八 角 形 に ゅ ー す
2005年1月9日
聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会
目次
新年に改められている心・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・テハン
受洗の感謝・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢2区 長谷川
受洗に際して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢1区 李
聖劇「イエス様の御誕生」を祈る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日曜学校 風間
湘南台「親子で集うクリスマス会に参加して」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢2区 彦坂
第32回藤沢市民クリスマス・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・その他 荻野
ベトナムコミュニティのクリスマス会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ソン
「静修の集い」を体験して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢1区 子安
壮年部小旅行紀行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大庭 飯田
「教育ローン」制度の新設・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・共助組合
仏教とキリスト教(16) 仏教的霊性(その一)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢2区 兼子
新年に改められている心
テハン
新年おめでとうございます
今年もよろしくお願いいたします。民数記六章からの言葉により、祈りたいと思います。「主はモーセに仰せになった。アロンとその子らに言いなさい。あなたたちはイスラエルの人々を祝福して、次のように言いなさい。主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らしあなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように。彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、わたしは彼らを祝福するであろう」と祈ります。
イエスはご自分に神から与えられた使命について、預言者イザヤの書を用いて、説明しました。「主の霊が私の上におられる。主はわたしに油をお注ぎになったからである。主がわたしをお遣わしになったのは貧しい者に良いおとずれを伝え、捕らわれびとに釈放を、盲人に視力の回復を告げ、おさえつけられている者に自由を与え、主の恵みの年を告げ知らせるためである」と言う説明でした。私たち一人ひとりが洗礼を受けた時、聖香油の塗油をする時、聖霊の賜物を受け、すなわち大祭司、預言者、王であるキリストに結ばれ、その使命に生きるものとなります。イエスと同じように試みに遭わせる必要があります。
イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、聖霊によって荒れ野に導かれ、四十日の間悪魔の試みに遭われた。その間、何もお食べにならなかったので、その期間が終わると、イエスは飢えを覚えられた。すると悪魔は、「もし、あなたが神の子ならば、この石にパンになるように命じなさい」と言った。イエスは悪魔に向かって「『人はパンだけで生きるのではない』と記されている」と仰せになった。三つの試みがあり、すなわち権力と富と名誉です。その三つのものは悪ではない、けれども一つにでも、とらわれることになったら生きる力が弱くなるでしょう。イエスは権力と富と名誉を拒否し、謙遜と貧しさと現実を選びました。イエスの使命はこの三つの上に立てられました。私たちはイエスの弟子として、新年にあたりもう一度心を改めて、イエスの使命にあずかるよう決心しましょう。
神の国がきますようにお祈りしております。
教会委員会報告
(12月18日)
12月4日の準備チームの集まりで前半、後半二回の講演会について打合せを行った。
