八 角 形 に ゅ ー す
2001年6月3日
聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会
目次
もし野に咲く花が話す事が出来たら!・・・・・・・・・・・・・・・・・・ティム・ムルロイ神父
召命の日のお話より・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・サレジオ会 酒井 陽介助祭
ルカ福音書を祈るシリーズ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・M・ハンラティ神父
南の島から ・・・・・・・・・・・・・・・聖心の布教姉妹会 シスター 我妻 志づ枝
北一ブロック集会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・北1ブロック長 赤松 敏子
長久保公園に集った教会遠足・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂3区 日高 好子
お庭番だより 一杯の教会ラーメン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼3区 平野 勝
もし野に咲く花が話す事が出来たら!
ティム・ムルロイ神父
現代社会で、ブランド商品が大切な役割を演じているようです。 道を歩いているとき、又、電車の中であたりを見回すと、グッチやカルバン・クラインなどの商品が、いかに多くの人達に高く評価されているかが伺えます。 ですから、この節の不況にもかかわらず、これらのブランド商品のセールは人気を保ち続けているということです。
最近、ヤング・アンド・ルビカムというアメリカの大手広告会社が、何故デザイナーブランド商品会社がこんなにも成功しているかを調査し、「ブランド商品は、ある意味で、現代の宗教のようなものである。」という結論を出していました。 「それらの商品を作った人達は、キリストの教えを布教した宣教師に似ていて、彼らの信念を熱心に説いて回り、何百人もの人達が彼らの教えに応えている」と、説明しています。 言い換えると、ブランド商品の売買は1種の「新興宗教」のようなもので、仏教やキリスト教に心を留めようとしない多くの一般の人々が熱心な信奉者であるということです。
先日、新林公園を散歩していた時、新緑の中に咲き誇っている沢山の花の美しさに心が打たれました。 ベンチに腰掛けて、その素晴らしい情景を眺めていると、ふと、その前の週に読んだブランド商品についての記事を思い出しました。 私はそのことを忘れようとしていましたが、忘れようとすればするほど、より強く思い出されました。 あれこれ思い巡らしている内に、そこにある木や花が、あたかも私に次のように話しかけているように思われました。 「確かにブランド商品は、美しい高級品でしょう。 でも、たとえ全てブランド品で着飾った皇女でさえ、私たちの美しさに勝るとは思えませんよ。 高価なデザイナー商品を買うために、一生懸命働こうと考える事は大変愚かな事ではありませんか。 私たちをご覧なさい。 働くことも、外見を気にする事もありませんが、神様は素晴らしい服を着せて下さっています。 神様を信頼しましょう。木や花である私達にでさえこんなに優しくして下さるのですから、ご自分の子供達である皆様にはそれ以上に目をかけて下さるでしょう。」
夢想から我に返ると、日が暮れていました。 公園を出て、ゆっくり教会に帰りながら、私は、「そう、野に咲く花達が言ったことは本当だ。 私達はいろいろな悩み事を自分勝手に生み出している。」と、思いました。
(5月19日)
地区委員会に先立ち、運営委員会を開催し、下記の項目について検討した。詳細は地区委員会報告を参照して下さい。
1、リーダー養成講座開催にともなう営委員会・地区委員会の開催日時変更について
2、ガーデンパーティー実施体制について
3、フォーラム提案“財務体制の見直し(監査等)”への対応について
4、フォーラム提案“司祭館建設検討小委員会等の答申に対する具体的対応実施”への対応について
心身をリラックスさせるエクササイズの後、ヨハネによる福音(14・23〜29)について、しばし黙想した。
(1)ガーデンパーティー
今年の8月4日(土)に開催開催予定のガーデンパーティに関して検討した。
これまでは壮年部と婦人部の有志の方々で主催してきたが、今年は婦人部長がいないので、壮年部と北部ブロック(北1・2、8月の当番ブロック)でやったらどうかという意見も出たが、過去にブロック担当でやって負担が大きすぎるということで、有志でやることにした経緯もあるので、ブロック担当は難しい。
あくまでも有志の主催であるから、壮年部の有志と協力を約束されている北一ブロック代表赤松さんが声を掛けた方々でガーデンパーティー準備会を作り、男女を問わず声掛けを行なうことにした。また、外国人コミュニティーにも声を掛ける。外国人コミュニティーの中に入って一緒にやると、コミュニティーに近付くチャンスになる。
来年からは誤解を招くといけないので、ガーデンパーティーは年度のブロック別当番表には入れず、有志の方々に色々な方法で自主的に協力者を募ってもらうことにした。
近隣の迷惑を考えて、ガーデンパーティーではスピーカーを使わないことにしたらどうかという提案があった。これまで近隣への挨拶とスピーカーの音を絞ることと8時には終了することを徹底させて進めているが、提案の主旨を含めて準備を進めることにした。
(2)バザー
鵠沼ブロックで計画を検討中です。目標をはっきり掲げて行なう予定。
(1)基本方針
下記の四つの基本的な考え方の下で福祉部の活動を進めていきたい。
@福祉部でできることは限られており、基本的には福祉部は信者の方の福祉活動が円滑に進むように支援していきたい。
A福祉の問題は身近なところで起こるものが多いので、ブロックでの福祉活動を応援していきたい。そこで、各ブロックから福祉係の者を1、2名福祉部に出してもらいたい。
