八 角 形 に ゅ ー す
2005年7月3日
聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会
目次
お話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・主任司祭 鈴木
典礼フォーラム・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・典礼部
鵠沼ブロック集会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼3区 十三
典礼奉仕者養成コース報告(第2回)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・典礼部
ミサの中の「二つの食卓」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・善行 岡村
〜〜 お話 〜〜
主任司祭 鈴木
6月5日の主日のミサで、静岡の「かなの家」(知的障害を持つ人と、いわゆる健常者が共同生活をしている)の二人がバザーのお知らせをしたときの話をしましたが、あの時省略したお話をしましょう。
ご存知かもしれませんが、「かなの家」は「ラルシュ共同体運動」を実践しているところで、この運動は世界のいろいろな国で行われています。その一つであるアメリカの、ある共同体に属することになったヘンリー・ナーウェン神父の話が私には忘れられないけれど、もう一つピンとこないでいたのでした。
ナーウェン師は著名な神学者で、その日もまた、講演をたのまれてワシントンに知的障害を持つ同伴者と一緒に出かけたのです。その日の同伴者はとてもご機嫌で、一緒に講演をすると言うので、少し心配しながらも、二人で壇上に上りました。ナーウェン師が話を始めると、話の途中で「えぇ、それは○○さんのことです」とか「ヘンリー神父さんは・・・」といった具合に口をはさんできました。そして聴衆は不思議にも、それを喜んで聴いていました。この日のことをナーウェン師は後でふりかえって「私は今まで数々の講演を独人で行い、よい評価を受けてきたが、何年先まで覚えていてくれる人はほとんどいないであろう。しかし、今日聴衆が受け取めたことは何年も忘れないに違いない」と思ったと書きとめたのでした。
この「聴衆が忘れないだろう」というところが、私にはもう一つピンと来なかったのです。それが、あのバザーのお知らせをきいて「なるほど、こういうことか」と少しわかった気がしたのでした。
「心に届くメッセージ」などといいますが、わたしがしてきたことの大半は、わざわざ心に届かないように色々なものでくるんで話したり、人に重荷を背負わせたりだったように思います。稀に「神父さんがいつか、こんなことを言っていたでしょう」と言ってくださる方がありますが、まず私が覚えていることはありません。自分で覚えていることは、自分で良いとか正しいとか、秀れているとか思っていることですが、そういうことはほとんど人の心には届いていないのではないでしょうか。
「幼な子のようにならねば・・・」という主キリストのことばはこんなところにもあてはまるのでしょう。あの知的障害を持った青年達にはかなわないまでも、「無心に、暖かく、控えめに、一日二杯の酒を飲み、さかなは特にこだわらず、マイクが来たなら微笑んで、十八番を一つ歌うだけ・・・」と河島英五風に生きていきたいと願っています。
教会委員会報告
(6月18日)
50周年関連事業の1つとして多くのブロックから希望のあった教会信徒名簿の作成については、すでに昨年10月の教会委員会でその作成を決定しており、50周年企画調整チームで具体化にむけて検討してきたが、4月1日から施行された「個人情報保護法」(同法と教会名簿については6月12日付カトリック新聞参照)への対応、および作成冊数によっては費用がかかる(1,000円をこえる)などからその必要性も含めて再度ブロック、活動部で広く意見を求めて7月の教会委員会で決めることとした。
5月29日の典礼フォーラム"私にとって主日のミサは?"には約100名の参加があり、3名の方によるプレゼンテーションと分ち合いが行われた。ここでの課題については今後典礼部で対応していく。その中で多くの意見がでた聖堂内の配置については、フォーラムのような方法で対話を通して結論を出すことは理想ではあろうが現実的には難しく、また長時間このようなことに時間を割くのは不毛でもあるので、最終的には主任司祭に委ねることになろうとの議論が主流であった。
