八 角 形 に ゅ ー す
2007年4月8日
聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会
目次
「空気」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・司祭 鈴木
近隣教会との福祉懇談会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・福祉部 米谷
SSVP 藤沢協議会報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・SSVP 藤沢協議会長 高橋
私は墓には行かない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・司祭 ぱうろ たかの
横浜教区合同入信志願式に参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・荒井
マラナ・タ主よ、来てください!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢2区 家田
写生会に参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂1区 相原
結婚準備セミナー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・結婚講座担当 日野水
み言葉となられたキリスト・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・善行 岡村
「空気」
司祭 鈴木
ご復活おめでとうございます。
先日、中国にちょっと出かけました。上海の街は日に日に変わっているそうで、20年前とは全く別の都市のようでした。人間の暮らし方ばかりでなく、生き方も変わっていくのでしょう。いつの時代もそうであるように、良い面と悪い面を合わせ持ちながら。
その上海から車で2時間ぐらいの所に「平湖」(ピンフー)という小さな町があります。親友がプラント建設のため単身赴任している所で、水瓜で有名な町なのだそうです。そういえば、食事の度にデザートに水瓜が出てきました。一年中食べられるそうです。水がよくないので、代わりにこれを食べているのでしょうか。上海からこの町への道路もどんどん良くなっているそうです。中国では用地獲得のため「道路を造るからいつまでにどきなさい」と政府がいえば皆従うそうで、日本のように時間はかからないのだそうです。
この町で天主公教会(カトリック教会)に立ち寄り聖体訪問したところ、シスターが聖堂の灯りをつけてくれました。祭壇正面に電飾が輝き「日本人の感覚と違うなあ」と思うとともに、日本の外国人コミュニティの人々のこともあれこれ考えました。日本人の神父であると友人が紹介すると、庭の奥に案内され、今年赴任したばかりで叙階7年目という若い主任司祭に会うことができました。平湖の町には3,500人ほどの信者がいて教会は3つもあるのだそうです。キリスト教は活動制限があるこの国のこんな田舎町でのことです。
そのうち、中国服の老人が姿をみせました。老神父だそうで、88才ということでした。私にラテン語で何か質問しようとしましたが、よく覚えていないようでしたので、携帯電話を使って友人が会社の人に通訳するように手配しました。電話機を老神父に渡し何かやりとりしていたようですが、質問は別にないと言っているとのことでした。惚けたせいか、電話を使うことを怪しんだせいかわかりませんが、文化大革命の苦難の時代を過ごしてきたこの老神父は柔和そのもののいい顔をしていました。
「本物」というのは、語ることばでなく、その人のかもし出す「空気」だとあらためて思います。「宣教」もこの辺に鍵があるのではないでしょうか。中国の教会も少しずつ復活の春のきざしを感じているのでしょう。その一端に触れさせていただきました。皆さんはどこかに復活のしるしを見ましたか。
教会委員会報告(3月17日)
200名近い出席者のもと、皆様のご協力により無事終了し、心から感謝申しあげます。
横浜教区のセンター機能付加についての分かち合いがあり、内容は別記参照。
現行センターは12月末を目途に閉鎖し、その機能を分散し、活動を継続していくと言う方針が前回の委員会で決まり、信徒総会で報告された。その方向に向けて現在行われている各活動について継続の可否も含め、具体的対応策等を実際に活動に携わっている方々とも話し合い検討していくための作業チーム(湘南台センター作業チーム)が編成され、早速作業に入る。作業チームメンバーは以下の方々。
(五十音順、敬称略)浮田(リ−ダー)、岡田、窪田、増田、宮崎
高野神父が横浜山手教会に異動するにあたり、4月1日9時半のミサの中で感謝の意を伝え、ミサ後、前庭にてお茶、お菓子で歓談する予定。また感謝カードのほかにお餞別をお贈りすることになった。(そのための箱を3月25日(日)聖堂内に設置)
4月1日(高野神父歓送会)8日(復活の主日)のお茶とお菓子の準備担当。
5月6日(日)ブロック集会を行なう予定。家庭集会が少なくなってきているように思われるが、少人数でも集まってやっていきたい。
4月1日(日)各ブロックの代表が出席し、今年のバザーについて話し合う。