B自治体や公共機関の福祉サービスで、利用できるものは利用していきたい。
C八角形にゅーす等を通じて、福祉に役立つ情報を伝えていきたい。
(2)年間行事予定
7月29日(日)ボランティア講演会
講師 椎野氏(二俣川教会 病院ボランティアをされている方)
10月6日(土)敬老コンサート
11月 葬儀についての会合
バザー収益金の配分方法の検討
上記の収益金の配分に関連して、1件当りの金額の大小、申請手続きの煩雑さ等について意見が交わされた。
聖週間のときに祭壇を聖堂の中心に持ってきて祭儀を行なった。概ね評判が良かったので、6月から7月にかけ、1ヶ月間その配置を主日のミサでも試みることになった。前回の経験から配置等の見直しを行なう。
5月27日(日)9時30分のミサの後で祭壇を中心に移動して、7月8日(日)9時30分のミサの後で元に戻す。明日(20日)のミサのときに典礼部から説明する。
アンケートをとる。典礼的に現在の配置よりも良ければ、今後聖堂をこの配置にすることも考えている。
6月17日の松浦司教様の子供中心のミサや7月1日の国井神父様のミサで問題点が出て専門家のヒントが得られるとありがたい。一つになるということは良いのだが、福音宣教のことも考えなければならない。初めて来る方がどのような印象を受けるかということを考えなければならない。ミサで子供達の座る場所とか、特にお年寄りの方が自分で決めている座る場所が混乱しないように事前に良く説明しておいて欲しい。
配置換えのときに皆さんに協力していただき手際よく進めたいが、指揮者を一人に決めて混乱が無いようにする。
六会の大泉さんから藤沢2区の平野和子さんに交代する予定です。
1998年3月に司祭館建設検討小委員会でまとめた魚津レポートが出されており、そこでは司祭館および聖堂の法定耐用年数は2020年であるが、立て替えるとすると数億円位掛かるので、その資金をいまから積み立てようという提案がなされている。
着手するのであればそろそろはじめなければならないと考えているが、今後の教会建設は小教区が独自に行うよりも、教区の全体像を見ながら進めなくてはならない時期に来ている。一例として、名古屋教区で共助組合を利用して教区全体で資金をプールして小さな小教区でも建設し易くする制度を作り、横浜教区でも建設に関しては教区全体で考えていこうという動きがある。この辺を含めて、どう扱ったらよいのかということを考えていきたい。
鵠沼ブロック集会では建設資金積み立てについて話し合ったが、次のような意見が出された。
@ 教区の教会なのだから、本来、教区の予算を計上して教区全体で考えるのは当たり前ではないか。
A 20年先のために今から積立を始めるのは反対である。そのころ貨幣価値がどうなっているか分からない。
@に関しては、原則論はそのとおりであるが、現実には教区には資金も無ければ人もいないので、小教区から出てくる計画を承認するという形を取らざるを得なかったということもある。
Aに関しては、金額が大きいので一度にドンと出しなさいといわれても困るので、少しずつでも積み立てていったらよいのではないかという意見もあった。
いずれせよ、何らかのアクションを取る時期に来ているので、運営委員会で具体的な骨組みだけでも検討して、次回(7月)の地区委員会で話し合うことにした。
9月から4月までグリフィン神父のリーダー養成講座が毎週土曜日午後1時30分〜4時まで行なわれ、これに委員のうち何名かが出席するので、この間の地区委員会を第3土曜日の午後4時30分〜6時30分とする。ただし9月15日は一粒会大会があるので、午後7時からとする。運営委員会はその2日前の木曜日午後7時30分〜9時とする。
6月18日から7月18日までテハン神父は一時帰国する。
5月20日から5月31日までマーフィ神父はカラン神父に付き添いでアイルランドへ。
2002年12月21日がマーフィ神父の金祝です。
9月15日に富士吉田市で一粒会が大会が行われる。今年もバスを用意し希望者が参加の予定。
5月20日に日本山の平和行進一行がいらっしゃいます。
6月24日1時から秦野教会の50周年です。
5月27日は茅ケ崎教会のバザーです。
5月27日に大和学園のバザーがあります。
5月20日に片瀬教会で福祉バザーがあります。
テハン神父より:グリフィン神父の講座は教会の未来のためなので宜しくお願いします。教会で受講料の補助を出すように用意してください。今のところ当教会からの申し込みは17名(女性4名)です。
月曜日にフィナティ神父様が亡くなられました。神父様は時々、こことかモンタナや聖ヨセフ病院に来たり、聖園で英語を教えたり、二宮教会の主任司祭をしたりしていた。
藤沢地区キリスト教連絡会のメンバーである聖マルコ教会と日本基督教団の辻堂教会が今年建替えをするので、援助の寄付をしたらどうでしょうか。宣教部や福音コールを通して声を掛け、皆に知らせて寄付をしたら良いのではないでしょうか。
壮年部から2点ほど提案をします。
(1)フォーラムからの提案“財務体制の見直し”をプロジェクトチームを作って作業をしたらどうか。
主な見直し点は、決裁権限を含めた支出の基準整備、来年から始まるペイオフに備えた預金の安全な管理、内部監査体制等である。
検討の結果、財務部のメンバーを募集してプロジェクトチームを発足させることになり、八角形にゅーす(7月号)にも募集案内を出すことにした。
(2)継続審議事項で結論の出ていない耐震診断の実施等についての考え方整理するためのプロジェクトチームを作ったらどうか。
この件は以前議論したときに、目視検査で有れば比較的安価で出来るが、結果は客観性に乏しい場合も多いが、材質や構造、劣化状況などを細かく検査すればかなり高価となる。また、補強が必要となった場合には、状況によってはかなりの金額が必要なことも予想される。これはどの程度の災害を想定するかによっても異なるので、現状で本格的な診断をする事は難しいのではないかとの事であった。
本委員会でも色々な意見が出たが、結論として、壮年部長が持ち帰って司祭館建設小委員会で耐震診断についてどのような結論を出したのか確認してから議論を先に進めることにした。
