八 角 形 に ゅ ー す
2004年2月8日
聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会
目次
ゆるしの秘跡と私・・・(4)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ハンラッティ
藤沢ブロック黙想会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢3区 酒井
片瀬教会マリオ神父様の黙想会に参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢1区 古沢
壮年部新年会に参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂1区 相原
壮年部新年会締めの挨拶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・レオ爺
インターナショナル ニューイヤーパーティー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・国際部 豊田
私とスペイン語・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・湘南台 タマキ・サナエ
ふくらしまんじゅう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼3区 平野
仏教とキリスト教 (6)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢2区 兼子
葬儀を考える会 Q&A
ゆるしの秘跡と私・・・(4)
マラキ・ハンラッティ神父
以前お話したように、私は今、この秘跡をイエスが私を招いてくださっている場として理解しています。すなわち、悲しい状況にいる自分がよりイエスに近づき、イエスご自身の心をより多く受け入れられるようによばれ、そこで私が「はい」と答えている場面を考えています。そして、聖書に出てくるさまざまな具体的な話は、私をより現実的な考えに導いてくれます。
ペトロが大祭司の家の中庭で、イエスに会った時の場面を見てみましょう。人々はイエスを逮捕し、大祭司や律法学者たちに侮辱を受け、裁かれるように荒々しく中庭へ連れて行きました。この少し前に何人かの人たちが、ペトロはイエスの弟子であり、仲間であると言いながら咎めました。その時ペトロは、「私はイエスと何の関係もない。知りさえもしない!」と、はっきり打ち消しました。
さて、突然傷つけられたイエスと顔を合わせたペトロは、自分が否定したことの恐ろしさに嫌悪感を覚えながら認め、これまでイエスを通してどれほど多くの良いものをいただいたか、また、すべての人々に対するイエスの優しさ、そしてすべての人が互いに親しく結ばれ、父なる神のもとに導かれることを強く願っていられるイエスの心を思い出します。今、彼はイエスの痛ましいありさまを見ています。イエスは抗議されても御父に対する絶大な信頼を失うことなく、忠実にご自分の使命を果たします。ペトロは、自分がイエスの親しい仲間になるよう選ばれたこと、また、自分が最後までイエスと共に歩みたいと公言したことも強く思い出します。
このような記憶が、彼の心に次々と呼び戻され、と同時に、この直前に大勢の人々の前で、「私はこの人と何の関係もない。知りさえもしない!」と、平然と言い張ったのを思い起こします。
ペトロはイエスと目があった時、イエスは自分のしたことをすべてご存知だということにも気づきます。イエスの表情には、ペトロが欺いたことに対する悲しみと、ペトロをもう一度引き上げたいという心の内が強く表れています。イエスの慈悲深いまなざしが、ペトロの心に深く映り、彼は深い悲しみの内にたじろぎ立ち去ります。
私は、ペトロはきっとどのようにして恐怖に陥るか解っていたのだと思います。彼はイエスのように捕らわれることから逃れたかったのでしょう。自分自身の肉体的な安全だけを考えていました。「はい」と言って、何があってもイエスに従っていくと言う機会を失ってしまいました。勿論、この予想外の恐怖に取り囲まれた状況の中で、正しい選択をする自由や力の一部が取り去られてしまったのでしょう。しかし、イエスが彼に、誘惑に陥らないよう、力と正しい判断をいただくよう祈りなさいと言われていたことも解っています。今ペトロはそのことを守れなかったことを認めています。
しかし、イエスが復活された後、人々の前に現れ、ペトロに他の弟子たちの世話をするよう頼まれた時、彼はその仕事を受けるために、喜んで必要な力と霊もいただきます。彼はイエスの深い慈愛とゆるしを知り、このことすべてをすることが出来ます。 イエスは、「あなたは誤った選択をしたが、私が友情を切ることはない。」と言われます。
私がゆるしの秘跡を受ける時は、ペトロと同じような体験をします。先ず、私がこれまでにイエス様からいろいろな形でいただいた非常に沢山の恵みを思い出しながら時間を過ごします。次に、自分にとって直接好都合なことと、実行するには難しくても、もっと高い価値のあることから選択する機会または招きがあったことを認めます。そして、自分に好都合なことを選ぶ時「いいえ」と言い、もっと素晴らしいことをする賜物を拒否しました。イエスのように行動することを拒んだのでした。私は、イエスとより親しくなれる機会を失ってしまいました。
今、私はこの秘跡をいただくためにイエスの前に来て、正直にこのことを認め、悲しみ、恐れ自分の限界、足りなさに恥ずかしさを感じています。しかし、イエスは自ら私の方に近づいてくださり、私の肩に手を置かれ、「もっと近づいて親しい友になりましょう。私の霊を受けて、他の人たちの所に行きそれを分かち合いなさい」と、言われる場面を想像します。
これが、私が今この秘跡を受ける時に、心に描いているやり方です。このように聖書の一節は、私がこの秘跡をより深く理解し、うまく利用するのに役立っています。
教会委員会報告(1月17日)
定例委員会に先駆けて午後二時から約一時間、新委員・新活動部長の顔合わせ及び昨年改定された教会委員会規約の確認が行われた。委員会が決められたルールに基づいて活動できるよう配慮したもの。なお、ブロック間の連絡、葬儀時の連絡強化についても話合われた。(葬儀時は当番ブロック代表及び亡くなられた方の所属ブロック代表両者に連絡する。)
