八 角 形 に ゅ ー す
2005年2月7日
聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会
目次
私の先生は?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ハンラティ
聖コロンバン会特集」その1
サンタさん便り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼3区 平野
成人式を迎えて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢2区 渡邉
祝福式に参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢1区 福田
壮年部新年会によせて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢1区 李
第五地区福音宣教委員会に参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宣教部 岡田
今 問われる平和への道・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・善行 岡村
仏教とキリスト教(17) 仏教的霊性(その二)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢2区 兼子
私の先生は?
ハンラティ
先日、長い間私の祈りの講座に参加して、今や良き友人でもある藤沢教会の信者さんが、私のところに一つのお願いを持ってきました。彼女は、近所に住んでいる一人の年老いた病気の女性の世話を手伝っていました。この年配の女性は、教会とは何の関係もありませんでしたが、かねがねその信者さんに、自分のお葬式は彼女の教会でしてほしいと言っていました。それで、彼女はそのことを私に受け入れてほしいと、頼みに来たのでした。
私は、しばらく考えて理由をいくつか挙げそのことを約束できないと言いました。しかし、私は教会の仕事で多忙でしたが、もしそのご病人が亡くなられた時には、そこの家で一緒に祈る時間をとることが出来るかもしれない、また、平日の9時のミサの中で、そのご病人と彼女を手伝っている人々のために、何か特別の祈りをすることは難しいことではないということも伝えました。
それから数週間たったある朝、その方は亡くなりご家族も教会での葬儀を望んでいらっしゃることを聞きましたが、私はその願いを受けることは出来ませんでした。私たちは、そのことについてもう一度話し合いましたが、私は、平日のミサの中で、何か特別な祈りをする以外は何も出来ないと、不本意ながら断わざるをえませんでした。
彼女は、私に断りの話を聞いた後、彼女と同じように祈りの講座に出席しその病人のお手伝いをしている友達にその話をしました。それから、彼女たちは教会に戻り、いつも教会の葬儀で司会をしていらっしゃる方を始め、いろいろな方たちに協力をお願いしました。通夜と葬儀に使う聖書や祈りのプリントを用意してもらったり、聖歌集、お焼香の入れ物などを借りました。何人かの信者さんたち、聖歌を歌う方、キーボードを弾く方をお願いし、葬儀屋さんに依頼して、お花や棺などを整えてもらいました。
そして、その夜、彼女たちは、死について、また友情についての話もして、完全に通夜を執り行いました。そのようなことをしたのは、彼女たちが始めてです。そして、その翌日正午に、教会の方々だけではなく、大勢の近所の方々と共に、葬儀もしました。葬儀を終えた後、彼女は再び私のところに来てその翌日の9時のミサの間に亡くなられた方のために祈ってほしいと頼み、その間の出来事を私に話しました。
私はその話を全部聞いたとき、本当に驚き感動し亡くなられた方と、最後まで彼女の世話をなさった方たちのために、喜んでミサを捧げたいと言いました。
そしてそのミサの中で、私たちは何曲か特別の聖歌を歌い祈りました。そこには、私がこれまで会ったことのない5人の女性が、一緒に与かっていることに気づきました。彼女たちは、通夜と葬儀を手伝った近所の方たちで始めて教会に来られたのでした。
私は一人一人の方が頂いている命の賜物、また、神様が一人の生命を通して、いろいろな方に与えていらっしゃる賜物に感謝の気持ちをもつ話をしました。一度も教会にいらっしゃったことがなかったこの亡くなられた女性のおかげで、キリスト者がキリスト者として、また人間として成長したことに、私は強く心を打たれました。亡くなられた方は、近所の方々の中にあって、特別な新しい一致と関係を築く道具だったのです。それは、本当に多くの恵みを認める時でした。その後、「葬儀を考える会」の集いの中で、彼女たちはおよそ50人の方たちとその体験を分かち合いました。
私もこの出来事が、自分にどれほど影響を与えたかを考え、非常に驚き喜んでいます。 私は、日本で40年以上宣教師として、いろいろな場所でいろいろな方法で、人々にお恵みを与える道具として働いてきました。しかし、今回のことは、新しい日本人のキリスト者が、素晴らしい宣教師になった立派な例でした。そして、それは私が手伝うことを拒否したことから始まったものでした。
私は心から感謝しています。それは私の宣教生活の結びに向って、安心感と元気を与えられる体験となりました。またそれは、私の中で次のようなことを強く信じ、納得するようになりました。48年前、教えるために来日するという気持ちをもっていました。しかし、神様は教えるためではなく、何よりも先ず学ぶために、私をここに遣わされたことをだんだんに気付かせてくださいました。そして、今そのことがもっと深いレベルで解るようになっています。
