八 角 形 に ゅ ー す

2001年2月4日

聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会


目次

キリスト教一致合同祈祷会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ティム・ムルロイ 神父

教会委員会報告

荒れ野(ルカ4章1〜15)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・マラキ・ハンラティ神父

大聖年の閉幕と21世紀への旅立ち ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼1区 福井 敏之

ベトナム新年の集い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・グエン トラン キム

壮年部新年会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大庭 飯田 治平

婦人部新年会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼1区 真田 禎子

防災訓練の日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼1区 八子 俊吉

藤沢教会の友へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・キジト神父

葬儀を考える会報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂2区 佐々木美奈子

強羅暁の星園のこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・シスター 大橋久子

2月の主な行事

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キリスト教一致合同祈祷会
ティム・ムルロイ 神父

次の文は、去る1月27日、藤沢の聖心布教姉妹会に、市内のキリスト諸教会から多勢の教徒たちが出席して行われたキリスト教一致合同祈祷会で、私が話した説教からの抜粋です。聖書の朗読は、ローマの信徒への手紙12:3〜18、マタイ20:25〜28でした。

今日は、藤沢にあるキリスト教諸教会の方たちが、キリスト教一致を祈るためにここに集まっています。 私たちの祈りは、世界中にある多くのキリスト者たちが、特にこの時期に、一つになるよう願うものです。 新世紀の幕開けに当って、前世紀の間にも同じ様に祈られた、無数のキリスト教徒たちの祈りも思い起こしましょう。 そしてそれらの祈りに応えて下さった神に感謝し、これからもより深い一致のために私たちを導いて下さいますようにお願いしましょう。

私が今日の合同祈祷会のために選んだテーマは「奉仕」です。 先程読まれた聖書の2つの箇所で、神は私たちに、奉仕と一致の間にある強い絆を、正しく理解するよう勧めていらっしゃいます。 それは又、私たちがキリストの弟子として、同じ宗派の間だけで尽くし合うのではなく、全ての民に仕えるよう呼ばれている事を思い起こさせてくれます。

もし私たちが、先程のマタイの福音書を正しく理解しようとするなら、その背景を調べる必要があります。 その背後には、非常に沢山の争いや分裂の体験を伴う話があったでしょう。 2人の息子がイエスの弟子である母親が、イエスに、「イエスが王座に着かれる時、息子達に最も地位の高い座を与えてください」と、頼みます。 しかし、イエスは彼女の要求を聞き入れません。 そして、他の使徒たちは、この野心を聞いて腹を立てました。 イエスは、この時、次のように述べられました。「あなたがたの中で、偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(マタイ20:26〜27) イエスは利己的な野心と願望は、使徒たちの間の嫉妬と不安につながる事、又、もし早い段階で解決しないと、憎しみや分裂が起こることを知っておられました。 イエスの言葉は、野心を捨てて謙虚な奉仕を強く願うものでした。 言い換えると、互いに心から尽くし合うことが、キリスト者を共につなぐ接着剤のような働きをするということです。 

聖パウロも、ローマの信徒への手紙の中で、奉仕は一致をもたらす、又、一致を維持するための重要な道具であると、彼の考えを述べています。 神は私たち1人1人に、キリスト者である仲間のために仕えるよう、特別の賜物を与えてくださいました。 ですから、私達は、神から頂いた賜物を独占するのではなく、さまざまな恵みを持つ多くの人々の協力を必要としている健全なキリスト教共同体と、互いに分かち合うべきでしょう。 聖パウロは、「というのは、私たちの1つの体は多くの部分から成り立っていても、全ての部分が同じ働きをしていないように、私たちも数は多いが、キリストに結ばれて1つの体を形作っており、各自は互いに部分なのです。」と、書いています。 私たちが神に与えられた賜物を仲間であるキリスト者のために使うなら、その奉仕は同じキリスト教の仲間としての相互依存、一致を育むことになるでしょう。

