八 角 形 に ゅ ー す

2003年4月13日

聖シモン&聖ユダ
カトリック藤沢教会


目次

復活なさったキリストは生きておられる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・主任司祭 テハン神父

わたしの主が・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大庭 池田

“ことば”の力とからし種一粒・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂2区 本多

〜天使になりたかった〜 純子さんへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・善行 大野

「神奈川祈りの集い」報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・秦野教会 寺田

神の招きに応えて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・梅村司教 説教

教会委員会報告

典礼フォーラム報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・典礼部

『紙上フォーラム』 わたしたちに何ができるか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・善行 岡村

卒業感謝ミサ 「ありがとう・神様・・」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日曜学校リーダー風間

「ゆるし」について ハンラティ神父の講話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢1区 高野

ひとことずつの共同回心式・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂1区 森田

平和行脚のお坊さん達と・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢1区 萩田

「カンボジア福祉基金藤沢」の皆様へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・JLMMカンボジア 鎌田

送迎ボランティアの状況報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・福祉部 小野

宣教部紹介・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢2区 平野

葬儀を考える会Q&A

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復活なさったキリストは生きておられる
主任司祭 テハン神父

 ご復活おめでとうございます。

 ヨハネによる福音「週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへまた、イエスが愛しておられたもう一人のところへ走って行って彼らに告げた。『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのかわたしたちには分かりません』。そこでペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。」神がイエスを復活させられた表現の一つであると思います。

 墓の中に置かれていたイエスの遺体は、からの墓になったのはどのものでしょうか? シモン・ペトロと先に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て信じた。マグダラのマリアと二人の弟子と、からの墓についての反応は随分違いました。

 マリアの方は体の目で見て「主が墓から取り去られました」と思い、弟子のところへ走って行って彼らに告げました。またマリアは理屈の目で見、「どこに置かれているのかわたしたちには分かりません」と考えました。マリアは心あるいは瞑想の目で見ませんでした。二人の弟子は墓に入り、イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあったとの様子を見て信じました。

 三つの目すなわち体と理屈と心の目、皆開きました。わたしたちも復活しておられるキリストの名により集う時、三つの目を開きながら、新しいいのちの豊かさに与(あずか)って力があるのでしょう。

 藤沢教会聖堂における真中の空間は座禅の象徴である丸に似ています、丸の真ん中はからか、無か、すべてであるかとの意味だと思います。聖堂の真ん中空間を囲むわたしたちはどの目で見ているのでしょうか? 体の目と理屈の目で見、ごミサに与ってもあんまり変わりません。いい気持ちになるかも知れませんが、復活なさったキリストとの出会いまではもの足りないでしょう。先ほどマグダラのマリアが墓へ行った体験と似ています。心の目を開いて、キリストの約束したことばにより二人、三人わたしの名により集まれば、わたしはその中にいる。

 ミサを行う時、個人ではなく共同体として、神の御言葉を聴き、心を新たにし、感謝の祭儀をし、聖霊の力により一つになり、復活なさっているキリストの福音を延べ伝えるあかしびととなります。皆さんの心の目を開かせるようにご一緒に祈りましょう。



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わたしの主が
大庭 池田

 天使たちが「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのかわたしには分かりません。」

         (ヨハネ福音書20章13)

 わたしの主が? なんという美しい取り乱(みだ)し方でしょう! マグダラのマリアにとって信仰のすべてであったに違いない主イエスの遺体が、墓の中から消えていた・・やり場のない、衝き上げてくる思慕と悲しみ・・そこへ何を泣いているのか、と尋ねられて思わず「わたしの主が・」と、主イエスを所有形で呼んでしまう。

 ふつう動詞の〈の〉が人称に続くと、次にくる体言の所有を表します。おなじ所有でも〈わたしの時計〉なら単に権利の問題ですが「わたしの主が・」となれば、もう、同マリアの抜き差しならない信仰によって口から飛び出してしまった、としか言いようがありません。

 じつはそんな彼女の直情的な信仰を、主イエスは先刻ご存知だったのではないでしょうか。

 ヨハネ福音書によると冒頭の場面のすぐ後、主イエスが復活されて初めての栄光の姿を、なんとこの、墓の外に立ちっぱなしで泣きじゃくる女、マグダラのマリアの前に現されることになるのです。ペトロをはじめ、並みいる男性の弟子たちを差し置いて、です。

 もう十年も前のことですが、その人の発言があまりに印象的だったので今も憶えているんです。全市的な各小教区の代表者みたいな集いが済んで、では小宴となったときのことでした。

「どうも私には近頃の、教会の祈りの風潮というか、理解に苦しみますなあ、例えばですが、神様に向かってですよ、〈主よ、あなたは・・〉とは何事ですか? 神様は友達ですか? 町内会のおっつあんと同列ですか?赦し難い大罪です、不敬極まりない!」

 おそらくはこの紳士、聖書を持つことさえ辺りを憚(はばか)る、そんな時代に秘跡を受けられ、〈愛の主〉ではない〈罪を裁く神〉が身についてしまったのではないでしょうか。

 信仰というのは私たちが日々の生活の中で、父である神の愛が具体的にどんなふうに関(かか)わっているか、そのことを感じ取って喜び、感謝し、賛美することができる感性、そのものなんですよね。その感性を育てる唯一の道は、日常的な祈りの習慣化、これしかないみたいです。

 ところで、これがなかなか大変です。わたしの主である神と、静かに二人称のエリアで対座しなくてはならないからです。しかもお話したい主が、いつ来られるのか、祈りのほとんどがこの〈待つこと〉で占められるものと思わなくてはなりません。ある黙想会で隣に座ったシスターは、私にこう言って自分の短い分かち合いを結びました。「・・はい。三時間祈っても主が訪れなかった、その晩です。私は小聖堂で祈っていたその間に、今は亡き母が幼いわたしを膝に乗せて「ミサキは独(ひと)りぽっちではありません」と言ったのを思い出しました。・・そうです、マリア様がいらしてたんです」

 けっして横道だったとは思いませんが・・すこし逸(そ)れました。聖書に戻ります。実はこの日朝早く、すでに第一発見者である同マリアの知らせを受けたペトロともう一人の弟子は墓にやって来ていて、遺体が失くなった事実は確かめていたのでした。

 確かめはしたものの帰ってしまうペトロたちと、墓を去るに忍びなくて泣いているマグダラのマリアとの違いは、べつに信仰の深い浅いではないと思います。これはもう創造主が下さった男と女の違い、わたしにはそう思えるんです。

 ふつう、ある予想し得なかった事態への判断を迫られるとき、一般に男性はまず論理的な筋道を通して考えようとします。これに対して女性の場合は、感情的にいちずな対応に出ることが多いようです。これは子を産み、理屈抜きで守り育てなければならない母性のゆえに、神が与えたもうた資質なのではないでしょうか。

 帰ってからのペトロたちが、ほかの弟子たちを集め、鳩首し、この驚くべき事態をどのように受け止めるべきなのか? などと生まじめに協議していたかもしれないとき、マグダラのマリアは墓の外に立ち尽くし、ただただ、主の遺体が取り去られた不条理に心を打ちひしがれて泣いていたのです。

 わたしの主が・・暦年が替り、復活節が近づいてくるとなぜかこの、泪(なみだ)を溜(た)めたマグダラのマリアの直情的なアピールに、一瞬、私はどきりとします。それは日ごろ、主を見失っていることのほうが多い私の、うしろめたさによるのかもしれません。