それは私が学び続けているからではありません。それは、ここで深く関わっている人々の中で働いていらっしゃる神様を体験することによって、より多く気付かされるのです。彼女たちは私の先生でもあります。そしてそのことに対して、私は大いに感謝しています。
先日の記事の中に、私は49年前の若い宣教師の写真を載せました。多くの方々に、それはあまりにも若くハンサムで私ではないようだと言われました。でも、本当に私の写真でしたよ。この記事には、現在の私の写真を載せました。私はこの写真の方がずっと好きです。何故? それは誰かの話を聴いている私だからです。
私は、他人の話をより良く聴くことを学んでいます。そして、勿論よく聴くことが出来れば出来るほど、私はより良い宣教師になりより良い司祭になれます。ですから、この私の写真をとっておいてください。
教会委員会報告
(1月15日)
前年度の課題の総括と運営委員会で検討された今年度の新たな課題8項目について個々の項目および全体の表示の仕方等について議論した。信徒総会で公表される。
2004年度全体の収支では当初は、大幅なマイナスを予想していたが、実際には260万円のプラスで終った。ただしバザー収益金のうち合葬墓地建設のための資金190万円が特別会計への振替え未済で、これを考慮するとほぼ収支が見合ったものとなる。また、大規模修繕が行われなかったこともプラスに働いた。収入の部では祭儀献金が前年比500万円減っている。支出の部では教区本部への納入金を除けば全般に経費削減がなされている。
月定献金の支払い方法のメニューを増やすことを考えている。具体的には金融機関の自動引き落としを検討しているが、手はじめとして手数料の低い郵便局から実施の予定である。
改修工事 期間は1月24日から1月31日の予定、
会計 2004年度総売上は1,017万円で、2003年度の959万円を上回った。イースター期間中の売り上げが多かったことと、10月以降の新体制への移行が順調に行われたことが貢献した。2004年度は不良在庫の処分約90万円を実施すると、若干のマイナス見込みだが、05年度からは収支の改善が期待でき、教会財政への寄与もできると思われる。
既報の通り聖園に「合葬の園」をつくるという基本線で計画を進めている。どんなものになるかを簡単なスケッチで今月末までに示すことを考えている。
規模について将来建物を拡大しようとすると改めて許可が必要となるので当初から大きめのものを作る予定である。
@福祉部
鵠沼石上の湘南クリニックでデイサービスのボランティアを始めた。月1回3時間で月・水に行っている。関心のある方があれば参加してほしい。
A教育部
年間行事予定で4月17日となっている初聖体を3月13日に変更して行う。
@ビンゴ、ガーデンパーティー、運動会を5月5日に聖園女学院で一緒に行うべく準備している。
A聖コロンバン会への感謝のためコンサートを行いたい。4月16日(土)を第一希望日として出演者と折衝している。
横浜教区の司祭移動が発表され、藤沢教会には復活祭後次の3人が着任します 鈴木勁介 師 (主任司祭、中和田教会主任を兼任) |
「聖コロンバン会特集」その1
今年の司祭移動で、当教会に初めて教区の邦人司祭が赴任する事になりました。50年前の創設当時、藤沢を含む湘南地区(逗子から小田原まで)は聖コロンバン会が司祭人事や教会建設等を含む宣教司牧すべてを横浜教区より委託されていました。そのため、聖コロンバン会はアイルランド、アメリカ、オーストラリアなどからの寄付をもとに横浜教区のために藤沢や平塚などの教会を建設したり、湘南地区の諸教会に多くの司祭を送り宣教司牧に貢献しました。その後逗子、鎌倉地区を教区へ移管し、1980年代半ばに聖コロンバン会と横浜教区との契約が、地区の委託から教区への宣教司祭派遣に変わりました。これにともない、湘南地区の教会でもコロンバン会以外の司祭が司牧にあたるようになり、またコロンバン会の司祭が湘南地区以外の教会で働くようにもなりました。このような流れと日本で働くコロンバン会司祭の減少や高齢化に伴って、今回の移動が決められたようです。
50周年のサブテーマは「50年の歩みに感謝」ですが、企画当初から長年藤沢の宣教司牧に力を注いでいただいた「聖コロンバン会への感謝」も含まれています。この機会に、『聖コロンバン会』の働きを再認識し、これまで私たちがいただいた恵みに改めて感謝いたしたいと思います。
ブロイック神父とガルヴィン司教
20世紀初頭、アイルランドの教会はアメリカ、イギリス、オーストラリアへ移住した膨大な数のアイルランド人の霊的保護と世話の必要から多くの司祭たちをこれらの国へ送っていた。聖コロンバン宣教会創立者の一人でアイルランドの教区司祭であったエドワード・ガルヴィン神父はニューヨークの小教区で司牧をしていたが、そこで、スカボロ会の創立者フレーザ神父から中国での宣教の話を聞いて神からの呼びかけと感じ、宣教師となる決意を固めて1912年中国に渡った。中国での仕事は個人的活動では消化できない程多いことを知ったガルヴィン神父は、アイルランドに戻って神学校の協力を求めた。これに当時アイルランドの中央大神学校の教授をしていたジョン・ブロイック神父が中国での宣教に共鳴し、教授の地位を捨てて中国に向かった。そして1916年ガルヴィン神父と共に聖コロンバン宣教教会を創設し、翌1917年ローマ聖庁から在俗司祭による外国宣教会として正式の認可を得た。
