八 角 形 に ゅ ー す

2003年10月5日

聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会


目次

藤沢教会との出会い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・グリフィン

教会委員会

皆でワッショイ 03バザー!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・バザー企画チーム 山崎

鵠沼ブロック黙想会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼1区 佃

敬老の集いに参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・湘南台  鈴木

敬老会に招かれて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢3区 伝田

マドレーヌの会よりの報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂1区 津上

JLMMのカンボジア現地活動報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼3区 大谷

仏教とキリスト教 (2)・・ どこが同じで、どこが違うか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢2区 兼子

葬儀を考える会 Q&A

10月の主な行事

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藤沢教会との出会い
グリフィン

 愛する藤沢教会の皆様へ

 過日、藤沢教会のテハン神父より依頼を受けて7月26日から5週間にわたり、土曜・日曜・月曜の三日間、典礼のお手伝いをさせていただきました。短い期間でしたが、久しぶりに藤沢教会の皆様と再会し親しくお話できたことは、私には大変有意義な楽しい期間でした。

 藤沢教会は、私にとって特別に思い出の多い共同体です。ご存知の方も沢山おられると思いますが、おおよそ30年ぐらい前、私は藤沢教会の施設の一部をお借りして「聖コロンバン会司牧委員会」の立ち上げと、新しい要理教育のためのテキスト編纂に集中させていただきました。

 この新しい要理教育の基本は、今までの知識中心の教育から、キリスト・イエスに近づきたいと望んでおられる求道者が、自分自身の心のありように真剣に向きあい、ありのままの自分を素直に受け入れることを通して、他者を受け入れる心の柔軟さを体験的に学び、イエスに近づくことを望む心の回らしへと導くことにあります。

 このような体験的な学びの場は、皆様方信徒の方々の信仰の喜びを。自分だけの宝物にするのではなく、まだ知らない方々との出会いを通して実感されます。この役割としてリーダーの養成が肝要になります。 このような新しい要理教育を積極的に取り入れ、信徒のリーダー養成に尽力された藤沢教会の司祭方に、深く感謝いたしております。そして、最近のカトリック新聞に掲載された『メガチャーチ・藤沢教会』の記事を拝見し、新しい要理教育の実践が、その礎となっていることを改めて実感し、万感の思いがあります。

 このようなことは、藤沢教会の皆々様の全面的ご支援があってのことはいうまでもありません。今後とも貴教会がますます発展し、信徒の皆様も神の霊に導かれて、その証びととなり、神を探し求めている沢山の人々にご自分の信仰を分かち合うことが出来ますようにお祈りしたいと思います。



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教会委員会報告
(9月20日)

<報告事項>

(1) ガーデンパーティの反省

 参加人員は150名程度で例年より少なかったが、落着いた雰囲気でよい分ち合いができたとの声も聞かれた。売上が16万円、仕入が13万5千円、差引2万5千円の黒字となった。PR不足であったこと、事前のごミサがなかったことなどもあるが、主催者側が全て用意してお待ちしているという従来のやり方が曲がり角にきているのではないかとの反省点も出された。来年度について、申込み制にしてはどうか・ブロック毎に実施してはどうか・若い人を中心に考えてはどうかなど意見が出されたが、ガーデンパーティを準備してきた壮年部・ご婦人有志中心に広く検討し、委員会に提案していただくこととした。

(2) バザーの準備状況

 賛助金袋を配布、昨年参加いただいた福祉団体への案内、PR用ポスターも作成等事前準備を進めている。明9月21日(日)売り場責任者会議を開催予定。前回委員会で福祉部から依頼のあった収益金の配分方法については福祉フォーラムの結果を待って考えていきたい。

(3) 福祉フォーラム

 既に「福祉活動アンケート」の結果を報告しているが、九月二十八日開催当日の運営手順についての意見交換を行った。できるだけ自由な発言をいただき、当教会福祉の課題を把握したいとしている。

