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八 角 形 に ゅ ー す

2004年9月5日

聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会


目次

教会での聖霊の働き・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ハンラティ

「新しい光」カトリック湘南台センター・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・元教会委員長 福井

湘南台センター10周年によせて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・長後地区 武居

"愛"をテーマに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂二区 中山

湘南台センターとの出会い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・長後 大原

神様のお恵み・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・長後地区 高橋

湘南台センター十周年によせて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼一区 十三

出会いの場・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大庭地区 荒井

愛の完成に導いてください ――湘南台センター十周年を迎えて――・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・善行地区 岡村

今年のバザーの目的と参加ご協力のお願い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・バザー実行委員会 代表 辻垣

「リーダー養成講座修了者のための黙想会」に参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢一区 鈴木

教会学校サマーキャンプ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・リーダー 石井

マリア祭・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ヴェトナムコミュニティ ソン

ガーデンパーティーの報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢一区 渡辺

「愛と平和を祈るコンサート」の集いに思いを寄せて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢一区 緒方

平和のための合同祈祷会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・その他地区 荻野

「納棺と火葬場での祈り」研修会報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂二区 佐々木

ティールーム報告と気づいたこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大庭地区 黒江

仏教とキリスト教(13) キリスト教的霊性 その五「赦し、癒し、徴し」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢二区 兼子

9月の主な行事

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教会での聖霊の働き
ハンラティ

 前回の記事の中で、私は「健康な」キリスト教共同体について書きました。「健康な」とは、共に親しみながら成長する、外の社会に向かって伸び広がっていく、そしてリーダーを育成するキリスト教共同体を意味します。

 私は一つの手本として、使徒言行録の中にある初代教会を用いました。そしてこの健康を与えた4本の柱を強調しました。それらは、共同体の中で働いている聖霊の印です。

 藤沢教会ではどんなことが見られるでしょうか。

藤沢教会には、お互いにより良く祈れるよう助け合っているさまざまなグループがあり、その参加者は増えています。そしてごく普通の信者が、これらのグループのリーダーになっています。私は彼らのミーティングに出席して、彼らは私より上手により良く祈る方法を他の方々に伝えていると確信しました。

同じように、その他沢山の信仰の分かち合いが、いくつかの祈りのグループ、3つの聖書100週間グループ、「キリスト教入門講座」などで行われています。信者さんたちは、自分の生活の中で働いていらっしゃる神様に気づいたことを分かち合うことによって、お互いに助け合っています。このことは共同体のためにいろいろ意見交換をしたり、計画を討議する時、お互いに他人の話を上手に聴くことが出来るように成長するという点においても、もっと広い共同体に影響を与えています。例えばいろいろなテーマで行われるフォーラム、各活動部、総会、委員会などで。

また藤沢教会では、一般社会の中で価値ある大切な活動をしているグループもいろいろあります。例えば正義や平和のため、顧みられない人びとのため、差別されている人びとのため、ホームレスの人びとのため、苦しんでいる移民のためなどに奉仕しているグループ、また若者たちのため、病人や孤独な人たちに心の慰めをもたらすグループ、湘南台センターで宣教に努めている人びと、キリスト教合同一致のために努力しているグループなど。

藤沢教会で、キリスト教入門講座を担当するリーダーたちは約40〜50名いますが、何人かの方は他の教会に行ってそこで講座のお手伝いをしています。

 私がおよそ50年前に初めて日本に来た時のことを思いかえすと、どうだったでしょう!

司祭が一人で、教え、計画し、すべてのことを決めていました。今、司祭は信者たちがあちこちで始めたいと思っている新しいアイデアを一緒に計画し、話し合い、打ち合わせることに忙殺されています。

 私たちは、外国へ行く日本人信徒宣教者を送る式に出席する喜びをもちました。これは私たちの中で聖霊が働いているもっとも大きな証です。また祈りや経済的援助によって、他の国々で働いているコロンバン会の宣教師たちを支えるだけでなく、アフリカ、フィリピン、ペルー、チベット、カンボジアにおける宣教活動や共同体を助けるためのグループもあります。これらの活動の「エネルギーを生み出すもの」は目には見えませんが、祈りからくる霊的な実り多い力です。

 勿論「健康な」キリスト教共同体を作るには、信者さんたちの寛大さ、勇気、信頼、忍耐を要します。また時間も要します。しかし藤沢で起こっていることをみて、多くのリーダーが、最近受洗した方たちであることを知る時、私たちは、私たちの中に、また私たちを通して働いていらっしゃる聖霊に気づきます! 言うまでもなく、このような動きは、藤沢教会だけではなく、・ルビ・今日・こんにち・世界中の国々で静かに現れていることです。しかし、私たちは、これらのことが、藤沢で確かに起こっていると言えるのではないでしょうか。



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湘南台センター開設10周年を迎えて

 センターはお蔭さまで9月に10周年を迎えます。この10年を一つの区切りとして、新たな出発をするために、1994年センター開設当時の教会委員長、福井敏之氏の…「新しい光」カトリック湘南台センター…(八角形にゅーす掲載)を一部ご紹介して、開設当時の経緯、趣旨を皆様ともう一度確認したいと思います。またこれまで関わっていただいた方の思いを掲載し、「何かを求めておられる方々と共に歩む場所」であることを大切に北部の宣教の拠点としての働きを模索しつつ皆様と共に未来に向かって歩んでまいりたいと思います。

湘南台センター 

「新しい光」カトリック湘南台センター(1994年9月号より)
教会委員長 福井敏之

 懸案であった北部布教所の開設が「カトリック教会湘南台センター」の名称で実現することになりました。藤沢小教区の新しい福音宣教の拠点のために共にお祈りいただくよう希望します。