キリスト諸教会がもつそれぞれの異なった長所、さまざまな恵みを考える時、 神がそれらを特定の教会の教徒のためだけではなく、全てのキリスト教徒のために使わせようと意図されたことに、もっと気付くべきです。 この考え方に気付くと、諸教会のちがいは私たちを分ける壁というより、むしろ互いに引き寄せあう絆となります。 というのは、私達は皆お互いに必要とし合っているからです。 そしてその必要性は非常に高いものですから、それぞれの教会は、神が造られた全てのキリスト者の幸せのために貢献する事が出来ます。 自分に与えられた特別の賜物を認識し、それを他人 ―全てのキリスト教徒― のために快く使おうという意識を持つ事は、必ず一致への道に繋がるでしょう。 

一方、奉仕の気持ちを持って共存共栄することは、その奉仕を受けるために、心を開かなければなりません。 それは、自分が他の教会の人より優れているから奉仕される事を願うのではなく、心を開いて奉仕を受けることによって、謙虚に自分の限界を認識する事が出来るからです。 聖パウロは、「私たちに与えられた恵みによって、あなたがた1人1人に言います。 自分を過大に評価してはなりません。 むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」  しかし、自分の弱さ、足りなさを正直に認めることによって卑屈になってはいけません。 むしろ、私たちはお互いに必要とし合っている、そして奉仕される事が必要だという事実に気付くべきです。 他の諸教会のために心から仕える気持ちと、奉仕を受ける気持ち両者の調和を取ることが必要でしょう。 この様にして始めて、私達は、相互依存し合い、一致に向けての旅が出来るのです。



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教会委員会報告

(1月20日(土))

1.静思のひととき

心身をリラックスさせるエクササイズの後、詩編19・9、10について、しばし黙想した。

2.報告事項

  1. 年末年始の行事 1月7日の白柳枢機卿様の手と皆様のご協力によりタイミングよく大聖年の幕を閉じることができたことを始めとして、年末年始の諸行事にお力を頂いて有難う御座いました。白柳枢機卿様の件では倉橋さんに色々駆け回っていただいたことを感謝しています。
  2. 教区の建設委員発足 多くの教会で建設に関する計画を進めており、先般紹介したように名古屋教区では「教区建設共同基金制度」を発足させています。林神父様に聞いた話では、横浜教区では4月よりカンペンハウド神父を中心に今後の建設問題などを幅広く考える委員会を発足させる予定です。これから考える段階に来ており、方向付けに関しては白紙の状態に近いとのことです。当教会委員会としては、この委員会の動向を見守りながら、小教区をこえた大きな囲いの中で色々な検討ができる方が良いだろうということで、後押ししていきたい。

3.フォーラム関係報告

フォーラム事務局の窪田壮年部長から、前回のフォーラムを受けて発足した専門検討チームの3回の会合で出た話について、キーワード化した資料を基に説明があった。明日(1月21日)開催される第3回フォーラムは@専門チームの中の3人に代表して意見を述べてもらい、A質疑応答、B小グループに分かれて検討という形で進める予定である。その結果に基づいて専門チームの会合を数回開き、3月4日に第4回フォーラムを開催する予定である。
これらに関連して意見交換を行なった。

3.検討事項

4.その他

  1. 1月27日(土)午後2時から聖心の布教姉妹会(みその)本部聖堂で藤沢地区キリスト教一致合同祈祷会が行なわれます。説教をティム神父様がなさいます。

  2. 2月12日(月・休日)午前10時から藤沢教会で横浜教区典礼研修会が行なわれます。テーマは「日本の典礼の展望」で講師は南雲神父様、高橋様、梅村司教様です。どうぞ、ご参加申し込みください。婦人部にはスープの用意を、総務部には会場の準備をお願いします。どうぞ宜しく。参加予定者数は230名です。

