第3部・八角形にゅーす

11月教会委員会報告

1.静思のひととき

心身をリラックスさせるエクササイズの後、詩編16・5、8、9について、しばし黙想した。

2.フォーラムの進め方

第2回フォーラム(11月19日)のために用意された資料を元に、その進め方を検討した。

  1. 教会委員長の開会の挨拶、

  2. 「教会フォーラムについて」による教会フォーラムの定義、構成、開催、テーマ、進め方等の説明、

  3. 議論の土台作りとして頭の準備体操と「フォーラム資料」による教会の未来を考える会の結論等の紹介および「教会フォーラム(案)の初年度テーマに教会委員会のあり方を取り上げる理由」の説明、

  4. アンケート形式で小グループに分かれての意見交換、

  5. 今後の予定などの説明の順序で進めるが、途中で今後の座長の選出を行なう。

フォーラムには、教会の将来を背負って立つ青年会のメンバーや壮年部の若手の参加必要なので、そのように働きかけて行くことにした。

3.建設資金積み立て計画について

日本共助組合を利用した「カトリック名古屋教区建設共同基金制度」による名古屋教区の実例を紹介してもらい、意見交換を行なった。藤沢教会としては、前回検討したように、横浜教区司教館の考えを確認した上で、他の教区、小教区の例を参考にしながら検討を進めていく予定である。

4.バザーからの寄付金の分配について

今年のバザーの収益は約424万円あり、バザー委員会は何も条件を付けずに全額教会に寄付されました。そこで、教会委員会で分配について検討した結果、例年通り半分(約224万円)は福祉関係に使うということで、その配分は福祉部に委託し、半分(200万円)は教会の建築修繕関係に使うということにした。金額に関しては福祉部で分配しやすいようにファジイにしておくが、三宅島等の災害に関しても配慮したらどうかという意見が出たことも伝えることにした。

5.今後の予定等

6.委員会室活用について

八角形ニュースでアイディアを募集致しましたが、1件も応募がありませんでした。中に置いてある教会委員会の資料等を継続して整理整頓する仕組みづくり、車椅子、担架、ヘルメットの置き場所等の検討は12月の委員会に持ち越すことにした。

7.その他



目次に戻る


障害をもつ者からの提言
21世紀に向けてのメッセージ
藤沢1区 唐木邦子

11月5日の主日ミサ後、センターホールで福祉部講演会「21世紀に向けてのメッセージ、障害をもつ者からの提言」が開かれた。講師はカトリック点字図書館館長の橋本宗明氏で、テーマはカトリックの障害者の全国組織であるカトリック障害者連絡協議会が作成した「教会が神の国建設により寄与するために〜障害をもつ者からの提言」という文書(以後「文書」)であった。同文書は去る9月14日に日本カトリック会館でカ障連会長・副会長により司教団に提出され、内容は10月からカトリック新聞1面に連載されている。

同文書の最大の特徴は、障害を「仕方がないもの」「何とか受け入れなければならないもの」でなく積極的意義が見いだせるものとしてとらえていて、しかもきれいごとではなく、障害者・関係者の厳しい実体験から宝のように掘り当てた「積極的意義」を打ち出していることである。橋本氏は、この「宝」について「障害は、私達人間が間違った方向に向かおうとした時に正しい向きに軌道修正してくれる、人類にささったトゲのようなものだと思います。」と述べている。視覚障害者である橋本氏は、例えば目が見えない人が駅のホームを転落しないように白い杖をつきながらそろそろと歩いていると、周りの人が見ていられなくて「何とかしてあげたい。」と思う、そんな時に障害者は自らの存在によって現代人の心の中に埋もれている善意や、善意を実行するための意志を呼びさます働きをしていて、ひいてはそれが人間肯定の思想につながってゆくと説明している。