 古い教会報を辿りますと、今から15年ほど前の昭和54年当時に集会室建設計画とともに小教区の分離ということが教会委員会のテーマとして掲げられています。その背景としては、藤沢小教区の信者の分布がそれまでの鵠沼地区中心から辻堂、湘南台、長後、ライフタウンへと次第に広がるにつれて教会にくる来るまでの時間や交通費がかかる人たちが増えてきたということがあります。集会室建設計画に関連して濱尾司教様からも、集会室を建てるのは結構だけれど、これから発展していく地域の人びとのこともこれからの宣教のあり方という問題ともからめて考えて欲しいとの要望がなされております。

 こうした司教様のご意向を入れて昭和56年に現在の藤沢カトリックセンターの建設計画が作成されたわけですが、その事業計画の中に分教会用地購入が入れられ、費用として3千万が計上されました。その趣意書には「藤沢市全体を見ると藤沢、片瀬教会は南に片寄り過ぎているので信徒はもとより地域住民のためにも新しい教会の設立が是非必要となってきています。候補地として市北部(湘南台付近)または市西部(ニューライフタウン)が適当と考えられます。」

 しかし計画の推進には限度があり、当初計画どおりの適当な物件が見当たらないなどもあって、実現しないまま今日に到っておりました。

 以上のような経緯がありましたが、北部の問題をその資金と共にそのままにしておくわけにはいかないとのことで、主任司祭からの諮問を受けましたので数名の方に北部布教小委員会の組成をお願いして一年間検討いたしました。結果としては、この小委員会の結論を受けて教会委員会で討議を重ねました結果、少なくとも現時点で新しい教会を作るとか、小教区を分離するという方向で北部に拠点を求めるのは時期尚早ではあるが、その性格を"布教所"とすれば実現できるのではないかとの考えに到り、本年4月の信徒総会で提案を行った次第であります。

 皆様のご承認が得られましたので新たに北部委員会を設けて場所の選定を中心に進めてきました。候補地は、"布教"という目的から人の集まっている所、人の集まりやすい所が適当と考え、湘南台、長後付近およびライフタウン内を対象としてきましたが、湘南台駅前に手頃な物件が見つかりましたので、拡大教会委員会を開催し、この度の決定となりました。

 布教所としての目的は、その名が示すとおり、北部における布教の拠点であります。地域の人びとが身近にカトリック教会と出合える場を提供するとともに、そこで行われる様々な集会や活動をとおして地域の人びとに福音を宣教していくことは私どもの基本的な役務であると考えます。またこの地域に住む信徒にとっては教会活動の拠点として活用することも重要な目的の一つといえます。具体的には、キリスト教講座や、講演会・集会、教会学校など信者でない人々を主な対象とした宣教の場としての活動が中心となりますが、地区の集まりや祈りの集会、月に何度かのミサも企画しています。キリスト教用品、書籍の売店も設置します。

 センターの運営・管理については教会委員会のもとに新たに設けたセンター運営委員会がこれにあたります。この運営委員会は主任司祭、教会委員会から委嘱された信徒、教会委員会正・副委員長と事務局長およびセンターに常駐するスタッフの総計10名程度で構成されます。

 昨年12月の藤沢教会の信徒数は3,200名を超えております。(2003年度12月31日現在3,752名)横浜教区内の小教区教会85のうちで最大、しかも突出して大きな小教区であります。センターに近い善行、六会、湘南台、長後地区だけでも信徒数は782名を数えます。(2003年12月31日現在827)これは藤沢教会の親である片瀬教会の信徒数とほぼ同じ数でもあります。北部の布教、宣教について考えはじめた昭和50年代前半の藤沢教会の信徒数は現在より千名以上も少ない1,800名程度でした。しかも北部の信徒が増えはじめた頃であります。それからほぼ20年近くもの間、多くの神父様方、シスター方そして信徒の方々がそのために祈り、努力し、犠牲をはらってまいりました。これらの一つひとつの積み重ねが、神様の計り知れない遠大なご計画のひとつとして、この度のセンター開設へと結びついたものと確信しております。北部の問題にはなおいろいろなご意見がおありかと思いますが、この問題で今私たちが求められているのは、何が私たちにとって都合が良いか悪いかではなく、この小さなセンターを布教の道具としてそこに住む人びとに神様の御言葉を聞く機会が与えられるように働くことだと考えます。

 私たちの"ともに"の輪の中に多くの新しい兄弟、姉妹が加わるよう共同体の皆様のお祈りとご協力をお願いいたします。



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湘南台センター10周年によせて
長後 武居

 創立10周年おめでとうございます。あらためて時のすぎる早さを実感しております。私の湘南台カトリックセンターの思い出は、今は亡き主人とキリスト教講座に通ったことです。当時主人は咽頭癌を患って三度目の手術で声を失っておりました。1997年10月から1999年6月までほとんど休まず、リーダーの方々や若いメンバーの方々の思いやりと明るさに助けられ勉強することができました。1999年4月のご復活祭には受洗のお恵みをいただき、本当にみなさまに感謝しております。それから半年後、主人は癌が再発、肝臓、肺に転移し、2000年1月7日帰天いたしました。人生の最後二年間をみなさまと楽しい時間がもてたこと、また主人も同じ神様の子として受け入れていただいたことなど、湘南台センターでの思い出は今も私の心に温かな安らぎを与えてくれております。

愛をテーマに
辻堂二区 中山

 湘南台センターで、「みことばを書く会」を始めて2年余りが経ちました。いろはの基礎から始めましたが、この度自分の好きなみことばを色紙や短冊に書いて湘南台センターの10周年をお祝いさせていただきました。

 佐世保の小6の女の子の事件に心を傷めて「あなたは望まれてこの世に生まれてきた大切な人」というマザー・テレサの言葉を選んだ方、細川ガラシアの短歌に魅せられて、玉造教会まで行ってきた方、得意の絵や墨絵にみことばを添え書きされた方、詩編からみことばを選んだ正統派など、個性豊かな作品がそろいました。

