八 角 形 に ゅ ー す
2007年1月7日
聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会
目次
新年を迎えて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・司祭 鈴木
教会委員会一泊研修に参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂2区 益満
鵠沼1区の集い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼1区 小笠原
藤沢ブロック集会に参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢1区 鈴木
藤沢市民クリスマス・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・その他地区 荻野
グラシアス・アミーゴからのメッセージ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・グラシアス・アミーゴ 代表 リディア
湘南短期キリスト教セミナ−を振り返って・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢2区 兼子
新年を迎えて
司祭 鈴木
新年を喜びの中にお迎えでしょうか。
また一つ歳をとりますねぇ・・・。
今年はどんな年になるでしょうねぇ・・・。
昔読んだジョージ秋山氏の漫画「浮浪雲」の中に出てきたお話。あるおばあちゃんに息子が2人いました。一人は下駄屋で、もう一人は傘屋をしています。おばあちゃんは雨が降ると「下駄が売れない」と心配し、天気がよいと「傘が売れない」と心配していました。
それを聞いた浮浪雲のだんなは言いました。「そりゃあ、逆ではないでんしょうか。雨が降ったら傘が売れる。晴れたら下駄が売れるってもんじゃありませんか。」
「ものは考えよう」といいますが、そう単純にはなれませんよねぇ。でも、そう言われて何か思うことがありますよねぇ。それが悪い方に向かうこともありますが、良い方に向かうことがあります。こんなとき神さまに導かれていると不思議にも思います。聖霊(風)の吹くままに歩んでいるときの平安な心持ちがしるしのように思います。
今年も皆それぞれに、あるいは一緒に身(生命)を削って生きていくのですよ。ねぇ・・・。
ヘンリー・ナーウェン師の言葉。「人生という旅上にある人々を助けたいと願って、わたしは生きてきた。しかし、わたしには自分自身がしている旅のほかに差し出せるものがないことを、いつも知っていた。自分の血や肉の一部になっていなければ、喜びや平和、赦しや和解をどうしてほかの人に語れようか?」生命を削るというのは、自分の苦しみや喜び、疑問や希望、恐れや愛を友のために差し出すことだと聞いてどう思いますか?私はなんだか、ホッとします。
「ありのままのありはありのままだった」
教会委員会報告(12月16日)
小委員会の答申について4グループに分かれて検討し、それらについて全員で話し合った。
主な意見としては:
宣教の拠点とは何かという観点から、宣教のあり方を再考する必要がある。
センターを祈りの場として日常的に利用している外国籍信徒(主にラティノス)にとっては重要な場所である。
あった方が良いのはわかるが、絶対に必要か。
教区、また第5地区との繋がりにおいて、藤沢北部をどのように捉えるのか。
客観的なデータをもとにセンターを維持することのメリット、デミリットを検討すべきである。
経済的な理由だけで判断するのはカトリック教会として如何なものか⇔カトリック教会といえども経済的な事情も考えない訳にはいかない。
等々の意見が出された。答申=結論ではないので、今一度各ブロック、活動部でセンターが北部宣教拠点としての役割を果たしているか、ほかに方法はないのか、など話し合っていただきたい。その上で2月の信徒総会までには何らかの方向性を出したい。
