八 角 形 に ゅ ー す
2003年12月14日
聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会
目次
「キリストの光」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・テハン
出会いの神秘・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大庭 池田
救われてともに生きる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼2区 石崎
シスター野口に出会って・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢1区 緒方
神様との出会い「私の送迎ボランティア体験から」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢2区 小野
人のことばと神のことば・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・善行 岡村
神様との出会い、私の体験から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼2区 富安
未洗者からの励まし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢3区 高島
遠き想い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼1区 上條
「愛の手を」母子家庭、父子家庭に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼3区 上原
神の子として共に生きよう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・六会 松尾
楽しい出逢いを求めて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂2区 中山
聖書100週間との出会い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大和教会 佐藤
「聖書100週間」からいただいたもの・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼1区 若杉
「父と子と聖霊のみ名によって」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・雪の下教会 原
祈りの集い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼3区 浜田
「出会い・関わり」の旅・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢1区 綿貫
バザーの報告とお礼・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・企画チームリーダー 宮内
壮年部の遠足におともして・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼3区 久枝
「葬儀を考える会」報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・善行 浅野
藤沢ブロック集会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢1区 萩田
北2ブロック集会報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・長後 長野
教区典礼研修会に参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼3区 清水
静修の一日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂2区 佐々木
仏教とキリスト教・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢2区 兼子
「キリストの光」
テハン
主イエス・キリストの降誕おめでとうございます。
主の降誕早朝ミサの集会祈願には「永遠の父よ、みことばは人となり、世界に光が与えられました。信ずる者の心に注がれたキリストの光が、日々の生活に輝くものとなりますように」と祈ります。
聖パウロが、ローマ人への手紙八章で「わたしたちは今もなお、被造物が皆ともにうめき、ともに産みの苦しみを味わっていることを知っています。被造物だけでなく、初穂として聖霊をいただいているわたしたち自身も神の子の身分、つまり、体のあがなわれることを待ち焦がれて、心の中でうめいています。わたしたちは救われているのですが、まだ体のあがないを希望している状態にあるのです。目に見える望みは望みではありません。目に見えるものをだれが望むでしょうか。わたしたちは目に見えないものを望んでいるので辛抱強く待っ トいるのです。同じように、聖霊もわたしたちの弱さを助けてくださいます。わたしたちはどのように祈るべきかを知りませんが、聖霊ご自身が、言葉に表わせないうめきを通して、わたしたちのために執りなしてくださるのです」と書いています。前の集会祈願とパウロの言葉は、クリスマスの今生きている意味を表現していると思います。
「みことばは人となり」とは二千年前にユダヤのベツレヘムの町でマリアから初めての男の子、イエス・キリストとして産まれました。マタイによる福音二章に「イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムにお生まれになったとき、東方の博士たちがエルサレムに来て『お生まれになったユダヤ人の王はどこにおられますか。わたしたちはそのしるしの星が上るのを見て、拝みにきました』と言った」と書いてあります。「そのしるしの星」との表現は面白いと思います。宇宙の物語の中で、こんとんか無か、闇から生まれて来た光は星です。
「世界に光が与えられました」と、「信じる者の心に注がれたキリストの光」とは、キリストが御自分のいのちを捧げ、神への道を開きましたとのことです。わたしたちの弱さを通し、キリストの贈り物として聖霊が神への道を案内してくださるのでしょう。聖霊が信じる者の心の中におり、わたしたちの日々の生活に輝くものになるでしょう。星の光はどこから来るでしょうか。星の中から生まれてくると科学が教えています。わたしたち一人ひとりの心の中にキリストが今お生まれになり、星の群れのように、日々の生活に輝くものになったなら、本当のクリスマスを祝うことが出来るでしょう。
出会いの神秘
大庭 池田
当初私は「出会いの不思議」と表題したのでしたが、あわてて「神秘」と書き換えました。出会いの不思議のほうが、より多くのエピソードで話題を賑わすでしょうがキリスト者としての視座がありません。
私たちにとっての記念碑的出会いはキリスト・イエスとの出会い。それをひとまず措いといて、ほかにどんな素敵な出会いを語ったり出来るでしょうか。この劇的とさえいえる出会いの機会を得たことについて、偶然とか、不思議なこと、とかではなく、自分のために神が用意し実現してくださった「神秘」として受け留めることのできる感性、それが「信仰」なのではないでしょうか。ミサ聖祭においてもそのような意味に受け留めることのできる典礼が用意されています。
聖変化のあと、司祭は一段とトーンを上げ「信仰の神秘」と歌います。
すなわち〈神との出会い〉という内的体験は、信仰以外の何かによってもたらされることは絶対的にありえないということ。そしてその内的体験こそ〈神秘〉と呼ぶに相応しい神の愛の促しによってもたらされたものであることが、「信仰の神秘」と歌う司祭の宣言にみごとに凝縮されているのです。
話は変わりますが…やがては入信に行き着くことになる、その自分にイエス・キリストを紹介してくれたどなたかとの最初の出会い。それはもう、みなさんが心の宝石箱の中にしまってある大切なものでしょうけれど・いまはもっと世俗的な、〈結婚の出会い〉について考えてみたいと思います。というのは、やがては同じ家に住み、生涯を共にすることになるかもしれない一人の見知らぬ男と一人の見知らぬ女が、数えきれないほどの人数の適齢者の中から、どのようにして互いにプロポーズできるような機会が作られるのか?
したがってこの〈結婚の出会い〉にもまた、私の感覚では単に不思議なこと、として片づけてしまいきれない、神秘的な神の叡智の働きを感じないではいられないのです。
出会い。それは歳月を経て過去の追憶の彼方に押しやられてゆく過程のなかでこそ、いよいよそのメモリアルな意義を増幅させてゆく、そういうもののようです。
昭和24年。海の匂いのするゆるい勾配の坂道を若い男女が並んで歩いています。ゆっくりとした足取りは、特定の行き先の目当てがない? そんな感じで、あるいは道往く人を微笑ませていたかもしれません。
「ねぇ、今日の君だけど…ちょっと強張ってる感じ」
「ごめんなさい…あのう、私…いえ、ウイーンに行ってから話します」
坂を下りると市電の交差点で、音楽喫茶ウイーンはそこを右折して間もなくです。ウイーンは空いていました。もう記憶も不確かですが、ショパンのポロネーズのような曲が流れていたと思います。
「あのう…わたし実は、カトリックで洗礼を受けて…いました」「ああ、クリスチャンでしたか…」
さりげなくそう応えたきり、黙してしまったので、その間、あるいは彼女を悲しませていたのかもしれません。実はその時の私の胸裏には、あれは未だ五、六歳の頃のことでした。私の家の近くに建っていた、天井の高い、白い壁面に映るステンドグラスの美しいスペクタルを見ながら、少し年上の少年たちの中に混じって賛美歌を歌っていたのでした。そのときの感動を瞼に再現して、たぶんうっとりとしていたのだと思います。
「あ、ごめんなさい。実はぼく、いま、あなたが話してくれたことと、ぼくの幼い頃の、それはそれは感動的だった体験とが不思議な縁で結ばれていることに気付いて、心が、なにかこう、神秘的な気分にされていたところなのです」「え? ほんとですか。どんな体験か、早く知りたい」
そして五十四年が経ちました。喫茶ウイーンから二年後に結婚。その三年後に私が受洗。こうして金婚の祝いを受けるに至るまでの長い歳月を、大好きなイエスさまを共有できた喜び、ですからあの喫茶ウイーンの「出会い」が神によってみちびかれたものであること、その追憶を温めながら、主の愛の衣の広さ深さにくるまり、折りふし、心の内にひそかに呟くのです…出会いの神秘。
救われてともに生きる
鵠沼2区 石崎
今、私は地域問題や地域福祉を自分の勉強としているのですが、そのきっかけは二十数年前、仕事人間であった時、ある夕刊紙に載った小さな記事を見て、ボランティア活動をはじめたことです。
その記事は、一人娘に嫁がれて一人家に残された父親が寂しさのあまり自殺したことの報道でした。もうずっと昔のことなのですが、今でも忘れることができないでいます。その記事の見出しをはっきりと覚えています。『孤独苦で自殺』とありました。「ああ、人間は孤独によって死ぬものなのだ。孤独苦というものがあり、それは人をも殺してしまうほどに強いものなのだ」と思いました。
それまで私が考えていた『人間』とは、もっと強いものでありました。「努力して、知識を得て、考え、訓練を受け、自分を高めて行く存在」というイメージがありました。人間は一人ひとりが独立して、競争しあい、自分をより素晴らしいものにしていくように努めていくものだと思っていました。
しかし、その記事を読んだ後「そうではない」と気がつきました。山の奥深くに岩があっても、その岩は風雪や熱に長い間さらされないかぎり崩れにくいものです。しかし、人間は、山奥深くで独り残されるとぱっくりと、内部から崩れてしまうような存在なのだ。人はそれほど脆い存在だと思いました。
『孤独』ということだけで人間は死んでしまうこともあるという事実を知り、『孤独』によって死んでしまいそうな人がいるとしたら、その人は、だれかが側に居るということだけで救われるでしょう。横にいて話を聞いてくれる、側にいて自分に声をかけてくれる、横にいて顔を覗き込んでくれる、そういうことだけで孤独な人は救われます。
あの小さな新聞記事が、私の人生を変えてしまうほどに大きな力を持ちえたのは、私自身も孤独であったからでした。あの頃、私は転職し、新しい事業を興し全ての決断を独りでしなければならなかった。自分自身を救うために、あらゆる本を読みました。経営書、偉大な思想や科学書、宗教本が救ってくれると期待しながら懸命に勉強もしました。時には、著名な人の講演会や勉強会にも参加しました。しかし、知識が増えても救われることはありませんでした。
