八 角 形 に ゅ ー す
2003年3月2日
聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会
目次
ゆるしの秘跡と私・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ハンラティ神父
北部ブロック黙想会に参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・北2 大坪
横浜教区典礼研修会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・菊名教会 香山
典礼研修会に参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂2区 佐々木
第20回世界ジャンボリーに参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢1区 岡田
紙上フォーラム 「開かれた共同体」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・善行 岡村
ゆるしの秘跡と私
ハンラティ神父
私はこの40年間、ゆるしの秘跡をより深く理解し実り豊かにいただけるよういろいろ勉強し、熟慮を重ねてきました。2月11日、この秘跡の研修会のために藤沢教会へ450人余りの信徒、司祭が集まって来ました。この事実からも、いかに多くの方々がゆるしの秘跡について改めて考えてみたいと思っているか、また大切に思っているかが伺えます。この刷新から生じる実りの一つは、ゆるしの秘跡がキリスト者の生活をする上で、より大きな実践的導きとなり、また支えとなっていることです。もう一つの実りは、多くの方々が昔学んだこの秘跡に対して、誤解していた恐怖感やうとましさを取り払えることです。
私は、時には困難や不安が伴いますが、65年以上この秘跡を度々いただいています。また、聖職者として45年以上、他の方々に授ける務めもしています。その間に、私のこの秘跡に関しての考え方、いただき方、授け方は大きく変りました。次に書くことは、今、私がどのように考えているか、その変化の概略です。皆様のお役に立てることを願っています。
どのように変ったか
今、私の主な気持ちは良いものをいただきに来ているということです繙何か悪いことから逃げたいというより。
私は、「自分自身が悪いことをした」と考えるよりむしろ、神様の寛容さを認めることに、もっと沢山の努力をし、準備の時間をとらなければならないと思っています。以前は罪を犯したという思いがが私の心の中心にあり、ゆるしの秘跡の中でイエス様に出会えることを期待していなかったと、認めています。
また、罪によって、関り合いを失ったというよりむしろ、友情を傷つけたり、義務を怠ったり、規則を破ったこととして考えていました。私は、今、モーセの十戒の「掟」を思うのではなく、キリストが説かれた八つの至福の教えの実践として、自らを省みたいと思っています。
私は、特別の行動に注目するのではなく、これらの行動が、現在の自分とイエス様との関わりに、どのように影響しているかということに、集中するようになりました。そして、これらの行動を引き起こした原因が、何であるかを見ようとすることに、より多くの時間をかけていることは、大きな恵みです。現在の自分の心の状態を見ることは、大切だからです。
以前は、大部分の時間を、過去のことに捕らわれていました! 今は、未来を見つめています。
昔は、何か(特に罰)から逃げたいという気持ちで一杯でした。そして、もし自分がそれを真摯に受け止めていないと感じると、自分を追い込もうとしました。今、私は、キリストの招きに応えて将来何かより良いことをするための力を得られるという気付きを深めようとしています。イエス様と私との関係を深めるために、イエス様にしていただきたいことを、よりはっきり解るようになっています。
今、私の最も強い感情は、感謝の気持ちです − 恐怖ではありません!