 お稽古を始めてから年数も浅く、拙いものですが皆で"愛"をテーマに一生懸命書きましたので、ご覧いただけたら幸いです。

 なお来年は藤沢教会50周年、祝福の言葉を書こうと次の目標に向かって張り切っています。この機会に私もと思う方、ご一緒に始めませんか。アフター・レッスンの分かち合いとお茶が楽しい会です。

湘南台センターとの出会い
長後 大原

 湘南台センターとの出会いは、一枚のチラシからでした。

 子供がもうすぐ一歳になるかというころ、なかなか教会へ行けず、近くにあったなら・・と思っていたところ、ある日新聞の中から湘南台センターのチラシが出てきました。色々な講座があるなか、月曜日の午前中に「子連れで集まろう」という、シスター豊原の講座があり、まるで私の望みを神さまが聞き届けてくださったかのように思い、それからは毎週月曜日、子供と二人、自転車に乗って通いました。人見知りのひどかった娘は、なかなか中へ入れず、いつも入口でもじもじしていました。それがいつしかやさしい笑顔で迎えてくださるシスター豊原や落さんに慣れてくると、「チッタ、チッタ」「オッタン、オッタン」とすっかり我がもの顔! 親子共々、心穏やかなゆったりとした時間を過ごさせていただきました。

 やがて下の娘が生まれ、二人の娘と三人で通うようになり、シスター豊原を通して出会った方々と交わりの会、クリスマス会と楽しいひとときをたくさん持つなかで、子供たちの心も豊かに育てられました。

 そんなある日、シスター豊原が病に倒れられ、子供たちも幼稚園や小学校にあがり、月曜日の講座はなくなってしまいましたが、私の、そして二人の娘たちの心の中では、湘南台センターで過ごした時間が、神さまからの宝物のようにキラキラと輝いています。

 親子三人が育てていただいた湘南台センターに感謝! センターでお世話になったシスター豊原はじめ落さん、多くの方々に感謝! そして何によりもこういう場をこういう時をくださった神さまに感謝します! これからも、湘南台センターが、神さまの愛の満ちあふれた場所であり続けますようにそしてシスター豊原の病がいやされますようににとお祈りいたします。

神様のお恵み
長後地区 高橋

 私はこの夏ある手術を受けました。生まれて初めての手術に私は怯え、そして次々と起こってくる身体のトラブルに、私の心はすっかり不安と恐怖に振り回されていました。

 そんな時、神様は、私に手を差し延べてくださいました。湘南台センターで講座を教えてくださったリーダーの方、色々お世話してくださったスタッフの方、一緒に勉強をした仲間、教会でめぐり会った方からのやさしい温かい言葉です。私の痛みを分かち合ってくださり、神様の愛を思い出させてくださいました。それまで私が悩まされていた不安と恐怖が、いつの間にか消え、手術という新しいことに挑戦してみようと私の心は変わっていったのです。

 神様のお恵みはその後も続きます。無事に手術が終わり、麻酔から目が醒めた時のことです。身体の痛みとは正反対に私の心はとても満たされていたのです。まるで誰かにとても慈しまれ愛されていたような、汚れのない恋愛をしていたような不思議な幸福感です。それは多分麻酔による作用ではないかと自分自身に問いかけてみましたが、私の心は完全にそれを否定しました。手術の間中確かに私は誰かにとても愛されていたことを、心が実感していたのです。教会でめぐり会ったある方の働きかけによって、手術の日のごミサで私のために祈りを捧げてくださったことを後で知り感激しました。

 聖霊の働きが本当にあったのです。私は今まで自分に神様のお恵みやイエス様の愛が届けられるとは思ってもいませんでした。信者のつもりになっていて、実際には信じていなかったのです。手術を経験して、私は神様、イエス様の大きな深い愛は、誰に対しても一対一でそそがれていることを知り、決して一方通行では無いことを知らされました。このことを体験させる機会を与えてくださった湘南台センターの方々、教会の方々に、感謝の気持ちでいっぱいです。

 私の身体には、イエス様に愛された印が、手術の傷痕となって残されました。この傷痕を見るたびに、私はこの夏に体験した、不思議な幸福な心の出来事を思い出すでしょう。

湘南台センター十周年によせて
鵠沼一区 十三

 私が初めて湘南台センターに足を踏み入れたのは二年前、入門講座初日のことです。

 カトリックに興味をもちながら、行動に移せなかった年月を経て、ようやくその時がきたのです。とは言うものの初日は不安と緊張の色を隠せませんでした。が、それはすぐに解けました。穏かに進めて下さるリーダーとユーモアに富む仲間の皆さんから溢れる温かい雰囲気はとても居心地がいいものでした。何より、キリストを学ぶ講座自体、格好つけなくてもいい場であることが次第に分かってきたのです。事務の増田さん、落さんも優しい心遣いをして下さるので、ここでの出会いが嬉しく、待ち遠しくなっていきました。

 そして、無事講座を終えて、昨年クリスマス、講座の皆さんや教会の方々の祝福の中で洗礼を受けることができました。

「明日こそは」と願いながら、日々神様に謝ることばかりですが、こんな私でも神様から愛される存在であると信じて生活できることが支えになっている今を思うと、神様がここに導いて下さったことに感謝でいっぱいです。 私にとって洗礼を受けるまでの貴重な学びと出会いの場となった湘南台センターに感謝と共に、今後の更なる発展をお祈り致します。

出会いの場
大庭地区 荒井

 湘南台センターで、キリスト教入門講座を3回約7年やらせていただきました。毎週火曜日あの階段を上がり、ドアを開けるといつも気持ちがシャンとしました。

 ある日、カーペットがきれいになりました。当時金沢八景から通ってくださっていた我妻さんに「このカーペット、息子さん達(亡くなった我妻俊朗さん)が敷いてくださったのよ」と申しますと「あの子がお役にたっていることもあるのですね」とうれしそうに答えられました。クリスマスの馬小屋もセンターに相応しく設えられ、神父様をお呼びしてささやかな、それでいて楽しいパーティを開きました。どれもいい思い出となっています。落さんはじめ居心地のいい空間を作ってくださった方々のお陰だと感謝しております。

