八 角 形 に ゅ ー す

2001年3月4日

聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会


目次

神に心を向ける・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・主任司祭 トーマス・テハン神父

教会委員会報告

ナザレの会堂でのイエス(ルカ4章14〜30)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・マラキ・ハンラティ神父

故ジョン・バーク神父様の追悼ミサに参列して ・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼2区 石黒 栄一・他

キリスト者一致合同祈祷会のこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・善行 鹿野 明子

典礼研修会「日本の典礼の展望」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大庭 八木 京子

鵠沼ブロック黙想会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼1区 石黒 栄一

藤沢ブロックの集い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢3区 落合 良二

「強羅暁の星園」見学に参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼2区 野村 弘子

3月の主な行事

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神に心を向ける
主任司祭 トーマス・テハン神父

 2月28日から四旬節に入りました。四旬節は、キリストの復活の祭儀を準備する期間です。灰の水曜日の奉納祈願では、「回心と愛のわざに励み、よこしまな欲望と罪から解放されて、御子の受難をふさわしく記念することができますように」と祈りました。

 子供の頃、四旬節の務めと聞くと、断食したり、好きなことを我慢したり、いつもより多く祈ったり、何度もゆるしの秘跡を受けたりし、償いをする意識が強かったと思います。確かに自分自身が行うことを強調した点がありましたが、すべてを悪いとは思いません。 回心と愛のわざとは、自分中心ではなく、神中心の行いであればよいと思います。

 神の呼びかけに心を開き、神の愛をいただき、キリストに結ばれ、私たちを通して神のわざが行われるのです。四旬節は神に心を向けるよい時です。どうしたら神に心を向けることが出来るでしょうか。 それは、自分の心の中におられる神と出合うことです。忙しさと雑音から離れ、沈黙の中で神を待つことです。この出合いは神の御手によるものだがらです。神との出合いにより、私たちの心は新しくなります。何故なら、私たちの心は神の愛によって、心の暗闇と傷がすべてよしとされ、神の子とし、神の行いの証し人となります。 欲望と罪から解放されて、今、現実に働いておられる復活されたキリストに結ばれることにより、自分ではなく、キリストの行いになります。聖パウロのローマの信徒への手紙第12章に「あなたがた自身を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげなさい。 これこそ、人間にふさわしい礼拝です。自分をこの世に同化させてはなりません。むしろ、心を新たにして生まれ変わり、何が神のみ旨か、すなわち、何が善であり、神に喜ばれ、また完全であるかをわきまえるようになりなさい。」と記されています。欲望と罪は、現実から離れている心、すなわち心の分裂の大きな原因であると思います。現実から離れれば離れるほど、不安や恐怖などで心が支配される可能性が強くなります。キリストが私たちの心の指導者でありますように努めましょう。自分自身が中心でいる時、すべてが雑音のようで、心は神から離れ易くなります。しかし、信仰の目で神に心を向ける時、すべてのものが神の啓示になります。灰の水曜日、司祭は一人ひとりの頭に灰をかけ「回心して福音を信じなさい」と唱えます。この言葉を実行できますようお祈りいたします。



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教会委員会報告

2月17日(土)

1. 静思のひととき

心身のリラックスのためのエクササイズとルカによる福音(6・27ー38)について黙想をおこなった。

2. 新年度行事予定

各活動部の概略の行事予定と予算のかかるものについてはわかる範囲でできるだけ正確な予算を今月中に事務局に提出する。これを参考資料として日程調整等をしていく。必要ならば来月の委員会で討議していく。

3. フォーラムの報告

 1月21日(日)に開かれた第3回フォーラムで出てきた様々な意見を専門検討チームで整理し3月4日(日)に予定している次回フォーラムにむけて具体的な提案内容を検討中。フォーラムの情報、経緯、報告については八角形ニュースや教会のホームページにも出されているので見ていただきたい。フォーラムに対する印象や配慮すべき点等について教会委員会からもご意見をいただきたいとの話しがフォーラム事務局の窪田さんよりあった。意見として、フォーラムの提言を待つまでもなく、今の段階ですぐにできること、例えば一人ひとりの居場所造り、意識の転換、活性化、ひとりひとりの福音宣教といった点についてはすぐに始められる土台があるのではないか。

4.婦人部のありかたについて

これまでの婦人部の役割を見直し、ブロック制度のなかで各地区の構成メンバーが一致してともに教会の行事や活動を担っていくという方向をめざした<辻堂ブロックからの提案>があった。これについて提案者の辻堂ブロックから提案に至った経緯、理由についての説明のあと自由討議となった。

辻堂ブロックよりの提案:

<確認した事項>

この3つはは婦人部の役割ではなくブロック制度の中の地区の役割 

<問題点>

<結論>

<提案>

<背景>

婦人部ではここ数年、引き継ぎのギリギリまで次期役員が決まらないという状況が続いていた。一昨年鵠沼ブロックのときに婦人部長一人で総責任をとるというかたちではしたくないということで、各地区二名計六名の体制ができ藤沢ブロックも同じやりかたになった。婦人部長を特に決めず連絡を最初に受ける係を決めた。これまで婦人部長を中心にした婦人部の地区制度とブロックとの関わりがはっきりせず二重構造が続いていた。また連絡員の位置が曖昧なまま婦人部での役割を担ってきているのを整理しなおして、ブロック中心という教会の動きに合わせてブロック全体で教会の行事にかかわると同時に地区をいきいきさせる面を当番とは別に考えていったらどうかという話しが出てきた。2月の初金後の例会でもほとんどの人が積極的にこの形にしていきたいという反応が見られた。

<上記提案に対する意見>

<これからの方向として>

基本的にはこの提案を受けていくということで、婦人部で受け持っていた仕事をブロックに移行することにする、そしてこれまでの連絡体制も今までの連絡員をブロックのものとして各地区に連絡がいくようにする。また、婦人部のものとして流れていたブロック別当番(行事)を3ヶ月毎に一つのブロック全体で受け持つ。責任の持ち方は各ブロックで決める。清掃やご葬儀の手伝いも担当ブロック内で調整して当たる。そのために、「婦人部のノート」が「行事ノート」になり、各行事を進めるときの手引きとなる。男性にも共に係わってもらう体制をつくっていくと言う方向性でよいのではないか。
しかし、婦人部を継続させるかどうかの議論は、婦人部の仕事をブロックに移行する提案とは分けて考えた方がよい。
この問題は、教会全体に係わる大きな問題なので、各ブロック、グループに持ち帰って内容を周知させ意見を確認するという手順を踏んで進めていくべきだと思う。そのため、今日出た方向性についての賛否、意見を各ブロックから2月28日までに委員会にいただいて3月の教会委員会で確認することとしたい。

5.2000年度会計報告

昨年の年間収支は1000万円強の黒字であった。月定献金は3000万円に近付いた。祭儀収入も比較的多い年であった。当該年度は建屋、教会内ともほとんど修繕がなかった(約200万円)。次年度の予算の中には、財務の部屋の床・天井回り・天井内の配管関係、センターホールの冷暖房設備、4Fの湯沸かし器等の修繕費用を計上したい。

6.その他

福祉部より

福祉部長を4月から倉橋久輝氏(K1)から新村満氏(K2)に交代することが福祉委員会で承認されたとの報告があった。
また、1月の教会委員会で福祉部に投げかけられたホームレスの問題について、教会としてどのように取り組むかの方針、指針がほしい。信徒の中にも温度差があるのではないか。信徒の合意と支えがないと動きづらい。いくつかの市民グループが集まって奉仕している月1回の炊き出しで教会は場所を提供しているだけなので、福祉部が出過ぎるのはよくない、との意見があった、との報告があった。
それに関し、主任司祭などより、意見は尊重しなければならないが、その意見が福音に基づいているか、個人のエゴから出ているかの違いがある。福音的な考え方は困っている人の立場から考えているかどうかである。教会に安心してとまれることで教会を毎日きれいにしてくださる人がいるのはありがたいこと。問題のある人もいるが、1〜2年の間にパトロールなどの活動を通して係わった人の発言を聞くと非常に福音的である。教会にホームレスがいると言うことについて文句を言う人もいるが、それらの声すべてに従うのが必ずしも福音的ではない。方向として、困っている人、身体の不自由な人、病気の人、誰でもが教会に入りやすいようにする。ホームレスの問題は一人ひとりの問題であると思う。貧しい人の中におられるキリストに出会うために、上の立場からではなく、ともに助け合いながら、というのが福音的だと思う。かかわることによって、彼等も変ってきた。私達も変ってきた。問題のある人もいるが、それは個々に対応すべきである。一人問題のある人がいたからといって、全部に問題があるわけではない。との意見が出された。

典礼研修会

2月12日に行われた教区典礼研修会に関し、祭壇の位置が中央にあったのは祭壇を囲む感じでよかったとの意見が出された。イスの数は若干いつもより少ない程度出会ったが、通路の確保が今後の問題。もう少しアレンジすれば結婚式や葬儀にも対応できる。しかし、祭壇と司祭席の位置が少し離れ過ぎていたように思う。聖歌隊の場所なども考慮に入れながら、この形式を今後藤沢教会の典礼に取り入れられるかどうか検討していきたい。

主任司祭より

当日は、多くの方が集まって協力しあって準備も後片付けも驚く程短時間にできた。典礼と交わりが実行できた。大変なことをたくさんのり越えられたのは「愛の精神」ができているからではないか。
相模原教会から依頼があったリーダーの件は藤沢教会から2名のリーダーを復活祭後に派遣することになった。小教区をこえて信徒レベルで関わる福音宣教として、意義のある新しい一歩である。
家庭訪問はすばらしい体験で恵みの豊かさを感じる。地区にとっても意味がある。これを踏まえて、さらに、若者達のための話し合いの場があるとよいと思う。