『孤独』で死んだ老人は、私自身でもあったのです。私はそれほど孤独でした。しかし、それをどうしても認めたくはなかった。『自分の周りに人がいない』ということだけで、自分がこれほど苦しんでいるとは信じたくなかったし、人間はもっと強いものだと思っていたかったのです。自分自身を高め、磨き、大切にしていくことが何よりも必要だと信じていました。しかし、そうでもなかったのです。
人は『独りにされる』というただそれだけのことで死んでしまう。昆虫は虫かごの中にエサさえあれば何日でも生きていけるのだろうが、人間はそういうものではないということです。
私はそう考えて、ボランティア活動を始めました。それは障碍児の施設を訪問して子供たちと共に生活することでした。そして、ある日、何をしていいのか分からないままに子供たちが遊んでいるのを黙って座って見ていると、小学三年生ぐらいの、ほとんど口のきけない、歩くことも不自由そうな男の子が私のところにやってきました。私の膝に寄りかかるようにして座ると、そっとその手を私の手に重ねたのです。すると、不思議なことに私の全身を覆い、私自身を締めつけていた重い何かが風のように消えて 「ったのです。むさぼるように読んだ諸々の書物は、私を救わなかったのに、こんな小さなことの、こんな小さな行為が私を一瞬にして救ってくれました。
聖書の中に、イエス・キリストが、荒野の果てに捨てられた病の人々に手を置いただけで救われた、という話をあらためて信じるようになりました。私自身もまた、手を置かれただけで救われた人間のひとりだったのです。
ところで障碍を持つ人びとは、いつの時代にも存在していました。日本の神話といわれる『古事記』や『日本書紀』によれば、日本の国づくりをした二人の神が最初に生んだ子供は「蛭子」と呼ばれる障碍者でありました。ギリシャ神話やローマ神話にも障碍児や障碍者が登場しています『旧約聖書』や『新約聖書』にもたくさんの奇跡の物語が記録されています。
また、日本の昔話や物語、狂言や芝居などにもたくさんの障碍をもつ人々も登場していますが、時代によって障碍者に対する見方が移り変わっています。人間がつくっているこの社会に、病気や事故あるいは老化のために心身に障碍をもつ人びとが暮らしていることは、自然の姿であるはずです。そして、それらの障碍を持つ人も、持たない人々と同様な生活を営むことができるのは、当たり前のことなのです。
言うまでもなく、人は一人ひとり違い背丈も体重も異なるように、身体機能や精神機能も一人ひとり異なり、差があります。心身の機能は年齢によっても、性別でも大きな違いがあります。人の一生の中でも大きく変化することに気づきます。誕生から、徐々にすべての機能が発達していく乳幼児期を経て、青年期は最高の心身機能に達し、そのピークを過ぎると、徐々に、確実に弱まっていき老年期になると機能の一部は喪失します。そして、死を迎えるまでには、全ての機能が失われることになります。この発達やピークからの衰退や老化、喪失の時期や割合は人によって異なります。また、病気や事故などによって幼児期に、あるいは人生の途中で心身機能が喪失されることもあります。
過去や現在の社会の実情は厳しいものがあります。差別や生活全般について苦しい状況に置かれていたこともありました。時には、人間の権利さえも侵されたこともありました。しかし、少数の人々や社会的に弱い人びとをも温かく包み込む社会こそ私たちが目指す社会であることを、深く考えて生活していきたいと思っています。
シスター野口に出会って
藤沢1区 緒方
やがてクリスマスが近づきますと街にはシクラメンの花があふれます。故シスター野口が丹精していらした沢山のシンピジュームとシクラメンの花のイメージと重なって、懐かしい思い出が走馬燈のように蘇ってまいります。
私がシスター野口と出会ったのはかれこれ二十年ほど前になるでしょうか、当時キリスト教には全く縁のない生活を送っていましたが、ヨーロッパに暫く旅行滞在した時に、教会音楽、絵画、彫刻などすべての文化がキリスト教を基としていることに今更のように驚きました。そして人々の心がイエス・キリストを敬い、マリア像に語りかけひざまづいて祈り、その愛を受け、喜びを分かち合っているのを見るにつけ、キリスト教って何だろうという探究心がはじめて起こりました。そして自宅の近くを散歩しながら栄光学園の隣にある聖母訪問会の十字架にひかれて入って行きました。その時小部屋に案内されてお会いしたのがシスター野口でした。その瞳は信仰に輝き澄みきった光が、私の心を射すくめるような気がしてハッとした記憶があります。それからしばらくして藤沢教会でシスター野口の入門講座を受けさせていただくことになりました。講座はもとよりシスター野口の人となりに触れて、物の見方、感じ方に今までと違った多くのことを学びました。
ある日シスター野口が病院で働いていらっしゃる時、夜中のおむつ交換でくたくたに疲れてもう限界で終わりにしようとした時、これから換えていただけるものとにっこりとして待っていた寝たきりの女性を見た瞬間、もう一枚を……と力が湧いてとりかえた話や、横浜の寿町のホームレスの人達のために炊き出しをしている時、山のような焼きそばを汗を拭きふき作っていると、ふと側に立っている一人の老人の笑顔を発見してキリストの顔を見たような気がした話、インドネシアのチモールの支援活動に出かけた時、乗り継ぐために飛行機を降りる際、勇気を出して余ったお菓子や食物をくださいとお願いしたら、大きな袋に四つもくださってご自分の荷物と一緒に随分重くて大変だったが、食べ物のない人達に行き先々でお分けして大変喜ばれた話、セーター二枚、カーデガン二枚といつの間にか四枚にもなって、着替える時却って心が乱れるなどと笑いながら話される姿に大変感銘を受けました。欲望のうずまくこの人生の中で、このように弱い人達のために尽くしていらっしゃる方に接していつ迄も離れがたく、講座が終わっても住んでいらっしゃる聖母訪問会に押しかけて、一ヵ月一回で良いから聖書講読の会を作ってくださいとお願いして火曜会が平成元年に発足いたしました。いつも心に残るお話を聞いて皆感謝し、お茶菓子をいただきながら楽しいひとときを過ごしてまいりました。シスター野口が天に召されてから早くも三年経ちましたが、私達は彼女の遺志をついでロシアのハバロフスクにある聖母訪問会に、僅かながらフリーマーケットで得たお金を献金させていただいております。現在は六名となりささやかな小さい集まりですが、毎月欠かさず聖書を講読しながら世間話や時事問題にも触れて、心のあるがままに話し合っております。時折りシスター野口の妹さん紀世さんがいらしてくださり視野を広げさせていただきます。今ではシスター野口に出会って洗礼を受けることが出来、私の人生を平安に導いてくださったことを心から感謝いたしております。
私の送迎ボランティア体験から
藤沢2区 小野
藤沢教会で送迎ボランティア活動(以下送迎ボラと省略)が2002年春に始まってから1年半を経過し、次第に関心が高まりを見せ、浸透しつつある現状を心から喜んでおります。今迄の利用実績は、単発利用10件、継続利用1件、相談2件です。継続利用を依頼された方の了解を得ましたので、送迎ボラを通じて神様との出会いを体験した話を紹介させていただきます。
2002年9月の敬老会を通じて送迎ボラの存在を知った鵠沼ブロックのある高齢者の方から今年3月に電話相談を頂きました。横浜市栄区にある特養施設のデイサービスを受ける為に奥様(86歳)を4月から毎週月曜1回送迎して貰えないか、との打診でした。利用者が市外に居住の為に施設側の送迎サービスが利用できない、いつ終わりになるかは分らないが、自家用車の運転手のみで良い、との内容でした。
長期的継続は私達・送迎ボラにとって初めての事例であり、果たして依頼者の期待に応えることが出来るか否か心配でした。当時の登録者ボラは運転手19名・付添者8名であり、平日の場合は男性が少ないのです。そこで関係者数名と協議したところ、「私達の出来る範囲内でスタートし、もし続行不可能になれば依頼者にその旨を伝えよう!」との結論に達しました。
実際に4月7日から送迎を始めてみると、高齢の女性を乗せて片道30分の道程を運転手1名だけに委託することは無理なことは直ぐ分りました。午前組の運転手と付添者が自宅から特養まで送り、午後組の運転手と付添者が迎える体制を考えることにしましたが、多数のボラ動員が必要となります。依頼者と利用者には多数の送迎ボラが関わることを諒解していただきました。
4〜5月は藤沢教会全域の登録済みボラ27名から実務可能なメンバーを選びましたが、不足分は新たな5名が補充してくださいました。6月以降は地元の鵠沼ブロックを中心にボラ編成することにし新たにボラ呼び掛けを行なったところ4名が応募してくれました。その結果4〜6月は総計18回延べ36名の運転・付添体制を組むことが出来ました(但し、家族の方が送迎する時を除きます)。
この度のご夫妻は80歳を過ぎてから長年住んで居られた関西・大阪を離れて、子供さん達の住む関東・藤沢へ転居されお二人だけの生活でした。したがって、近所に特に親しい人達がいた訳ではありません。その後藤沢教会の入門講座で勉強され、洗礼を受けてエルダースの会へ参加されるようになり、新しい仲間達との交流が始まりました。そのエルダースの会から多くのメンバーが送迎ボラにも参加されるようになり、面識のある方達に囲まれたご夫妻は非常に喜んでくださいました。奥様がデイサービスに出掛けている間に、ご主人はゆっくり休養され役所・銀行などへ出掛けることも出来ました。
私は聖体奉仕者と一緒にご自宅を訪問した時、素晴らしい光景を目にしました。普段は経管食を摂られている奥様が、不思議なことにご聖体だけは口に入れて、融けるようにして召し上がられるのです。聖歌の場面も静かに嬉しそうに歌われるのです。その様子は神秘的で、周囲の者達を感激させました。
奥様がデイサービスと送迎ボラに漸く慣れた頃、自宅に近い老人健康施設で行なう「リハビリ中心のサービス」が6月から利用可能となりました。その送迎も施設側が行なうので、私たちの送迎活動は5月末で打切りとなりました。結局、4〜5月のみ2カ月だけの実績で12回延べ24名が送迎に参加したことになります。
長い間自宅に閉じこもっておられた奥様が、教会エルダースの会へ参加されるようになり、デイサービスの経験を積んでからショートステイなども利用されるようになりました。しかし、奥様は9月末に自宅でご主人に看取られながら余り苦しむことも無く、安らかに帰天されました。藤沢教会での葬儀には、生前から交流のあったエルダースの会と送迎ボラのメンバーなど多数が参列し、ご主人から教会の皆様との交流と感謝が披露されました。「エルダースの会および送迎ボラ活動の皆様のご好意に支えられて、妻がデイサービスを受けることができ、その間自分も休養することが出来ました。今、妻は安らかに帰天しました。皆様に厚くお礼申し上げます」。私達は、奥様の天国における永遠の安らぎを祈ってお別れしました。
今回の送迎ボラに参加されたメンバーは、他人のことではなく近い将来の自分自身の姿と重ね合せて、気負うことなく適切に働いてくださいました。この活動を通じて色々な方々にお会いし、デイサービスを含む種々の高齢者福祉の現状を勉強し、貴重な体験をすることが出来ました。お蔭様で「共に生きる喜び」を味わうチャンスをいただいたのです。誠に有難く深く感謝しております。今後の送迎ボラ活動に希望と自信を抱かせるものでした。私はこの事例を通じて「聖霊が強く働いて、私達の送迎ボラを後押しされている」ことを実感しました。送迎ボラは神様に委ねられて、自然体で進展することでしょう。
先日の福祉アンケート及び福祉フォーラムに見られる通り、これからご高齢の方々および身体に障害のある方々から送迎ボラへの要望が増えるものと思われます。また送迎を希望しながら気兼ねされている方々も多数おられることでしょう。どうぞ遠慮せずに気軽に福祉部事務局(湘南台センター)または各ブロックの福祉担当委員へ声を掛けてください、お待ちしております。
「人のことばと神のことば」
善行 岡村
聖書を読むとき、人の話をきくときのように、そのことばが何を私に伝えようとしているのかと問いながら読むでしょう。
旧約聖書の創世記十一章はじめに、前後のつながりなく突如差しはさまれたように、バベルの塔の話があります。私にとってそれは、ことばについて語られる強烈な印象を与えた話ですが、それが何を伝えようとしているのか分からず、考え続けています。
それがどういう出来事かは分かっても一体何を言おうとしているのか、私にとって謎であり、それはどう言うことになるのか分からないのです。
バベルの塔の話で神は、「皆一つの言葉を話している」のをよしとされず。互いの言葉が聞き分けられぬようにされ、人を全地に散らされました。誰にでも同じ意味で通じる共通の言葉で一つになって何故いけないのでしょうか。
互いに通じない違いのあることが、一体私たちの何に必要なのでしょうか。
言葉は、思いや考えを表しますが、人の思いや考えと神のそれとは異なる、とよく言われます。
神の望まれていることを人々にあらわすイエスを、神のことば即ち、みことばとなられたキリストと言います。そしてミサの前半「みことばの祭儀」のなかで私たちは絶えず新たにみことばを聴くという体験に引き合わされます。
そして、「みことばは、人々のなかで語られる」と言われます。「人々のなかで」とは一体どういう意味でしょうか。それについて考えてみたいと思います。
