第2部・クリスマスの喜び

キリストに結ばれて
聖母訪問会 シスター野口百代

「神さまはすごい」、病気になってこの言葉がいつも私の体の中を走ります。主の平和が体に染み渡り、ありのままの私が今、与えられている最後の私の宣教となりました。

生まれた時からここに至る迄、なんと神さまは私にこまかく完全な計画を立ててくださったことか・・・昨年の始めより体の調子が普通ではないと感じていましたが、神のみことばを伝えることが喜びであり、教会、学校、信徒宣教者会と一日中走りまわり充実した生活を送っていました。

体の不調もグループの前に出ると、あたかも消えたようになり自分の中にある聖書のみことば、体験、知識、失敗、生活をとおして、持っているすべてのものを分ち合いながら少しずつグループが、個人が神の色に変えられてゆくことが、なによりの喜びであったし、私の人生における醍醐味でもありました。

今年になって体の不調はどうすることもできなくなり、とにかく疲れる自分でもどこが悪いのかわからぬまま人間ドックに入り、その結果は惨憺たるものであり、まさに現状をつきつけられた感じでした。そのまま入院、手術。結局ガンはあっちこっちに転移しており主治医と色々と話合いの結果、納得の上治療することをやめ、残された時間を大切に過ごす方を選ぶことにしました。

それからは今迄にかかわった多くの方達の思いまた祈りに支えられながら私は神の恵みに少しずつ、気付いていく日に変えられていきました。その頃、私の感覚では私の苦しみ、重荷は全部、キリストさまが両手に持ってくださり、私をおんぶして歩いてくださっているそんな感じでした。

心の中は平和そのものであり、入院していた時に先生をはじめ看護婦さん、仲間の方がその私を不思議がり、時間があると話に見え、そして休みの日に来てゆっくり話を聞きたいと言ってくださったり、神さまは何もしていないそのままの私をとおして宣教をしていらっしゃることを本当に不思議に思いました。また神の栄光を現す程に人間は素晴らしく造られているのだと感じさせられました。気付かされたことは沢山あり、私の歩む道は全部細部に至る迄神さまが完全な準備を通して計画してくださっている聖書のことばどおり、たすことも、けずることもない完全なものだと気付きました。

私にとって必要なものは、本当に必要な時、それも時がきっかりその時に、与えてくださる。これは度々体験し、驚きでした。それは完全な時です。キリストに結ばれ、キリストに生きる時、私は自分の病気が一般的にみたら失望的なものですが、恵みによって小さなもの、また病気は私の気持ちの中で消されてしまうそれを体験しています。私の気付いた恵みはまだまだ一部分であり、恵みは永遠に広がり、神に至るそれを思う時、恐れを感じる程です。

私はキリストに結ばれ、キリストによって御父のところへと招かれている、こんな素晴らしいことを思う時、人間の幸せと人間の存在をしみじみと味わされます。最後の最後迄ありのままの私をとおして宣教させてくださることを感謝すると共に時には喜びがあふれてきます。ある方がシスターもう一度健康をとりもどして以前のように働きたいでしょうといってくださいましたが、私は今が一番良い時、今日が一番と思っています。神は愛そのものだからです。



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私の受洗
鵠沼1区 片桐靖伸

私が洗礼を受けようと思ったひとつの大きな理由はキリスト教会の持つある種の温かさにある。海外の街をぶらついて疲れたときや寒さが身にしみるときなどは、その土地土地の教会や寺に入り休ませてもらったものである。その中で特にキリスト教会は誰が待ってくれているわけでもなく、又、暖房施設があるわけでもなかったが、入ると常に不思議な温かさと落ち着きを得られた。いづれはキリスト教に入信するのでは、との予感もそのようなときにあった。

受洗の決心をしたきっかけは非常に単純で、神父さまから「過去の自分、昨日の自分を捨てて今ある現在の自分を生きる」という言葉をお聞きした時である。これは至極当り前のことであるがなかなかむずかしい。私も年を重ねるうちに過去の経験と環境にドッシリと座り、職場でも家庭でもこのことが周囲に悪い影響を与えているようで何となく気になっている矢先であった。身体的制限、精神的硬直化、発想の縮小化等、年と共に確実に進行しているにもかかわらず、それを認めたくなかったのである。受洗はそのような自分を変えるよいきっかけではないかと思った。又、今年が2000年のジュビリーイヤーであること、イースターが私の57歳の誕生日であることなども、変化のスタートとして良いチャンスなのではないかとも考えた。