  3. 2月12日午前10時から平塚教会で藤沢教会初代主任司祭バーク神父様の埋葬のミサがあり、そのあと茅ケ崎の墓地で埋葬が行なわれます。どうぞご参加ください。

  4. 一粒会では、山口神父様をお迎えして、神父様のお父様の追悼ミサを行なう予定ですが、日時は未定です。

  5. 2月25日(日)は静修の日で共同回心式も行なわれます。指導司祭を原宿教会の山本神父様にお願いしました。

  6. 明日21日から横浜教区の聖体奉仕者の研修会が3回(毎回第3日曜)にわたって行なわれます。参加者は120名です。

  7. 1月27日(土)、28日(日)はベトナムの旧正月の行事が予定されています。

  8. 入門式を2月18日(日)に行い、入信志願式が3月4日(日)に行なわれ、この時は司教様がお見えになります。

  9. 2月4日(日)に藤沢ブロックの集いが、シスター嶋本をお呼びして「家族のための許可の言葉の体験」というテーマで行なわれます。他のブロックからもぜひご参加ください。

  10. 葬儀を考える会でまとめたリーフレットが完成しました。ただ配るだけではなく、集会等で説明したい。

  11. 相模原教会の千葉神父様からキリスト教入門講座のリーダーを二人送ってもらえないかという申し入れが来ている。

  12. グリフィン神父様が9月から新しいリーダーの養成講座を開く可能性がある。



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ルカ福音書を祈るシリーズ・荒れ野(ルカ4章1〜15)
マラキ・ハンラティ神父

 荒れ野の体験とは、私にとって激しい内面の葛藤の時を意味します。神様が私を完全に忘れてしまった、と感じる時です。私が置かれている特別な状況の中で、気持ちが相反する二つの方向に同時に強く引っ張られることによって、この葛藤は起こります。一方で苦しみ、憧れ、恐れ、また自分にとっていいようにすぐに状況を変えたいとはやる心が引き起こされ、もう一方で −そんなに強くは感じられないのですが− 何か深い所からその状況に留まりなさいと語りかけられるのです。ですから葛藤が起こります。“どうしたらいいのか?”と叫ぶ時です。疑いと内なる混乱の時、弱さと誘惑を感じる時、眠れない夜々、重たい日々となります。神様に助けを求める事しか出来ない、それなのに神様は聞いて下さっているとも、答えて下さっているとも思えない、そのような時です。(沢山の方々は、私が語っている事がよく分かるだろうと思います)

 しかし荒れ野の体験は、霊的に大きな成長をする場になり得る、と私は確信するようになりました。つまり荒れ野の体験を通して、神様に一層近づけられる、という事です。(神様に近いかどうかは、私を通してどの位神様に働いていただけるかという事で示されます)荒れ野の祈りは、苦しい体験を成長の糧に変えるために大きな意味をもつと私は信じています。

その都度最初に、どの位の時間をかけてこの箇所を祈るかを決めます。

 それから聖霊が、現在のまた過去の荒れ野に私を導いて下さるように頼みます。私を神様に近づけようとイエスがこの荒れ野で待っていらっしゃると気付けるように願います。次は、この箇所を使っての私の祈りの例です。

 ルカ4章1〜15
☆荒れ野に入って行かれるイエスに驚く

 エリコに近いヨルダン川を離れて行かれるイエスを想像します。イエスは洗礼の時に、神様が共にいて下さり愛されている事を、深く強烈に実感しました。深く悟った御父のこの心を他の人達にも伝える事が、ご自分の使命だと強く確信もしました。 感謝と賛美、そしてすべての人を御父に近づけたいという望みに満たされました。

 ですから荒れ野に導かれるイエスを見て、私はびっくりするのです。一体どうして聖霊は、荒れ野という最悪な場所に導かれたのでしょうか? 私は思い巡らしはじめます。

どう考えてみても荒れ野は出来れば避けたい場所です。身体にとって、荒れ野はとても危険です。日中の熱射、夜の酷寒を避けて穴に隠れなければなりません。水はめったにありません。食べ物もない。草もない。生きているのは昆虫と蛇とさそりだけ、まさに命を脅かす場所なのです。

 霊的に、荒れ野は神様不在の場所と思われていました。神様の命の印はそこにはありません。悪魔の場所と考えられていました。神様の愛を深く体験できる場所とはなり得ない!そう抗議している自分に気が付きます。

 それに、荒れ野ではイエスの使命を分かち合おうにも人がいません。矛盾だ! 私は困惑します。“荒れ野に導かれて行く時に、イエス、あなたも同じように感じられましたか?”と私はいぶかり尋ねます。