トゲは痛いものである。障害をもつ人にとって一番つらい痛みは、障害ゆえに一人前の人間として扱ってもらえないという痛みだろう。また、さまざまな場面で障害を持つ人と持たない人が互いに相手を仲間だと認められない時に感じる、心を閉ざす苦しさという痛みもあるだろう。でも、痛みを感じるところは、これから良くなってゆけばよいところ、互いに成長し合う可能性が大きいところ、希望のたくさんあるところでもある。希望を胸に、21世紀に向かって障害を持つ人も持たない人も共に羽ばたいてゆこう。神様の愛に信頼して、聖霊の息吹をいっぱい受けながら・・・。



目次に戻る


ルカ福音書を祈るシリーズ(6)
御降誕(ルカ2章1〜20)
M・ハンラティ

☆はじめに

クリスマスにまつわる習慣、慣習、伝統、思い出等に私達は余りに慣れ親しんでいますので、かえってそのメッセージの核心が分かりにくいかも知れません。

クリスマスの出来事を通して、神様は私達に何をおっしゃっていらっしゃるのでしょうか?クリスマスに関する様々な事柄や慣習は、確かにクリスマスのメッセージの一部ではありますが、すべてではありません。それで私達はかえってメッセージの核心を見損ないます。ですからクリスマスの話を通して、神様が今日ここで生活している私に何をおっしゃっていらっしゃるのか、私達は改めて問い直して見なければなりません。

クリスマスのメッセージの核心をとらえる為に、聖書に戻らなければならないと、私は気付いています。聖書のこの箇所を何回も何回も、繰り返して読み、思い巡らし、祈る必要があります。今回は私の例をお話して、皆様が聖書を使って神様のメッセージの核心を見つける事が出来るように、その助けになればと思います。

☆その箇所を祈る

祈るたびに違う体験となりますので、現在一番よく起る体験を例に使いたいと思います。

この先を読まれると皆様は、私がはじめの部分を抜かして一足飛びに羊飼いの所から始めるのかと思われる事でしょう。またこの箇所の祈りでは、神様は私の想像力を導いて、次々の光景を見せて下さって私に語りかける事が多いようです。

いつものように、最初にどの位の時間をかけてこの箇所を祈るかを決めます。それからゆっくり読んで、特に登場人物の気持ちを想像しようとします。

☆羊飼い達へのメッセージ(ルカ2章1〜20)

ベトレヘム周辺の丘のあちこちに離れ離れになっている羊飼い達が見えてきます。暗闇の中で淋しく羊の群の番をしています。私は彼らのつらい生活を思い浮かべます。乏しい食料、わすかな水、めったにないお金。古ぼけて臭い羊の皮をまとい、ごくたまにしか体を洗う事が出来ず、人に避けられていました。非衛生でユダヤ教の浄めの務めを守らず、宗教的にも排除されていました。神殿はもとより会堂に入る事さえも許されていません。町の人々は疑いの目で見、泥棒だと責めます。法廷でさえも彼らを証人として認めません。つまり彼らは地理的にも、経済的にも、社会的にも、宗教的にも“仲間はずれ”の存在です。彼らが特に崇高で徳が高いとは思いません。普通の人達同様、よい点も悪い点もあります。けれども少なくとも仕事はしっかりやります。

誠実に“野宿しながら夜中羊の群の番をしていました”

突然まばゆい光があたり一面を照らします。普通の光ではありません。彼らは恐くなって寄り集まります。神様の力がまさにここにあると感じます。それで彼らは尚更恐くなります。自分達がちっぽけで価値のない存在だと感じます。けれども特別な声は“恐れるな”と言います。それどころか“喜びなさい”と言います。“あなた方とすべての人の大きな喜びであるすばらしい知らせを持って来ました。今はまさに特別な瞬間です!あなた方の救い主がお生まれになりました!長いこと待ち望んでいた方が!ついに!今日!ここに!あなた方のすぐそばベトレヘムに!喜びなさい!救い主を訪ねに行きなさい。そして他の人達に伝えなさい。飼い葉桶ではあるけれど、大切に寝かされている赤ちゃんです”神様の優しさを賛えるすばらしい歌声の伴奏と共に聞こえます。