前半の講演会 信者を対象に "過去を振り返って未来を考える" ことを基調にしたい、従って講師は聖職者が望ましい、日付けは4月24日(日)が最適である、ということになった。その後、その時講師として名前があがった森一弘司教に打診して内諾を得た。「日本のカトリック50年――その課題と期待」(仮題)というようなテーマを考えている。
後半の講演会 一般の方々を対象に11月中のいずれかの土曜日に行いたい。講師としては知名度が高くかつカトリックと関わりある方を予定しており、折衝中である。
売店検討チーム・スタッフによる売店改修計画(案)が示され、了承された
内部関係 全面的な改装 防犯設備の整備・外部関係 消火栓標識柱の移設 外壁照明の撤去 花壇、植え込みの改造
予算 概算100万円以内(見積り中)
工事時期 2005年1月
検討委員による現地の確認を行い、また他教会から参考として墓地の運用規則などを取り寄せてこれから収支などの検討に入る
バザー収益金のうち合葬に充てる売上金は財務上特別会計に計上することになった
@辻堂ブロック 1月29日新年会
A鵠沼ブロック 1月30日新年会 来年のバザーについては広く意見を聞いて進めたい
B北一、北二ブロック 6月に聖園幼稚園で合同の黙想会、他のブロックも参加の予定
C藤沢ブロック マップ作りが年末に完成
@壮年部 1月15日午後5時・組み方向・30・分から新年会
A総務部 1月8、9日クリスマスデコレーション撤収 50周年の表示は残す
B国際部
5月5日各外国人コミュニティに若い日本人が加わってビンゴ実施を準備している
外国人に要望意見などを聞かせてほしいと問いかけたところ早速反応があった これをどう受けとめるかは改めて考えたい
C福祉部 1月16日第五地区各教会と福祉交流会を計画
D典礼部 5月に典礼フォーラムを行う予定で、これを機に広く意見を出してほしい
E教育部 ・組み方向・12・月の教育部会で家庭での信仰教育について分かち合いを行った
F宣教部
・講座やいろいろな会がいつ行われているかを一覧にした表を作った。今度の受洗者に配付する。オープンになっているものが少ないのでこの点の配慮をお願いしたい
12月11日の市民クリスマスには約390名が参加した。新谷のり子さん(フォーク歌手)が好評であった
1月22日 市内キリスト教連絡会の合同祈祷会がある
来年横浜教区で10名の神父様方が金祝を迎える 当教会のハンラティ神父様がその一人で教会としてお祝いを考えたい
結婚講座 3月、9月の二回開催予定
宣教部内の各部門の50周年への具体的な取り組みがほぼ決まった
宣教部としては修道会あるいはカトリック系の学校、施設等に呼びかけてフォーラムを実施したい
下記の枠組みで了承された
日 時:2月13日(日)9時30分ミサ後
テーマ:藤沢教会50周年「ともに未来へ――50年の歩みに感謝」
当日予定
第一部 活動・財務・教勢の各報告
第二部 第二部 右記テーマに沿った2〜3名のプレゼンテーションと話し合い
(1) 1月の初金 7日9時30分から
(2)年末年始の休み
教会事務所 12月28日〜1月4日
湘南台センター 12月26日〜1月5日
12月24夜半ミサで5名の方が受洗されました。お二人の方からメッセージをいただき、それを紹介させていただきます。
受洗の感謝
藤沢2区 長谷川
この日を迎えられたことは奇跡です。
多くの一緒に歩いてくださった方々、優しく導いてくださった方々、祈り、見守り続けてくださった方々すべての出会いの中で導かれ、運んでいただいたような気がします。ありがたさ、感謝でいっぱいです。
一方、洗い清め、新たに生まれさせていただいた小さな光を、灯し続けていく困難さに今、たじろいでいます。
これからも、神様、皆様お導きください。
受洗に際して
藤沢1区 李
本にはリベラリストを任じながら、実際の行状は封建君主で、知らぬは本人ばかりなり。
笑えぬ話であります。わが家では年間十回以上、先祖の祭祠を営む法事があり、無くなった父は最優先順位に据えていました。広島にある実家まで東京から往復するのでありますから、参勤交代さながらでありました。法事の司式順序は男性主義で、女性の地位はその他準備係の役に過ぎませんでした。本家の跡継ぎが成人したので、祭祀の営みは韓国の本家に移牒されましたが、本人の知らぬ間に、封建的な雰囲気は己の個性となっておりました。 妻の希望によりソウルの明洞聖堂で結婚式を挙げることになり、当時の神父様には信者となるよう努力しますと約束しながら30年以上が経過しました。学生時代に四谷にある教会の門を叩いたことがありますが、非信者に対する余所者扱いの雰囲気に辟易として距離を感じておりました。とはいいながら、三人の子供たちは妻の希望で幼児洗礼を受け、カトリックとの関係ある環境にありながら、二主にまみええることを潔しとしない自縛に罹り、私一人が蚊帳の外におりました。その間、禅宗に興味を抱き、総持寺、永平寺などを訪ねたことがありますが、教義が難解で、気安く付き合うことに不安を覚えておりました。