(4) 防災体制について

 委員会事前に行われたブロック委員の打合せで、防災体制検討委員会から有事の際に役立つ信徒のマップ作り、及び十世帯程度の隣組組織の検討を提案した。併せて教会固有の活動で司祭不在時の
  1. 集会祭儀の司会
  2. 聖体奉仕
  3. 通夜の司式
  4. ミサなしの葬儀の司式
  5. 聖書の分ち合いの指導
  6. お年寄りや怪我人・病人の訪問
 が各ブロック・地区でどのように活かせるか、平時からの取組みの検討をも提案した。

<討議事項>

(1) 共同宣教司牧について

 前回の委員会で依頼した共同宣教司牧準備会からのアンケートへの意見を各ブロック・活動部から提出いただいた。このご意見を片桐委員長が集約し、当教会信徒の意見として九月末に提出する。提出内容は次回委員会で報告する。

(2) 来年度教会委員会委員について

 委員会規約によれば2年を超える委員は来年1月信徒総会をもって原則として任期満了となる。委員長・副委員長・ブロック委員・2年を超える活動部長それぞれに検討いただき、次回10月委員会までに交替の目途をつけ、11月委員会からは引継含みで新(候補)旧2人で出席できるよう進めていただきたい。

(3) 教会財政について

1. 財政検討プロジェクトチーム

 7月度教会委員会で討議された横浜教区の「司祭給与分担制度」に伴い当教会財政への影響を確認し、その対策を検討するためのプロジェクトチームを立ち上げたいとの提案が財務部よりなされた。専門的な知識も必要であり、人選等財務部中心に進められることになろう。

2. 教区への実情報告

 テハン神父は、今回の措置により当教会の福音宣教が現状を維持できなくなることを危惧され、経費が最低どの程度必要かを早急に教区へ報告する必要があると主張された。この件に関し意見を取り纏めるため、臨時運営委員会、場合によっては臨時教会委員会の開催を検討することとなった。(9月25日臨時運営委員会を開催、結果・和文書体 標準・を次回委員会に報告することになった。)

<ブロック・活動部報告>

1.鵠沼ブロック

 9月6日(土)黙想会を実施、テーマは「上手な歳の重ね方」で41名の方の参加を得た。

2. 藤沢ブロック

 9月12日(金)敬老会を開催。対象者400名、返事をいただいた方160名、うち80名出席予定、当日出席者75名。暑い日であったので冷房の効くセンターで行った。

3. 辻堂ブロック

@ バザーの準備に注力している。
A 11月9日(日)ブロック集会を予定。

4. 北1ブロック

 福祉フォーラムと重なるためブロック集会を9月28日(日)から11月2日(日)に変更する。             

5. 北2ブロック

@ 今月ミサ当番実施中
A 9月30日バザー作品を作る予定

6. 宣教部

@ 新しいキリスト教入門講座が始まる。

 9月27日より毎週土曜日午後7時・藤沢教会
 10月8日より毎週水曜日午後1時半・湘南台センター
 11月1日より毎週土曜日午後7時・藤沢教会

A グリフィン神父のリーダー養成コースは30名を超える見込み。11月1日(土)から来年6月までの毎土曜日午後センターホールを使用するのでご迷惑をおかけするがご協力いただきたい。

B 短期キリスト教セミナーの聴講料、今回は1回のみ参加500円、2〜3回千円に決定した。

C 9月27日(土)神奈川地区宣教司牧評議会があり、テハン神父と出席する。

7. 典礼部

 8月15日今年の聖母被昇天祭・光の行列はPRがあったせいか当日の雨にも拘わらず日本人の参加が多かった。

8. 教育部

@ 七月十九日(土)サマーキャンプ50名以上が参加し、子供達21名がセンターホールに宿泊した。(8月号参照)

A 二学期は9月14日(日)に開始、

B 10月5日(日)二俣川教会で横浜教区典礼委員会の研修会「子供のための最初の許しの秘跡」が行われ、当教会からもリーダーが参加の予定。

C 9月号でも紹介したように教育部は教会学校・中高生会・青年会・ボーイスカウトからなっているが、それぞれの活動がばらばらで今まで打合せが持たれていない。もう少し横の繋がり持つためそれぞれの責任者と打合せのための調整を図っている。