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“ことば”の力とからし種一粒
辻堂2区 本多

 有名な聖句に、「初めにことばがあった。」(ヨハネ1・1)があるが、私は近頃、人間にとっての“ことば”の重要性を痛感している。

 先日、西伊豆の海岸を自衛隊体育学校関係者とロードワークした際、体育学校方式で、一気に七回連続して「ファイト!」「元気!」等、叫びながら走った。例えば、「元気!元気!元気!元気!元気!元気!元気!!!!・元気出してファイト!!オー!!」のように。

 それだけで内側からどんどん力がみなぎって来て楽しかった。私の中に、まだまだ「ファイト!」や「元気!」の素があったのだ。

 それ以来、別に走っていない時も、よく心の中で、「ファイト!」「元気!」「強い!」「前へ!」「出来る!」「力!」「勇気!」等の七回連続の掛け声をかけている。

 そして思うことは、謙虚であることと卑屈であることは、似ているが違うということである。自分の中にある力、強さ、可能性を認めないのは、実は卑屈であると同時に、神が与えた物を人が否定する点で傲慢でもあろう。また、神以外の物や人を神のように怖れる一種の偶像崇拝に通じる場合もあろう。

 聖書の中には、読み方によっては、「ファイト!」や「元気!」が無くなってしまうかもしれない部分もあり、そこばかりを強調する120パーセント『弱く』、去勢されたかのように如何(いか)にも『謙虚』な人もいない訳ではない。

 しかし、同じ聖書に、「強くまた雄々しくあれ。」(ヨシュア1・9)「恐れるな。私である。」(マタイ14・27)「勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」(ヨハネ16・33)ともある。

 無理なことを人間に命じる神様では無いので、きっと我々の中に、『強さ』や『雄々しさ』や『恐れない心』や『勇気』の“からし種一粒”(ルカ17・5)くらいは与えられているに違いない。

 私は、これからも、“ことば”に気を付けながら、私の中に与えられている“からし種一粒”を大切にして行きたいと思っている。「ファイト! ファイト! ファイト!・・」

 皆さんも、我々の中にある『復活の力』を信じて、七回連続の掛け声をやってみませんか。“からし”は、種は小さいが、大きく成長する植物なのだそうですから。



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〜天使になりたかった〜 純子さんへ
善 行 大野

 あなたが教会に来るようになって、二年近くになるでしょうか。薄い綺麗なフリルのスカートで、少女のようでした。でも三十歳だったのね。

 教会のお店に「こんにちは」と声を掛けて入ってきて、難しい本を調べていらしたお客様の横に並んで「難しいですか?」と声をかけていたあなたは、同じ本を出して一緒に開いていました。

 同じことをしたかったのでしょう。一緒に本を見て欲しかったのでしょう・・。

 それからしばらくして、また、お店に来たときは、カードを見つけて「これください、いくらですか」「40円なのよ」「今30円しかないから、この次持ってきます。それまで取っといて」「いつでもいいわ、立て替えておくからね」素直な目で「ありがとうございます」と嬉しそうに帰ったあなたは、律儀に半月ぐらい経った頃返しに来てくれました。

 昨年のクリスマス前頃、姫マリアといってお店にある小さな、小さなマリア様を純子さんは買いたかったのに「お金が足りないからこの次来るまで取っておいて」と預けていきました。それなのに純子さんは、もう取りに来ることが出来なくなってしまいました。とても、とても悲しいことです。でも、純子さんは天国でマリア様がやさしく守ってくださっていると思います。天国で「あっそうだ、藤沢教会にマリア様を取りに行かなくちゃ」と思い出したら、神父様や皆さんのためにお祈りしてね。

 何だか純子さんは、神様のお使いで藤沢教会にいるみんなの気持ちを優しくして、また神様のところへ帰った天使のように思います。あなたも天使になりたかったのですものね。 今社会が乱れているときだから、純子さんのような心の綺麗な、やさしい人が大切なのです。

 あなたは、天使になりたかったのよね、神様は天使の役目をさせてくださったのでしょう。

 純子さん、優しい心を、皆に気づかせてくれてありがとう。

 神様のそばで、ゆっくり楽しく過ごして、お母さんのことお父さんのこと、守ってあげましょうね。

             さようなら



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「神奈川祈りの集い」報告
秦野教会 寺田

 主は甦られた、約束のごとく、主は今、生きておられる。ハレルヤ!復活祭おめでとうございます。神の子であり、歴史上の人物でもある「イエス・キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

 ・・キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(1コリント15・20〜22)ということは、私たちもやがて死を向えると同時に、復活することが、約束されているのです。実に素晴らしい、なんという大きな希望でしょうか。

 復活の場面を聖書から見てみましょう。その1(ヨハネ20・24〜29)復活のイエスを疑っていたトマスの場合,イエスは「あなたの指をここにあてて、わたしの手を見なさい。

 ・・信じないものにならないで、信じる者になりなさい」と、ご自分を示されます。トマスは一切を理解し「わたしの主、わたしの神よ」と礼拝したのでした。 その2(ヨハネ21・15〜19)イエスを否んだペトロの場合、イエスは「わたしを愛するか」ペトロが「主よ、わたしはあなたを愛していることをご存知です」と3回の同じ応答があり、そのつど「わたしの羊を飼いなさい」と、ペトロを愛し裏切りを赦されるのです。さらに、「わたしに従いなさい」と、教会の指導者の役割を、お与えになったのでした。イエスは十字架の受難の傷やペトロの裏切りなど生前の出来事、弟子たちとの関係や人々との出会い、その生活の中で体験された喜怒哀楽などの思い出など、一切が含まれたままで、復活された事を知ります。

 「死後、何が到来するか」G・ローフィンク(カトリック神学教授)の論文を読みました。非常に感銘を受けましたので分ち合いたいと思います。*「人間全体が魂と肉体とともに、神のもとに至る、神における永遠の命のなかへと死ぬことになる。人間は一つの全き世界であり、人間に所属する、その喜びと悲しみ、幸福と悲哀、善業と悪業、完成した作品、作り出したもの、抱いて生きたイメージ、耐え忍んだ時間、流した涙、その顔に浮かんでは消えた笑み、生きた長い個人的な歴史であって、人間とはこれらすべてであり、これらすべてが神のもとに行くのである」*「また、人がその人生で関わりあう他の人々、父母、兄弟、夫や妻、子供たち、親戚、友人その他多くの人々など、彼らは私達に影響を与え、私達の人生の歩みに関わり合い、私達の人生の一部になっている。人間はこれらすべての世界も携えて、神のもとに行くのである。私達の一人ひとりの個人的な世界には、他の人々の世界及び歴史全体が、分ち難く結び付けられている。従って、私達自身と共に他の人々の全歴史が、神のもとに行くのである。――そしてまた、神の世界には、もはや私達の空間は存在せず、私達の時間も存在しない。神のうちには地上の時間が存在しないのである。――それならすべての人がたとえ別々に死んだとしても、神に出会うのは、永遠に於ける「同時に」、永遠に於ける「瞬間に」おいてである。従って人間は死に移行する時、自分自身の完成のみならず、同時に世界の完成をも体験するのである」*「全き善なるお方、寛大で慈悲深い神に出会うとき、私達は一生の間に、神から与えられた慈悲と愛の大きさのすべてを体験する。神の目は自分自身の上に注がれ、私達は非常な驚きをもって、自分の独善、薄情、冷酷、そしてすべての利己主義を知ることになる。一生の間抱き続けてきた、うぬぼれと幻想は一撃に砕かれ、その裏に自分を隠してきたすべての仮面は、剥ぎ取られられるだろう。自分と他人の前で演じてきた役割も放棄しなければならない。それらを知ることは限りなくつらいことであり、私達の心を火のように通過していくだろう。神が私達の前に輝きわたるとき、私達は自分がどういう人間になりえたか、そして実際はどういう人間であったか、を突如として悟るのである。この出会いにおいて、私達は、神を審判者として体験するだけでなく、同時に、神の慈悲と愛を永遠に体験するのである。」(以上抜粋です。)