コロンバン(Columbanの語源は古代ゲール語でColum=鳩、ban=白、すなわち「白い鳩」という意味で平和の印でもある)の名称はアイルランドの修道者で会の保護聖人として選んだ聖コロンバン(543〜615)からとられた。彼は自分の国を出てヨーロッパ大陸で数々の修道院を創立しながら、宣教活動を行った人である。彼の功績の一つはフランスの教会に改革をもたらしたことで、彼とその弟子たちが設立した修道院とその学校はヨーロッパでは先駆的な存在となった。
また彼は回心の秘蹟の新しい形態を確立した人としても知られている。すなわち聴罪(秘密かつ個人的)、告白とそれに伴う個人的な償いという新しい「ゆるしの秘蹟」の形態はカトリック教会全体に広く行きわたり、霊性上有益なものと考えられるようになった。彼のモットーは"Christi Simus Non Nostri"であり、このラテン語は"我等はキリストのものにならう、自分自身を捨てて"という意味である。聖コロンバンの模範にならい、彼のこのモットーに生きる小さな教区司祭の宣教グループはキリストのメッセージを極東に伝え広めるために自分たちの生命を捧げる決心をした。
アイルランドの元神学校
聖ロンバン会はアイルランドで発展したあと、1918年アメリカ、1920年オーストラリアに神学校を設立し、宣教師の育成に力を入れた。聖コロンバン会は当初から英語国民よりなる外国宣教会として多国籍の宣教師の組織を目指しており、元々会員はアイルランド、米国、オーストラリア、ニュージーランド、英国、カナダの国々の出身者であった。これらの国々は「宣教師派遣国」あるいは「ホーム・カントリー」と呼ばれていた。そして宣教活動をしている地域での教区司祭の育成にも力を注いできた。しかし、1982年の総会で宣教国に助けを求める日がきた。すなわち、宣教国でも神学生を募集して宣教師を育成することを決議し、現在までに、ペルー、フィジー、チリ、フィリピン、韓国などで実を結んでいる。
聖コロンバン会は最初「中国への宣教会」と称され、第2次世界大戦終了までは中国を中心にアジアの他の国々、フィリピン、ビルマ(現在のミャンマー)、韓国などで宣教活動を行った。
聖コロンバン会創立後間もない1920年に最初の17人の神父が中国に向かった。当時、中国の政情はすこぶる不安定で、1912年に中華民国が設立されたあとも各地で混乱が続き、やがて八路軍となって1919年に中国国民党が、1921年に中国共産党が結成された。こうした中で多くの教会などが破壊されたが、コロンバン会の司祭たちはこれに挫けることなく教会を再建し、1926年にはブロイック神父の創立したコロンバン修道女会までもが中国に渡り活躍を始めた。また、1931年揚子江に大氾濫があり、その時も教会の3分の2は水没し多大の被害を蒙ったが司祭、修道女たちの献身的な努力がかえって人々に認められることになり、ますます住民の信頼を受け、1940年には信徒数5万5000人にも達した。やがて第2次世界大戦に発展したが広い中国ではその後も内乱が絶えず起こり、共産党が全土を支配するところとなり、ついに司祭修道女達は1952年に毛沢東の共産党政府から国外追放となった。その時の司祭たちは日本布教に来られた。戦後は日本のほか南米、フィジー諸島などにも宣教師を派遣するようになった。現在は553名の司祭が13カ国(アイルランド、米国、オーストラリア、英国、ニュージーランド、中国、韓国、フィリピン、台湾、フィジー島、チリ、ペルー、日本)で宣教にあたっている。
サンタさん便り
鵠沼3区 平野
藤沢教会のクリスマスは、イブに行なわれる「子供と家族のミサ」で始まります。ミサの中の、キリスト生誕の聖劇が大変に好評で、そのせいもあってでしょうか、毎年、聖堂は満員になります。ミサが終って、神父様と奉仕者が、聖堂正面から退出すると入れ替えに、サンタさんが大きな袋を担いで入ってきます。右や左に愛敬を振り撒きながら、握手したり、声をかけたりしながら。そして中央に立ちます。サンタさんの音頭で全員が、更めて「クリスマスおめでとうございます」と、互いに挨拶をかわして、集いを終わることになっています。子供たちへのクリスマスプレゼントは、聖堂前で配られます。白い長い髭のサンタさんから、直接、手渡しでプレゼントを貰いたいお子さんや、一緒に写真を撮りたい親子連れも大勢いらして、何時までも賑やかさが続きます。
藤沢教会では、2005年11月まで、献堂50周年記念を祝います。多くの年間行事が組まれていますが、この記念すべき年に、「日本での最後のクリスマスのミサ」を司式されたハンラティ神父様には、感慨ひとしお胸に迫るものがあったでしょうと拝察いたします。50周年祝賀の飾り付けでは、新しく考案された教会のシンボルマークと職人芸の電飾が目を見張らせます。「教会労働で汗流すレオ」のグループの手作りです。
私が、サンタさん役をやらせていただくようになって永い年月が過ぎました。聖劇の筋書きは、2000年の間、変わらないのに、毎年、新たな感動が得られるのも不思議なものです。聖劇を見るたびに多くの思いに駆られてきました。人間の子どもは夫々、使命を帯びて生まれてくること。イエスもマリアも、ご自分の使命を自覚し、将来ご自分に起きる事柄を予知しておられたでしょう。毎日の生活の中に、イエスの目の前には十字架が見え隠れし、マリアには、シメオンが予言した、胸を貫く槍が見えての33年間であったろうと思います。「クリスマスおめでとう」と素直に喜んでばかりもいられない気がします。親を亡くした子どもを孤児と呼びます。子どもを亡くした親を呼ぶ言葉はありません。その痛ましさがいかに辛いかを意味するものでしょう。教会暦に「悲しみの聖母」の日が制定された意義は、その辺にもあるのでしょうか。他には、昨今、軽視されがちな人のいのちのこと。