受洗後、半年余り経った現在の自分の変化はどうかというと、外見は何も変わっていないようだが、内面は多少変わってきたのではないかと自覚している。具体的には、

(1)他人との比較で自分をみなくなってきた、

(2)自分自身のことをより多く考えるようになった、

(3)仕事や政治等を異なった角度から見るようになった、等である。

まだまだ私はキリスト者としてスタートラインに立ったばかりで、すべて勉強だと思っている。

漠然とではあるが、カトリック教会が今の世の中で次のようなことができないかと考えている。

(1)イスラエル−パレスチナ問題をカトリック教会がリーダーシップをとって解決する。

(2)他の宗教と協力し世界平和を実現する。

(3)アジア的カトリック観を高める。

(4)キリスト教的人間観を実社会に一般化する。



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クリスマスによせて
キリスト教講座受講者 後藤千冬

「マリア様の役、やりたかったなー」、これが私のクリスマスの最初の記憶である。プロテスタントの幼稚園へ通っていたころ、クリスマスに聖劇をやることになり、どうしてもマリア様の役がやりたかった。しかし、先生が私にくださった役は天使の役だった。天使もかわいらしいが、何といっても舞台のまん中で赤ちゃんのお人形を抱っこして皆から祝福を受けるマリア様が輝いて見えた・・・。

それからの私のクリスマスは毎年、ケーキとサンタさんからのプレゼントで過ぎていった。大きくなってからは、皆で騒ぐお祭りとなった。その意識が変わったのは、結婚し、子供も生まれ、家族でドイツへ赴任してからである。

ドイツのクリスマスは美しい。11月の末になるとそれぞれの街で、家庭で飾りつけが始まる。家々の窓辺も工夫をこらしたイルミネーションが輝く。とても寒いドイツでは、寒さゆえに光はきらきらときらめく。人々はプレゼントの準備に忙しく街は活気づく。クリスマスの市がたち、防寒着を着こんだ人々でにぎわう。しかし、日本と違うところはクリスマス当日である。街の中は店も閉まり、誰もいなくなる。そして、教会でミサをうけ、家族で過ごす。

私がそんなクリスマスに、日本では感じなかった厳そかな「何か」を、身がひきしまるような「何か」を感じた。先日のキリスト教講座でクリスマスのことを勉強した時、ふとこの「何か」がわかったような気がした。

信者である母のすすめで、私が講座を受け始めてから、もう1年半がたつ。私の母は、私が結婚した後、佐々木さんの講座をうけるチャンスを得て洗礼を受けた。母はその講座によって自分を開放され、嫁姑の関係でも自分をとり戻し、自由になれたようだ。その後、父も母の影響を受けたのか、クリスマスに洗礼を受けた。私は毎日、子供の世話や家のことなどで「自分」について考える余裕などなかったのだが、講座の1期では週に一度自分自身の内面を見つめ直すことができ、充実した時間が過ごせた。また、普段あまりお話することのない様々な年齢の方の色々なお話が聞けるこがとても楽しかった。

キリスト教について、漠然とした知識しかない私にとって2期は?が頭の中をたくさん飛び回っていたが、講師の佐々木さんをはじめグループの皆様のあたたかい人柄にほっとすることができることがうれしくて、週に一度、わからないなりに通っていた。

そして今、3期になって相変わらずではあるが、「もっと、色々と知りたい」「家に帰ったら、聖書を広げてみよう」と思うようになっているこの頃である。

話は戻るが、クリスマスにドイツで感じた「何か」は、ただクリスマスを美しく飾り、楽しんでいるだけではなく、キリストの誕生を祝うという意味を理解し、感謝している気持ちが人々の中にあるからだったのではないだろうか。

今年のクリスマスは私も子供達と、キリストの誕生の話をしながらツリーを飾りつけ過ごてみたいと思う。

あなたは、貴重なかけがえのない大切な唯一の存在であると、神様が救いの手をさしのべてくださったことに感謝しつつ、佐々木さんの講座に出会えたことに感謝します。



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里山に時は流れて
鵠沼3区 平野 勝

「長崎の方で幼児洗礼ですってね」と声をかけられることがある。先祖のように信心深いだろうという意味なら胸が痛む。残念ながら信仰は遺伝ではないのです。先祖にしても、強い信仰をもっていたというより、自分の弱さを知っていたから、祈り、耐えて、殉教の恵みを頂いたのでしょう。又は潜伏して教えを子孫に伝えることが出来たのでしょう。

長崎から北へ30粁、五島灘に面して海岸線に細長く、外海「そとめ」町がある。ここが私の里山。

平地は少なく、猫の額の段々畑は耕して天に至たる。断崖絶壁は海に迫り、陸の孤島と呼ばれて、キリシタンの潜伏には最適だったでしょう。1960年、黒崎村と神浦村が合併して出来た町。初代町長は、カトリック信者の平野武光でした。

私の里山には誇れるものが三つある。「キリシタンのふるさと外海」と、ド・ロ神父と遠藤周作です。「キリシタンのふるさと外海」については、ローマ法王ご来日の折、初めてその存在を知って驚いた同行の記者団が、電波にのせて、全世界に、外海を紹介し、大きな感動を呼んだのは未だ記憶に新しい。ド・ロ神父については既にご存じの方も多いと思います。1879年、北仏ノルマンディ−から、外海の出津教会に赴任された宣教師。司牧・宣教の傍ら、授産・医療・農業・食べるための農民の国内移住・製粉・マカロニ作り・織機り・裁縫・土建技術・版画・西洋の印刷文化を持ち込む等など、人々と共に生き、一度も故国に帰ることなく、野道の墓地に葬られるまで働き続けた宣教師でした。

