。
5.第5地区合同巡礼について
7月2日の準備委員会で典礼案が決まったので大野委員から報告がありました。10月14日のミサのテーマは「派遣」と決まりました。奉納行列、共同祈願、侍者は各教会から1名ずつ出てもらうことに決めたが、共同祈願は長すぎるという意見があるので検討します。献金はなしということになりました。原宿教会を通して手話ができる方がミサに参加します。9月17日の打合せ迄に各教会の参加人数を把握することになっています。名札は典礼部で用意しますが、教会によって色が違い、藤沢は黄色です。藤沢教会の各ブロックでコースの案を幾つか作って8月のブロック長会議に持ち寄り、検討します。足が不自由な方がおられたら車を用意したいと思いますのでご連絡下さい。
この巡礼を大聖年の記念として子供の心に残したいので、交流のプログラムの中に子供のためのプログラムを用意して欲しい。この件を再度交流担当の大船教会に申し入れ、大船教会で準備できないようであれば藤沢教会で準備することにして連絡を取ります。
6.センター集会室内装補修他営繕関係
集会室内装備の修理をやろうということで動き始めています。壁紙は集会室を使っていない夏休み内にやりたいので、業者に早急に見積もりを出して貰って始めたい。
7.その他
8月13日(日)午後3時から山手の司教座教会で神奈川県のための大聖年の司教ミサが行われます。
8月19日(土)午後2時から善行のナザレン教会で平和にための合同祈祷会が行われます。
ティム神父様は7月15日から1ヶ月位休暇です。その代わりブライアン神父様がしばらく来られます。
ハンラティ神父様は7月19日から9月位まで休暇です。
福祉部からの希望として、ミサ中に前の方で具合が悪くなる人が多いので、案内の人は前の方にも2人いて欲しい。ミサの雰囲気を壊さないように左右の上段前方最前列に着席していたら良いのではないか。
“ルカ福音書を祈る”シリーズ(2)
前置き“受け身の祈り”を使って聖書を祈る
M・ハンラティ神父
ルカ福音書を使って聖書を祈るシリーズの2回目です。初めの2回は前置きで、聖書をどのように祈るかを説明します。
聖書を祈る習慣は、大変実り豊かな霊的習慣です。教会の中で一般の信者達の間に根付きつつあります。これによって多くの人々が、キリストの弟子である事をより意識して暮すように導かれ、その価値を見いだしています。この習慣によって聖書は、日常生活をもっとしっかり道案内してくれるようになります。これを実践する人達がもっとよく神様を知るように、もっとよく祈るように、もっとイエスに近づくように助けます。更に他の人達をイエスに近づけるようにも、彼らを導きます。
この習慣は誰にとっても役に立ちます。男性か女性か、年をとっているか若いか、古い信者か新しい信者か等を問いません。私は中年を過ぎてから始めて、しっかり身につけた多くの人達を知っています。彼らはその価値を体験し、今では他の人達を助けてもいます。若い人達にも“ピッタリ”だと思います。洗礼の準備をしている人達、彼らに教え彼らと分かち合う人達、また教会一致運動に携わっている人達等にとっても役に立ちます。
聖書を祈る為に“受け身”で祈れる事が必要です。それで第1回で“受け身の祈り”について説明しました。改めて要約すると、受け身で祈るとは祈りの時間をつくって、その中で意識して待ちます。神様が私達の生活の中でどのように働いていらっしやるか、見せて下さるのを待ちます。それから神様がご自分の仕事に参加するように私達を招いて下さっていること、それに私がどう反応しどう応えているかを神様が見せて下さるのを待つのです。
今回はこの方法を使って、どのように聖書の箇所を祈るのかを説明します。
聖書を祈ることは聖書研究とは違います。両者の間には重要な違いがあります。聖書を祈る為には、あなたが今もっている聖書の知識だけで充分です。聖書研究は助けになりますが、必須のものではありません。
祈る箇所を選ぶ(慣れるまでは、人々の間に動きや相互作用の多い箇所の方が、祈りやすく実りも多いです)