また、洗者ヨハネの誕生にあたっては、その両親エリザベトとザカリアは、大変にマリアにお世話になりましたが、イエスの誕生にあたっては、何をして、マリアとヨゼフの力になり得たでしょうか。イエス誕生の予定日は知らされていたでしょうから、その日が近づくにつれ、状況もわからない中で、乳飲み子を抱えて、動きの取れないでいる優しい老夫婦の胸の痛みを感じます。福音書では一言も話さないヨゼフ。夢の中で指示されるだけで即、動く信仰の人ヨゼフ。そのヨゼフにどこまでも素直に従うマリア。貧しさの極みの聖家族。母子をロバに乗せてどれだけの世帯道具をエジプトへ運べたでしょうか。ユデアの通貨はエジプトでも使えたでしょうか。旅先では持ち金も残り少なく、運ぶにしても重い貨幣だったと聞きます。エジプトでの生活費はどうしたでしょうか。東方の賢人が、黄金を誕生祝いに献上したのは、とうざを凌がせるための、慈しみの天の父の計らいによるものでしょうか。
慈しみの年のクリスマスには、その締めくくりに、自分の人生の締めくくりに考え及びました。深く顧みてはなはだ忸怩たるものがあります。後悔先立たず。人間は生まれ直すことはできないのです。しかし、生き直すことはできます。生き方を修正することができるのです。ここに希望をつないでがんばります。今日から。等々。
成人式を迎えて
藤沢2区 渡邉
"会で成人の祝福をいただくことができる"そのことは、私にとって、とても嬉しいことであり、緊張するものでした。中高生会にいた時、私は毎年、成人を迎えられた方々のお祝いの準備をする立場として成人式に参加していました。毎年思っていたことは、20歳という節目の年に、とても凛々しく式に臨む先輩を見て、私も同じように式に臨みたいなという憧れでした。
2005年1月9日、私は憧れていた成人式に出席することができ、祝福をいただき、改めて"大人"になることについて考え、また社会に出て行く者としての責任感を強く持ちました。そして神様の元で社会に貢献できる人として歩きたいと感じました。
最後になりましたが、成人式において様々な準備をしてくださった方々、私が20年間育つことができたこと、両親、家族、教会の方々、先生、友達などに感謝し、これからの私の人生も有意義に過ごしていきたいと思います。ありがとうございました。
祝福式に参加して
藤沢1区 福田
澄みきった空の下、春の到来が待ち遠しい日曜日の朝でした。祝福式を前にした僕は肌寒さによる外的要因か、それとも責任感への内的要因か、とても緊張していました。というのも、教会との関係はこの数年ほど遠く式については分からないことばかり。随分と周囲の方々にご迷惑をおかけしたことと思います。
成人式を迎えても自覚の持てない自分はご先達の皆様のお笑い草となってしまうでしょう。成人一年生、まだまだ半人前です。自己を俯瞰する視点と、正しいことを人の目を気にせずに行える主体性を持った人格の形成が当面の目標、といってしまうと少々大袈裟かもしれません。依然として、拡大化傾向のある生活の中で一歩一歩を着実に進んでいきたいと思います。後述となってしまいましたが、お祝いしてくださった皆様、並びにパーティーを催してくださった皆様ありがとうございました。
壮年部新年会によせて
藤沢1区 李
数日前、壮年部の幹事の方から電話をいただき、1月15日の新年会に新人として招待を受け、共同体への入門式と心得た次第であります。昨年のクリスマスに受洗したばかりの新人ですが、当日は、幹事の方から受付、指定の席まで、親切にご案内をいただき、カトリック藤沢教会のメンバーになれたことを実感し、よろこびが込み上げてきましたが、新人ということで会費はタダ! そのよろこびが増幅したことを告白いたします。
幹事団のご苦労で、飲み物や、食べ物は十分そろっており、集まった会員は45人を数える盛会でありました。隣席の方から教会の歴史、会員の概歴など親切な説明を聞きながら、初めてご挨拶した方は、20人を数えました。しかしながら、名前と顔が一致せず当分は、会釈でご勘弁願おうと腹を決めたら大いに楽になりました。元々嫌いではない酒類が所狭しと並び、自重しようと思いながらも、理性と感情の不一致が起り、酒の種類に拘らず腹に収めておりました。
テハン神父さまも共同体の盛況を喜ばれ、祝福の言葉をいただきました。離れた席から見ていると、酒のこなし方もさすがで、ミサで鍛えられたのかなと不躾な思いが頭をよぎりましたが、楽しそうな笑顔は素敵でありました。その神父様からの日本酒をはじめ、いろいろな方から差し入れがあり、社会保険庁とは質が異なり、会員の優しい心づかいは壮年部のさらなる発展が見込まれそうでありました。
どう見ても、70を越した方々が、昔の悪童に戻った素顔で楽しそうに痛飲されながら語らいを交えている姿を拝見して、教会の信者と言えども世間の一般人と同じ酒豪がおられることを確認でき、万軍の味方を得た気持を持ちました。
余興では、小野清司さんのプロ並の手品に拍手喝采し、いろいろな施設にボランティアされていると聞き、感じ入りました。