藤沢教会の共助組合でも扱っているド・ロさまソーメンは、貧しい信者のために神父が発案したもので、落花生油を使ったこしの強さが特徴です。

外海町を一躍有名にした出津文化村の建設も、ド・ロ神父を抜きにしては実現しなかったでしょう。外海のカトリック信者の数は、町民の4分の1に過ぎませんが、町の多くの人々が、今でも、ド・ロ神父を「外海の太陽」と敬い慕っています。

長崎から外海に向う車の中から、直径1米ほどの送水管を見ることが出来ます。外海の神浦ダムから、恒久的に水不足に悩む長崎市に水を送っているのです。神浦ダムが出来る以前には、外海自身も水不足に悩み、特に人口密度の高い池島炭坑は海水を濾過して使っていたものです。

長崎に水を分けるについては賛否両論どっちつかずの三派で大激論がありました。

結果的には、賛成派がド・ロ神父の教えを持ち出して説得に成功し、送水を決めました。その教えとは、「有り余る物を人に上げるのは、むしろ人間の義務でしょう。乏しい中から分かち合ってこそ本当の慈善です。人類愛です」。神浦ダムの水量は町自体を潤すだけでも充分ではないかも知れない。しかし彼等は、神浦から長崎まで、送水管を敷設し、「いのちの水」を送り続けてもう拾数年になります。私はここを通る度に、あの大きな送水管の中をド・ロ神父の人類愛が、今も滔々と流れ続けているのを見る思いがして大きな感動を覚えます。そして、これを成し遂げた外海の人たちを尊敬します。遠藤周作の「沈黙」の舞台は、ここ外海の黒崎。大聖年のこの5月、遠藤周作文学館が開館しました。場所は、黒崎と出津を国道202号が結ぶ峠の「夕陽が丘」。

此処から見える太陽は、東の島原雲仙から昇り、夕陽は西の角力「すもう」灘に沈む。角力灘は別名キリシタンの海と呼ばれる。想像を絶する巨大な真っ赤な夕陽が、陸と海と水平線を茜に染めて、静かに厳かに波間に消えゆく様は、さる文豪の表現を借りれば「まさに大聖の臨終に侍るが如し」。

落日の下には、外海の人たちが信仰を守るために、逃げていった五島がある五島の先は東支那海。そして遠くポルトガルに続いているのです。遠藤周作夫人の順子様のお話では、文学館誘致の働きかけは、全国7ケ所から寄せよせられたが、外海を決断されたとのことでした。嬉しく思いますまた、夕陽が丘は、遠藤周作のために天が最後まで取って置いた感じの絶好の場所。ここを提供した外海町に感謝したい。「物の豊かさと心の潤い」を文化行政の基盤とする外海町の、遠藤周作にかける熱い思いが伝わって来ます。

ここは、遠藤夫人のご期待に応えて、「西から来た教えが、立派に根付き育ち、今後は西に向かって羽ばたき、雄飛する発進基地になって」くれるでしょう。それは、遠藤周作の願いでもあったでしょう。

ただ、「沈黙公表の頃とは隔世の感があります」と、遠藤夫人に言わしめた教会当局は、何らかの表明があってもいいのではと思います。

それに、遠藤周作は、自分の友人知己の多くをカトリック信者にしました。この人たちがまた、新しい信者を産んで、その輪は更に広がりつつありますこれは、遠藤自身が、優れた宣教師の役割も果たしてきたからと考えられ、その功績に対する顕彰があってもよいのでは、とさえ、私は感じています。里山にも時は流れて、今や、信教は自由、世は平和。飽食・飽欲・自己中心の世相の中で、私自身が、「平成キチジロー」にならない生き方を、遠藤は「沈黙」を通して私に諭していると受け止めている。そのため私は、祈りの中で、天国の彼に取次をお願いしている。黒崎を愛した彼は、他人の悲しみ痛みが分かる、優しい人に違いないから。沈黙の碑の文句を見ても、踏絵を踏んだ隠れキリシタンへの労わりの言葉を聞いても。

踏絵について、母から聞いたことがある。私の母は、50才前で寡婦になった。12人の子供を産んだ。薬剤師だった父の死後は、どん底の貧乏百姓になったが、いつも明るく張り切っていた。カトリックといえば貧乏人を意味した貧困は、隠れの時代から引き継がれたらしく、その日の食べ物にも困ることがあったと聞いた。腹が減ると生水のんで縄帯締めて、「すきっ腹も一時たい」と言いながら、肥やし桶かついで野良仕事への小径を登っていく母の姿が、今も、幼い頃の思い出の中に、鮮明に残っている。その母は、どんなに疲れていても、朝夕の祈りは欠かしたことがなかった子供を叱りながら、家事をしながら、大きな声で祈っていた。祈りの終わりには必ず「元后憐れみの御母」の祈りを付け加えた。だから私は小学校に入る前から、この祈りを暗唱できた。1年生で聖歌隊に入り、グレゴリアンのサルヴェレヂナが、「元后憐れみの御母」の祈りと同じと知った時は、西洋人と同じ聖歌を神様に歌えることを嬉しく思った。