 さて、今年もセミナーが始まります。聖霊の満たしを体験するためです。自己中心の生き方から、他者中心に生きるためです。神を愛し、隣人を自分のように愛するためです。自分のすべてを、主に完全に委ねる生き方です。聖霊の賜物によって、神の愛が注がれることによって、人を愛することができるようになるのです。即ち、隣人には誠実な対応、自分の持ち物やお金や時間など、何でも相手のために役に立ちたいと願うようになるためです。「あなたがたもまた、キリストにおいて真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして、信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、私達が御国を受け継ぐための保証であり、こうして、私達は贖われて、神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」(エフェソ書1・13〜4)



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神の招きに応えて
教区合同入信志願式での梅村司教の説教

[3月9日(日)15時から当教会で横浜教区合同入信志願式が行われた。当教会12名を含む志願者総勢120名、関係者を含め約350名が参列された。以下梅村司教の説教を紹介する。]

 今日求道者の方々は洗礼、堅信、聖体の三秘跡、入信の秘跡と呼ばれるこの三つの秘跡を復活徹夜祭に受けられることを公に表明されます。志願者の方々は洗礼の秘跡によって父である神の子とされ、堅信の秘跡を通して聖霊に満たされ、聖体の秘跡によってキリストご自身と一致し、キリストの体である教会の一員とされます。洗礼によって特に父である神様とのつながりを得、堅信によって父の霊である聖霊との交わりを、そして聖体の秘跡によってキリストご自身との一致を、すなわちこの三つの秘跡によって私たちは三位の神の愛の中に迎え入れられるということであります。

 父と子と聖霊という三位の神と私たちとのつながり、一致、交わりが実現するわけでありますけれども、単に神様と私自身との個人的なつながりだけが築かれるわけではありません。唯一の神を父と仰ぎ、唯一の霊、聖霊の交わりを通してキリストにおいて兄弟姉妹とされ、互いに結ばれているということを、皆さんぜひ心に留めていただきたいと思います。今日皆さんのお手元にある式次第の裏ページの方に私の司教としての紋章と、そしてモットーが記されています。初めてご覧になる方もいらっしゃるかと思いますけれども、司教としてのモットーは"COMMUNIO COMMUNIONUM"(一致の中の一致…カトリックの教会では伝統的にラテン語で表されています。)

 この紋章にはミトラ、鳩、そして帆掛け舟が記されています。ミトラの中には“アッバ”とヘブライ語で記されています。鳩は聖霊を意味しています。そして、このマストは十字架を模してあります。この三つをもって父と子と聖霊が表されています。私たちは、洗礼、堅信、聖体の秘跡を通して、この入信の三秘跡を通して、この三位の神の愛の交わりに招き入れられたものです。そして私たちは三位の神の交わりへと共に歩む神の民とされています。神の民とされた教会は昔から船で表されています。私たちはこの船に乗り込むものであります。三位の神の愛の交わりに旅する神の民としての私たちは、その旅路にあって一人でも多くの人をこの船に招き入れる、そういう務めを担っております。決して神様と私という個人的なつながりだけではないということを、私達もう一度確認したいと思います。

 特にその私たちの兄弟姉妹としての一致は、聖体の秘跡によって築かれていると言ってもいいかと思います。紋章の司教のモットーの脇には、葡萄と麦が記されています。それはパンとぶどう酒、聖体の秘跡を表しています。パウロのコリントに宛てた手紙の中に、次のような言葉があります。「パンはひとつだから私たちは大勢でも一つの体です。みなが一つのパンを分けて食べるからです。」ごミサの時に祭壇には必ず大きなパンが用意されています。司祭が皆さんより贅沢をして、皆さんの頂くホスチアより大きな物を頂くために整えられているわけではありません。あの大きなパンは、一つのパンを私たちが分け合って、共に与っているということを表すための大きなパンであります。この今読みました1コリント書、コリントの教会の人々に宛てたパウロの言葉そのものを表しています。

 パンは一つだから私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。私たちはこのパンに養われて、共に三位の神の愛の交わりを証するように招かれたものであります。共にその使命を果たすことが出来れば幸いに思います。三位の神の愛を証するもの、そのために神様は私たちを呼んでくださったのです。

 今日のこの式次第に“神の招きに応えて”とあります。私たちがこの神の招きに答えることが出来るように、神様は私たちを招いてくださった、この神様の選びということについて合わせて少し考えていただけたらと思います。

 朝日新聞の日曜版に“いわせてもらおう”というのがあるのですが、皆さん読んでいらっしゃいますか?私も楽しみで必ず目を通すのですけれども、いつか “選びの基準”というタイトルの下に寄せられたものがありました。38歳の主婦、テレビで郷ひろみを見た9歳の娘との会話。「かっこいいね、ママ達のアイドルだったのよ。パパと同じ年よ。」そうすると娘さんは、「ママは偉いね、かっこでパパを選んでいないもの。私なんてかっこいい人ばかり好きになっちゃう、駄目だよね。」と、そういう文が寄せられていました。

 人の選びと神様の選びというのは、少し違うようでありまして、私たちが格好がいいから神様が呼んで下さった、選んでくださった訳ではない。少しばかり人より頭がいいから、才能があるから選んでくださった訳ではない。人よりちょっと手柄を立てたから、功績があったから呼んでくださった訳ではない。神様は無条件で、そして無償で呼んでくださる方だと、そのことを、特に弟子たちは体験を通して得たようであります。弟子の中でもまたさらに12人の弟子が使徒として選ばれました。その12人の一人一人を見る限りにおいて、決して評価されるような人物ではなかったようでありますね。実際その12人の頭であったペテロは、先生であるイエズス様を裏切ることになってしまった。そこに象徴されるように12人は決して評価される者ではなかったように思います。それと同じように、私達一人一人も何か特別に人より優れたものがあっての選びではないように思います。そしてまた、この選びは私たちが選んだのではなくて、神様が自ら選ばれた、ということであります。

 ヨハネの手紙の中に次のような言葉があります。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださった。私たちが愛するのは、神が私たちを愛してくださったからです」と。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださった。この選びの神様による選考性というのですか、そういうものがヨハネの手紙には何度か書き記されています。とかく私たちは、私が選んだ、となりがちでありますけれども、しかしこのキリスト者への選びは、決してそういうものではありません。神が私たちを選んでくださった、ということです。それは神がまず私たちを愛してくださっているから、私たちは皆、三位の神の愛の交わりを証するものとしての務めを負うている。しかしそれは決して義務ではありません。神が私たちを先に愛してくださった、こんな取り得のない私を愛してくださった、だからこそ私たちは人を愛し、愛の証を立てていくのだ。私たちのそうした使命、愛の証し人としての使命は、この恵みによるもの、そして恵みに答えるものであるということを、今日心に留め、そして良い準備をし、復活徹夜祭にさらに豊かな恵みを受けることが出来るように、心あわせてお祈りしたいと思います。