9. 国際部

 外国コミュニティとの第二回目の打合せを九月十四日(日)に行った。福祉フォーラムのアンケートへの意見として、信徒一同横につながってできればうれしいとの感覚を持っていることが分かった。また品物の売買だけではなく、自国語を教え、日本語を習う語学講座を有料で開催し、収入は皆で役立てる等の提案もなされている。

10. 総務部

 今年は異常気象のため夏休み中は涼しく、9月になったら猛暑となり作業への対応がうまくできなかった。現在バザーに向けて資材等準備中。

11. 壮年部

@ 10月5日(日)「壮年の集い」を行う

A バザーの準備予定

 10月11日(土)収納棚設置
 10月18日(土)パイプハンガー・ゴミ函 設置
 10月25日(土)会場設営
 10月27日(月)後片付け

B 「藤沢災害救援ボランティアネットワーク」から入会の誘いを受けていたが、幅広く情報を得るために参加することとした。年会費3千円。



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皆でワッショイ 03バザー!
バザー企画チーム 山崎

「今年は辻堂ブロックの担当ですので、バザーの企画・運営に協力を」ということで、恐れ多くもなんの経験もないまま実行委員会に参画したのが、一九九九年のバザーでした。

 さすがそれはパワーフルな行事でした。その時の私は最初から最後まで、自分の役割をなんにも果せないまま、アタフタしていつのまにか終わってしまったというのが正直な感想でした。「なにに参加したのか、もうすこし役に立つことは出来なかったのか」と残念に思いながら。

 早いものでもう4年も経ちました。「さあきましたよ。バザーですよ!」ということで辻堂ブロックの担当がやってきました。私は懲りようもなく今度もバザー企画チームに参加しています。「バザーに参加してよかった!」をちょっとでも感じたくて。

 今度は「バザー実行委員会」は、「バザー企画チーム」となりました。

 企画チームは、皆が参加するためのバザーとしての発案・企画することを意とし、あとの実行は皆さん参加のパワー溢れるワッショイに大いに期待しましょうということになりました。そして、企画チームの代表にはの20代の好青年がなりました。もちろん企画チームもこの若人をサポートします。

 さあ皆さん、自分なりのなんらかの形でこのバザーに参加してみませんか。会場設営、各売場、料理等の現場の手伝い…。各人の好きな選択のなかで、きっとそこでの皆さんと良い交わりが。そしてバザーです。お腹一杯食べて飲んでください。沢山品物を買いましょう。これも素晴らしい参加ですから。

「2003バザー」が皆さんの参加によって明るく楽しいバザーになりますように!



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鵠沼ブロック黙想会
鵠沼1区 佃

 9月6日鵠沼ブロック黙想会にはじめて参加させていただいた。案内に「持ち物・・空っぽに出来る頭」とあった。それなのに雑念・和文書体 標準・・文字サイズ 標準・でいっぱいの頭のまま会場である「アトメント会・黙想の家」(鵠沼松が岡)に到着。豊かな緑に囲まれた昔のままの日本家屋の懐かしいたたずまいにほっと一息つく。はじめに片桐さんの静かな声のもと静修のひとときを持つ。目を閉じ、呼吸を整えて力を抜いていく。静寂の中に沢山の参加者と共にいる自分そして一人の時には感じない「支えられている自分」を意識して、何だか嬉しくなる。身も心も軽くなって頭に少し隙間が出来たようだ。

 鍛冶ケ谷教会主任司祭久我神父様の第一講話がはじまった。この日のテーマは「上手な年の重ね方」。神父様は晴佐久神父の著書「星言葉」から「老いる」の章を引用され、マイナスイメージのある「老人」ではなく「超人」になりましょうと話された。超人は常にポジティブであり、その生き方はこだわりがなく常に自分自身である。あるがままを受け入れ役に立たないと自己否定せず周囲の人々を役立たせてあげられる存在であることを知っている。そして人間は一度しか死ねないのだからその貴重な死を活かした生き方が大切と。最後に追求すべきことそれは“自分はだれになって死ぬのか”