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ルカ福音書を祈るシリーズ・ナザレの会堂でのイエス(ルカ4章14〜30)
マラキ・ハンラティ神父

 福音書の中にイエスを見つめ、なさった沢山の事を眺めます。けれども、イエスにそのように行わせたもとにある気持ちを知らなかった、と私は突然悟ります。言い換えると、イエスの強い気持ち、特に強い望みについて、実は知らないのです。今祈りの中で、イエスの内面を知りたいと引っ張られます。 更に、御自分の心の中に何があるのかを、イエスが私にお見せになりたいのだと、祈りの中で分かって、私は一層驚きます。しかもイエスは、私が知りたいと思っているよりもずっと強く望んでいらっしゃるのです。

 聖ルカはイエスを表わす為に聖書のこの箇所で、イエスが自己表明をなさるという形をとります。そしてその中でイエスは、御自分の心を駆り立てる大きな力は何か、を語っていらっしゃいます。段々に分かっていらした御父のお望み・すべての人の為に御父がなさりたい事・なし遂げる事が御自分の望みだと語られます。更にイエスは聞いている人達も、御自分と一諸にこれをしてほしいと望まれます。

 聖ルカは、ご自分の新しいキリスト者共同体の中に次のようなパターンを見ました。初めてイエスについて聞いた時にはとても喜ぶのですが、イエスが信頼、寛容、新しい心構えに呼んでいると分かると、それが思っていたよりはるかに大きいと分かると、それ以上にイエスに近づくまいと抵抗するのです。この抵抗を通してもっとずっと深く親しい関わりに導く事の出来る忍耐強いイエスに、ルカは彼らを会わせたいのです。ルカはナザレの人々の例を使って、イエスとの関わりが深まっていく時に、どんな段階をくぐりぬけるかを映し出そうとしました。

(この箇所は、一回のナザレ訪問の時の出来事として描かれていますが、長い期間にわたる何回もの論争を折り重ねて、劇的で真に迫った一つの話としてまとめたものです。ですからこの話は、イエスの公生活の要約でもあると言えます。)

 祈る前にその都度、どの位の時間をかけてここを祈るかを決めておきます。それから、‘私の目を開いて’私の内にある抵抗感から解き放して下さいと聖霊に頼み、テキストを取り上げます。 

ルカ四章
☆イエスのお望みはなんですか?

 この箇所を見ると、私はまずナザレに急いで帰られるイエスを想像します。その時イエスの心にあった一番強い気持ちは何だったのだろうと考え始めます。それをイエスに頼ねて時を過ごします。私の頭に何か考えが浮かんでくるまで待ちます。

 いつも最初に浮かんでくるのは、しばらく留守にした後、家に帰る気持ちです。普通、家族的な場所に戻るのは嬉しい事です。でもこの時のイエスにはもっと強い気持ちがありました。イエスは故郷を出て、洗者ヨハネのもとに行きました。そこでのご自分の洗礼の体験から非常に多くを学びました。御父がすぐそばにいて下さる事、御父のあわれみを強烈に感じました。驚いた事にイエスは御父について語られる時“アッバ”という言葉まで使われます。(この言葉は、子供が面倒をみてくれる父親に向かって使う言葉なので、人々をひどく驚かせました)その後イエスは、砂漠での長い間の困窮と恐怖の中で御父が面倒をみて下さる事を強烈に体験しました。ご自分の信頼と希望と寛容がそこで育てられたと感じています。これらのすべてを、イエスは故郷に帰って伝えたいと熱望しました。

 イエスは故郷の人々の日々の必要と難しい状況を知っています。 ご自分のもつ大きな信頼と希望を彼らに分けてあげたい。これが、御父がイエスにして欲しい事なのだ、と分かるようになりました。 イエスは、すべての人に‘よい知らせ’(福音)をもたらそうとします。ですから、会堂で話す機会を与えられた事を感謝しているイエスを私は想像します。

☆イエスの帰省を喜ぶ故郷の人々

 ナザレの人々もイエスの帰省を喜びます。イエスは予言者だと思い始めている人々の評判がすでに伝わっています。すべてのイスラエル人が四百年もの間、予言者を待ちわびてきました! 誰もがそれ程切望していた予言者です。

 その予言者がナザレ人であったとは! 考えてもみて下さい。これは確かに興奮する事です。イエスを知る村人みんなへの祝福になるでしょう。

 またイエスの話を聞こうと、多くの人々がナザレへと群をなすでしょう。必ずや村の大きな名誉になるでしょう。これからナザレ人である事はすごい身分になるでしょう。彼らにもたらされようとしている祝福のすべてを見て下さい。