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教会委員会報告

2003.3.15

<報告事項>

(1) 信徒総会の総括

先月開催された信徒総会の反省を行った。総じて意見は左記のとおり。

  1. 例年に比べ多くの方に参加していただいた。

  2. 参加者の意見を聴く時間を多く持てたなど従来にない総会ができた。

  3. 「ブロックの今後」についての課題が共有できたのはよかった。

  4. 一つの形にとらわれないでそれぞれに個性ある各ブロックの動きを認識できた。

  5. ただし、焦点が定まらなかった。具体例を提示するなど問題を絞るべきであった。

  6. いつもの事ながらもう少し時間が欲しかった。

  7. この問題は引続きいろいろな機会に考えていきたい。

テハン神父からは「ブロックは小教区の中の小教区のようなもので、若い人、高齢者など住んでいる人のニーズに応えていける組織が望ましい。今回は短時間で効果的にブロックの多様性が認識でき、第一歩としてはよかった。」とのコメントを頂いた。

(2) 2002年度課題の進捗確認(資料から抜粋)

2002年度課題の進捗状況を確認した。解決したもの、一部継続等引続き検討するものなどあるが、主なものは以下の表のとおり。

課題

対応

備考

委員会規約の見直し

信徒総会報告・3月委員会承認

 

「教会のあり方」提言

規約改正に伴いほぼ実現

財務体制等継続検討

教会メンテ計画

3月委員会提言

検討継続

小教区の枠を超えて

スポーツ大会・平和旬間等で試行

継続実施

教会維持費の増加促進

実態調査

継続検討

シャワールームの運営管理

定常化

 

元売店の活用

4月完成予定

管理方法検討

バザーその他

教会行事として実施

 

(3) 元売店活用工事の進捗

  1. 天井・蛍光灯設置などは完了あとは四周の壁の塗装などを残している。上水道・下水道が作業の都合で完成は遅れるかもしれない。費用は予算内でできている。

  2. こんごプロジェクトチームで維持管理体制を検討したい。

  3. 名称を募集したい。「虹の家」「エマオの丘」などの案があるが、プロジェクトチーム場合によっては教育部の協力で将来を担う子供達からの募集など考えたい。

(4) 教会防災体制

平成12年11月に岡田氏中心に作った「藤沢教会危機管理対策基本検討案」をもとに壮年部で毎週検討しているが具体案作りに苦慮している。本格的に体制を作るには備蓄の程度・救急器具など費用がかかる。どの程度の支援対策を想定すべきかが問題だが、なお検討を進める。

なお、市の対策本部でも出張で講習してもらえるので、理解を深める意味で計画してみたい。また、外国人向け「安全の栞」パンフレット購入し配布する予定。

<討議事項>

(1) 教会委員会規約改正の承認

教会委員会規約改正の議題に対し、既に委員会でも検討し信徒総会にも報告済みとして、全員賛成で承認された。改正内容は既に実行されているが、こんごは規約を尊重し、所定手続きのもとでの変更が望まれる。

(2) 教会メンテナンスP・Tの答申

信徒総会で概要が報告された教会メンテナンスプロジェクトチームの答申が川辺事務局長より報告された(修繕予定表参照)。建直しをしないで維持していくため2030年まで司祭館・事務局棟に約9百万円、信徒会館に7千4百万円、聖堂に6千8百万円、合計1億5千万円が必要との答申。ただし、

@ 司祭館は3階建て部分の図面がなく、詳細不明。従って、修繕が必要とすればこの予算だが、他の建物より長持ちさせるのは無理で、補強するとすれば1千万円、建て直すとすれば3千万円程度掛かるであろう。
A エレベーター等法定・安全に関わるものは別として、空調等は機械が故障してから修理或いは買い替えができる。従って2005年・2020年と2回大きな予算を組んでいるが、1回で済むかもしれない。

などの不確定要素があるものの、おおよそのガイドラインとしている。

資料として他に建物別年度別など個別の詳細見通しがあるが、これ等を基に委員会・総務部で今後の具体的な修繕計画を立てることになろう。

委員会、ブロックでもこの提案になお理解を深め、これまでの修繕実績を踏まえ、財政状況とも絡めて対応を協議して行くこととなった。

(3) 2003年度課題の確認(資料から抜粋)

2003年度委員会の課題を確認した。主な事項は表のとおり。

課題

主な担当

教会メンテ計画

委員会

財務体制等の検討

財務部

教会維持費の検討

委員会

湘南台センター関係

委員会

元売店の活用

P・T

防災体制の確立

壮年部

福祉活動の統合

福祉部

コイノニアプロジェクト

P・T

外国人代表の選定

国際部

小教区の枠を超える活動

委員会他

ブロック活動の充実

ブロック代表

バザー等教会行事

委員会他

04年度信徒総会

委員会

<ブロック・活動部報告>

1. 辻堂ブロック

3月2日からバザー委員会を発足、浮田久之氏をまとめ役として動いている。

2. 北ブロック

湘南台センター8周年を迎えるに当り、こんごのあり方・注文の意見を聞きたい。(?)

3. 福祉部

教会の中での販売・募金などを秩序立てるべく、各活動グループへこれまでの経過、こんごのあり方等を手紙で問合せをしている。

4. 宣教部

4月19日復活徹夜祭に12名の方が入信の諸秘跡を受けられる。

5. 典礼部

3月9日(日)9時半ごミサ後典礼フォーラムを開催。参加者50名程度。詳しくは別項参照

6. 教育部

  1. 3月16日(日)卒業感謝ミサ、記念品を神父さんから渡してもらう。
    日曜学校も終了、新学期は4月13日(日)より。

  2. 4月27日(日)25名の子供達が初聖体を受けるので、12日(土)初告解のために黙想会を行う。

  3. 4月29日(火)教区の教会学校リーダー研修会が二俣川教会で行われる。

7. 壮年部

3月30日(日)11時〜13時センターホールで壮年の集いを開催する。
第一部「教会委員会報告」
第二部「定年後は教会と遊ぼう」シンボジウム
定年後自分の時間が持てるようになった方々、これからそうなる方々が、どう教会活動に携わり、信徒間の絆を深めていくかを一緒に考えたい。
そのため、各活動部にお手伝いできるどのような仕事があるかご報告頂きたい。

8. 聖体奉仕者

5・6・7月第4日曜日に聖体奉仕者の研修会を行う。各ブロックに適当な人がいれば次の委員会までに推薦して欲しい。ミサ当番・病人のため・日曜学校など勘案し、各地区に1〜2名、任期は2年。

9. ブライアン・ベイル神父送別

5月11日(日)が最期のミサになる。ミサ中に挨拶をいただき、お餞別を贈呈する。



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典礼フォーラム報告
典 礼 部

 典礼フォーラムが三月九日九時半ミサ後、50名ほどの参加で(「典礼」が私たちの日々の生活に生きたものとなっているでしょうか) のテーマのもとに行われました。

 はじめにテハン神父のテーマに沿ってのお話と祈りで始まり、それに続いて共同体の中から宮内さん、石黒さんに導入としてプレゼンテーションをしていただきました。

 宮内さんからは、「侍者をして思ったことは、以前よりも共同体意識を強く持つようになりました。ミサ中、皆が輪になっていることと関係があると思います」との報告があり、石黒さんからは「一般に「祭壇」は入口から一番遠くに配置されますが、ここでは逆に入口近くにあります。入口側には座席がなく、ミサのある「瞬間」だけの祭壇で、後は、単なる「棚」とは考え難く、聖堂内の行動ではいつも悩んでしまいます。と現在の聖堂配置にとまどいを持っている旨の報告がありました。

 その後、小グループでの話し合いがもたれ参加者がそれぞれ今感じていることの分かち合いを行い、12時半ごろ終了しました。

 スペースの関係で、小グループで出された意見の詳細は掲載いたしませんが、典礼部で別刷り資料として用意致しますので、ご希望の方はお持ちください。



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『紙上フォーラム』 わたしたちに何ができるか?
善 行 岡村