 午後の第二講話。超人への道、それは人との出会いの中で相手との違いを見ずにその違いを豊かさととらえること。そして聞き上手話し上手、おこない上手になること。ただひたすら聞き、肯定も否定もせずに呼吸を合わせ、共感する。そして解決がその人の中で生まれてくるのを待てる人、超人の究極の姿はイエズスである。

 お話が頭の隙間にしみ込んでいくようだった。そしてごミサにあずかり、お茶とおしゃべりのひとときをいただいた。その折り、「神父様は親孝行についてどうお考えになりますか」との質問があった。久我神父様は少し沈黙されたのち、笑顔で「私が司祭の道をきちんと歩いていくことだと思っています」とお答えになった。その言葉を心に、感謝のうちに家路についた。松林をぬけて来る風が幼いころと同じ、そんな一日でした。



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敬老の集いに参加して
湘南台  鈴木

 度々のご招待にも拘わらず、敬老会への出席は今回が初めてでした。

 厳しい残暑の中、多数の方がミサに参加し、塗油の秘跡を戴き心の安まる思いがしました。

 ミサ後二班に別れての記念撮影、会場のテーブルには心のこもった折鶴、昭和天皇の声色の余興では昔を思い出し、タネまであかした手品、数字を使った文章の読み方ゲーム等子供にかえって笑い楽しみました。

 最後に全員で唱歌を大合唱、年を忘れて気持ち良く歌いました。

 私は、もうすぐ77歳です。このような節目毎のお祝いの言葉が掲示されており、90歳の卒寿の方と、これを過ぎた方もおられ良き先輩として見習っていきたいと思いました。

 こうして初めて参加した敬老の集いは、私にとっても元気の湧いてくる、楽しい祝いの会となりました。これも会の準備と当日のお手伝いをしてくださった方々のお蔭と感謝しております。

敬老会に招かれて
藤沢3区 伝田

 真夏のような暑さの9月12日でしたが、87名の方々と和やかな敬老会に出席させていただきました。

 同じ聖園の内にお住まいのKご夫妻に車の送迎をお願いし、濃やかなお心づかいに感謝して藤沢教会に着きました。

 聖堂入口近くマーフィー神父様の大きな握手をいただき心和んで席につきました。

 聖堂一ぱいのお元気そうな皆様と共に、神父様方によるミサにあずかることが出来ました。一人ひとり神父様の前に進み両掌に塗油の秘跡を受け「立ち上がりなさい」と強めの言葉をいただきました。神はいつも共にいてくださる、弱った心身を助けてくださる。力と希望の励ましをいただきました。ミサの後記念撮影、昼食となりお心づくしを美味しくいただき、また有志の方々の余興を楽しみ、なつかしい唱歌も元気に合唱して、今日の会を担当してくださった藤沢ブロック長小沢様のご挨拶の後散会となりました。

 小沢様はじめ藤沢三区ブロック委員、Kご夫妻他役員皆様の大きなご奉仕に心から感謝の祈りを捧げます。

 キリストを信じる一つの家族の美しい実現でした。

 神に感謝。一つになろう。



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マドレーヌの会よりの報告
辻堂1区 津上

 昨年9月に再出発をした「マドレーヌの会」が皆様の温かいご協力で一年経過いたしました。10年間にわたったフィリピンの子供たちへの学資の援助活動にひとつの区切りがつき、折からインドネシアから独立を果たしながら、ほとんど何の産業基盤もまだ確立されていない東ティモールの、子供たちのための学資援助

の協力を目的にマドレーヌを焼き続けたいと願って活動を続けております。

 具体的には38年間、日本で布教されたのち、昨年東ティモールに赴任されたステファニ神父が現在働かれている電気も水道もない首都から険しい道のりを、四輪駆動の車で三時間半の町、アッサベという地域の教区の子供たちの学資として、皆様にお買上げいただいたマドレーヌの売上のすべてを送金しております。