会の終わりに差し掛かった頃、私の受洗の時来てくれた5歳になる孫娘に、半分のハン・ラーメンのラ・お茶のテイと心優しく自己紹介されたハンラテイ神父様が、お仕事の都合で遅れて見えられ、こんな乱暴な会がありますか、(わたしを外して)私は喉が渇いていると冗談めかして言われ、日本酒をぐいと飲まれ、真面目な顔つきで、壮年部新年会の祝福を祈ってくださいました。素晴らしいカトリック藤沢教会共同体新年会に招かれ、会の一員になれたことを心から感謝しております・。
感謝のうちに 湘南台 西嶋
月日の経つのは早いもので、夫が帰天しましてから一年が過ぎ去りました。
思い起こせば、入院から葬儀に至るまで、神父様、教会の方々には、沢山のお祈りや励ましをいただき、心よりお礼申しあげます。 お陰さまで、夫は臨終洗礼に授かることができ、奇しくも六十六回目の誕生日でした。「死は誕生」というあり余る恵みに対し、今度は何か自分にお手伝いできることでお返ししたいという思いがつのり始めた頃、湘南台センターでスタッフの一人としてお仕事をお受けすることになりました。信仰浅く、非力な私には自信がなく不安でしたが、少しでも何かのお役に立てればうれしく、後は祈って神様にお任せすることにいたしました。
洗礼のお恵みに与った者として、これからは今までの消極的な自分ではなく、もっと前向きに人々に宣教していかなければと考えるようになりました。心強いスタッフの方々に助けられ、そしていつも温かく協力してくださる皆様に支えられ、緊張の中にも今日はどんな出会いを神様は用意してくださっているかしらと待っております。
至らない点が多々あると思いますがどうぞよろしくお願いいたします。
八ヵ月が過ぎて 大庭 宮崎
昨年六月より湘南台センターのスタッフをさせていただいております。日頃から、祈るという行為は自分一人でその気になれば何処ででもできるが、隣人愛を実践するということは、とても難しいものだと考えていました。ですからこのお話をいただいた時、もしかしたら湘南台センターでの活動を通して何か私にできるかも知れないと思いお引き受けしました。
ところが、実際に始めてみると分からないことが多く、お当番の日の度にバタバタとしてしまい隣人愛の実践どころではありませんでしたが、これまでの十年間、藤沢教会のたくさんの人の手と心に支えられて湘南台センターが育ってきたのだなと感じました。
昨年は開設十周年記念という大きな行事があり何とか頑張らなければと、増田さん、山根さん、西嶋さんと力を合わせ無我夢中でやってきました。今年はテハン神父様がいつかお話してくださったように「スケジュールや行事に囚われるのではなく、人を大切に」ということに心掛け、一歩一歩歩んで行けたらと思っております。皆様、どうぞこれからもよろしくお願いいたします。
ある訪問者 湘南台 山根
10月の第2土曜日「今日は大きな台風がきているけど、午後5時からの御ミサはどうなるのかしら」と教会事務所に問い合わせたところ、中止ということでした。
先唱者・聖体奉仕者・侍者・オルガニストそして、聖園のシスター方、思いつく方々へのご連絡を終え、閉館時間の午後5時を過ぎようとする頃、全身びしょ濡れの南米出身の男性Aさんがいらっしゃいました。「ごめんなさい、今日は台風で御ミサはありません」とお伝えしたのですが、湘南台センターで行われている行事のより詳しい説明が出来なくて残念でした。でも、彼は十字架の前で片膝をついて祈って帰られました。
翌月の第2土曜日の御ミサの時、日本語の上手な南米の女性Bさんにその話をしました。その日は、Aさんがいらしていたので、彼の隣にBさんに座っていただき、ミサ後にスペイン語で、第3日曜日(現在は第4日曜日)に湘南台センターで御ミサが行われていることやその他のことをお伝えいただきました。 その翌月の御ミサには、南米出身の奥様と日本人のご主人と三人のお子さんのご家族が、初めていらっしゃいました。湘南台センターでは、初めていらした方々を御ミサの後のお知らせの場でご紹介しております。
ご主人が日本語で「妻が御ミサに与りたいというので、私は信者ではないけれど、今日ここに来ました」と挨拶された時、ハンラティ神父様が「私は奥様の声も聞きたい」と優しく、にこやかにおっしゃいました。奥様はゆっくり挨拶されました。すると先のAさんが奥様のところに行き、スペイン語でご自分がBさんからお聞きになったことをお伝えになったのです。それをご主人も喜ばれ、日本語しか分からない私もとても温かな想いを感じました。神様につながれて感謝です。
第五地区福音宣教委員会に参加して
宣教部 岡田
1月23日に第3回定例委員会が戸塚教会で行われました。今回は共同宣教司牧に関心のある方の参加を広く求めるということで、藤沢教会から司祭、修道者、信徒計9名、全体で約40名が参加しました。
初めに『神奈川県内司祭・修道者・信徒による共同宣教司牧推進委員会』より、今年度予定される研修会の報告がありました。典礼奉仕者、キリスト教入門講座担当者(3講座)、カトリック入門クラス指導者、聖書の分かち合いリーダー、小教区管理・運営奉仕者、福祉活動を担うリーダー、青少年の信仰を育てるリーダーの各養成コースが適宜開かれること、また「三者(司祭・修道者・信徒)合同一泊研修会(3回コース)」の説明がありました。
次に、共同宣教司牧に向けて近隣の教会・修道院・施設をもっと知るために、藤沢・片瀬、大船・鍛冶ヶ谷、原宿・戸塚・中和田の3グループにわかれ、修道院・施設の方は近隣教会のグループに加わって分かち合いが行われました。