これまでは、より良いことをする為に自分自身で決意し、自分の努力全てを注いでいましたが、今、私は、神様の力を受け入れることが出来るよう、より集中力を高め、より良い方向に変えていただくよう、全て神様にお任せしています。
昔、私は、司祭に話をすることだけを考えていました。今、私は、自分の弱さを通してまた、この秘跡の中でイエス様と出会うことを通して、どのように未来に向かうべきかという神様の呼びかけに気付けるよう、司祭と共に行動しようとしています。
私が育った頃は、この秘跡が自分の霊的生活を向上させ、イエス様を通して、神様との関わりを深める素晴らしい手段であることに気付きませんでした。また、神様との関りが深まれば深まるほど、他の人との関わりも深まることにも気付きませんでした。
今、私は、ゆるしを求める時も、いただく時も、交わりをより強く意識しています。
いつか、この秘跡についての私の考え方を、パンフレットに書きたいと思っています。
教会委員会報告
(2月8日)
信徒総会議事進行の段取り・役割・時間配分等を打ち合わした。これに先立ち昨年度の決算が確定したので財務報告が行われたが、前述「信徒総会」の項参照。
元売店改装工事については逐次報告しているが、内装が極めて精巧に作られており、壊すのにもったいない感じがした。現在外装工事中。予定どおり3月末で完了、4月から使えるようになるが、更に半年ほどかけて現在のホールにはない明るい雰囲気の場作りを考えている。
3月9日(日)イースター前のゆるしの秘跡を行う。
4月27日(日)初聖体、30名ほどになる予定。
2月11日(火)教区典礼研修会に各教会から440名が参加の予定。昼食時が一番問題だが、テハン神父の発案でお聖堂の中でそのまま食事をすることとなった。(実施状況別項参照)
短期キリスト教セミナーが11月に開催 されるが、信者だけでなく広くキリスト教の価値観を知ってもらうべく講師の人選を 進めている。第五地区全体の行事と考えて いるので、教会外の人を会場に直接お連れ頂くなどご協力をお願いしたい。
結婚講座の平野先生が3月で転居される。5月までは何とかなるが後継者難でその後の対応ができていない。受講者も減少して いるが年3回実施している。曜日・時間帯等検討の余地があろうか。
教会でいろいろなグループが募金活動・催事のチケット販売など行っているが、余り頻繁なので整理をしたい。次回の福祉部会でテハン神父の趣旨をお聞きする予定。
各家庭から出る不要物で捨てるにはもったいないものを他で使ってもらうよう案内ボードを作ったらどうかとの案が出ている。
注:これに対してはリサイクルだけではなく、何か手伝って欲しいとかの生活情報ボードはどうかなど前向きの意見が出された。商売的でなければ福祉部管理可能の範囲で検討いただきたいとの結論。
「八角形にゅーす」で各活動部・ブロックめぐりとして教会の活動を紹介したい。以前にも連載されたが、知っていただくことによって理解・参加につながることを期待したい。
広報関連として川辺事務局長より教会のホームページに協力していただく方を探している旨の案内があった。在宅でも可能。これまで手伝っていただいた方が都合で3月末でやめるため。別途募集を案内する予定。
防災委員会
前回委託された教会の防災について壮年部中心に検討に入っている。どの程度、どの範囲かを想定するからにして困難だが、とりあえず消防署・市役所を訪問し、専門的見地からの助言を求めていく。
黙想会について
壮年部で毎年黙想会を企画・実施しているが、フォローができていない。「黙想泥棒の日記」を購入、読後感を分ち合うことにしている。
身のまわりにいる困っている人への係わり方を模索している。一人暮らしの人にどういうかかわり方ができるかなどなかなか難しい問題。
1月26日(日)聖母の園で佐藤神父のご指導のもとで黙想会を開催、他のブロックの方も合わせて約70名の参加を頂いた。(後記参照)
2月23日(日)ブロック集会を予定している。
1月24日(金)ハンラティ神父指導のもと同じく聖母の園で黙想会を開催、31名参加(2月号参照)
先週連絡員の本年度初会合を開催
5月にブロック歓迎会を予定している。