2月13日の2005年信徒総会で公表された本年の教会委員会の課題8項目について個別にその進捗状況の報告がなされた。総じて順調に推移しているとの総括である。
中高生の沖縄旅行:5月末に下見実施。現地では司教様をはじめ協力いただける。良い体験が期待できる。
聖堂コンサート:10月1日
講演会(第二回目):11月19日三浦朱門氏
記念ミサ:典礼部などと相談して準備をすすめる。記念品として鈴木神父の絵葉書を予定している。
近隣から反対の意見書を受け取った。法的に問題があるわけではないが、強行するのではなく聖心の布教姉妹会と相談しながら共存の視点からどの様なことが可能であるか考えてゆく。
@鵠沼ブロック
今年のバザーは先月の八角形にゅーすで報告したとおり、鵠沼ブロックを中心に他のブロックからそれぞれ2名を選出してバザー企画委員会を組成して実施する。
A北2ブロック
6月5日の第1回近隣教会巡礼には片瀬教会、鍛冶ヶ谷教会それぞれにあわせて60名ほどが参加した。各教会で暖かい歓迎をうけ、交流がはかれた。第2回は7月3日に行う。
B北1ブロック
6月25日の全ブロック参加の黙想会には現在50名の申し込みがある。
@教育部
教会学校は7月下旬、中高生、ボーイ団は8月上旬にそれぞれキャンプを行う。
A総務部
6月6日、長年放置していた聖堂、センターの配水管の洗浄を行った。
B典礼部
記念ミサに皆で歌うハレルヤ・コーラスをミサ中これまでどおりのやり方で練習を続けることは難しく、考えなおすことにした。どうするか改めて検討する。
C宣教部
7月10日 召命の集い
宣教フォーラム"宣教は楽しいでしょうか"をテーマに1月下旬中和田教会にも呼びかけて実施する。
D福祉部
「みその」の草刈りを7月21日10時から行う。
ケンズ神父の金祝の祝いが7月16日保土ヶ谷教会である。
北1 辻垣
今年はカトリック藤沢教会が誕生して50周年です。片瀬教会を母体にして丁度50年前に誕生した訳です。終戦から10年程経っていない時で、経済的のも苦しい時で、アメリカの方々の援助とコロンバン会の神父様達の宣教に対する情熱が今日の藤沢教会の礎になっています。とは言っても親教会の片瀬教会を訪ねたことはあってもともに祈ったり、わかち合ったりした.方は少ないのではないでしょうか。いわんや中和田教会・大船教会・鍛冶ヶ谷教会・戸塚教会・原宿教会の全てを交流する機会はほとんどありませんでした。
50周年の「ともに未来へ」を1月のテハン神父様の第五地区巡礼の提案を受けて北1と北2ブロックの共同企画で行うことになりました。まず各教会の主任神父様の意向を確認したところ、どちらも歓迎の意向を表して下さいました。
2月9日に連絡員がこぞって下見を行い、50周年企画チームと教会委員会の承認を得て、以下のの2つのコースで実施されることになりました。
6月5日 鍛冶ヶ谷 → 大船 → 片瀬
7月3日 原宿 → 戸塚 → 中和田
6月5日のコースには60名余りの方が参加され、訪問先の教会の方々とともにミサにあずかり、なごやかに交わることができました。梅村司教様の「司牧書簡」にもありますように「交わりの教会をめざして」近隣の小教区の司祭・信徒と協力していく足がかりができるのではないかと思います。小教区との交わりが深くなれば、宣教共同体として、成長ができるのではないかとこの巡礼を通して感ずることができました。
各教会の皆様、一日中私共のために準備して頂き感謝しております。どうぞ藤沢教会にもお出掛け下さい。
善行 福田
教会50周年を記念して行われた今回の巡礼に同じ地区であってもなかなか訪ねる機会のない近隣の教会へ、お隣を訪ねる気持ちで参加しました。私は鍛冶ヶ谷教会で主日のミサ
を受け、大船、片瀬教会を巡るコースを選びました。「藤沢教会の皆様ようこそ」と書かれた看板と笑顔の教会の方々に迎えられ、聖ジェラルド・マイエラと聖母子のステンドグラスの美しい教会内へ。スペイン出身のハイメ ・カスタニエダ神父様の司式でミサを受け、婦人会の方々の真心のこもったお茶で親睦の時を持ちました。
次は大船教会へ。ここでも「歓迎 藤沢教会の皆様.」の看板に迎えられ.、片瀬教会でミサを受けた逆コースの班と合流。聖体訪問の後 昼食を共にしました。大船教会の久我神父様と親睦の時を持ち、大船教会の墓地等を拝見し、3番目の片瀬教会へ。