教区本部としては、藤沢にセンターをつくるということは案として考えている。プロジェクトチームとしては、月1回のペースで話し合いを持ち、1年かけて検討していく。当面2月末までに教区の各委員会、団体、修道会、小教区からの要望、意見を収集する作業を行う。プロジェクトの進捗状況はできる限り皆さんに伝えていくようにする。藤沢教会としてもブロック集会、連絡会あるいは活動部の集まりなどでどのようなセンターが望ましいか、あるいはあってほしくないことなど、話し合っていただき、意見、要望、アイディア等をCPTの方に出していただくようお願いしたい。(担当窓口:小藤 晃)
福祉部より別掲のとおり報告あり、原案どおり承認された。(別途掲載)
設置を前向きに考えている。(その前段階として消防による救命講習会を予定)
教育部 清水(鵠沼)→ 岡田(藤沢)
福祉部 曽根(藤沢)→ 米谷(長後)
長期間にわたりお疲れ様でした。新任の方、どうぞよろしくお願いいたします。
・ 12月に開かれた喫茶ルームはそれなりに盛況であったが、今後については、ミサ当番月のブロックが場所の確保、中高生会との調整結果などにより開くこととする。
・ 1月20日(土)新年会開催
・ 1月8日(月)クリスマス飾りの片付け
・ 12月10日(日)自主参加のミニバザーが開催され、収益金の一部は教会に寄付された。
・ 1月28日(日)先唱者の勉強会を開く。各ブロックからの積極的な参加を期待。
・ 12月10日(日)藤沢教会において、大船・中和田・鍛冶ヶ谷・藤沢の教会学校担当者が今後のつながりのために集まった。(第5地区全体に呼びかけて行くための準備会)
・ 12月10日(日)ボーイクリスマス会
・ 12月17日(日)日曜学校二学期終了・学生の会クリスマス会
・ 12月23日(土)聖劇リハーサル
・ 12月24日(日)17時からクリスマスミサ。ミサ中、聖劇終了後、洗礼式(小1女子)
・ 1月7日(日)成人ミサ
・ 1月14日(日)日曜学校3学期開始・新年会
・ 1月21日(日)ボーイスカウト餅つき
・ 12月9日(土)市民クリスマス(キリスト教連絡協議会)
・ 1月20日(土)「キリスト者一致のための合同祈祷会」14時〜15時半 片瀬教会にて
7.教会委員会からのお知らせ
1月25日(木)藤沢教会の新年会(世話役:教会委員会有志)10:30〜14:00 ミサ・昼食・余興 ふるってご参加下さい。
2月18日(日)9時30分のミサ後、信徒総会開催予定
バザー収益金の配分について
福祉部 曽根
今年のバザー収益金のうち福祉活動充当分1,325,707円につきまして12月9日(土)福祉部例会で、配分について下の表の通り検討いたしましたのでご報告申しあげます。
配分先 | 活動内容 | 金額 |
社会福祉法人 創 | 知的障がい者通所施設、作業所などを行っています。信徒もかかわり支援活動をしております。 | 200,000 |
社会福祉法人 ひばり | 障がいのある人たちの自立の向け、通所作業所を行っています。地域社会の一員として、生活を送れるよう支援する団体です。 | 200,000 |
カラカサン | フィリピンコミュニティーのSrマーガレットが中心に、様々な暴力や差別を受ける子供、女性達を支援する団体です。年5万円を5年間継続支援を致します。渡辺神父からも推薦がありました。 | 50,000 |
アジア学院 | アジア、アフリカ、太平洋地域の農村開発従事者を学生として招き、農業理論、技術を身につけ、帰国後は指導者として活動するための団体を支援します。 | 200,000 |
MIC(多言語社会リソースかながわ) | 日本で暮らす外国人の医療通訳の養成、派遣や健康相談会などを行っているNPO法人です。 | 100,000 |
ファミリ−ハウス | 重い病気で県外から入院している子供の付き添いに来る家族のために、病院の近くに宿泊施設を運営しています。活動を支えるために会員として継続支援します。設立時よりSrキャサリンがかかわっている団体です。 | 50,000 |
カンボジア福祉基金藤沢 | 信徒宣教者会(JLMM)のカンボジアの水上村コンポンルアンを継続して支援します。 | 200,000 |
NPO法人 カンボジアと共に生きる会 アマタック | カンボジアに小学校を設立し、その子供達が国作りをして行けるように、内戦で学ぶ機会を失った人々への支援をしています。吉祥寺教会・後藤神父様を中心とした団体です。 | 100,000 |
火曜パトロール ホームレス支援 | 月1回の炊き出しとラーメン代を援助します。 | 200,000 |
合計 | 1,300,000 |