1月25日新年会並びに歓迎会を行った。(2月号参照)
教会遠足の当番に当るので準備を始めたい。
コロンバン会協力者会
宣教活動をサポートするため6月中旬頃 チャリティーコンサートを実施することになった。ケルソ神父が担当で計画を始めているが詳細はまだ未定。
平和行進
恒例の日本山妙法寺平和行進の一行が21日(金)当教会に立ち寄り泊まられる。
典礼フォーラム
3月9日(日)9時30分ミサ後開催。 典礼が私達の日々に生きたものとなるよう何でも自由に話し合う場としたいとの趣旨。
教区入信志願式
同じく3月9日午後2時から梅村司教が来られ教区の入信志願式が行われる。
北部ブロック黙想会に参加して
北2 大坪
先日、北部ブロック主催の黙想会に、初めて参加させていただきました。当日はしっかり聖書を携え、少し緊張してうかがいました。しかし、その緊張も佐藤神父さまの講話がはじまるとすぐに消えてしまいました。
10時からの御ミサに続き、神父さまの講話、そしてバイキング形式のおいしい昼食、午後からは沈黙ゲームこと“分かち合いゲーム”を行い、再び講話。聖堂へ移動して香が立ちこめる中、美しいラテン語の聖歌と共に聖体賛美式が行われ、最後にお茶をいただきながら分かち合いをして終了しました。
この日の黙想会のテーマは“分かち合い”でした。午前中の講話では聖書の中から、幾つかのイエス様の奇跡のお話を通して、分かち合いについて考えました。続いて午後からの“分かち合いゲーム”は8人ずつのグループに分かれて、さまざまな形に切られている紙片を沈黙のうちに、同じ枚数で同じ形のものを全員が、各自制作するというゲームでした。ルールは、自分の手元にある紙片をグループの仲間に渡すことはできますが、相手から奪ったり、要求したりすることは許されず目くばせも禁止でした。約30分の制作時間が設定されましたが、どのチームも完成には至りませんでした。その後、グループの代表者が皆の意見や感想を取りまとめて発表しました。その中の一人の人が「自分のいらない紙片を相手に押しつけている人がいらっしゃった」とおっしゃられ、私自身もそうであったと大変恥ずかしくなりました。紙片を渡している時は、自分のもち物を分かち合っているような気分で優越感に浸っていました。しかし、それは相手のことは何も考えず、ただの押しつけであったとその言葉を聞いてハッとしました。
日々の行動の多くが無意識の繰り返しのうちに行われています。けれども他者の望んでいることをほんの少しでも心に留めながら生活することが出来たなら、本物の分かち合いに近づけるのかなと、ゲームを通して考えました。
また、このような地域主催の催しは、教会共同体への温かな招きを実感でき、素晴らしい企画であると思います。
横浜教区典礼研修会
菊名教会 香山
まず、参加された方々の数450名には驚かされました、ほぼ満席。しかもそこには長野、静岡など、もう時間までに到着しておられた方々が、多々おられることを知りました。司祭方も10人以上。
藤沢の聖堂は、ぐるりと座席の円陣が作られ人の視線が複雑に交わります。このような型になさったこの教会のご英断に敬意を抱いておりましたが、多人数の今回、この対面型が「一致」への場として、力あるすばらしい形であることを体で知ることができました。視線と表情は、なにしろすばらしいアンテナです。
今回のテーマ「神のゆるし」は、典礼のなかでも、地味な事柄と私は考えたのですがこの研修会後、このテーマがどれほど大きな意味を含んでいるのかが少し分かってきました。間抜けな話です。
南雲師、カンペンハウド師、お二人のお話が伺えたことで恥ずかしながら、なんとこの秘跡について、更なる疑問と混乱とが私の中に起こってきたことに気付きました。その疑問の中核は「罪」と「和解」とについての考察です。さらには具体的なる告解の形。
私は、今までに深めておかねばならなかったこの難問と、この辺でしっかり向き合わなければいけないと、覚悟したことでした。実は、この問題は我々信徒の多くにとっても、深い理解と実体験とを底の底で納得しなければならないことです。これが今回の大きな関心をひく研修会になった理由なのかもしれません。