☆聖書を朗読される

 彼らはどれ程喜んで、聖書を朗読し話して下さい、とイエスに頼んだ事だろうと想像します。イエスが口を開かれるのを、かたずをのんで待っている様が見えてきます。

 そしてイザヤのこの節を朗読しながら感動していらっしゃるイエスを想像します。そこはイエスのメッセージのすばらしい紹介であり要約でもあります。すべての人を解放して、御父ご自身にもお互いにも近づけたいという神なる父の大きなお望みが描かれています。 その結果、すべての人に命の新しい深みがもたらされる事でしょう。

 御父がイエスを遣わされたのはこの為です。実に、イエスはすべての人の面倒を見て下さる御父の証明です。御父との親しさに向かって、ご自分と一緒に新しい一歩を踏み出そう、とイエスは彼らを招き、御自分の信頼と希望と寛容を分けて下さろうとします。イエスは、彼らが新しい目で見られるように助ける仕事を、進んで引き受けます。彼らがもっと勇敢に、もっと寛大に行えるように彼らを“解放”する権能を、イエスは与えられています。今ここで始まろうとしている新しい時代を、イエスは劇的にあかしします。

☆会堂の喜び

 イザヤのこの一節が朗読され説明されるのを聞いている彼らの喜びを想像します。これは驚くばかりの知らせです。新しい時代が始まろうとしている。実に‘よい知らせ’だ。借金、貧乏、病気、重荷から解放してくれるとはすごい! 自分達は忘れられてしまったと思った事もあった。けれども今、神様はなさった約束に忠実な方だとよく分かる。正に特別な時に生きているのだ!

☆そのメッセージの含むもの

 イエスの言葉に慰められ強められた彼らを私は長い間見続けます。よくよく聞いていくと、イエスの言葉は喜ばせてくれるだけではない、と彼らは分かり始めます。イエスのメッセージには深い意味があります。

 イエスは彼らに何かを差し出すだけではなく、イエスと一緒に、イエスのように行ってほしいと招かれるのです。

 イエスは何とも奇妙な事を言う! 神様のあわれみを知りそれを受ける事は、そのあわれみを他の人達と分かちあうよう導かれる事になる、と言う。そのあわれみは、出会うすべての人に及ぶと言う。 “皆が一つになるように”という御父のお望みの‘皆’とは、会堂内の自分達の仲間だけでなくすべての人をさすと言う。よそ者も、浮浪者も、罪人も含むと言う!

 驚きの余り言っている彼らの声が聞こえます。“私達は神様への道からはずれて墜落しないように、この人達を避けてきた。貧しかったり目が見えなかったり障害があるのは、神様から遠く離れているからではなのですか? それなのにイエスは違うと教える!”

 教えるだけでなく、それを実践している!
 ここナザレに留まらず、どこにでも旅していく!

 ライ病の人、盲人、不具者に会いに行く。徴税人や罪深い生活をしている人達と会っている! その上彼らを癒している! 彼らと食事までしている!

 しかも同じようにするようにと私達を招く!

 これは確かに、私達が教えられてきた神様に対する侮辱だ。彼は私達の宗教をひっくり返そうとしている。神様を“アッバ”(父ちゃん) と呼びさえする!

 その上、私達を教え導いてくれるユダヤ教の権威と論争までする。 これではナザレは悪名高くなってしまう。我々にとってイエスは厄介者だ。

☆自分達の抵抗を正当化する

 考えれば考える程、彼らは憤慨します。  彼らの期待はすべて打ち砕かれました。その上、イエスは考え方も、行い方もまるで違う新しい生き方を提案します。彼らの内の深みから変わるようにと呼びかけます。

その行きつく先はどこか? 今もっている多くのものを放棄する事になる。大きな損失を意味するのだ。
恐るべき将来となる!

 どうしてこの男を信じられようか? 彼は律怯学者について勉強していない。独学しただけの男が、我々の宗教を根本から変えようとしている。これは危険な教えだ。不可能な教えだ。彼は偽預言者だ!

☆聖書を使って人々の胸に訴える

 イエスと論争する彼らを想像します。聖書を使って神様の偉大なご計画を説明なさるイエスを想像します。イエスは預言者エリアとエリシャの例を使います。二人共自分の民には聞いてもらえませんでした。それで神様は彼らを通して、彼らを受け入れるイスラエル人でないよい人に働かれました。この例は、ひどい怒りを引き起こしました。彼らはこの偽預言者を抹殺しなければならないと感じました。

☆耐えるイエス−悲しみ、がっかりしても怒らない

 イエス、彼らがあなたを攻撃するこの場面を想像するのは恐いです。当然あなたはお怒りになるはずだ、と思っている自分に気付くからです。  けれどもあなたはお怒りになりません! 去って行かれた時の、あなたの内の大きな悲しみを感じます。あなたは彼らの為に悲しまれるのです。更に、あなたを拒むすべての人への大きなあわれみと忍耐を感じます。