残金の25,707円は災害救助金の一部として福祉基金に繰り入れます。
「創」と「ひばり」の2団体については、自立支援法により、利用者や施設にいろいろな影響があることは確かです。そのような団体に私達は支援し、これからの問題として考えていきたいと思います。
バザーでの、おひとり、おひとりの働きのお陰でこのように国内、外へと支援金をお届けすることができましたことを心から感謝申し上げます。
教会委員会一泊研修に参加して
辻堂2区 益満
戸塚原宿の国道1号線の喧騒から細い道を左折すると、すぐその研修のため建物が静寂で広大な敷地の上に現れた。教会委員会の新メンバーとなって一年、机を隔てての話し合いが月一回行われてきた。神父のお勧めで毎回分かち合いが持たれてきたが、短い時間で人を知るのは難しいなとの思いが強かった。そんな時、小藤委員長から教会委員・活動部長による一泊研修(たまにはゆっくりおしゃべりしませんか)の提案があり一も二もなく手を上げた。
参加者18人は、12月1日18:00現地(マリアの宣教者フランシスコ修道会聖母の園黙想・研修の家)集合、オリエンテーション後夕食、20:30より聖書(コロサイの信徒への手紙 3章12−18)の分かち合い、21:30頃よりお酒を飲みながら歓談。翌日朝食後鈴木神父のお話、その後このお話について皆でおしゃべりし、昼食後個人小黙想、14:00ミサ後再びおしゃべりして15:30解散となった。
神父のお話は「共同宣教司牧」をどう進めるか、「どうしたら教会がもっと元気になるか」というテーマであった。「共同宣教司牧」の鈴木神父を含む3人の神奈川県の顧問の間でも、積極派(組織を強化する)と現状派(意識を強化する)とがあり、このテーマで目標を立てて動いて行けるのか?先に立ってやる人が皆がついてこないので疲れてしまうことはないか?もっと気楽に考えられないか?とどうやら神父は後者の派であるようだ。
「いずれにしても最も大切なことは、人(共同体)の交わりである。"分かち合い"もこの有力な機会でであり、このような合宿により出会いを深めることも良いと思う。宣教は人の生きざまがベースとなるのです。」と神父は結ばれた。
キリスト教信徒の生きざまについては、前日の聖書の分ち合いでも私のグループでは、その大切さと共に難しさを改めて話し合ったところでした。宣教の場での人の交わりの大切さは、私は身を持って感じるところがあります。というのも初めて受けた入門講座を通しての暖かい「人との交わり」こそ、いろいろ難しい教義への疑問などを乗り越えて私を昨年受洗させた強い力だったからです。ですから入信後もいろいろな機会、奉仕を含めてより多くの方々と接したいと願っています。その機会はミサや研修などの公式な場ばかりでなく、趣味の会でも飲む会でも良い。人はむしろインフォーマル・チャンネルによる交わりの方が打ち解けることが多いからです。お酒を飲みながらというと、禁酒主義のご婦人がいらっしゃれば顰蹙を買うかもしれませんが、適量のお酒は話し合いをする場の良い潤滑油になります。事実合宿初日の夜の懇談会は尽きることなく夜中の1時頃まで続きました。
このような2日間の合宿により、私は改めて人の交わりの大切さを知り、メンバー解散後もこの絆を保つため、来年の暮に又このような機会を持ちたいとお願いして黙想の家を後にしました。
鵠沼1区の集い
鵠沼1区 小笠原
2006年も残すところ、1ヶ月という11月29日、センター204号室で集会が催されました。晩秋の穏やかな午後、約20名の皆様と鈴木神父様をお招きして進行。簡単な自己紹介の後、一年を顧みて日頃思っている事柄を意見交換しました。
「横浜教区カトリックセンター」について今迄の経過、疑問点、センターの必要性、未来の教会のあり方、その中での藤沢教会の姿など、色々質疑が出ました。全くの五里霧中、漠然としていた事がやや解かり、只今進行中。そしてこの先 活発な意見交換が必要だという事もわかりました。藤沢教会としては一大事業になることでしょう。時間をかけて30年100年先のカトリック教会の発展をめざさなければなりませんね。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つ事が出来るように、いつも目を覚まして祈りなさい」(ルカ21 34-36)いつも心をとぎすまして謙虚な素直な心でいられますように!今年もクリスマス、お正月を無事迎えることが出来ました事を、神に感謝いたします。窓辺から見た秋空は何処迄も青く澄み渡り、散りゆく桜葉は私達の心の故郷である藤沢教会を見守り、たたえているように思いました。