片瀬教会は、藤沢教会の親教会。日本に3つしかない和風の教会だそうで、落ち着いた外観と内装を呈し、長谷川路可の「聖家族」「エジプト避行」の線描淡彩画がすばらしいものでした。マリオ・バラーロ神父様はイタリア出身の愉快な方で、親睦会は和やかなものでした。
こうしてめぐった3教会は、それぞれ輝いていました。共通して言えることは、十字架のもと、愛に満ちていたことです。初めて会ったとは思えない気安さで、各教会の特徴、問題、悩み等を話し合い、親睦できたのは、神の恩寵(恵み)だったと思います。
他教会の方々と交流することにより、信徒の横のつながりが持て、共に教会に携わる者として視野が広くなったと思います。近隣の教会同士悩みや喜びを共にし、お互い良いところを見習い、助け合い、共に高めあって行けたらと思いました。
どの教会も迎えてくださる心がとても気持ちの良いものでした。今回の巡礼は、同じ藤沢教会の方々との交流も含め心の糧となることと思います。
典礼フォーラム
典礼部
5月29日(日)9時30分ミサ後「私にとっての主日のミサ」というテーマで典礼フォーラムが開かれました。
9時30分ミサ中で渡辺神父様から、共同体で祈ることの意義、それぞれが感じ取る意味の問いかけがありました。
最初に典礼部長の綿貫さんより、時間の割り振りなど段取りの説明と三人のプレゼンテーターの方、奥原理恵子さん、窪田直明さん、福山里子さんの紹介がありました。三人のプレゼンテーターの方々は、前もってご自分の主日のミサに対する想い等を書いた原稿をもとに話して下さいました。
その後、10〜12人位のグループに分かれて「分かち合い」がありました。一時間近い分かち合いはあっと言う間に過ぎてしまいました。その後アンケートにそれぞれの感想とミサにあずかる想い等を書きました。100人近い方々の参加があり、とても有意義な時間を持つことが出来たと思います。
当日回収したアンケートに記された主なコメントは以下の通りです。
共同体としての一致と心を満たされる
喜びを持って共に集う楽しみ、また力と元気を頂く
一週間のけじめ(赦しと感謝)
共同体を自覚させ、多くの方々に支えられ祈られている事の実感
日々の生活を持ち寄り、祈りで分かち合う
霊的な交わりの場
回心と平和の挨拶が好きです。ミサの終わりには、いつも力を頂いて派遣されて行く喜びを感じています
丸く集まっている形は聖変化を意識しやすい
真ん中の空間に「気」を集めることにより共同体を感じる
「主の食卓を囲む」ことの意義をもう少し深めることは出来ないか
見えること(入口にある祭境)によって社会との繋がり、派遣の意味がよくわかる
家の中で祈る事と違い、心をひとつにしてご聖体を授かる事は重要な事だと思う
今の形は祈りの場としてふさわしくない
顔が見えると落ち着かない
形にこだわらずミサに集中出来るように自分を持って行きたい
とてもオープンでやさしい印象
小聖堂のあり方を考えてほしい(泣き部屋、平日のミサ、香部屋の通路)
主日のミサに静かに祈りたい人が小聖堂でミサに預かってはどうか(子供の騒ぎも共に祈りたい)
ミサ前の話し声が耳につく(ミサにあずかる前には沈黙が必要)
許される私語もあるのでは(挨拶位の言葉を交わしたい)
両形食のミサを出来るだけ沢山してほしい
奉献文の中で「〜教徒の兄弟、〜教徒の兄弟」のためにも祈るのがとても良い感じがします
配置やミサのやり方は今のスタイルをもう少し継続してフォーラムでの議論を重ねた方がよい
色々な方の感じ方を知る良い機会でした
鵠沼ブロック集会
鵠沼3区 十三
6月5日11時より、センターホールで鵠沼ブロック集会が催されました。
まずはじめに、鈴木神父様よりご挨拶。司会者が差し向けた「絵画についてお話を…」の要望に応え、神父様が絵を描きはじめられた経緯をお話しくださいました。神父様の人間としての心の変遷のお話に聞き入り、会場は和やかな雰囲気に包まれました。「…言葉にすると、押し付けがましくなったりするが、絵で表現すると控えめになる」というお話が特に印象に残っています。神父様ご自身の控えめな人柄を垣間見させていただいた気がします。個人的には、初めてお電話した時に感じた話しづらい印象が、大分変わりました。(失礼があったらお許しを)
次に、今年受洗された方の紹介があり、続いて話し合いに入りました。
話し合いのテーマは、「葬儀について」 「防災に備えて近隣の充実」 の2点です。