 2年あまりの各講座での分かち合いを通してそれぞれの繋がりは、今も続いていてお仲間のために集まってロザリオを祈ったり、折にふれて同窓会をしております。

 マタイ18・20「二人または三人が、わたしの名によって集まるところには、わたしも、その中にいるのである」このみことばを強く実感しています。確かにあの場所には聖霊が豊かに働き、心安らぐ時をいただけたことに感謝し、また神の道具としての新たなスタートを切りたいと思っております。

愛の完成に導いてください ――湘南台センター十周年を迎えて――
善行地区 岡村

「完成」というと私たちは終わりを思いますが、神のみわざにおいて「完成」は常に永遠のはじまりなのです。

 そして、創造のみわざのなかで私たちには常にはじまりだけがあります。私たち一人ひとりに、他の人を通して常に神の呼びかけがありますが、それは私たちにとって必ず未知のこの先のはじまりなのです。

 ただ今までのわかっているところで求め、また応じるだけで終わるなら、私たちは神の創造に関わりがありません。

 しかし「今ここに」引き合わされて私たちに何かがはじまり何かが生まれようとしていると感じて、その未知のところに心を向けるならば、そこに神からのサインを見つけるでしょう。

 それが創造に私たちを必要とする神の呼びかけで、その引き合わせは私たちにとって、思いがけない未知のこの先のはじまりになるのです。

 しかしエリヤが体験したように、神の呼びかけはとても小さな声です。それを聴くのに私たちは、囲いの外に出て支えにしているものを置かなければならないでしょう。

 支えにしている思いや考えに妨げられて「今ここに」引き合わされてはじまっている生まれようとしている何かを見そこない聞きそこなうからです。

 私たちは互いに異なっていても、それぞれの持っているものではなく、まだ持っていない、欠けており足りないところで結ばれてはじめて一つになり、共に生きる者になれるからです。

「主の平和のなかに行きましょう」

主の平和とは、神の創造のみわざ、神の国のことです。

 私たちに選べない、思いや考えを超える引き合わせこそチャンスなのです。「人には出来ないことが、神にはお出来になる」

 私たちは恐れますがイエスは「これはわたしだ。恐れるな」と言い「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われます。

 私たちへの神の愛は、その創造のみわざに示されます。創造は無限なのです。そして、永遠のはじまりとは、無限の創造に結ばれて私たちのはじまりです。

 私たちに引き合わされる「よくない」ことが、今まで私たちが選んだものに欠けており足りないところがあると教えています。常に神はそれによって苦しんでいる人と共にあり、創造のみわざをはじめられます。

 だから「よくない」ことは、私たちにまだない「よい」ことのはじまりなのです。

 「何を望むのか?」「はい、見えるようになりたいです」「聞こえるようになりたいです」分かっていたら私たちは決して選ばない困ってしまう引き合わせに注意しましょう。



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今年のバザーの目的と参加ご協力のお願い
バザー実行委員会 代表 辻垣

 04年度バザーは北一、北二両ブロック担当で準備されています。開催日は10月24日(日)です。

 今年のバザーの意義は次の通りです。

 2003年梅村司教から『共同宣教司牧』の招きが発表され同時に今年度からの『司祭給与分担金制度』が導入されることになりした。

 司祭は教会の中だけに、修道者は修道院の中だけに、信徒は職場や家族の中だけに生きているのではありません。それぞれの役割、固有の重要性はあるにしても、三者が「交わりとしての教会」を目指していこうというものです。

 また「司祭給与分担金制度」とは「横浜教区は私たち横浜教区信徒全体で支えていく」という基本理念にもとづいて、小教区間の「司祭給与」をみんなで支えていこうということです。したがって、従来の「本部分担金」「建設基金拠出金」に「司祭給与分担金」がプラスされます。具体的には月定献金+ミサ献金+祭儀献金の25%を教区本部に納めることになり、その金額は藤沢教会で600万円の増加になります。

 来年献堂50周年を迎える今年のバザーは、この主旨にそって、司祭、修道者、信徒三者の心からの一致と協力が教会財政維持安定させることの一助となることでしょう。

 具体的には『「50年の歩みに感謝」みんなでバザー』のスローガンのもとに、バザー賛助金は教会建物の維持管理のために売上金は「合葬の園」の実現化のために使いたいと思います。

 藤沢教会の建物維持管理には今後30年間に2億円以上の資金が必要とされます。毎年計画通りに維持管理を行っていくには厳しい経済的現実です。幸いにも聖堂、センターホールの耐震診断の結果は、阪神大震災程度の地震には耐えられると報告されています。限りある地球資源を維持し、廃材を出さないためにも建物を適切に修繕管理し、大切により長く使って次世代へ引き渡していくことは神の意志にもそうことでしょう。

「合葬の園」実現化については、2004年4月、7月、8月の「八角形にゅーす」『お墓を考える』コーナーに掲載されました。

 聖心の布教姉妹会が土地を提供してくだるという温かいお申し出により、実現化に明るい光が見えてきました。

 具体的なプランはこれから検討されますが、藤沢教会の信徒、貧富にかかわらず志を共にする人々、人種・民族・国籍を超えた人々のために心静かに追悼とふれあいのできる「合葬の園」実現化に売上金を使いたいと思います。

 バザーは「みんなのもの」です。外国コミュニティーは勿論、20以上出店され福祉コーナーもその活動の見えるようにしたいと思います。また、毎年、食堂に安全で新鮮な野菜を提供してくださる聖心の布教姉妹会のシスターとの関わりも一層、深く大切にしたいと思います。中高生会、日曜学校の子供たち、青年会、藤沢16団のボーイスカウトの若い人との協調もひとつの要にしていきます。