1999年末から2000年初めの二週間をローマで過ごし、家内の姉の案内で、パウロ教皇様を目前にしたバチカンの新年ミサに参席する機会がありました。十万人を超える世界各地から集まった熱心な信者の熱気にあおられ、市内の教会建築、美術、博物館、遺跡、アッシジなどを見て周り、カトリックの大きな力を見せつけられました。
そのような下地がある中で、妻が藤沢教会でのキリスト教講座の知らせを聞いて来たのであります。バチカン第二公会議後のカトリック教義をグリフィン神父様が提唱されたキリスト教講義として、佐々木リーダーの歯に衣を着せない解説と講義で共感を覚え、妻共々、楽しい仲間と机を並べ、二年近く教えられたことは幸せでありました。
併せて、藤沢教会の「八角形にゅーす」に連載された兼子先生の「仏教とキリスト教」は他の宗教との比較において大きな参考となり、テハン神父様を始めハンラティ神父様、マーフィ神父様の説教を聞きながら、独り合点していた自縛が解け、人生の羅針盤としてこのカトリック教義に心身をゆだね、神の教えに従うべきだと思うようになった次第であります。まだまだ聖書も読破していない現状でありますが理屈をこねるより実践が先ではないかと思い至り、それこそ一年生の気持ちで勉強したいと思っております。ここまで来るには、忍耐強く、信仰を守り、回心の心で我が儘な私を支え、私の自主性に任せてくれた家内に感謝しております。
洗礼を受けて、キリストと共に生まれ変わる喜びの前に、傲岸不遜であった自分を省みて、恥ずかしく思いながらも、罪の許しを請いたい気持ちで一杯であります。キリスト者として歩み始める自分が、神の恵み、祝福、聖霊など縁遠く思っていた言葉が素直に口走れるようになっただけでも幸せを感じております。
小説「ヨシュア」で教会は平和の波止場であり、夜道を照らすかがり火で、心を休める場所であるとしております。信仰は心の中にあると思っておりますが、共同体の中で切磋琢磨することも大切であると思います。
司式の中でテハン神父様から暖かい洗礼聖水を掛けられ、脳細胞の一部が弾けるような気がしました。初めて口にした聖体の味は、グルメの領域とは違い、キリストの教えを口にする非常の瞬間であると思いました。
記念撮影の後、家族、知人、講座仲間から祝福を受け聖堂をあとにする時、初めて使った聖水で十字を切る新鮮さは格別でありました。
記念撮影の後、家族、知人、講座仲間から祝福を受け、聖堂をあとにする時、初めて使った聖水で十字架を切る新鮮さは格別でありました。
晴れて藤沢カトリック教会の共同体の一員として歩める栄誉を担えることは世界中のカトリック教会がわが家に成りえることであり、その喜びを噛みしめております。
未熟者でございますが、今後とも皆様のご指導を仰ぎたいと思います。
聖劇「イエス様の御誕生」を祈る
日曜学校 風間
今年も百名近い子供たちと共にクリスマスのミサの中で福音朗読の代わりに聖劇をしました。子供たちは落ちついて、心をこめてやってくれたと感謝しております。最も大切なミサの中で、全学年が一緒になって一つの事が出来るということは大きなお恵みです。リーダー達も喜び共に感動しました。
練習は11月下旬から5回、一日、2時間半くらいです。12月23日に3年生(旅人)、2年生(聖歌隊)、1年生(羊)が加わり初めての顔合わせなのにリハーサルで、劇を一回やるのに一時間もかかり、もう大変です。でも24日の本番前の練習の頃には大分まとまり後は神様と子供たちの能力に安心して任せることが出来ました。
今年は特に自身の体験から、腹式呼吸や発声練習が劇の練習に入るのに集中力を高めセリフを言うのに効果があると思いましたので時間をとりました。
以前、バーガー神父様が「聖劇は祈りです」と仰いましたが、ハンラティ神父様の「聖書を祈る」を体験してみてわかって来たような気がします。毎年繰り返される物語ですが、登場人物を通して私たちに働きかけてくれる神のメッセージをその時、その時の思いで聞き、受けとめてまいりたいと思います。
聖劇のために祈り、ご協力くださいました皆様にお礼申し上げます。感謝のうちに。
聖劇を終えて
6年 坂本
今年は「ナレーター」の役をやってセリフも覚えなくていいから、楽だろうと思いましたが、ゆっくり、大きな声で読むように言われ、意外と大変でした。また、ピアノをきいてから言うのにきかないで言ってしまったり、練習の時はまちがえてばかりでした。でも本番は自分的にはよくできたと思っています。