 「紙上フォーラム」を始めたのは、私たち藤沢教会のミサ典礼を更に豊かなものにするのに、私たちに何が出来るかを話し合いたかったからです。

 聖堂内の配置を変えてから、ミサの中で私たちは、今まで気付かなかったことを知り、また色々なことを感じはじめました。

 それは、今回の典礼フォーラムに寄せられた皆さんの感想を読んでも感じます。もっとそのことを聞きたいし話し合いたいのです。地区の担当するミサの準備の時にも話し合えたらよいなと思います。

 私の願いは、私たち皆がミサをただ信徒に定められたこととして繰り返すのではなく、その主日からはじまる私たちの未知の日々、その生活に必要な糧として与(あずか)るようになってほしいのです。

 ミサで行われること、どれ一つとっても、全体に結ばれて、いや聖体になることに結ばれて唯一の、ミサに必要なかけがえのないはたらきの一つだと、身体で感じるならば、私たちの心がこもるでしょう。そして、私たちのミサは、丁度歌を歌うように全体に一つの流れが生まれ、未知のこの先の日々に向かうその主日の、私たちの心が溢れていきいきとしたものになるでしょう。

 そのようなミサを体験してはじめて私たちは、ミサの中で行われること、用いられるもの一つ一つについて、これはどういう意味とはたらきを私たちに表しているのかと考え、話し合うようになるでしょう。



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卒業感謝ミサ 「ありがとう・神様・・」
日曜学校リーダー風間

 日曜学校の子供ミサではいつも、先唱、侍者、朗読、ピアノ、共同祈願等、リーダー達が分担しあって、子供たちの補助をしてまいりましたが、この日も聖堂で六年生を中心にベイル神父様司式の卒業感謝ミサが行われました。約20名の六年生(内2名は土曜学校)そして幼稚園、中学、高校、大学生が今日までの恵みに感謝し、共に祈り祝福をいただきました。

 子供たちは各々、一所懸命、立派に自分の仕事をやってくれました(拍手!!)。6年間、遠足やキャンプに必ず参加してくれた土曜学校のお二人にも感謝します。

 ミサのお知らせの後、記念品を戴く時に教会の皆さんの拍手がずっーと続き、子供たちがその中を歩いて行く姿に、「あー、共同体の中で子供たちは見守られ、成長して行くんだなー」と、あたたかいものを肌で感じました。

 子供たちの笑顔と力に支えられ、私たちリーダーも成長してこられたと感謝しています。

 六年生の皆さん、ありがとう。そしてご卒業おめでとう。中高生会でも皆の素晴らしいタレントを活かしてください。リーダーたちはいつも見守り、祈っています。色々な価値観と情報の中でイエス様の聖なることばの種が、吹き消されることなく育っていってほしい、イエス様につながっていてほしいと願います。

 子供たちの思い出をここに紹介いたします。

土曜学校の一番の思い出     六年 小沢

 ぼくは、土曜学校に6年間通いました。その六年間の中で一番記憶に残ったのは、五年生の時ぐらいの遠足です。辻堂海浜公園にいき遊んだことを覚えています。そのあと、教会に戻りカレーを食べ、自由時間になり鬼ゴッコをして遊んでいました。すこし時間がたってキャンドルファイヤーをしました。教会でのキャンドルファイヤーは、とてもキレイに見えました。それにみんなで、今日一日なにがたのしかったか話しあったことが、一番の思い出です。

日曜学校の思い出      六年 里原

 僕は、3月16日の卒業感謝ミサで先唱をしました。今までにセンターホールでやったことはありました。その時はあまり緊張しませんでした。でも聖堂で初めてやった時は、センターホールでやった時より、すごく緊張していました。でも終った後はホッとしました。自分なりにうまく出来たと思います。
 僕は聖劇を二年生の時からやりました。色々な役をやって来ましたが、六年生の時にやった隊長が一番よかったと思います。
 日曜学校には、一年生の終り頃から入りましたがこれまでに皆と勉強したり、遠足に行ったりして楽しかったです。中高生会もがんばりたいと思います。

日曜学校の思い出     六年 小川

 日曜学校では、一年生から六年生まで色々な事がありました。その中で一番の思い出はやはり、ミサの中での仕事です。私は先唱という大切な司会みたいな役をよく頼まれました。初めての時はあんまりよくわからなかったけれど、やっているうちにだんだんとわかってきました。今では昔よりもウマクなったと思います。
 次の思い出は聖劇です。やっぱり、毎年聖劇に参加していると、台本のセリフをすぐ憶えてしまって、先唱の仕事に熱中できて、「よかったなぁー」と思いました。
 最後に卒業感謝ミサです。私は、日曜学校の六年生感想を書いて、パネルにした物を奉納しました。神父様にみんなで作ったパネルをわたした時、笑顔で受け取ってくれたので奉納をしてよかったぁーと思いました。

日曜学校の思い出      六年 大畑

 日曜学校での思い出はたくさんあります。ピアノを弾いたこと。初聖体のことなど。
 数々の思い出が心に残っています。ピアノを弾いた時は緊張してまちがえてしまいました。
 初聖体。私は小さい頃親がご聖体をいただいているのを見て「私も食べたい」と思っていたので初聖体の時、ご聖体をいただいてすごく嬉しかったです。
 それと詩の朗読。詩は“堀明子”さんのを読みました。どれもすてきな作品ばかりです。
 卒業感謝ミサでも私はピアノを弾きました。曲は「ジュビリソング」です。私はこの曲が好きなので弾けて良かったです。この日は緊張しませんでしたが、少しまちがえてしまいました。
 そして、ミサは進み記念品贈呈の時、教会のみなさんの拍手の中、聖書と詩が書いてあるカードをもらい席に戻ると隣の人達が「ピアノは上手だし、おめでとう」と言ってくれました。
 日曜学校は卒業したけど、この六年間のいろんな思い出は忘れません。



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「ゆるし」について ハンラティ神父の講話
藤沢1区 高野

 3月23日、静修の日の黙想会でハンラティ神父は自分の体験から、「ゆるし」について次のように話された。それは過去において「ゆるし」は神に対して、己れの罪の告白であったと。だから時には神父の前での告白は殉教者の気分であり、小・中学校、高校そして大神学校時代を通じて、さらに司祭となって47年間、「ゆるし」の秘跡を求め、そのつど素晴らしい恵みをいただき、キリストと親しくなっていった経緯を時にはユーモアをもって話された。

 神からの「ゆるし」は、キリストと親しくなるだけでなく、他人とも親しくなれるし、キリストとの出会いは日常生活をも豊かにし霊的に成長もする。しかし、このように神によって癒される体験を味わうためには、自分以外の者を「許す」こと、また赦すことであり、この場合にキリストが必要であると。

 まさに私どもはいま霊的な旅路を少しずつ歩いているが、その指針となるのは聖書でなければならない。聖書を通じて成長することが求められている。それは学問的でも神学的にでもなく、過去のことにとらわれるよりも将来に向かって、新しい未来への旅路を、輝かしい明日のために。神のはからいを無視して、自分のはからいを主張し過ぎていたのではないだろうか。また神の偉大さを認識していなかったのではないだろうか。だから癒してほしいことは、あれこれではなく一つだけ願うようにしましょう。