 各地区、各ブロックすべての方々のご協力をお願いします。一人一役たとえ半日だけの参加でも大歓迎です。聖堂入口の参加表にお名前を記入してください。

 神の国がこの世に実現しますように、平和が世界のすみずみに行き渡りますように。

 この藤沢教会のバザーがその一歩となりますように。

趣味の作品展募集

 皆さまの自慢の作品(絵画、写真、書道、陶芸、工芸など)を発表・販売してみませんか。
 作品の展示だけでなく即売も可能ならば実施します。

  実施の場合、収益の10%以上のご寄付をお願いします。

 お問い合わせはバザー委員(北2)中村 рO466(44)3667



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「リーダー養成講座修了者のための黙想会」に参加して
藤沢一区 鈴木

 7月31日(土)午前9時より午後3時までテハン神父様の進行による共同宣教司牧の黙想会がセンターホールで行なわれました。講座修了者と現在リーダーとして活躍されている方々合わせて20数名による黙想、そして小グループに分かれての分かち合い、今まであまり接点のなかったリーダーとの分かち合いは私にとって大変有意義でした。教会の一員として何かしなくてはと思ってもキリスト者として日の浅い私は知らない事の方が多く、また他人の言葉に傷ついたりして勇気が引っ込んでしまうこともあります。「リーダー」という言葉にその器ではない私は「無理、無理」と拒んでしまいます。

 一方心の隅には、私と同じように一人でも多くの人がイエス様に出会い、信仰を持ち、心の安らぎが得られたら・・と願っている私もいます。何人かのリーダーとの分かち合いによって頑な心が柔軟になりました。私は全体の中の一つの小さな部分にすぎない、その一つの小さな部分が私に与えられた役目、役割なのだから出来ることからすればよい。受洗前の私、受洗を決意した私、受洗後の私と、自分の体験を分かち合い、その中で働いてくださっている神様の恵みをもまた共に喜びあう中からイエス様との出会いに気づくお手伝いができたら・・と思います。

 身近な家庭の中、地区の中においても"主の名によって2人、3人と集まる所にはイエス様はいらっしゃ

る"病人、悩みをかかえている人、孤独な人を教会共同体の人々と共に支えてあげたい。

 どんな小さな事でも心を開き接し、聴く事から宣教は始まると思います。信者間の深い交流の中で自分を成長させ、自分のおかれた環境の中で「今、私に出来る事は何?」を常に考え「主の十字架」によって得る事ができた心の平安と希望を伝えるため、またすべての人が神様の望まれている「主の平和」に満たされますようにと共同体と共に祈り合い、助け合い、支え合って主の愛を実践していきたいと強く感じ心新たにした黙想会でした。

午後ごミサに与り主の御聖体を拝領し、主と一致している喜びに包まれ高揚した善い一日でした。

 神に感謝



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教会学校サマーキャンプ
リーダー 石井

 7月24、25日に教会学校サマーキャンプがありました。

 24日は、朝からとても暑かったのですが、集まった子供たちは、大はしゃぎで出発を待ちきれない様子でした。藤沢駅から小田急線で桜ヶ丘へ、歩くこと15分、目的地の引地台公園に到着しました。木陰を探して昼食をとり、その後はアスレチックや、水遊びをしました。当日は公園内の野球場で県大会の真っ最中でした。小川ではしゃぐ子供たちの横では、割れるような大声援と応援団の詰め襟姿が印象的でした。

 教会に戻ると、お台所からカレーのいい匂いが・・。冷たいお茶とおやつをいただいてひと休み。感想文や絵を書いて夕食をいただきました。ごちそうさまをした後は、聖堂にてキャンドルサービスをしました。デイキャンプ組はここで帰宅です。お泊まりのお友達は、銭湯に行きセンターホールで寝ました。

 お手伝いをしてくださったお母様方、暑い中ありがとうございました。この場をお借りしてお礼申しあげます。



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マリア祭
ヴェトナムコミュニティ ソン

 8月14(土)17時から、ヴェトナム人のヒエン司祭の司式で、私たちヴェトナムコミュニティと藤沢教会との被昇天の合同ミサが行われました。一週間前から準備し、当日朝早くたくさんの人たちの協力で、おみこしの飾りつけが進められました。ヴェトナムで作られた美しい旗、青と白の旗(聖母マリアを象徴する色)、黄と白の旗(バチカン国旗の色)がたくさん飾られました。

 ミサの前は皆でろうそくをともして、歌とロザリオを唱えながらマリア様のおみこしを教会の境内を二周回りました。

 ミサでは第一朗読はヴェトナム語、第二朗読は日本語、ミサの最後には日本語の聖歌でしめくくりました。ミサ後皆で食事をしながら歓談をし楽しいうちに終了いたしました。

 皆さまお疲れさまでした。



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ガーデンパーティーの報告
藤沢一区 渡辺

 今年のガーデンパーティーは、準備を簡素化し全ての面で無駄をなくし「皆がふれ合いながら楽しめる夕涼みのひととき」を目標としました。新しい試みとして参加者を申し込み制としました。その結果、食べ物にも無駄がなくなり、ワンプレートに唐揚げ、おにぎり、枝豆をのせ、セットで売ることにしました。他に、外国コミュニティによる春巻きやバーベキュー風焼き鳥、そして飲み物。魅力たっぷりなメニューになりました。会場の設営は例年のようなテントを張らずに、テーブルもコンパネを利用するなどして一時間半かからずに準備を終えることができました。

 私が担当したのは昨年同様「親子で楽しめるゲームコーナー」です。昨年の的当てゲーム、割りばしダーツに加え、空き缶釣りを企画し、当日は中高生の女の子3人や小学生が手伝いに駆けつけてくれ、マイクを使って、はつらつとお客様を誘うなど、大活躍してくれました。何といってもパーティーの盛り上げ役は、雪ノ下教会から参加してくれた20人余りの中高生達でした。