テーマは「喜びのおすそ分け」で、教会活動に限らず、毎日の仕事や生活、活動の中で感じる喜びを分かち合いました。ミサで顔を合わすことはあっても、なかなか話までできなかったシスター方と分かち合えたことは大きな喜びでした。2時間があっという間に過ぎ、距離がぐんと縮まったように感じました。
全体会では、喜びのおすそ分けの広がりと共に、温かい共同体作りが宣教のベースであり、そのために分かち合いは不可欠であることを確認しました。一方で、分かち合いに抵抗のある人、うまくできないと思っている人のことも十分に考慮する必要があるという意見もありました。分かち合いは、集いの輪を囲み、話すことだけでなく、聴くことも大切であり、何より一人一人の存在こそが、分かち合いだと思いました。
宣教部では、50周年行事の一環として地域フォーラムを検討しており、今回の福音宣教委員会のテーマも参考にしたいと思います。秋以降に予定しておりますので、その節は皆様ふるってご参加下さるようお願い致します。
今 問われる平和への道
善行 岡村
1月23日(日)に松浦大阪教区補佐司教の講演会が開かれました。
9時半のミサのお説教から始まって、司教様のお話は明快でした。
「神はあなたをそのままで愛し、一人ひとりの名を呼んで私に協力してくれますか、と呼びかけられます。その呼びかけに「ハイ」と答えたあなたに、神は感謝してあなたを裂き与えられます。それが救いです。世の初めから終わりまで、神の救いの方法はこれだけです。知的障害を持つ一人の少女が私の頭をなでてくれました。それによって私の心はあたたかく安らかになったのです。私にしかない小さなものでも、神に呼ばれて捧げると、それは神の働きに変わるのですから、たじろがずに捧げましょう。ミサで力を神からいただいて帰るだけではなく、神に呼ばれて差し出すことも必要です。」というお話でした。今、あなたにできることを!との呼びかけです。
引き続き11時からの講演の要旨をご報告します。
キリスト教徒でなくても平和を願うことは人類皆同じですが、ただその平和がどんな平和か、ということで違いがあります。
冷戦が終わったのに、世界は益々暴力的になり、恐れの時代になっています。大江健三郎のことばでいえば、今は意図もはっきりせず、何となくぼんやりとした状態のままどんどん運ばれていきます。その中で人々は不安なので、共に生きようとはせず安全を求め守りを固めようとしています。その中で教会としては、何が大事かを見極めて貫いて行かなければならないでしょう。
(イラク戦争に心を痛め共に苦しむ友人、アメリカの少女の話があり)戦争は取り返しのつかないことをしており、戦争の理由はいろいろありますが、戦争を選ぶことに問題があります。私たちは福音の現実に立って選ばなければなりません。
イエスの側に立つ。私たち一人ひとりは神の似姿として造られたかけがえのない存在です。「一人よりも公が大事である」に対して私たちは一人を大切にしなければなりません。福音の光を受けつつ選びとって行く。教会は旅する教会です。
政教分離がいわれるようになったのは、国家と宗教が結びつき、また宗教が世俗の権力に利用されたり利用したりすることが好ましくないからです。
教会はイエスの福音に立って、人と人との関係をこわすものに対して、反対し発言しなければならない。そのように社会に関わって行く、それが宣教です。教会と社会を分けたがる傾向がありますが、政治、経済、文化、習慣、価値観などを福音化して行くのです。互いに愛し合う関係の中で私は幸せであり、人はこのように造られています。
経済の問題を話します。たった三人の金持ちの財産が43億人の財産に等しい。貧困層は13億人もいる。ODAなどの援助があっても豊かな者は益々豊かになり、貧しい者は益々貧しくなるような社会の仕組みがあります。東西の壁はなくなったが、南北の壁はなくならない。1950年、グアテマラの大統領は大改革をしましたが、地主とアメリカ企業が結びついていて、米軍事力が介入して軍事独裁政権ができ、反対する者はひどい弾圧を受けました。政治権力に利用される教会に対して「解放の神学」が起こり、社会構造の罪に気づいた教皇パウロ六世が教皇庁内に「正義と平和協議会」を設置し、その後世界各国につくられて行きます。社会の仕組みを福音的に変える発言はリスクを負うが、この日本で私たちは何を恐れるのか。
グローバリズムによって経済は軍事と結びつく構造となりました。集団的自衛権となりますと、米国の世界戦略の全ての戦争につき合うことになります。そしてテロ対策は人々を管理、監視する社会を必要とするので、一人ひとりの自由は守られなくなるでしょう。今、憲法を変えるのは、日本の権力がアメリカと一つになって権益を確保するためです。押しつけられたという憲法には、当時アメリカにも無かった男女平等(憲法24条)の考えがベアテ・シロタさんの働きによって入っています。公が前に出れば個が制限されます。憲法は国や政府がするべきこと、してはならないことを国民に示したものであるのに、国や政府が国民に指示するものに変えようとしています。
世界に先がけて軍隊を持たず、戦争をしないと、宣言した憲法を変えようとしているのです。
日本の技術は戦争にも緊急援助のどちらにも用いることができます。自衛隊の技術は戦争のために短期的なものとしてあるので、別に国際緊急援助隊を作り世界の苦しむ人々のために役立てて行く必要があります。子供たちの夢のためにも――と結ばれました。
午後2時からはセンターホールにて、司教様、信徒、市民が集まり無防備運動について語り合う会が開かれました。