生活のなかで、私たちは人のことばをどのように聞き、人の行為をどのように受け止め、物事にどのように応えているでしょうか。
常に未知の神のみわざ(栄光)のなかに生きて神と共におられるイエスの状態と、人々のわかっているところだけで物事に応えている弟子たちやユダヤ人たちの状態とが、きわめて対照的な違いをわたしたちに見せるのです。
ヨハネによる福音では何度もそれが記されて行きますが、十一章ラザロの死と復活の話の前半に至ってそれがきわまるのを、私は感じます。
そこから話は急転直下して、人となられたキリストの受難を語り始めるのです。
私たちも日常、物事をそのわかっているところだけで受けとめます。それが神のみわざのうちにあって、私たちに知られていないところがあるとは殆ど思わず考えないので、人のわかっているところだけで応え、終わりにするのではないでしょうか。
人の言葉や行為そして物事を、神のみわざのなかのそれとは思わずに聞き、受けとめ、応えるので「神のことを思わず人のことを思っている」のではないでしょうか。 しかし、福音史家ヨハネは、神のみわざのなかでは、大祭司カイアファさえも神のことばを語る、本人は知らずに預言すると言うのです。
そこから私たちは皆、神のわざのなかにあってその一人一人が、みわざのかけがえのない部分として、しかもそれぞれに固有のはたらきが与えられているのだと考えないわけにはいかなくなります。
どんなに己の思いや考えだけで語り、行為しても、それとは別の意味で、他のすべてに結ばれて必要とされるはたらきになってしまうのでしょう。
このように、本人は気付かずに神のことばを語るのを私たちは聞いているのですが、人々のわかっているところだけで応える思いや考えに妨げられて私たちは聞くことが出来ないというのでしょうか。
それが「神のことは思わず人のことを思っている」というイエスの・ルビ・叱正・しっせい・のことばなのかも知れません。私はそこに「皆一つの言葉を話している」のをよしとされなかった神を見る思いがします。
互いに通じない違いがありながら、一つになって生きるには、どうしても私たちの一人一人が、他のすべてと未知のその先に結ばれて必要ななにかを発見し変えられなければならないように思います。
創世記によって、神のことばが創造のことばであるのを、私は知っています。「人々のなかで」とは、その創造のはたらきになって生きる私たちを発見するためなのではないかと考えることもできます。
そして神のことばを聴くには、私たちにその今までのわかっているところだけで物事に応えるのではとても足りない、という痛烈な思いが必要なのかも知れません。
異なる他のすべてに結ばれている私、結ばれなければ無い私を思うと、部分に過ぎない私ですがまた、異なる他のすべてに結ばれて必要とされている私でもあると考えられます。
「神のことばを、人々のなかで聴く」のは異なる他のすべてに結ばれて聴くとも言えるでしょう。
すべてにとは、それこそわかっている今までのところだけでなく未知のこの先も含めてのすべてにであり、プラスだけでなくマイナスをも含めて、また互いに違いがあり一つとして同じもののないすべてになのです。
人が今までのところをすべてにして終わりにすることが、「神のことを思わず人のことを思う」ということではないでしょうか。ラザロは人々の思いや考えで葬られてしまったのです。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。(ヨハネ11・44)と記されています。
互いに違いがありながら、それを少しも考えようとしないで、同じ一つの思いや考えに結びつけて物事を片付けようとします。この互いの違いを許さない姿勢を神はよしとされなかったのでしょう。そこに、力の強い者が弱い者に一方的にふるまうのを許す私たちの反創造の、自らは変わろうとしない状態が表れるように思います。
互いの違いを通して語られる神のことばが聞こえないのは、人のことばを支えにして「皆一つの言葉を話している」私たちに原因があるように思います。
この状態が打ち砕かれ私たちが変わらなければならない時まで、私たちのなかに、人となられたキリストの受難は無くならないのではないでしょうか。
それでもなお私に、イエスはなぜ死ななければならないのか、という疑問が残ります。今も私たちの周りには無数の受難が見られます。「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった」(ヨハネ12・37-38)とあります。
イザヤ六章の神のことば「悔い改めていやされることのないために」に対してイザヤは「主よ、それはいつまででしょうか」と問います。主がこのままにしておくはずがないと信じているからですが主の答えは「町々が崩れ去って住む者もなく、家々には人影もなく大地が荒廃して崩れ去るときまで」なのです。
「神様との出会い 私の体験から」
鵠沼2区 富安
五十五年前、長女輝子が死去する際の出来ごとが、私と私の家族を神に出会わせた。
長女輝子は13歳、湘南白百合学園に通学する少女だった。夏の終わり、突然の入院、手術、経過がよく中秋10月17日退院が決まり、喜んでいた矢先の死去だった。
10月16日、退院前日、お寿司やおせんべいを食べていた娘が、突然に「たんがつまる」と言い、容態が急変し死去した。
今でいえば医療ミスだった。
臨終の時、最後の瞬間に発した娘の言葉は私を神に出会わせた。
長女輝子の言葉は「マリア様が見えるの、天国でお母様の幸福を祈っているわ」と、穏やかな「顔」はマリア様のような観音様のような、菩薩様のような美しい顔であった。
長女輝子の顔はそれから55年、一日たりとも忘れることが出来なかった。私を支えたものは娘の顔と、娘が信仰していたカトリックの教えであった。娘が信仰していたカトリックの教えを私は勉強した。旧約聖書、新約聖書、公教要理諸聖人の記録、キリストに関する本であった。
当時所属教会は湘南白百合学園の隣の片瀬教会であった。バルブ神父様、オブライン神父様、スイニー神父様のもとで一生懸命勉強をして洗礼、初聖体、堅信と受け、カトリックの信仰者となった。 当時湘南白百合学園の海老原いづみ校長様は娘の病院に足しげくお見舞いをしてくださり、その柔和な美しいお顔はきっと娘の心をとらえていたのだろうと私は思うのである。そして海老原いづみ校長様のカトリックの信仰が多大に、娘に影響をおよぼしていたと思っている。 海老原いづみ校長様と、私の母は日本女子大での先輩、後輩であり、母は校長様のお父上を存知あげ、親しくしていた経緯もあったので、娘も身近に感じていたのだと思うのである。
あれから55年の月日が流れ、思うことはカトリックの信者でよかったと思うことである。娘の顔の穏やかさと、手のぬくもりが常にあり、なによりも娘の残した言葉の大きさを感じてならないのである。娘の死は、カトリックの信仰の入口に立たせてくれただけでなく、人間愛(ヒューマニズム)をも教えてくれたのである。馬齢を重ねて九十五年、最後の時を迎えようとしている今日この頃、妙に神様からの最後の審判のくだされるその日を思うのである。審判のくだされる日に、神様より慈悲をかけていただけるかどうか?
先立った娘が、マリア様にこい願い、とりなしてくれるだろうか? あれこれと考える。しかし、きっと娘がとりなしてくれるだろうとおもうのである。
娘の思いが、きっと私にそして私の家族達に神との出会いの大切さを知らせ、生命の流れの大切さを知らせ、生きる道しるべを知らせたのだと思うのである。
昨今の時代の争いごとを見るたび、この宇宙にありて人間の重要性、生命の重要性を思い、人間が中心で、この世を生き生きと、輝いて生きる使命があると思うのである。神はこの世のすばらしさ、人間のすばさしさを教えてくださったのだから。
キリストの思想は私を変えた。そして身をゆだねる、ゆだねられるようになった。キリスト様の宇宙感マリア様の慈悲深いお顔、崇高なけだかさ、美しさが私の精神性を高めてくれた。
短い生涯を終えた娘の顔と手がそしてバレーのお稽古をしていた姿が、私の目前にある。「けがれなき生命」の存在の意味、そして意義が大きなものであったと思うのである。娘の死は神との出会いをもたらせ、私達一族の神への生命の持続となった。
未洗者からの励まし
藤沢3区 高島
介護施設で入浴の世話を受けて入浴中にあるボランティアの主婦からメモを渡された。それはイザヤの預言の英文の一節であった。帰宅後に和訳してから注釈を加えて渡すと、非常に喜んでくれた。 次週にはマタイ福音書の七章一節から二十節の英文のメモを渡された。ドイツ語専攻の私には英文は苦手だったが、時間をかけて意訳できた。それには末尾に犬養道子と曽野綾子の注釈を加えた。即ちマタイとはマテオのプロテスタント式の呼び名であり、またヘブライ語で「神の賜物」の意味があり、エチオピア→ペルシャ→パルチア等で異邦人に巡回宣教した教養人である云々。
彼女は未洗者なのにその勤勉ぶりは、信仰の中身が私をはるかに越えていて、旧約と新約の急所を暗記していて私に唱えてくれた。教会にいけないからと言い訳をして勉強を怠けていた私は、療養中で静かな環境で新旧の聖書を丹念に読み返している幸せに耽っている。
遠き想い出
鵠沼1区 上條
昭和32年4月聖園女学院小学校へ入学しました。当時小学校だけは男女共学でしたが、やはり男児は少なく、母に藤沢本町駅・藤長(パン屋)・コミネ(だんご屋)そして坂の入口まで見送ってもらい、坂から上は一人でランドセルをガタガタ鳴らし走っていったものでした。
帰りは途中ゼンマイ、ワラビ、木苺、野の草などとって家へもって帰り父や母に「今日帰りにこれ採ってきたよ」といって渡しました。今その坂を昔を回想しながら上っていっても、もうそれらの物はすっかり変わりはて「年月の経った証明かな」と何か淋しい気持ちがしてまいります。
思いっきり走り回ったあの狭かったグランド、防空壕、色んなことがあった校舎、何から何まで変わりました。一年生の時、交通事故に逢い、意識不明のとき洗礼、堅信を受け何かあるとすぐお祈りばかりしていたあの頃、言葉使いや日常の躾けが厳しくよく反発したりもしました。後輩の木村洋子さんは四学年下で女の子たちを集めては鬼ごっこ、縄飛び、ゴムダン、お手玉をしてよく遊んだり、シスターによく怒られたり、立たされたりロウびきをさせられたり、本部からときどき来る背の高い神父さんの膝に座り一寸法師、花咲かじいさんを読みました。ターザンの真似をして高い木にのぼり下から「俊ちゃん早くおりなさい」とシスターにはよくおこられました。おこられたことばかりが数多く、褒められたことはあまり少なかったようです。シスターは偉いシスターがくると急にニコニコしたり、優しくしてくれました。ただトイレだけには
困りました。女子ばかりなので入るのに外で皆立っていて順番を待っている中へ入るには流石恥ずかしかっ
たでした。帰りには本町小学校の生徒とすれ違うのでよく喧嘩もしました。
一人で時々本部へ出かけシスターに「聖園小学校の上條俊ですが、テレジア母様に会いにきました」というと、ちょっとして「入りなさい二階におりますのでご案内します」ついていって部屋に入ると、日本語で「よく一人でおいでになりましたね」と言われ、中を歩き回ったり、色んな物を見たり、ベッドに寝てみたり、帰りにはいつもロザリオや立派な箱に入ったドイツのチョコレートをもらいました。「気をつけて帰りなさい、また来なさいね」と優しく言ってくれたので度々行ったものでした。今は小学校はありません。あるのは残されたグランドと新しい校舎、昔遊んだところもすっかり変わりました。すすき田、加藤、山屋、太田、石崎、平岡各先生、シスターの皆さま本当に心から有り難うございました。あの時ワンパク坊主だったタカシは今は三人の娘の父親でございます。
神に感謝
兎追いしかの山
小ぶな釣りしかの川
夢は今もめぐりて
忘れがたき古里
いかにいます父母
つつがなきや友がき
雨に風につけても
思いいずる古里
「愛の手を」 母子家庭、父子家庭に
鵠沼3区 上原
キリストのご降誕心からお祝い申し上げます。
30年間母子家庭、そして十五年前亡くなった娘の父子家庭とを体験して生きてきました。やっと落ち着き、ここにしたためさせていただきます。
藤沢教会には父子、母子家庭が何世帯いらっしゃるでしょうか? 子供たちが高校入学までどちらも、なみなみならぬ生活があり、どちらも大変です。私の子育て時代は福祉はあまり活発でなく、子供二人では何の補償もありませんでした。ただし子供三名以上には少々補助がありました。ここにざっと父子、母子家庭のことを考えてみましょう。
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父子家庭
◇父親二役 (父と母)
乳児のいる場合
子供が小学校5、6年になれば子供が母親役 として働きます。(食事の支度、風呂沸かし、 買物、掃除、その他)
父親の帰宅が遅い時子供たちだけが留守番
会話は少ない
子供の躾けがおろそかになる
勉強する時間が少なくなる
親が帰宅しないと落ち着かない
学校との連絡が出来ない
経済的には収入があるが時間がないので子供 に対しての愛が欠ける
子供はいつも孤独
病気や怪我のときは?
