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八 角 形 に ゅ ー す

2006年7月8日

聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会


目次

入信の秘跡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・司教 梅村

教会委員会報告

地区別懇談会報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・教会委員長 小藤

堅信おめでとうございます

初聖体のお恵み・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日曜学校

北2ブロック主催のバス旅行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・長後 田所

コンサートのお礼・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・グラシアス・アミーゴ一同

聖霊は私たちを荒野に追いやる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・善行 岡村

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入信の秘跡(6月11日堅信式の説教より)
司教 梅村

 今日は三位一体の祝日を迎えています。世間でも最近は三位一体という言葉がよく使われるようになったなと皆さんお感じなっていると思いますね。小泉内閣の行政改革に附せられている名前なので、皆さんどこか奇怪に感じたり苛立ちを覚えてらっしゃる方も少なからずいるのではないかなと思います。軽々しくこういう言葉を使って欲しくないというお気持ちもあるでしょう。ましてこの行政改革の内容が三位一体の内容とは本当にかけ離れたものだからなおさら苛立ちを感じるんでしょう。私たちこの三位一体の本当の意味を伝えることが出来ればなあと願ってやみません。

 わたくしは子供の頃にこの三位一体について、神様のこの神秘についてさまざまな説明を受けました。三角形を書いてその一辺に父と子と聖霊と記しながらなんか説明を受けた覚えもありますし、3つのろうそくに火をともしてひとつに集めて何か話を聞いた覚えもあります。数字上の3つがひとつだと言うことを何とかわからせようと努力していらっしゃる神父さんの気持ちが汲み取れたのですけれど、まあ本当のところは神父様はもっと深い意味を伝えようとお思いになっていたのでしょう。子供相手に3が1になるということのその意味合いを一生懸命伝えようとしていたような気がします。三位一体のこの神さまの神秘というのは3が1というそうした数式をもってのことではありませんね。本来の命のあり様を私たちに示しておられるんだと思います。

 今日は福音の中で「すべての人をすべての民を私の弟子にしなさい、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」イエス様がお命じなったということが記されていました。「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」皆さんそれぞれ父と子と聖霊の名にはいれる水を注がれたわけでありますけれども、第2バチカン公会議後特にこの洗礼だけを取り出してというよりは入信の秘跡というような形でこのことを語っているように思います。すなわち、洗礼、聖体そして堅信、この3つの秘跡をもって入信の秘跡と呼ぶようになりました。この入信の秘跡をもって本当の意味で十全な形でこの三位の神の命の交わりに入れさせていただくということだと思います。特に洗礼を通して私たちは父である神様の子供としていただいたということです。そして堅信をもって聖霊の賜物をいただいた、そして聖体をもって神の御ひとり子であるキリストと一致させていただいた、ここに特に父と子と聖霊ということが理解できるかなと思います。この入信の秘跡をもってわたしたちは十全な意味でこの三位の神の交わりの中に入れていただいたということだと思います。神様は私たちにやはりご自分のこの命の交わり、すべての人を招き入れたいと望んでおられます。そのことを御ひとり子であるイエス・キリストを通して父と子と聖霊の御名に入れる洗礼を授けなさいとおっしゃったのだと思います。私たちの本来の命のあり方がこの三位の神、神秘によってあらわされているということだと思います。創世記に人間の創造について語られていますけれども神さまは「われわれの姿に似せて人を造ろう」とそうおっしゃった、そして息を吹きかけると人は生きるものとなったとそのように記されています。私たちは三位の神に似せて造られた、本来のあり方がそこに示されているわけですね。しかしその似姿をある意味で私たちは失ってしまった、その似姿をとり戻すために父である神さまは御子を遣わし、そして聖霊を遣わし私たちに救いの手を差し伸べてくださった、ということだと思います。ですから私たちのこの人生そしてそこにおける私たちの生き方、範がここに示されているのだと思います。

 しかしながら私たちの社会を見回してみるとあらゆる所でそれとは反対の人間の姿が見えてくるわけであります。流行歌は世相を映す鏡とよく言われます。わたしは最近特に幼稚園の子供たちが歌い踊りしていた「世界にひとつだけの花」の歌をもって、今の日本の社会の人たちがどういうことを求めているのかなと改めて思い知らされたような気がします。SMAPというグループ、高齢者の方々や中高年層の方々には、関心のあるグループではないわけですが、それでもこの歌に限っては多くのかなり年配の方があえてこのCDを買われたようであります。発売当時で200万枚以上といわれていました。累計ではもっと売れているんでしょう。