☆招待された羊飼い達の葛藤

しかしながら私は羊飼い達の困惑を感じます。すばらしい方法で、すばらしい知らせが与えられたようではあります。けれどもこれは理解し難いこと。何かの間違いではありませんか?と感じます。

先ず、神様の特別な子供が生まれるというのに、これは奇妙なやり方ではないですか?私達皆が長い間待ち望んでいた‘方’です。私達をすべての苦しみから救って下さる方です。ダビデの子孫であるこの方が、馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされている!こんな事が本当でしょうか?繁栄は確かに神様に近い印だったのではないですか?飼い葉桶とは!

第2に、それを最初に知らされるのが私達だという事も奇妙ではないですか!支配者でも、司祭でも、学者でもない私達、イスラエルの代表ではあり得ない私達がこの知らせを受けて伝え、感謝と賛美を先導するように頼まれるとは!誰が私達の言う事を信じるだろうか?私達では証人にならないのに!笑い者になるだけなのに!“また飲んだのか”とか“誰が信じるか”と皆が言って、私達は追い払われるだけなのに!

第3に、それは町に入る事を意味しますが、そこでは私達は決して歓迎されないのです。私達は正しく聴けているのでしょうか?

このような疑いと異議が湧き起こり、しばし葛藤する彼らが見えます。しかしそれから、大きな勇気をもって神様の力の印に信頼を置きます。彼らの声が聞こえてきます。“私達にはよく解らない。けれども行ってみましょう!!”そしてこの子供を探しに行く彼らが見えてきます。

☆歓迎される羊飼い

馬小屋を見つけ、入口までやって来た彼らを想像します。私はいつも長い時間ここでつかまります。その時その時で違う様々な面からこの出会いを想像します。彼らは“マリア様とヨゼフ様、そして飼い葉桶の赤ちゃん”を見て驚嘆します。

正にその三人だけでお供は一人もいない。特別な物も何もない。すべてが貧しく、自分たちが生まれた所よりも更に貧しい。けれどもこれはすでに天使たちより伝えられていたことです!

入口でどうしたらよいかと戸惑う彼らが見えます。気を使って、おどおどしながらも挨拶します。厚かましく押しかけた事を恐縮しながら、自分達は遣わされて来たと弁明します。

それなのに歓迎を受けて驚嘆します。ヨゼフ様が出ていらして中に案内して下さいます。ヨゼフ様は自己紹介なさいます。

“私はヨゼフです。こちらはマリア、赤ちゃんのお母さんです。どうぞ近づいて、後の方もっと近くへ、赤ちゃんはこちらです。どうぞ近寄って見て下さい。恐がらないで下さい。はずずかしがらないで下さい。そのままで大丈夫ですよ”

☆羊飼い達の変化

この歓迎を受けて、彼らは自分たちの外見、汚れていて、きたなくて、臭い事を忘れます。飼い葉桶の囲りに群がり、赤ちゃんにほほえみかけ、赤ちゃんをほめます。マリア様とヨゼフ様に自分達が見聞きした事を伝えます。マリア様が彼らの変化を見てほほえまれます。固くなって、おどおどしていた粗野な人達が、今や穏やかで真面目で寛大になっています。“何かお役に立てる事はありませんか?”彼らの心に溢れてくるのはこの想いばかりです。

ここに長くいればいる程、神様への感謝の想いが強くなります。神様が自分達に対して、また自分達の為に、して下さった事を感じて、神様をほめたたえます。神様に受け入れられていると感じます。神様に特別に祝福されていると感じます。

ついに賛美の詩篇を高らかに歌いながら、おいとまします。喜びの余り興奮して、会う人会う人誰にでも言葉が自然に湧き出て来て話しかけます。もう町の人を恐れていません。神様への賛美と感謝を一緒に分かちあいたいのです。天使達の仕事を続けている!私は嬉しい感動をもって悟ります。