藤沢ブロック集会に参加して
藤沢1区 鈴木
12月2日(土)11時より、センターホールにて藤沢ブロック集会並びにクリスマ
ス会が行われました。約50名の方が参加され、前半のブロック集会は以下の内容でした。
新・旧連絡員のご挨拶
バザー委員長曽根さんより、バザー収益の報告及び協力のお礼、私も今回初めてバザーのお手伝いに参加し、共同体の一員としてうれしく思いました。
川辺さんより、藤沢教会が教区センター機能を持つ教会としてのプロジェクトチームができたこと。どのように話が進んでいくのかはまだわかりませんが、藤沢教会の信徒として、積極的に意見を出してほしいとのことでした。
教会新年会の提案 以前に行われていた教会の新年会を復活させようという声が上がっているようです。神父様方を始め、信者の方のバラエティーに富んだ余興も検討中とのことで楽しみです。
後半のクリスマス会は、連絡員の方々の心のこもった企画のおかげで楽しく和やかなひとときを過ごしました。特に、余興の伝言ゲームでは、皆が真剣に耳を傾け、頭をフル回転。高野神父様も加わってくださり、全員が子どものようにはしゃぎ大盛り上がりでした。そして、くじ引きで連絡員の子安さんの心のこもった素敵なオーナメントがプレゼントされました。幸運にもオーナメントをいただくことができ、とてもうれしかったです。最後に全員へのプレゼントとして、綺麗なクリスマスカードをいただきました。このカードは、福音宣教のために誰かにプレゼントをしてくださいとのことでした。改めて、クリスマスは信徒だけで喜び合うものではなく、私たちはその喜びを伝えるという大切な使命があることを強く感じました。
待降節に入り、自身を反省し、神様に喜ばれるよう心の準備をしたいと思います。未信者の時にも教会のクリスマスに出て大変感動しましたが、信者になっての初めてのクリスマス。神様の愛が深く感じられ、共同体としてひとつになることのすばらしさをこのブロック集会で深く味わうことができました。心から感謝いたします。ありがとうございました。
藤沢市民クリスマス
その他 荻野
藤沢市内にあるプロテスタント、聖公会、カトリックの諸教会が合同で行う第34回藤沢市民クリスマスが12月9日(土)当教会を会場として開催されました。今回の市民クリスマスはあいにくの雨になりました。例年、小田急デパート前で行っていたキャロリングは中止になりました。
市民クリスマスは3部構成で行われ、第1部は「クリスマスの祈り」として礼拝(ことばの祭儀)がありました。今回は上中栄牧師(ホーリネス鵠沼教会)が司式され、永野健一牧師(藤沢ナザレン教会)による「クリスマスのよろこび」と題する説教がなされました。永野牧師はわかりやすいことばで福音をときあかしてくださいました。礼拝の中ではよく知られている讃美歌が何曲も歌われました。さらに藤沢ナザレン教会の「ソフィア・ハンドベル・クワイア」のハンドベル演奏も行われました。
第2部のクリスマスコンサートは、藤沢市内で活躍する「藤沢ジュニアコーラス」、「湘南コーロ・ステラ」(湘南白百合学園OGを中心とする女声合唱団)、「藤沢男声合唱団」、「藤沢福音コール」の4つの合唱団によるコーラスを堪能しました。どのグループも最後の1曲は会場のみなさんと一緒に歌いました。
第3部の「愛さん会」は前回に引きつづき「おしるこ」がふるまわれました。今回は雨のためセンターホールとテントの中で食べることになりましたが、あたたかいおしるこで心もあたたくなることができたのではないかと思います。
藤沢市内キリスト教連絡会では、「キリスト者一致祈祷週」に合わせて「キリスト者一致のための合同祈祷会」をカトリック片瀬教会で1月20日(土)午後2時から開催します。どうぞご参加ください。
今年も日曜学校では、総勢約90名の子供達が5時のミサで聖劇をいたしました。リ−ダーを始めお手伝いの保護者の方々に支えられ、短い練習時間でしたが本番が一番良く、神様に捧げる事ができました。聖霊の導きと多くの祈りの助けを感謝申し上げます。今年は24日の福音に合わせて、台本の中にエリザベト訪問を入れてみました。神様に信頼し従った人々のこの降誕のドラマは、緊張し頑張った子供達の心に多くの物を与えて下さると信じております。