それから今どの位の時間をかけて祈るのかを決めます(私は決めた時間を固く守り、時間いっぱい、忠実に続けます)この祈りが展開するには時間がかかります。時間が短か過ぎては出来ません。
それから自分自身を手短かに、正直に見つめます。今この瞬間に私が望んでいることは何ですか?私は何に心を引っ張られていると感じていますか?今この時に強く私の気を引いている何か、例えば忘れられない何かとか、脇に置いておけない何かがありますか?それは問題ですか、誘惑ですか、または望みですか、喜びですか、それとも恐れですか?今この時の自分の機嫌、状況はどんなですか?私は今嬉しいのか悲しいのか、生き生きしているのか疲れているのか、感謝しているのか怒っているのか等、今現在の自分の状態に気付き認識することは大切なことです。今日、今ここでの私は誰ですか?祈りに来ているのは誰ですか?この“本当の自分”をよく認め受け入れる程、私の心の中に神様に入っていただける空の場所を用意しているのです。ここが今神様に入っていただく為に最も開かれた、今生きている私の場所なのです。
聖書のその箇所の中で、私の今の状態と同じような状態の人に来て下さっている神様に出会いたい、と期待します。私の乏しい場所で神様に出会う為に、聖書のその箇所が橋渡しをしてくれます。例えば“ザカリアとエリザベトの所にいらっしゃったように、今がっかりしている(悲しんでいる、恐れている)私の所へ来て下さい”とか“マリア様がなさったように、今の私の状況の中で私があなたの招きを聞いて応える事ができるように助けて下さい”とか“あなたがマリア様とエリザベトになさったように、私の喜びの中にも来て下さい”等と言います。その箇所が神様の行いと私の乏しい状態との間に橋をかけてくれます。
このような準備の段階を踏んでから、その箇所に向かいます(慣れるに従ってこの準備の段階は自動的に簡単に出来るようになります)
その箇所を見つめて、聖霊の働きに導かれるよう忍耐して待ちます。ここが“受け身の祈り”の出番です。何かの言葉に注目させられ、その言葉に捕まってしまうかも知れません。その言葉を自分の内に取り込もうとでもするように、その言葉を繰り返し続けます。それは私が新しい目で見ることが出来るように助けてくれます。そうして見せて戴いている事に自分がどう応え、どう反応しているかに気付き始めます。私から引き出されてくる気持や、心の姿勢に気が付きます。それから更に他の言葉や他の気持、他の心の姿勢へと導かれていくかも知れません。
想像へと導かれるかも知れません。その光景にどんどん近づいていきます。細かい所まで鮮明に見えてきます。その箇所での神様と人々との触れ合い、交流を見て感動します。そのうちに私もその場面の中に入って、誰かと会話し始めるかも知れません。それが私の心を、私の思い方、私の気持を動かす、と気付き始めます。
関係があるとも思えない思い出が、突然飛び出してくる事もあるでしょう。それも祈りにつながっていると思われます。これによって今祈っている私の現在を、新しい目で見れるようになります。
時間いっぱいをどのように充分に使いきるか。気が散ったと気付いたら、今日特別に神様に入っていただきたいと願ったわたしの乏しい所、準備した場所に戻り、そこからもう一度待ち始めます。
何も起こらないように思える時があるかも知れません。神様は正に、信頼と希望の内に待たなければならない状態に私をとり残したまま、完全に不在だ、と思ってしまうかも知れません。しかし何が起ろうと問題ではありません。決めた時間が終るまで祈りに留まるのみです。好ましく進まない、また何も起こらない“乾いた”日々もあるでしょう。それでも時間いっぱい待つのみです。そして“明日また戻ります”と神様に伝えます。同じように、事がすばらしく進んでいく時もやっぱり予定時間で終りにします。その祈りは私が他の事をしている時にも自然に続いていくでしょう。
祈りの間は考えないようにします。もし疑問が出て来た時には、落ちついてそれを神様に尋ねます(考える事は自分と会話する事で、神様に話し聞く事は祈りです)ですから私は自分で考えていると気付いた時には、その件について神様と会話し始めます。