そして、西洋にも踏絵があったのかなと思った。この祈りは、踏絵を踏んだ時の、償いの祈りと聞いていたからである。

母の話は、受け売りであったが、先祖からの言い付けで祈っていること、踏絵を踏んだ償いの祈りであること、黒崎のどこの家でも祈っているとのことであった。

先祖は、長崎まで踏絵に行き、踏む時は、イエス様が痛くないように、足の裏の柔らかい土踏まずで踏むようにした。帰りには、滑石峠の砂利道を裸足で歩いて償いをした。

京泊の磯辺や黒崎川の側を通る時は念入りに足を洗った。

そして家に帰ると、今日、顔を踏んだばかりのイエス様には、気がひけて、祈れないので、御母マリア様にお取り成しをお願いした。その時の祈りが「元后憐れみの御母」だったそうです。潜伏時代は祈り声が外に洩れないように奥の部屋の隅で、家族が顔を寄せあって小声で祈った。母の祈り声が大きかったのは、その頃の反動からか、自由に祈れることの喜びからかの、どちらかであったろう。

母たちが、神様イエス様より、人間マリア様の方を大事にしているように思えて不思議だったが、まさしく「踏絵が生んだマリア信心」といえるでしょう。

大浦天守堂にプチジャン神父を訪ねた隠れキリシタンたちは、イエス様を抱いてるサンタマリア像を見て、確信を持った。そして、人目をばかりながらも、勇気を出して「私どもは貴方と同じ心の者です」と神父に言いきり、何のためらいもなく、即座にカトリックを受け入れたのは、遠藤周作の労わりの言葉にあるように「踏絵を踏むことによって固められた信仰」のマグマが此処で一挙に噴き出したのであろうか。



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待つことは祈り−待降節に寄せて
大庭地区 池田 孝

羊飼いたちは上気し、満面を紅潮させ、黙々と夜更けの道をベツレヘムへと急いでいたに違いない。急ぎながらも心のなかでそらんじていたのは、おそらくはつい先ほど、天使によって告げられた超ビッグなニュース・ソースであったろう。ねえ、羊飼いさんたち、遅ればせながら私も一緒させてくれませんか。イエスさまにお会いしたいのです。新しいイエスさまに!

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。(ルカ福音書1章11)

いま私は新しいイエスさま、と言ってしまう。不用意に、ではない。悲しく、そして恥ずかしいことなのだけれど主のご降誕を、新しいイエスさまとお呼びして心爽やかに迎えることができなかった過去が私にはしばしばあったからである。イエスさまの側に古い新しいがあるわけがない。降誕祭のイエスさまに晴れがましい〈新しさ〉を感じられない年は、多く、みずからの側に充分に霊的な準備がされていない年だったのだ。つまり待降節をふさわしくすごしていなかった、ということになる。

それはたしかに、暦年が替わるのだから『新しいイエスさま』と習慣的にお呼びして別段のことはない。しかし一人の信仰者として自分を観るとき、待降節の4週間を心静かな祈りのうちに整えておくべき霊性。それによって必然みちびかれる回心。降誕祭に新しいイエス様を迎える歓喜は、じつにそれらの長かった祈りの経過に支えられているのだった。

つくづく想う、待つこととは祈りである。待ち合わせの時刻からすでに20分が過ぎていた。

「何やってんの、あのばかが!いつだってこうなんだから。」

ま、この程度はごく普通としておこう。寛容に。

スクランブル交差点を往き来する夕刻の人波を眺めながら、一人の女性が大理石の影にひっそりと立っている。

「いいの、時間のことは気にしないで。それとも何かがあったのかしら?とにかく、今はラッシュ・アワー。絶対に急いじゃだめ、主よ、彼女のために祈ります、どうぞ、事故などありませんように、あの人をご加護下さい。アーメン」混雑の街角に立っていてさえ、こうして神とふたりっきりの時間を僅かでも作ることのできるこの女性は至福である。

待つこと、つまり〈祈る〉という営みが美しいのは、やがて何かが実現するということへの限りない期待や夢があるからなのだと思う。しかし、ひとたび祈り(黙想)に入ると、そこはもう神が支配される霊の世界、〈待つこと〉の対象が現実的なものであった場合でも、その目的自体から霊的に遊離してしまうことがしばしばある。こうして、現在自分が置かれている極めて人間的かつ世俗的な(ですから十分に罪の匂いの漂う)いろんな状況について、まったく別な、神様の側の角度から眺め直すという摩訶不思議なエリアをいつの間にか彷徨い始める。私にはそういう体験が、ままある。観想に入ったのだ。これは神の愛が今、その人に関わっていると考えてよい。そこへ導かれたのは聖霊の働きによる。聖霊の働きとは、わたしたちが以前に受けた堅振の秘跡(現在は堅信)の母胎となっている神様の働き、そう考えるのが分かりよい。観想はこうして回心に移行する。