6年 松下
私は今回、日曜学校に入る前からずっとやりたかった「ガブリエル」の役をやりました。終わった後に神父様たちに拍手していただき、練習の成果が出たんだなと思ってとてもうれしかったです。
6年 渡辺
「マリア様」の役を通してその時の気持ちが少し分かった気がしました。お告げを受けた時は自分が神様に必要とされていると知ってとても嬉しかったと思います。この劇を見てくれた人が少しでもクリスマスについてわかってくれたら嬉しいです。
6年 古郡
今年は「博士」という重要な人物をやった。去年よりもセリフが多かったため、おぼえるのも大変だった。でも最後は成功してよかった。星を見つけて捧げ物を持って出かけるなんて、自分だったら行かないと思う。博士たちは偉いと思った。
6年 高田
ぼくは、聖劇で「学者」の役をやりました。セリフは短くて言いやすかった。劇でもうまく言えたと思う。ぼくは、6年生なので今年が最後だけど、とても楽しかった。リーダーの皆さん、ありがとうございました。
湘南台「親子で集うクリスマス会に参加して」
藤沢2区 彦坂
12月25日に、私は湘南台センターの「親子で集うクリスマスの会」に参加しました。クリスマスを祝う歌から始まり、ゲームや折り紙など、子供から大人まで皆で楽しい時を過ごしました。一番盛り上がったのは「ビンゴゲーム」でした。
私が心に残ったのは、老人ホームのお年寄りのために、折り紙でハート飾りを作ったことです。出来上がったハートにそれぞれメッセージを書きました。字の書けない子は絵を描いて、皆でまぶねのイエス様にお捧げしました。たくさんのハート飾りが、老人ホームのお年寄りの方々の心にクリスマスの喜びを届けてくれますようにと祈りました。
今回私は、スタッフとして参加しましたが、準備する側に立ってみると、縁の下で働く力があるからこそ集いが成功するんだなあと実感しました。何気なく準備されたようなおむすびも、来てくださる方がよろこばれるように辛すぎない物を選び、飲み物も何を買おうかとスタッフは心を配ります。でも皆、神様のために一つになってやっているのです。来・年もぜひスタッフとして参加させて欲しいです。
湘南台センターのクリスマスにまだ一度もいらしてない方々、ぜひ来年は、足を運んでみてください。
第32回藤沢市民クリスマス
その他 荻野
12月11日(土)、恒例の「藤沢市内キリスト教連絡会」の主催による「藤沢市民クリスマス」が当教会で開催され、藤沢市内の教派を越えた多くのキリスト信者、そしてクリスチャンではない、多くの市民の皆様とともに主イエス・キリストのご降誕をお祝いすることができました。
市民クリスマスは3部構成で行われ、16時から小田急デパート前で「キャロリング」が行われ、道行くたくさんの人々に歌声で主を賛美し、福音を伝えることができました。
第1部は「クリスマスの祈り」(礼拝、みことばの祭儀)で、片瀬教会のマリオ・バラーロ神父様の司式、日本キリスト教団藤沢大庭教会牧師の白崎智之先生の奨励(説教)によって執り行われました。白崎先生はお説教の中で、現代のきびしい内外の情勢についてふれ、このような状況の中で、私たちのなかに主をお迎えすることの意味を語られました。 第2部は新谷のり子さん(片瀬教会信徒)の歌とお話しによるコンサートでした。新谷さんの歌とお話しは楽しい中にも、愛と平和のメッセージがたくさん含まれていて、聞く私たちに多くの感動を与えてくださいました。最後は参加者全員で「アーメン・ハレルヤ」を歌い、感動の内にコンサートが終わりました。アンコールとして新谷さんの代表作である『フランシーヌの場合』を歌ってくださいました。新谷さんの歌とお話はそれ自体が「福音宣教」であるといっても過言でないという声もありました。白崎先生のお説教と新谷さんの歌とお話の主題は事前の打ち合わせが全くなかったにもかかわらず、一致していたという声がありました。
第3部は「愛餐会」で、野外でのお食事会でした。当教会をはじめ、多くの教会のメンバーによる手作りのおにぎり、とん汁が振る舞われました。特に愛餐会のチーフを努めてくださいました藤沢ナザレン教会牧師の永野先生には感謝します。400人近い参加者が与えられ、成功の内に終わることができました。市内キリスト教連絡会委員だけでなく、多くの皆さんのお支えによって市民クリスマスを祝うことができたことを感謝いたします。
1月22日には、「キリスト教一致のための合同祈祷会」が14時から、藤沢YMCAで行われます。どうぞおでかけください。
12月19日藤沢教会でベトナムコミュニティのクリスマス会が開かれました。一週間前から打ち合わせがあり、それぞれの役割分担を決め、当日の朝から料理とクリスマスツリーの飾り付けの準備でいろいろと大変でしたが皆で力と知恵を出しあって無事時間内に間に合いました。