葬儀については、いろいろな意見が出されました。面識のない方の葬儀に参列された時、参列者の数がとても少なかったという経験をお持ちの方から「知らない方の葬儀にこそ、ご参列を」と呼びかけられたのが印象的でした。また、ご自分のお母様がお亡くなりになった時の経験から、「会社関係のお手伝いもたくさんあったが、信者さんの協力が一番心強かった」というお話もありました。結論として個々人できること、例えば「司会ならできる」「地区の葬儀ならお手伝いできる」「参列ならできる」など、できることをブロック長にお伝えし、なるべく多くの人が協力していきましょうということになりました。
防災については、福井さんから体験談が話されました。鶴見区にお住まいの寝たきりのお母様から、近隣の信者さんが特に用事がある訳でもなく、様子を見に尋ねてくださったことがとても嬉しかったというお話しを聞かされ、「そんなことで、これ程に喜ばれるのか」とお思いになったそうです。自分達も、同じようにできたらいいのではという提案でした。その後、実際今現在、独り暮らしの老人や、外国人のお宅を訪問していらっしゃるという方から、ご報告がありました。葬儀同様、個々人できることをお伝えすることになりました。
神様の愛は人を通して働かれることを改めて思い知らされ、喜びを感じた集会でした。
私にとりましては、いつも連絡網でお声だけのお知り合いだった今さんと約束通りお会いでき、隣同志でお弁当をいただいた感動の集会でもありました。
この共同体と出会えたこと心より感謝しています。
典礼奉仕者養成コース報告(第2回)
典礼部
「洗礼の準備」教会のメンバーになるプロセスの始まりは入門式であり、その完成は聖体拝領であることを忘れてはならない。
「洗礼」によって受洗者は、神の民を作り上げるためにキリストにおいて一つの体となる。キリストの死と復活にあずかり、聖霊によって生まれ変わり、神の子となる。
「堅信」によって受堅者は、聖霊の力を受け、キリストの使命にあずかり、福音の証人になる。
「キリストの食卓にあずかること」によってキリスト者は、キリストの体と血をいただき、キリストとともに自分をささげることによって、キリストが御父にささげて贖われた人類の普遍的ないけにえにあずかる。また、神の民の一致を表す。
1958年の公教要理には「洗礼とは、水と天主の御名とを以て、原罪、自罪およびその罰を全く赦し、人を天主と公教会の子とする秘蹟であります」と書かれている。
原罪をなくす秘跡なら、洗礼は一時的なことで、恵みをいただくための条件に過ぎないが、キリストの死と復活にあずかることなら、死ぬまで一つのプロセスの中にある。また、洗礼のとき聖霊をいただくことによって神の子となる。水は「死」と「命」の象徴である。キリストとともに死に、キリストとともに生きる。
教え、典礼とキリスト者の生活に親しむ励ましによって、信仰を求める人を回心へ導く。「成人の入信は、信者の共同体の中で段階的に進められる。」(成人のキリスト教入信式3)
入信の構造
@求道期前の期間 (precatechumenatus)
A入門式
B求道期
C入信志願式
D入信準備期 (electio)
E入信の秘跡の祭儀
F入信の秘跡の直後の導き (mystagogia)
1976年に発表された新しい典礼は素晴らしい発展だったにもかかわらず、簡単に受け入れられなかった。その理由は
@ 司教たちが「従来の洗礼式を用いることもできる」と決めた
A キリストの過越にあずかるよりも原罪をなくす考えが残っていた(早い方がいい)
B 四旬節から聖霊降臨までの典礼は入信の秘跡を中心とした典礼であることの無理解
C 共同体の役割の無理解
D 求道者の心理的プロセスの無理解
E 教えと典礼の相互関係の無知
新しい利点
@従来の典礼は三つの段階が求道者の心理、典礼暦年と関係なく一回で行われていた。洗礼が20分後に授けられるのに「彼らをして主の輝くみ栄えにつきての教えを堅く保ち、みおきてを守り、かくて新たなる生命の栄えに達するを得しめ給え」とか、「…かつ日毎に善徳に進み、良薬を得て、主の洗礼の御恵みに近づくにふさわしい者となるを得しめ給え」といった祈りを唱えていた。
Aキリストの過越にあずかることが入信の秘跡の中心である。1958年の公教要理では、原罪をなくすための秘跡。恵みを受ける妨げを取り除くという考えだったが、ローマの信徒への手紙6:3〜8の考えは新しい基礎となった。