5月のミサ当番の藤沢ブロックから、典礼部よりミサの案内係には女性もいた方が良いといわれたので出そうと思うが問題ないかとの質問があった。委員会としては出して欲しいということで、女性の案内を歓迎する。鵠沼ブロックでは既に女性の案内を出している。 また、これに関連して子供を連れた方が小聖堂に行くよう強制されたように思われたケースがあったが、小聖堂はあくまでも当事者が事情を判断して利用するところであり、決して子供連れと言うことで強制されたと取られるような案内をしないよう確認した。
12日に北2ブロックで地区集会を行ない、婦人部の問題について議論した。多くの意見として、今、休んでいる内に復活に向けて検討を進めてもらいたいということであった。
この件に関連して、壮年部に女性も入っても良いのではないかという話が出た。
最後に主の祈りをして閉会した。
召命の日のお話より
サレジオ会 酒井 陽介助祭
“Solo Dios basta!”(神だけで十分!)とはアヴィラの聖テレサの有名な言葉です。これを私の友人がよく手紙の締めの言葉として書いてよこしました。召命を考える時、いつも頭をよぎる言葉です。しかし、この言葉の持つ重みは計り知れないものです。12歳の時初めて召命を感じて以来、この言葉の意味をどれだけ私は理解することができたでしょうか? 恥ずかしい失敗も沢山あるこの私ですが、助祭叙階の時にやはりこの言葉を口ずさんでいました。
召命を考える時、「呼ばれる」と「答える」という2つのダイナミックな働きを見落とすわけにはいきません。先行する愛を持っている方が招かれ、呼ばれた者は、はっきりとわからない中でも、これだ!という賭けに似た行動に出るのです。この共同作業が召命には不可欠です。
神様はどんな事でも、上手にお使いになる方です。何でもなかったこの私を呼ばれました。偶然に思えた出来事はしかし神様の計画の中では必然であったようです。私は、まんまとそれに引っ掛かりました。聞こえが悪いかもしれませんが、神様はやはり、私をその罠に掛けました。
エレミヤという預言者が神様に捕えられて(召命をたとえて)、こんなことを言っています。「私の負けです」と。不思議に思うかもしれませんが、私にとってこれほどダイナミックな答えはないのです。
召命の最初の動機がどんなものであっても良いように思えます。でも、私が人間的に成長していくように、私の召命も同様に育っていくはずです。なぜなら、召命は人生の選択の一部にしか過ぎないようなものではなく、それこそ、全人生をかけての選択だからです。私という一人のユニークな人間を見つめ、受け入れることが、やはり私のユニークな召命を受け入れることにつながります。それは、私の持つ良さと弱さを否定しません。嬉しいことに、神様は全部引き受けてくれます。だから、私はこの生き方でもっとも自分らしいということになるのです。
では、動機って一体なんでしょうか? 私はつい最近まで格好の良い、難しい言葉でそれを言い当てようとしてきました。しかし、一向に考えはまとまらず、混乱してくるばかりでした。そんな時、助祭叙階の準備の黙想会中に、指導司祭の助けもあって、一つの言葉が浮かんできました。それは、今まで何度も聞き、口にしてきたものでしたので、あまりの単純さに驚きました。それは「イエス・キリスト」という名前でした。
こうして再び、イエスとの共同作業がはじまりました。召命はイエスと一緒にじっくりと取り組んでいく作業のようなものです。イエスに指導をあおぎながら、自分に合ったやり方をさぐりつつ進めていきます。そうしていくうちに、私はイエスその人と彼の生き方に並々ならぬ関心と魅力を覚えていきました。彼のように生きたいという途方も無い希望さえいだきます。
こんな私ですが、自分の弱さを知りつつ、彼と一緒に生きることを選びました。できることなら、日に日にそのために働き、夜な夜なその夢を見たいものです。「神様だけで十分!」とは実に恐れ多い言葉ですが、この道にイエスが同伴してくれるなら、なんとかやれそうです。こうして、イエスとの船出に出ることができるのです。
ルカ福音書を祈るシリーズ・マルタとマリア(ルカ10章38〜42)
M・ハンラティ神父
この箇所は、単に主の前で姉妹の意見がくい違ったことについて書かれているのではありません。ルカはこの出来事に光を当てて、イエスの弟子に必要な態度として、二つの核心を示します。ここでルカは、キリストの弟子に必須の二つの要素を強調するのです。
その一つは、弟子としてキリストの為に行う前に、謹んでキリストに聴く習慣を養う必要があるということです。イエスと親しくなって初めて、イエスの為に行動することが出来るからです。
二つ目の教えは、キリストの使命の内に男性と女性は統合される必要があるということです。男も女も共に完全な弟子になるように呼ばれています。両方共、先ず神様に聴くことが必要です。それから次に、お互いに聴きあうことによって学びあう必要があります。
ルカがこの話を選び、福音書の中のこの場所に書き入れたのは、自分の共同体の人々の誤った態度や習慣を正す為でした。一つの問題は“主の仕事に忙しすぎて、祈れない”ことでした。(ルカはしばしばこのテーマに戻ります)キリストの仕事が忙しくなって、キリストに聴く時間がほとんどなくなってしまうことは、キリストの仕事が意識の中心になってしまって、キリストそのものから中心がずれてしまうことを意味します。大切だからと熱中する余りに、本質を見失ってはいけない、とルカは戒めます。
もう一つの誤った態度は、女性が共同体の中でキリストの使命の重要な役割をもつことへの反発でした。
例えば、女性が“自分の家に人々を迎え入れて”キリスト者の集会を主催することに対して、女性が力をもちすぎていませんか? と疑問や異議がありました。‘女性はこのように深いことを理解できない’とか‘女性の場所は台所だ’等、文化からくる偏見は、まだその社会では一般的でした。女性は完全な弟子になれないとほとんどの人が思っていました!