三時からベトナム語のミサがあり、皆いっしょにミサを参拝しました。
ミサ後ホールでクリスマス会が開かれ、ヒエン司祭や藤沢教会の司祭と役員の方の挨拶で始まり、挨拶の最後に皆で CHUC M NG GIANG SINH(メリークリスマス)と声を掛け合いながら乾杯しました。子供たちはサンタさんからお菓子のプレゼントを渡されたいへん喜んでいました。
「静修の集い」を体験して
藤沢1区 子安
2004年11月28日、待降節第一主日、「静修の集い」が開かれました。この日は朝早くから晴れ渡っていました。普段あまり黙想をしていない私にとって、よく自分を見つめるよい機会が与えられたと思い、昭子と相談して一緒に参加することにいたしました。
ご指導くださったハンラティ神父様のお話は具体的でわかりやすく、ユーモアに富んでいたので、ゆったりとした気持ちで参加することができました。今回は共同回心式が行われたので、「ゆるしの秘蹟」についてのお話が中心でした。
神父様のお話で印象的だったことをまとめると次のようでした。
(1) 「ゆるしの秘蹟」はキリストからの招きです。あなた方はキリストから友人として招待されています。キリストを見ようとしてイチジク桑の木に登った徴税人ザアカイに対して、キリストは「ザアカイ、直ぐ降りて来なさい。今日は是非あなたの家に泊まりたい」と、いわれました。キリストはザアカイのようにあなた方の友人になりたいのです。
(2) 告解のための準備として、自分の弱点、恥ずかしい点を認めることが大切です。
そうしてこそ、キリストと心が通じ合うのです。これは大変よい霊的体操です。例えば自分の利益ばかり考えているとか、自分の立場のために人を操縦するとか、他人のアラばかり探すとか、生まれによって人を差別するとか等々です。
(3) 罪を認めることで、お恵みが与えられます。 ペトロは自信過剰でお祈りをあまりせず、そのため罪を犯しました。しかし自分の犯した罪を認め、その罪が自分の弱さからくることがわかり、一生懸命主に悪に立ち向かえる力を願うお恵みが与えられました。
(4) 私たちは弱さによってつながっています。 弱さのため罪を犯しますが、ゆるしてもらっていることを感謝するのです。
(5) 告解にあたっては、先ず一番感謝したいことを、次に一番くやんでいることを、そして最後に一番力をつけてほしいことを述べるということです。
「静修の集い」は、私にとって新鮮な体験でした。それはこれまで告解のときに主に力を願うことはなかったからです。私は自分の弱さのため恥ずかしさを感じていましたが、それはかえってお恵みとなると聴き、ほっと安心しました。弱さを自覚して、主に助けを願うことで、一歩一歩主に近づくことができるように感じられ、主の温かさによって支えられていることが実感できました。
クリスマスを迎えるよいお膳立てをしてくださった方々に感謝いたします。 (敏雄)
日曜日、夕方のミサに行くと、まず、「皆さんよくいらっしゃいました」と迎えられ、「今日はどんなキリストに出会いたい?」というハンラティ神父様の穏やかな声に導かれミサの祭儀へと入っていきます。
この体験とおなじように「静修の集い」も神父様の静かにやさしく、「ゆるしの秘蹟」の糾明のための豊かな黙想へと導かれて行きました。
神父様が丁寧に、時にはジョークも交えながら、楽しく話してくださるうちに、私はとても自然に、素直な心で自分自身と向かい合っているのに気づきました。
心に響いたことは、「ゆるしの秘蹟」の場合、自分自身の一番恥ずかしい、隠しておきたい、認めたくない、弱い部分でこそ、イエスと出会うのだと、ペトロ、ザアカイ、トマス、エマオの旅人などの分かりやすい例を挙げて説明くださったことです。
人は自分の弱点を正直に認める時、新しい力をいただく。この個人的招きの中でこそ自分の可能性が広がって行く。そしてよりイエスと親しくなる。また自分の弱さを認めれば、弱さでつながっている他人のことも認められ、解り合えるようになる。このような霊的体操が「ゆるしの秘蹟」である、とも言われました。 私はずいぶん最近まで「告解」というと、それまでの自分の犯した過ちや、至らないところなどを探し出し、数え上げ、自分がみじめになり、押しつぶされそうになりながら、告白室に入る。小さな声で口早に自分の罪を告げ、許しを願い、司祭から、「安心して行きなさい」とゆるしていただく。それで重たい宿題でも済ませたかのようにホット肩の荷を下ろすというようなものでした。