 キリストと親しくなると、意志が強くなり忍耐する力が生じるものです。自分のたりなさ、神に対する恐れからの解放を体験できるようになる。キリストが私たちを大切にしてくれていることを体験することができるからです。自分の頼りなさを認識すると同時に、他人に対しての自分の態度はどうか。トマスはキリストの出現に際して不在でした。だから自分の目で、手でキリストを確認しなければ信じないと言った時に、キリストは再びトマスの前に復活された。これがキリストの「ゆるし」なのだと。キリストの解放というのは、何かが出来るようにするため、そのために障害になっているものを取りのぞいてくださるのだとも。

 放蕩息子の譬えでは、お兄さんは弟を「許す」こと、また赦すことが出来なかったから父親とも親しくなれなかったし、神からの「ゆるし」も得られなかった。このような例は聖書には幾つもあり、自己中心的に解釈しまた行ってはならない。自分の貰っている神からの恵みを認識することであり、キリストの愛で「ゆるし」てくださいと祈ること。人は誰でも神の声を聞くことができるのであるから自分を中心にするのではなく、神を中心にして感謝すること。いつも神によって恵まれていることを感謝しなければならない。感謝

の心があれば心に平安が訪れる。過去を、他人を「許し」赦さなければ自分は解放されないと重ねて講話された。神との対話が可能になる最善の方法は、ミサにあずかることであり私どもは罪人の団体であり、それ故に神からの「ゆるし」を願い、またその「ゆるし」に感謝するのである。そのためには神に対して自分の心を癒してほしい、解放してほしい、「私たちもひとをゆるします」からと神に依頼することであるとも。

 最後に共同回心式の方法について、つぎのように講話された。共同回心は罪人の団体である私どもが一緒になって祈り行動すること。司祭の話を聞き、そして一人一人は司祭の前に出て、一言「感謝をください」または「神の話されたことをもっと聞くことができますように」と告げるだけでいい。司祭は「ゆるし」てくださる。なによりも神からの「ゆるし」を得るためには「私を傷つけた人のために祈りなさい」「個人的に特別な人を祈りなさい、しかしこれは無理をしてはならない。出来ればしなくてよい」と。さらに「他人と自分とを比べてはならない。自分自身のことを考えること」だと。以上がハンラティ神父の講話の内容であるが、何分にも当日は記録する準備もなく、記憶力の乏しい私であるから、ハンラティ神父の意向がどれほど伝えられたか、またはまったく逆のことを記憶していたかもしれない。これは神からの「ゆるし」によって帳消しされることを願うのみであります。

 最後に「ゆるし」についての漢字でありますが、たとえば「わが魂よ、主をたたえよ、主はおまえの罪をことごとくゆるし、おまえの病のすべてをいやす」と詩篇103 にあるが、この「ゆるし」を「許・赦・聴」を当てはめても妥当ではない。どうも漢字は人間社会でのみ通用する語であって、神の意志を伝えるためには適当ではないのではないだろうか。ハンラティ神父の講話をうかがっていて、ふとこんなことも考えたので記録しておきます。どなたか漢字に詳しい方、教えてください。さらにハンラティ神父は「八角形にゅーす」第136号に「ゆるしの秘跡と私」についてお書きになられております。是非あわせてお読みください。



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ひとことずつの共同回心式
辻堂1区 森田

 お庭の桜もいつの間にか蕾をつけ始めている3月23日、静修の日での共同回心式は私にとってとても喜び深いものでした。式が終わった後の皆さんの顔も輝いていて、同じような感慨を持たれたのではないか想像しました。

 この日は一日ハンラティ神父様のご指導のもとに、ミサ、続いてゆるしの秘跡についての講話、そして午後からは共同回心式が行われました。

 神父様はミサの中のお説教の時から、回心式にあずかる私たちの心の準備をどのようにしたら良いのかを少しずつ話してくださいました。

 それは自分の悪さ(罪)を調べることばかりに目を向けるのではなく、そんな自分の足りなさをこそ赦してくださろうとする神への感謝の心を先ず持つこと、そして今、自分の中のどの部分を赦していただきたいか、癒されたいかを味わい、その状態のままイエス様の所に行って、足を洗ってくださいと願うことというように私は受け取りました。神様は回心する私たち一人ひとりを招いていらっしゃるのだと思います。放蕩息子のたとえのお

兄さんのように、父の招きを断ることは、神様を悲しませるようです。神との関わりを断ることは、同時に人との関わりをも断ることになるとのことでした。

 今回の共同回心式は、一人ひとりが先ず今神に癒していただきたいことを一つだけ選んで、順番に司祭の前に立ってひとこと告解し赦しをいただきます。席に戻りすべての人が

終わるまで静かに祈りながら待つ、というものでした。

 最初に心打つ情景がありました。それはすでに聖堂に入っておられたテハン師とベール師、そしてハンラティ師の三人の司祭方が、私たち信徒の目の前で、代わりあってゆるしの秘跡をいただいたことでした。その時私は本当に私たちと共に歩んでくださっている司祭方のことを心に深く刻みました。

 いよいよ私たちの番になり、私もいくつかの告解の材料の内から一つを選びました。初めのほうでしたので、赦しと祝福をいただいてから席に戻りしばらく目をつむって祈ることができました。祈っている内に、私のひとこと、皆さんの各々の一言ひとことがやがてひとつの得も言われぬ芳しい香りとなって主のみもとに立ち登って行くかのように思えてきました。いえ主は天のどこか遠い所におられるのではない、この藤沢教会の聖堂の中に今おられるのだと、そして私は共同回心式の意味はここにあるのではないかと思いました。

 また、今日赦されたひとことの告解を今日でおしまいとするのではなく、毎晩思い起こしましょう、ミサの始まる時も終わった時もそしてご聖体を戴くときも思い起こしましょうとのお話を忘れないようにしたいと思いました。

 聖霊は私たちを一つに結び、参加できなかった方々をも一緒に招いておられるのだと思いました。 この小さな祈りの場があちこちで生まれているとしたら、世界の平和への希望を失うことはないでしょう。

 主に賛美と感謝を心から捧げます。 ハンラティ神父様ありがとうございました。



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平和行脚のお坊さん達と
藤沢1区 萩田

 去る2月21日(金)カトリック藤沢教会にお泊まりになった日本山妙法寺の竹田上人はじめ10名の皆様が、22日(土)朝、平塚に向け元気に出発なさいました。皆様は日本の平和、世界の平和を祈念して黄色の衣をまとい「南無妙法蓮華経」と太鼓を叩きながら、2月は焼津(久保山愛吉さんの墓前)まで、5月は広島まで行脚をしている方々です。今回はイラク情勢が緊迫している中で、いつにもまして戦争を回避し平和を願う思いが満ちていることを実感なさったそうです。また聖母訪問会のシスターのほかに、丁度鎌倉の十二所での黙想会のために、長崎や宮崎からおいでになっていらっしゃった多くのシスター方が、ご一緒に行進をしていらっしゃり、思いがけないことでとても嬉れしく感じました。

 私の手元に、1988年5月のお坊さん達への夕食のメニューがありますので、それから15年、ささやかな私たちの平和へのお手伝いが続いていることになります。もともとは、4年前に亡くなられた横井節子さんと竹田上人との出会いがそれより以前にあり、行脚のお疲れを休めていただくためにお茶を差し上げる程度だったようですが、横井さんはキリスト教一致の集まりや、市民クリスマス教区第5地区の典礼のお仕事などをなさり、宗教の違いをこえて、平和を願う気持は同じとの思いで、平和を願いひたすら歩いていらっしゃる日本山妙法寺の皆様のお役にたちたい、と藤沢教会にお泊まりいただくことになりました。勿論主任司祭の強力なバックアップがあっての実現でした。最初はどうしてカトリックの教会にお坊さんが来るんですか?という質問を受けたりしましたが、少しずつ平和を願う思いは同じということが浸透してきたようで、本当に多くの方々が、力を貸してくださいました。しかし、以前は横井さんと一緒に元気に皆様への夕食の準備を手伝ってくださった方達も高齢になられ、数年前からは、私より若い教会でいつもいろいろと働いていらっしゃるご婦人たちが6、7人喜びをもって手伝ってくださいます。また毎回必ず一緒に行脚なさる方もいらっしゃいますしテハン神父様も何回も片瀬教会から藤沢市役所までお歩きになっていらっしゃいます。“平和の祈りプラス行動”、5月は陽気もよくなりますし、多く方がお歩きくださいましたら嬉しいです。