「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(ルカ福音書2章15)

あ、羊飼いさんたち、足が速すぎますよォ、わたしも連れていってくださーい。



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エルダーズの会
藤沢1区 渡辺義夫

私がエルダースの会に出席させていただいてから3年位になりましょうか、その間時々休むことはあっても大体出席しております。毎週月曜日の午前10時から正午頃迄の集りで、毎回特にテーマはありませんがここに集う人達は戦前、戦中、戦後のつまり激動の昭和を生きた世代としておのずから話題がでて来るように思います。それは先ず健康のこと、日常生活はふつうでも何かしら気をつけることを持っている年代としてそれぞれの体験から、良い病院、名医についての情報がもたらされます。今や医療については私達が医師を選ぶ時代とか、私も皆さんのお話から有益な知識を得ております。

つぎに、集う方達が信者とは限りませんが、例えばカトリック新聞の記事などが話題となります。私自身信仰浅くその点皆さんの感想をきいて、諸宗教の共生がいわれる今日、自分自身の信仰を考えるヒントを与えられることがあります。

それからエルダースは年輩の方の集まりなので、かつての日本人の伝統的な見えざるものへの畏敬の念、毎日の食物への感謝の念等についてあまりにも現代との距りを感じる話が出ます。また戦火に散り、病苦に倒れた人々への限りなき哀惜の念か、そして何か失われつつある日本人の感性への懐旧か、いずれにしても同世代を生きた人の共通の思いでしょうか、話は尽きない時があります。しかし徒らな懐旧でなく次の世代に語りつぐべきものは語りつぐというのも共通の思いです。

最後に毎週第4月曜日はお食事会の日ですが、私共より一世代若いご婦人達がおいしい食事を用意して下さっています。それから湘南台センターのエルダースの会について、湘南台の鈴木有一様ご夫妻のご尽力で毎月第3木曜日10時から湘南台センターで開催されています。お食事会のご婦人達のご配慮と共に鈴木様ご夫妻に感謝したいと思います。

エルダースの会のご紹介をさせていただきました。この会も皆様と共に丸3年、4年目に入ったところです。新しい21世紀、来年からも更に多数の御参加を得て、内容を深め広げて行けますよう願っております。



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サンパギータを子供達に贈る会
辻堂1区 海老原美子

次の世紀をになう人々が少しでも豊かな環境で育ってほしいとの願いをこめて、その心を隣国フィリピンに向けてマドレーヌの収益金をかの地の若い人の育成のために送り続けここに21世紀を迎えます。

クリスマスおめでとうございます。毎週金曜日に有志が集まり教会センターお台所で焼くマドレーヌは日曜日、朝ミサ後にその主旨賛同して下さる方々のお買上げで年間50万、60万の大金になって現地の学生奨学金、学校設備拡充に活かされておりますことは常にご報告しておりますが、今年も現地から届くよろこびと感謝のニュースをお伝えします。

10年間ミンドロ島サンタテレサ教会で宣教された石川神父様の手紙によれば、藤沢教会から祈りと共に送られるお金は奨学金・学校設備充実を通じて住民は見違える程の生きがいと、生きる勇気を得て元気に暮らすようになりました。まだ会った事のない日本の藤沢教会に親しみと感謝の祈りをし、周囲の人々と積極的分かち合いをしています。この報告をされると共に神父様は今年からまた新しい宣教地に向かわれたこともしるされています。そこはマニラから舟そしてバスを乗りついで一昼夜かけて到着する処、ミンドロ島パルアンにあるヨゼフ教会。信者数は1万人、他に8ヵ所の巡回教会も受けもたれているそうで、またここで一から始めるとあります。大自然に恵まれた所だが村民は貧困に苦しみ自然の恵みに目を向ける余裕がないのは残念、しかし教会うらにある1500米級の山は神父様の黙想には大変よい処だそうです。ここでも向学心のある人には勉強の機会を、無心で集まる子共達にはよい環境をと藤沢から送られるお金の活用範囲も拡がるのではないかといわれます。

一方マニラに拠点を置いてフィリピン各地で活動する聖母訪問会シスター方からの報告も、藤沢教会から送られるお金はすでに教師、歯科医、X線技師、ナースなどの人材を育てて社会に役立っているし、これに続く若人も日本から支援を受けていることに元気づけられ勉強に励んでいること、お祈りと励ましが現地では大きな活力になっていますと記されています。シスター方は日々、大自然や人間の暴力に苦しむ人々の隣りに立ち、社会ののけものにされている人々、ストリートチルドレン、捨てられた赤ちゃんの中にいると、神様のお働きが沢山感じられますとよろこびのメッセージも伝えて下さいます。双方の国の人々の親しみとつながりはますます深まっているようです。