入院、告別式
母子家庭
◇母親 二役(母と父)
母が父親代わりに働けば子供には不行き届き になる
家庭は子供だけ(孤独)
経済は遺族年金等だけで生活できない。例えば家賃、学費(公立・私立)小中高の入 学金、制服代、その他
教会の夏休み行事は不参加
病気、怪我のとき
入院、告別式
大学の入学金
成人式
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現在は市役所の福祉課へ相談にゆけば少しは解決できると思います。
母子家庭の場合は児童扶養手当、遺族年金、国民年金等、父子家庭の場合は育児を手伝うベビーシッター、ヘルパーなどまた登録すれば一時間1500円の割り引きがあります。
30年を振り返って私の時代の福祉は何もなく、苦しくても訴えることも出来ず神に身をゆだねて毎日を頑張ってきました。片親が働いている時間小さい子供は留守番をしています。この心の空白を私たちはどのような「愛の手」を差しのべてあげられるでしょうか? 教会は高齢者だけでなく、父子家庭、母子家庭にもお心くばりをお願い申し上げます。私の長年の解決的エピソードはまたの機会にお話することもありましょう。 平成15年クリスマス
神の子として共に生きよう
六会 松尾
本年6月26日〜27日の両日、日本カトリック女性団体連盟(日カ連)の第二十九回総会が札幌で開催され、横浜教区の友人と誘い合って参加しました。
総会のテーマは「ともに歩いていますか いつも求めていますか いのちの宝を」でした。
札幌教区長地主敏夫司教さまから「神様が一人ひとりに向けられている命へのまなざしを感じとりましょう。この総会のテーマの『ともに』ということは、どのような境遇にある人に対しても対等の人格を持って・対等な視点で・同じ心で・同じ痛みを持って付き合ってゆくことなのです。神のまなざしを忘れないでください。キリストと共に、キリストのうちに、キリストにならい歩んで行きましょう」と教えられました。
総会にはアフリカのザンビア女性団体連盟から「戦争・貧困・災害・暴力・病気に苦しむ人々、子供たちに平安を」の祈りが届けられました。司教さまのお話のように、これらの人々の苦しみを我が苦しみとして共に祈り、そしてこの祈りがキリストに届き、一日も早く世界に平和が訪れるよう願いました。
日カ連の精神「命こそ宝」はまさにこのことであり、「神と自分」だけでなく「共に喜び合い、共に神の子として生きよう」ということであると実感しました。
日カ連は1974年、横浜教区婦人同志会が母体となって創立し、その年に世界カトリック婦人団体連盟
に加盟しました。現在全国16の教区の女性の会で構成されています。
2002年、教皇さまから「ロザリオの年」の宣言があり、それが動機となって16団体にロザリオの祈りのリレーを呼びかけ、昨年11月の北海道を皮切りに毎月ごと引き継いで本年4月が横浜教区の番でした。各小教区でそれぞれ祈りを捧げ、五月名古屋教区に引き継ぎ2004年2月には那覇に届きます。
総会のミサで歌った聖歌「呼ばれていますいつも 聞こえていますかいつも 遥かな遠い声だから」の調べが今も耳の奥に響いています。
来年の第30回記念大会は信仰の地、長崎で行われます。皆さまも参加しませんか、キリストに出会うために。
楽しい出逢いを求めて
辻堂2区 中山
藤沢教会のオフィスに勤めていた十年間、沢山の方々とのすてきな出逢いがありました。大きな教会ゆえ、すばらしいタレントの持ち主が一杯、すばらしいタレントに出逢う度に、舌を巻き、目からうろこを落とす楽しい歳月でした。
オフィスをリタイアしてから、湘南台センターをお借りして、十人の方達とみことばを書いています。ここでもすてきな出逢いに恵まれました。一時間程「かな」の基礎を練習したり、好きなみことばを書いた後、お茶を飲みながら分かち合いをします。
信者でない方、他教会の方、世代の異なる方々の集まりなので、一つの事でもいろいろな見方のあることを学べ、とても楽しい分かち合いになります。
あらたな出逢いを求めて、来年一月から藤沢教会でも、第二、第四の金曜日の午前中に、みことばの会を計画しています。
興味のある方はのぞいて下さい。小さな硯と小筆と数枚の半紙、教室使用料百円でどなたにも来ていただけます。きっとすてきな出逢いがあると思います。
聖書100週間との出会い
大和教会 佐藤
一生に一度は、聖書全体を読んでみたいというひそかな願いが叶えられて、昨年より聖書百週間の集まりに通っています。一週間に一度、家で読んできた箇所の感想を分かち合い、短い祈りを捧げ、他の人の話を傾聴しています。ここでの分かち合いは、社会や家庭での出来事などを信仰の目で見直し、共におられる主に向かう心で、ありのままの自分を素直に差し出すような気持ちになります。
以前から私の信仰生活の中で一つの疑問がありました。それはなぜ、私は異教徒の中から、しかも親族の中から一人でカトリックの世界に呼ばれたのだろうかということでした。
最近、これに対する答えのようなものが少し、この集まりの中で見つけられたように思います。人それぞれ異なった人生を歩み、考え方も違いますが、この聖書を中心とした交わりの中では、不思議と多様性の中の一致の豊かさを味わうことができます。辛い出来事も、しだいに神への感謝に変えられて新たな一歩を踏み出すことが出来ました。それは荒れ野で救いの泉に出会い、真の生命の水を汲むような今を生きる信仰の喜びでした。
今は旧約聖書の預言書を読んでいますが、特にイザヤ書は、クリスマスの頃にミサの中の聖書朗読で聴くことが多く、印象深いところです。そこには新約の世界へとつながる種子となるようなみ言葉が、夜空の星のように輝いています。時代を超えて救い主を待ち望む人々のへの希望と励ましの言葉が告げられているのです。暗く不安な世相が広がる現代社会の中でも、神の言葉は生きていて、今でも私たちに呼びかけているのではないでしょうか。
闇の中を歩む民は、大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。 (イザヤ9:1)
「聖書100週間」からいただいたもの
鵠沼1区 若杉
昨年10月にテハン神父様より聖書を祝別していただいて「聖書100週間」が始まりました。創世記から読み始め、今年はクリスマスを迎える前に、キリスト到来の預言が特に多く、またイエス様がナザレの会堂で朗読なさったイザヤ書へと導かれたことに喜びを感じます。
いつも日が迫ってから大慌てで読み始める私ですが、一年経った今、皆様と祈り合いながら共に読むことでいただく恵みの大きさに感動しています。それぞれの方が聖書を読んで自分に響いたもの、味わったもの、気付かされたことなどを語られるとき、聴いている私も豊かにしていただいています。独りで読んでいては与えられない賜物です。
皆様の感想をお聴きするとき、そして「まとめ」をなさってくださるテハン神父様のお話をお聴きするとき、私の心の中に大切なものが豊かにたくわえられていくように思います。
その上、共に読み進む方々との出会いの喜びも私には大きな恵みです。本当に驚くようなすばらしい出会いに恵まれ、感謝しています。
今まで読んだ中で私の心に強く響いた箇所は数多くあります。その一つをあえて挙げればルツ記の大変美しい話です。ルツ記には読む度に感動しますが、今回は特に、やさしかった亡き姑のことを想いながら読みました。ルツのやさしさにこれまで以上に感動するとともに、やさしい姑に対して決してルツのようなやさしい嫁ではなかった私自身を恥じました。心からゆるしを願い、家族が皆姑のやさしさを受け継いでいることに感謝しました。
また、先日、茅ヶ崎教会で沖縄の音楽を楽しむ機会に恵まれましたが、その折歌声と三線(サンシン)の音色に合わせてお一人のシスターがゆるやかに、美しく、まるで蝶が舞うように舞われました。あまりの美しさにうっとり見とれていると、なんと、多くのかたが客席から立ち上がり、一緒に踊りはじめたではありませんか。私も思わず踊っていました。そして、あっ、と思いました。ダビデが主の箱をダビデの町に運び上げて喜び踊ったことを想ったのです。王様であるのにダビデのこの素直な喜びの表しようはなんとすばらしいこと、と強く心にとどめていましたので、出会ったみなさんとともに喜びに溢れて踊れたことを嬉しく思いました。後日、共に踊った友人が「あのときダビデのことを想ったわ!」と嬉しそうに語ってくださったので共通の想いにびっくりし、喜び合いました。
これからもこの集まりの中に聖霊を豊かに送ってくださり、み言葉から謙虚に聴くことができますように、そして唯聴くだけの者でなく喜びのうちに家庭へ、社会へ、と送り出してくださいますように、と祈っています。
色々と「聖書100週間」のために骨折ってくださるリーダーの方々に感謝しています。そして協力してくれる家族も顧みてください、と尽きない祈りを捧げています。
「父と子と聖霊のみ名によって」
雪の下教会 原
「聖書100週間」のリーダーをされていた吉原さんの死と、現リーダーの森田さんからのお誘いがなければ私は「聖書100週間」に参加していなかったと思います。それは神様の招きの一つのはじまりでした。私は当時、一つの道を目指していましたが、どうしてもその道の中で平安を得ることが出来ず、砂嵐の中をただ一人歩いているような状態が二年ほど続いていました。今思いめぐらすとそれらを乗り越えられたのは、雪の下教会、藤沢教会の神父様や信者さんに出会わせていただき多くの人々を通して主が助けてくださったからだとしか思えません。(今、その一人ひとりの方の名を書くことはできませんが、一人ひとりの方にありがとうと共に祈りをささげます)私はそれらをいつまでも記憶し思い起こし、感謝したいと思っています。その幾つかをここで分かち合いたいと思います。
2002年12月28日から2003年1月3日まで大阪の「愛と光の家」での年越し黙想会の中で、指導していただいたケヌエル神父様から、私に対する神のみ旨を教えていただくことができました。その黙想の家は山の上にあり、帰って来た私を見た友達は「美白したの?」というほど私の顔つきは変わっていました。その時の「聖書100週」での朗読箇所は、モーセがシナイ山で神と出会い、神の言葉を受け、その顔が光り輝いて山を降りて来たところでした。心に深い平和を得ていた私は聖書を通して、確かに神様が私に神のみ旨を教えていただいたのだと確信することが出来てうれしくなりました。