4月22日(日)ブロック集会を行なう予定。新しく洗礼を受けた方、転入された方の歓迎会。6月2日(土)に黙想会を予定(指導晴佐久神父)
3月30日(金)10時から枝の準備。
中和田教会との交流を図っていく。50周年記念事業の一環で行った沖縄スタディーツアーのフォローアップなどに取り組んでいく。
3月11日(日)日曜学校洗足式体験。高野神父送別会
3月17日(土)〜 カブスカウト・ボーイスカウト箱根キャンプ
3月18日(日)卒業感謝ミサ
3月25日、26日 中高生会春合宿
聖堂内のパイプ椅子の下に荷物置きを順次設置している。前列の座席のものを利用することとする。
3月31日(土)聖堂周りの回廊(網戸含め)清掃。
3月11日 鍛冶ヶ谷教会で第5地区福祉懇談会が行われた。
5月13日 ギャンブル依存症についての勉強会を予定。
教区の聖体奉仕者研修会。ブロックから4〜5名の推薦をお願いします。
ごみ有料化に関する問題。10月から生ごみが有料となります。対応策について総務部にて検討するが、会合、行事などでのごみは各自持ち帰りを原則とする。
横浜教区福祉委員会より教区福祉基金へ50,000円(年間)の寄付要請があり、応じることになった。
2月18日に行われた信徒総会の第2部で行われた藤沢教会に教区のセンター機能を付加するプロジェクトについての意見交換では、参加した方々より多くの意見が出されました。その中から代表的な意見をまとめ、5つのカテゴリーに分類して報告させていただきます。
以前のセンターにもなじみがなかったのでセンター機能といわれても想像もつかない。どのように使うのか、その場合藤沢教会の信徒は使いにくくなるのか、藤沢教会のこれまでの活動が制限を受けたり、信徒の負担が増えるのではないか。また建て直しなどが必要なのかなど知りたい。
今まで3年無くても済んだのならこのままでも良いであろう、財政的に難しくなるといわれているのに金をかける箱物は不要ではないか。そのようなお金があるなら別の必要のために用い、今あるさまざまな施設の有効利用を考えた方が良いのではないか。
たたき台も無い現状では漠然としすぎて考えようが無いが、以前のセンターや名古屋の研修センターも維持管理が苦しく閉鎖されてきた。新たに必要というのなら以前の轍を踏まないよう投資金額や内容などについて慎重に検討すべきだ。
これからは教会単位ではなくもっと大きな交流のための場が必要だ、センター機能は時代の要請でもある。そのために司教様が活動しやすくしたいと思われているし、私たちにとっても視野と交流を広げて行く良い機会だ。できる範囲で協力したい。
計画を進めるにあたって、情報をできるだけ速やかに公開しながらすすめてほしい。そして以前のセンターのようにならないよう財政基盤の確立や運営方法などに十分留意してほしい。また、運営に当たっては藤沢の信徒に多大な負担がかかったり、使いにくくならないような考慮もしてほしい。運営・財政面で藤沢教会と教区センターは分離した方が良い。
今回の話し合いで出された数多くのご意見をCPTにおける今後の検討に生かして行きたいと思います。なお個々の意見などについてお知りになりたい方は、事務局の川辺までお問い合わせいただければ意見の一覧表をお渡しいたします。
3月18日に卒業感謝ミサを行い25名の子供達が日曜学校を巣立ちました。当日は幼稚園卒園、そして中学校、高校の卒業を迎えた子供達の祝福も併せて行われました。
私は、侍者をやりました。みんなと顔を合わせてドキドキしました。侍者でパズルを組み立てることができなくて、残念でした。でも最後に侍者ができてとてもよかったと思いました。いい思い出になりました。
卒業感謝ミサで、私は朗読「ヨシュア記」を読みました。とても緊張したけれど、日曜学校最後のミサだったので あわてず、しっかり、がんばりました。
ミサが始まる前、私はとてもきんちょうしていました。理由は、「マリアさまのこころ」のピアノ伴奏をすることになっていたからです。奉納の歌だったので、3番までのつもりだったのですが、卒業制作のパズルが3番の時には完成していなかったので、5番まで弾きました。そうしたら、一緒にオルガンの伴奏をしていた母が、口パクで『終わり』と言ったので少しあせってまちがえてしまいました。ミサが終わった後、パズルがずれた状態で台についたのをみんなで直していた時、私は「ピアノをまちがえたから調子狂ったかな」を1/3位本気で思いました。
いただいた聖書は、表紙も中身もきれいで読みやすくて、うれしかったです。
近隣教会との福祉懇談会
福祉部 米谷
藤沢教会の提案によりはじめられた「横浜教区第5地区並びに近隣教会の福祉懇談会」の第3回が、3月11日(日)14時〜16時、鍛冶ヶ谷教会信徒会館にて実施されました。当日は天候不順、雨天にもかかわらず今回初参加の中和田教会を加え片瀬・藤沢・大船・鍛冶ヶ谷の5教会、24名の方々が出席し、当番の鍛冶ヶ谷教会田所誠三氏の司会進行で開会されました。
懇談会は、主任司祭ハイメ・カスタニエダ神父の「会を開く祈り」から始まり、「福祉の意味を繰返し味わい、またその行動を一歩一歩前進させること」を励まされるお話をいただきました。「福音的な愛」を一歩一歩と祈る気持ちを強く感じました。引続き教会運営委員長の守屋義彦氏から、今回の懇談会への運営に対し大きな期待をもっているとの励ましをいただきました。また、出席者の自己紹介はそれぞれ個性的で、特に今回始めて出席された中和田教会には大きな拍手で盛りあがりました。