ルカは、この二つの問題を正そうとしてこの話を書きました。この箇所を祈る時私は、この祈りを通して聖霊が私に語って下さっていると信じます。これらの事を何回も耳にし聴くことが私には必要だと、その都度改めて思い直します。この望みをもってテキストを取り上げます。
一同が旅を続けている内に、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。 この女にマリアという妹がいたが、主の足もとにすわって、み言葉に聞き入っていた。ところが、マルタは接待の事で忙しくて心をとりみだし、イエスの所に来て言った。「主よ、妹が私だけに接待をさせているのを、何ともお思いになりませんか。私の手伝いをするように妹におっしゃって下さい」主は答えて言われた。 「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてはならぬものは多くはない。いや一つだけである。マリアはそのよい方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである。」
場所はベタニア、ガリレアからエルサレムに向けて続く長いデコボコ道も、もう終りに近い、あと3キロでエルサレム、という所です。過越の為にエルサレムの神殿に向かって旅している沢山の巡礼者で道は混み合っています。その中にイエスと弟子達の一行がいます。イエスの心は何とかして特にリーダー達が、イエスに聴けるようになり心が変わるようにと切望していらっしゃいます。
マルタが見えます。ユダヤ教の権威と関係がある豊かな家の婦人です。ナザレのイエス、先生が3、40 人の弟子達と共にお通りになると彼女は聞きます。家を出てイエスの一行を待ちます。「どうぞ私の家でゆっくりなさって下さい」と招待します。
この歓迎を喜ばれるイエスを見ます。このように全員を招いて下さることは大変なこと、その決心と勇気と寛大さをたたえます。このことでマルタはたぶん、ユダヤ教の指導者達の多くから批判されてしまうでしょう。でもここで食べ、休み、体を洗い、洗濯もし、更に友情を感じることが出来ることは弟子達にとってよいチャンスになる、とイエスは喜んで受けられます。
家の中で外で、忙しそうにせわしく動き廻っているマルタを想像します。家は今、庭も中庭も巡礼中の弟子達の野営でいっぱいです。彼女の2、3人の召し使い達もとても忙しい。突然彼女は、妹のマリアはどこにいるのだろう?と考えます。マリアはいつもよく気が付く有能な助け手なのです。どうして彼女は今台所にいないのだろう? この大切な時に…家族として最善を尽くしたいのに…私達が先生と弟子達をどれ程大切に思っているかを表わす時なのに…マリアはどこかしら? 何をしているのかしら?
しかしマリアは一人静かに座って、イエスに聴いています。もちろんマリアは、台所に飛んで行って手伝いたいという自然の傾きを感じています。自分が当然台所にいるべきだと思われていることも分かっています。女性が座って先生の話を聞くことは、決して許されない慣習だということも知っています。非難されるだろうと分かっています。それでも彼女は座っています。
マリアの女性的な感受性は“イエスが一番望まれることは、彼女が座って聴いていることだ”と言います。彼女はイエスの内に神の力が働いていると分かります。イエスの内に、絶え間なく父なる神に聴き、その指示に従って行っている姿を見ます。他の人達皆もご自分と一緒に聴き、一緒に行ってほしいというイエスの大きな願望も感じます。このことをほとんどの人が理解しない、理解しようともしない、とイエスは落胆していらっしゃるとも感じます。イエスの疲れと淋しさを感じます。同時に彼女は、イエスの内に弟子達への忍耐とあわれみと希望のすごい泉を感じます。彼女はもっともっと聴きたいのです。
一緒に聞く人達が居ない事は残念だ。“他の弟子達は何をしているのかしら?”