奨学金で勉強をしている人は現在5人です。

1.QscaesESBIETO大学生
2.NenitaBUSTILLO大学生
3.AlexDORIS大学生
4.RlendaJUNTALOS大学生
5.MaricelMACION高校生

尚、学生の年間学費は一人約10万円必要です。これから始まる一年も祈りと実働の輪を拡げて行きたいと思います。

ご支援宜しくお願い致します。



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クリスマスの献げもの
辻堂2区 塚田直子

今回の入院に際しては、神様から沢山のお恵みをいただきました。また藤沢教会の皆様のお祈りと応援を体にひびく程有り難く感じました。退院後、二、三日してこの原稿が出て来、塚田のはげましと思いました。これをクリスマスの献げものとし、これから皆様とともに祈り励みたいと思います。

「神への愛と隣人への愛」(故・塚田武彦)

神への愛と隣人への愛はキリスト教信仰の根本であり、キリストの神秘体の一員である私たちのすべての言行は、これから出てこれに帰らなければならないということは何人も否定できない。

我らの主は最後の晩餐において「私は新しい掟をあなたたちに与える。あなたたちは互いに愛し合いなさい。私があなたたちを愛したようにあなたたちは互いに愛し合いなさい。互いに愛し合ったら、それによって人は皆あなたたちが、私の弟子であることを認めるだろう」(ヨハネ13:34〜35)と仰せられた。私たち兄弟が互いに愛し合うことは、とりもなおさず神への愛を行うことに他ならない。即ち隣人を愛することは神を愛することと同意義であると言ってもよい。「まことに私はいう。あなたたちが、わたしの兄弟であるこれらの最も小さい人々の一人にしてくれたことはつまり私にしてくれたことである」(マタイ25:40)というみ言葉がこれを裏書きしている。

我々はこの聖言を忘れてはならない。しかし、ひるがえって我が身を顧みる時、この教えから程遠い所にいる自分を見出して、恥じざるを得ないのである。私は果たして私の隣人が飢えていた時、かわいていた時、裸だった時、病気だった時、私の出来る限りのことをして、愛の手をさしのべたであろうか。自分自身に言い訳をしてうやむやにしてしまったことはなかったか。「私も貧しいのだ。ぎりぎりの生活をしているのに、人に施すなどはとても出来ない相談だ。金持ちがあり余っている金を分け与えるべきだ。−いずれ誰かがやってくれるだろう」などと考えたことはなかったか。だが私は満足に三度の食事をし、煙草を吸い、映画を観、家族とドライブを楽しむ時もある。小市民的な平和な生活の殻にとじこもって、自分だけが、自分の家族だけが安穏にくらせればよいなどと考えて、より貧しい人たちのことを考えないで過ごしているのではないか。ここで考えてみなくてはならない。金があり余っている人は貧しい人のためには出さないのだ。むしろ貧しい人ほどより貧しい人のために親身になって考え、乏しさを分かち合おうという気持ちがあるのだ。私は貧しいが、より貧しい人のことを考え、出来るだけ愛の手をさしのべよう。聖ヨハネが第1の書で述べているように「もし誰でも、この世の宝をもっているもので、己の兄弟に必要あるのを観ていたら、彼に対して憐みのこころを閉ざすならば、どうして神の愛が彼の中に留まっていよう。私たちは愛するのに言と舌とをもってしないで、行為と真理とにおいてしよう」という言葉を心に刻んで、キリスト者としての道を歩んで行きたいと思う。



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21世紀に向かって
神の代理人からの“パワー”のクリスマスプレゼント
辻堂2区 本多正昭

“あなた方は、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。ヨハネ16−33”

私の机の前には、敬愛する女医に書いて貰った聖句の色紙がある。また、机上には、親友のアルゼンチン陸軍空手教官から贈られた“最後の晩さん”の粘土細工が飾られている。そして、一応、私はカトリック信徒である。にもかかわらず・・・。

お恥ずかしい話。具体的な事はさし控えるが、今年、私には、キリスト信仰を表向き捨てるなら、人生に新たなる展開がありそうな話があり、それで得られるかもしれぬ物の前に、心が大いに動いたのであった。キリスト信仰の方は、時々、こっそり、どこかのミサに与ればいいのだから・・・などと思ったのである。

ところで、私は先祖を尊敬している。後世の価値観で批判するのは簡単でも、それぞれの時代、状況の中で、“守るべき”と信じた物を守ろうとした先祖の人々・・・。ある者は“御家再興”を果たした外様大名として、ある者は別の外様大名の筆頭家老として、また、後の時代のある者は職業軍人、政治家として、“御家”や“御国”の為、知力、死力の限りを尽くした父方母方双方の先祖の人々・・それが後世から見れば評価は分れ、その時代を精一杯に生きた先祖の為に傷ついた人々もいたであろう事を認めながらも尚、先祖の人々に愛情と誇りを持っている。そして、私の場合、特に、父方の先祖からの『名前』にも誇りをもっている。