☆思いを巡らすマリア様

マリア様とヨゼフ様もまた大喜びしました。先ずは赤ちゃんの誕生で。この赤ちゃんの新しい命は、二人の目から見れば神様の力の具体的な証しです。神様が約束に忠実である事、すべての人の救いを願っていらっしゃる事がここに証明されています。

第2に、二人は羊飼い達が来てくれた事がとても嬉しいのです。お告げ以来、この特別な誕生に神様が配慮されている印は何もありませんでした。それどころかまるで反対のように思われました。赤ちゃんが生まれる場所も、暖かくしてあげる場所もないのです。二人は神様に信頼して行うしかありませんでした。しかし今、羊飼い達がやって来て話してくれた事は、神様が静かに現存していらっしゃり、始終動き続けていらっしゃる事を再確認させてくれました。

二人の心は羊飼い達のもたらしたメッセージに感動なさっただけではありません。羊飼い達自身の内に起こった事によってもです。マリア様とヨゼフ様は彼らの内に起こった変化を見ました。赤ちゃんはしばしば、人から最良の天性を引き出します。粗野で頑固な男達が穏やかに、思慮深く、感謝に溢れて振舞っています。その上神様の優しさに気が付いていて、それを宣言しています。更に一番大きな変化は、彼らを見下げる町の人達を避けないどころか、神様への感謝と賛美を一緒に分かちあいたいのです。

これらすべてを思い巡らしているマリア様を想像します。マリア様は思い巡らす内に、この赤ちゃんがすでに救いの仕事を始めている!と悟られた、と私は想像します。もう、人々を神様への賛美と感謝の心で一つにしているのです。

もし宿屋で生まれたならば、これは起こらなかった!と突然悟られるマリア様も想像します。羊飼いは宿屋に入る事は許されなかったのですから、締め出されて赤ちゃんを見る事は出来なかったでしょう。一つにするという、この赤ちゃんの到来の使命は、正にその最初の出だしから明白となりました。

マリア様は羊飼いを証人として選ばれた神様を想い、今天使達と同じ事をしている羊飼い達のすばらしい変化を想い、ほほえまれたに違いありません。

そして私は、神様からこの赤ちゃんを預けられた事を畏れ敬まうマリア様の気持ちも想像します。神様が御自分の息子を二人に、そして羊飼いに、更に周りの人達に預けられた事を把握しようと思い巡らすには、時間を要します。そして神様は、その人達が協力するならば、彼らから最良のものを引き出し、彼らを通して働かれるのです。

☆私への効果

祈りの中で私は、私達の中に来て下さったイエスを見つめて、イエスと共に時間を過ごしなさいというメッセージを聞きます。そしてこれは、今ここで生活している私の為のメッセージだ、と悟ります。仕事に苦労し、様々な要求が心に湧き上がってくる私の毎日、認められたい時あり、憧れる時あり、等々羊飼いによく似た状態の私の日々だからです。

このメッセージは、

  1. “今のあなたのそのままでイエスの所に行って、イエスに歓迎される体験をしなさい”
  2. イエスと共に過ごす時間が長ければ長いほど、より多く私は変えられる。私が私の内にあるとも知らなかった力を、イエスは私から引き出して下さるからです。
  3. その力が、他の人への私の態度や行いを改善してくれる、という事があなたは自分で解るでしょう。そしてその人達と一緒に、神様からのこのすばらしい賜物を喜び祝うように、あなたは徐々に導かれるでしょう。

というものです。私はこの経験を徐々にし始めています。

☆祈る度に違う体験

はじめに申しましたように、祈る度に違う体験となります。現在は、羊飼いの所から始めるように導かれる事が一番よく起こる事です。けれどもいつもそうではありません。すぐに、最初の部分を長い間思い巡らすように導かれる時もあります。ある言葉が私の気を引いて、その言葉に捕まり、祈りの時間中ずっとその言葉を繰り返している内に、新しい気付きをいただく時もあります。また思い出やシンボルが長い時間現われ、そこからこのメッセージについて何か新しい事が分かったりする時もあります。ですからこの箇所を祈る時に、神様があなたに語りかける色々な方法に驚かないで下さい。