この日、藤沢教会の方々が実によく動いてくださるのを目の当たりにしました。移転問題を抱えている私どもの菊名教会も、新横浜へでしょうか、新しい場所に出るに当たって藤沢の方々の、教区全体への奉仕の姿勢こそ是非々々学ばねばならないことを、肝に銘じた次第であります。
典礼研修会に参加して
辻堂2区 佐々木
恒例の横浜教区の典礼研修会が、2月11日当教会で開かれました。22回を迎えた今回のテーマは「神のゆるし、恵みと喜びの秘跡」で関心も高く450名を超える参加者がありました。寒い日でしたが、会場は熱気に包まれていました。
はじめに、フランシスコ会の南雲神父様が「ゆるしの秘跡」の歴史的な変遷を話されました。私たちは生き続けるためには神に愛され、癒されていなければならない存在であることを強調されました。
中世以前には、ゆるしは一生に一度だけ与えられるものでした。償いもとても厳しく、3年から5年を要するもの、例えば巡礼などが課せられました。本人のみならず、共同体の責任が問われました。8世紀から9世紀には「ゆるし」の捉え方が違って行きました。10世紀には、それまでの「一生に一度だけのゆるし」の考え方ではなく、罪の傾向やそもそも罪とは何か」」に目が向けられ始めました。12世紀から13世紀には「ゆるし」を恵みと捉え、七つの秘跡の一つに組み込まれました。秘跡を受ける側と、許す側の司祭の目録が作られました。罪の糾明箇条が厳しくなり、告解が日常的なものになりました。この中で、個人的な罪を糾明する余り、「古代教会では、常に共同体として罪が許され、愛される在り方」が見落とされて来ました。第二バチカン公会議以降、共同回心式が行われるようになったのはこのためです。
灰の水曜日は、昔罪人を共同体に迎え入れる日でした。四旬節は自己の回心と癒しの時期でもありました。愛され許されることで、再び立ち上がって歩くことが出来ます。欠けた所の沢山ある私たちは、いつでも神の前に「良い者として存在する」ために、日々神に栄光を帰する必要があると結ばれました。歴史の流れの中で「ゆるし」の捉え方が変わっていく様子を、とても興味深くうかがうことが出来ました。
昼食を挟み、午後からカンペンハウド神父様による講話がありました。至れり尽くせりのレジュメが用意されていました。先ず「罪とは何か」の問い掛けから始まりました。性格や長所、短所は与えられたもので、罪ではないと言われました。また掟に背くことが罪であるとも簡単には言えず、掟が示す価値を生活の中で実現しようとすることが大切であると言われました。神との関わりや縁を切り、神が私たちにご自分の生命を分かち合い、いきいきと生きることを望んでいられるその計画を損なうことが罪であると、いくつかの聖書の箇所を使って、説明されました。そして、人を再び生き返らせる「ゆるし」の恵みについて話されました。人が生きていくためにはゆるしが必要で、「ゆるす」とは忘れることでも諦めることでもなく、明日に希望の道を開くことであると言われました。人を裁くとその人の道を閉じることになる。立ち直るためにその人に手を貸そうとするのが「ゆるし」であり、許す人と許される人との出会いが大切であると、強調されました。
私たちは誰でもゆるされ、許し合わなければ生きて行かれません。神の慈しみの大きさを認識すると共に、人間の弱さと惨めさを自覚することの大切さを痛感しました。最後にキリストの食卓を囲み、祈り、歌い、感謝と心地のよい疲労の中に研修会がおわりました。 もうすぐ灰の水曜日と四旬節を迎えます。ゆるされている存在であることをしっかり心に刻みながら、復活祭の準備をしたいと思います。
第20回世界ジャンボリーに参加して
藤沢1区 岡田
私はこの世界ジャンボリーというボーイスカウトで最大の大会に参加することに対して、他のスカウトは優しく迎えてくれるだろうか? 言葉は通じるだろうか? などとずっと不安に思っていました。それは開催地であるタイに到着しても同じでした。しかし、バスでジャンボリーの会場に着いたときに、たくさんの外国のスカウトが手を振って迎えてくれ、そんな不安もなくなりました。やはり、スカウトの精神は万国共通なんだと改めて思いました。大会の中でも、たくさんのモジュール、交流のプログラムが用意されていてタイの文化や地球の平和、国際間の協調の大切さ、宗教間の争いの愚かさ、また最新のコンピューターについて学びながら、たくさんのスカウトと交流を深めることができました。最も心配していた言葉の壁も、身振り手振りを交えたり、積極的に話しかけて通じなくても根気よく恥ずかしがらずにすることで、乗り切ることができました。相手の言っていることが解った時、言葉が通じた時の喜びもひとしおでした。このように、私は第20回世界ジャンボリーを目一杯楽しみました。