 和やかな時間が流れる中、いよいよバンブーダンスの始まりです。竹がリズムよく鳴り響き、皆をその明るいリズムに酔わせてくれました。そして続くフラダンス・参加者の皆の親睦を深める場にもなり、とても嬉しいひとときでした。

 ゲームコーナーは? といえば今年は子どもが少なかったものの何度も何度も一生懸命に挑戦してくれたり、大人の方も楽しんでいってくださったのが印象的でした。昨年に続き、今年もたくさんの方々とふれ合うことができたすてきな夏のひとときに感謝しています。

 事後報告になりますが、予想を上回り、参加者は子どもも合わせ150名以上だったそうです。ありがとうございました。



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「愛と平和を祈るコンサート」の集いに思いを寄せて
藤沢一区 緒方

 8月8日御ミサの後、聖堂で浮田さんのお話「平和について」と金子カツ子さんの「ヒロシマ」声楽コンサートを聴いて、大へん感銘を受け、平和について更めて考えさせられました。

 1945年8月6日広島で浮田さんの知人であり詩人の橋爪文さんが被爆した悲惨な体験などを話されました。鮮烈な閃光を感じ、一瞬「太陽が目の前に落ちてきた」そう思って意識を失い、気がついてみると頭部から凄じいほどの血がべっとり掌につき、足元に血溜りができました。しかし、その痛みを感ずる力さえなく友人に病院まで運ばれて一命を取り止めた話等・・、戦争は人間を狂気にさせると浮田さんはおっしゃいます。どんな戦争でも決して起こしてはならないということを強く感じました。その席で回覧された「広島、長崎の原子爆弾の記録」や「丸木位里・俊の原爆の図」等ぶ厚い写真集5冊を見せていただきましたが、年々薄れつつある戦争の恐しさにはっと気づかされました。私は15年ほど前だったでしょうか、平和行進に参加し広島の原爆記念館の展示を見て、真っ黒に焼けこげた子供の写真に涙し、戦争の悲劇を二度と繰り返してはいけないと思いましたのに、生活の中で記憶は時間と共に忘れて行くものですが、これらの記念日に限らずみんなが記憶にとどめなくてはならない気がいたしました。「私たちのすることは本当に僅かなことではありますが、必ず神様が見ていてくださる」という浮田さんの言葉が印象的でした。

 次に体験に基いて作詩された橋爪文さんの「少年・校庭・おとうと・共生」に青英権さんが作曲された組曲「ヒロシマ」を金子カツ子さんが迫力のある声量でドラマチックに歌われました。一条の閃光が少年を貫き一本の火柱となった。校庭の屍の中でかづ子は父の声を聞いた。しかし焼けただれた目に父の姿を見ることは出来ず声も出せなかった。遠ざかる父の足音を聞いて涙を流す。弟は「こわいよう!」「こわいよう!」といって満天の星月夜に昇天した。水槽の雨水で僅かな食べ物を炊き、露天風呂に入り、私は生きていると星と話す。水槽の底にはミミズが棲んでいた。ああ生きていたと繰り返し絶叫する歌声にいつ迄も心に響

きました。人は誰も悲しい重い体験を胸に抱いて語ろうとしません。余りに深い心の傷を負った原爆や戦争

について触れるには、何十年の歳月が必要なのでしょうか。しかし今はみんなの戦争の体験を若い世代に、語り継がなくてはならない時と思われます。

 教皇ヨハネ・パウロ二世は、ブッシュ大統領とフセイン大統領にイラク戦争を思い止どまらせようと会見し、イスラエルを公式訪問しユダヤ教との関係の改善を呼びかけられ、世界平和のために病苦をおして東奔西走していらっしゃいます。そのお姿は歴史的功績であり、カトリックの誇りでもあります。戦後59年経った今日、平和の集いにはもっと多くの人が参加して共感し、この感激を分かちあいたいと思います。



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平和のための合同祈祷会
その他地区 荻野

 藤沢市内キリスト教連絡会主催の「平和のための合同祈祷会」が、8月7日(土)、日本キリスト教団藤沢教会にて開催されました。藤沢市内にあるカトリック、聖公会、プロテスタント各派の18の教会、修道会並びに藤沢YMCAから108名の参加がありました。日本キリスト教団藤沢教会の村上実基牧師の司式、ホーリネス鵠沼教会上中栄牧師の奨励(説教)という若手牧師2名によって礼拝が守られました。上中牧師は「わたしたちはどうすればよいのでしょうか」という題で、『ルカによる福音書』3章から奨励をくださいました。上中先生は、洗礼者ヨハネに来るべきときにそなえて「どうすればよいのか」とたずねた、イスラエルの人々になぞらえて、現代社会の危機的な状況をかたり、このような状況にあっても主への希望をもち続けるように語ってくださいました。その後、参加教会の代表者による「取りなしの祈り」を唱えて、世界の平和のために祈りを合わせました。

 祈祷会の後、引き続き懇親会が行われ、教会教派を超えた交わりの時がもたれました。懇親会の中では、各教会の近況が紹介され、教会バザー等へのお誘いなどもなされました。今回特筆されるのは、藤沢バプテスト教会からの神学生(西南学院大神学部)と当教会出身の宮内神学生が出席されたことです。神様から召し出しを受けた神学生が教派の違いを超えて同じお聖堂で祈りを合わせるときを与えられたのはすばらしいことだと思います。

 藤沢市内キリスト教連絡会は、藤沢市内にあるキリスト教会とキリスト教団体によって構成され、市民クリスマス、平和のための祈祷会(8月)、「キリスト者一致祈祷会」(1月)の3つの行事を行っております。今年の市民クリスマスは12月11日(土)に当教会にて開催されます。多くの皆様方のご参加をお待ちしております。「エキュメニズムの実験場」ともいえるキリスト教連絡会の働きのためにお祈りくだされば幸いです。