祈りの時間が終ったら、今度は考えてみる時です。祈りの間に起こった事を振り返り、それが何を意味するかを頭を使って回想します。これは祈りの体験をより深くしてくれます。更にまた次の祈りの為のよい準備にもなります。私はいつも祈り終って間もなく、5分かもう少し時間をかけます。時々私は経験した事、発見した事をノートにつけます。実に聖書の箇所についてこれから書いていく事は、ほとんど祈りの後に書いた私の回想ノートに基づいています。
私は神様との“会話”という言葉を使いますが、私が声を聞くという意味ではありません。しかし神様が私の頭に、特に心にお入れになる事は、神様が私に話しかけていらっしゃる事だと私は信じています。それは祈りの時間の中でいつも起こる事です。何か新しい見方で見たり、新しい信頼や希望、寛大さが私の思い方に入ってきたりします。ついでに言えば、この事は決めた時間の正に最後の最後の瞬間に起る事を発見しています。
祈りの時間内には何も起らない、実りのない祈りだった、と感じる事があるかも知れません。しかし回想の時になって、突然何かの本当の意味が分かり、こうして神様は私に答えて下さっていると感じる事もあります。
それでも尚、何一つうまくいかない乏しい祈りだったとやっぱり感じる時があるかもしれません。が、その日の間に自分でも驚いてしまう位よく行う事が出来て、後でこの新しい力は神様のお答えだったと気がついたりします。
時にはずっとずっと以前にとても苦しんだ祈りの実りを、それから長い時間が経った今戴いている、と感じる事があるかも知れません。そのような場合も、それだけ待つ価値があった!すばらしい実りだと納得します。
私はルカが好きです。沢山の場面が大変躍動的で生き生きしているからです。他の福音史家同様ルカはイスラエルを通して、イエスがいらして下さった事を通して、イエスの弟子達の内に働かれる聖霊を通してすべての人を救われる、という神様の偉大なご計画を先ず教えます。しかし彼はイスラエル人ではないので、主にイスラエル人でない人を意識して書いています。ですからルカはイスラエル人でない私に、少しづつイエスを紹介するのです。ルカは救い主イエスを紹介する時に旧約聖書を要約し、関連づけながら書き始めます。それから弟子達が段々にイエスを知っていき、段々イエスに近づいていき、更に聖霊降臨の為に準備されていく弟子達の旅路を描写します。ですからルカ福音書は、私がどのようにしたらもっとイエスに近づけるか、もっと忠実なイエスの弟子になるよう成長できるかが書かれた手引書、案内本、説明文なのだと思います。そしてルカは正に宣教者で“福音”はすべての人の為だと強調します。ここでの私達の状況にピッタリです。
ルカはまた、私がとても必要だと感じている価値を強調しています。その価値とは祈りやゆるしや和解で、すべて望ましい弟子になる為に必要とされる価値です。更にイエスの使命への夫人達の貢献を一番描いています。これは今日もっと認識される必要がある事です。
私はこのシリーズが、少くとも月に数回は聖書を祈る習慣を身につけたい人達への助けになれば、と希望しています。そしてもしその人達が祈りの回想の習慣も身につけるならば、それはもう一つのプラスになるでしょう。また同じ方法で祈ろうとしている人を見つけて、発見した事をお互いに分かちあう事はもう一つの大きな助けとなります。どこかで会ったり、電話や手紙ででも出来ます。グループになれば更によいでしょう。集まる予定を決めておけば決心を守りやすくなるでしょう。他の人の話をよく聴く事や、分かちあわれた事を尊敬をもって扱う事を学ぶ助けにもなるでしょう。
後で、皆様がこの祈りを実際にやって、いくらか経験なさってから更に説明を加えるつもりです。練習していく内に簡単な事だと思えてくるでしょう。このエクササイズの時間を見つける事も簡単になるでしょう。
次回、第3回はルカ1章ザカリアとエリザベト、そして洗者ヨハネの誕生の所です。読む前にもう祈ってみたい事でしょう。同じ箇所を何回でも繰り返し祈って下さい。そのつど結果が違います。
教会学校デイキャンプ
企画担当リーダー 川辺千佳子