 去る5月、一時帰国の際、藤沢教会でその現状を神父様ご自身でお話なさいましたが、教会の皆様に厚くお礼を述べられていらっしゃいました。

「東ティモール子ども募金」としてまとめられた資金は実際に奨学金として使われています。50円で中学生の1ヵ月分の月謝が出ます。さらに、交通手段の無い山間にあって学校に通えない、主に中学校以上の高等教育を受ける子供たちのための寄宿舎の建設が急務となっていますが、その資金としても使われる予定です。

 今、同じアジアに生きながら近代的な文化の恩恵から程遠い状況におかれている東ティモールの人々にとって、将来を背負う子供たちが、すくすくと健康に育ち、充分な教育が受けられることは、国の明るい未来につながる希望となるのではないでしょうか。

 もし私たちの活動に興味をもたれ、一緒にマドレーヌを焼いてみたいとお思いの方がいらっしゃいましたら是非ご参加ください。

 以下に、この一年の会計報告をさせていただきます。改めて皆様のお気持ちに深く感謝申し上げます。私たちはささやかな活動ではありますが、皆で和やかに気長に続けていきたいと考えております。また、ご注文で個別包装などもいたしますので、ご希望がありましたらご連絡くださいませ。



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JLMMのカンボジア現地活動報告
鵠沼3区 大谷

 カンボジアで活動しておられるJLMM(信徒宣教者会)の、鎌田頼子さんから最新の現地活動状況について講演していただいた。おわりにJLMM事務局長山口道孝神父から、「カンボジア福祉基金藤沢」(一昨年のバザー収益金で設立)の活用についてお話があった。

 日時:9月14日 11時から
 場所:聖 堂
 出席:約40名

〔鎌田さん講演の要点〕

カンボジア派遣は二年半を経過した。首都プノンペンの生活に続いて、トンレサップ湖畔コンポンルアンでの活動が1年半を超えた。

 トンレサップ湖は、雨期と乾季で面積が倍半分拡大・縮小変化するため、湖畔の住民は船上生活者が多い。にポルポト政権時代(1970年代)にベトナムから多くの漁民が難民として流入して居着いたこともあって、住民の三分の二はベトナム人であり、ほとんどが船上生活者である。生活水を湖に依存していることから衛生的に好ましくない。零細漁民で収入の少ない人が多く、病人が出ても医者に診てもらうこともままならない。

 カトリック教会も船上に作られており、信者の大半はベトナム人である。彼らはカンボジア語があまり通じないので、両者の交流は少ない。司祭のお話も良くは通じず、理解もされないことが多い。子供たちは学校に行っていない。そこで教会は識字教育に力を入れているが、両国語に堪能な人が限定される。

 鎌田は現在寝たきりの病人の訪問看護に重点を置いている。現地人の若者数人がこの活動を理解して援助してくれるようになって来たことが嬉しい。 (以上現地の写真を示しながら解かりやすく報告された)

 病気になる前の予防のために衛生教育も大切である。しかし言葉の問題、医学知識不足、薬の入手困難、資金不足などの悩みが尽きない。鎌田の派遣期間をさらに延長して地道な努力を続けることにした。藤沢教会の芳志で作られた「基金」を、これに役立てるようにしたい。

〔山口神父のお話〕

 衛生教育、基礎的医療プログラムをさらに充実させるために、現在の鎌田の一人体制にアシスタントを付けて二人体制にすることを検討している。このために「カンボジア福祉基金藤沢」を役立てたい。利息のみでは不足するので元金一部取崩しも必要である。

〔小藤司会の結び〕

 詳細なご報告を感謝すると共に、今後のご活躍をお祈りする。「カンボジア福祉基金藤沢」の賛同者数の増加もはかり、元金の補充に努力して行きたい。



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仏教とキリスト教 (2) ・・ どこが同じで、どこが違うか
藤沢2区 兼子