さて、本日のメインテーマである「昨年の活動と今年の取組み」について述べていきます。大船教会の報告は「弱者のマップ作り」です。災害対策展開状況(マップ作り)と福祉活動のなかからみえてきたものとして、18年度は
@ 教会としての災害対策
イ. 日常の交わり
ロ. お互いを気遣う組織作り等
A ボランティア活動による社会貢献
イ. テレジア病院
ロ. 聖母の園老人ホーム
ハ. 礼拝会ミカエラ寮等
B 福祉団体施設(13ヵ所)へ約百万円の活動資金支援
を行っております。なお、資金は福祉献金・バザー収益金・ふれあい広場益金・クリスマス献金などによるものです。
鍛冶ヶ谷教会は昨年福祉グループの組織を定着させました。グループ会議の下に日常的に活動する8活動部を設け、そのメンバーは必要に応じて毎月会議に出席し課題を検討します。即ち
シスターマリアのフィリピン・アフリカを助ける会(バザー残品寄付)
東条湖の家(ジャムの販売)
ラルシュかなの家(石鹸等の委託販売)
テレサの集い
聖書を読む会
手話の会
さなぎ達
ぶどうの会
です。
片瀬教会は病院ボランティアと金曜日会、初参加の中和田教会は現在病院ボランティアをやっていますがこれからが福祉の基礎作りです。
藤沢教会は「心の病を理解しよう連続勉強会」として昨年9月にアルコール依存症をとりあげ、本年は5月13日にギャンブル依存症の勉強会を準備中です。また、ボランティア支援の勉強会を昨年11月に実施し、現在篠原クリニック・デイサービスを含めて、キリスト者としてのボランティアとは何かを学びながら多くの人たちとともに大きな輪を目標にしたいと考えております。
最後に当教会の渡辺神父から講評として「年々この会が明るく、活き活きとなってきたことを感じました。皆様のこれからの歩みのためにお祈りしています」との励ましをいただき無事懇談会を終了いたしました。
本日の当番をしていただいた鍛冶ヶ谷教会のみなさま本当にありがとうございました。
SSVP 藤沢協議会報告
SSVP 藤沢協議会長 高橋
当会はフレデリック・オザナム および その仲間たちによって1833年にパリーで創立された国際的信徒組織(Society of Saint Vincent de Paul)の末端の組織の一つです。日本の本部(日本全国理事会)は田園調布教会内にあります。会の概要はホームページをご覧下さい。(ssvpで検索できます)
私共の協議会は、横浜教区に対応する横浜中央理事会に属し、神奈川県では現在 大船、山手、鶴見、菊名、藤沢がそれぞれのニーズに合ったやり方で活動しています。全国では45の協議会、会員約200人と言われています。藤沢協議会ではクリスマス前後にプレゼント(マドレーヌの会の作ったマドレーヌ)を持って施設を訪問すること、信者の方々のご協力による手編みの毛糸の帽子を外国船員に届けることは恒例になっておりますが、病気や怪我で生活が苦しい在日外国人、老齢や病身で援助が必要な人、身寄りのない人等への訪問も随時行っております。2006年末には、福祉部より白米15kgの寄贈をうけ、配布することができました。このような活動は決して会員のみの力でできるものではありません。今後とも皆様の援助、ご協力をお願い致します。
年度 | 2005 | 2006 | |
収入 | 定期寄付 | 112,900 | 86,900 |
例会献金 | 49,000 | 41,200 | |
小計 | 161,900 | 128,100 | |
支出 | 援助費 | 155,537 | 98,325 |
物資 | 23,037 | 15,825 | |
現金 | 132,500 | 82,500 | |
上級理維持費 | 20,000 | 18,200 | |
報告書ほか | 7,500 | 9,000 | |
通信費,送料等 | 6,500 | 1,550 | |
小計 | 189,537 | 127,075 | |
収支 | △ 27,637 | 1,025 | |
前期より繰越 | 441,136 | 413,499 | |
次期へ繰越 | 413,499 | 414,524 |
私は墓には行かない
司祭 ぱうろ たかの
主のご復活おめでとうございます。ご自身の受けられた傷を見せ、「あなたがたに平和があるように」と、私たちの真ん中に立たれた主イエスは、確かに私たちが傷を負わせた主であり、にも関わらず私たちに愛を注ごうとされた主に他なりません。その主が、私たちとともにいてくださり、私たちはその主と繋がれて恵みをいただきます。ありがたいことです。
司祭叙階の恵みを受け、最初の派遣先だった藤沢教会のみなさん。2年間お世話になりました。ありがとうございます。この世に産まれた赤ちゃんが、最初に受ける母乳はとても大切だと聞いたことがあります。この世に生きるために必要な栄養、免疫がたくさん含まれているらしいのです。自分が産まれ出た源に抱かれて、その愛に包まれて、これから歩むために必要なものをその源から受ける。・・・そこには「安心」「希望」「平和」を感じずにはいられませんが、それと同時に、これからの道のりの「厳しさ」と、それを乗り越えるための「力」も暗示されています。そのすべてを心におさめて、母親はわが子を抱き、わが子を見つめ、お乳を与えるのでしょう。私はこれらをすべて悟ることはできませんが、私が司祭として一歩を歩み始めた「母なる」このキリストの教会で、これから司祭として歩むために必要なものを、主は確かに与えてくださったと信じていますし、ここで出会ったすべての人々、すべての出来事、すべての時が、私の中で熟成されることを信頼のうちに、主に願いたいと思います。