 “父よ彼らをおゆるし下さい。自分が何をしているか知らないのですから”と祈っていらっしゃるあなたを想像します。あなたは、彼らの目が開かれるのを待っていらっしゃるのですか? 恐れや、小ささから彼らを解放してあげたいと望んでいらっしゃるのですか? あなたは彼らが変わるのを待っていらっしゃる。

☆私の祈りの中で

 この出来事の中で起っている事を注意深く見つめている内に、私の心の内が動き始めます。最近の体験からそのいくつかを書きます。

“主の霊が私の上におられる”の言葉が私の気持ちをつかみ、私の気持ちや考えの中心をしめます。その祈りの時間いっぱい続き、更に何日もの間続きます。はじめはイエスがこの言葉をおっしゃっていると想像し、それから自分に向かってこの言葉を繰り返します。

 イエスがこの言葉で何を意味されたのかをもっとよく分かりたい、と自分が強く望んでいると気付きます。この言葉を繰り返す内に、イエスが次のようにおっしゃっていると想像し始めます。“あなたが他の人に対して、私と同じ心で振る舞えるように、父が御自分のあわれみと力によって、私をあなたに遣わしました”

 また、これらの言葉を繰り返し続けている時、別の考えが頭に浮んできます。それらはしばしば他の人達との関わりに関するものです。うまくいっている心地よい関わりには、“私は更に深い関わりに呼ばれていませんか? 私達の間にイエスがもっと現存して下さるように”という問いかけを聞きます。

 避けたい、正したい、切り捨てたい等と思っている人達との関わりが頭に浮んでくる時もあります。その時の問いかけは、“別の光で彼らを見るように呼ばれていませんか? ここで希望の道具、新しい命の道具となるように呼ばれていませんか?”これはいつも私の内に葛藤を引き起こします。そんな事私の力では出来ないとか、非現実的だとか、大変すぎる等です。自分の無力を感じてその問いかけから逃げたくなったり、相手のことを怒ったりします。そうなったら、“主の霊が福音を告げる為に私を導く”と言われるイエスを見つめ直さなければなりません。イエスが“私と一緒にこの事をしてほしい”とおっしゃる声が聞こえてくるような気がします。私の内に新しい忍耐と寛容と勇気が育ち始めると感じます。

 また別の時には、イエスは私の目を開けて下さいます。私は自分の間違い、特にいかに私は自分をだまし人のせいにしているかを、もっとはっきり見始めます。

 一日の中で様々な状況に遭遇しますが、その時“主の霊が私の上にある”と言い始めると、祈りの時間の実りに私を引き戻してくれると気付いています。

(以上はこの箇所で祈った私の体験の例です。あなたの体験はまた違うでしょう。けれども、はじめに決めた祈りの時間を厳密に守るようにと、もう一度助言しておきます。そして一回だけでなく、何回も何回もこの箇所を祈ることです。)

☆まとめ

 イエスよ、私はもはやこの箇所を、単にあなたの公生活の一こまだとは思いません。鏡のようだと思います。あなたとの関わりを深め育てていく時に起こる葛藤を映して、私に見せてくれます。あなたが私の内に来て下さり、私の内に感謝が溢れます。私の内であなたは沢山の間違った考えを見つけます。あなたは忍耐をもって私と共にいて下さりながら、ご自分の道をお続けになります。そしていつも、ついて来るようにと招かれます。ついて来てほしいと、あなたは常に望んでいらっしゃいます。



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故ジョン・バーク神父様の追悼ミサに参列して
鵠沼2区 石黒 栄一・他

 梅の花が香る季節とはいえ、大変に寒い2月12日の朝、故ジョン・バーク神父様の追悼ミサが平塚カトリック教会でおこなわれました。

 藤沢教会が江ノ電を見下ろす丘の上に出来て間もない頃、あの大きな大きな神父様が赴任されました。ジョークばかり飛ばす笑い顔の素敵な優しいかた。青年の悩みを親身に聴いてくださり、キリストの愛に関する神学論を真剣に解説された神父様。フォルクスワーゲンに漸くの思いで乗られ、「私がこの車に乗るときは靴べらを用意してください、ハハハ・・」と笑われたこと。小田急の展望エレベーターに乗ったとき、いぶかる人達を見渡して、「頭を雲の上のだし、ワッハッハッ!」と満員の皆を笑わせた一こま。大きな御足だったのでオーダーされた靴やさんがわざと確認に来たこと。 「私のために祈ってください」とおっしゃたこと。