人は死んだらどうなるかという不安や死という未知の体験に対する言葉で言い尽くせない恐怖から人々を救い、安心立命の境地に導くのは宗教の最も大事な勤めだから、死後の世界のことをしっかり保証し、「私についておいで。私はつねにお前と共にいる」と説くキリスト教に比べて、仏教はどちらかと言うとエリートのための(人生とは何ぞや、人は何のために生きるのかを問う) 人生哲学であり、衆生(一般大衆) を死の恐怖から救うことに無関心なのではないか。しかしこれも仏教の聖道門を考えているからで、もう一つの浄土門の「ひたすら念仏を唱えて、阿弥陀仏の浄土に迎えられることをかたく信じる」という信仰の形態を考えれば同じことだ。

今ここで私は遷化された或る老師(尾関南岳師) の言葉を思い出す。学生時代にヨ−ロッパ旅行のお供をした時のことだ。バチカンのサン・ピエトロの結構に腰を抜かさんばかりにして階段に座り込んだ私に老師は言われた。「こんなんで驚いたらあかんで、本願寺さんかて負けへん」。その老師に私はある時、「裏をかえす」という言葉の由来を尋ねた。老師は真顔で答えられた。直後、私は「ところで老師、本当に死後の世界はありますか」と問うた。すると、温顔は一変し両眼は・ルビ・炯々・けいけい・と輝き、背筋をピンとして仰った「もし私達(宗教者)がそれを信じられんかったら、どうして人を救うことができようか」と。

私は今でも時々「本当は死んだらお終いで何もないのかも知れない。何もないことを認識する主観すら含めて、死後には何もないのかも知れない」とニヒリズムや懐疑主義に陥る時がある。しかしそう言う時に私は老師のこの言葉を思い出し、生きている限りその疑い(死後には何もない)が出るのは当然だがもし私達(仏教とキリスト教を問わず)信者が信じられなかったら、どうして人々を死の不安から救うことなど出来るだろうかと思い味でこれは私のエマオ体験なのだ。

再び勇気と希望を得るのである。そういう意 またキリスト教と仏教の罪の概念は異なるが、罪人を憐れみ赦す愛の深さは同じだ。愛と慈悲(仏教では愛は渇愛といい、執着を意味するあまりいい言葉ではない)を考えてみよう。「蕩児の帰宅(失われた息子)」の譬えの最後の所はこうだ。父(神) は遠くから弟(義人) の落ちぶれた姿をみつけ憐れに思い、家人に大急ぎで上等の衣服、指輪と履物を用意させ、弟の帰宅を祝うパーティの準備をさせる。一方、畑仕事から帰ってきた真面目な兄(義人) は、騒ぎの原因を知って父親に対して不満をぶつける。たしかにここでの兄の怒りは尤もだ。こんな間尺に合わない話はない。この譬えを聞いてそう思うなら貴方はイエスにその義人ぶりを非難されるファリサイ人と同じ視点にたっている。しかしもし貴方がこれは有り難い話だ、何故なら自分はどうしようもない罪人で、この譬え話こそ他人ならぬ自分に向けられたものだと感じ取るならば、つまり神に背き罪を犯した自分のような者にさえ、未だに神が愛を注いで下さるのだと、そのかたじけなさに涙がこぼれるようなら、貴方はこの譬えでイエスが言われることを理解しているのだ。失われた者が再び神の下に帰ってくる、神にとってこれ以上の喜びはない。また兄(義人) も神の愛が何かを知っているならば、父(神) のやり方を全部みていて、「お父さん、私も喜んで宴会に加わらせて下さい。弟とちがって私はずっと貴方の側にいましたから。それにあの時、ふたつに分けたお父さんの財産も一生懸命に働いたので、またもと以上に増えました」と言えるだろう。この財産とは本当は神からの恵みなので、半分にしたから半分しかないというものではない。むしろすぐまた元以上に増えているのだ。神から戴く恵みというものは二つに分けても元とまったく同じか、むしろそれ以上にすぐ大きくなる。義人ぶりを非難されるファリサイ人ではなく、罪人である弟と自分を同定すること、これがこの譬えの肝心な所だ。