また3月17日にその「愛と光の家」の指導司祭ケヌエル神父様が亡くなり、大阪のカテドラルでの告別式から戻って来て、最初に「聖書100週」で読んだ箇所は申命記の終わりのモーセが亡くなるところでした。本当に神の言葉を告げてくれたと泣きながら読んだことがずっと昔のように思えます。
それから亡くなったケヌエル神父様の遺言となってしまった言葉…「かつても今も、呼ばれているから行きなさい」という優しいことばに励まされて、私は東京のある場所へ行きました。その日は6月8日聖霊降臨の祝日で、集まっていた人々は祈ってから聖霊の賜物が書かれたしおりを ・・神様があなたに与えられる賜物・・ としていただきました。皆それぞれに違うもので、私のは上智(知恵)の賜物と書かれていました。そしてその時の「聖書100週」の朗読箇所は列王記上(ソロモン王が知恵の賜物を主からいただくところ)でした。この一枚によって神様のみちびきを強く確信した私は来年から新しい生活に入ることになりました。
ルカ福音書の中で、貧しい羊飼いに主のみ使いが現れ、救い主の誕生をつげられたように、出会い助けてくださった一人ひとりの方が凍えていた私の心を主の栄光で照らし温めてくださったことを感謝し終わります。
「いと高きところには栄光
神にあれ
地には平和、善意の人にあれ」
(ルカ2:14)
祈りの集い
鵠沼3区 浜田
一月の末から、センターホール202号室に集まって、ハンラティ神父さまと三人のリーダーの方々のお世話になりながら神父さまのお祈りを教えていただいております十人ほどのグループです。最初の日に神父さまがリーダーを三人の博士とお呼びになりましたのを聞いて一つの光景が心に浮かびました。神父さまを通して、やさしい光を注いでくださる聖霊に導かれ、三人の博士の後について、ひたすらに神様との出会いを求めて行く旅人たちの姿でした。感謝と期待と、不安に包まれて歩み出しはしたものの、お祈りは難しく、なかなか思うようにはいきませんでした。弱音を吐いたり、歩きはじめた子供のようにあらぬ方へ暴走してしまったり、リーダーの方々のお骨折りと、神父さまのお疲れはいかばかりかと申し訳なく思いながら十ヵ月余りが経ちました。
そしていつの間にか、私たちは共同体の同志たちとでも呼びたいような、かけがいのない仲間になっておりました。心を一つにして祈る時、深い静寂の底には凄味さえ帯びた力を感じます。飾ることも、恥じることもなく、ありのままの姿で分かち合う時、私たちの間には信頼と心と心のひびき合うのを感じます。共鳴したり、感動したり、また驚き、教えられてここまでまいりました。こうして少しでも心の中で、自然の中で、思いがけないところで、神様に気付かせていただけるようになってまいりました。私は今神様にゆだねて沈黙の中で待つ祈りの心と、旅立ちの時に夢見た、あの馬小屋の中とを重ね合わせて考えております。そこは人が初めてイエス様と出会えたところでしたことを・・。神様の愛が豊かに
満ちた中に、聖家族のすばらしい奉献と清貧があったことを・・。
このようなお祈りに導いてくださいました神父様とリーダーの方々に心からお礼申し上げます。私たちはこれからも感謝と希望の心をもって歩み続けてまいります。
「出会い・関わり」の旅
藤沢1区 綿貫
キリストはわたしたちに「互いに愛し合いなさい」とおっしゃいました。この基本となるものは「関わる」ことでありそのためには「出会う」ことが必要になります。
日常生活において、私達の多くは互いの存在を当たり前のことのように考え、互いの「関係」をありふれたもののように感じているのではないでしょうか。
家庭の崩壊が危惧されている今日、中心となる夫婦の「出会い」・「関わり」が大切にされる必要があると思います。 マリッジエンカウンター・ウィークエンド(略称ME)は、夫と妻の未来を見つめ合う良い機会です。伸びやかに活き活きと、人生の旅路を歩き続けたいと望む夫婦のために、慌ただしい日常生活から離れて、互いのことだけに集中できるひとときが用意されています。それでMEは多くの夫婦にとって、互いの豊かな関わりと深い絆を実感する、大きな喜びの体験となっています。
MEは、夫婦関係の問題解決や単にスムーズな人間関係をつくるためだけのものではありません。「互いに愛し合いなさい」と言われたキリストのメッセージを生きるための道しるべです。私達は、夫婦の関係や人々との関係がどんなに素晴らしいものになり得るかを知り、日々の生活に新たな活力を見い出すことができます。
私達にとっては、二泊三日の集中プログラムで、自分と、配偶者と、人々とそして神様と日々新たに出会うことに気付かせてくれたものでした。
MEには二種類のプログラムがあります。
「マリッジエンカウンターウィークエンド」はカトリックの夫婦・司祭・修道者を対象に、秘跡を中心にしたプログラムです。夫と妻、信徒やコミュニティの人々と関わり、神との関わりを深く見つめるものです。
「夫婦ウィークエンド」は宗教、思想を問わず、配偶者や周囲の人々との親密で深い関わりを築くためのプログラムです。夫婦であればどなたでも参加できます。
MEはスペインで、婚姻の秘跡をより深く生きたいという夫婦の思いから始まり、アメリカに伝わり、日本には1974年に伝わりました。これまでに世界90カ国以上で、100万人を越える人々が参加しています。アジアでも、韓国・フィリピン・インド・シンガポール・マレーシア・インドネシア・スリランカ・バングラディッシュでは常設のコミュニティがあります。MEウィークエンドを体験した夫婦、司祭、修道者たちは、一組でも多くの夫婦ウィークエンドに参加して欲しいと願っています。
教会委員会報告(11月16日)
宮内チームリーダーからバザー収益が報告された。賛助金・売上金ともに185万円、合計370万円
詳しくは後記参照
前回委員会に提案された「福祉連絡協議会」が11月8日(土)初めて開催された。
討議内容は次のとおり。
1.代表に藤沢二区曽根和子さんが推薦された。
2.資金収集活動の教会施設の利用について
@ 日曜九時半ミサ後の販売・募金について(お聖堂前ではなく、駐車場の一部にテーブルを用意し場所を設定して はどうか)
A 「ぶどうの木」の活用について(教会外への開かれた活動を意図して日曜・土曜及び平日を利用してはどうか)
B 年末ミニバザー等、個々のバザー運営について
などで、これらの問題は引続き協議される。なお、連絡会の概要については別掲参照。
これまでに推薦された次期教会委員及び新任活動部長は別表のとおり。なお、委員長・副委員長は前回テハン神父からの現任継続案以外これまでのところ推薦がなく、改めて委員会規約どおり現任委員の委員会推薦、主任司祭承認の運びとなった。新任委員及び活動部長は引継を兼ねて二月信徒総会前の委員会までオブザーバーとして出席する。
前回報告されたように司祭給与分担金制度に関連して横浜教区事務局長林神父・経済問題評議会代表飯野神父と運営委員会メンバーとの懇談会が11月13日(木)にもたれた。お二人には当教会の宣教活動等をより深くご理解いただき、また、宣教司牧に関して教区本部でも小教区・地区グループからの提案を期待されていることが分かるなど相互の意思疎通が図られ、夕刻一時間半ほどであったが、密度の濃い懇談の場となった。
1.次年度行事予定
現在各ブロック・活動部に次年度予算とともに行事予定を検討願っているが、教会全体及び各ブロック・活動部間の行事予定を調整のうえ、クリスマス前には公表したい。
2.各ブロック・活動部の反省と展望 各ブロック・活動部の活動を継続するために、これまで行ってきたこと・計画してできなかったこと・こんごの活動の方向を新旧委員・活動部長に纏めていただき次回十二月委員会で報告していただくこととした。
1.各ブロック
十一月には各ブロックとも集会が行われるが、その実施状況及び予定が報告された。
2.福祉部
バザー収益金の配分を検討している。
昨年と同様
A、藤沢地域の人々の福祉を対象とするグループ
B、当教会の信徒が深くかかわりを持つグループ
C、その他の福祉活動
の三つのグループを対象に、バザー企画チームから示された国内七・国外三の割合を考慮し、福祉基金の取崩しを含めて検討している。
3.宣教部
@ 今日から短期キリスト教セミナーが始まった。
A 11月30日(日)入信志願式
B 12月6日(土)市民クリスマス、
今年はスリーグレーセスの出演を予定している。
4.教育部
@ 11月23日(日)からクリスマス聖劇の練習がスタート
A 11月23日(日)鍛冶ヶ谷教会日曜学校の遠足で当教会九時半ミサに 参加
B 12月7日(日)クリスマスのお菓子を包装、お手伝いをお願いしたい
C 12月14日(日)子供のためのゆるしの秘蹟
5.国際部
@ 皆でできることとして先ずは新年の集会を予定している。
A 日本精工に一〇〇人などブラジル人の移住がみられ、一部にポルトガル語ミサの希望がでているとの情報。茅ヶ崎・片瀬等近隣教会の状況、ニーズの程度などを踏まえて対策を検討することとした。
6.総務部
待降節までにクリスマスの飾付けを終えたい。藤沢教会は11月22・23・24の連休を予定しているが、湘南台センターは30日になる見込み。
バザーの報告と御礼
企画チームリーダー 宮内
10月26日に行われました今回のバザーは、盛況の内に無事終えることが出来ました。この成功は、共同体の皆様のご協力とお祈りがなければ、あり得なかったことだと思います。本当にありがとうございました。
当日は素晴らしいお天気にも恵まれ、多くの方が足を運んでくださいました。また、今回の目玉企画であった大抽選会は、皆様からの本当にたくさんのご寄付のおかげで、大いに盛り上がりました。収益につきましては、すでに教会のお知らせにも掲載いたしました通り、賛助金と売上純益はいずれも約185万円となりました(収益全体の合計は約370万)。どちらも当初の予想を上回るもので、皆様のご協力に感謝いたします。賛助金は全額教会の建物維持のために、売上純益は福祉のために使われることとなります。なお福祉のための寄付につきましては、地域社会の中の教会ということを重視し、私達が住んでいる地域の方達の福祉を第一に考えたいという趣旨で、今年は国内向けに七割、国外向けに三割という配分をすることになりました。
最後になりますが、バザーの準備から実施に至るまで、本当に多くの方に助けていただきました。企画チームの皆さんをはじめ、ご協力下さった方一人一人に心から感謝いたします。どうもありがとうございました。
祝福を受けた子供たちの感想です。