マルタがイエスに、マリアへの不平を言っています。それに対してイエスは“マリアはよい方を選んだのだ”と断言なさいます。イエスはそばにいて聞いてくれるマリアに感謝しています。イエスが一番してほしいことはこれなのです! そしてイエスが一番与えたいことは、聴くことから出てくるお互いのこの深い理解と親しみなのです! イエスはマルタの心根の親切心を認めます。けれどもそれによってどれ程大切なことから気をそらされ、気を散らされているかを、マルタに指摘なさいます。 イエスはマルタを思っておっしゃるのです。(イエスは客として迎え入れてもらった主(あるじ)である彼女に、一番よい贈り物をあげたいのです)
ここを祈って時を過ごす時、私の内に様々なことが起こります。 例えば、休暇で家に帰った時、限られた時間で親戚を訪問しなければならなかった時のことを思い出します。家から家へと急いで訪問しました。その時家の主人は私にご馳走しようと、ずっと台所に入ったままなのです!(その前の家で充分にご馳走になって私のお腹はすでにいっぱいです)私がしたかったことは、その家族の様子を30 分位で聞くこと、それだけだったのです! 結局大して話は出来ず、せっかく用意して下さっても余り食べれず、満たされない気持ちを抱えて急いで帰らなければなりませんでした。双方共にがっかりしたのです!
しかしこのことは、私も同じ事を他の人達に対してよくしていると気付かせてくれました。私もやはり訪問を受けるという自分の楽しみを求めているのです。自分のしてあげたいことにとらわれて、相手がしてほしいことは何か?と考えないのです。しかも私がしてあげたいことはしばしば、自分で意識していない気持ちから出ているのです。例えば、実は自分が満足感を得る為だったり、自分の寛大さや能力に酔う為だったり、よく思われたい為だったり、非難をさける為だったり等々、自分で意識しない気持ちの影響を受けているのです。相手の為によいと私が考えた計画をやめて、その人の望みを誠実に尋ね、その人が望むことだけを与えることは、私にとって時にとても難しいことだと気が付いています。
一つの例として、私の甥が日本を訪問した時のことを思い出します。私は種々の観光を計画しました。けれども彼に、どこに行きたいか、何を見たいか、と尋ねると、彼のしたいことは私と語りあい、私はどうしているか知ること、そしてよく眠ること!それだけだ、と言います。彼の為に立てた私の計画を捨てることは、私にとってとても難しかったのです。
これは私が学びつつあることの中で一番大事なことです。私は同じことを神様にもしている!と私は見せられます。“神様の為に”すると自分に言って沢山のことをします。しかし“あなたの為に私は何をしたらよいでしょうか?”と神様のお望みを尋ねる時間をとらないのです。そんなことは時間の無駄だ!あらゆることをやりこなす為に時間を使う方がもっと大切だ、と実は思っているのです。 時々私は考えます。もし神様に尋ねたら、私がしたくないことをするように言われてしまうかも知れない!と私は無意識の内に恐れているからだろうか? と。そうなのです。だから“ただ座って”聴こうとすることはいやなのです! 動きまわらないでいる為に、何かをしないでいる為に、ほとんどシートベルトが必要な位です。
この箇所を祈っていた時に、私は25年前の出来事を思い出しました。1人の婦人に、もっとよく祈れるように助けてほしいと、とても真剣に頼まれました。私はその決心と勇気がありますか、と聞きました。彼女はあると思うと答えました。それで私は彼女に、毎日30 分間何もしないで静かに座って、1ヵ月の間“聴かせて下さい、聴かせて下さい”と頼み続けるように言いました。そしてその結果何が起ったかを私に報告して下さいと頼みました。1ヶ月後彼女は、今までしたことの中で最も難しいことの一つだったと話してくれました。けれどもこれはあらゆる祈り、神様と親しくなることの出発点なのです。
今この古い記憶を思い出しながら、私は改めて祈りの熟練者達の言葉を思い出してい
ます。私達は他の人に聴くのと全く同じように神様に聴く、と彼らは言うのです! もしそれが本当ならば、私は神様によく聴いていないことになります。何故なら私は他の人達によく聴いていない、深く聴いていないからです。ですからこの箇所は、“聴かせて下さい”の祈りの練習をやり直すように私を導きます。
そしてそれは祈りについて更に教えてくれます。時々自分の祈りがうまくいっていないと感じますが、それはたぶん私が聴くことをまた忘れてしまった為だ! と私は悟ります。そのような時には“私はしっかり聴いていますか?”と我身を振り返って調べてみなければならないと分かります。
この箇所の大きな実りの一つは、忙しく活動しなければならないという強迫に思い煩
わされることから私を救ってくれることです。私の周りに山程の問題が溢れていても、私は落ちついて神様を見つめ、それらをよくするように神様が静かに働いていらっしゃると確信出きます。イエスに合流して私もこの仕事をするように招いていらっしゃると確信できます。このようにイエスは先ず聴くように私を招かれ、それからイエスと一緒に行うように招かれるのです。それは私の期待や想像の通りではないだろうと私は知っています。けれどもそれを受け入れる力と勇気を私は戴きます。
そして、イエスによく聴くことは、他の人達の為によく働けるように導いてくれる、と私は学び続けています。これは、私の内のマルタもまた正しく育成されるという意味です。つまりこれは、‘あれかこれか’の問題ではなく、‘両方共’なのです。私はよりよいマリア、よりよいマルタであるように呼ばれているのです。
この箇所を祈って、また別の体験もあります。“よい方を選んだ”マリアが女性であるという事実に、私は困惑するのです。私は尋ね始めます。“男達はどこに行った?”“今まで聞く機会が沢山あったのに、男達は何故もっとよく理解しないのか?”と。沢山の男達がもっとずっと長い時間イエスと共にいたのです。ですから彼らはマリアよりもっとよく分かっているはずです。それなのに彼らはここでマリアと一緒に聴いていません! 何故でしょうか?