さて、もう少しお付き合いいただきましょう。私は2月28日から3月9日にかけて、イスラエル巡礼に行く恵みをいただきました。主イエスの歩まれた道をたどる事ができたことは、大きな恵みでもありました。しかし、それと同時に現在のイスラエルは、ユダヤの人々とパレスチナの人々が対立し、ユダヤ人地区とパレスチナ人地区の境には壁ができて、特にパレスチナの人々は生活が困難な状況にあるという悲しい現実も目の当たりにしました。私たちのツアーに同行してくださったユダヤ人女性のガイドさんも、パレスチナの地区であるキリスト生誕の地ベツレヘムには入ることができませんでした。ユダヤ人である彼女も、壁を作ったことを嘆いていました。
ところで、このユダヤ人女性のガイドさんですが、よく準備され説明も的確で、私たちが巡礼に来ていることを私たち以上に大切にされていました。(私たちがお土産に東奔西走する姿を見て驚くほどに…)また、説明の中でご自身の主イエスの思いを分かち合ってくださるので、「この人はキリスト教徒なのかな〜」と思うほどでした。
最終日、彼女と同じテーブルで昼食をいただく機会があったので、この時しかないと思い質問をしてみました。「…あなたは、イエス・キリストをどう思っていらっしゃいますか?」と。彼女はにっこりと笑い、良い質問だと言った後で、ハッキリと答えました。「私がイエスの時代に生きていたなら、彼に従ったでしょう。…そして、私は墓には行きません。」と。彼女が言うのには、今のユダヤ人も、信仰に対する意識が薄くなっていて、彼女自身もそのような環境の中で育ったそうです。そして今、捜し求めている事も話してくださいました。
マグダラのマリアを始め婦人たちを墓に向かわせたのは、絶望の最中に主イエスとの愛、絆を主イエスの「遺体」に見ていたのかも知れません。しかし、ご存知の通り福音書には、母マリアが墓に向かったという記述は一切ありません。「お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)と天使ガブリエルに応え、「主がおっしゃった事は必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(ルカ1:45)とエリザベトに言わせた母マリアはどうだったのでしょう。もしかしたら、婦人たちは母マリアにも墓に行くことを誘ったのかも知れませんね。その時、母マリアはなんと応えたのでしょうか…
「私は、墓には行きません!」(私は心の中でつぶやくのです。「やったね!お母さん!」と…)
私は毎月一回の、子供とともにささげるミサをいつも楽しみにしています。お説教の時には、わかりやすく神様のお話をして下さってありがとうございました。この前、日曜学校のお友だちと祭だんに集まった時、私は高野神父様のおとなりにならぶことができました。主の祈りをとなえる時に神父様と手をつないだら、とても温かくて大きな手だったのをおぼえています。もっとずっとずっと、藤沢教会で私たちと一しょにすごしていただきたかったです。山手教会へうつられても、いつもニコニコの楽しい神父様でいらして下さい。それから一つおねがいがあります。私の通っている清泉小学校では、6月にこう堂で「み心のミサ」があります。毎回、たくさんの神父様が司教様と一しょにいらして下さいます。ぜひ、高野神父様もその時学校にいらして下さい。心からおまちしています。
神父様に教えていただいた事を心にとめ、神様のよい子供になれるように毎日お祈りします。今までありがとうございました。
私は4年生の11月から日曜学校へ通い、教会へミサにあずかるためにお越しになっているみなさんと共に、ミサにあずかることができるようになりました。幼い頃から祖母や母と共に教会へ通い、ミサにあずかっていたため「私も神様のことをもっと深く知りミサにあずかりたい」と思っていたので、日曜学校へ通うことができるようになったときにはうれしくてしょうがありませんでした。5年生からはサマーキャンプへも参加し、少しずつではありますが、教会にも日曜学校の方々ともなじんできました。6年生では洗礼を受け、うれしいかぎりでありました。黙想会にも参加し、中和田教会の日曜学校の方々とも親しくなりました。高野神父様には、1年という短い間でしたがお世話になり、心から感謝しております。本当にありがとうございました。
私たちカトリックボーイスカウトにとって、高野神父さんは、まるで私たちの父親のようでした。私たちにいろいろなことをおしえ、そして私たちに最終的には、神とのかかわりをおしえてくれました。もうお別れになってしまうのが今となって悲しいです。またいつの日か出会うときもありますが、私たちのことをわすれないでください。私たちも高野神父さんのこともわすれません。最後にお礼の言葉を言わせてください「いままでどうもありがとうございました。」
ぼくは高野神父様が夏キャンの野外ミサの時に話してくれた、からすのことは一回もわすれませんでした。あの話しはおもしろかったです。山手教会にいってもがんばってください。CBSでまたあえるのをたのしみにしています。