おメダイがかわいかったです。それにおメダイがいただけてうれしかったです。たのしかったけど、きんちょうしました。
いとこのあゆみちゃんといしょに七五三ができてたのしかった。
七五三は、あさからきんちょうしていました。だいすきなみずいろのきものをきました。きものであるくのはむずかしかったです。きょうかいのしゅくふくしきでは、なまえをよばれてしんぷさまにしゅくふくしていただいて、おめだいとちとせあめをもらいました。ドキドキしました。たのしいいちにちでした。きものをぬいだらほっとしました。
11がつ9かはひちごさんでした。はかまをはいてうれしかったです。しんぷさまにおめだいをもらいました。りゅうせいくんもいっしょでうれしかったです。いつもよりごみさがみじかくてよかったです。
壮年部の遠足におともして
鵠沼3区 久枝
思いがけないお誘いを受け、先ず思ったのは、当年八十四歳の私が壮年部の行事に参加出来るのかなということでしたが、壮年部は三十歳以上であれば、上は年齢制限はないとのことで先ずクリアー。
次に、ここしばらく家内の介護に追われ外出もままならなかったので、教会へもすっかりご無沙汰で、特に男性の方々とのつきあいも少なく、一人での参加は心もとなかったのですが、そこは浮田部長さんに背中を押され重い腰をあげ参加することにしました。(実はいたって腰の軽い方なんですが)
コースは、発表の通りJRの石川町駅から始まり、かねてから一度はと思っていたカトリック山手教会を訪問、神父様より内部の装飾や建設などについて詳しく説明を受けました。
当時としては珍しくパイプオルガンをともなった盛大な献堂式を偲び深い感銘を受けました。そのあとエキゾチックな本山手通りのデートコースを残念ながら野郎ばかりでたどりました。
秋晴れの好天の中、明るい自然と生き生きとした人々の動きは最近少しささくれていた私の心には、とても快い癒しとなり沢山の活力を得ることが出来ました。
それにもまして感激しましたのは、一行十人のどなたからも、ひとしく受けた愛にあふれた温かいあつかいとお言葉でした。おかげさまで昼食も一段とおいしくいただけました。
久し振りに晴々としたレクリエーションの一日を楽しく過ごさせていただいて皆様に厚くお礼申し上げます。
死者の月に、毎年一回開かれている「葬儀を考える集い」を、今年は死者の日(11月2日)に持ちました。またあらかじめ簡単なアンケートを実施し、それをもとに、今回の集いが開かれました。バザーの後であることや他の集会と重なったこと、テーマへの関心の有無などもあり、参加者は30名ほどと少なかったのですが、新しい気づきや具体的なものへの出発の集いになったと思います。
最初に、「お墓」の仏教的な考え方について、高野さんよりお話を聞きました。
人が死ぬということは、肉体が滅びるということであります。では人間とは肉体だけなのでしょうか。仏教もキリスト教も霊・肉二元論の立場でこの問題を考えております。死は肉体の死と限定しますと、葬儀は肉体の処理、死体の後始末ということになってしまいます。でも人間には霊魂もあるのだから、肉体の処理ばかりでなく魂の処理もされなければならないという考えもあります。
それではお墓とはなにかと申しますと、基本的には死体置き場のことです。仏教発祥の地インドでは、お墓を作りません。インド人は家族が亡くなると死体を全部焼き、ガンジス河に一切合財流します。しかし、日本人には火葬という風習はなかったのです。全くなかったかというとそういうわけではないのですが、それは特殊な例で、伝染病で死んだ人が火葬にされたという形跡があるていどです。こうした例は特殊で、一般には土葬でした。火葬にしないかぎり死体は消えませんから、どこかに葬らなければならなかったのです。それがお墓なのです。
お墓の目的は、死体が化けてこないようにすることです。ですから死体はできるだけ深く埋めて、出てこないように大きな石をのせたのです。これが墓石です。つまり遺体を捨て、死んだ人を封じ込めることが、お墓の目的なのです。
現在は火葬ですが、本当の意味での火葬ではないのです。本当の火葬とは、インドのように焼けるだけ焼いて、残った骨は全部流したほうがいいのです。それが本当の火葬です。
日本人は骨にこだわる民族でもあります。遺骨が祀られないと死者が浮かばれないという幻想があるようです。インドでも悟りを開いた聖者は、火葬にしたあと遺骨をお祀りします。「仏舎利」というのは釈迦の遺骨のことです。
ところでインドの仏教では、人が死ぬと中陰の世界に入ります。死んだばかりの霊魂はすぐに再生せずに、四十九日の間宙ぶらりんの状態にあると考えたのです。この四十九日の間を中陰というのです。つまり迷いの世界のことです。この期間が過ぎますと地獄、鬼畜、畜生、修羅、人間、天界という六道のうちのいずれかの世界に生まれ変わり死に変わりするというのです。つまり生存し続けるというのです。これを輪廻転生というので
す。しかし、悟りを開いた人は、その輪廻の輪からはずれて宇宙空間のかなたに飛び出します。それを解脱というのです。この解脱された人の代表が釈迦なのですから、火葬にされてお墓が作られたのです。解脱された人は、二度とこの世に生まれ変わることはないのですから、お墓を作ってもよいのです。しかし、人間はこの世で死を迎えても、必ず輪廻しますから、つまり生まれ変わりますから、死は永遠の死ではないのです。ですからお墓を作ったらおかしいのです。四十九日すぎれば別の世界に生まれ変わっているのですから、このお墓は何なのかというのが、インド仏教の考え方なのです。
日本でも南都仏教では葬儀は行いません。東大寺等では現在も行っておりせん。仏教寺院が葬儀を行うようになるのは、江戸幕府の宗教政策の結果なのです。幕府は全国を統一するに当たって、悩んだのは仏教寺院の存在だったのです。織田信長が比叡山を焼いたのもその一例です。徳川幕府は寺院統制の手段として、キリシタン弾圧を行ったのです。まさに一石二鳥だったわけです。何人も近くの寺院の檀家とならなければならなかったのです。そのためキリシタンでは無いという証明として、踏み絵が行われたのです。寺檀制度ができたのです。寺では葬儀は行わなかったものが、この時になって幕府の指導によって行ったのです。そのため寺に墓を作らせ、寺と檀家との関係を作り上げたのです。それまで屋敷墓でよかったものが、強制的に寺墓にさせられたのです。すべてキリスト教弾圧のために幕府が作った制度なのです。葬儀で戒名が付けられますが、仏教寺院では僧侶間の葬儀は行っていましたから、民衆の葬儀を行う上で、人々は僧籍に入らないと葬儀は出来ないということから、死んでから戒名を付けるのです。これは僧籍に入ったということなのです。仏教徒なら生前に戒名を付けるのが本来なのです。
続いてテハン神父様より、キリスト教の考えを聞きました。
「灰の水曜日の儀式」を例にとり、一人ひとりの額に灰をつけるのは「土から生まれて、土に帰る」ということです。霊魂と体を二つに分けて、体は土から出たものだから土に帰るのです。人間は体と霊魂を持っていて、亡くなられた後も、霊魂は生きています。アイルランドでは教会の周りにお墓を作り、十字架に円形を組み合わせたハイクロスと呼ばれる十字架を用いている。キリスト教以前、五〇〇〇年前の古代墳墓もあり、亡くなられた方を大切にしてきました。アイルランドの教会にとって、火葬にするという考えは、復活の時に体が無いということから大変な批判を受けたのです。しかし、土地が無いということから火葬を許すようになりました。
バチカンは終油の秘跡を病者の塗油の秘跡と改め、死の床への訪問ではなくなりました。かつて、病者の秘跡を受けるために司祭を呼ぶのは、もう最後の時、一回だった。しかし、病者の塗油の秘跡は主の死と復活への一致へと導くもの、病人の力と支えになるもので、この秘蹟によって病人は希望と安らぎをもつことができるようになるでしょう。
イエスはお墓でよみがえられた。これが最初の復活祭です。もし、キリストがよみがえらなかったなら、私たちの信仰は何か…。復活は未来の出来事でもあるが、死を乗り越えて、浄められ復活の希望のうちにイエスと結ばれて、今を生きることです。
葬儀の祭服は黒や紫も使われるが、復活の希望を表すために、神のもとに帰った方のために喜ぶ白い祭服が勧められている。最期の時が感謝一杯なら白がいいのでは…。
その後、質疑応答があった。
このことについては、順次、八角形ニュースに連載していくこととなりましたが、テハン神父様は3,700人の教会で、アンケートの回収が31名、この集いにわずか30名ほどの参加者しかいない。本当に墓地が必要なのか、必要な人がどれくらいいるのか、ニーズがあるのか疑問に思う。死やお墓のことは話題として話しにくいし、自分の気持ちを整理するための時間が無いのではないだろうか。信者の「心のまとめ」として考えて欲しい。近隣の教会は小教区独自の墓地や納骨堂を持っている。第六地区は地区として合同のカトリック墓地を持っている。教区としての考えは聞いたことがないが、未来に向かって、考えなければならない。本当に必要な人がどのくらいいるのかを教区に示していけば力になるだろう。
今回のアンケートが漠然としすぎていたという意見もあり、これからの方向として、現在七十歳以上の方が四六〇人ほどおり、十年後には1,000人になるだろう人たちのことも考えて、改めて、墓地は必要か、必要ならどこに、どのような物を造るのか。また、教会の中にとか、この近くにという方々の希望はどの程度あるのか、費用はどの程度かかるのか、造った時に使えるのは誰かなど、可能性のあるプランを「葬儀を考える会」で出し、皆さんの意見も聴きながら教区と相談をしてゆくこととなった。
(文責:浅野)
藤沢ブロック集会
藤沢1区 萩田
11月9日(日)ミサ後聖堂右側側室で今年最後の藤沢ブロック集会を行い、約50名の方々が出席くださいました。
ブロック責任者の小澤氏(F3)から現在問題になっている次の事項の話がありました。
・共同宣教司牧について
司祭の減少、高齢化に伴い、信徒として出来る範囲での司祭のサポートの必要性
・司祭給与分担金制度について
教会の支出の増加が見込まれ、教会財務上の課題である事。篠澤氏(F1)から詳細説明あり
・福祉活動
藤沢ブロック福祉担当の曽根氏(F2)より、七十歳以上の方々へのお誕生日お祝いカードを手作りしている事とそのための資金調達の協力依頼