B四旬節から聖霊降臨までの典礼は入信の秘跡のために作られている。
四旬節3,4,5主日の福音(特にA年)、その主日の清めと照らし、聖金曜日の洗礼志願者のための祈り、聖土曜日の諸聖人の連願、共同体の洗礼の約束の更新、復活節の新信者のための祈願を考えるなら、キリストの死と復活を記念するときに、キリストの死と復活にあずかる洗礼をうけることは当然である。降誕祭のときに、入信志願者のための祈りは一つもないし、共同体も洗礼の準備はしていない。
C共同体の役割の大切さ
求道者は共同体の中で育つ。共同体に受け入れられ、その祈りと模範に支えられる。入門式のときから共同体のいろいろのグループ(婦人会、青年会、手芸など)に参加して仲間をつくり、共同体を中から見ることができる。四旬節の典礼は共同体を回心に呼びかけているが、他の季節にはその呼びかけがない。代父母は共同体の代表として、その役割をほとんど洗礼前に果たす。求道者に対する共同体の責任はどうか。共同体は求道者に心を開いているか。入信の秘跡の準備と執行によって、共同体自身が刷新される。
D求道者の心理的プロセスを重んじるべき
信仰を求める人の心が段階にしたがって変わる。
求道期前の期間:「入信の過程は、求道者として受け入れられる入門式によって始まるが、それに先立つ求道期前の期間は大切である。この期間に最初の福音宣教が行われるからである」(成人のキリスト教入信式13)
入門式:その式の中で入門を望む人はキリストの弟子になるために教会の指導を願う。十字架のしるしを額に受ける。
求道期間:「キリストに従う者は神の子となる恵みを思い、将来キリスト者のつどい、特に感謝の祭儀の中で喜びを持って祈るように導かれる」(成人のキリスト教入信式14)
回心のときである。この期間は数ヶ月から2〜3年までかかることがあるが、それは求道者の心しだいである。
入信志願式:「求道者が神から選ばれた者であることを教会が宣言し、次の復活祭に入信の秘跡を受けることを承認する式である。司祭はまず代父母に求道者について質問し、さらに本人にその意思を尋ねる」(成人のキリスト教入信式22)
この入信準備期間のあいだ、清めと照らしの典礼が行われる。
入信の秘跡:洗礼、堅信、聖体それぞれにあずかる心構え。
入信の秘跡の直後:受けた秘跡を再び味わう期間
Eカテケジス(要理教育)と典礼の相互の関係
カテケジスは祈りに導こうとする。典礼はカテケジスを前提としながら、言葉の典礼とシンボルを持って教えを伝える。カテケジスと典礼は共同体の責任である。教会とともに生きるためにカテケジスは典礼暦年の理解を教えの背骨にすべき。
@共同体=迎え入れる、祈る、模範を見せる、助ける
A紹介者=相談相手になる、共同体とのパイプ役
B代父母=求道期間の間に決めてほしい。求道者自身に選ばれ、司祭の承認を受けて教会共同体を代表する者となる。入信志願式の日に公に志願者について証言する。代父母の役割は求道期間のあいだ大切である
C司教=使徒の後継者として、部分教会の最高責任者で、入信志願式を執行することによって、志願者は小教区を越える機会を体験する
D司祭=回心へのプロセスの最終責任者。また入信の秘跡の執行者
E教話担当者=教会の中で重要な務めを果たしている。求道者の状態を考慮に入れ、典礼暦年にあわせて教会の教えを伝える
入信の秘跡の順は、洗礼、堅信、聖体である。しかし、堅信の秘跡を深く味わうために聖霊降臨の日まで堅信式を延ばすことができる。「特殊な理由があれば堅信の秘跡を入信の秘跡直後の導きの期間の終わるころ、たとえば聖霊降臨の主日まで延ばすことができる」(成人のキリスト教入信式55)
主の食卓にあずかることは入信の完成である。
秘跡のしるしは「もの」ではなく「行い」である。聖体のしるしは「パン」を食べることで、洗礼のしるしは本来「水に入れられ、水から出る」ことである。入信の秘跡のしるしの意味を表すためにどういう「材料」が使われているか、どういう「動作」が行われているかということを考えるべきである。
水 : キリストとともに死に、ともに復活する意味を表すために一滴の水とは?
聖香油 : 聖霊の豊かな賜物を注がれるために、小さいタンポンとは?
白衣 : 男性の場合「キリストを着る」ためにどういうものが使われるか?
ろうそく : 一生キリストの光をもたらす人となったことを表すために十分に大きいものが使われているか?
初聖体のパンと杯 : 分ち合うキリストの体、直接に杯から飲むキリストの血は?