練習でセリフがつっかえたり、動き方とか迷ったけど本番は上手にできたと思いました。リーダに救いを待つ人の事を考えて書いてみて、と言われたけどよく分かりません。でもイエス様が早く産まれてほしいとずっと待っていたのは、なんとなく分かるような気がします。
最後の聖劇楽しかった。出番が一番最初だからすごく緊張していた。練習の時は同じ所でまちがえちゃったけど本番ではまちがえずにできた。
聖劇で大変だったのは受験勉強もあったので、なかなかセリフを覚える時間がなく教会にいる間に練習しました。マリア様という大役で本番の前に緊張してしまいましたが励まして下さった方々のお陰で、なんとか最後までやりきれました。ありがとうございました。
ぼくはヨゼフの役をあまりやりたくなかったけど、他にやる人がいないからとリーダに言われてやった。当日はすごく緊張したけど、終わったら終わって良かったと思ったし、上手だと言われてやって良かったと思う。
私はガブリエルのお告げの場面は何度も見た事があるけど、実際やってみると色々な事を感じました。ガブリエルはイエス様が産まれるという重大な事を知らせる役目をまかされたんだなあ〜と感じました。羽が重かったけど、落ち着いて良くできたので良かったです。
緊張したけど、練習どおりテキパキと動けたし、声も意外とよく出せました。表情も上手く出ていたと思います。
神様は、一番最初に羊飼いにイエス様が産まれたという事を伝えたかったんだと思いました。その貴重な羊飼いの役が最後にできて良かったなあと思いました。
私達は劇の中で50m位しか歩いていないけれど、2006年前の博士達はその千倍位h歩いて体力的にも疲れ、誰もイエス様が産まれた事は知らなくて手がかりは星だけで、精神的にも疲れていたから、イエス様に会えた時は、すごくうれしかったのではないかと思いました。私もそのような喜びを味わえたらいいなと思います。
聖劇で当時の博士達の気持ちになって特に感じた所は、馬小屋の飼い葉桶の中にねているイエス様を見つけた所です。不思議な星を見つけ、長い旅で苦労しようやく神様の聖子に出会えた時、博士達がとても幸せになったという事が分かりました。衣装もきれいでしたし、楽しかったです。
私が大変だったのはタイミングを合わせる事でした。良かった事は、セリフが簡単で衣装がきれいだった事です。一番心に残った所はイエス様を見つけた所です。大変な事もあったけど楽しかったです。
グラシアス・アミーゴからのメッセージ
グラシアス・アミーゴ 代表 リディア
グラシアス アミーゴの会員及び経済的な支援がなければ高等教育を続けられなかったペルーの若い学生たちを代表して、私たちの教育支援プロジェクトを多年にわたり様々な形でご支援くださった藤沢カトリック教会の共同体の内外の皆様と各位に心から御礼申し上げます。
私たちは、これまで続けてきた子供たちが「義務教育を終えるまでの学資支援」が2009年に終結するのを受け、以降「里親による学資支援」プロジェクトを中心に活動を進めていきたいと考えています。これからは、小さい規模での様々な活動を続けてまいります。皆様には引き続きご支援いただけますよう宜しくお願いいたします。
2007年が平和と愛と協調の年になりますよう心から祈念しています。
湘南短期キリスト教セミナ−を振り返って
藤沢2区 兼子
今回のセミナ−の「諸宗教対話」というコンセプトと講師の選定はアンケ−ト結果からみると好評で、参加者数(約3 割は教会外・ 未洗者) も過去の最多を超えました。以下にそれぞれの講演の概要とアンケ−トに寄せられた声を簡単に紹介します。
「衆生病むが故に我( 仏) も、亦病む」今の時代はすべての人の心が病む時代である。仏様は柔和な顔をされていると思っていたら、或る時、とても悲しいお顔の仏様に気づいた。仏様(阿弥陀)はすべての人を救おうと願をたてられたにもかかわらず、なお現実に地上にはこれほど多くの痛み苦しみ嘆き叫ぶ声が満ちている。その声を聞くたびに仏様の心は張り裂けんばかりだ。自称ブッディストの五木さんは現代社会という「病む時代」に生きる我々の苦しみ、悲しみとそれをも受容可能にさせる我々の背後の阿弥陀仏の慈悲について話された。現代では人間的な心優しい人ほど傷つき易く「心が萎える」。