この高校生という若い時期に、こんなにも世界を見近かに感じることができたのは、とても恵まれていたと思います。この世界ジャンボリーでの経験をこれからの人生に十二分に活かしていきたいと思います。この機会を与えてくださった神様、リーダー方、両親に感謝したいと思います。
紙上フォーラム 「開かれた共同体」
善行 岡村
春季の教区典礼研修会は、始まって以来の多い参加者で、しかも参加小教区数もおどろくほど多かったのです。そして修道女と司祭の参加も多くて目立ちました。
テーマが多くの人々の関心を集める「ゆるしの秘跡」であったからですが、第二バチカン公会議から50年という歳月が、典礼の刷新にここまで信徒の関心を育てて来たのだと感じ入りました。
そして私は、このような外からの人を多数迎える集いの時ほど、私たちの藤沢の共同体の力を心強く感じることはありません。外に向かって「開かれた共同体」という実感でもあります。それを、私たちの未知のこの先に向かって「開かれた共同体」であるといってもよいでしょう。
いつもそう思うのですが、私たちは低く小さな者になって未知のこの先に仕えるとき私たちに新しい生命を生むのではないでしょうか。フィリピ人への手紙2章6−8節のイエスの姿を思い浮かべています。
ところで、この聖堂はそのイエスの姿そのままの「開かれた聖堂」である、と思いました。というのは、祭壇が入り口側にあるからです。建物の入り口は、内にいる私たちにとっては、外から訪れる者が入って来るところであり下座なので、さあどうぞ奥のほうへと上座に案内するのではないでしょうか。
今までの聖堂は上座に祭壇がありましたから、私たちは今落ち着かないのですし、どうして下座に祭壇があるのかと疑問を抱いています。
今バチカンのあるところは、ローマ時代の刑場でありそこでペトロは磔になったのだそうです。その当時の信徒たちは殉教者の死体を他に移そうとせず殉教した場所に葬ったといいます。(犬養道子著 聖書を旅する6・34頁)
ゴルゴタの丘もエルサレムの街に旅人が出入りする場所でした。イエスは街の外で生まれ、外でなくなられました。人の住むところには場所がなかったと記されています。
フィリピ人への手紙6章のイエスの姿は、喩えではなく事実として、主の名によって来る者の姿なのです。
下座にある祭壇に私は、そのことを思い起こします。神はどのような形で御ひとり子を私たちにお与えになったのかと。
そして私たちは皆、その死を通って開かれたいのちを生きているのです。
今度の研修会では、講師は入り口側に立ち堂内の私たちに話しかけられました。主の名によって来る者として、私たちを未知のこの先に引き入れられたのかも知れません。この聖堂は私たちに、囲いの内と外を表し、未知のこの先へ開かれた聖堂なのだと思います。 それは、囲いに戻ってきた会衆を再び囲いの外に連れ出すはたらきをもっています。今回、研修会で講師が入り口の側に立って堂内の会衆に話しかけたことによって、この新しい聖堂がもつ本質を私は一層深く知ることになりました。
わたしは門である、というイエスのことばを観念的にではなく、典礼を通して身体に感じられるようになりました。派遣の挨拶がそれまで抽象的にしか感じられなかったのですが今では、主の死と復活から派遣されるのだと目に見えるようになったのです。
入り口側に祭壇があるのと、講師席があるのとは、未知のこの先に招かれるというはたらきにおいて同じなのです。
聖堂入り口から奥の方へ向かう会衆と、奥から入り口に向かう会衆とでは、その心情は全く異なります。「イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった」(ルカ24:28)