この集いを体験して、私は恥ずかしさや恐れから逃げないで、イエスが「あなたと親しくなりたい」と招いてくださり、私が正直に自分の罪を認めて、「ゆるしの秘蹟」を受けて新しくなりたいと思うまで忍耐強く待ってくださる。そしてこのような私を心から喜んでくださる。このことに信頼を寄せて、私を素直に主にゆだねようとおもいました。
司祭からゆるしと祝福をいただき、席に戻って祈っている時、今日特別にこの秘蹟を受けて、共同体の皆様とともに聖霊に満たされて豊かにされていることを、温かく力強く感じました。また、ゆるしている私、ゆるされている私を味わうことで、共同体の一員としての絆を感じてうれしく思いました。ちょうどこの日は小春日和で暖かく、さわやかな青い空でした。
「一度に聖人になれないよ」と微笑えまれる神父様の声に励まされて、新しい自分の成長に向かってチャレンジしようと心を新たにしました。
たくさんの感謝のうちに (昭子)
壮年部小旅行紀行
大庭 飯田
11月27日(土)、壮年部小旅行の足柄アサヒビール園工場見学は、何度もの天気予報の移り変わりに一喜一憂しながらも、当日は幸いにも雲一つない快晴、絶好の行楽日和となりました。自称アルコール党の参加者13名全員神に感謝。JR、小田急、バスと乗り継いで一時間半で無事ビール園へ到着。
早速工場見学開始。あいにく土曜日は一部しか工場は操業していませんでしたが、ガイド嬢の案内で製造行程、熟成工程、最終のビンと缶の詰行程と順次見学。印象に残ったのは、巨大なステンレスタンクが広大な敷地に整然と数多く並んでいたことと、廃物を全てリサイクルし色々な目的に再利用されているとのこと。これからの工場は全て地球に優しいのが当たり前の時代になることが望まれます。
20分程見学している内に不思議にも具合よく喉が渇いてきてビール試飲タイムには絶好のコンディション。13名全員がにわかアサヒビール党になり、出来たてのスーパードライ、黒と白のハーフアンドハーフ、黒生ビールと各々好みのテイストで痛飲。乾燥した足柄山地で新鮮なビールの味は家庭で味わうビールとは、一味も二味も違うことを痛感。制限時間の20分間はアッという間にすぎ、バーベキューと生ビール飲み放題の二次会へ移動。遅い昼食だったので一同程よく腹も空いていたようで、お代わりを何皿もした様子。しかしながら何故か好評だったのは梅干し入りのお握り。これも互いに年のせいかと自問自答。飲み食べる程にお互いにアルコールの勢いを借りて色々な意見続出、いわく壮年部の参加だけでは勿体ない、青年部や、ご婦人方にも声をかけたらもっと賑やかで有意義ではなかろうかと・・次回の課題にしたいものです。 最後は某氏のクサリとリングを使った手品まで飛び出し、あっという間に帰りの時間。余りの天気のよさに、体力と気力の残った面々は、大雄山散策へと出発。残りはそのまま家路へ。秋の行楽には最高の一日でした。これも壮年部メンバーの日頃の信仰の深さの所以? かと自画自賛。再度神に感謝した次第。尚蛇足ながら翌日の日曜日午前のミサには、ほぼ全員スッキリした顔で参加。ご立派でした・。
神の選び
お墓を考える会
今、藤沢教会は葬儀とお墓とを人の生と死の一連のことと受け止め、取り組んでいるところです。
人は、その生まれる前と死んだ後に結ばれて生きるので、決して生まれてから死ぬまでだけを、その人の生と考えることはできません。 その人の一生も、その人に起こる問題も、三代にわたって見ないと理解できないと言われています。すべてに結ばれてある引き合わせに、すべての人の思いや考えを超える意志とはたらきを感じることがあります。それは私たちをどこに導こうとしているのでしょうか。それにどのように応えたらよいのでしょうか。私たちは何時何処でも、それに全身全霊で応えなければならないでしょう。知っていて応えるだけではとても足りないのです。是非皆さんも一緒に考えてください。どんな小さな考えでもよいのです。そのつど私たち八人に知らせてください。私たちも途中の段階をいろいろお知らせしたい。
その未知のこの先に向かう交わりの中から、神の選びが浮かび上がって見えて来るでしょう。私たちはこうして神の選びに結ばれて聖霊の交わり、終わりのない創造を生きる者になるのでしょう。
今までの検討委員会で話し合われた内容をまとめると、次のようになります。
昔は、それぞれの地域の共同体が親身になってそれに属する人の葬儀を行い、埋葬地を代々管理していました。ところが現代社会では様変わりして、公営の施設が管理します。家族や身寄り子供のない単身者も多い現在自分の死後を誰に託したらよいのかという問題があります。そこで墓地の今後は、家や個人の墓だけでなく、志を同じくする者が集まり、死後を受託できる共同体をつくる方向に向かいつつあるようです。それに伴い遺骨の合葬あるいは合祀という考え方が出てきています。検討委員会もその方向で検討しはじめました。