☆それでもあえてあなたは行かれます

私はこの事を理解しようと努めます。あなたにもよくはお分かりにならない。 それでも聖霊に身をまかせ、信頼して従われるイエス、あなたを私は見つめます。

☆葛藤の内に留まる

荒れ野に留まるあなたをよく見つめます。日に日に増していくあなたの苦痛。灼熱の日中、底冷えで眠れない夜々に耐えて、段々弱っていかれる。切望と淋しさがいや増す。

 あなたのお身体の全身は、人間の本能のすべては、命を保ち苦しみを避ける為に、荒れ野に留まっていてはいけない! と叫んでいたに違いありません。一刻も早く荒れ野を出て何かを食べ、飲み、避難所と友情を見つけるのだ、と馳りたてる心が、留まろうとする決意と絶えず格闘し続けていたに違いありません。あなたの内にどんな葛藤があったのでしょうか?

 私はあなたの心の内に浮かび上がってくる疑いを想像する事が出来ます。“御父は絶対にこの苦しみを望まれない”“御父は絶対に私の死を望まれない”とか“私は聖霊に正しく聴けているのでしょうか?”とか“これは私の使命の正反対ではないのですか?”“私はあなたの、『愛する子』ではなかったのですか?”等々の疑いが日夜湧き上がってきた事でしょう。

☆絶え間なく祈り、聖書に光を求めます

このような疑いとの葛藤の中で、絶え間なく祈り続けていらっしゃるイエス、あなたを見つめます。詩篇を次々祈っていらっしゃるあなたのお声が聞こえてきます。詩篇22“私の父よ、私の父よ、何故あなたは私を見捨てられるのか? 私は助けを求めて死にもの狂いで叫ぶ。けれど助けはまだ来ない。

昼私はあなたを呼ぶ。けれど答えはない。夜も呼ぶ。けれど休みは得られない”また詩篇 63・2“私は切にあなたを求め、わたしの体はあなたを思いこがれる。私の魂はあなたに渇く。枯れた渇いた水気ない地で”聖霊が弱さの中で祈るあなたを助けます。

 あなたは聖霊に光と慰めを求め続けていらっしゃるようです。砂漠(荒れ野)での先祖の体験(出エジプト記)から何か助けられましたか? それは彼らにとって、長く曲がりくねった恐ろしい体験でした。けれども彼らは、奴隷の身分から約束の地へと導かれる為に、砂漠を通らなければならなかったのです。 御父が砂漠でどのようにして彼らに食べ物と飲み物を与えて下さったのか、あなたはご存知です。ついに砂漠から抜け出た時には、彼らは大きな信頼と感謝をもつようになっていて、神様にも、またお互いにもとても近づけられていました。砂漠で、彼らは御父の心をよく学んだのです。

先祖の体験は、御父が下さるまで持ちこたえ、忍耐強く持つ為に助けになりましたか?

彼らの弱さをあたなはご覧になりました。彼らと違い、あなたはご自分で獲得しようとなさらず、御旨が分かるまで待たれました。御父へのあなたの信頼、あなたの決意、あなたの誠意、あなたの忍耐に私は感心します。

“恐れるな、私はあなたと共にいる”とイザヤの一節を唱えていらっしゃるお声が聞こえてきます。あなたの使命は“苦しむしもべ”のようかも知れない、と受け入れ始めていらっしゃいます。それは、すべての人に代ってご自分を完全に与えつくすという結果となるでしょう。“あなたの御手に、あなたの御手に、我身を委ねます”と何回も繰り返し続けていらっしゃるあなたのお声が聞こえてきます。荒れ野に留まる決心を、あなたは何回も何回も、改めてし直さなければならなかった、と私は悟ります。

☆完全なる明け渡しと受容

それから更に多くの日が経っても、まだ荒れ野にいらっしゃるあなたをみつめます。もし御旨ならば、たとえ死んでもここに留まるとあなたはしっかり心を定めていらっしゃるように見えます。あなたはご自分を完全にからにしていらっしゃいます。御父からすべてを戴いている事を認めていらっしゃいます。そして今、戴いているすべてを御父にお返ししていらっしゃいます。