これまた具体的な事はご想像にお任せするが、(大体分かるだろうが)私の人生に新たなる展開があるかも知れないその話は、我が誇りとする『名前』まで捨てなければならない物なのであった。キリスト信仰のほうはともかく、名前までとは冗談ではない!と私は思った。(イエス様スミマセン)別に名前を変える人を批判している訳ではなく、私がそういう考え方をする人間であるという事だ。

10月。信仰、先祖、祖国、名前、自分、将来について考える為、日露戦争(古くてスミマセン)にも職業軍人として出征(生還)した母方の先祖等、日本を守った人々の墓参りをし、声を聴くつもりもあり、戦艦三笠へ行った。帰りに近くの教会にも寄り、三浦半島のみを扱うカトリック誌を見た。偶然、かつて私が洗礼を受けた東京郊外の小さな教会で一緒だった友の文章が目に留まった。あれから色々あったであろうし、苦しみ、悲しみにも欠けてはいなかったかもしれない。しかし小さい頃からの、折々の“愛”を感じた時の事・・・林間学校の途中で、おじい様の逝去を知らされ帰る時の先生の優しい心遣いから、最近の事まで・・・現在、ご苦労があったとしても、それは行間に織り込んでの八面六臂のご活躍の様子が書かれてあった。文章の終わりのほうに、“そんな私のパワーの源は神様から来ている・・”とあった。

何を迷っているんだ俺は、と思った。俺は、この友も見ている前で、大人は俺一人だけの洗礼式に与ったんだ。この友の“パワーの源の神様”は、俺の神様でもあるじゃないか!「イエス様にだまされるなら、だまされてもよい」指導司祭のロワゼール神父様は言っていた。22歳のご降誕前夜祭、私は受洗した。“イエス様の他に『幸せ』があるならば、イエス様と共に『不幸』の中に留まり、イエス様の他に『真理』があるならば、イエス様と共に『誤り』の中に留まろう”との想いだった。今思えば、十分若かったにもかかわらず、病気その他で苦しい中にあり、自分が思うような足跡を残して来られなかった事で嘆いてもいた。“イエス様について行くならば、『自分』が、人の目に、そして自分自身の目においてすら、どのように映ろうと、何らかの形で『用いられ』、『生かされる』事が出来る!”そういう想いで洗礼を受けたのではなかったか。

山の上にある我が母校。その隣に、神が特別に備えておいて下さったと思われてならない修道院と、その聖堂を借用しての巡回教会に集う群れ。そして、音楽家で登山家で、ボーイスカウトの指導者の神父様。神の臨在を感じさせる、師父との一対一での、土曜夜のデラックスな要理の学び。雪の積っている日もあった。それと同時進行で、修道院の駐車場だった処に建設が進み完成し、小教区として独立した教会聖堂。まるで、私の為に特別に用意され出現したかのような教会。献堂式後、すぐのご降誕前夜祭、第1号の受洗者となったのが俺ではないか。何を迷っている。あの頃も今も、何も変らぬ御方がおられるではないか。『私はすでに世に勝っている』と言われたイエス様に心を集中して生きよう。人の世の、八重の汐路のはざ間にもまれ、あえぎつつも主を仰ぎ、頑張っている友人からの、少し早めの、“パワー”のクリスマスプレゼントであった。

友よ。僕はあの頃、原因不明の頭痛と闘っており、近くがよく見えず、読み流せる人生論やキリスト教の本(?)は別にして、“少し込み入った本”がよく読めず、不安と焦りの中にいた。僕が藤沢に移って後、ある正月のパーテイの人込みの中で最後に会った時、肩を叩いてくれた君の友情の込った笑顔に、笑顔で応える事が出来なかった。失礼したと思っている・・・。頭痛その他の症状の原因が、何万人に一人の、重度の潜在斜視にあった事が、後に分かり、二度の手術とメガネで、一応、体は楽になった。友よ、無理をせずに、上手に休んで、体には気をつけて下さい。ストレスからの食べ過ぎ、飲み過ぎに注意して下さい。あの優しく料理がお上手だったお母君が帰天されたとの事、ただ寂しいです。友よ、あの頃の仲間と共に、離れていても、同じキリストのミサに与り、同じ神様からパワーを貰い、地上の人生を『私は既に、世に勝っている』と言われた方を見上げて生きて行こう。心から幸多かれかしと祈っている。“神の代理人”として、“パワー”を届けてくれて有り難う!メリー・クリスマス!!