12月7日の新聞は、藤沢市も合葬納骨室を来年1月に完成すると報じています。委員会では、遺骨壺を並べる棚・収納するロッカー・一緒に合祀する墓の三つの方法で今考えています。敷地は、案内図にあるように聖園の敷地内巾10m奥行き90mの東西に長い土地です。一度ご覧になってください。西に森、南にグランド、ひろびろしたロケーションです。聖園に造るので、園の一字をいただいて合葬の園はどうだろう、と仮の名まででているところです。皆さんも私たちと一緒に考えてください。(文責:岡村)
いつも共助組合運動にご理解・ご支援を賜り、ありがとうございます。
共助組合藤沢支部では会員の皆様に、より共助組合をご利用いただけるように「一般の貸付け」よりは低い手数料率で借入れのできる「教育ローン」制度を発足させました。これによって会員の皆様方の教育費のご負担に少しでもお役にたてればと願っております。どうぞお気軽にご相談、ご利用ください。
ご利用できる方:幼稚園、小・中・高等学校、大学等の在籍者あるいは入学進学予定者の保護者
資金使途:入学金、授業料、教材費その他必要経費
金 額:最高100万円
借入期間:最長5年
返済方法:原則として毎月元金均等払い
資金使途証明書類:入学金、学費納入付書等資金使途を証明する書類をご提出ください。
申込み受付、ご相談、ご質問等は毎日曜日9時半ミサ終了後に、聖堂入口横の共助組合事務所までお越しください。
仏教とキリスト教(16) 仏教的霊性(その一) 阿弥陀仏をイメ−ジする
藤沢2区 兼子
よく晴れた真冬の相模湾のどこの浜辺からでもいいのだが、海の向こうの山際にゆっくりと沈んでいく太陽を見ると、その神秘的な赤あかと満ち足りた美しさに誰でも一度は心を奪われるに違いない。かつて南回りで欧州に向かった時、さすがにもうプロペラ機ではなかったが途中で何回か給油のために寄港した。インドのどこだったか記憶していないのだが、空港ロビーで時間を潰した時、インドのムッとする暑さに辟易した記憶がある。そしてその時、何故インド人が西方(太陽の沈む方向)に多くの浄土を考え出したのか、なぜ、旭日よりも落日に心惹かれるのか判る気がした。
宗派の如何に関わらず「南無阿弥陀仏」の六字の名号を知らぬ日本人はいない。「浄土三部経」の最初の『観無量寿経』によれば、あの阿闍世王の母、韋提希夫人イダイケブニンは釈尊の前に自己の罪深さを懺悔し、悲しみの余り慟哭し多くの仏国土はあれど、自分は特に阿弥陀仏のおわす極楽浄土に生まれたいと切望する。釈尊は一心に西方を思うべしと正座し日没の太陽を観想イメージすることを説く。つまりこの経は浄土と阿弥陀仏をイメージする為のテキストである。赤々とした落日をイメージした後は水を、水の後には氷をと計六つの観想を過ぎると愈、今度は眩いばかりの光明を放つ阿弥陀仏(アミターバ、アミターユス)と脇に侍る菩薩像が浮かび上る。ここで具体的なイメージとしては兵庫県小野市浄土寺の国宝三尊立像を想起せよ。阿弥陀仏の特徴はその名(アミタ無限の、アーバ光、アーユス寿命) の如く無限の光、無量の寿命をもつことである。阿弥陀仏(無量寿仏)の光明は無限の慈悲を遍く衆生、それも自ら受け取ろうとする衆生の上に注ぐ。法然の次の歌はそれをよく伝えている。「月影の到らぬ里はなけれども眺むる人の心にぞ住む」。
ここで慈・悲について少し述べる。慈とは難儀している人に頼まれなくとも(不請の友)手を差し伸べることであり、悲とは他人とその苦しみを分かつこと、他人の苦しみに共感することである。例えば子を亡くした親の気持ちは所詮、経験したことのない他人にはわからぬ。しかし自ら同じ経験をした者ならばその辛さや痛みを分かつことは出来る。だから悲とは自己の悲しい感情ではなく他人と痛みを分かつ憐み(compassion)のことである。 イエスは福音のなかで心底から(ギリシャ語原文では腸が震えるくらいに)他人を憐れまれる。例えばラザロが死んで四日目にイエスは漸くマリアとマルタの所に到着する。二人の悲しみの大きさと自らのラザロを愛する気持ちから、イエスは心底から憐れまれラザロを蘇生させた。ヨハネ11章38節。心底から他人の苦しみ、痛みに共感すること。仏の大慈悲とは正にそれである。さて十三の観想のうち中心は第九番目の仏身観である。即ち阿弥陀(無量寿)仏の無限に大きい体とその光明を観ずる方法である。「この無量寿仏には八万四千の相(特徴)があり、その相の一つ一つにはまた八万四千の微細な相がある」。その続きには、さらにその一つ一つに八万四千の光明のあることが述べられ、光明は遍く十方世界を照らし、一心に念仏(仏のイメ−ジを心に思い描く)する衆生を摂取して捨てることがない。仏身を見ることは即ち仏心をみることであり、仏心とは大慈悲そのものである。阿弥陀仏はじつに無量・無縁(無条件で、限りのない)の慈悲を衆生に及ぼすために世に出られたのだ。このように超巨大な仏身を観想したかと思うと、一転して今度はその仏身の微細な特徴の一つひとつをクローズアップする。こう言う観想を、しかし、絶えず続けることに凡夫はよく堪え得るものであろうか。