沢山のことを忙しくしなければならないという強迫に抵抗して、‘足もとに静かに座る’ことを明確に選んだのはマリアです。(ルカにとって、‘足もとに座る’という言葉は、弟子になることを意味しました)ですからルカはここで、マリアは弟子であること、正に完全に弟子であることを示します。同時にそのことでマリアをほめることによって、イエスが当時の慣習に反対であることも思慮深く示すのです。実にルカはここで、とても重要なことを自分の共同体に教えたいのです。そして彼は私にも、、この大切なことを教えたいのだと私は信じます。この箇所を祈っていると、私は女性に対して心が開かれていて、少くとも偏見をもってはいないつもりだったけれども、それは一人よがりにすぎなかったと気付きます。この気付きは私の目を覚させて、私に若い頃のことを思い出させます!私は、女性は身体的に弱いが故にすべてにおいて弱く劣っていると見なしていました。女性の感情的な感じやすさを弱さと見て、自分をまさったものと思っていました。女性からの様々な助けを期待し、また受けました。今私はこのようなことを見せられています。それは私を不快にします。さらにそのような態度のいくつかはまだ残っている! それを私はしっかり認識していない!と気が付いて私は愕然とします。私は司祭であり男性です。イエスをもっとよく知るようにある女性達を助けたと思います。けれどもこの箇所の中で聖霊は私に語ります。私が共に祈り分かちあった女性達もまた、私がイエスをよりよく、より深く知るように私を助けてくれていると。
イエスの弟子である私達にとって、ここは鍵になる箇所です。‘イエスの足もとに座って’先ず聴きましょう。個人的に、それから一緒に!
南の島から
聖心の布教姉妹会 沖永良部修道院 シスター 我妻 志づ枝
藤沢教会の信徒の皆様
お元気でしょうか。こちらへ参りましてから早や1ヵ月余りが過ぎ、こちらでの生活のリズムも少しづつ馴れて参りました。
藤沢におりました折は、いろいろお世話になり本当にありがとうございました。皆様のお祈りと支えによって過ごした日々を、今、懐かしく思い出しております。
転勤に際しましては、沢山の霊的花束、ご厚情、お餞別をいただきましてありがとうございました。心からお礼申し上げます。
ここ沖永良部(おきのえらぶ)島は小さな島で(周囲55km、面積93平方キロ)、人口は約1万5千人、和泊(わどまり)小教区の信徒数は81名(国頭(くにがみ)教会という巡回教会を持っています)、島の人々は温厚で素朴です。今、島を観光の地にしようと、いたる所で道路拡張工事が進められています。島のほとんどが耕作地で占められ、温暖な地ですので1年中作物が出来るそうです。それは1年中忙しいということになります! 花・じゃがいも・里芋・砂糖きび・タバコ・他の栽培です。花は、永良部(えらぶ)町や組の集まりのお知らせが時折大きく放送される位です。和泊港には10 分位、沖永良部空港には20 分以内、町役場を目の前にしたよい所に教会も修道院もあります。
宣教は難しい所のようですが、何かする、出来るというよりも、祈り、島の人とともに居る、生きていくことではないかと今、思っています。
神様がこの島の人々を祝福し、救いの恵みが頂けますように、皆様のお祈りをお願いいたします。
祈りのうちに心からの感謝をこめて。
北一ブロック集会
北1ブロック長 赤松 敏子
5月6日(日)、11時より北1ブロック集会がセンターホールで開催されました。 フィリピン出身のジュンさんも含め45名の出席があり、昼食を挟んでの充実した話し合いを行うことが出来ました。
@、各地区の今年度・新連絡委員紹介と自己紹介が行われた。続いて、連絡委員から地区への転入者及び新受洗者の紹介とご挨拶がありました。
A、昨年度ブロック活動報告(5月)
北1・2合同の山手教会巡礼。(6月)
北1・2合同の鵠沼での黙想会。(7月)
バザー担当地区・荒井実行委員長を中心に30名程が組織され、日曜日毎の準備会を持ち活動開始。(10月)
「大聖年のバザー」皆さんが喜ぶ当日を迎えることが出来ました。(3月)
「みその子供の家」を訪問見学。
同じ地区内にある施設であり、ブロックの方が協力出来ないか、その実現へ第一歩に成ればと願い見学。
B、今年度ブロックの行事計画4月1日:北1・2合同黙想会(既実施済)
6月3日:ミサ当番勉強会。
7・8月:ブロック当番月(初金・掃除他)
7月:ミサ当番月
10〜12月:神父様の地区家庭訪問。今後の計画は、皆様のご要望をお聞きし、更に盛込みたいと願っています。
C、福祉部長新村氏より、「信徒が中心となって、近隣への福祉活動を」と話された。
福祉地区委員の後任選出依頼が二宮氏からありました。後任として、飯田氏が積極的に引き継いで戴ける事になりました。