財務部から平成15年度年間の会計報告がなされた。収入は6425万円で前年実績より177万円増加、支出は5639万円で昨年より269万円減少の結果、787万円の次期繰越ができた。当初は収入の減少による赤字が懸念されていたが、ミサ献金の減少を祭儀献金の増加でカバーし、会計項目の変更もあるが、その他収入の施設設備費使用料が増加、人件費・その他支出の減少で大きく黒字となった。
クリスマスは24日が17時・20時・24時、25日が7時・9時半の5回ごミサが行われたが、平日にもかかわらず、いずれも昨年よりは参加者が多かった。ごミサの内容についていくつかの問い合わせがあるが、それぞれ個別に対応したい。
新年は零時・11時であったが、参加者 は例年どおりであった。一部に奉仕者の確認が必要との声もある。
昨年同様資料を総会二週間前に作成し、事前に読んでいただくようにしたい。2月15日に行われる信徒総会は、第一部は教会財務を中心とした報告、第二部で「ブロックと活動部の連携(仮称)」をテーマとして話し合いをしたい。第二部の方向については前回委員会で討議され、総会資料のため各ブロック・活動部の原稿を集約中だが、一目で分かるテーマのタイトルについての意見交換を行った。いくつか提案されたが、最終的には事務局で集約し、検討することとした。
前回提案されたテーマが一部追加され、再確認された。
総務部から、各ブロックの対応を同じようにしてほしいとの提案がだされ、どのように対応すべきか討議し、次の方向で改善するよう話し合われた。
快適なごミサに預かるため、聖堂の電気・暖房・脇部屋の開閉・新しい来訪者への対応・入場者の適性に合わせたきめ細かな案内等のマニュアルを作り、ブロック代表者中心に学習する。
どのように行うかブロック代表で検討する。
聖堂入口に表示してある「当番地区」「ミサ当番地区」の取替えも必要。表示が分かりにくいのでよい案ができ次第総務部が作り変える。
2月8日(日)新年会・歓迎会を予定。センターホールで11時〜14時頃まで。
1月10日(土)片瀬教会で黙想会を実施。テーマは「回心」・「主は私の牧者」、指導はマリオ神父で約30人参加し、充実した黙想会であった。(詳しくは後記参照)
「お互いを知る」ということで大庭・善行 ・六会の地図を購入し、連絡員及び任意参加者の共同作業で信徒住宅のプロットを始めた。
1月4日(日)当番ミサ18日(日)のための準備会を行った。参加者約30名。
二月ミサ当番のため1月25日(日)ミサ準備会を予定している。
防災時に対応できるような密度の濃い連絡 網を考えていきたい。
1月10日(土)17時から新年会を開催、 約50名参加。(詳しくは後記参照)
1月18日(日)防災訓練。避難訓練を実施
前回報告のとおり、1月18日(日)9時半ミサ後から駐車場前にテーブルを出し、ボランティアグループがケーキとかマドレーヌを販売する。
クリスマスのごミサでキリスト教入門講座 の案内を配布した。また、始めて来た人専用のデスクを用意したほうがよかったか、椅子が不足していたかなど反省点もある。
新年のミサは年の初めとして改まり、エネ ルギーのあるミサでよかった。
ブロックと宣教部の関係、家庭・地域・学校・職場でどのようにキリスト者として生きているかの分かちあいを行った。
キリスト教入門講座が1月・3月・4月に始まる。
クリスマスに行われる予定であった二人の方の洗礼が日曜学校のミサで行われる。教育部との連携も取れるようになった。
キリスト教連絡会合同祈祷会が1月24日(土)日本基督教団片瀬教会で行われる。
12月20日(土)湘南台センターが南米の方の市民の家でクリスマス会を行った。「本当のクリスマスの意味」について説明をし好評であった。
25日の子供のクリスマス会は地区の幼稚園に呼びかけた結果44名が参加した。
湘南短期キリスト教セミナーは今年は大船教会が担当となる。
2月11日(水)教区典礼研修会が予定され、当教会はミサの奉仕とお茶の用意を受け持つ。午後のプログラムで「ミサのない主日の集会祭儀」の実習があるので参加していただきたい。
青年会
1月11日(日)9時半ミサ中に新成人の祝福式が行われた。お祝いパーティをセンターホールで行い、7人の新成人が参加、委員長他出席していただいた方に感謝したい。教会全体で新成人を迎えられるという ことをどう示していくかが今後の課題でもある。
1月25日(日)「学連の集い」が行われる。
ボーイスカウト
1月18日(日)餅つきを行う。
日曜学校…4月の初聖体に向けての準備
2月4日(水)保護者対象に「ゆるしの秘跡について」の話し
2月15日(日)クリスマスに受洗できなかった2名に加え1名がセンタホールミサで洗礼を受ける。
2月22日(日)4月に初聖体を受ける22名のゆるしの秘跡を予定。
1月4日(日)初めての新年会を行った。色々問題はあったが次につなげていきたい。
2月29日(日)「一緒に作って食べよう」で豚汁とお赤飯をつくるので参加して 欲しい。
各ブロック・各活動部との連携強化を図っていく。
教区の活動の受け皿として積極的に参画していきたいので催事について事前に連絡が欲しい。
12月26日に発生したイラン東南部地震災害援助のため、カリタスジャパンでは現地活動開始する。そのため1月18日(日)から2月1日(日)の3日曜日に募金活動を行いたい。お聖堂入口献金箱を専用とし、お知らせでもアピールしたい。献金はカリタスジャパンに送金する。
マーフィ神父が2月9日から10日間、ニュージランドへの巡礼のため留守をされる。その間、神言会の坂本神父様が滞在される。
1月18日(日)第五地区宣教委員会が当教会で開かれる。今年の当番は中和田・戸塚・原宿となる。
以上
藤沢ブロック黙想会
藤沢3区 酒井
黙想会のお願いに、片瀬教会にマリオ神父様をお訪ねすると、神父様は「頼む人が見つからなかったね」と冗談を言われながらも快く引き受けてくださいました。
1月10日は快晴、寒かったけれど会場を暖かくして迎えてくださいました。出席者は38名、ブロック以外の方や片瀬の方もいらっしゃり、安田ブロック長が「他地区の方々も出席され交流の場ができたことをうれしく思います」との挨拶の言葉に神父様は「この黙想会に出たいという片瀬の教会の人達をほとんど断ってしまった」と謝られていました。午前に「回心」について、午後は「主は私の牧者」と題して講話、するどい指摘もユーモアを交え楽しく話され、はじめて参加された方も黙想会は堅苦しいものと敬遠していたけれど参加してとてもよかったと感想をのべていました。黙想会のためお手伝いくださったたくさんの方々のおかげで、恵み豊かなひとときを過ごせましたことを心から神様に感謝いたします。
片瀬教会マリオ神父様の黙想会に参加して
藤沢1区 古沢
"主がご一緒だから寂しくないよ!"