無防備運動というのは、昨年大阪市から始まり続いて枚方市、東京の荒川区、そしてこの藤沢市と展開されてきています。
無防備とは、ジュネーブ条約追加第一議定書に基づいて「戦争に協力せず、軍事施設や軍隊を持たない」等の四条件を満たし、無防備を宣言すれば、そこを攻撃した国は国際法違反になるという法律です。近代の戦争では、軍人よりも民間人の死者が、余りにも多くなってきていることに対し、民間人保護の条項が次々とつけ加えられてきました。戦争反対、憲法を守ろうと叫ぶだけでなく、このジュネーブ条約に基づいて、武器を持たず、軍隊のいない無防備地域をつくって条例化して行くことが、戦争を止めていく一つの方法であるとの考えから始まりました。まさに憲法9条の精神でもあるわけです。
藤沢でも市民が集まって「戦争非協力、無防備地域条例をめざす藤沢市民の会」を昨秋立ち上げ、条例制定をめざす直接請求運動が始まっています。この運動は、一ヵ月間に市内有権者の2%に当たる署名数(約7000)を集め、それを市長に提出し市議会に審議させ決定する市民の請求権に基づく運動です。松浦司教は大阪市でこの運動に関わり、市民と共に活動してこられました。この度、そのご体験に基づいてお考えを藤沢で語ってくださったのです。
集会は先ず大阪の無防備運動を収録したビデオ上映から始まりました。ローマンカラーの司教様のお姿も写っていました。
平和活動に関わるのは宗教者にとって本質的なことである。
政府のやり方に対して民間でも発言し行動する必要がある。日本人は誰かにやってもらって自分で動こうとしない。湾岸戦争の時、避難民を運ぶのに自衛隊機を飛ばす話を聞き、民間機をチャーターしたらと考えた。それは予想外に進展し、日本全国からカンパが届いた(1日に1000万円づつ位)皆、何をしたらよいのか分からない状態にあるので、自分たちにできると分かったら行動する。
政府が国を守るためにやることと、国民が国民を守るためにやることと国民にとってどちらが安全か。
ジュネーブ条約を読むと、戦争の内容が変わったこと(民間の死者が90%以上)に対応して、国際法自体が国対国の約束から、地域や一人ひとりの市民に及ぶものに変わりつつあることがわかる。国際刑事裁判所も人道に反する罪を裁くのは個人に対してである。アメリカは自国の兵士が裁かれることを拒否し、他国援助の際、二国間条約によりアメリカを訴えないことを条件にしている。無防備地域宣言は申請すると国際的に登録され、その地域を攻撃すると戦争犯罪として裁かれる。平和は行動を伴うので名詞ではなく動詞である。国際貢献は政府ではなく民間がやることだ。市民運動は市民の参加する社会へのステップになる。具体的な提案をする必要があり、それが運動である。自分でも何かできるので、私一人であっても、イエスかノーを選び取ることができる。市民運動はタイトルと別に身体的なピンとくることばを用いるとよい。若い人にはアイデアがある。音楽やダンスを取り入れるのもよい等々、無防備運動の活動にもいろいろアドバイスをいただきました。発言が相次ぎ、50人以上の参加者の平和への思いが熱気となって感じられました。
最後に正平協の上原神父様が「軍事施設が排除できない、例えば横須賀などの地域とも連帯してほしい、運動が分裂する事実もあるがこれはとても悲しい。周囲の地域とも連帯してやってください」と発言されました。司教様のわかり易く率直なお話しぶりに、初めてカトリック司教に接する人々にも感動と力を与えたようでした。
私どももこの集会でいただいた力を加えて平和無防備運動の1月28日から2月27日までの一ヵ月間頑張って行きたいと思っております。教会の皆様のご支援をお願いいたします。
仏教とキリスト教 (17) 仏教的霊性(その二) 極楽に往生するには
藤沢2区 兼子
「これより西方十万億の仏土を過ぎて世界あり名づけて極楽という従是西方、過十万億仏土、有世界、名曰極楽」。その極楽に仏ありて阿弥陀と号すと『阿弥陀経』は続く。釈尊が大勢の弟子・修行者達に念仏往生と阿弥陀仏について説かれる経典が『阿弥陀経』である。釈尊は阿弥陀仏の浄土「極楽(諸仏はそれぞれ固有の楽園である浄土を持つ)」とはどんなに素晴らしい所か。そこに住まう阿弥陀仏とはどのような方か。さらに聖衆(その阿弥陀仏の浄土に生まれ得た人々)はどのような人々かを詳述する。次に念仏往生、つまり念仏の功徳について述べ、最後に釈尊自身と諸仏による功徳の明証を挙げられる。時宗の宗祖一遍は臨終に先立ち『阿弥陀経』以外の一切の書籍を焼却させたと言う。また先に述べた『観経』は法然の、『無量寿経』は親鸞の第一の聖典とされたが、これら三つは浄土三部経として「南無阿弥陀仏」を称える浄土系仏教のバイブルである。
なぜ、阿弥陀仏の浄土を極楽と呼ぶのか、釈尊は舎利弗シャーリプトラに問う。「その国の衆生、諸々の苦しみなくただ諸々の楽しみを受く。故にその仏土を極楽となづく」。源信の『往生要集』によれば、そこでは寿命も無量であるが四苦八苦の苦しみもない。即ち生老病死の四苦(生れる苦、老いる苦、病苦、死ぬ苦)とさらに愛別離苦(愛する者と離別する苦)怨憎会苦(互いに憎みあう人間と出会う苦)、不求得苦(欲しい物が手に入らぬ苦)五蘊盛苦(実存的な生きる苦)の四苦もないとされる。金、銀、瑠璃、玻璃という宝石(四宝)をふんだんに嵌め込んだ城壁。宮殿の庭には孔雀、白鵠をはじめ各種の珍鳥が遊び、囀り(阿弥陀は鳥に姿を変えてまで説法して下さる)、真中の四角い泉水(七宝の池)には冷たく甘い、渇きを癒す液体(八功徳)が充満している。あたりから絶えず吹く微風が耳には妙なる音楽として聞こえる。そこには無碍ムゲ(絶対の自由)・平和・涅槃ネハン ニルヴァーナ(心身が何ものにも乱されずゆったりと満たされている)がある。ここで注意すべきことは、いかにインド藩王マハーラジャの宮殿や都市をモデルに写実的に描かれているにせよ、これらは実体として思い描かれるべきものではなく、すべて阿弥陀仏の荘厳と同じく慈悲による功徳の「象徴」として想起すべきことだ。