 神父様とのなつかしい関わりに思いを馳せながらホーガン菅区長様の主催でコロンバン会の神父様方(20名近く)による共同司式という素晴らしい追悼ミサに与りました。管区長様からも、共同祈願の信徒の方々からも共通して「アイルランドに生まれ、遠い異国の地に宣教先を選び、50年以上も熱心にそして人を楽しませながらキリストの言葉を説かれたこと、自らこの日本に骨を埋められたこと」に感動をこめたメッセージがありました。ごミサは神父様のお人柄でしょうか荘厳さの中にも天国へ凱旋されたことを喜ぶ雰囲気でつつまれていました。献花の列は聖職者の方々、老若男女と長く続き、それぞれの想いのなかにジョン・バーク神父様と対話をされているように見えました。多くの方々のお祈りのうちに茅ヶ崎甘沼の小高いカトリック共同墓地に埋葬された神父様は天国の入り口でどんなジョークを掛けながら階段を昇られたのかな? と想いながら、帰途につきました。素晴らしい出会いを神に感謝いたします。



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キリスト者一致合同祈祷会のこと
善行 鹿野 明子

 その日、午後、「聖心の布教姉妹会」本部中門では、4・5人のシスター方が、スコップを手に雪かきをしながら、次々入ってくる自動車を誘導して下さっていました。

 車を降りた私達は、傘をかざして進み、植え込みを抜けて着いたお聖堂では、一段毎に白い雑巾の敷かれた階段をふみしめて登りました。

 一寸緊張して中に入りましたが、昨年、ナザレン教会でお逢いした顔も多く、なつかしいような、ほっとした気持ちになりました。  何となく目礼を交わしながら、開会を待つ間、一同、窓の外の景色に見とれました。枝一本一本の先まで積もった雪、そこに更に舞い落ちてくる雪、夢中でこわごわ歩いたことなど忘れるようでした。

 さて、前文が長くなりましたが、八角形にゅーすに、ティム神父様がご自身で、お説教の内容をのせてくださっていますし、あの日の様子を伝えるようにとの事ですので。 神父様のお話は、とてもよく分かりました。皆で手をつないで「はい」とお応えしたくなるようでした。現代のボランティア活動にもふれられ、「奉仕は偽りの心ではしてはならない」ともいわれました。胸に響いたことです。共同祈願を「とりなしの祈り」としたり、聖書朗読も、一寸いいまわしが違うようで、もの珍しく感じたこともありました。全体的に、よその教会の方の口調は勇ましいなと思ったりしました。八角形のお聖堂に、エレクトーンの後奏が響く中、個々にお祈りをして、会は終了。

次は静修の家での懇親会です。広い和室に暖かい紅茶、ビスケット、シスター方のおもてなしを受け、和やかなひと時を過ごしました。7グループ40余名の参加でした。

 それぞれ帰途につく頃には、雪の勢いもやや弱まりましたが、大勢の足がお聖堂付近も、お庭も、どろどろにしてしまいました。後始末がさぞ大変でしたでしょうとは、落ち着いてからやっと思ったことです。こまやかなお心ずかいの一つ一つも思い出されます。出席者一同、あの雪景色と共に忘れないでしょう。 ありがとうございました。

 天候が良ければ、もっと参加者も多かったのでしょう。その点残念でしたが。

 以上雪の日の合同祈祷会の報告です。



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典礼研修会「日本の典礼の展望」
大庭 八木 京子

 2月12日、第20回横浜教区典礼委員会主催による研修会が当教会において行われました。

 立春を過ぎたとはいえ本当に寒い日でした。「人々が典礼を通して真に神様と出会い、親しい交わりを深めることができる為には、教会そのものである、すべてのキリスト信者の典礼への行動的参加が必要とされています。 信者の意識的、積極的、行動的な参加が求められているのです」という司教様の呼びかけに応えるように当日は長野、静岡、山梨、神奈川から350名もの方々が早朝から聖堂をうめつくしました。

 講師には、

 群馬県出身の南雲正明神父様 「日本教会の典礼の歴史と目指すこと」
 一般信徒で典礼委員の高橋新平さん 「横浜教区の典礼の歩みとこれから」
 梅村司教様の講話とミサ 「ミサの交わりと一致」

 南雲神父様はすでに第2バチカン公会議の『典礼憲章』(1963・12)が発布されてから38年が経ち「西側ローマを中心とした典礼を改革する重要性」「日本教会の典礼の刷新」「典礼は生きているキリストの礼拝で生活から遊離したものではなく、絶えざる刷新が問われている」と熱く語られました。特にキリストと出合う典礼(ミサ)には4つの印がある。

即ち典礼は

1、典礼を執行するキリストを代表する司祭によって。
2、言葉のしるし、聖書の宣言がなければいけない。
3、聖体の秘蹟。
4、主の名のもとに人々が交わる状態でなければならない。

 そして典礼が目指している事は神様を賛美し、神様に感謝を捧げ、神様に栄光を帰すことです。

 次の典礼委員の高橋氏は、1982年12月の第1回研修会から、2001年2月の第20回研修会迄の歩みについて話されました。

 お話の中から今迄のたゆまざるご努力と研修の成果を感じることができました。午後からの司教様の講話では、冒頭に小教区の是正と横浜中心主義の是正を心がけたい、そしてキリストは最も小さいものの中におられ、悲しむ人、失望のどん底にある人とともに歩まれる。