この神父様の言葉と講話「回心」「主は私の牧者」を戴き、思いを馳せて‥‥。
「黙想会の目的は、深くキリストに出会いたいと思う気持ちがありますね」と神父様は話されます。
私は思います。イエス様に出会いたいと思う私たちの気持ちをイエス様は喜んで受け取ってくださるでしょう。この恵みの中で主に養われて信仰が増していくことを願いながら私たちは時間を過ごします。このような交流・分かち合いを、主よありがとうございます。
「信仰とは人に迷惑を掛けないということより、人にどれだけ愛を持つことが出来るかということですよ」と神父様は話されます。
私は思います。自分のことのように人を愛す、本物の愛、心からの愛をもって人に接しているでしょうか。主よ、あなたが与えてくださる愛を私たちは持つことが出来ますね、自分では出来なくても愛を育ててくださる主が居てくださるのですから、私は共に歩みたいと願い求めましょう。いつの日か私たちは変えられていることに気付くことでしょう。主よ、あなたの愛が私たちのうちで自由に働いてくださることで、本ものの愛をもって人を愛していくことが出来るのですね。他の全てのものにも。
「試練は受けたくないと思うでしょうが、試練は神様に近づく恵みです『主よ、私の思いではなく、主のみ旨のままに』と、そのことを主に捧げながら救いの恵みに与るという思いがあるかどうか、私たち次第ですよ」と神父様は話されます。
私は思います。自分ではどうしたらよいかと困惑した時、どうしたらそこから抜け出ることが出来るのかと自分だけで悩まないで、イエス様が共に居てくださることに気付きますように。私たちが成長し、愛を増していく恵みに変えてくださる神様が居てくださるのです。苦しみの中でもイエス様を信頼して祈り、主に心から愛されていることを感じることが出来ますように。
「キリスト教で許される欲望はただ一つ、キリストと共に生きたいということです。祈りの他に黙想する時間を毎日持ちなさい、イエス様と対話が身に付くように」と神父様は話されます。
私は思います。私たちは生きている限り、自分にとって大事なことや大事な物が(たくさん)あります。毎日の生活の中で、イエス様を思う時間を持つ恵みが与えられ、主との語らいが出来たら、平和な時間が私に訪れ、嬉しくて心は満たされていくでしょう。このような時、私にとって大事なことはこの平和だと気付かされます。あぁ主よ、あなたの他に何が私に必要なのでしょうかと言えるような私になれるのでしょうか? 私の中であなたの平和が続くなら、私の欲望は少なくなり、イエス様に近づくことが出来るでしょう。
「歯向かう者の前で神様は会食を整えてくださる、神の家に生きて神様のみもとに行きましょう」と神父様は話されます。
私は思います。主よ、あなたが居てくださることが最大の恵み(宝)です。それは何にも変えられない私たちの喜びです。この恵みをいつも心にとめて生きていくことの出来る私であることを望みながら、この巡礼を終えることができますように。感謝のうちに。
壮年部 新年会に参加して
辻堂1区 相原
はじめまして。私、2003年12月24日に洗礼を受けました。
以前の私は、宗教には、全然興味がなく、妻の何気ない言葉に乗り、1年半前に窪田教室に参加しました。自分自身どうなるかと思いながら、講座が心理学的要素から入ったのが幸いしたのか、段々とのめり込んで、気が付いたら全講座が終了していました。その後洗礼を決意したのもその時の講座に参加された人たちとの出会いが大きかったと思います。共同体の一員になって、さっそく浮田様の誘いで、壮年部の新年会に参加させていただきました。信者になった以上、ミサに出てただ帰るだけではと思い、私にも出来ることがあれば、いろいろ参加して見たいと思っておりました。
新年会は、幹部の方の挨拶で始まり、テハン神父様のお祈りがあり、新たな仲間になった私たちも紹介をうけ、途中マジックの余興など、楽しいイベントがあり、終始和やかに進んでいきました。
皆様に、この会の趣旨を聞いたり、教会の様々な活動内容を説明していただき、共同体の一員として、温かく受け入れてくださったことに感謝しています。今流にいえば私の教会デビューは、順調に終わることできました。
藤沢に移り住んで、30数年職場と家庭の往復で、地域の方々とのふれあいがあまりなく過ごしていた私にとって、教会で出会った皆様とのふれあいは、新鮮なものでした。そして、講座の皆様の信仰の深さに触れ、私も徐々に自分を磨きながら、教会生活を楽しんで行こうと思っております。よろしくお願いいたします。
壮年部新年会締めの挨拶
レオ爺
ご指名を受けてここから会場を見渡しますと、壮年部の皆さんも、それぞれに年をとりました。私も大正13年生まれで、賞味期限はとっくに切れてます。これがワインでしたら1924年の代物として大事に扱われることでしょう。と言っても、老人を大切にとは申しません。老人は自分を大切に生きる方法を心得ており、一日一日を有意義に過ごしていると思うからです。マーフィ神父様も、日本での永い宣教師活動の使命を終えて、「ご復活祭すぎに故国アイルランドに帰ります」と今、お話がありました。淋しいかぎりですが、「本当にお世話になりました。ありがとうございました」。これまで大勢の宣教師たちによって、日本にもたらされた神の教えを私どもが充分に受けとめ、自分のものにしてこれからは、恩返しの意味でも、日本が発進基地となって、海外に向けて新しく宣教活動を展開させなければならないでしょう。
1月4日、国際部主催の国際コミュニティ新年会がありました。その席でのテハン神父様のお話。「私どもの共同体は、この教会に集まるすべての人のもので、全員が平等に共有するものです。国籍や人種や言葉や人数の違いとは関係ありません。一人一人が共同体の一員です。一人一人がここに自分の居場所があるのですよ」。
藤沢教会3500人の共同体作りは、主任司祭の最大の願いでしょう。その願いの実現のために協力するのは信者の義務でしょうが国際コミュニティに対して、壮年部は今までどれ程力になり得たでしょうか。ここで想い新たに、彼らとの共同体作りに微力を致すことによって、私どもは、海外にまで出掛けなくても、ここ藤沢で海外宣教活動が出来ることを改めて認識したいものです。