 そこで私は、突然思い至ります。あなたはすごい平和を感じていらっしゃるのだ、と。あなたは今、御父をとても近くに感じていらっしゃる。洗礼の時と正に同じように感じていらっしゃる。愛されている実感、御父の力がご自分の内に流れている実感、今あなたは、ご自分をからにする事の大切さを理解していらっしゃいます。

☆荒れ野から導き出されて使命に向かう

今聖霊はあなたを荒れ野から導き出されます。あなたは感謝に満ちていらっしゃいます。 “御父が備えて下さり、守って下さっている”と確信していらっしゃいます。ご自分が思っていらした以上に御父の救いのご計画を委されていたと強く感じていらっしゃいす。それは、御父が今ここで私に望まれる事は何かと、そのたびごとに聴きながら、示されるのを待ちながらやっていくこ− 正にあなたは孝行息子です。“私の愛する子”として父からすべてを戴き、それに応えてすべてを父にお返しします。

ご自分の使命を開始されるあなたを見ます。荒れ野の体験は、あなたのメッセージに影響を与えました。ガリラヤの村を通られた時、人々に告げられます。“確かに御父は備えて下さっています。空の鳥野の花によりはるかにです。見れば分かるでしょう?ですから御父に信頼しなさい”

 あなたは、荒れ野の体験の人達に特に関心をもっていらっしゃると分かります。どうする事も出来ないと感じている人達、切り捨てられたと感じている人達、葛藤している人達、切望している人達、神様以外に助けてくれる人はいないと感じている人達、このような人達にこそ希望を与えたいと、あなたは熱望していらっしゃいます。 あなたは、御父へのご自分の信頼と希望と賛美を、そのような人達に伝えます。あなたのお言葉には力があります。こうして彼らの内に神の国が始まり、広がります。

☆私の体験

私はこの箇所をよく祈ります。私の体験では、いつも自分の荒れ野の体験にすぐに引き戻されます。それは例えば、忘れられてしまったとか、拒絶されたとか、不当に扱われたと強く感じた時の体験、期待は打ち砕かれ神様が見えなくなってしまった時の体験、またすごい淋しさ、恐れ、怒りからすごい葛藤と苦悩が引き起こされた時の体験、自分が弱くて誠実である事は難しいと感じた時の体験等です。

 今では、これらの体験から数々の恵をいただいたとよく分っているので、その時気が付いていなくても、その間ずっとイエスは忍耐強く私のそばにいて支えて下さっていたのだ、と悟っています。その恵の例を次に書きます。

☆荒れ野の祈りを振り返って

『荒れ野の体験』の祈りで私がどう霊的に育てられたかを要約します。今になって祈りの時間に、忘れていた過去の痛い体験の記憶が戻ってくる、と気付いています。 深い痛みの体験だからもう一度その中に入りたくはない、私は無視しようとします。けれどもこの箇所を祈り続けると、何回でもそこに戻るように導かれ、ついには“イエスよ、私をこの荒れ野に導いて下さい。この苦しみの中で、あなたは進んで私と共にいて下さり、私に力を下さろうと待っていらっしゃることを示して下さい”と繰り返し始めます。私が更にイエスに近づけられ成長できるように、他の人が同じように成長するのを助ける事ができるように、イエスは私をこれらの荒れ野に改めて導きたいのだと信じます。

 このように、この箇所は私を霊的に成長させてくれます。またイエスをもっとよく知るように助けてくれます。イエスの使命、イエスと御父、聖霊との関係、イエスは人の所へ特に人の乏しさや弱さの中に入りたいのだという事も、更によく理解させてくれます。また、長く厳しいイエスの荒れ野の苦闘は、ご自分の弟子と敵との両方からの反対、抵抗、妨害に出会う準備であったのだ、と悟ります。 荒れ野は、ご受難と死の予行演習だったのです。まさに重要な箇所です!。



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大聖年の閉幕と21世紀への旅立ち・白柳枢機卿様を迎えて
鵠沼1区 福井 敏之

 主のご公現の祝日にあたる1月7日(日)白柳枢機卿様をお招きしてミサの司式と講話、大聖年の閉幕と新世に向けての派遣式が行われました。ミサのお説教で枢機卿様は以下のように話されました。