 私達はミサにおいて、みことばと、いけにえの二つの食卓に養われ、この世にあって愛の奉仕に派遣されていると語られました。

その後、今日の研修で学んだことを心にきざみミサに参加しました。

 寒かった一日…でも昼食には藤沢教会のご婦人達による特製スープで心身をあたため、おいしくて大好評でした。

 藤沢教会の祈りの庭には、マリアさまが楚々とたち、学びの庭、そして事務所前には紅梅白梅があざやかなミニ・ルルド、枝の主日を迎えるのに相応しい16本の見事なそてつの木、500本もの枝の用意が自前で出来るそうです。このお庭も350名の皆様方を共にお迎えしました。
 この日の為にお働き下さいました沢山の方々に心から感謝 !! そして神様に心からの賛美!!



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鵠沼ブロック黙想会
鵠沼1区 石黒 栄一

 節分の2月3日(土曜)に鵠沼のアトメント会黙想の家にて恒例の黙想会を行いました。25名が集まり、テハン神父様のご指導で10時から昼食をはさみ、15時まで有意義な一日を過ごす事ができました。

 「神との対話」というテーマで講話を頂きました。自分を新たにすることの大切さ、神のイメージを作る事は自分がここにいるということの大切さ。身体の忙しさから心の静かさを求める、心の中におられる神との対話。回心を通して神に向かう等々。

 雑音の多い時代、心の幸せになるの者を求めるのは難しく、機械の普及が進み便利さを求めての欲望にキリが無くなる時代です。今の瞬間に持っている宝物・神がおられること、すなわちキリストとの一致が必要であり、自分中心(エゴ)では駄目で、キリストを中心にその意識へ参加することが大切であり、神に向かうことになります。永遠の価値を持つこと(普遍の愛、博愛)、自分からすることでなく、神がなして下さることを理解しなければなりません。本日の福音と同様に自分から静思の場を作り、神と対話するように努力をしましょう。

 さらに典礼の内容を理解すれば、神の行いが、今、私たちの中に行われているということが理解できます。パンとワインの聖変化、聖霊の働きで自分の心を開くほど神の中に入れ、この場合は沈黙の中こそが同様に行い易いものです。

回心‥神の方から与えられる道(エゴ中心は反対となる)を努力し、心の眼を開いてエゴの中から見ないことに努力しましょう。今の現実で神と一致すること、キリストの祈りに参加することが大切です。 エゴのコントロール方法として、

  1. 沈黙(雑音の無い所でここにいること)

  2. 動かない(エゴが来る)

  3. 単純に考える

が心が開ける助けを致します。現実こそが神との出会いであり、幻の中では一致出来ません。そしてその体験を持つことが大切です。
(この後、昼食と午前中の講話への質問)

 神と一致することは私どもの目的地です。我々にとっては詩編が見本です。神との一致を目的とするには自分を通して実行することが大切です。キリストのゲッセマニの園での祈りにも見られるように、エゴを殺すことは大変難しい。「生命の豊かさの為に私が選んだ。」とあるようにキリストの祈りは自己中心(エゴ)ではありません。祈りで神と一致する、最後の晩餐も「皆で一つになり神と一致するよう」というミサに通じます。現代において現実の認識が大切です。山の中の静かな村落と広い世間では違うかもしれませんが、常に前向きというか、否定的でない行動をとりましょう(左脳と右脳の話)。現実に戻る為に神に向かう。身近かな人の印象(意識) は薄いものです。見えない神を追うのは難しいかも知れないが神との対話を努力しましょう。世間では神に願いごとの形で祈ることが多いようですが、キリストの道においては、こちらから神に求めるのではなく、神の我々の呼びかけが命の道なのです。

 この後、感謝のミサが捧げられ、懇談の時間を持ち終了しました。2月にしては暖かい日に恵まれましたことを思い出に、次年度もまた地元での黙想会を企画いたしております。



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藤沢ブロックの集い
藤沢3区 落合 良二

今回は、「 家族ってすごい 〜家族のための許可のことば〜」というテーマで、2月4日藤沢ブロックの集いが開催され、約60名のかたが参加されました。その概要について報告させていただきます。

今回の集いでは、シスター嶋本操とそのサポートとして落合良仁・純子がチームを組み、私たちが背負っている「子どもであるな」や「あなたであるな」「感じるな」などの「禁止令」や、「きちんとしなさい」とか「急げ」などの「駆りたて」について、さらにそれらの禁止令や駆りたてから解放されていくための「家族のための許可のことば」とその許可を儀式を通して受け入れていくことについて一部体験を交えて学びました。

これらの「許可のことば」は、問題が起きてからのカウンセリング等による治療よりも、予防的な視点から、すなわち多くの親と子供が直面している社会からのストレスに対して、健全に対処できるように、インドのパール女史によって開発されたプログラムです。現在、聖心会のシスター嶋本操(インドTA学会教授会員)を中心にTA・霊性を深める会で日本語に翻訳され、日本の文化にあったプログラムづくりが進められています。