☆救い主について私が分かってきた事

いつの間にか私は思い巡らす時間が増えている、と気付いています。思い巡らす必要があったマリア様を今もっとよく理解出来ます。思い巡らす事によって私は沢山の事を学んでいます。私が示された一つの事は、神様は皇帝アウグスツスのように“上から下へ”と力を使われない、という事です。むしろ反対で、底まで降りて、引き上げるように働かれます。神様は“イエスのもとに行って、イエスに出会いなさい”と私達を導かれます。イエスは一番貧しい人と同じレベルまで降りて下さる為に、御自身を空にされます。イエスは自ら無力な者となって、人々に頼ります。ですからイエスを恐れる必要は全くありません。むしろイエスは人々の心を引きつけます。そしてイエスを通して御父の力が働くのです。イエスのもとに来る人達の内深くに、はじめから御父が植えて下さっていた優しさが引き出されます。こうして私達は変えられます。この時人は感動して感謝と賛美が溢れ、それを人々と分かちあいたくなります。今まで避けたかった人達とさえも分かちあいたくなります。

ですから私にとって、喜び、感謝、お祝い、分かちあい、プレゼント交換、歓迎というクリスマスのテーマは、すべてメッセージのこの中核から流れ出ています。私にとって、これが今日ここにいる私への神様からのメッセージです。

そしてこれは年間を通して毎日の為のメッセージなのです。私はこのメッセージに応える力を願って祈ります。



目次に戻る


信徒宣教者としての信仰
金順鎬(キム・スホン)さんをお迎えして
大庭 大田咲子

ロザリオの月も終りに近い10月28日、湘南台センターで、コロンバン会信徒宣教者の金順鎬さんをお迎えして講演会が開かれました。テーハン神父様はじめ、17名のかたが集りました。

金さんは、10年前に受洗され、1年半前に来日されました。日本での主なお仕事は、「山谷で週2回」3〇〇人分の炊き出し。「ステラマリス」横浜に寄港する外国船訪問「シェルター」主に、東南アジア系の女性が夫の暴力から逃れ、一次的に収容される施設等で、多くの弱い立場の方々のために働いて下さっています。人間の本当の幸せは、どこにあるのかを、自分の中で問い続けていらっしゃった金さんが、そこに集る人々との関りの中から、その答を見出そうとされている姿に、感銘を受けました。又金さんを通して、神様が人を「遣す」ことの意味を、改めて、私達ち一人一人の心に問いかけられたように思いました。お話の内容を、出来るだけ金さんの言葉のまま、少しまとめて紹介させていただきます。

山谷での炊き出し最初は、やはり人々との接触に抵抗があったが、ある時、酔ってよたよたしながら近寄って来た男性が、怖くて逃げ出そうとしたところ、彼の方から声をかけて来て(顔や手を怪我し、出血していた)何故自分がなぐられなければならなかったのか、理由が解らず、少しでも話しを聞いて欲しかったこと、人間として感心を持ち、相手にされたいと望んでいることが解り、神様が私を山谷へ行かされた理由を初めて感じた。

ステラマリス最近、船の生活はいろいろと発達し、上陸の時間も短く、益々彼らの世界は狭くなっている。この訪問は、大変歓迎されている。ある時、ウクライナの船員から、英語が話せる司祭を連れてきて欲しいと頼まれた。船の中で、事件に巻き込まれて困っている様子があり、宗教とは関係なく、何かにすがりたいという気持ちから頼んできた事を感じ、すぐに司祭を連れて行き、ミサを立てた。カトリック信者は一人も居なかったが、宗教が違っても、家族の為に働きに来た遠い國で、かかえている心の不安を理解し、少しでも和らげることが出来るように祈った。