途中テハン神父様が来られ、今後のブロックの在り方についてお話されました。次期ブロック責任者安田和敬氏(F1)の紹介と挨拶があり、続いて各区の今年度、来年度の連絡員の紹介がありました。最後に教会及びブロック活動に関する自由意見の中で、「現在日本では相当数の自殺者がある。悩める人達に解決は出来なくとも、カトリック教会として傾聴するだけの窓口でも出来ないものか。」の意見がありました。
七五三のお祝いが聖堂であるため、11時半頃閉会となりました。次期ブロック責任者、連絡員の方々よろしくお願いいたします。
「藤沢ブロック黙想会」のご案内
日 時 2004年1月10日(土) 10時半〜15時半
場 所 カトリック片瀬教会
指 導 マリオ神父(片瀬教会主任司祭)
テーマ 未定、神父様から「楽しみにして下さい」とのことでした
会 費 決まり次第お知らせいたします。
担当 藤沢3区
北2ブロック集会報告
長後 長野
11月16日(日)ミサ後、北2ブロックの今年最後の集会が開かれました。まず今年一年間に帰天された七名の方々のために皆で祈りました。
それから新しく転入された方三名と来年度委員の紹介がありました。
来年度は・ブロック長中村裕子・サブ長野映子・会計堀内紀子・書記佐野雅子・福祉委員天ヶ瀬順、天野清子の六名で皆様のお助けをいただきながらやって行きたいと思います。忍見春枝さん、有原嘉代子さん、清水和子さん、宮崎良子さん、高橋弥生さんご苦労様でした。ご経験を生かしてこれからも新しい委員を助けていってください。
今月の教会委員会と福祉委員会の報告の後、来年度の行事予定と係を自己申告で定めました。来年度はミサ当番が2月、7月、12月と三回あります。10月、11月、12月が北ブロックの当番月になります。バザー委員長も出さなければなりませんので、候補者を考えておいてください。六つに分けた係には出席の皆さんが一つまたは二つに協力を申し出てくださり、皆でブロックを支えて行こうという意気込みが感じられて嬉しく思いました。当日出席されなかった方々も係のご参加をお待ちしております。来年も北2ブロックにとってみのり多い年になりますよう、楽しくやってまいりましょう。
教区典礼研修会に参加して
日曜学校リーダー 清水
10月5日に磯子教会で教区典礼委員会による研修会が「子供の最初のゆるしの秘跡」というテーマで行われました。「最初のゆるしの秘跡」といえば初聖体前に受けるものですが、日頃日曜学校でも、年二回待降節と復活祭前にも子供達が「ゆるしの秘跡」を受けており、私達リーダーの間でも子供達の心の準備のもっていき方など、いつも問題に取り上げて検討しているテーマでしたのでとても興味深く参加させていただきました。
カンペンハウド神父様のお話は初めての「ゆるしの秘跡」を行う時期は初聖体と分けて考えた方が良いというものでした。それは初聖体の面白くない条件となり、許される喜びをあまり味わえないという問題が生じるという点からだそうです。許される喜びを感じることにより神様との関係を考えるためにも「初聖体」と「ゆるしの秘跡」を切り離してはどうかという内容でした。親やリーダーも子供がゆるしの秘跡を受けるのであれば自分も回心し、共同体の一員としてゆるしをいただく、そして子供達に神様にごめんなさいという心を育て、神の愛をいただく喜びを感じさせましょうとも話されました。
続いての、シスター景山のお話では「ゆるしの秘跡」を行うときの糾明を「キリストの平和」という歌で行うのもよいのではと、提唱されました。一つ一つの言葉がそのまま何かを気づかせ考えるヒントとなり祈りとなる。子供はゆるしの秘跡そのものをそのまま受け入れるので、説明などいらない。「キリストの平和、光、力、いのち、ゆるし、いのりがわたしたちの心のすみずみにまでゆきわたりますように」イエス様はいつも私達のことを気にかけていてくださる。ゆえに私達も隣人を見て見ぬ振りをするのをやめましょう。そしてイエス様は子供達がどんな人になることを望んでいらっしゃるのでしょう。そのような内容を含めて、教会学校ではイエス様のことをゆっくりと教えていく所と話されました。さらに、信仰教育は家庭で行い、家庭の中に祈りの場をもうけ親子で祈ることが大切であるとも話されました。また「ゆるしの秘跡」の個別の部屋は、子供のとって暗い、あるいは神父様と二人きりになり緊張するなどイメージが悪いようなのでなるべく子供が親しみやすい部屋にすると良い。中高生にとっても精神的に暗いと感じている子が多いようでもあるとも話されました。
その後分科会に移り、各教会の子供の「ゆるしの秘跡」の方法・問題点などを話し合い、どちらの教会も同じような問題を抱えていることに安堵し、また解決していかなければならない問題であると改めて認識いたしました。糾明を歌で行うなど夢にも思っていなかったので、びっくりするとともに、感心させられました。いつもながらにシスターのお話には感嘆させられてしまいました。このような機会をくださいました典礼委員会に感謝いたします。
静修の一日
辻堂2区 佐々木
教会暦最後の祝日である「王であるキリスト」のミサに続き、テハン神父様のご指導のもとに静修の時が始まりました。寒い日でしたが、百名近い参加がありました。プログラムは過去に感謝、聖霊の導き、未来への希望の三部からなり、最後に回心式がありました。
一部は人生を巡礼と捉え、過去に感謝の思いがありますかとの問いかけで始まりました。神の無限に近い宇宙のほんの最後の時間の中に人間が生まれたこと、特に共同体の出会いの中で人間が星のように輝くことが望まれていると言われました。西江さんの亡くなられたお嬢様が病気と闘いながら「ライナス」のために心を尽くし、周りの方々も支えあったことや、小児科医の細谷先生が、三十年間働いた報奨で得た十日間の休暇をお遍路に出られて、人との関わりを自然の中で癒されたことなどを例にして話されました。
十五分の黙想の後、二部は「今聖霊に導かれて生きるものになろうと」の問いかけがあり、三つのS、沈黙、平静さ、単純さの大切さを説かれました。祈りは聖霊の力と一致する目的があり、聖霊に導かれることによりエネルギーが湧き、神の息吹によって生かされるものになったと言われました。ホロンの本を織りまぜながら、過去に捉われて生きることは繰り返すことであり、機械的な生き方、意識的でない生き方に陥る危険性があると指摘されました。自分の先入観やイメージではなく"今"復活されたキリストに出会う大切さを強調されました。自分の弱さと闘うのではなく、認め受け入れることで、神の愛に生きる者となり豊かさが育つと結ばれました。
十五分の黙想の後、各自昼食をとり午後の部になりました。三部は未来に向かって希望を抱くためにはどうしたら良いかです。信仰は現実、今に対して心から応える時、新しい生命が豊かに生まれます。信仰はキリストの復活に基づいて、死を乗り越え新しい生命の豊かさを与えられます。死は新しい生命のはじまりです。ですから危機はチャンスであり、進歩をもたらすものと言われました。キリストと一致するために、朝晩の瞑想をすすめられました。キリストに委ねる訓練は、自分を聖旨に合わせ受け入れることで、神の計らいの中に生きるものとなり、安心して現実に生き、喜びの中に信仰に生き、生命を味わう者になると結ばれました。
十五分の黙想の後、回心式を迎えました。聖堂の中央に十字架が置かれ、三人の司祭が立たれ、それぞれに和解の秘跡を受けた後、私達も司祭の所に行き秘跡を受けました。その後三人一組で右手を十字架に、左手を友の肩に置いて、償いとして主の祈り、天使祝詞、栄唱を共に祈りました。
全てを終えて二時過ぎには暖かいホールに集い、お茶を飲みながら五十人近い方が輪になって感想を分かち合いました。十字架に手を添えたことで私達がキリストに結ばれ、共にいてくださることを実感できて良かったとの感想が多く寄せられました。
私も"今"聖霊の導きを切に祈りながら、来し方、行く末を静かに見つめた一日でした。長いと思っていた一日もあっという間に終わり、ほのぼのと満たされた思いと、深い感謝の中にいつもの道を歩いて帰りました。
「きずな」を大切にしながら野宿生活者の自立や自己実現をサポート
(「月刊福祉」11月号より転載)
NPO「湘南ライフサポート・きずな」の活動が全国社会福祉協議会(各自治体にある社会福祉協議会の全国組織)が発行する「月刊福祉」11月号の中で、第1特集である「ホームレス対策の今」の実践レポートとして取り上げられました。同誌より転載いたします。
NPO法人「湘南ライフサポート・きずな」では、神奈川県湘南地区を中心に生活困窮者や路上で生活している人たちへの相談活動や自立支援活動、生活施設「ポルト湘南・茅ヶ崎」(定員40名)におけるサポート活動など、多様な支援活動を展開している。
「湘南ライフサポート・きずな」は、野宿生活者の支援当事者団体「藤沢火曜パトロールの会」を中心に「藤沢カトリック教会」との連携によって設立され2002年9月にNPO法人の認証を受けている。
「藤沢火曜パトロールの会」は、95年に地域の大学生や市民(2人)によって開始され、野宿生活者への訪問活動や相談活動を実施してきた。活動を進めていくなかで、高齢者や体力的に路上での生活が困難と思われる人に出会うこともあった。そのような場合には、藤沢市福祉事務所に相談し、さまざまな支援活動を進めてきた。
藤沢市との協力体制については、担当者に実際に路上に出てきてもらう事を呼びかけ、野宿生活者に触れ合う事から始め、話し合いを重ねながら着実に進めてきた。現在、藤沢市では、必要な人に対する医療扶助、生活保護に関する相談、現場への出張相談活動、就職活動用の交通費貸付などを実施している。
99年からは「藤沢カトリック教会」の有志と協力して活動を推進。かねてから野宿生活者から「仲間同士集まって情報・意見交換をしたい」という要望が寄せられており、教会を会場に「野宿の仲間の座談会」を毎月開催することとなった。座談会には、当事者・ボランティア・地域住民が参加しており、話し合いのなかで野宿の仲間同士の情報を交換したり、藤沢市への要望を決めたり、花見などのイベントの打ち合わせをするなど、野宿当時者のニーズに応えられるよう活動が進められている。また、この話し合いの中から、生活施設「ポルト湘南・茅ヶ崎」の運営も決められた。
同会では、生活困窮のために住居を失ってしまった人、ひとりで生活することが困難な人の生活施設として「ポルト湘南・茅ヶ崎」を2002年8月に開設。協力団体の社会福祉法人から企業の独身寮として使われていた建物を紹介され、家主の理解も得られ、比較的安価で借り受けることができた。