そうさ僕らは世界でひとつだけの花
ナンバーワンにならなくてもいい
もともと特別なオンリーワン

それがこの歌詞の1番伝えたいメッセージだと思います。

 豊かな社会を維持するためにはいつも経済的な発展が求められているということでありますね。経済的発展を求めるならば能率、効率をもって物ごとが動いていかなければ、ものが作り出されていかなければということだと思います。物ごとだけなら良いですけれども人間もやはり能率、効率特に有用性をもって評価されてしまいがちであります。その中では競争原理が働くわけで私たちの間で振り分けが行われてしまうということだと思います。皆さん中流意識を持っていたのに最近は下流社会の登場といわれたり、格差社会が広がっていると、あるいは勝ち組、負け組なんていうような言葉、今まで耳にしたことありません、でもあらゆる所でたびたび耳にするようになりました。これらすべて私たち社会の豊かさを保つために経済的発展を遂げなければ、維持していかなければという所から生まれている社会のひずみだと思います。そうしたひずみはやはりさまざまな形で現れているということだと思います。自殺者が年間3万人を超える社会というのもそうあるわけではありません。世界に類を見ない社会でありますね。幼い子供たちの命が奪われていることについても憂うべきことかもしれません。私たちこの三位の神の神秘において示されているこの命のあり様をですね改めて私たち心にしながら社会の人たちに伝えていかなければと思います。

 「ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン」ただオンリーワンだけでは困るんですね。自分に与えられた素晴らしさを見出し、その素晴らしさを輝かせるのは良いんですけれどもただ単に自分のためだけに輝かすのであればそこは何か足りないなあと思いますね。自分の素晴らしさを輝かすこと、誰のために、人々の中にあって人々のためにといったそうしたことが求められているのかもしれません。三位の神、唯一の神、オンリーワンであります。でも三位の神である父と子と聖霊は互いに見つめ合っているわけであります。自分自身、自分だけを見つめているわけではありません。そうしたところに相互性という点が私たちに示されていると思います。最後の晩餐のときにイエス様が「互いに愛し合いなさい」互いにといったその意味を三位の神の愛の交わりのうちに見出すことが出来るかと思います。今日の祝日にあたって父である神さま、御子を遣わし聖霊を遣わす中で示してくださった三位の神の愛の交わりを私たちは思い巡らしたいと思います。そして一人でも多くの人がここにこそ人間の本来の姿が示されている、そしてその交わりの中で自らも身を置いて一人でも多くの人がその交わりに招き入れることが出来るようにと一緒に手を携えながら使命を果たしていくことが出来れば素晴らしいと思います。

 今日堅信の秘跡を通して受堅者の方々だけではなくて共同体全体の上に豊かな恵みが注がれて今お話したような使命を果たしていくことができるように心を合わせて祈りたいと思います。



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教会委員会報告(6月17日)

(1) 神奈川県地区別懇談会の報告: 

別項参照

(2) 外国籍信徒への共助組合を利用した融資制度について:

国際部、福祉部、共助組合の三者間で大筋合意に達したので、運営細則を煮詰めた後、7月1日から利用できるようにする。

(3) ガーデンパーティー:

8月5日(土)午後5時〜7時半 開催。企画準備は壮年部、婦人有志に加えて、若い人たち(中高生、大学生)にも声をかける。アトラクションの出演者を募集する。

(4) 葬儀を考える会:

「元気なときに考える葬儀メモ」(自分自身がどのような葬儀をしてもらいたいか、メモにして残しておく)を作成。今後、ブロック集会などで皆さんの意見を聞いて行く。

(5)ブロック・活動部



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地区別懇談会報告
教会委員長 小藤

日時: 2006年6月4日(日) 14時〜17時
場所: 鍛冶ヶ谷教会

 横浜教区の経済問題評議会、建設委員会、神奈川県共同宣教司牧推進委員会と神奈川県の7地区との地区別懇談会が今年の4月から順次行なわれていますが、第5地区との懇談会が6月4日(日)鍛冶ヶ谷教会で開かれ、地区内の7小教区の教会委員長と財務委員が出席しました。鈴木神父は共同宣教司牧推進委員会の座長として出席されました。出席者全員の自己紹介のあと、評議会、各委員会からの活動状況など説明があり、続いて評議会・委員会ごとに活発な意見交換が行なわれました。