典礼を考えるときに必要なことは
・ 典礼はキリストの過越が中心である
・ 共同体の役割が大切である
・ 典礼は頭だけではなく体で参加する
ミサの中の「二つの食卓」
善行 岡村
長い間、聖体祭儀がミサの中心と考えられていて、ラテン語ではなく日本語が用いられる今でも、みことばの祭儀が付随的なことのように感じられるのではないでしょうか。
二つの祭儀が引き離され向かい合う形になっても依然として、司祭と奉仕者がその間を移動しなければならない姿が腑に落ちないのではないでしょうか。
人となられたキリスト、みことばとなられたキリストが、父なる神のみこころを自ら私たちに現された事件を、今も私たちの中に続いていることとして体験するならば、ミサの中でキリストが私たちの中を歩まれる姿は、常に私たちと共にある神の創造のはたらきを目の当たりにするという深い意味があるでしょう。
聖堂内の配置が今の形になる前までのミサでは、それはついぞ感じられなかったことです。入退堂の行列は、私たちにとってただ儀式的なものに過ぎなかったのです。
私たちの日常生活とはかけ離れた特別の行事としてミサがありました。日本語が用いられるようになってはじめて、私たちはみことばを聴くよろこびを味わっていますが、日常生活の、人々の交わりの中で語られているみことばを聴く体験に結び付けて味わうところまではまだいっていないようです。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)
みことばを聴くのは、みことばに応えて生きるのと一つになってはじめて完全になります。それが身体で味わうことでもあるでしょう。みことばの食卓という所以です。
「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」ヨハネ10:3
「わたしについて来なさい」の招きに応えて、弟子たちは行き先も知らずについて行きます。その先にキリストの死と復活が待っているのです。
みことばを聴くのは、キリストに名を呼ばれるので、みことばによって私たちは自分であるところから、まだないところへ連れ出され、キリストに結ばれて変えられます。
私たちがみことばを聴くのと、聖体になるまでにはこのように必然的に時間の経過と場に向う過程があります。それが二つの食卓間の、移動の意味です。
このようにミサ全体の中の出来事に、それぞれ位置付けがされると、私たちが集まって居るところに、人となられたキリストが入って来られるという意味も明らかになります。
そして、キリストがなさった事、いのちの創造のみわざが、そのように今も私たちの中で続いているという実感が湧きます。ミサは私たちが生きる「キリストの現実」であり、単なる儀式ではないのです。
いのち(神)から離れ背いた私たちが赦されて、和解のために捧げられたいのち、私たちと共に居られるキリストに一つになって生きるために、私たちは人々のところに派遣されるので、ミサは決して聖体拝領で終わることではないでしょう。
湘南台センターでのキリスト教講座 最初のきっかけは、藤沢カトリック教会でミサをうけ、お知らせのところで、湘南台センターでキリスト教講座が開講されると言われ、私は思い切って参加しました。 はじめに講座のリーダー役の方がウクレレの楽器を弾いて皆で一緒に聖歌を唄います。その後で、目を閉じて「静思のひととき」をおこないます。最初は、目をつぶってもいろいろな事を考えたり、早く終わらないかなあと思ったりしました。しかし、回数を重ねていくうちに、こういう時間も必要だなあって感じてきました。毎回テーマが決まっていて、たとえば自己評価がテーマであれば最初にエクササイズとして何グループかに分かれ、それぞれのグループで分かち合いをしていきます。30分経過したら、各グループの代表者の一人がまとめて皆の前で発表します。発表が終わったら、リーダーがテーマに沿った説明をしていきます。 そういう流れの中で、わたしは毎週土曜日夜のキリスト教講座が楽しみです。最後に、藤沢教会の事務所の方、講座リーダーと参加者の方々に感謝すると共に、神様のはからいにより、いつも皆で一致できますよう、残りの2期、3期の講座も実りある楽しいものとなるように祈りたいと思います。 本当にありがとうございました。 |
1日(金)初金ミサ,例会
3日(日)第5地区巡礼
10日(日)麦の種寸劇 召命の集い カンボジア報告会
17日(日)石川神父ブラジル宣教の話し 辻堂ブロック集会
23〜24日教会学校キャンプ
26〜29日沖縄スタディーツアー
毎日曜日9:30ミサ後に麦茶のサービスをします。
10日に召命を考える集いがあります。
夏合宿は8月5〜7日箱根パウロ会です。
9日(土)生活の見直し
23日(土)派遣問題を考える
片瀬、茅ヶ崎、藤沢合同で19:00-21:00センター203号室で集まっています。協力司祭は二俣川教会ジャック師。