「みその子供の家」ボランティア活動で、既に週1回活動されている、下村ご夫妻より状況報告して戴いた。「子供達が次に行くのを待っていてくれるのが楽しみ」と話され活動状況要望事項が良く理解できた。今後、活動の窓口になって戴くことになりました。
D、家庭訪問の話し合いでは、「教会に来られない方に声を掛ける」「地区の中で隣人として感じ合える体制を」、そして、これらの情報が入らない人にどう伝えるか、事務局からも知らせて欲しいの要望も出されました。
E、掃除当番に関して:荒井氏から「男性も参加出来る曜日設定にしては」の提案があり「金曜日を土曜日に変える」事で成立すると結論に達した。北1は月曜・土曜の九時半から行う案で決定しました。
F、典礼関係から、下村氏より「葬儀を考える会」では、終末ケアーの問題を取り上げる事としている。それと、ブロックの中に葬儀の司会者を養成する事が求められている。
典礼委員の大野さんより、ブロックの中で洗唱者の養成が求められている。男性8名の方々の名前が挙げられ、研修依頼があった。
G、ブロック体制について::既に、5月の八角形ニュースに教会委員会の報告として掲載されておりますので、基本的な指示伝達の流れは理解出来ると思いますので省きます。今回、本格的なブロック体制の実施を機に、ブロック活動のあり方・各活動部との連携と情報や意思疎通のあり方・地区の信徒や近隣者との交流や支援と福音・一人一人がキリストの共同体として原点に返った行動と活動が必要・等が要約した意見です。また、事務局の川辺氏にも加わって戴いた事により、教会の目指す体制。各ブロックがそれぞれ特色を持ったやり方。活動し易い方向でやって欲しい。それが新しい教会活動につながって行くことを期待したい。当たり前としてやって来た事を見直す機会と思って欲しい。その調整役は教会委員会です、との助言も有った。
皆さんとこの様に打解けた話し合い、積極的な意見交換が出来た事は素晴らしかった。
H、ベトナムで長い間ボランティア活動をされていて、一時帰国している吉川から挨拶がありました。1994年まだ国交が回復していない時代から現地に入り、日本語の指導をされ、日本への留学を希望する若者が育っていると嬉しそうに話された。今後のご活躍をお祈りし、拍手が送られた。最後にフィリピンのジュン君から挨拶等もあり、国際色あるブロック活動に成ればと感じました。終わりに、大泉氏のお祈りで、素晴らしい集会が出来た事を感謝し、終了しました。
長久保公園に集った教会遠足
辻堂3区 日高 好子
5月18日は、長久保公園への教会遠足の日です。当日の天候、参加人数等々と心配で、祈りながら迎えた朝でした。
『マリア様の心、それは青空」」』思わず口ざすんだ大好きな聖歌! 聖母月にふさわしい素晴らしいお天気です。神に感謝!
ご多忙なテハン神父様の時間に合わせて、お迎えに伺い、集合場所に急ぎました。
浅野さん、佐々木さんが、入口で出迎えて下さって、皆様の待っていて下さる藤棚の方へと急ぎました。
園内は、色とりどりの花々が、みどりの中に美しく点在し、広場には、遠足でしょうか、園児の小さな姿が、活発に走りまわって、元気な歓声にあふれていました。集まられた多勢の方々の姿に、思わず、数えてしまいました。40 人以上のその中に、男性の姿があって、教会の遠足として、喜ばしい限りでした。
休まれる間もなく、祭服をつけられたテハン神父様による、野外でのごミサが始められました。「互いに愛し合いなさい」の、み言葉が強く心に残りました。初夏の心地よい風を、身体に感じながら、「神の食卓に招かれた者は幸い」と、感謝とよろこびの野外ミサでした。
「いつもお話できる方々で集まらないで」浅野さんの配慮の声に、各々意識しながら、各々にわかれ、私達も、大きなシートを拡げて、「ご一緒しましょう」と声かけあって、車座になりました。お弁当を開けながら、自己紹介や、各々持参したお菓子と果物等を互いにまわしながらの、楽しいランチタイムでした。
次は、用意して下さった、帽子投げや、○×ゲームに参加、芝生の上に置かれた缶ジュース、お菓子を標的に帽子を投げたり、読み上げられる質問に対して、○の方へ、×の方へと、右往左往しながら、童心に返っての楽しいリクリエーションのひとときでした。
2、3人の方に感想を伺ってみました。「野外ミサは初めてで、自然の中でとてもよかったです」「自然の中では、とても心がリラックスして、互いに心が開きやすくって、よい
親睦になりますね」等と好評でした。2時過ぎには自由散策、現地解散となり、時間の
許す限り過ごしていかれた事でしょう。
辻堂ブロック担当の、初めての教会行事として、ブロック長の浅野さんのもとで、計画、準備に向かって、連絡員や世話人の方々と心を一つに協力し合い、なごやかな雰囲気の中で、終える事が出来ました事を嬉しく感じながらの一日でした。
テハン神父様、お忙しい時間をさいての野外ミサありがとうございました。声かけ合って、多勢のご参加下さった皆様のお蔭で、よい遠足になり、感謝いたします。