夏休みに入ってすぐ7月22日。土曜学校、日曜学校の子供達50名と一日を一緒に過ごしたい。そしてもう一つ、1年生の保護者の方々の交流を求めての行事デイキャンプが行われました。
暑い日で大変です。事故のないよう無事を祈って朝10時30分教会をスタート、家の人達に見送られて、1年から6年、12〜14名のグループ4つ、リーダーは2人づつです。10時51分の急行にのり、大和の泉の森に向かいます。昼食はキャンプ場でおいしいお弁当を涼しい風の中でいただきました。夕方5時に教会、おいしいカレーのにおいいっぱいの中帰ってきました。
このキャンプの一番の楽しみは(子供?リーダー?)夕食。外で机とイスを並べて下さったお父さん方に感謝し、朝から支度して下さった方々、また協力いただいた方々のお陰で、キャンドルサービスも無事に終り、一人づつよかった事をいって終了。子供の感想文のすごさに大成功を感じています。ではごらん下さい。感想文です。
3年 多田まゆ子
今日は、デイキャンプで、泉の森に行きました。そして、おべん当を食べてから、川で水あそびをしました。
私は、ズボンがびしょびしょになってしまいました。それに水がとてもつめたくて、足がこおってしまったようで、思うように、うごきませんでした。
そのあと、少し歩いて、しらかしの家に行きました。中には魚やザリガニがいました。ザリガニは大きいのや、小さいのがいました。そのあと、ローラースベリ台であそんでから歩いて帰りました。
みんなでお話をしながら歩いたので、ぜんぜんつかれませんでした。
このことは、ずっと、ずっと、わすれません。7月22日(土)
4年 はしづめゆうき
7月22日土曜日気温32〜33度はれきょうは、デイキャンプでふれあいの森でローラースベリ台をしました。
ローラースベリ台はわたしが思っていたよりとても長かったです。最初は、ゆうこちゃんとすべって、次に一人ですべりました。3回目には、4人でゆうこちゃんとまさこちゃんとゆきこちゃんとのりました。一人でのった時よりも、とてもスピードがでたのでとても楽しかったし、すずしかったです。
鵠沼ブロックの集い
鵠沼2区 小藤 晃
昨年度まで鵠沼ブロック委員をつとめておられた窪田直明さんからバトンを受けて初めてのブロックの集いを7月2日(日)9時30分のごミサのあと11時よりセンターホールで開催しました。今回の集いは昨年7月以降鵠沼に転入された方、洗礼を受けられた方の歓迎を兼ねた集いということでカレーパーテイになりました。ハンラテイ、テイム両神父様、転入者7人、新受洗者6人を含む約60名が出席し、和気藹々、賑やかに行われました。
60名近い方々が参加して下さったことは出席者数を事前に把握せず、60人分のカレーライスしか用意していなかったことということからみるとよかったなと思う反面、20歳以上の信徒数で600人超、世帯数でも380数世帯の鵠沼ブロックの集いとしてはもう少し多くの方が参加されてもよかったのではないかな、と反省もこめて思っています。
さて集いの方はまず今年度の鵠沼ブロック各地区連絡委員、世話役が紹介された後、転入者、新受洗者が自己紹介を行い、夫々前の教会のこと、洗礼を受けることになった動機など披露されました。引き続き、川辺事務局長より藤沢教会の現在とられている『ブロック・地区割制度』の見直しについて説明がありました。現行の制度は1992年より採用されていますが、地区割そのものはそれ以前より存在するものであり、地区、ブロック毎の人口の増減により教会の作業当番制度においてアンバランスが生じてきています。確かに鵠沼ブロック内においても地区により、人数、年齢構成にかなりのばらつきがみられます。従って現行の制度を見直そうということになったわけですが、この際地区割そのもののあり方について、作業当番という観点からではなく『信徒使徒職としての教会活動、地域社会への貢献』という視点にたって見直そうではないかということで、各ブロック2名の代表者からなる検討委員会が発足しました。鵠沼ブロックでも今後意見交換をして行きたいと考えています。
このあとじっくり煮込まれたカレーライスを食しながらの懇談となり、午後1時前散会となりました。前日から準備して下さった方々、また当日お手伝いくださった方々有難うございました。紙上をお借りしてお礼申しあげます。