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「納棺と火葬場での祈り」研修会報告
辻堂二区 佐々木

 7月25日の9時半のミサ後、かねがね開催が待たれていた「納棺と火葬場での祈り」についての研修会が開かれました。多すぎるかもしれないと用意した百部の冊子と、殆ど同じ参加者がありました。

 川辺さんから「納棺」についての説明がありました。

 教会の儀式書から、葬儀は「亡くなった方が、キリストの復活した命に結ばれ、キリストの贖いを記念するもの」で、死者のためばかりではなく、生きている人(かなしみの中にある人)のためのものである。今まで、人が亡くなるとすぐに「教会に、司祭にお願いしましょう」と考えて来た。しかし、共同体として共に祈り、助け合うことがとても大切なことである。今までは通過儀礼として、「〜をしなければ、救われない」との考えも強かったのですが、今は「悲しむ人と共にある」を、先ず大切にするよう、強調されています。

 司牧的配慮から葬儀の準備に当り、儀式だけを考えるのではなく、遺族への温かな配慮が何よりも大切である。ミサを除いて、信徒が積極的に関わるようにも薦められている。納棺は家ですることが多く、火葬は遺族にとって一番辛い時であるので、共同体の親しい人が共にいることが望ましい」とのことでした。

 実際に最近「火葬場での祈り」経験した浅野洋子さんが、体験を分かち合ってくださいました。はじめは「ご遺族は司祭の祈りを望んでいるだろう。私でなくても・・」との思いがおありだったそうですが「私はわたしで良・和文書体 標準・・文字サイズ 標準・い」と思い直し、お祈りをさせていただいたそうです。「火葬後の祈り」は遺族の方にお願いしたとのことでした。共同体の一員として、一致した気持ちを感じ、この事で協力できて良かったと感想を述べられました。  次に、川辺さんに祈りを、またご遺族役に男女6名出ていただき、納棺と火葬場での祈りのデモンストレーションを見せていただきました。その後、10名づつのグループに分かれて体験学習をし、感想を分かち合いました。

*隣でお坊さんが読経しているとやり難い。冊子があるとありがたい。

*それぞれが、厳粛な気持ちで練習させていただいた。

*共同体全体がこのような気持ちになるためには、地区集会などでのPRが必要。

*これはほんの一例で、今後共同体としてご遺族のサポートを学んで行きたい。

*実際を仮定してやってみたが、うまく出来た。

*「〜さんに祈りをお願いしたい」の時代が来るかもしれない。

*お互いに安心できると思う。心をこめて親しい方の時にさせていただきたい。

以上のような感想が聞かれました。

 終わりにテハン神父さまよりお話がありました。

 こんなに多くの方が集まったのは、それだけ興味があるのだろう。「悲しむ兄弟姉妹のために共に過ごす」ことが、宣教司牧のあり方と思う。家族の気持ちをよく考えることが大切。祈りも大切だけれども、信者でない家族のためには疲れる事もあるので「心をあわせる」ことを大切にしたい。「手を合わせて、お辞儀をする」くらいでもよいかも知れない。疲れている人、老人、遠方から来ている人、空腹なども配慮するように。「共にいる」で充分。また「火葬後の祈り」については、皆「骨」に大変な興味を示すので、祈りは余り必要ではないかも知れないと言われた。教会の代表者として、祈りをリードすることがとても大切と結ばれました。

 暑い日でしたが、実りのある研修会でした。ありがとうございました。



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ティールーム報告と気づいたこと
大庭地区 黒江

 平日朝ミサ後ベルの音と共に開かれるティールームは8月27日で4年目に入りました。週4回位で始めましたが、現在は日曜日を除く毎日開けるようになり、お客さまもその日その日でさまざまです。

 この3年間に新しい出会い、喜び、分かち合いを沢山いただくことができました。そしていろいろなことにも気づきました。

◎喜びのニュースを持って飛び込んで来てくださる方。

◎よくティールームに寄ってくださるメンバーの中から6人の受洗者が生まれ、その度に皆で喜びを共にすることができたこと。

◎「教会って私たちのような者でも入ってよいのですか」と聞かれ「まあまあお茶でも一杯・・」というところから出会いが始まったこと。

◎心に傷を持ってる方、不安や怒り、苦しみ、悲しみを抱いた方が静かに入ってこられ、皆との時間が僅かであっても少し笑顔になって「またね・・」と帰って行かれたこと。

◎ティールームの話し声が祈りの邪魔になるとの声も時々あった。

◎路上生活者と一緒にお茶を飲むのはもっての外・・とか、お菓子の寄付はしたのはそのような方にまであげるつもりではなかったとか、きちんとお金を10円取っているのかとか、100円にすればよい・・などの声もあり、心の中が乱れたこと。

 けれども、いつでも神がそこにおられ、その時々に良いようにしてくださったと思っています。

 最近主任司祭から「祈り合い、証し合い、奉仕し合い、支え合いという初代教会の4つの姿がティールームにはある」とのお言葉をいただき、「交わりを大切に」と、助言もいただきとてもうれしいです。

 平日ミサ後の1時間ではありますが、どなたにとっても気軽に集える場でありますようにと願っております。皆さまこれからもどうぞよろしくお願いいたします。そしてお立ち寄りくださいますように。神に賛美と感謝



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仏教とキリスト教(13)キリスト教的霊性 その五「赦し、癒し、徴し」
藤沢二区 兼子