シェルターここでは、三人の赤ちゃん誕生に出会ったり、痛々しい女性の姿を見て、涙することもあった。そのなかで、不法入国して来た男女が、出産の費用が無く助けを求めて来た。ビザがない為に助ける手立てがなく、修道院を訪ねてみたが、設備がない所では危険だと断られた。どうしたらよいか解らず悩み、祈って祈って、とうとう神様は何も教えてくれないと怒って、祈りも出来なくなった。祈っても解決の方法は見えず、神に私は逃げます、もう何も解りません、あなたにお任せしますと祈った。4日後、修道院から電話があり、今朝9時に修道院で生まれたこと、救急隊の人が安く見てくれる病院を捜してくれて、赤ちゃんは無事であることを聞かされた。今まで、私の力でなんとかしなければと思っていたが、神様がして下さることが解った。

日本に来て、何度か国に帰りたいと思ったが、この時、初めて自分の悩みも消えた。神様は、私の心の中にいらっしゃったことを知った。私は聖書の中で、苦しみを理解し、受け入れたイエス様が好きだった。このような機会と経験を通して、私にも苦しむ人の中にも、イエス様がいらっしゃたことを悟らせて下さった。家族の為に遠い國で働き、命をかけている船員達の心の中にも、イエスを感じ、人を通してイエスのことが解った事に感謝した。



目次に戻る


葬儀を考える会報告
辻堂2区 佐々木美奈子

昨年5月に「葬儀を考える会」が発足し、葬儀に関するアンケートを実施したり、11月には集いを持ったりました。その中で葬儀費用に関するご意見やご希望が多く寄せられ、教会としての基準祭壇を検討し展示をしました。これらと平行しながら、葬儀や費用の事だけでなく、臨終から葬儀までの辛く不慣れな為に気苦労の多い時期に対して、少しでも役に立つ「手引き」を考えていきたいとの話し合いを行ってきました。テハン神父様からは「ターミナルケアからクリーフワーク全体を考える手引きを考えてほしい」とのアドバイスをいただき、この程ほぼ最終的な形での手引き「臨終から葬儀まで」が出来上がりました。

11月12日には集いを開催し、この手引きを参加者に配りました。70名近い参加者は、6つのグループに分かれて丁寧に読みながら、1時間近く分かち合いをいたしました。その後、各グループからの報告がありました。どのグループからも「知りたいと思っていた事が簡潔にまとめられている」「元気な時にこのような勉強をしておきたかった」との言葉をいただきました。この中で、緊急時の連絡やご遺体の搬入、ミサ形式とことばの祭儀による葬儀の違い、金額の明記、未信者の葬儀に関しての記載の事などが、質問や提案の形でなされました。それに対して、テハン神父様からは、次にようなアドバイスがありました。

今後この「手引き」をどのように活用していくかの方向に対しては、以下の提案がなされました。

2年近い日々をかけて準備された手引きに対して、参加者からも神父様からも、好評をいただきスタッフ一同大変嬉しく思っております。今後、今回の事も含めて更に検討し、よりふさわしい手引きとして、皆様のお手元にお配り出来るようにして行きたいと思います。引き続きご意見やご質問などをお待ちいたしておりますので、よろしくお願いいたします。



目次に戻る


地区割り見直し検討について
(藤沢ブロックの場合)
藤沢2区 小野精司

今年6月から『地区見直し検討小委員会』がスタートしました。藤沢ブロックの検討状況について報告致します。

1992年より『ブロック・地区割り制度』が採用され、今日に至っています。1年ほど前に「地区毎の人口増加・減少及び高齢化現象のため、現行の『作業当番制度』にアンバランスが生じている」との指摘があり、このため地区割り検討小委員会が発足しました。委員会の使命は、『信徒の教会活動への参加意識増加』というブロック制度の成果を踏まえ、単なる『作業当番制』の地域割りを脱して、『信徒使途職としての教会活動、地域社会への貢献』を目指して、新しい考え・アイディアを2年程度で検討し、教会委員会に提言することです。委員は5ブロックより男女各一名の小計10名、教会委員長と事務局長、合計12名で構成されています。これまで委員会が2回開かれ、趣旨説明と各ブロック・地区の状況が報告されました。