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ちゃんこ鍋とNGO
鵠沼1区 上條 俊

クリスマスおめでとうございます。2001年を迎え皆様とミサにあずかり神に賛美出来ることを心より感謝いたします。振り返ってみて今年も別に大したことはなく健康でとにかく忙しい2000年でした。皆様に支えられ、心配され自分なりのやり方であらゆる問題にチャレンジしゴール・トライができ大変有難うごさいました。日頃隣りの家に住む90歳近い一人暮しのお婆さんをミサに連れて帰りにコーヒーを飲んだり、家の電気工事、水道工事、買物を引きうけたり時には家に招待し家族で昔話しを聞いたり、友達の外国人を日本の教会のミサに連れてきたりバザーでケーキ担当、ガーデンパーティーで踊ったり、ミサとチャリティーコンサートでギターを弾いたり唄ったり、財務部でパソコンをうったり、鵠沼海岸の佐藤昭子様より激励のお手紙をいただいたり、侍者をしたり、中高生会のリーダーをしたり数えればキリがありません。このような中、数多くの人達と出逢い巡り合えたことが私の財産の一つでもございます。お互いに認めあい心の扉を開き本音のコミュニケーションと情報がとれました。

ある日電話が鳴り、辻堂在住の魚津靖太郎様より「相撲の元小結旭豊、現在は立浪部屋の親方を囲んで寿司を食べるのでよかったら上條さんも如何ですか」と打診をうけました。「私は魚の刺身だけは唯一食べられずタマゴ、貝類、イカ、カニ、タコしか食べられませんが、それでもいいでしょうか」「本物のお相撲さん達に会えるしサインをしてもらってもいいしとにかくこいよ」「じゃお願いします」と一つ返事で行きました。目の前にしてみると、顔足手身体の大きいこと親方の背広を着たら丸で冬のコート、握り寿司の食べるのが早いこと、一度に三つか四つ握って食べる力士もいました。若い力士と話しをしたり殆どが質問でしたが、先輩衆には絶対服従そしてあのでかい身体であっちいったり、こっちいったりそれはそれはよく動くこと飲むこと食べること魂消ました。愛想は余りよくありませんが土俵の顔とは全く違う、只普通の我々と同じ人間でニコニコした笑顔を担間見ることができました。親方に遠慮がてら色紙を10枚頼むと嫌な顔一つせず黙ってもくもくと書いてくれ、写真をとったり、酒を飲んだりと生まれて初めてのことなので「俺は何て幸せ者なんだ」とつくづく思いました。また来ている人の中に聖園女学院小学校当時の同級生の弟がいて、姉さんの近況を聞いたり36年振りに思わぬ所で思わぬ人に出逢い楽しく一杯やりました。「二次会へ行くから下で待ってて下さい」といわれ、時間があったので家族の土産として食べない寿司を持ち帰り用に包んでもらい、外へ出ると一人もいなく、結局おいてきぼりにされ、しょうがなくそのまま家路を辿り何かそれから1週間位ボケーっとした毎日でした。立浪親方は俳優の松平建によく似て気持ちの悪い位の優しい目と笑顔、それに「無口で駄目だ」とは決していわないので心から気持ちよく接することが出来ました。魚津オヤジもこれまた多忙な人で、つきあいのある人の輪に入っていき、私のことを一人ひとりに紹介してくれました。帰って母に話すと「あんたは昔からどういうわけか、よその人に可愛がられるけど、どこへ行っても決して恥ずかしいことだけはしたらあかんえ」ときつく言われ、今でも母には頭が上がらないので「はい、わかりました」。

9月2日にはまたお呼びがかかり、両国駅前の立浪部屋で藤沢教会フィリピン人のキャンデー・コンドウさんと二人で場所前のぶつかり稽古を見てちゃんこ鍋を食べてきました。あまりの美味しさで5杯おかわりした位です。そのちゃんこ鍋の行列の人にフィリピンで困っている人々へ10円でも20円でもよかったらお願いしますとキャンディと二人で募金箱を持ってまわり、あとは魚津オヤジに一任しました。そして後日、オヤジを団長にして立浪部屋一同ご一行様がフィリピンへ行き、大統領府、マニラ日本人学校ホセゼサールへの献花、目的はケソン市パヤタス土砂崩れ災害へのNGOという日本代表として応援、協力いたしますよということでした。キャンデーとした募金をそっくりそのまま持っていって渡してくれたようでした。これからもNGOの手助けとして、何かまとめて売ったり募金をしたり連携プレーをして行きたく、「よし何か面白そうだな、私も上條俊とやってみようかしら。何ができるかわからないけれど教えてもらい困っているフィリピンの子供や人々を助けるのは墓まいりをするように心が気持がいいし、楽しそうで肩もこらないようだし、また細かいことは上條さんが番頭さんでやってくれるようだ」こう思った人はウエルカムです。あなたのお力をお貸しくださいご一緒に考えましょう。9時半のミサが終わったあといつも外で何かしているので遠慮、逡巡せずに気軽に声をかけてください。私は少々いい加減なので「出来ることはやります、また出来ないことは出来ません」とはっきりと言います。やると武士が決めた以上しぶとくへばりつき、とことん黒か白かくい下がります。どうか頼りないですがついてきてください。そしてまた、きっと必ず声がかかる立浪部屋一門のちゃんこ鍋振るまいや寿司屋へも私と一緒に図々しくいってみませんか?



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