と、このささやかな平和のお手伝いの機会をいただいていることを感謝しつつ、願っています。



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「カンボジア福祉基金藤沢」の皆様へ
JLMMカンボジア 鎌田頼子

はじめに―

 カンボジアは日に日に暑くなって来ています。雨は雨季の間に全部降ってしまったかのようです。乾季の間約6ヶ月間雨は本当に、数回しか降りません。乾季の盛りにマンゴーのおいしい季節が同時にやって来ます。外出中、緑の葉の生い茂る木の中にマンゴーの実を見つけると私たちはすがすがしい気持ちになり、カンボジアの暑さもおいしいマンゴーを食べて乗り切ろうと思います。

 今回はステンミエンチャイでの最近の活動、我々が踏み出した新しい一歩について報告したいと思います。

* 歩きながら共に考える―プノンペン・ステンミエンチャイにて

 プノンペンの南にあるステンミエンチャイのごみ処理場に行けば、みなただ驚くばかり。何の焼却処理施設もなく、ただ空き地にゴミの分別もなくゴミが置かれて焼かれているだけなのですから。今ではゴミの大きな山がいくつもできてしまいました。その焼かれている場所の20メートルくらい離れた場所に人が住んでいることにもびっくり。彼らは主に捨てられているごみからリサイクルできるもの(ビン、カン、布、ペットボトルなど)を拾い出し、業者にそれらを売って生計を立てています。

 ゴミ処理場に住んでいないカンボジア人は心の中でゴミ捨て場に住んでいるカンボジア人のことを(正直に言えば)見下しているように感じます。「なぜあの人たちは衛生的にすることを知らないのだろう。」と。その中で私たちのナショナルスタッフであるサッチャーはこのゴミ捨て場の人たちに石鹸を配るプログラムを提案しました。私は心から賛成はできませんでした。石鹸が買えないから不衛生になっている、石鹸さえあれば衛生的になると考えるのはあまりにも短絡的ではありませんか。しかし2人でどの家庭に石鹸を配るべきか調査するために出かけていきました。

 約90家族のテントの家を目の前に、私たちは何度も呆然としました。何度もここに出かけてきてはいるけれど、果たして援助することができるというのでしょうか?私たち2人はテントの家の周りを歩きながら考えていました。ここにも雑貨屋さんが存在します。石鹸を売っているのだろうか?ホテルにおいてあるような一回分がパックされているシャンプー(1パック100リエル―日本円で約3円)や、洗濯用洗剤は売っていましたが、石鹸は売っていませんでした。石鹸を無料で配りつづけることはできない、でも私たちが安くて良いものを買ってきて、ここで売ってもらうことはできるのではないだろうか?と思いサッチャーに聞いてもらいました。サッチャーは「みんなに石鹸を使って身体を洗ってほしいと思うのだけど、もし僕たちが石鹸を用意したらここで安く売ってもらえるかな?」と、雑貨屋のおばさんの返事は悪くもなさそうでした。

 歩きながら、家を見ながら、人に会いながら小一時間共に考えると、事務所の中では思いもつかないことが浮かんできたりするのだなあと気づきました。そして歩きながら共に考えると早く決断できるのは、カンボジアの暑さのおかげかもしれません。事務所の中で考えが煮詰まってどうにもならないときにはぜひプノンペンのゴミ捨て場で歩きながら考えてみましょう。

 さて、石鹸のことについて、村の人々にインタビューしてみました。石鹸が安く買えるならぜひ買いたい、それをボランティアで手伝ってもいいという反応がありました。私たちは、安い石鹸ならば5百リエルで買えるのではないかという概算がありました。それで一人1ヶ月以上使えれば百リエルのシャンプーを毎日買うよりもずっと経済的です。私たちはそこまで考え事務所に戻って行きました。

* ステンミエンチャイ石鹸キャンペーン

 どのような石鹸が一番いいか?石鹸を探す小さな旅がはじまりました。イエズス会サービスはハーブを入れた石鹸を作っていると聞き、そこに行って尋ねると、なんとまあ、現在生産を中止しているとのこと。理由は大きなNGOがカンボジアの人々の生活を助けるために沢山注文し、その後彼らが無料で配ったのはいいけれど回り回ってその石鹸が何と一般の市場でイエズス会の売値よりも何倍もの価格で売られてしまうようになったからです。こんなことはカンボジアではしょっちゅうあることです。無料でもらったいいものは高く市場に売って、そのお金で自分の好きなものを買うのです。とても残念なことだけど、こんな時に自分たちのカンボジアの人々との関わり方をもう一度見つめなおすことができます。私たちは絶対にこんなことを起こさないようにしなければいけません。

 私たちがするステンミエンチャイ石鹸キャンペーンの取り決めは以下のような形です。

 このような取り決めをした後でも私はしばらく「こんなことをして意味があるのだろうか」と迷い、サッチャーにもう一度村の人に聞いてくるように頼みました。彼等は「いつ衛生の先生(サッチャーのこと)が石鹸売りに来てくれるのか楽しみだなあ」と待っているそうです。村の石鹸ボランティアも三人選出されました。そしていよいよ今週からステンミエンチャイ石鹸キャンペーンが始まります。

 私自身は冷静にこのキャンペーンはただ単に石鹸使用促進の目的だけではなく、村の人々がみんなで協力して一つの行事を行なうことにでコミュニティの力が強化されることにも貢献できたらいいと考えています。もしこのキャンペーンが成功するならば、これは本当に村の人々の力を加えて行なうプログラムであり、ステンミエンチャイで活動している他のNGOにはない活動として評価できるものではないかと思います。近い将来にはここで自分たちの石鹸を自分たちで作ることができればいいのに…。と夢をみています。

おわりに―

 コンポンルアンを往復する回数が増えてきました。カンボジアのタクシーを使って移動します。様々なハプニングがあって大変だし楽しいものです。次回はカンボジアのタクシー事情について少しお知らせしたいなあと思っています。

 またすぐにお会いしましょう!

 チョムリアップリア!