高野神父様に初めてお会いしたのは、私がまだ侍者をやっている頃でした。そして昨年、学生会を立ち上げた時からよくお話をさせていただくようになりました。夏に行った学生会のバーベキューにも参加していただき、楽しいお話をたくさんお聞きして、みんなで楽しい一日を過ごすことができました。また2月の日曜学校の黙想会にお手伝いに行った時、子供達と真摯に向き合い熱く語られている姿に感動しました。これからもっと神父様と関わりを持たせていただき、多くの事を教えて頂きたいなと思っていたのでとても残念です。学生会もこれからたくさんの人が参加してくれるように頑張ってまいります。今までありがとうございました。神父様のこれからのご活躍をお祈りさせて頂きます。
3月11日四旬節第3主日、日曜学校今年度最後の授業が行われました。イエス様が最後の晩餐で弟子たちになさった事、“弟子の足を洗う”を合同クラスで体験してみました。
“弟子の足を洗う”と言っても子供達には理解できないので、導入として紙芝居「弟子の足を洗う」を6年生のお姉さんに読んでもらいました。そうする事により低学年の子供達にも漠然とは理解できたようです。そしてまた、なぜ?イエス様はどんな風に考えたのかな?など様々な疑問もわいてきたようで、お互いに洗い合う事により洗い手側、逆に洗われ側の気持ちをも考えられたようでした。初めての経験の子供達がほとんどで、様々な感想が出てきました。
あらってもらったとき、とってもドキドキしました。すこしくすぐられましたがとってもたのしかったです。わたしがあらったとき、だれかがすこしくすぐったいといって、すこしやさしくしました。みずは、あたたかくてきもちよかったです。リーダーのあしも、あらいました。リーダーのあしをてきとうにあらったので、もうおわりといっていました。とってもよかったです。あしをあらってもらったときたのしかったです。
足をあらってもらった時は、かみしばいの時にかかれていたようにうれしかったです。そしてきもちがよかったです。そしておゆがあったかくて一番強くかんじたことは、うれしかったです。足をあらってあげた時は、人の足をあらったことはないので、びっくりしたけれどもあんがい楽しかったです。でもちょっとこわかったです。あい手をあらうというのも、あんがい、いいなとも思いました。
足をあらってもらった時、おゆがあったかくてきもちよかった。足をあらった時は、ちょっとへんなかんじがした。イエスさまのでしたちもこんなおもいがしたんだなぁって思った。
足を洗ってもらったとき、なんか、あぁ手で足をつつまれている気もちになって、あたたかいなぁと思った。足を洗ってあげたとき、あいてが気もちいい気もちになてるかなー?とふしぎでした。
友達に足を洗ってもらうのは、ちょっとはずかしかったけど、イエス様もやったなら、やってもらっても大じょうぶ、ちょっとくすぐったかった。自分で友達の足を洗うとちょっとむずかしかった。イエスさまはぜんぜんそう思わなかったんだろう。イエスさまはあらってもらわなくてよかったのかな。
人の足を洗った時、きんちょうしたけど、おちついてちゃんと友達の足を洗ってあげられた。ちょっといやだったけど洗った。でもイエス様のようにたくさんの人の足を洗ってあげたいです。足を洗ってもらった時は、自分が思ったように、私の足を洗った友達もいやだったと思ったけど、ちゃんとあらってくれたからうれしかった。
イエス様に洗ってもらったヨゼフ達は、とてもおどろいていただろうなと思いました。洗ってもらった時は、少しはずかしかったです。お友達の足を洗うことは、けっこう勇気がいりました。仲良くしなさいということをイエス様は伝えたかったんだと思います。
人の足を洗う時、最初きんちょうしたけど意外とかんたんだった。神様が洗ってあげなさいと言ったのは人との関係を深めるためだと思う。
今日、足をあらったのは、一人だったけど、十二人もの足をあらったイエスさまはたいへんだったと思う。イエスさまは、めしつかいのように、ほかの人にいろいろやさしくしてあげたかったのだと思う。
イエス様が昔弟子達の足を洗った時の事が分かった。昔は、お湯がなかったから弟子達はとてもつめたい水で洗っていたと思いました。今はお湯で洗ったので、今度はつめたい水で洗ってみたいです。
2月25日午後、藤沢教会聖堂に溢れる大勢の方々による横浜教区合同入信志願式は、梅村司教の司式で行われました。志願者155名と、其の代父母の方々と教会の方々で式場は満席でした。来る4月7日、復活祭での洗礼式に臨む同輩の頼もしい雰囲気に包まれた私は身を引き締め、緊張したままでした。その確かな時間に浸って、同時に講座で耳慣れた言葉 “Be yourself” そして”You must love your neighbour as yourself” を繰り返しては”Yes I will do it so well in each moment”と自問自答していました。
天地創造の神と人間との間に結ばれた契約が今世紀の今に及び、聖霊の導きの中で自分自身を確信する日を迎える事ができます様に目指したいと思います。今はまだまだ入信する気構えだけに留まっているけれども、列席された入信志願者、同輩の方々と共に“来る4月7日の洗礼式に臨みます”との報告に併せて、講座を担当くださいました方、代父をお引き受け下さった方、講座でお馴染みになって頂きました諸兄諸姉先輩の方々に格別に感謝し、厚く御礼申し上げます。
マラナ・タ主よ、来てください!