最後に、今年度の鵠沼ブロックの活動のキーワードは、『ともに=協働』です。どうぞよろしくお願いいたします。
藤原さんのお話について
辻堂2区 宮内 毅
7月2日の9時30分ミサ後聖堂側室で、神山復生病院の藤原さんのお話を聴きました。
藤原さんは昭和20年に、ハンセン氏病の療養所に入られました。当時は、ハンセン氏病に関する正確な知識が無く、遺伝性で不治の伝染病だと思われていたそうです。そのため「身内にハンセン氏病患者がいる家には嫁が来ない」といわれるぐらい、ハンセン氏病患者の家族は社会から偏見に満ちた目で見られていたのだそうです。ですから患者の家族は、身内に患者がいることを必死になって隠そうとし、患者と連絡を取ることすらしなかったのだそうです。療養所に入ってから藤原さんが一番苦しまれたのは、周りの若者達が次々と自ら命を絶たれたことだったそうです。彼らは自分という存在が家族や社会から必要とされていない、それどころか家族に迷惑を掛けているという意識に苦しんでいたのです。藤原さん御自身もこのような意識に苛まれ、大変苦しまれたそうです。
昭和29年、藤原さんは神山復生病院に移られました。移られてすぐに結核にかかり、死の境をさまよわれたそうです。結局、復生病院の職員の方々による献身的な看病によって回復され、この経験がもとで洗礼を受けられました。そして、今も復生病院で生活していらっしゃいます。
こうした経験を踏まえての、藤原さんのお話はとても心に響くものでした。その中でも特に強調されたのは、よく考えれば考えるほど今の自分は恵まれた状態にある。だからこの恵まれた「今」を精一杯生きることが大事なのだ、ということでした。また、自分の知らないところで自分を愛してくれている人がいる、そういう人がいること、そういう愛があることを感じることが出来るようになりたい、ということもおっしゃっていました。その他にもいろいろなお話をして下さいましたが、どれも深い洞察力と鋭い感受性にあふれたものでした。聴く人に、大きな力と慰めとを与えてくれるすばらしいお話でした。
「キリスト受難劇」観賞と聖体行列の旅に参加して
藤沢1区 高野 修
ドイツ南部のオーバーアマガウで、キリスト受難劇が過去350年間にわたって、10年ごとに上演されることは、かなり前から知っていたが、今年は2千年という記念すべき年でもあり、是非にと思っていたところ、ジョン・バーガー神父企画のツァーに参加することができた。
会場は受難劇に相応しく、野外で上演されるのであるが、観客席は5千人も収容でき、しかも屋根があり雨の心配はない。ただ出演されている舞台に屋根はない。勿論一部には屋根もあるが、基本的には舞台は野外である。小鳥が自由に出演?してくれるのも有り難い。
この受難劇のクライマックスは、やはり十字架上のキリストであり、復活であろう。また最後の晩餐も印象に残った。と同時にキリストを裏切ったユダの心情と首を括る場面は壮絶であった。
今回の受難劇の特徴は、前回までとは趣を異にしているとのことであった。それは今年の復活祭に教皇ヨハネ・パウロ2世が、キリストの「和解」と「ゆるし」を求めて聖地巡礼をなされたことと無縁ではない。受難劇全体を通して、ユダヤ人への思いやりが感じられた。
さらに、今回の巡礼の旅では、ケルン大聖堂前の広場で行なわれた聖体大会に参加出来たことであった。ケルンは前日には、37度を記録したというが、当日はいくらか雲も出て楽だった。私どもは途中で行列を断念したが、バーガー神父は最後まで続けられた。また10年後には受難劇が上演されます。是非参加されることをお薦め致します。
労働は祈り・総務部の紹介
総務部長 高柳栄一
山本有三氏の文章に
「たった一人しかない自分を、たった一度しかない一生を、本当に生かせなかったら、人間に生まれてきたかいがないじゃないか」
とあり、稿を改めて
「たいまつもローソクも灯台も、輝くため燃えなければ使命を失う」と言って、これから体ごとぶつかって羽ばたこうとしている少年少女にエールを送っています。
この教会で、この仕事をしてみよう!