   2003年3月15日

◇  ◇  ◇  ◇

※「カンボジア福祉基金藤沢」を応援する会事務局より。

 この基金は2001年度バザーの収益をJLMMカンボジアに寄贈し設立された基金です。 この基金を「応援する会」は機会あるごとにカンボジア王国コンポンルアン水上村教会でのプロジェクトの動向、基金の運用状況をご報告致します。

現地に駐在する鎌田さんと、現地スタッフの若者達を応援して下さい。

カンボジアで

500円あれば:1人の子供が教会の識字教室に半年通えます

1,000円あれば:1人の村人が診察に行く往復の交通費になります。
(病院の町まで100km以上あるんです)

3,000円あれば:1人の妊婦の産婆さん費用が賄えます。

5,000円あれば:一家が一ヶ月、栄養のある食事を摂れます。
(村の福祉活動/ホームケア等に安心して参加できます)



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送迎ボランティアの状況報告
福祉部 小野

 昨年6月から始まった『車による送迎ボランティア制度』について、現在までの状況を報告致します。

 登録ボランティアは現在26名で、内訳は運転者18名・付添い者8名。利用/相談実績は5件でした。そこで、今回は利用実例を紹介致します。

1.敬老会への参加……昨年9月に藤沢教会で開かれた敬老会案内の往復葉書を通じて、送迎を希望する方に申込みを呼び掛けたところ、2件の応募がありました。当日は、それぞれ送迎ボランティアが対応し、とても喜んで頂きました。

2.病院への通院……昨年10月に車椅子利用の方が、歯科通院に利用されました。いつもは藤沢ボランティアセンターでお世話していますが、当日は運転手の都合が悪くこちらへ依頼されました。

3.元旦ミサへの参加…特養ホームに住む車椅子使用の信者です。普段は神父様がご聖体を持参していますが、神父様を通じて元旦ミサに参加したい希望が寄せられました。福祉部・事務所・特養側の3者でよく協議の上、リフト車「あかね号」で送迎し、運転手と付添い者2名で対応。ご本人は非常に感激され、関係者たちにも感謝されました。

4.高齢者の通院相談…昨年末、クリスマス・カードと一緒に配布した資料で送迎ボランティア制度を知った家族から今年1月末に送迎相談がありました。眼科月1回、内科薬月1回通院中であり、現在世話中の次女が4月から大阪へ転勤予定。代りに来る長女は車を運転できない、とのこと。送迎ボラ制度の内容を説明し、対応体制を準備しています。

 お年寄りやお身体の不自由なの方々に対する送迎ボランティア制度のご利用あるいはご相談は、各ブロックの福祉委員、あるいは福祉部事務局のいずれかへ、ご連絡願います。

  福祉部事務局(湘南台センター)Tel/Fax:0466-43-2265



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宣教部紹介
藤沢2区 平野

 宣教部では、主任司祭、教会委員長、副委員長、湘南台センター・入門講座・短期キリスト教セミナー・結婚準備講座・市内キリスト教連絡会・売店の各代表と毎月会合を持ち、情報交換、宣教部のあり方を話し合っています。売店脇の掲示板の活用も定着し、毎月の「みことば」子供たちのお祈り等を楽しみに見て下さる方も増えたようです。

 また、第五地区福音宣教委員会に参加し、小教区を越えた宣教活動をする努力をしています。以下、活動内容を簡単に紹介します。活動のスタッフに限らず、洗礼を受け宣教の使命を与えられ、ミサの閉祭の時派遣の祝福を受ける信者一人ひとりが宣教部のメンバーとしての自覚を持ち、ご協力して下さることをお願いいたします。

キリスト教入門講座(リーダー会)

 まず自分との出会い、そしてキリストとの出会い、共同体との出会いというプログラムで進められていくこの講座を通して、キリスト教の価値観を知り、生き方を見つめ直すお手伝いをリーダーはしています。リーダーからの一方通行的なものではなく、講座のメンバーの方々との分かち合いによって一緒に講座をつくっています。

 また信者の方々にとっても、もう一度自分と信仰を見直す機会にもなる内容です。

 現在行われている(または近日開講)のクラスは次の通りです。

 月曜(10時から)2クラス(1つは5月12日開始) 教会で
 火曜(10時から)教会で2クラス、湘南台センターで1クラス
 水曜(10時から)2クラス(1つは4月2日開始)教会で
   (13時30分から)湘南台センターで
 土曜(10時から)湘南台センターで
   (19時から) 教会で

 その他に、アフターケアのクラスとして次のクラスがあります。

 第1、3火曜(10時から)教会で
 第2土曜(19時から) 教会で

又、初心者向け聖書のクラスとして

 第1、2、4日曜(10時から)湘南台センターで

結婚準備講座

 幸せな結婚生活をおくれるよう、婚約中、結婚を前提に交際中、また最近結婚したお二人のために、全7回のコースを年3回開講しています。

 プログラムは

 1.夫婦愛を育てる新婚時代
 2.カップル間に豊かな対話を
 3.愛を育てる家庭経済
 4.男性、女性、夫、妻、父、母として
 5.素晴らしい生と性−妊娠、出産、育児
 6.二人で歩む道の価値観
 7.結ばれた二人の道

 二人の愛を育てて関わりを深める「対話」のレッスン、先輩夫婦の体験に基づいたお話、産婦人科の医師のお話等もあります。また毎年11月には同窓会を行っています。

売店−がりらや

 教会関係の図書、用品、カード等を販売しています。キリスト教に関心を持ち、教会は初めてと言う方が気軽に立ち寄って相談をしたりしています。大きな宣教になっています。

 責任者のほか、1回2時間半のボランティアの方々のご協力で、教会事務所のお休みの祝祭日、年末年始、夏休みを除いてほぼ毎日朝10時から午後3時まで開いています。12月は午後7時まで開いています。

ボランティアは常時募集中ですのでよろしくお願いいたします。

短期キリスト教セミナー

 横浜教区第五地区の小教区が協力し、周辺地域にお住まいの方々を対象としたセミナーを毎年開催しています。テーマを決め、これに沿った講師を招聘します。このセミナーをきっかけに入門講座に参加し、受洗した方もいます。

 今年は11月15日(土)、22日(土)、29日(土)に開催されます。

市内キリスト教連絡会

 この会では、藤沢市内のカトリック、プロテスタント、修道会が教派を超えて相互に教会活動を支援しあい、信仰を共にする喜びを分かち合い、和解と一致を求めます。毎年1月には「キリスト者一致のための合同祈祷会」8月には「平和のための合同祈祷会」12月には「市民クリスマス」が開催されます。

 今年1月の「キリスト者一致のための合同祈祷会」は日本聖公会藤沢聖マルコ教会を会場に聖マルコ教会の相原司祭の司式でカトリック片瀬教会のマリオ・バラーロ神父の「すすめの言葉」がありました。

 今年の「平和のための合同祈祷会」は8月2日(土)の予定です。

 12月の「市民クリスマス」の会場は毎年カトリック藤沢教会です。

 事務局のあるYMCAで毎月例会があり、カトリック藤沢教会のほかには、カトリック片瀬教会、日本基督教団片瀬教会、同辻堂教会、同藤沢教会、同藤沢北教会、同ベテル伝道所、同藤沢大庭教会、日本聖公会藤沢聖マルコ教会、日本福音キリスト教会湘南ライフタウンキリスト教会、同湘南キリスト教会、藤沢バプテスト教会、湘南台バプテスト教会、日本ホーリネス教団辻堂教会、同鵠沼教会、やすらぎ教会、日本アッセンブリ−教団長後教会、藤沢ナザレン教会、鵠沼めぐみルーテル教会、シャルトル聖パウロ修道女会、聖心の布教姉妹会、聖母訪問会等の代表が出席します。



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葬儀を考える会Q&A

Q.葬儀社への支払いとは別に教会への謝礼はどうしたらよいのでしょうか。

A.教会が信者の方々のための葬儀を執り行うことは当然の責務です。ですから藤沢教会としては通夜、葬儀への代価としての金額について何も定めてはおりません。しかし、聖堂やホールの使用に際して直接、間接の経費も掛かりますし、教会の運営や建物などを良い状態に保っていくためには様々な費用が必要です。そのようなことも考慮に入れていただき、教会共同体への感謝の気持ちを、献金というかたちで表していただければ、教会財政のためにも助けになります。金額については、葬儀の規模なども考慮に入れ、自分の出来る範囲で決められればよいのではないでしょうか。なお、司会、オルガンをはじめ奉仕してくださった方々への個別の謝礼は必要ありません。



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