例えば、こどもの未熟な行動に対して「おまえは馬鹿だな」ということばで反応し続ければ、子どもは「自分は馬鹿だ」と思うようになるでしょう。「おまえはいつも転んでけがしているね」といった言葉を繰り返せば、こどもはそうした行動をとり続けるようになるでしょう。間違いを指摘すれば、その子はその間違いを繰り返すようになります。また「すべき」とか「してはならない」というメッセージを使いすぎると、その結果こどもは無関心になるでしょう。一方、こどもが考えて、提案してきたことに「君は賢いね」と言えば子どもは「自分は賢い」思い、きっと賢い子に育っていくでしょう。よくできたことを見つけてその行動を支えるようにしていくことが 「家族のための許可のことば」の基本なのです。

ここにこの14の言葉を紹介します。

1) あなたは生きるために生まれたのです

2) あなたはあなたであっていい

3) あなたはこどもであっていい

4) 健やかに育っていい

5) 成功していい

6) あなたは重要です

7) あなたは人と親しくなれる

8) あなたは私たちに属しています

9) 健康であっていい

11) あなたの精神は健康だ

12) あなたは感じていい

13) あなたは聖いものであっていい

14) あなたは他の人の助けになっていい

子どもには親の理解、支え、微笑み、触れ合いが必要です。抱きしめてもらい、優しく触れてもらい、暖かいまなざしを注いでもらい、辛抱強く耳を傾けてもらうことが必要です。これらの子どものニーズに気づき、親も成長していく一つのヒントとして「14の許可の言葉」を活かして欲しいとおもいます。誕生日(あなたは生きるために生まれたのです)や、食事(あなたは所属しています)、ミサ(あなたは聖いひとになっていい)などの儀式のときにこれらの言葉を意識して子どもに伝えたり、あるいは自分自身に祈りのように語り掛けていくことによって「許可のことば」が生きていくでしょう。

今回体験したかたたちからの意見やアドバイスを活かしてより豊かなプログラムに育てていきたいと思っています。



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「強羅暁の星園」見学に参加して
鵠沼2区 野村 弘子

 2月18日(日)福祉部の好意で、総勢9名が「強羅暁の星園」 見学に出掛けました。

 藤沢駅より約1時間50分、箱根登山電車の終点強羅駅より、4分ほどの「暁の星園」に午後1時すぎに到着。

 園では、藤沢教会の中高生会のリーダーをしていらした石岡さんと、1月に藤沢教会でお話しされたシスター大橋に出迎えられ、その後、遊戯室で(子供たちの屋内運動場を兼ねているような室)、午後一時半より始まる「お楽しみ会」に一緒に参加するようにすすめられました。

 この日は45人の子供たちが、2組に分かれチームワークよろしく、頭と体を使っての台登り、クイズゲームをし、このクイズゲームには子供たちと一緒に私たち見学者も参加しました。2歳から16歳までの「お楽しみ会」に参加した子供たちは、身も心も解放されてそれは楽しそうでした。

 遊戯室のゲームが約1時間で終わり、園内をシスター大橋の説明を受けながら案内していただきました。

 幼児室は、小さな布団が人数分だけ用意された寝室と他に遊びの部屋。小学生では勉強と食堂を兼ねた部屋、それと二段ベッドの寝室。また中を見られたくないのでしょう、窓に目張りをした中高生の部屋。ここで生活する子供たちの集団生活の場所でした。    園内を見学の後、応接室で早速、シスター大橋のどのようにしてお手伝いただけますか、との質問に入り質疑応答となりました。

 園の子供たちは、幼児(2歳から就学前まで)13名、小学生23名、中高生10名の46名で、シスターはこの子供たちと何時間かを過ごしていただきたい、無理でなく、出来るだけ継続的にとのことでした。

 私ども見学者からは、第2土曜、第4土曜その他、不定期にならばと申し込まれる方があったようです。

 この幼な子たちと関わりたい、遊んであげたいと思われる方は、湘南台センター福祉部事務局まで申し込んでください。因みに交通費は往復2500円です。(各自持ち

 親と色々な事情で一緒に生活出来ない子供たちですが、このいと小さき者と関われる方々を「暁の星園」では求めています。何とぞよろしくとのことでした。



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3月の主な行事

2(金)初金ミサ、例会

4(日)四旬節第一主日入信志願式
    フォーラム 9時30分ミサ後
    辻堂ブロック集会 フォーラムの後

11(日)藤沢ブロック集会 9時30・分ミサ後
     鵠沼ブロック集会 11時よりホール

18(日)卒業感謝ミサ 9時30・分
     教区聖体奉仕者養成講座

20(火)春分の日 彼岸ミサ10時

25(日)壮年の集い 9時30分ミサ後



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