藤沢2区 家田
カトリックの新しい賛歌《マラナタ》(作詞・作曲新垣壬敏)は、キリスト教徒が信仰生活で大切にしなければならない信仰・希望・愛を各節で歌い、しかも究極的願望である「マラナタ 主のみ国が来ますように」を繰り返し歌います。神によって救われたものの「期待と喜び」を歌う賛歌です。
とくに、究極的な願いを歌うというところが素晴らしいと思います。
一 主の食卓を囲み 命のパンをいただき
救いの杯を飲み 主にあって我らは一つ
(マラナタ マラナタ 主のみ国が来ますように)
二 主の十字架を思い 主の復活を讃え
主のみ国を待ち望み 主にあって我らは生きる
三 主の呼びかけに応え 主のみ言葉に従い
愛の息吹に満たされ 主にあって我らは歩む
第一節は、言うまでもなく日毎のミサの〈交わりの儀〉で、ご聖体を頂きイエスと深く一つになることを歌います。この「一つになる」ということは愛の極致の姿です。最後の晩餐のイエスの言葉「わたしが父の内におり、あなたたちがわたしの内におり、そして、わたしがあなたたちの内にいることを、その日(神の国に入った時)、あなたたちは悟るであろう」(ヨハネ14:20)に、このことは示されています。
第二節、ミサは最後の晩餐の再現であるとともに、主の受難、十字架の犠牲−救いの業の記念です。このことを深く心に刻み、復活されたキリストを讃え、神の国を待ち望みながら生きる。この究極的な希望・願望が第二節のテーマです。
第三節のテーマは信仰・信頼です。イエスの福音の始めは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。主の言葉に信頼して生きるわれわれは、たえず聖霊の働きに満たされながらキリスト教徒として歩みます。
「マラナ・タ 主イエスよ。来てください!」は、ヨハネの黙示録の結びの最後に出てくる言葉です。それは「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて、天の雲に乗って来るのを見るであろう」とイエスが予言された、終末の時の「キリストの再臨」を待ち望む言葉です。これが実現する時「主にあって我らは一つ」は、ヨハネ福音書14:20の「その日」のことがパウロの言葉で、「その時」に見るのは、顔と顔を合わせてのもの。「その時」には、自分がすでに完全に知られているように、完全に知るようになる(一コリント13:12)で言い表されています。《最高の道である愛》の終わりで「だから残るのは、信仰、希望、愛の3つ。このうち最も優れているのは、愛。」とパウロは結んでいます。この三つが賛歌《マラナタ》のテーマであり、最大のテーマはキリストの再臨を待ち望むキリスト教徒の究極の願望です。聖アウグスティヌスは、晩年にその神学思想を『信仰・希望・愛について』(1巻)という著書でまとめています。この中で彼はパウロの教説を受け継ぎながら、古代的知識よりもキリスト教の愛の優位を力説しています。キリスト教徒が大切にしている信仰・希望・愛は、愛によって分かちがたく結ばれている。さらにパウロに倣って最も大切なものは愛であることを強調しています。そして愛こそ神に至る道であり、すべてを戒め、律法・預言・福音の最終目的は愛であり、愛は天国において完成すると教えています。このことを「愛の完成」といいます。この「愛の完成」という言葉はミサの〈感謝の祭儀〉の中でわれわれが祈っている言葉です。
写生会に参加して
辻堂1区 相原
3月17日、第6回目になる鈴木神父様との写生会は、藤沢教会以外にも、大船、磯子、中和田教会の方も参加され穏やかなお天気の中、横浜山下公園で行われました。
9時の集合時間に、公園入り口に参加者18人が揃った頃には、神父様はすでに、ベストポイントを、リサーチ済み。そのベストポイントに従い、港と船の方面、みなと未来のビル群、反対方向のニューグランドホテルやマリンタワーと、どれも景色は素晴らしく、絵心は誘われるものの技術と相談し、やっと描きやすい場所が決まったのは、30分も経った頃でした。それから無心に必死に画面に向かい、格闘し、迷い、悩み傑作が出来上がったのは、もう、お昼も過ぎた頃でした。その後、それぞれの傑作を並べ、いつもの逃げ出したい講評が始まりました。他の方の作品から受ける良い刺激と、神父様からのアドバイスを心に留め、やっと一息。最後に神父様の素晴らしいスケッチを拝見、参加者は、いつの日か、この様に描けたらと、ひそかに願っていたのではないでしょうか。