そこで無量寿仏(阿弥陀)の観想(心のなかでイメージを思い浮かべること)が困難な凡夫には九種類の修行方法が説かれる。即ち大乗仏教を修める凡夫、小乗仏教を修める凡夫、世間的な善を行う凡夫、そして悪を行う計九種類の凡夫のための修行方法が。最上位の上品上生 ジョウホン ジョウショウ の凡夫はたとえ浄土に往生しても再びこの濁世に戻って(還相ケンソウ)菩薩行に携わりえる程、高貴な恵まれた存在だが、最下位の下品下生ゲホン ゲショウの者も、ある意味ではもっと仏の慈悲に恵まれる。何故なら五逆(父・母を殺害、聖者を殺害、仏陀の身体を傷つける、教団の分裂)、十悪(殺生、盗み、邪淫、妄語、貪り、怒り、愚かさ等の十の悪事)を犯し本来なら堕地獄を免れない極悪人である下品下生の凡夫(実は我々)でさえ臨終のときに自分はそれまで念仏する暇がなかったと懺悔すると「もしあなたが阿弥陀仏をイメージできなければ、ただ口で南無阿弥陀仏と称えなさい」と教えられる。そこで悪人は十回「南無阿弥陀仏(ああ、あみださま。あなたに帰依します。罪深い私を救い取って下さい)」と称える。すると一声毎に実に八十億刧(とほうもなく永い期間)の一切の罪が赦され、たちまち浄土に生まれ変わることが出来た。
『観経』に対するコメンタリーである『観経疏』を著した唐の善導は浄土宗の開祖法然が「偏に善導一師に依る」と私淑する善知識であるが「自身はこれ罪悪生死の凡夫」と、悟とは無縁の自己を深く自覚し、そういう自己をも救って下さる阿弥陀仏の慈悲の大きさに感動する。その善導によれば観仏(仏を観想する)と念仏(仏を憶念しつつ口で南無阿弥陀仏と称える)は一如だが、それでもなお従来、観仏は念仏よりも優れた方法と見なされてきた。源信の立場もまたそうである。しかし「凡夫こそ仏の正客」とする法然に至って、口称念仏こそ我々凡夫(衆生)が極楽往生に到る至上の方法とされたのである。ここに日本仏教における阿弥陀仏信仰のその後の驚異的発展の基礎が築かれたと言えよう。
去る11月28日(待降節第一主日)をもって、藤沢教会の献堂50周年をお祝いする記念すべき年が始まりました。それを象徴するパフォーマンスとして9時半ミサの終わり近く、シンボルマークの披露(除幕式)が行われました。 聖堂の正面入口、欄間内側に取り付けられたシンボルマークの覆いが、ハンラティ神父様と片桐教会委員長の手に握られたテープによって下に引かれると、シンボルマークを張りつけた台紙そのものがハラリと落ちて衆人の注視を浴びました。この日のために準備チーム(企画調整チームと呼称変更)は相応しいパフォーマンスをと考えていましたが、思わぬところで皆さんの注目を浴びてしまいました。 さてこのシンボルマークは大庭地区の田辺さんの労作です。「ともに未来へ」力強く歩もうとするダイナミズムが感じられます。真ん中にギリシャ語のキリストの頭文字XPが置かれ、「ともに未来へ」進む運動の中心が「キリストの愛」にあることを明示しています。三神教会副委員長の言葉によると、周囲に余白が多くとってあるのは、その余白に皆さんの思い思いの言葉をこの一年の間に、順次、書き足していただくという趣向です。下からでは細かい点までよく見えないという方には、同じシンボルマークが教会報の「クリスマス特集号」の表紙を飾っていますので、それをご覧下さい。では皆さん、このシンボルマークを旗印に50周年を記念すべき年にするために「ともに未来へ」力強く歩みだそうではありませんか。 50周年企画調整チーム |
1(土)神の母聖マリア・元旦ミサ
2(日)主の公現
7(金)初金ミサ・例会
9(日)主の洗礼・成人式・日曜学校新年会
10(月)年間第1週の始まり
15(土)壮年部新年会
16(日)スカウト餅つき・防災訓練
22(土)キリスト教一致合同祈祷会
23日)大阪教区・松浦司教講演会
29(土)辻堂ブロック新年会
30(日)入門式 鵠沼ブロック新年会
9(日)成人祝福式を迎える先輩たちのお祝い会に参加。お茶を用意します。手伝える人は、8時45分に台所に来てください
16(日)コーヒーショップと中高生会(202号室)
8(土)信仰の分かち合い
22(土)生活と活動の見直し
センター203号室で、19時〜21時
藤沢教会・片瀬教会・茅ヶ崎教会の青年たちが合同で集まっています。協力司祭は、中和田教会のジャック神父様です。