現状では、『地区割りと当番制とが混同』して、受け取られているブロック・地区が多い実状から、双方を切り離して考え、『地区割りのあり方』を優先して検討することになりました。「当番制のあり方」は、地区割りのあり方が見えてきた段階で改めて検討します。

藤沢ブロックでは、藤沢2区の家庭集会(10月27日)の他に、全体集会(11月5日)が開かれ、検討されました。それらヒアリングの主なものを紹介します。藤沢ブロックの信徒数は、藤沢1区377名、藤沢2区202名、藤沢3区206名、合計785名です。特に藤沢1地区は信徒数が多いだけでなく、藤沢市以外に鎌倉市および横浜市の一部をも包含し、地域も広き過ぎるので二分割すべきとの意見がありました。また、地域の信徒活動を活発化していくためには、顔の見える範囲(Face-to-Face)が望ましい。現在の連絡員の受持ち範囲(班単位)は、バザー券・クリスマスカード・復活祭カードなどの配布はうまくいっている。

しかし、コミュニケーションの面では、充分とは言えない。高齢化が進みつつあるので、精神的ソフトケアの面で役立ちたいが、福祉部や聖体奉仕部門に報告できる程度まで、実情が把握できていない。災害発生への安全確認などの面でも、隣近所などの顔の見える範囲・班単位での活性化が望ましい。もし新たに線引きする場合は、道路や行政単位よりも学校単位も検討して欲しい。このような話合いと検討を深めていけば、来年予定されている「司祭による信徒家庭訪問」にも役立つ情報が得られる、と考えています。



目次に戻る


鵠沼ブロック集会
鵠沼2区 小藤 晃

11月19日(日)9時半のごミサのあと11時より12時30分までセンターホールで今年度2回目の鵠沼ブロック集会が開かれました。この日は教会フォーラムと重なり、鵠沼ブロックの信者の皆さんはさてどっちに出たものか、と迷われた方も多かったのではないかと思います。いっそのこと今回のブロック集会はとりやめて、皆でフォーラムに出たらどうかとの意見もありましたが、ブロック活動も重要であり、今年度の教会年間行事予定に当初から組み入れられていたことゆえ、予定どおり、開催しました。40名ほどのひとが参加し、テハン神父様もフォーラムと掛け持ちで、来て下さって、活発な意見交換、話し合いが行われました。主な内容を以下報告いたします。

(1)司祭、シスターの家庭訪問

テハン神父様より、12月からもう一人の助任司祭が藤沢教会に着任されるので、多少余裕が出てくるものと期待している。これを機会に来年1月より司祭、シスターによる信者の家庭訪問をできる限りやりたいと考えている。ついてはどのようにしたらよいか、してほしいか、各地区で話し合ってアイデアを出してほしいとのお話があった。その場で地区毎に分かれて話し合いを行った結果、まずは健康上の理由、あるいは何らかの事情で教会に来られない人、また従来きていたのに最近見えなくなった人をターゲットとするのがよいのではないか。そのために近隣の人が機会をみつけて(たとえば今回教会のクリスマスカードを持参するなどして)信者の意向、希望を打診し、各地区のブロック世話人を通じ司祭またはシスターに伝えることから始めようということになった。

(2)地区割について

鵠沼ブロックとしては現在の地区割で特に支障はないので、現状維持とする。ただ教会の当番、行事の手伝いについては地区というよりブロックとして対応していくことを考える。

(3)バザーについて

従来どおり、各ブロックがバザー実行委員を担当するとなると順番からいって来年度は鵠沼ブロックの担当になる。これまでのバザーに対する感想、バザーの目的、意義などフリートークを行ったが、出席者の大半の意見としては続けた方がよいが、やり方、内容については見直し、変えた方が良いというものであった。具体的には今後話し合い、検討して行く。