とかく物事をその今までのところで片付けがちな私たちに、神はその本質である超越性、終わりの無いことを示されるのです。
囲いは、私たちがその未知のこの先に向かう手段であって目的にはなりません。手段を支えにする者はしばしばそのことを忘れます。「わたしは命を、再びうけるために、捨てる。それゆえ父はわたしを愛してくださ」(ヨハネ10:17)
門を通って出入りするとは、キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛することではないでしょうか。
低くなって弟子たちの足を洗われた後、このように互いに低くなって仕え合いなさいと言われたのです。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける。」(ヨハネ 10:9)「あなたは入るときも祝福され、出て行くときも祝福される。」(申 28:6)
2(日)9時30分ミサ中 入門式 辻堂ブロック集会
5(水)灰の水曜日 ミサ9時30分 夜7時
7(金)初金ミサ・例会
9(日)典礼フォーラム 9時30分ミサ後
午後2時 教区合同入信式 梅村司教司式
16(日)卒業感謝ミサ 9時30分ミサ中
21(金)春分の日 彼岸ミサ10時
23(日)静修の日・共同回心式
26(水)〜28(金)中高生 春合宿
30(日)壮年の集い
教会の動きをもっとよく知りたいとの声があります。目に見えて人の集まるのはごミサですがそれとてもいろいろあります。
とあり、 これだけで1週間に1000人以上の人が教会を訪れていることになります。他に祝日・初金の集まり・冠婚葬祭、湘南台センター(別号掲載)と広がっていきます。 平成12年7月から13年3月までこの「八角形にゅーす」で活動部の紹介をいたしました。きまった枠の中で宣教部・教育部・福祉部・広報部・国際部・総務部の6回シリーズでしたが、時の経過とともに携わる人も内容も変わってきているようです。 今回は前例を参考にしながらもう少し詳しく、初めての方にも分かるような編集を試みたいと思っています。途中途切れることもあるかもしれませんし、一つの部が続くこともあるかもしれません。要は教会の動きを知っていただき、それぞれのお立場で理解され、一人でも多くの人の力で教会の働きがより広がることを願ってのことです。関係者のご協力と皆さんのご意見をよろしくお願いいたします。 |
前月号に続き、お通夜から埋葬までをお答えします。 通夜は故人の在りし日を偲びがら、神のみ前にお送りする気持ちで、冥福を遺族の方々と共にお祈りします。司祭が不在のとき、司祭ではなくても通夜を執り行うことが出来ます。 通夜は、通常教会で行われていますが、自宅や集会所でも行うことが出来ます。また、参列の労をねぎらい、故人を偲びながら語り合うため、通夜の食事が準備されることもあります。 葬儀、告別式は復活の希望のうちに、全てを神にゆだね、神の慰めを受け、故人に別れを告げる大切な儀式です。「ミサ形式」と「ことばの祭儀」があります。どちらも故人を神に委ねる儀式です。また、式の中に故人の生前から好んでいた聖書の箇所や、聖歌をお願いすることもできます。 司祭が不在のときは「ことばの祭儀」で行うことができます。 「葬儀ミサ」「ことばの祭儀」のあと告別式となります。 火葬の直前に最期のお祈りをします。司祭が同行できないときは、信者が代わって祈ることができます。 火葬のあとは、埋葬許可書を受け取ってください。納骨まで遺骨と共に大切に保管してください。 納骨の日取りや方法には、決まりはありませんが、四十九日が終わってからなされる方が多いです。司祭の同行をお願いする場合は、あらかじめ日程を相談しておいてください。司祭が同行できない場合は、参列者の一人が司式することができます。参列者に仏教徒の多いときには、線香を用いることもできます。 教会の謝礼について 教会として、通夜、葬儀、告別式、納骨、追悼式への謝礼の金額について、定めはありません。 ただ、感謝の気持ちをその人の生活にあった額で「献金」として表していただければ幸いです。 聖歌隊など奉仕してくださった方々への謝礼は必要ありません。 |