@ 教区経済問題評議会

 評議会の概要及び2001年4月に従来の「財務顧問会」を改組して設立されて以降の歩みについて説明があり、各小教区の財務関係の問題、要望等について意見交換が行なわれた。各小教区とも月定献金(維持費)の納付率の向上に苦労しており、評議会が最近作成した「月定献金について」というパンフレットを活用して、信徒の理解を深めるなどの努力はしているが、これといった名案はないようである。藤沢教会も例外ではなく維持費を納めている世帯は実質世帯数(所在が確認できる世帯)約1600世帯の半分程度しかない。

 当方からの要望として毎月の教区本部への会計報告のシステムを各小教区からのデータ通信でできるようにならないものか提案、本部事務局の会計担当者と話し合うことになった。

A 教区建設委員会

 建設委員会要綱についての説明があったが、要は教会建物(聖堂、司祭館、信徒会館など)の建設、改築、大規模修繕(500万円超)などについては、教区全体の状況、将来のことを考慮しなければならないので、計画段階から当事者である小教区と教区建設委員会で話し合いながら、検討していく必要があるとのことであった。意見交換の中で将来、小教区としての存続について真剣に考えているという話しもあった。

B 神奈川県共同宣教司牧推進委員会

 共同宣教司牧推進委員会としては梅村司教が横浜教区の目指す方向として掲げられた「交わり」を出会いの体験を通して実感できるように、いろいろな研修会を企画、実施してきた。教会が仕事をする場ではなく、信仰を語り合い、その喜びを人々に伝えていくこと、そして一人一人がキリストとともに生きていることを証しして行くことができれば、共同宣教司牧に繋がっていくのではないだろうか。「共同宣教司牧」という言葉が聞かれるようになって数年経ったが、未だに何となく難しい、堅苦しい感じがする。もう少し良いネーミングはないものか(あったら教えて下さい)。それぞれの地区がおかれた状況によって共同宣教司牧の内容も異なって来るであろうが、それはそれで良いのではないか。たとえば第6地区では現在9教会で司祭は5人(司祭不在の教会が4つ)。必要に迫られてではあるが、ミサのない主日の集会祭儀が重要な共同宣教司牧の事例となっている。無論それだけが共同宣教司牧ではないが、第5地区にも将来同じような状況が来ないとも限らないので、今から集会祭儀を体験しておくことは必要かも知れない。藤沢教会からは、この度の堅信準備講座で既に堅信を受けた高校生、大学生がスタッフとして参加し、受堅者(主に中学生)とのコミュニケーションが非常に旨くいったことを紹介した。



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堅信おめでとうございます
堅信準備講座スタッフ一同

 去る6月11日、梅村司教司式のもと、29名の方々が堅信の秘跡に与りました。

 受堅者は、5月中旬からの堅信準備講座(計5回)に参加してきました。講座では、@神の気づき、Aイエスとの親しみ、B教会共同体の交わり、C聖霊・堅信とは、というテーマのもと、寸劇、ゲーム、想像力を使った祈り、受講者同士の分かち合いなど様々なプログラムをこなし、決心文を用意して式に与ったのです。

 3度目となった今回の講座では、私達キリスト教講座のリーダー6名や、体験発表を引き受けて下さった浮田副委員長だけでなく、前回、前々回に受講し、昨夏の沖縄スタディツアーにも参加した高校生や青年が分かち合いの進行役として参加し、スムーズな進行に大いに貢献してくれました。また渡辺、高野両神父も堅信の意味、大人の信仰のあり方を、図やビデオ、ご自身の体験を交えてわかりやすく説明して下さいました。このようにして、世代を超えた共同宣教司牧が堅信準備において実現しました。

 梅村司教が話された「聖霊の賜物を頂き、自分の素晴らしさを人々のために輝かせる使命」を果たそうとする若者が、当教会にも着実に生まれていることを心より感謝し、その前途に神様の祝福が豊かにありますようお祈りしております。