なお鵠沼ブロックの今年度残された主な行事は2月のミニ黙想会、3月のブロック集会です。以上



目次に戻る


壮年部旅行
辻堂2区 高田龍彦

11月11日(土曜日)、第4回壮年部の日帰り親睦旅行が行われた。

参加者は例年並の15名。当日は雲一つない秋晴れで風もなく暖かくて、旅行には最適な天気であった。

集合場所である藤沢教会に自宅から歩いて来る人、自転車で来る人、自動車で送ってもう人と、思い思いの方法で出発の8時45分には、ほぼ全員が集まった。8時50分には迎えの小型バスで出発した。

バスの中では、幹事からお茶とビールとお菓子がみんなに配られた。移りゆく風景とおしゃべりを楽しみながらそれぞれくつろいだ時間を過ごした。中にはひたすら寝続ける人もいた。交通渋滞もなく、バスは順調に走り、厚木・飯山を通って10時15分には最初の目的地宮ケ瀬に到着した。

そこは、部分的に小京都のような雰囲気の場所で、茶店があり、くず餅と蕗の佃煮をごちそうになった。店の人が感じ良いこともあり、その店でほとんどの人が、先に土産物を買っていた。

その茶店から少し離れた所の広場に日本一大きいと言われている一本の大きな樅の木があった。その木は12月上旬より12月25日まで豆電球で飾られ土日は各種イベントが行われ大勢の人が集まるとのこと。再びバスに乗り、5分位走ると、宮ヶ瀬ダムに着いた。そこからは徒歩でダムの堰きの中央まで行った。そこに、高低差121メートルのエレベーターがあり、ダムの下まで降りると、地下室のようになっており、一分位歩いて行くと、目の前が急に明るくなり、紅葉した木々や滝などが見えた。滝の前で、みんなそろって、記念写真を撮り、その後もそろってダム周辺の散策をした。31分ぐらい歩いて行くと、そこには、迎えのバスが待ってくれていて、再び乗車した。5分くらいで、本日の最終目的地の日本料理屋に到着。大広間に通され、まずはビールで乾杯し、後はゆっくりと食事を楽しんだ。カラオケの設備も有ったが、昼間のせいか、誰も歌おうとしなかった。そこを14時15分に出発。帰りも渋滞に合うこともなく、全員元気に藤沢に15時45分に着いた。



目次に戻る


第9回「湘南短期キリスト教セミナ−」報告にかえて
実行副委員長 兼子盾夫

今回のセミナ−では毎回の講演からとくに印象に残った言葉・印象を拾ってみます。

・11月11日坂東性純先生「神と仏」からの言葉

(1)愛の働きあるところに神あり。阿弥陀仏が慈悲心をもっておられるのではなく慈悲心あるところに阿弥陀仏がおられる。「神と仏はともに名詞ではなく、動詞(働き)である」(2)諸宗教の違いはなくならないが、むしろ違いをはっきり認識すること。大拙の言葉「幼稚のうちは違いを憎むが、心開かれていれば、その違いを楽しむようになる。」

・11月18日太田道子先生「天に栄光、地には平和」からの言葉

(1)NGOとは人間を人間らしく生かすための市民運動。人権を抜きにして平和を語ることは出来ない。平和とは単に戦がないことではない、十全であること、満ち満ちていること。そういう意味では日本では戦はないが、平和もない。栄光は光ではなく、重みである。

・11月25日加賀乙彦先生「ザビエルと高山右近」からの兼子の得た印象

高山右近を現代に書く意味。(1)日本的しがらみをも捨て、あく迄棄教を肯んじなかった右近、その本籍は天にあった。揺るぎない信仰が現代の教会と日本社会に与える意味。先生の情念。同時に(2)遠藤の提起した「日本泥沼論」への明確な回答ともなっている。

・12月2日奥村一郎師「日本的霊性と福音、小事と瑣事」からの言葉

「汝自身を愛する如く、汝の隣人を愛せよ」は既にあった。イエスの新しさは「私がしたように、お互いに愛しあいなさい」という相互愛のすすめである(ヨハネの福音)。



目次に戻る