私たち日本人にとってこの経が最もアピールする点は「倶会一所」クエイッショという教えである。即ち法然は現世において親しかった親兄弟、妻子眷属、苦楽を共にした師友と浄土において再会したければ極楽往生すべしと説く。16世紀に来日した宣教師たちを面食らわせたのは日本人の次のような言葉だった。キリスト教の教えが尊く有り難いものだとはよく分かった。だから洗礼の秘蹟にあずかり自分たちも天国に参りたい。しかし洗礼を受けぬまま亡くなったご先祖様が地獄におられるのは辛い。それではあの世で申開きが出来ぬではないか。個人の信仰と分かち難く結びついている祖先崇拝。だから日本人はキリスト教とは所詮、無縁の衆生だと土壇場で首うな垂れて去るしかなかった善男善女は少なくなかったろう。しかし現在でも多くの日本人の心境は殆ど同じで、この問題が完全にはクリアー出来ていない。私個人ももう一度、お会して話を伺いたい師(複数)がおられる。人生の中で善き師に恵まれることは何事にも代えがたい喜びだ。もし極楽往生すればそう言う方々と再会出来る。だから浄土に往生せよと勧めるこのお経は素晴らしい。
ダンテの『神曲』の中で一番面白いのは「地獄篇」であるが、その中にグレコ・ローマンの哲人・文人のことが出てくる。彼等は年代的に当然、異教徒である。大哲人のプラトンもソクラテスもダンテの眼からみれば評価は低い。フィレンチェやイタリア各地で新プラトン主義が盛んになるのは、もう少し後だからプラトンの低い評価もやむなしかと思う。しかしキリスト生誕以前の偉人、賢人たちがキリストの教えを知らなかったと言っても、それは本人の責任ではない。洗礼を受けキリスト教徒になっていなければ天国にいけぬ。これは永い間、ローマ教会の公式のテーゼだった。1965年に終了した第二バチカン公会議によって「ローマ教会以外に救いなし」が緩和される迄はとにかくそういう教えだったのである。プロテスタントでも地獄におちる。ましてや仏教徒などとんでもない。
私はこう勝手に解釈している。昔の話だが田舎の温泉にいくと露天風呂の入口に男女の別の札が掛かっている。だが中を進んでみると同じ所に出る。同様に一つの札には「パライソ」、他の札には「極楽」と書いてある。行ってみると実は同じ所に出る。それと同じと考えられないか。もっと大胆に言うと史的釈尊は死後のこと等仰っていないのである。だから大事なのは今現在の心の在りようで、死後の事など二の次三の次でいいのではないか。それはしかし死後の世界を信じないという無神論、無信仰とは違う。飽くまで死後に拘泥しないこと。何故なら「天国」に行くために現世で菩薩行に励むのではなく、現世で菩薩行に励み、その結果として「天国」に行く。だから仮に「天国」が無いとか実は死後の世界がないとしても、それはそれで既に十分報われているのである。柳宗悦『南無阿弥陀仏』の中の次の言葉はそれをも示唆しているのではないか。「法然は往生を臨終の刹那に、親鸞は平生の一念に、一遍は六字に結ばれる平生即臨終にそれ(聖衆が来て浄土に迎えて下さる) を見た」。「天国」や「極楽」は目的ではなく、結果として与えられるご褒美で、その逆ではない。そう思えば札の上に書いてあるのが「パライソ・天国」でも「極楽」でも(「地獄」は、ちょっと困るが)いっこうに構わないと思うのである。
「50周年記念講演」には次の二つが予定されております。講演の 日時と講師のお名前は確定ですが、テーマについては今のところ、仮題もしくはこちらの要望の段階です。もう少し時間をかけて講師の方と決めていきたいと思っております。 1、講 師 森 一弘 司教 2、講 師 三浦 朱門 氏 ◎いろいろな事業やイベントの企画が個人やグループから寄せられ ていますが、それぞれの企画に対して以下のように窓口としてチーム担当を設けました。 企 画 担 当 |
4(金)初金ミサ・例会
6(日)藤沢ブロック集会 11: 00〜12: 30・
9(水)灰の水曜日 ミサ9: 30 夜7: 00
11(金)教区典礼研修会
13(日)四旬節第一主日 藤沢教会信徒総会・入信志願式
27(日)静修の日・共同回心式
6(日)コーヒーショップ(雨天中止)
20(日)コーヒーショップ(雨天中止)と中高生会
コーヒーショップの準備を手伝える人は、8時45分にセンター台所に来てください。
例会はコーヒーショップの片付けが終わってから、センター202号室です。
春の合宿や50周年運動会のことを話し合います。
藤沢教会・片瀬教会・茅ヶ崎教会の青年たちが合同で集まっています。
協力司祭は中和田教会のジャック神父様です。センター203号室にいらしてください。午後7時〜9時です
12(土)労働法全般についての勉強会
19(土)生活の見直し
26(土)27(日)全国青年集会(姫路・淳心の家)
♪はるかぜコンサート♪ 日時 3月5日(土) 13:30〜15:00
プログラム ◇ビオラソロ ◇バイオリンとビオラのアンサンブル ◇ビオラ 小泉美知子 ◇ピアノ 藤井 礼子 ◇アンサンブル・ポム [ポムとは?? 韓国語で春] ☆参加費 (お茶・お菓子代)200円 当日、ご自由にご参加下さい |