 次に仏教の側の罪人に対する慈悲の例を述べてみよう。阿闍世王(大般涅槃経や観無量寿経などのいろいろな経典にでてくる)のために釈尊が入滅(死)を遅らせて、阿闍世王の来るのを待つ所を。阿闍世は釈尊の従兄弟、例の悪名高き調達(提婆達多)に唆され父王を殺し、母をもあやめんとした大悪人。仏教でいうところの五逆(地獄行きが間違いない五の大罪)の幾つをも犯し、堕地獄を免れない罪人である。父王殺害のために阿闍世は身体中に悪臭を放つ出来物に悩まされる。大臣の一人である耆婆が釈尊のところに行き癒して貰うことを薦める。阿闍世王がジャングルの中を象の背に揺られて釈尊のところに向かってくる。すると釈尊の額の真ん中から放たれた光明が阿闍世王の皮膚の出来物をたちどころに治癒させる。

阿闍世王は耆婆に向かって問う「世尊如来は自分のことをこころにかけて下さっているのか」。それに対して耆婆はこう答える。「一人の人に大勢の子供があった。その大勢の子供のなかに病気の子が出ると、両親は子供たちに対して平等の愛情を注がないわけではないが、しかし病気の子にはとくに心をかける。それと同じく如来(仏陀になるひとつ手前の存在。その時の釈尊のこと) の心はもとより、一切衆生に対して平等であるが、とくに罪の程度の重いものに対しては一層の慈悲が生じるのだ」と。

 自分が罪人(悪人)であるという自覚がなければ本当の神の愛(仏の慈悲)に目覚める必要もない。罪人でなければ神仏は不要だ。これは聖書にも仏典にも通じる真理だ。



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葬儀を考える会 Q&A

 私はカトリックの信者ですが、先祖から受けついだ位牌をどのようにまつるべきなのでしょうか、教えてください。

 仏教では仏壇は、自分の信仰の中心としてのご本尊をおまつりするところです。ところが位牌の起源は、中国の儒教にもとづいているといわれています。儒教では、生前の位官・姓名を40センチぐらいの栗の板に書いて神霊に托させる風習が二〜三世紀ころからありました。この風習を、宋代に中国に留学していた禅僧が日本に伝えたのがはじまりで、一般庶民の間にひろまったのは江戸時代に入ってからのことだといわれています。

 しかし、親鸞を開祖とする浄土真宗では位牌はまつりません。法名を紙に書いて命日などのときにまつっております。

「うちは亡くなった人がいないから仏壇はない」というお話を聞くことがありますが、それは、仏壇と位牌は本来異質なものであることを理解していないということになります。

 位牌をまつるために仏壇があるのではないのです。

 位牌は、もともとはまつる物というよりも、亡くなられた人を忘れないように記録したメモのようなものと理解されてはいかがでしょうか。

 ですから、先祖の位牌があるような場合には、それを家庭祭壇などに置かれるのもよいのではないでしょうか。



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10月の主な行事

3(金)初金ミサ・例会
5(日)壮年の集い
12(日)スカウト入団式・上進式
19(日)幼児洗礼、入門式、世界宣教の日
26(日)バザー
28(火)聖シモン・聖ユダ使徒の祝日


クリスマス特集号原稿募集

 早いものでクリスマスまであと2ヵ月となりました。今年は特集号発行を12月6日に予定しています。 恒例により掲載する原稿を募集いたします。

 テーマは出会い・思い出・体験・意見など、教会の皆さんに紹介したいことなら何でも結構ですが。焦点がないとÿ Mincho Westernと思われる方には「神様との出会い−私の体験から」など如何でしょう。東方の博士達が星に導かれてイエスさまと出会いました−その現代版です。ご本人の発見が他の人のヒントになるかも知れません奮ってご寄稿ください。

原稿締め切り  11月6日(日)  

字 数     3千字以内     

投稿先   広報部員または事務局



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