「大聖年の間に私達は“神様の手のひらには一人ひとりの名前が書かれていて、母親が忘れても神様は決して忘れない”。神様がいかに私達を愛されていたかをあくまでも考えた。大聖年は一つの節目であって竹が節目で強くなるように私達の信仰も強められた。これからは“神の愛に生きること”“私があなたを愛したように人々を愛しなさいという神様の掟を守って生きていく”という堅い決意が必要である」と話されました。

 愛のために生きた人としてマザー・テレサを例にあげ、「何をしたらよいかとの問いに対してマザーは“一人ひとりをイエスと同じように愛すること、最も近いところ−家庭や日常生活の場など−から愛の実行をはじめなさい、愛に飢えている人がいるかも知れない”と述べている。現代社会が求めているものに応えること、21世紀はまさにこれを行う時代」と位置づけております。

 続いて行われた講話では「20世紀は多くの戦争や紛争にみられるように人間の生命がこれほどまでに軽んじられた時代はかってなく、死の文明が支配している恐ろしい時代と特徴づけられること、また、戦後の価値観として良いものをたくさん所有することに価値があるという所有の文明と言える。こうした時代背景をみて教皇様は“生命の文明、愛の文明を作りあげねばならない”と言っておられる」

「争いは多くの場合、“違い”から起きてくる。神様は“全ての人が一つになるように”といわれるが、これは違いを無理に一つにすること−他のアイデンティティーを無視すること−ではなく相手を認めることであり、違いが私達を豊かにしてくれる。教皇様も新年のメッセージで“異文化の間の対話”を強調されている。違いを乗り越えて生命の文明、愛の文明をうちたててゆかねばならない」

「神様は一人ひとりに宿っておられる。世の終わりまであなたと共におられる。自信をもってキリストに生き、愛を伝えよう」と結ばれました。

 そのあとボーイスカウトの手によって大聖年のシンボル旗が納められ、大聖年のローソクから一人ひとりのローソクに新世紀への派遣の点火が行われ終了しました。

 この歴史的な転換期にあたって、私達は何をすべきかを易しく明快にお話しいただいたと感じており、枢機卿様に感謝申し上げます。

 また、枢機卿様をお招きするについて倉橋さん(鵠沼1区)ご一家の皆様の大変なご尽力があったことを申し添えます。ありがとうございました。



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ベトナム新年の集い
グエン トラン キム

あけましておめでとうございます。

 いま新年の挨拶をするのはおかしいかも知れませんが、我々ベトナムでは、旧暦を主に使っているために、1月24日が新年にあたるわけで、それでいま新年の挨拶をしたわけです。

 大聖年も終わり、今年は21世紀になりました。そこで、ベトナム人協会の主催で1月2日に新年の集いをしました。

 先ず10時30分から新年のミサをささげ、そのあと外のテントで色々なベトナム料理を作って祝いました。センターホールではカラオケ、ビンゴなどです。風が冷たく寒い日でしたけれど、栃木県とかあちこちから多勢が集まってにぎやかな楽しい1日を過ごしました。この集いの収益は、ベトナムの集中豪雨の被害者のために送りました。

 日本では、何事もなく無事に、新年を迎えることができましたが、でもベトナムとか他の国では災害や貧困などで新年を迎えることができないところが沢山あります。

 いまベトナム共同体では、孤児を助けるためや記録的な集中豪雨によって被害を被ったところに募金をお願いしています。皆さまの暖かい援助をお願いします。直接ベトナム共同体の委員長までお願いします。



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壮年部新年会
大庭 飯田 治平

 信徒の皆様、明けましておめでとうございます。今年の干支は、日本流で言えば巳、私は年男となり、より良き年になりますように神に祈りを捧げたいと思っております。

 さて恒例の壮年部新年会が去る1月13日(土)に教会ホールで開催されました。

 本年は43名の多数の方々が参加し、またオールキャスト4名の神父様も列席され、大変な盛況ぶりでした。私達夫婦も信仰宣言の「聖徒の交わりを信じます」の言葉の如く、会への出席を楽しみにしておりましたが、今年も家内は特別の計らいで参加させて頂き、一番若年のテイム神父様が隣りの席でしたので、大変満足そうでした。