私たちの聖堂の回廊下には、10名前後のホームレスが宿泊しています。その内の何名かは自他共に許すレオ(総務部付き汗流すグループ)の仲間です。毎朝、庭を掃き、植込み・盆栽に水をやり、男子便所を清掃し、ごみの選別・搬出までする人たちです。レオへの参加理由を訊ねたところ「レオは、忙しい時は助っ人を頼むと言ってくる。命令だけをするのでなく一緒に汗を流す。午後にも仕事をする時は弁当が出る。皆が車座になっておにぎりを食べる。色々な話も聞かせてくれる。だから仲間です。」もう一人には指先がない。会社勤めの頃、事故にあった。「なんで私だけが」と、昼に夜に嘆き悲しみ、失意の末にホームレスになり、辿りついた先が藤沢教会であった。ここで優しく声を掛けられ、ラーメンを貰い、毛布に包まって休むうちに、一宿一飯の恩返しをとはじめたのが、毎朝の庭掃除。竹ぼうきを握っている指を見てはっと気がついた。「無くした指は小さかった。残った指は大きくて仕事も出来る。無くした指を悲しむより、残してもらった指のために感謝しなければ・・。神様、恨んで悪かった」と翌日から毎朝9時のミサに彼の姿が見られた。やがてキリスト教講座に参加し、ついに昨年洗礼をうけた。「八角形にゅーす」で彼の告白文を読まれた方も多いでしょう。彼らはよく口にする。「私どもは、教会が私どもに何をしてくれるかでなく、何をしたら教会に役立てるかを何時も考えます」と。
国際コミュニティとの共同体作りは一朝一夕には達成できないでしょう。しかし、大勢の壮年部が積極的に彼らの中に入りこみ、祈り合い、親身になって即ち相手の立場でもの考え、共に汗を流す努力をすれば、大きな成果を挙げることが出来るのではないでしょうか。
2004年1月11日、カレンダーより一日早い成人のお祝い。その準備はだいぶ前から始まっていました、母が着付け教室に通っているので、教室の先生に振り袖の着付けを教えていただくために二度モデルとして教室に参加。当日は9時に集合しなければならないため、最初は美容院に頼もうと考えていた髪のセットも自宅ですることにしました。
そして1月11日当日。朝6時に起きる予定が寝坊して6時半に! 急いで髪をセットし、化粧をすませ、母に着付けをしてもらいました。電車に乗り教会に到着したのは集合時間よりも10分遅い9時10分、ミサが始まるまでミサ中に行うことの練習をしましたが気付いてみると私だけが着物だったので「これは目立つなあー」と嬉しいような困った気分になりました。
ミサが始まり、第一朗読を読む予定になっていた私はお聖堂の真っ正面の位置に着席。周囲の方々はどのように思っていたかわかりませんが、私は自分の座っている位置がもしかしてこの上なく目立つ場所なのでと思い「ムムッ! おかしなことはできないぞ!」と変に緊張していました。そして第一朗読。イザヤの預言でしたが、これがとても長い文章だったのです。いつまでも続く文字の列に少しクラッとしてしまいました。が、間違えるわけにはいきません! 多少緊張しながらもしっかり読むことができ、この日初めてホッとすることができました。
気持ちに余裕が生まれたからか、その後は神父様の声や祈りの言葉がよく聞こえるようになり、改めて「自分は成人したのだな」と思えるようになりました。そして自分がここまで成長する間に支えてくださった多くの方々や、大きな病気や怪我もなく無事に生活してこられたことに対しての神様への感謝の気持ちが湧きおこり、充たされた気持ちで祈ることができました。ミサが終わった後も、たくさんの方に「おめでとう」と声をかけていただき、とても嬉しかったです。
成人したとたんに目の前の世界がガラッと変わったわけではありません。ですが大人としての自覚を身につけ、着実に社会に役立つ人間になれるように努力していきたいと思いました。
新成人となりまず一番最初に、こんなに丈夫に産んで育ててくれた両親に感謝したいと思います。そして次に色々と支援をしてくださった人たちにも感謝をしたいです。
私はこれから新成人として希望や、夢、不安などを抱えて社会に出ることになりますが、何事にも負けず、将来のために「今」という「今日」を犠牲にするのではなく、「今」という「一日」に胸を張って誇れるような「足跡」をつけて歩んでいきたいです。そしてその途中で挫折や失敗があっても私は決して後悔することはありません。なぜならその途中まででも歩んできた「足跡」が自分にとっての誇りだからです。
「今」という「一日」に誇りがもてますよう神のご加護がありますよう日々祈りたいと思います。
インターナショナル ニューイヤーパーティー
国際部 豊田
「世界は一つ・我等皆ファミリー」の主旨のもとで教会に属する外国人と日本人間の親交を深めるためにテハン神父様も参加され、1月4日午後2時から約2時間の茶話会パーティーを開催、日本、米国、英国、インド、ベトナム、フィリピン、ブラジル、ペルー、アルゼンチン、スペイン人など約70名の参加があり盛大に新年を祝った。子供達もプレゼントを贈られて喜んでいた。今後も折に触れて国際的な相互の親睦をはかる催しを企画し、教会を出会いの舞台として、日本人と外国人及び外国人同士の一層の融和を推進していきたいと思っています。次回は2月29日(日曜日)に外国人に日本の豚汁とお赤飯の作り方を講習して試食会を予定しています。
私とスペイン語
湘南台 タマキ・サナエ
昨年12月6日、インターナショナルプレス協会主催の全国スペイン語スピーチコンテスト(場所・品川区立綜合区民会館)でタマキ・サナエさん(17歳)が29名の参加者の中から優勝しました。タマキさんは湘南台センターの日嘉ノルマさんが教えている南米の子供のためのスペイン語の生徒さんの一人です。 スピーチ内容を日本語に訳していただきました