これが、当教会の総務部員の職掌であり、すべてのワーキングの原点です。
しかもというか、当然というべきか、ワーキングの役割分担は色々ありますが、総務部員の構成は、教会委員長をはじめとして、小さな子供たちを含め、この教会に属する信徒全員ということになります。そのくらい、ボランタリーに徹した、あなた個人の力が、どうしても必要なのです。
だけど「ボランティア!」といって構えないで下さい。考える、知る、伝える、ことからボランティアは始まるのです。
10数年前、壮年部の中で、教会の力仕事に毎週、汗を流していた人々が“労働は祈りだ”といいました。
そしてその思想背景を肉付けして、理念をふえんし、LEOというグループを組織し、自ら率先して、3K(キツイ、キタナイ、キケン)の仕事を請負い、労働を「喜び!」に変換した人が、この教会にいます。また庭木、植栽に関する教会敷地内の年間植物管理要綱を定め、誰にたよることなく、独りで、毎日、黙々と修道者のように庭の“防人(さきもり)役”を務めている人もいます。彼らは自らの「分」をわきまえており多言を拒否していますが、我々と同じボランティアの一員なのです。ただ一見、プロに近いボランティアに見えますが、彼らにとっては積年つちかった“経過”の一つが今の仕事を補っているに過ぎないのです。近い将来、もっと別な一面を教会の皆さんの前に提示する筈です。ご期待ください。
ボランティアは、いつも次のことを考え、そして次の人々に伝えます。そうです。次の人は、その次の人々のことを考えて、沢山のことを伝えるのです。行動したり活動することも重要ですが、知る、考える、伝えることの機微に長じるのが先のように思います。
手を借りたいのでは?やさしさが欲しいのでは?あれは何かの信号ではないか?と思うことが一日に何度もありますが、どう対処していますか。気遣い、思いやりの“こころ”よりもまず行動です、勇気です。
教会は祈りの場、離合集散(カタイか?)の場ともいわれ、融和、やすらぎ。出会い、平和、めぐみ、友愛、もてなし等の場ですが、その前に「自分の家」です。雨も風もあり、汚れるし、養生も必要です。聖堂、カトリックセンター、司祭館。みんな毎日つかいますが、お掃除は使った人々、つまりあなたの担当です。神父様、教会のスタッフ、教会委員の方々は掃除夫や管理人ではなく、それぞれ毎日、重要な仕事をしておられますので貫通作業は出来ない訳です。教会の仕事は常にそうですが、補う仕事がほとんどで、終りが見通せず、スッキリといきません。(だから良い!)祈り、労働し、御父のことを勉強するという三つ巴を以て、社会を解放して行くという心がまえに変わることなく、人知れずキラリと光って生きるすべとして、しっかりと自己を見つめ(観想)ながら、手ごたえのある日々を送りたいものです。
末尾ながら総務部の業務を列挙してみます。営繕関係聖堂/センター/司祭館植木・庭整備植栽・高木剪定・伐採教会行事への積極的参画バザー/ガーデンパーティ/市民クリスマス/湘南台センター諸行事/他の活動部との連帯推進総務主幹業務クリスマス飾り付/聖堂内・カトリックセンターの整備清掃/庭の整備環境問題・防災・救命・危機管理などの情報収集と問題点、苦情受付、その他
教会のあり方を考える フォーラム準備会報告
フォーラム準備会を開くにあたって