しかし人間不信、社会不信、自己嫌悪を噛みしめて生きていくことは病んだ時代に生きる以上、人間らしい正しい反応だ。人間的たろうとすればするほど、今の時代は心が病む。それを表すロシア語のトスカ、韓国語のハン、日本語の憂愁等は各々の文化に深みを与えている。人は生きている中で喜びの裏に悲しみ、笑いの裏に愁い、光りのなかに影を見る。そして光が強ければ強いだけ影もまた濃く、さらにその影の背後に大いなる光の存在( 五木さんの場合、阿弥陀仏) を認識する。我々は、はたして強く生きることだけで良いのだろうか。むしろ「心萎える」ことこそ大切ではないか。五木さんの講演は悲苦や「心萎える」という常識的にはマイナスの価値を、この「病む時代」に生きる我々がプラスに思考転換すれば、もっと楽に生きられるのではないかと言うものでした。偉ぶらない等身大の五木さんの口からそう言う言葉を聞くと、本当に心が癒されていく思いがしました。賛辞を寄せられた多くのアンケ−トの中から一点、紹介する。「キリストという言葉を使わないで、こんなにもキリストを感じさせて頂き、社会の中でキリストを知らない人に対して、こんな風に(私たちが)キリストを伝えられたらいいなと思った(50 代、女性信徒) 」。
「講演の最中にレジュメを読んで欲しくないのです。 何らの予備知識や先入観なしに講演する私と聴衆の皆さんが一瞬、一瞬を切り結ぶ。そういう真剣勝負のような講演にしたい。 このレジュメは事後にお渡し下さい」そう師から云われた時はスタッフ一同、正直言って当惑した。終わってみて一言で尽くせば、師の講演は新進気鋭の神学者として熱の入った内容と質問への誠実さ溢れるご回答だった。アンケ−トから判ることは、師の学問への姿勢、曰く云い難い部分を何とか伝えたいと言う熱意、どんな質問に対しても真摯な受け答えに徹するひたむきさに対し多くの方( 特に中高年の女性信徒) が感動されたことだ。「花は花でないから花である」。ご講演のこのタイトルから人は何を想像するのか。少し補って云うと「(真の)花は、(偽りの)花でないときに、(真の)花である(となりえる)」ということではなかろうか。道端に咲く花や、傍らの花卉に生けられた花はこんなにも美しい。花は無心に精一杯、花として充実した命を生きている。美しい花が見る人の心を打つのは、花が生命の最も充実した形だからだ。これを日常の信仰との関わりで云うと、一人ひとりの人間が神様から与えられた生命を普段の生活の中で十分に生かしきることが花なのだ。また今の自分の( 仮の) 姿に満足することなく、その自分から脱却し、真の自分へと新たに至り着くこと、それが人間にとって花なのだ。道元は「空は花である」とも云う。道元の「空」とは日常言語における空虚の意味ではなく、むしろ「生命がその内部に充満、横溢している」こと。したがって「空は花である」 という言葉の意味は「いのちの力が漲って、一点に圧縮されて花開く」の意味であり、師の言葉によると「あらゆるものを活かすいのちの力が充満して、凝縮され、結晶化するときに花がさく、人間が生まれて生きる」ことなのだ。師は道元や、世阿弥の能における「花」という概念を援用し、我々の日常生活や宗教、芸術における究極的な境地を「花」と譬えられる。師の講演を要約すれば、概ね以上のようになるだろう。しかしその深い意味まで理解するには、発信者と受信者の間に共通の体験がなければならない。それ故、師は同時に真理を表現するには言語に限界が存在することをも嘆かれた。しかし多くの方に師の思いは伝わったようだ。アンケ−トの中の次の言葉がそれをよく表している。「神父様の真摯な語り口に耳を傾けているうちに、テ−マの内容がよくわかった。心の内に野の花を一輪、咲かせていただいた(50代、女性信徒)」「言葉以上に神父様の思いが伝わり、とても豊かな時をもてました(50 代、女性信徒) 」。最後の質問の時間にはアウグスチヌスの回心についてと、ご夫婦が別々の信仰をもっている場合についてがあり、即ち「夫が真宗の信者で、妻のカトリック信仰を尊重しながらも、カトリックに改宗しようとはしないままに死を迎えられた、そのご夫婦の信仰をどう考えたらよいのか」という質問に対して「それぞれの信仰を尊重しながら、愛しあって生を終えられたことは事実なので、そのことはそのままで素晴らしいこと」 とお答えになった。