私は4歳の時にアルゼンチンから日本へ来ました。日本語なんて全く話すことが出来ませんでした。そのせいで、幼稚園や小学校でイジメられたこともありました。私は自分がハーフであることにコンプレックスを持ち始めました。絶対に人前でスペイン語なんか話したくないと思うようになりました。日本人でない父に対してとても冷たい態度を取りました。話したくもなかったし、一緒に出掛けるのも嫌でした。習っていたスペイン語も辞めてしまいました。親に「将来は絶対にアルゼンチンで住もう」と言われる度に「嫌だ!日本に一生住む」とケンカばかりしていました。アルゼンチンのおじさんたちから連絡来ても話したくなかったくらい私は中学校までアルゼンチンのことが嫌いでした。高校に入ってからバイトを始めました。そこでは同年代だけでなく年上の人もいっぱいいました。それなりに年を過ごしてきているので考えることがとても大人でした。私がアルゼンチンと日本のハーフだと知ると「かっこいいじゃん!」「いいな、うらやましいよ」なんて言われました。まさかそんなこと言われと思わなかったので、とてもびっくりしました。みんなは「二つの言葉がしゃべれるし、将来絶対役に立つよ。スペイン語もちゃんと勉強しな」など嬉しくなるような言葉をいっぱいくれました。そのくらいからでしょうか、自分がハーフであることが嫌じゃなくなったのは。ハーフだからイジメられるのかと思ったらそんなふうに受け入れてもらえて私は凄く嬉しかったです。
でもスペイン語やアルゼンチンについてちゃんと考え始めたのは沖縄のおばさんに手紙を出したのがきっかけです。手紙を出してから二、三日後におばさんから電話が来ました。「手紙送ってくれてありがとうね」とおばさんに泣きながら言われました。一枚の手紙でここまで喜んでもらえるなんて考えてもみなかったので驚きました。しかし、一枚の手紙でここまで喜んでもらえて嬉しくなりました。その時、今まで嫌だって言って電話にも出ることのなかったアルゼンチンの家族のことを思い出しました。どれだけむこうを傷つけてしまったのだろうと反省しました。私は十年振りにアルゼンチンの親戚に手紙やメールを送りました。今では毎週土曜日親戚のおじさんと話しています。上手にスペイン語が話せないけどみんな聞いてくれるし、私が聞き取りやすいようにゆっくり話してくれます。おじさんたちの愛を感じます。
そして、言葉も習慣も全く違う国で文句一つ言わず働いてくれた父に今ではとても感謝しています。
スペイン語は私に家族の大切さ、家族の愛の深さを教えてくれました。この言葉は家族を一つにしてくれるとても大切な言葉です。 私はいいと思います。外国人の子供たちがもっと家族の大切さ、スペイン語の大切さについて考えてくれることを。
ふくらしまんじゅう
鵠沼3区 平野
過日、お隣の茅ヶ崎教会で「長崎の人」の集まりがありました。
平戸紐差教会ご出身の橋口神父司式のミサに約30名が与りました。ミサのなかでは、黒崎教会主任の野下神父作詩作曲の「ご聖体のうた」が合唱されました。
ミサが終わり、昼食は懇親会を兼ねて、隣接の信徒会館で行われました。長崎浦上教会ご出身の髭の戸村神父様も出席されて座は一層賑やかなものになりました。初めての出会いの方も多かったようでしたが、仲良く皿うどんを分かち合い、永い間の友人のように親しく話し込む姿は、初代教会の集まりを思わせるものがありました。
皆さんが大きな歓声を上げたのは、「ふくらしまんじゅう」がテーブルに並べられた時でした。ふるさとの味と香りと想い出を目の前に見たからでしょう。膨らし饅頭は酒まんじゅうに似て、私の記憶では、小麦粉にふくらし粉をいれてこね上げ、一晩寝かせてふくらませたのち、皮にあたる部分をちぎって、小豆あんこを包みこみ、せいろで蒸し上げて作っていたようです。せいろに入れる時、かんねかずらの葉を下敷きにして並べておくと人間の掌の模様が饅頭の底に写し出されます。掌の模様は母の手のぬくもりを感じさせてくれたものです。
膨らし饅頭は、そとめ地方ばかりでなく、田平、平戸、五島にも伝えられ、クリスマスやマリア様の祝日には、多くの家庭で作られていたご馳走だったそうです。今では少なくなったでしょうが、こうした習慣がそれぞれの場所に受け継がれているのは、迫害時代にそとめ地方から、信仰を守るために津々浦々に避難したり、あるいはド・ロ神父の国内移住計画に沿って離散して行った土地柄だからでしょうか。饅頭の由来は知りませんが、長崎県に特に多い島々の巡回教会では、嵐のため海が荒れて舟を出せず、神父がミサを挙げに渡ってこれない時など、膨らし饅頭のあんこを十字架の形にして蒸しあげ、これをご聖体のツモリで戴いていたとききます。教えの面からの是非は分かりませんが、信仰の精神がなせる業として心を揺さぶられるものがあります。
マリア様の祝日以外にも、珍客や旅人は、膨らし饅頭でもてなしを受けていたようでした。私の幼い頃の村では、垣根や門扉施錠の家は少なく、夏の夜は開けっ放しの家庭が多かった。越中富山の薬売りも、見知らぬ旅人でも「私はカトリック信者です」といえば、特別な事情が無いかぎり、心よく泊めてもらえたものでした。家族と夕食を共にし、楽しく語らい、夕べの祈りとロザリオを一緒に唱え、翌朝は、膨らし饅頭かおにぎりかを、貧しい家庭でも、ふかし芋に塩辛いわしの詰合せ弁当を作って送り出してくれたものでした。 遠藤周作文学館の開設もあってでしょうかこのところ、私どもの藤沢教会から、外海、五島方面への観光巡礼者が増えているようで時々、相談されるのをとても嬉しく思います。そとめでは、土産品としてド・ロさまソーメン、かんころもちの他に膨らし饅頭も売っています。茅ヶ崎教会の集まりに出された饅頭は、藤沢駅の北口近くで売られている酒まんじゅうでした。誰も気付かなかったようですが、シスター浜崎の見立てでは、「本物はあんこが小さく、皮はもっと厚い」とのことでした。願わくは、昔、厚い信仰の心で味わった、あんこの小さい、皮の厚い膨らし饅頭のほうが、現代、薄い信仰のグルメの舌で味わう、あんこの大きい、皮の薄い酒まんじゅうよりも美味しいと言って欲しいのですが。
横浜教区聖体奉仕者勉強会で、国井神父様(御受難会)が7月27日に話されたものの抜粋です。テープを聴きたい方、テープおこしの全部を読みたい方は事務所に置いてあります。
なぜ、ミサはそんなに大事なのでしょうか。なぜ、一体私たちは日曜日に集まってミサに与るのでしょうか。なぜカトリック教会は毎日曜日にミサがあるのですか。
いろいろな答えがあると思います。なぜ行くのかと言われたら、それは「私が行きたいから行く」のです。強制されて行くわけではありません。「私が自分で選んで」「行かなければならないから進んで行く」のです。「行かないと罪になるから…」「行かないと怒られるから…」そういうことではないですね。