今年度の信徒総会に於て、教会委員会の現状に合わせた規約改定の意見が出されました。この問題は教会運営全体に関わる大切なことなので委員会内で決めるのではなくフォーラムのようなものを設置して話し合ったらどうかとの提案があり、それを受けて今回の準備会がもたれることになりました。
参加者の発言から
目標の実現のための運営面での問題として非営利組織のマネージメントをもっと考慮すべき。教会の中のすべてを見直す作業が必要なのではないか。
教会運営の中心は委員会だと思う。行事の消化に追われるだけでなく、長期的なヴィジョンや教会のあり方を考える場が必要。それを教会活動の活性化に結びつけていくべきだと思う。
今ある問題を一つ一つていねいに考えていく。私たちには導きの灯火があるのだから。
規約のみを考えるのではなく、もっと広い範囲で捉えていきたい。 勉教会も必要だと思う。
地区同志、また各グループ相互の自由で気軽な交流が必要。
今は組織が少し複雑。ブロックの中に活動部が入るような形にならないだろうか。壮年、婦人という名称や枠についてもよく検討していきたい。
自分自身の信仰を見直す必要を感じる。
規約に忠実にと思っても、運営上現実に合わない点がいくつか出てきてしまう。
教会のあり方を考えるところから委員会の形ができてくると思う。 委員会は信徒一人一人が造るもの、という意識の転換が必要。
ヴァチカン公会議をベースにしたしっかりした考え方が必要。
<教会の未来を考える会>から出された4つの教会像は素晴しいが、具体的にはなにをどうしていくのか。
藤沢教会にはホームレスや外国の人々の問題、高齢者の問題等、考えるチャンスがたくさんある。パワーもある。自分の教会のことだけでなく、広く他の共同体の動きを知るためにも霊的な柔らかさが必要。
テハン神父の発言から
教会のあり方や未来を考える場合にともすれば小教区中心主義に陥りやすいが、そこから脱却してもっと広い視野をもったものであるように。
信徒一人一人がそれぞれの使命に気付くことが挑戦の一つ。
全世界で、日本の教区で、教会で対話的交流が始まっている。新しい意識が必要。教会の行事や研修会はこれを深めるためにあるとよい。聖霊の導きを祈りながら。
これからの取組み
すでに蒔かれた種がある。乗り越えなければならない様々な問題の中から私たちの新しいエネルギーが生まれ、ヴィジョンも見えてくるだろう。
<教会の未来を考える会>の発展的な形として信徒が誰でも自由に参加できる場となればよい。今日の集まりを礎として進んでいけばよいのではないか。
大阪教区から出された「新生の明日をもとめて」は大きな苦難を乗り越えて理想の実現に近づくための具体的な信仰の生き方がわかりやすくまとめられており、大変示唆に富んでいる。これを祈りながら読み進め、具体的な勉教会あるいは研集会を開いていけるようにしたい。
フォーラムは広く意見をもとめ討論をしていく場。一人でも多くの方が参加できて一緒に考えていけるようにしたい。
フォーラム第一回目(オリエンテーション)を8月20日(日)に開く予定。
4(金)〜7(月)ボーイスカウト・キャンプ
5(土)ガーデンパーティ(ミサ5時)
6(日)7(月)中高生キャンプ
13(日)9時30分ミサ聖体奉仕者派遣式 神奈川県大聖年司教座ミサ(山手教会午後3時)
15(火)聖母被昇天(ミサ午前9時、ロザリオと黙想午後7時))
19(土)平和のための合同祈祷会(ナザレン教会)
20(日)教会のあり方を考えるフォーラム
22(火)講座リーダー黙想会