五木さんは蓮如上人に関してこう書いています。蓮如上人は宗祖親鸞の教えを広めるにあたり「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを広く」伝えるよう努められたと。このことは五木さん自身の文章を書かれるときのモット−でもあるが、さらに考えるとキリストの教えに関して森司教様が日頃、実践されていることでもある。即ちイエス・キリストの難しい話を分かり易く、私たちの心に滲みとおるよう深く、そして私たち信者・未信者を問わず、広く現代日本の悩める人、苦しむ人、信じられるものを真剣に求める人たちにわけ隔てなくお話しくださるのであるから。五木さんとの対話「神の発見」の「あとがき」で五木さんは「この時代に、森さんのような司教をえたカトリック教団は幸運であると、正直、そう思わずにはいられない」と書いている。また森司教様の「聖書のことば」の帯に「おそらく、森司教のような人が幾人となく現れることで、いつかキリスト教も日本人の血となり、肉となるのかもしれない」と仰っている。これは過少評価に聞こえるかも知れないが、よく考えると五木さんの最大級の賛辞ではないか。と云うのも、五木さんも司教様も仏教とかキリスト教とかいう既成の宗教の枠を突き抜けた、もっと本質的な、もっと普遍的な人類全体に共通する霊性の立場から( 私たちから言うとそれは、本来のイエスの教えそのもの、イエスの愛そのものですが) それを対話の共通の場として、人類の向かう所を見据えておられる、本当の意味での現代日本の宗教者であると思うからです。講演そのものは「旧約」の「創世記」 2章7-25節における人間理解と現代社会における人間存在の危機についてでした。主なる神によって人間が造られたとき( 生命が与えれたとき) 、人間は何かを求めて「飢え渇く」ものとなった。 では何を求めて飢え渇くのか。力ある者が弱者を助ける時のようにではなく、人間にふさわしい( 同じ視線の高さをもつ) 助け手を求めて飢え渇く。かくして彼は己れの生命を支えるものとしての人生の伴侶をえた。人間の根源的な飢え渇きには次の四つがある。即ち「柔らかく、刺のない、温かいものに包まれたい」「自己を肯定されたい」「可能性を開花し、いきいきと生きてみたい」そして「人と心を通わせたい」の四つである。本来、人間は家庭や社会のなかで、この四つの飢え渇きが満たされなくてはならぬが現代社会ではどうなっているか。いきいきと生きている人は殆どなく、一人ひとりは孤独で満たされず疎外されたままである。現代では夫婦は互いに温かく、刺のない、柔らかな存在だろうか。親子は互いに心を通わせる存在だろうか。 現実はむしろ否である。そもそも人間は創造の初めから、互いに交わりに「飢え渇く」存在として造られたのだから、先ず家族のなかで互いに掛けがえのない存在として認め合うこと、率先して「ごめんなさい」「感謝します」を口にすることから始めることが必要なのではないだろうか。アンケ−トから紹介。「聖書の言葉には、今の社会のあり方を修正できるメッセ−ジが含まれている」「難しいテ−マを実際の生活に置き換えて分かりやすく」「権威主義的な言葉が一切なく、平易なことばで現代人の心理を解説いただいた」等があった。いずれも60代の女性信徒から。
最後にセミナ−全体に対する評価をアンケ−トから紹介して報告をおえる。「諸宗教の関わりの大切さ。三つの講話のバランスもとれており、とてもよかった。その場ですぐ理解できなかったことを、後で味わい深めることができた」「変化の激しい社会について行けず、取り残されて行く日々を実感する昨今、セミナ−は毎回、私の一番の楽しみ( 動く社会を感じえる) です」「人生の生きかたについて大変、興味深く有意義な話であった。現実の生活との共感がふかく、平易な話で理解しやすく、カトリックのみでなく、他宗教との関わり及び共存可能な内容のセミナ−を今後とも取り扱って欲しい」「セミナ−のコンセプトを紹介する文章を始めから配付して欲しかった。第一回しか来なかった人は知り得ないのだから」等々。このセミナ−全体のコンセプトは何か、三つの講話に通底するものは何かということは、むしろ参加者に課された問いでもあろうがが、一つ言えることは、仏教にもキリスト教にも共通の場としてあるのは、どのような境遇におかれようとも、自分がとても大きな愛に包まれているという感謝の実感であり、そこから自ずと他者へと眼が向くことなのではなかろうか。