ヨハネによる福音に描かれている奇跡には文字通りの意味というよりは何か象徴的な深い意味が隠されている。生まれつきの盲人の両眼を開ける奇跡がそうだ。9章全体に展開するその話は明らかに「心の目でイエスを見ているか、イエスを神の子と信じているか」と信仰が問われている。両眼を開けて貰った男はイエスが「人の子を信じるか」と言うと「はい信じます」と告白するが、一緒に居合わせたファリサイ派の人々は「我々も見えない(真理に目を瞑っている) ということか」と臍を曲げる。イエスは「(目が) 見えなかったのであれば罪はない。しかし目が見える(真理を知ることが出来る) と主張しているのに見なかった(真理を知ろうとしなかった)のだから罪がのこる」と断罪する。41節この章には当時のユダヤ社会における病気(障害)観がよく現れている。つまり罪とその結果である病気の関係、さらに罪の赦しと癒し(奇跡的治癒)の関係が。弟子たちはイエスに尋ねる。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは誰が罪を犯したからですか。本人ですかそれとも両親ですか」イエスは答え「本人でも両親でもない。神の業がこの人に現れるためだ」。神の業(奇跡) が現れるためとはどう言う意味だろうか。当時の病気観によれば病気(障害) は罪に課せられる罰、神に個人が負っている自分や祖先の負債だ。しかし罪に因る結果としての病気という考えはユダヤ教だけのものではない。わが国の仏教的な精神風土でも「親の因果が子に報い」という発想はある。もう少し深刻な、道徳的な例もフランス文学にある。今は読まれなくなったスタンダールの『赤と黒』、その中に登場する野心的な美貌の家庭教師ジュリアン・ソレル。彼と過ちを犯した田舎貴族の婦人は子供が病気になったのは自分の不倫の結果だ、天罰がくだったのだと思い込む。

 それはさておきイエスが因果的ではなく目的論的に答えられたことに注目しよう。当時の偏見に囚われずイエスは飽くまで大事なのは過去ではなく未来だと言われる。即ち「(誰が罪を犯したかという) 過去が問題なのではなく奇跡的な徴しが行われることにより、イエスを神の子であるとする正しい認識(信仰)を人が受けいれるかどうかという将来が問題なのだ」と言われるのである。しかも徴し( 奇跡、業、栄光) を見て当事者個人が救いに到るだけではなく罪が赦されること( 癒し)によって、多くの人が信仰に導かれる(真理が見えるようになる) ためだ、という所がイエスの答えの最も大事な点なのである。

その後、イエスは唾で土をこね男の両眼に塗り、シロアムの池で洗わせ両眼を開けられる。描写が極めて具体的でリアリティがあるので、私たちは文字通りの癒しの徴し(奇跡)と思いがちだが、この話もファリサイ派の断罪のところまで読むと、じつは上に述べたように人々がイエスの行われる徴しをみて、真理に目覚める(正しい信仰に導かれる)ことが要点なのだと判る。

以上述べたことは「罪の赦しと癒しの関係」であるが、福音の中ではもうひとつ「信仰があなたを救った(癒す)」という表現がある。これはどう言うことだろうか。図式的に言うと、その人の信仰(神に対する全幅の信頼)をみてイエスが憐れに思い、罪の赦しが行われ病気(障害) 治癒が実現する。信仰をみてと言うのは、只々治りたい一心でという心理状態の意味ではない。勿論、治りたいという気持ちは大事である。しかしその強い気持ちは必要条件ではあっても十分な条件ではない。神が癒されるのは治りたいというその思いの強さだけによるのではなく、自分は「神によって癒される」という神への100%の信頼が必要なのだ。そのときイエスは「あなたの信仰があなたを救った(罪の結果としての病気や障害があなたの信仰によって赦された)」と言われるのである。ここに12・年間、長血を患っていた女性の話を要約的に引用する。ルカ8章43節以降。会堂長ヤイロの娘の所に急いでおられたイエスは大勢の群衆に取り囲まれた。その中に医者に全財産を使い果たしてなお12年間出血が止まらぬ娘がいた。娘は治りたい一心で背後からイエスの服の房に触れる。出血は直ちに止まった。イエスは「私にふれたのは誰か」と尋ねる。誰もが否定する。人々が押し合っているのですからという弟子の言葉にイエスはでも確かに誰かが触ったと言う。娘は正直に触れた理由と直ちに癒されたことを震えながら告白する。するとイエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

現代の懐疑主義に毒されている我々は癒しを祈り願うことによって、たとえ病気そのものは治らなくとも、その病気に耐える力、即ち希望と忍耐心が培われ、病者の意識が変化するのだとして癒しの効力そのものについて合理的解釈をとる傾向がある。しかし時代を問わず、本人の治りたい気持ちと100%神を信頼する信仰があれば癒しは必ず起こる。直ちに瞬間的に起きれば奇跡であるが、この世の中には文字通りの奇跡的治癒もある。信仰やその人の生き方を根本から変えるような奇跡はあるのだ。この時に我々はペテロになってはいけない。湖上を歩行していたペテロ(マタイ14章30節) のように中途で疑い始めるとすべてを失うことになる。では100%の信頼とは何か。そのためにはゲッセマネでイエスが御父に祈られた祈りを模範とすることである。「この杯を退けて下さい…しかしみ心のままに…」ここには与えられるものが最善であるという100%の信頼がある。み心のままには決して相手にゲタをあずけて「さあどうして呉れますか」と言う開き直りではない。癒しで言えば「私はあなたによって癒されることを100%信じています」ということなのだ。



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9月の主な行事

3(金)初金ミサ・例会

11(土)湘南台センター10周年記念日 13時30分より

16(木)敬老会ミサ        11時より

19(日)「敬老の日」お祝いミサ  

23(木)秋分の日彼岸ミサ      10時より

25(土)鵠沼ブロック黙想会    「アトンメント会黙想の家」(鵠沼)


9月中高生会のお知らせ

5(日)コーヒーショップ(雨天中止) 準備は8:45センター台所に、販売は9時30ミサ後にお願いします

11(土)湘南台センター10周年記念   参加できる人はリーダーまで連絡ください



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