その後は、もう一つの楽しみの中華街でのお食事です。会を重ねるごとに親しくなった、仲間達とおいしい食事を取りながら、制作についての意見交換や次回のスケッチの行き先について、話が盛り上がっていました。昼食後、神父様の提案で、鈴木神父様の一水会初入選の時の100号の絵が展示してある近くのカフェレストランに移動し、「インドの魚市場の少女」の大作を鑑賞しました。いつもの風景の絵とは違い、人物画の持つ強い魅力にめぐり合え、また、感動いたしました。楽しい一日を過ごし、お腹も、心も幸せいっぱいに、家路を急ぎました。来月のスケッチは、「箱根」とのこと、どんな自然が私達を待っていてくれるのでしょうか。こんな機会を与えてくださった神父さまや仲間の皆様に、そして神様に感謝。
結婚準備セミナー
結婚講座担当 日野水
私達は、結婚を考えているお二人の心の準備のための講座を年2回春と秋に行っています。違った考えや価値観を持った二人が出会って、愛し合って、結婚して、そして簡単に離婚してしまうという風潮の中で、その関わりを長く続けていくのは、とても大変な事だと思います。
講座ではお互いをよく知るために、何よりも「対話する事」が大切だと考え、対話の練習を中心に6回のプログラムを組んでいます。その他にも先輩夫婦の体験談や看護師さんによる出産・育児の話しを聞いたり、分かち合いをしたり、ラブレターを書いたりしています。内容もあまり堅苦しくならないように見直しをしながら進めています。毎回3組〜5組の参加があり、以前に比べると人数こそ減ってしまいましたが、その分各々のカップルと時間をかけて関わる事ができ、充実していると思います。
次回は9月3日(土)から、105期の講座を予定しています。結婚を考えている皆さん、ぜひ参加をお待ちしています。
み言葉となられたキリスト -「福音」を信じること-
岡村
「神は共におられる」(インマヌエル)がイエス・キリストの名ですが、キリストはどのようにして、私たちと共におられるのかを考えてみましょう。キリストの二つのはたらきが私たちに知られています。「人となられたキリスト」と「み言葉となられたキリスト」がそれです。
み言葉は、神の私たちに対する呼びかけです。私たちが神に呼びかけるのは、神を未知のこの先に必要とする時ですから、神の呼びかけも、私たちを未知のこの先に必要とする時と言ってよいでしょう。「名を呼ぶ」のは、そのはたらきを必要と認めることで、神が造られた生きものを人に引き合わせ、それを人がどう呼ぶかを見ておられたという創世記2:19は、神が人に何を望んでおられるのか、また、神と人の「交わり」について色々考えさせられます。「人が呼ぶと、それはすべて、生きものの名となった。」名ははたらきで、それは必要とされて、「交わり」のなかに生まれるのです。つまり、はたらきが生まれなければそれは、「交わり」にならないでしょう。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」とは、「交わり」である神(我々とは、それを表す)がそう言われたのです。そして、いのちも「交わり」のなかに生まれます。「神は共におられる」と言うのは、いのちの創造である神が、ということになるでしょう。
「わたしはある」という神の名を、イエスは何度も用いられます。ヨハネ8:58、ヨハネ8:24,28
しかし、わたしは「すべてに結ばれて」を付けて「わたしはある」と考えています。神はまた「わたしは、かつてあり、今あり、またあるであろう。」とも言われたからです。神にかたどられ、似せて、造られた私たち人間も、常に「すべてに結ばれて」あると認め受け入れなければならないでしょう。
すべてを超える神にはできても、人にはできないのは、答えを知っていてする、ということです。「すべてに結ばれて」ある私たちの姿を、前もって知っていてすることはできません。未知のこの先を生きるには、ただ、神の「呼びかけ」に一つになる他ありません。そして、私たちが未知のその先を生きるのに、必要なもの、「いのちの糧」は、私たちには分かりませんが、神はご存じです。ですから「今日必要なものを、今日与えてください。」と私たちは祈るのです。(日毎の糧)「羊飼いは自分の名を呼んで連れだし、羊を皆引き出すと、先頭に立って行く。」ヨハネ10:3,4「主はわが牧者、わたしには何も欠けることがない。あなたの鞭と杖がわたしを力づける」詩編23
では、神の「呼びかけ」は、どのようにして私たちにあるのでしょうか。