 会に先立ち、今大切な問題提起となっておりますフォーラム「教会委員会の在り方について」が専門検討チームより経過報告がなされ、大変ご苦労な事と思っております。

 いずれにせよ、信徒である私達が問題意識を持ち、個々に教会活動として何が出来るのかを常日頃考え、例え小さな事でもよいからそれを実践することが大切であると、痛切に考えさせられました。 幸い今日ご出席の壮年部の方々は、その点先輩として見習うべき点が多々あり、私も一日も早くそれに近づきたいものと考えております。

 その後、本題の新年会は、非常に手短であった?テハン神父様のご挨拶を頂き、壮年部有志の方による手作りの大相撲立浪部屋仕込みのチャンコ鍋を囲み、これまた差し入れの日本酒銘酒を杯とし、あちこちの席で、ビール、ワインを片手に賑やかな歓談が続きました。私はと言えば、昨年の会で北海道の同郷である事を知ったT氏から信徒としての役割について多大のハッパをかけられ、傍らで聞かれていたテイム神父様も満足の様子でした。 家内は、今年新たに、北海道旭川市の同郷の方がメンバーにおられる事を知って、当時を懐かしむ事が出来、益々新年会と教会が好きになったようです。

 盛大な新年会もあっと言う間に定刻をオーバーしてしまい、本年度の壮年部と教会の洋々たる前途を願い、成功裡に終了しました。

 設営された方々、またご出席賜りました神父様本当に有難うございました。神に感謝



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婦人部新年会
鵠沼1区 真田 禎子

21世紀初の婦人部新年会が1月19日(金)10時のごミサに引き続き開催されました。

 厳寒の時期にも関わらず、100名もの参加者の熱気で寒さも吹き飛びました。なかなか聞くチャンスのない神父様がたの楽器演奏と歌、有志の方々による手品、替え歌、コーラスなどで大いに盛り上がり、皆で心を一つにして楽しいひと時を過ごしました。

 新年会に出席したことのない3名の連絡員による、手さぐりの準備でしたので、不安な気持ちで当日を迎えました。心配したとおり色々不備な点が出てきましたが、マザー・テレサの「平和は微笑みと共にはじまります」の言葉どおり、皆様の微笑みとご協力に支えられて、とてもなごやかな雰囲気に包まれた、くつろいだ、気楽な会になりました。

 20日の日本経済新聞朝刊に「今後の英語教育は、文法や発音などの細部にとらわれずに、積極的にコミュニケーションを行う能力を高めよう」という記事がありました。

 私達も、失敗を恐れずに、積極的に教会活動に参加していきたいと、改めて感じました。

 皆様、ご協力本当にありがとうございました。



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防災訓練の日
鵠沼1区 八子 俊吉

 1月14日の9時半のミサ後、避難訓練が行なわれました。今年で3回目になります。1月21日は講座「応急手当のABC」が消防署の救急隊員によって開かれました。今から6年前の1月17日、阪神淡路大震災が起きました。地震の恐ろしさを身をもって体験しました。最近でも有珠山、三宅島で自然災害は続いています。

 災害が突然発生したら、教会の役割は大きいと思います。弱い人達への救援、特に外国人や高齢者、身障者へ私達の目を向けなければいけないと思います。阪神淡路大震災の時も、ある教会はこれらの人達のために大活躍しました。

 藤沢教会でも突然の災害に備えて少しずつですが、壮年部防災委員会、福祉部、ボーイスカウトが準備をしています。平和な日々が続いているとつい災害の事など忘れがちです。しかし災害は忘れた頃に必ずやってきます。私達は常に準備だけはしておきたいと思います。



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藤沢教会の友へ
キジト 神父

藤沢教会の小さな支援グループを通して寄せられる皆さまの祈り、そして経済的支援により、ルアンダ、コンゴ、南スーダンからたどりついた難民、孤児達が、私が働くウガンダのホイマ教区でどうにか生きてゆくことが出来るようになってもう何年にもなります。