コリントの教会への手紙(11:23〜26)では「これを私の記念として行いなさい」と言われていますが、フランシスコ会訳にはこういう訳がありました。「これを私を思い出すために行いなさい」「記念」よりはまだ「思い出すために」のほうがいいと思います。私は「記念」という訳には非常に不満も感じております。「時の記念日」とか「結婚記念日」「天皇陛下が来られた記念に樹を植えました」「もう何年経ちました」
ミサで行う記念はそういう何か私の出来事ちょっとしたことを忘れないためのものじゃないのです。もっともっと大変なことです。私なりに一番納得できる訳は「これを私を忘れないために行いなさい。このことを行って私があなた方にとってどういう救い主だったのか、私が何を教えたのか、どのような生き方をしたのか、そのためにどんな目にあわなければならなかったのか、そのことを忘れるな。このことを行う度毎に、それをもう一度心に刻みこんで目の前にまざまざと見て、そしてあなたの道を歩みなさい。私について来なさい。」こういう呼びかけだと思います。
初代教会の共同体はイエス様のことを忘れないために、決まった日に集まって食事を共にして、そこでイエス様の記憶を語り継いでいく、そういうことをしました。その記憶がバラバラにならないためにテキストを残す、そういう努力から福音書が編集されていきました。キリスト教がユダヤ教から独立していくプロセスで、金曜日の晩(ユダヤ教の安息日)からキリスト教の主の日(週の初めの日に、イエスは復活によって主になられた。その週の初めの日のことをキリスト教では「主日」とか「主の日」と呼ぶ)にキリスト者は町でも、村でも全部が集まります。そして時間の許す限り預言者と使徒の思い出を聴きます。旧約聖書と新約聖書を聞く。それからパンと葡萄酒が準備されて司式者がその上に長い感謝の祈りを捧げる。長い祈りだったんですね。その祈りに会衆は大声で「アーメン」と応えます。それはヘブル語で「そうでありますように」と言った。そのミサの方法は今とほとんど同じです。つまり、前半に「言葉の典礼」、聖書を中心にして旧約聖書や新約聖書の朗読があり、説教があり、共同祈願がありました。今と違うのは共同祈願の後「平和の挨拶」をしました。それから「食卓の典礼」に入っていきます。パンと葡萄酒が準備され、「感謝の祈り」が行われ、みんなが割かれたパンをいただきます。
共同体がどのようにイエス様の記憶を保つか、イエス様のことを忘れないために皆でどういうふうにするか、っていう基本的なことはその頃出来上がりました。
基本的な形は出来た。ただ、大きな歴史の流れの中でとても大事なことは、誰がイエスの記憶を保つのか。個人ではなく共同体でした。共同体が集まってこのことを行って、そしてその共同体の記憶の中にまた新しい人たちを、子供たちを、その中で養い育てていって、それがまた、次の世代に伝えられる。しかし、中世にはその共同体が崩壊してしまいます。
いくつかの理由がありました。一つ二つ大きなものだけを挙げます。
一つは言葉の壁がありました。イエス様はアラム語、しかもガリラヤ弁。そのイエス様の記憶を、イエス様の福音を全世界に伝えなさい、と言われる時、アラム語で説教しても誰も聞いてくれない、わからない。使徒の時代、すでに当時の地中海もローマ帝国もヘレニズムの世界も、共通の国際語はギリシャ語でした。だから新約聖書は全部ギリシャ語で書かれており、ギリシャ語で祈りました。しかしアンティオキアとかシリア周辺はシリア語で、シリア語の典礼がある。エジプトのアレキサンドリアを中心にエジプト語で祈りました。300年代の中頃になると、昔のキケロとかセネカとかはラテン語の伝統が復活してきて、民衆の言葉がラテン語になっていきます。ギリシャ語は貴族、学者の言葉で、民衆はラテン語。それで360年〜370年の頃、ダマスという教皇の決定で、ローマでは典礼・祈りはラテン語で行う。新約聖書など全部ギリシャ語で書かれている伝統を捨てて民衆の言葉をとりました。そのために、聖書はラテン語でなければどうにもならないので、教皇は当代きっての聖書学者、聖ヒエロニモに命じて旧約・新約の聖書全部をラテン語に訳しなさいと。ヒエロニモはベツレヘムの生誕教会の地下に十年間こもって聖書をラテン語に訳しました。ところがこれが千年頃になるとお膝元のイタリアではラテン語がどんどん変わっていってイタリア語になっていきます。フランスではフランス語に、イベリア半島ではスペイン語になっていく。だから民衆はもう、ラテン語をつかいません。民衆はラテン語がわからなくなったけれども教会はラテン語を使い続けました。その結果、もう司祭が何を祈っているのか分からなくなりました。そこで、会衆と司祭の間にだんだん壁が出来てきます。それから大きなシンボルの変化です。それは食卓がだんだん祭壇になっていきました。
ミサの出発点は「最後の晩餐」でした。食事でした。家族が、弟子たち共同体仲間が集まって食卓を囲んで一緒に食事をする、それが中心でした。初期の教会は真ん中に食卓がありました。食卓は四角い1メートル四方くらいの石で、その周りをみんな立って囲んでいたようです。各国によって違うものがありますけれども、中心が食卓です。またいろいろな歴史的な理由があって、その食卓がだんだん会衆から離れていきます。特にペトロ大聖堂が改築された時に細長い建物になって、でも祭壇はペトロの遺骨の真上でなければならないと、主張する者があり、ここに祭壇を設けた。それは建物の端っこだった。そうすると後ろの方の人は見えない。だから祭壇を見えるようにするために、というので十何段かのステージの上に立てました。階段の数があるだけ会衆から離れます。ステージの上に上げられた食卓はもう食卓ではない。祭壇なんです。このシンボルの違いは言葉の説明だけではもう、ミゾを埋めることはできません。食卓が持っている意味は、それは家族が、友人が一緒に集まって、それを囲んで、座って一緒に食事をする。そしていろいろな話をする。いろいろなことを分かち合う。人間が物を食べるところなのです。ところが祭壇となるとそうはいきません。祭壇は普通のイメージでは、人が軽々しく近寄ってはいけないところです。