居室は全20室(6畳間)。その他に、談話室・集会場・食堂・厨房・浴室などの共有スペースがある。これまで1年間の間に延べ60名程の入居者が利用しており、入居者・スタッフ(施設長1名)・ボランティアが協力しながら、自立や自己実現に向けた取り組みを実施している。
先に紹介したように、藤沢火曜パトロールの会では、野宿生活者への訪問時、座談会、「ポルト湘南・茅ヶ崎」など、すべての活動において相談活動を実施している。
相談内容として多いのは、住民票の復旧、生活保護申請への同行、障害者手帳認定申請などであるが、最近の傾向としては債務整理が増えているという。こうした問題については、必要に応じて同会のボランティアがサポートしながら自己破産の申請を進めている(弁護士を介さず、地方裁判所に申請書類を提出。予納金は同会が貸出している)。
また、過酷な野宿生活で健康を損なったり、不安から体調を崩したりする人も多く、医療相談に対するニーズも高まってきている。ポルト入居者のなかには要介護や要支援の高齢者もいる。そこで、ボランティアの看護師がポルトを定期的に訪問し、健康相談を実施している。
現在、「ポルト湘南・茅ヶ崎」には37名の入居者が生活しており、仲間やボランティアとの交流のなかで「きずな」や「自信」を取り戻し、安定した生活リズムを身につけながら、個々の目標に向かって歩み始めている。
働くことができる人は、職業安定所に通い、自分に合った仕事を探している。ボランティアからパソコンの操作法を学んだり、自動車運転免許を再取得した人もいる。これまで、3名の入居者が再就職による自立を果たし、退所していった。年金の受給者も含め、10名程が経済的な自立を果たし、生活保護なしでの生活が送れるようになっている。また、協力団体の福祉施設の協力により、常時2名が配食サービスの職につくことができ、8名程が施設から通勤しながら自立を目指している。
さらに同会では、野宿生活者がアパートを借りる上でのネックになる賃貸契約の連帯保証人を受け持つ「保証人バンク」の事業も行っている。
このように、多くの人たちが自立に向かって意欲的に取り組んでいるが、現在の雇用状況は中高年にとって厳しいものとなっている。何度も不採用となり、落ち込んでしまう人もいる。そのような状況のなか、スタッフやボランティアは「以前と同じ雇用条件では難しいかもしれない。焦らず、やれることから始めよう」と励まし続けている。こうした温かなサポートに支えられて、新たな目標を見つけることができた人もいる。
しかし、野宿生活者のなかには・組み方向・55・歳を超えている人も多い。「稼働年齢の人すべてがフルタイムでの就労をめざすというのは難しい面もある」と同会理事長を務める川辺克郎さんは指摘する。
「私たちは、半福祉・半就労による自立を福祉事務所が認めてくれるよう願っています。その準備としての取り組みも進めており、地域の草刈りや、支援グループの田植えをお手伝いしています。入居者からは『汗を流して気持ちが良かった』『社会の役に立てて良かった』と好評でした。先方からもたいへん喜ばれました。
今後は、広く社会参加や自己実現ということを考えながら、多様なプログラムを進めていきたいと考えています」と川辺さんは語る。野宿の仲間の座談会の中では、日曜大工や清掃などを請け負う「便利屋」をやってみたいという案も出されている。今後は、地域の関係団体と連携しながら、コミュニティビジネスを創造する取り組みも求められている。
安定した活動を継続して進めていくためには、公的な資金援助も必要だ。現在ポルトの運営に対する公的補助はなく、就職活動の交通費や自己破産の予納金、生活保護受給までの間の生活費など生活支援の部分は同会の持ち出しや立て替えとなっている。また、すべての活動をボランティアだけで支えて行くには限界もあり、専任スタッフの配置も課題となっている。今後はアパートなどに入居した人のアフターケアを進めていく必要もある。
「多様なニーズに応えていくためには受け皿の具体的なイメージを民間団体が示して、行政が委託するなど、公設民営の形で協働していくことが重要」と同会副理事長の高沢幸男さんは語る。
「生活施設に入居できる、生活保護を受給できることを野宿からの脱却や自立といわれることがありますが、これは屋根と食事を得たというだけで、最低限の生活を保障するノーマライゼーションの第一歩です。野宿生活をしている人たちが自己実現を果たし、自分らしく地域社会のなかで暮らしていくことが重要なのです」と高沢さんは強調する。
活動を進めていくなかで、住民の理解も深まっていき、理解者や協力者も増えている。神奈川県内のボランティアグループの連携も進んでおり、現在、高沢氏がコーディネーターを務める「神奈川県全県夜回り・パトロール交流会」には10都市・13団体が参加している。今後は地域住民や行政と連携しながら、誰もが安心して暮らせるまちづくりを進めていくことが求められている。
仏教とキリスト教 (4)…求道グドウの厳しさ
藤沢2区 兼子
或る日、井上禅定師が言われた。「大拙は惜しいことをした。かきをくって亡くなったのだ」。それを聞いた私は早とちりして「柿はお腹が冷えますから」と石田三成の故事を想い浮かべて答えた。すると老師は「違う、違う。柿ではない牡蠣だ。大拙は牡蠣が好物だったのだ」と仰った。大拙ならずとも日本人で牡蠣を好む人は大勢いる。古代ローマ人も宴会で生牡蠣を盛んに食したようだ。私は日本各地の生牡蠣の美味しさも怖さも十分知っている。三十七年前にナポリ湾の生牡蠣を初めて食べた。日焼けした漁師のおじさんが殻を外し、レモンを絞って差し出したのをツルリと呑み込んだ味を未だに記憶している。
さすがに牡蠣を食べて亡くなったと迄は書いてないが、大拙の死と葬儀の件は古田紹欽先生の年譜(『大拙つれづれ草』読売新聞社)で知ることが出来る。即ち、昭和四十一年七月十日早暁、九十六歳で腹痛発病、同十一日午前五時五分、築地聖路加病院にて腸閉塞のため死去。十四日東慶寺にて葬儀。八月二十九日に四十九日忌を営み東慶寺墓地に я窒ウる。故郷の金沢と高野山にも分骨されたが、東慶寺にある大拙の墓地と縁の松ケ岡文庫のことは当節、余り知られない。大拙と言っても段々、知る人も少なくなったのでここで
少し説明する。大拙は明治三年、金沢市に生まれ石川専門学校初等中学校(後の第四高等学校)に学び西田幾太郎とも同窓となる。西田とは後に共に東大哲学科の選科生として、生涯、心友となる間柄である。大拙は円覚寺管長釈宗演に師事し禅に励み、その釈宗演について渡米し講演の通訳をつとめ仏教文献を英文で著し、むしろ海外で知られるようになる。上田閑照先生によれば、大拙の英文による仏教についての著作や翻訳は、単に英語による禅仏教の紹介という類のものではなく、むしろ英語で禅を行うものであり、それはちょうど道元が『正法眼蔵』を著すことによって、日本人で初めて日本語で禅を行い得たことに匹敵するのであると。明治四十三年、学習院の教授となり東大の教壇にも立つ。大正十年、西田の勧めで学習院から大谷
大の教授に転ず。要するに大拙は戦前、欧米各地で日本仏教や東洋の霊性について講演を重ね、東洋の霊性に西洋人の眼を初めて開かせた人だ。
その大拙のなんという本だったか今、思いだせないのだが、或いは大拙でなくて懐奘の『正法眼蔵随問記』( 第五の十二は似ている) のなかの道元の話だったかも知れない。とにかく昔、学生時代にサルトルの『実存主義とは何か』を読んだときに、ああサルトルも禅に触れたことがあるのだなと思ったのだ。因みにS・ヴェイーユは大拙を読んでいたと大拙
自身が述べている。サルトルの話はこういう内容である。母ひとり子ひとりの親子があった。その子供(息子)は抗独のパルチザンになりたいのだが、彼がパルチザンになろうとして家を出ると、老母の面倒をみる者がいなくなる。さりとて彼が母の面倒をみるためにそのまま家に留まるならば、抗独運動に身を挺することは出来ない。いずれにしてもこちらをたてれば、あちらがたたず、というジレンマに陥るというものである。
他方、禅の方の話というのは、老父の面倒をみている一人息子が出家しようと一念発起するが、彼が出家して求道の道を歩めば老父を見捨てざるを得ない。しかし逆に老父に最後まで孝養を尽くせば今度は自分が年老いてしまって修行を積むことが出来ない。さていったい自分はどうすべきかという難問である。
日本人で臨済禅を極めた、かの夢窓国師は『夢中問答』の中で「小慈は大慈の妨げとなる」と小慈を戒めているが、禅のほうの話には次のような回答が示されていた。即ち、どちらも大切な選択肢なので、いちがいにこうしろああせよとは言えないが、ただひたすら自分の進むべき道を祈り求めよ。そうすれば必ず道はひらける。ひたすら祈り求めることによってのみ、希望は叶えられるというものだったように記憶している。
キリスト教、仏教を問わず人生の一大事に際しては、とるべき道を神仏に真剣に祈り求めること。そうすれば、神仏は必ずこれに答えて下さる。人生の一大事においては法律や世間道徳や人情よりもさらに優先させるものすらあり得る。大事なことは普遍的な法則で一律に個別的ケースを割り切らないことだ。大事な問いはひとつひとつ答えが違い、その意味が違い、ふたつ同じものはない。そこで問われるのは、その人の全人格的な取り組みの姿勢だ。ジレンマというかアポリアというか、どちらを選択しても大変な困難に遭遇する上のような問いに対しては、分別智でその問いの解答をみつけようとしても無駄だ。ただひたすら祈り求めること、祈り求めるプロセスそのものの中にしか正答はない。
生意気にその際に参考になることをここに記せば、それは自己を捨て去る決意である。老父の孝養と出家の選択では老父を見捨てられぬという自分の気持ちのなかに、よくみると世間体とか出家することに対する不安のようなものが見え隠れする。じつはそれがその問いを解答不能な堅固なものにみせている。それに気がついたらさっさと老父も家族も捨て去ることだ。釈尊は二三〇〇年前にそれをされた。じつはイエスも同じことを仰っている。「我に従え」とイエスが言われると、その人は「主よ、まず父を葬りに行かせて下さいと言った。イエスは「死者をして死者を葬らせよ。あなたは行って神の国を言い広めよ」また別の人も言った。「主よあなたに従います。しかし先ず家族に暇乞いさせて下さい」するとイエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は神の国に相応しくない」と言われた。悩んで悩み抜いた最後には自己を放擲する。それが禅家の言う大死一番だ。