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初聖体のお恵み
日曜学校 井出

 6月18日日曜学校の28名の子供たちが初聖体の秘跡にあずかりました。あたたかい雰囲気に包まれたごミサ、その後のお祝いのパーティーを無事に行う事ができました。子供たちはリーダーと共に初聖体について考えたり、はじめての許しの秘跡を受け、また前日は辛抱強くリハーサルをがんばったので、その成果に拍手を送りたいとおもいます。この日にむけて保護者の皆様には、衣裳、写真、奉納物、パーティーと各係にわかれて沢山のご協力をいただきました。ありがとうございました。神父様、子供たち、リーダー、保護者の皆様が心を一つにしてごミサにあずかる事ができたのだと、神様のお恵みに感謝したいとおもいます。信徒の皆様も子供達のためにどうぞお祈りください。

ぼくは、はつせいたいをうけて とてもうれしいです。神さまの体となるパンを食べて これからも つみやうそをつかないで 生活していきたいです。
3年 村越
家がとおくて、教会にかようのがたいへんだったけど、もうすぐはつせい体だとおもってがんばりました。ぶじ はつせい体がうけられたのでうれしかったです。ごせい体をいただく時、きんちょうしました。
3年 叶
 さいしょに、はつせいたいをうけるみんなと教会の中に入って、それでみんながすわった。しずかにしてちょっとしゃべったら友だちが「せきかえられるよ」っていって、だまってしんぷさまの話を聞いた。そして30分がたってあのごせいたいとぶどうしゅをつけて食べた。とてもおいしくって、もう1回たべたいほどおいしくってたまらなかった。それで、せきにすわって歌をうたって、もうそろそろ教会が終わりそうだからちゃんとしていた。教会が終わってそのあとしょくじがあった。おなかいっぱいたくさん食べたよ。
ポリカルピオ



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北2ブロック主催のバス旅行
長後 田所

 6月7日、待ちに待ったバス旅行、天候に恵まれ皆様はればれとした笑顔で湘南台センターに集合し、26名を乗せたバスが定時に出発しました。バスの中で笠島さんからご挨拶があり、これから冨士山麓にあるマリア様の御像前で渡辺神父様にミサを捧げていただき五合目で昼食、散策という事で無事に旅が出来ますようにロザリオを一連唱えました。バスは渋滞もなく予定通り11時頃二合目に到着し、バスを降りて枯葉をふみしめながら10分位山道を登りマリア像に着き、祭壇を作ってミサが始まりました。自然の中でひんやりとする風を受け小鳥のさえずりを聞きながら、オカリナ伴奏で聖歌をうたい、マリア様がエリザベトを訪問された時のお話をうかがい、女性としてマリア様やエリザベトがどのような気持ちで出産を待っていらっしゃったかを考えしばらく黙想しました。共同祈願は、その場で2、3人の方が祈願なさり、一同で「主よ私達の祈りを聞き入れて下さい」と祈り、ミサ終了後集合写真を撮りました。バスに戻って出発したと同時に雨がものすごい勢いで降りはじめ、それがあられに変って一面が雪景色となり、とてもきれいでした。五合目まで無事到着したのですが、あられがやまないので車中で昼食をいただき、皆さんでお話し合いをしながら楽しいひとときを過ごしました。今回は、中和田教会の方も3名参加して下さり、これを機会に交流を深めわかち合いをしましょうとお約束しました。小一時間もしないうちにすっかり雨もあがり、皆さん食後に外へ出て自由に散策し、目の前の富士山の前で写真を撮ったり、休憩所で暖房にあたりながら語り合い、2時にはバスに戻り帰路につきました。おかげ様で車中ではものすごく雨に降られましたが、ミサの時も散策の時も雨に会わずマリア様の御加護を心から感謝し最後にロザリオを一連唱えました。