 また今回私は栃木県での農業研修を無事終了することができました。これもまた、いと小さき兄弟達に注がれる皆さまの愛の延長として実現したことです。研修は私にとって実にきついものでしたが、農業技術を身につける意味で大変価値のあるものでもありました。 ご承知の通り、カトリックの司祭にとってこのような研修は余り一般的な学科ではありません。しかしウガンダにいる私の小さき兄弟達への思いがあったからこそ、最後まで頑張ることができたと思います。そしてこの研修で得た知識が難民の生活水準向上のために役に立つことを期待しています。

 お祈りをありがとうございました。一人の“学生”としてつらい思いをしていた時、皆さまからの心の支え、経済的支えにどれほどはげまされたか知れません。

 皆さまが計画してくださった夏休みは私にとって正に心の癒しでした。去年の夏ほど、人生を楽しんだことはありません。本当にありがとうございました。

 私の小さき兄弟達のもとに帰るにあたり、皆さまの更なるご支援をお願いいたします。貧しい難民、貧しいウガンダの人達が生きてゆくためには皆さまの祈りと経済援助が必要不可欠です。

 最近のホイマの司教様からの連絡によると、原因の分からない伝染病“エボラ”が発生したとのこと。まだ特効薬もないため、多くの人々が亡くなっているとのことです。帰国する私に神様が何を用意されているのかは知る由もありません。それでも皆さまが引き続きこの困難な、しかし気高い使徒職のパートナーとして働いてくださる、そこに私達の希望があります。

クリスマスおめでとう。そして良い新年をおむかえください!



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葬儀を考える会報告
辻堂2区 佐々木美奈子

 死者の月である11月に集会を持ち、その折に、臨終から葬儀まで、と言うカトリク信者の手引きを作成中である旨を話し、分かち合いをして頂きました。これを更に検討し、この度、一応完成した形のリーフレットが出来上がりました。

 このリーフレットの活用法について、テハン神父様を中心にスタッフが集まり、度々話し合いを持ちました。

 その結果、一人でリーフレットを読むだけでは充分ではないとの思いから、各地区の集会の折に、このリーフレットを用いて、共に読みながら分かち合いを持ちたいと意見が一致しました。先日、ブロックの代表者の集まりで、各地区の委員に、その旨お知らせして頂きました。

 各地区で分かち合いをします場合には、「葬儀を考える会」のスタッフが出向きますので、集会の折にはお声を掛けて頂きたいと思います。

 事務所にリーフレットが用意してありますので、必要な地区は必要部数を明記の上、お持ち帰りください。

また、分かち合いの結果、出されましたご意見や質問などを今後もお聞かせ頂きたいと思います。



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強羅暁の星園のこと
シスター 大橋久子

 1月22日藤沢教会で、暁の星園へのボランティア募集を突然のように話させていただきました。沢山の方が話を聞いてくださり、申し出もいただき本当にありがとうございました。児童養護施設は2歳から18歳までの子どもが様々な理由で家族と暮らせず、児童相談所を経てやってきます。誕生の時から親との縁の薄い子もいますが、親との関係を求める気持ちはどの子にも強くあり、幼児だけではなく中高生になっても、大人との一対一の関わりを求めています。本当は親を求めていますが、それができなければ、せめて自分だけをみてくれる人がほしいとの願いです。

 職員は設置基準が定められ、子どもの願いに存分に応えることができず苦慮しています。箱根までいらして子どもの相手になってくださる方はないでしょうか。遊んだり、勉強をしたり、月一回でも側にいてくださる方を望んでいます。具体的な事についてはご相談していきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。質問もどうぞご遠慮なくご連絡下さい。お待ちしております。

連絡先 神奈川県足柄下群箱根町強羅 1320

TEL:0460−2−2853・FAX:0460−7−7275



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2月の主な行事

2(金)初金ミサ・例会

3(土)鵠沼ブロック黙想会

4(日)藤沢ブロックの集い

12(月)教区典礼研修会

18(日)教区聖体奉仕者養成講座

25(日)静修の日・共同回心式

28(水) 灰の水曜日 ミサ午前9時30分



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