ごく限られた特権階級の人たちだけが、そこに恐る恐る近づいて神様に捧げものをするところです。神様がそれを受け取って食べてくださるところで、人間が食べるどころじゃないんです。こうして共同体の中心にあった食卓が祭壇になっていった。これはミサは共同体のものであるという意識を根底から覆すものになりました。そして共同体から離れていき、とうとうこれ以上離れられないところ壁にくっついてしまった。壁にくっついた祭壇、そこで司祭がミサを捧げる時に、もう囲むことはできなくて会衆に背中を向けてやりました。会衆からは司祭の背中しか見えない、言葉はラテン語で分からない。「何事におわしますかは知らねども…」何となく神々しい気持ちになるけれども本当のところでは何のことか分からない。この他にもいろいろな要因があって、共同体が崩壊してしまい、その結果、ミサは共同体の中で司祭のミサになりました。司祭が一人でミサを行った。悪い習慣ができました。そしてこれが千年続いたのです。だから、そういう意識がまだまだ今の教会の中にも司祭にも残っています。
だからこれを変えようとしたヴァチカン第二公会議で、典礼憲章が出され、その前後の典礼運動、刷新の動き、これはものすごいことだと思います。ミサっていうのはカトリックのトレードマークなんですよ。そのトレードマークの基本的な考え方を変えるっていうのは本当に大変なことで、聖霊が働いてくださらなければ不可能なことだと思います。ミサの典礼に信者の人が、積極的に参加するっていう言葉を使いますが、時々ある人は間違えて、司祭がミサを捧げて、信者の人はその司祭が捧げるミサに参加する、と思っていらっしゃる方がありますが、とんでもない大誤解。参加という言葉を使うならば司祭も典礼に参加いたします。典礼を行うのは共同体です。司祭は司式者として参加します。決して司祭一人が全部やってそれに信者の人を参加させあげる。そんな司祭の私有物ではありません。ミサは共同体のものです。信者の人は会衆、朗読、先唱、オルガン、聖歌、案内、いろいろな役割があるでしょう。パウロが教会のことをキリストの身体っていうイメージで表しているように、目があり、手があり、口があって…身体中が口だったらどうするか、困るんですよね。やっぱり手があって働かなければいけないし、足があってあるかなければいけないし…。それでね、ちょっとした話を思い出しました。昨年出張で韓国に行ったのですけれども、韓国人のイエズス会士が「今、韓国の教会で、こんな話が流行している。神父が死んだら口だけ天国に行く。シスターは病院や市場やよくあちこち行くので足だけ天国に行く。信者の人は耳だけ天国に行く」耳だけでも口だけでも困りますよね。人間の身体にいろいろな部分があるように役割がある。それぞれがその役割を果たして共同体の一つのミサになります。一つの食卓を囲んで、キリストのミサになります。
共同体の真ん中から離れてステージの上に上げられて、時には壁にくっついてしまった祭壇を、どのようにもう一度共同体の真ん中に、どのように食卓を囲むか。まだまだその理想的な解決は分かりません。でも、もう先は少しずつ見えています。例えば、この藤沢教会では「言葉の典礼」のときは朗読台・み言葉の食卓、それをみんなで囲んでいる。そして「感謝の典礼」のときには、この食卓に司式者がやってくる。みなさんがいつもそれを囲んでいる。片方から一方的にっていうのではない。特にこういう形の教会では非常に意義のある配列の仕方、配置の仕方なんですね。縦長の細長い教会はどうするか、難しいと思います。私たちはこれまで自分の慣れてきたものがあるし、それを変えて新しいものを試みるっていう時すごい抵抗があり、変えるのは難しいですね。でも大事なことは、どういうかたちのミサにしたら、どういう参加のしかたにしたら、新しく来る人にイエス様の記憶を生きる力として本当に伝えていくことができるのか。まだまだ努力は続いていくと思います。
みなさんが勉強をなさるものの中に、「ミサ典礼書の総則」っていうのがありますが、この本の初めの部分百ページには、ミサは何であるかを書いてあるのです。ミサを行うのは誰か。ミサ典礼書の最初の言葉として、言明しているのは第一に大祭司キリストである。そのキリストと結ばれている神の民、共同体なんです。ミサを行うのはキリストとキリストに結ばれた共同体です。この総則の中でミサを捧げるのは司祭であるという言葉は一度もでてきません。司祭のミサではないからです。これが公会議後の正しい理解なのです。まだまだ私の考えでは司祭がやることや言葉が多すぎると思います。それはこれからもっといいやり方が、もっといい祈りが、例えば奉献文は会衆がもっと参加していく、本当に会衆がみんなでイエス様のことを思い起こして、父なる神様に賛美を捧げる、感謝を捧げる、そういう祈りがこれからミサの中に現れてくると思います。だから私たちはそこに向かって共同体としてイエスの記憶を保っていく、自分の中で新たにしていく、それをまた新しい人に伝えていくことができるように心がけたいですね。
共同体のミサで大事なことは、その中の役割分担です。司式者のことは言いましたが、ここで私がお薦めしたいと思うのはある奉仕職、一つの奉仕職の専門家にならないでいただきたい。朗読もできる、侍者もできる、歌も歌える、初めて教会に来られた方の案内をする、横に座っていろいろ質問を聴く…などなど。私は朗読専門ですから…ではなくて、いろいろなことをやってみる、それで初めて共同体の典礼になるのです。
仏教とキリスト教 (6)・・・日本的霊性、その一「茶道」
藤沢2区 兼子
十九世紀から二十世紀のイギリスにR・キップリングと言う文人がおり、『ジャングルブック』という本で日本でもその名前はよく知られている。その人の詩に「東は東、西は西…。両巨人は決して相まみえることはない」というのがある。詩というと一般に多感な青年期の浪漫的な手すさびというように思われがちだが、西洋ではいささか事情が異なる。