 このバス旅行に参加された中和田教会のおふたりから以下の俳句と詩をいただきました。ご紹介させていただきます。

風青し 聖霊確と 富士のミサ 雅子

新緑のお山の雪のマリア様、お花飾り、小鳥オカリナの伴奏で、皆と心を込め感謝の歌、なにもかも有難うさん 田鶴



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コンサートのお礼
グラシアス・アミーゴ一同

 5月27日のチャリティ・コンサートにはご支援、ご協力をいただきましてありがとうございました。あいにくのお天気でしたが、多くの方々にご来場いただき、コンサートを楽しんでいただくことが出来ました。厚く御礼申し上げます。以下に会計報告をさせていただきます。

収入
チケット 1,000円463枚 463,000
寄付金 76,750
収入合計 539,750
支出
会場費 20,000
出演者経費 30,000
音楽著作権料 8,910
写真関連 8,000
ピアノ調律 13,000
印刷費 3,880
雑費 4,865
支出合計 88,655
差引収益 451,095



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聖霊は私たちを荒野に追いやる
善行 岡村

 「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが。世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです」(ヨハネ17:14)世に属する、属さないとは、どういうことか。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。」(ヨハネ18:36)この世に属していない「わたしの国」とは、御言葉によっていのちの生まれはじまる国、神の国ではないだろうか。それは、この世に属する人の住まない処、つまり人の目には荒地であるが、実はいのちの創造が行われるところである。「弟子たちは皆。イエスを見捨てて逃げてしまった」(マルコ14:50)荒地にイエスを残して。弟子たちは部下ではない、この世に属さないイエスに部下はいなかった。しかし、イエスは一人ではない。御父と聖霊と共にイエスは荒地にあって、いのちの創造がおこなわれた。それを取り囲む人々には十字架刑しか見えないそこに、私たちに知られない父と子と聖霊の交わりがあったのである。

 「イエスが水の中からあがると、天が開け、聖霊が鳩のように自分の上に降って来るのをごらんになった。そして、天に声がした。<あなたはわが愛する子、わが心にかなう者である>聖霊はイエスをすぐ荒野に追いやった。イエスは四十日の間そこに留まり、サタンに試みられ、野獣の住む所におられたが、天使たちがイエスに仕えていた。」(マルコ1:10-13)この「すぐ荒野に追いやった」という言い方に強烈な印象を受ける。荒野でイエスはひどく空腹だったが、それが信仰の試みに利用される。次に神殿の頂きにつれて行き、信仰を逆手にとり神を試みるよう唆す。最後に力を手に入れたい思いを誘惑する。人が生きる支えを周りから得られない荒野は、試みるにはもってこいである。そしてこの三つの試みは、「自らのために神を求める私たち」の弱みに付け込んで、神の「いのちの創造」から私たちを引き離そうとする試みの典型である。エジプトの虜囚からの解放と、それに続く荒野の四十年の旅は、人の思いこみや囚われから、思いや考えをはるかに超える神の「いのちの創造」の中への解放ではなかっただろうかと、わたしは考えるようになった。世に属する私たちは、生きる支えの得られぬ荒野には決して行こうと思わない。そこで生きられると、どうして思えるだろうか。

 「そこで、イエスは彼らをじっとみつめて仰せになった。<人にはできないことであるが、神にはおできになる。神にはできないことはないからである。>」(マルコ10:27)人を神から引き離すのは、生きる現実のなかに、思いや考えを超える未知のところを認めようとも受け入れようともしない私たちの、不安や恐れではないだろうか。私たちの中にある荒野に引き合わされても気付かない、いや、気付きたくないのだ。「金持ちとラザロのたとえ話」(ルカ16:19-31)は、そのことを私たちに示す。金持ちはラザロに何をしたというのか。私たちの思いや考えを超える引き合わせがある。選べない引き合わせといってもよいだろう。しかし私たちは、それを引き合わされて居るとは思わないのだ。そこに私たちの無関心がある。

 「あなたたちがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたたちをえらんだのである。」(ヨハネ15:16)は、私たちの思いや考えを超える神の選びを表している。選べない引き合わせである。私たちのなかにあって生きられない人が引き合わされている。私たちの中にある荒地だ。もしも私たちがその引き合わせに応えようとするなら、荒地に踏み込まなければならない。

 福音書を読んで、イエスが何処に立って私たちを招いているかを調べてみれば分かるだろう。イエスは常に、私たちの中にある荒地に立って、これこそが、あなたがたの生きる現実だと示して居られるのだ。



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