お庭番だより 一杯の教会ラーメン
鵠沼3区 平野 勝
ゴールデンウイークの連休中は、教会事務所は閉まっていました。 事務所前庭のハナモモやカイドウに花後のお礼肥をあげていたら、人品卑しからぬ中年男が私に近づいて来て言いました。「あんたホームレスかね」「そう見えますか。何かご用?」「仕事しているから誰にラーメン作って貰ったか知りたくて」・・・暫くして、ティム神父が増量ラーメンの丼を抱えて、彼の方に行くのが見えました。この聖堂には、現在7人のホームレスが出入りして回廊下を利用しています。その中の4人が泊り込んでいます。 一杯のラーメンだけのために、事務所に立ち寄る人を加えれば、可なりの人数になります。福祉部の話では、「ラーメン作りは事務所スタッフの仕事です。ティム神父もスタッフの一員です」とのことでしたが、スタッフは日常業務をこなしながらのサービスですから、そのご苦労が思いやられます。
この教会で、ホームレスを受け容れて十数年になります。今の「学びの庭」にプレハブを建て、庭と建物の見廻りや、レオの道具一式管理を任された人もいました。今のお泊まりさんの内、一人は出稼ぎ型で、昼間はいないこともありますが、他の3人は内職型なので、殆ど毎日、顔をあわせ談笑する機会があります。彼らは週に一回、揃って庭掃除をしてくれます。私が片付け残した木の葉や枝も翌朝には綺麗になっています。今年になって、壮年部有志に代わり、男子便所もコトアル毎に掃除してくれるようになりました。地区当番で、月曜、金曜の便所掃除を引き受けるご婦人たちも、以前より綺麗になったと驚いています。
彼らは共同体ではない。集合体でもない。個々に独立して生計を営んでいます。掃除をしようと話し合わなくても、一人がやりだすと、他の都合のつく人が賛同して加わるそうです。一人一人が常々、口にする言葉は「教会にはお世話になっているから、何かして恩返ししなければ」ということです。口先ばかりが達者で、実行的結論の出せない会議もあるそうですが、参考にして欲しいものです。
恩恵については、俗世間では、目新しいうちは、「相手の善意から出たもの」と受け止めて感謝しますが、馴れてくると、「相手にとっては義務、自分にとっては権利」に変わり、感謝は、何時しか要求になって表れるのが通例です。が、ここは例外のようです。お泊まりさんの多くが、自分が経験したその貧しさからは、他人の心の痛み苦しみを学び、寂しさからは他人に声をかけられる喜びを知り、一杯のラーメンからは、他人の手の温もりを感じとる愛すべき人たちに違いない。私には、そう思えます。
今年は天候のせいもあってでしょうか、外注の異常発生が見られます。5月20日の日曜日ミサ後の教会庭で、数名の桜の毛虫に刺されました。桜の毛虫は大きいのは、大人の薬指大もあります。数年まえ、司祭館うらの桜に発生した毛虫が、縦隊になって、窓枠にも台所にも押しかけてきて、大騒ぎをしたことがあります。以後は業者に頼んで消毒することになりました。普通には年に3回消毒します。今年の2回目は5月21日でした。消毒には色々な条件が伴います。風がないこと。人が通らない夜明け前に実施すること。窓が密閉されているこ。殺虫剤散布あとに当分雨が降らないこと。効果的な殺虫剤を使うこと。クレーン車を駆使できる業者にたのむことなどです。
教会の庭の、脚立の届かない高木が百11本もあります。サクラ7本、カイヅカイブキ65本、シイカシ34本の他に、ハハナモモ、クワ、ローリエ、アメリカンハナミズキです。低木はウメ、ミカン、ブドウ、ベニカナメ、キョウチクトウ、ハナズオウ、ムクゲ、サルスベリ、サザンカ、ツバキ、ツツジなどで、約400本あります。大鉢小鉢、盆栽、四季の草花を入れると、大変な数になります。
低木の殺虫方法は、主にスミチオン液剤の噴霧、オルトラン粒剤の散布、石灰硫黄合剤の噴霧です。ツバキの害虫チャドクガは、全滅がむづかしく、これに触ると、皮膚がかぶれて痒くなり、体中に広がり、発熱することもありますから、教会学校の子供たちは、植え込みの中に入る時は用心して下さい。また、聖堂まわりの網戸は、清浄な風と空気を誘い入れ、蜂や虫の進入を防ぐためのものです。。固定してある網戸は開閉しないようにしましょう。
殺虫作業をしながら思います。最近、この教会でも、殺虫剤の効かない人間虫を、時々見かけるようになりました。他人の迷惑に思い至らない者、不愉快極まる目立ちたがり屋、教会組織の役務を名誉職と勘違いして、「きけん・きつい・きたない」仕事には手も触れない者など、別名をジコチュウ・ゴカイムシと言うそうです。
何か妙案をご存じの向きはご教示の程を。
1(金)初金ミサ、引き続き初金の集い
3(日)聖霊降臨
藤沢ブロック歓迎会
9(土)辻堂ブロック黙想会
10(日)ボーイスカウト・ミニバザー
17(日)講演会、大阪教区 松浦補佐司教