先日ルカによる福音2:1から20 イエスの誕生のところを読んでいて(雨宮慧著主日の福音C年)雨宮師の指摘に啓発されました。その15、17、19節の「こと」と訳されている原語のギリシャ語レ−マは、「語る」を意味する動詞の派生語で、その根本義は「語られた言葉」あるいは「出来事」である。語られた言葉であると同時に、すでに起した出来事でもある。レ−マをひとつの表現で表そうとすれば、「出来事に具体化する言葉」とでもなる。(同上書P−51)この要約から、「神は、出来事を通して私たちに呼びかけられる。」と言うこともできるでしょう。しかし、この「出来事」は、「神の告げられた出来事」であって、私たちにとっては、未知のこの先に生まれるいのちに結ばれた意味とはたらきがあるのです。ですから、日常、私たちが思い考え、知っていて「選べる出来事」ではありません。神の「呼びかけ」に応えるには、今までの私たちのままでは、力足りないのです。「神との交わり」、永遠のいのち(=神のいのち)に生まれるには、神の「いのちの創造」に一つになって、私たちも「死と復活」を通らなければならないでしょう。「よくよくあなたに言っておく。人は水と霊によって生まれなけれぱ、神の国(=神との交わり)に入ることはできない。」ヨハネ3:5「聖書の中に永遠のいのちがあると思って、あなたがたはそれを探っている。聖書はわたしを証しするものである。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしない。」ヨハネ5:39,40
「すべてに結ばれて」ある神の「呼びかけ」に、応える中で私たちははじめて「すべてに結ばれて」生きる私たちのいのちに気付き、知ることになります。知っていて「選べる出来事」に囚われている限り、私たちは神に名を呼ばれても聞こえずそれに応えて「神との交わり」を生きることはできないのです。「なぜなら、彼らは先ほどのバンのことを悟らず、心がかたくなであったからである。」マルコ6:52。それで、私たちは互いに、聖霊によってその囚われから開放されるために、キリストによって相手に派遣されています。ヨハネ20:21−23
み言葉、キリストの「呼びかけ」に応えることがなぜ「福音」なのでしょうか。たとえ私たちにどんなことが起ころうとも、今までのところで終わりではありません。未知のこの先に生まれはじまる「神のいのち」に結ばれて、すべての「選べない出来事」には、「いのちの創造」の意味とはたらきがあります。誰でも「すべてに結ばれて」それぞれ唯一の私たちには、一人一人に固有の「呼びかけ」があり、人格も個性も、その「呼びかけ」に「交わり」の中でどう応えるかにあります。
キリストは、常に私たち一人一人に「呼びかけ」、その遣わされた方の業に私たちを必要とされるのです。わたしたち一人一人のはたらきは、「すべてに結ばれて」それぞれ唯一であって、誰も他に成り代わることはできません。此べることは、こうして全く意味がないのです。このように必要とされるのは、「神の愛」であって変わりようがありません。それに気付けば、私たちはどうしてその「呼びかけ」に応えずにいられるでしょうか。「あなたたちがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたたちを選んだのである。」ヨハネ15:16
「すべてに結ばれて」愛され、選べないことのなんと素晴らしいことでしょうか。「呼びかけ」の必要に応えてはじめて、わたしは「神との交わり」の中で、「すべてに結ばれて」唯一である「わたし」、つまり「永遠のいのち」に結ばれた「わたし」になるでしょう。これこそ「福音」でなくて何でしょうか。先のヨハネ5:39,40の、「わたしのもとに来ようとはしない」は、キリストの「呼びかけ」に応えようとしないことを言っているのです。もちろん私たちがキリストの「呼びかけ」に応えるのも、「すべてに結ばれて」であり、一人一人に異なります。「すべてに結ばれて」ある神は、人のように、互いを比べ量り選ぶようなことは決してなさらない。しかもお造りになられた私たち一人一人を、慈しみふかく限りなく待つことがおできになります。しかし、「み言葉になられたキリスト」の「呼びかけ」に応えることは、私たちにまだ無い、未知のこの先に生まれはじまるいのちに結ばれて、意味とはたらきのあることなので、それに応える私たちは「この世のもの」ではなくなることなのです。「わたしは彼らにあなたのことばを与えました。すると、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。」∃ハネ17:14「わたしが語ったことばによって、あなたたちはすでにきれいになっている。わたしに留まりなさい。そうすれぱ、わたしもあなたたちに留まる。」ヨハネ15:3,4「あなたたちはこの世では苦しむ。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでにこの世にうち勝ったのである。」ヨハネ16:33