それは叙情詩についてであって、こと叙事詩に関してはグレコ・ローマンのものであれ、近世ヨーロッパのものであれ、どうして雄渾な男性的なものばかりである。考えてみれば我国でも明治以来の西洋的な自由詩には浪漫的なものが多いが、万葉以来の和歌の伝統を顧みれば、もっと骨太の形式であることが分かる。かつて三島由紀夫は毎年初に行われる宮中の歌会初めを評して他国に類をみない国民的文化行事であると指摘した。国民の約一割もの老若男女が宮中の歌のコンテストに応募するのである。なんというすそ野の広がりか。なんという詩歌の伝統か。このことも日本的霊性とじつにふかく関わっているのであるが、それは後で扱うとしてここでは、この東西の対比という話をもう少し続けよう。
よく西欧の物質文明対東洋の精神文化というようなことが言われる。戦前はドイツ観念論の強い影響下で、(物質)文明対(精神)文化という対比が持て囃されたらしい。そしてそこに更に西欧と東洋がくっつく。しかし精神的文化がけっして東洋の専売特許でないのと同じく、物質文明もまた西欧の専売特許ではない。どちらも長い精神文化と物質文明を誇った時代をもつ。しかし誤りはその組み合わせの陳腐さと根拠のなさだけではない。
その括り方にもまた大いに問題があるのだ。すなわち西欧というのがグレコ・ローマンの伝統(ヘレニズム文明)やキリスト教で一つに纏まっている(だからE・U・も可能なのだ)のに対して、東洋というのはあまりにも膨大多岐でとても一括りにはできないのである。例えば東洋というとたぶん、地理的にはトルコ(小アジア)から以東の全地域、即ち中東、インド、中国から極東の日本までを指すと思われる。しかし六、七千年前から最古の文明を担い十二、三世紀には世界最高の精神的物質的文明を誇った中東のアラビア、五千年の歴史を誇る多様そのもののインド、さらにそのインドに勝るとも劣らない歴史と広大な版図をもつ中国とをどうやって一からげにしようというのか。所詮無理な話である。だから私はヘロドトスがギリシャとペルシャとを対比するのには意味があったと思うが、現在、西欧と対比する形で余りにも軽々に東洋対西洋などと言われると、まったく困惑してしまう。だからこの際、西欧のことを念頭におきながらも、日本一国の霊性について、それも近世日本の霊性を表現する文化の形態「茶道」を通じて語ろうと思う。
十六世紀から現在までイエズス会では日本的霊性を最もよく表すものとして茶道を捉えている。日本各地の修道院の中には必ずと言っていいほど茶室があり「和敬静寂」の四文字が掲げられている。大拙とともにハーバードで講演した、西田の高弟、久松真一は超一流の学者であるとともに現代における最高の趣味人(数奇者)でもあった。その久松は日本文化のなかに凝縮されている禅の精神を侘茶のなかに見る。即ち「茶道仏道一如なり」だが、そう言う意味でいま『南方録』の次の件をみてみよう。「茶の道かと思えば、即、祖師仏の悟道なり。水を運び薪をとり湯をわかし、茶をたてて仏にそなえ、人にも施し、吾ものむ。花をたて、香をたく、みなみな仏祖の行いの跡を学ぶなり」『南方録』覚書。武野紹鴎はこの侘茶の心が定家の次の歌によく表れていると言う。「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」。浦の苫屋は無一物の境界を表すという。紹鴎を師と仰ぐ利久は家隆の次の歌で補完する。「花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春をみせばや」。ここで俗流の解釈を少し踏み出してみよう。先の歌は秋の夕景色の中には華やかな桜花(秋に桜と紅葉が同時にある筈がない。従ってこの歌は秋の景色による無常を歌ったものではなく、当時の仏教思想、殊に天台の虚空中三諦論で解釈すべきか)も紅葉もない。見えるのは唯、一軒の茅屋のみ。その茅屋も夕暮れの闇の中に沈みこんで行く。
後の歌は、花の季節を待ち焦がれている人には、一切が雪に埋もれている山里(浦の苫屋と同じく侘しい所)の雪の下から緑の草が顔を出そうとしている。それによって告げられる春の到来をこそみせたいものだ。これらの歌は二人の茶の湯の違いをも示している。紹鴎の侘茶は侘そのもの、利久の茶は侘寂のなかにも華やぎがある。このように茶道も、そしてここでは言及しないが能楽という芸能にも、日本的霊性の源泉たる禅仏教が通底している。さらに言えば、この日本的霊性を最高度に表現するものは和歌であり、その短詩形としての俳句だ。日本人にとって自然とは周囲の自然的・物理的環境の謂ではない。それは日本人の心を写し出す鏡だ。長い間、日本人は和歌(俳句)を通じ、自然の移ろいとともに自らの宗教的境地をそれら自然(雪月花)に託して表現してきたのだ。
「春は花、夏ホトトギス、秋は月、冬雪さえてすずしかりけり」。夏の郭公ホトトギス、雪のすずしかりけりに、道元らしさがある。この歌は道元の心境を恰もハイビジョンで捉えたかのようだ。次に芭蕉の句を二首、掲げる。「一家に遊女もねたり萩と月」。この句にシュールレアリズム風の面白さを感じるのは私だけだろうか。若い二人づれの遊女と旅の途上で同宿する僧形の芭蕉と曽良。ふと庭を見ると皓々と照らす月光にこぼれる如き可憐な風情の萩がある。この句を見ると私は芭蕉の句の特徴である諧謔味を先ず感じる。
Q:「葬儀を考える会」では昨年11月に「墓地」について考えるフォーラムを開催いたしました。その結果、合葬についての考え方が浮かびあがり、それについてお答えいたします。
A: 近年、土地の問題、環境問題、自然破壊、後継者の減少、経済的な問題から個人で墓地を所有することが難しくなっています。
「合葬」とは、一つの墓に二人以上の遺骸を埋葬すること。(広辞苑より)
葬儀を考える会」では共同体とその家族、また墓所を必要とする方々のための墓を考えています。亡くなられた方々を偲び感謝すると共に、未来に向けて私達もいつか土に還る者としての思いを新たにし、祈るために特別に聖別された場所を持ちたいと考えます。
今後どのようなものにして行くのか検討し、具体的なことは皆様と共に考え、ご意見をうかがって行きたいと思います。
6(金)初金ミサ・例会
8(日)鵠沼ブロック新年会
11(水)教区典礼研修会
15(日)藤沢教会信徒総会
22(日)北一ブロック集会
25(水)灰の水曜日ミサ9時30分・夜7時
29(日)四旬節第一の主日、横浜教区合同入信志願式
外国コミュニティ集会「一緒に作って食べよう会」