八 角 形 に ゅ ー す
2007年12月9日
聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会
目次
クリスマスを前にして・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・司祭 鈴木
フィリピンのクリスマス・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・エドウィン
ベトナムのクリスマス・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ダン・ビィー
ペルーのクリスマス・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・クララ
札幌でのクリスマス・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大庭 池田
子ども頃のクリスマス・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大庭 里原
神さまにつつまれて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢2区 兼子
「パスカ」のバス遠足・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大庭 八木
「地球温暖化と気候変動の現実」その中で・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・善行 辻垣
森羅万象に賛美を呼びかける・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢2区 家田
遺言になる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・善行 岡村
レオと枢機卿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼3区 平野
クリスマスを前にして
司祭 鈴木
その昔、荒井司教様の時代、司祭は「ローマン・カラーをつけるか、横浜教区のバッヂをつけなさい」といわれました。「御国建設・荒井組の社員章か」と思いました。私の机の引き出しにも2つ残っています。そういう時代にはお洒落な司祭は珍しい十字架の小さなバッヂを世界のどこからか見つけてきて付けていました。
私も一つ東方教会の十字架を先輩からいただきました。カタカナの「キ」の字のような形のものです。荒井組のバッヂより字のキラッと光って素敵な気がしたものです。でも時代の空気は上下(かみしも)を脱いで、皆の中に入って働くようにという方向でしたから、普段司教様と会わないときはラフな格好をしていることが多かったのです。なんとなく電車の中で人の視線が気になったのも本当です。それが、いつの頃からかローマン・カラーをつけることが多くなりました。クリーム色のシャツにカラーをつけていた頃、濱尾司教様に「君はかわったシャツを着てるねえ」と言われました。「今度、薄いサーモン・ピンクのシャツにしようと思ってます。」と申し上げたら「それはやめておけ」と仰言られたことを懐かしく思い出します。
近頃はグレーの濃い目の色調に落ち着いています。人の視線も気にならなくなりました。これはどういうことなのかと考えます。何を着るか考えるのが面倒になってきたせいもあります。人間が渋くなってきたせいかも知れません。でも、私はもう少し都合良く考えています。「これは、キリスト教の司祭であることを誇りに思っていることのしるしなのだと。こういうものを着ても偉そうにせず、また、人々から離れ過ぎず、協調でき、謙虚に楽しくやる感じが少しつかめてきたせいなのだ」と。
クリスマスの祝いはキリスト教の誇りでもあります。どのように祝っているかで自分の信仰の姿が見えはしないでしょうか?自分の信仰に誇りを持ちながら、世界の人々と強調し、交わりを創り出すための一つの大きな手掛かりをイエズス様は残してくださったのではないでしょうか。若い人は若い人なりに、年寄りは年寄りなりに、子供は子供なりに、壮年は壮年なりに工夫をするのはどうでしょうか。たとえば、お返しをできない人をパーティーに招くとか、プレゼントをするとか。誰かを誘ってミサに出るとか。お世話になっている人にクリスマス・メッセージを添えてプレゼントを贈るとか。もっと良いアイデアがあるかもしれません。待降節の間に考えてみましょう。
フィリピンのクリスマス
エドウィン
フィリピンは「祝祭の地」として知られていますが、クリスマスの季節はまさにその通りです。フィリピンの人々は、世界で一番長くクリスマスのお祝いを楽しめることを誇りに思っています。正式には12月16日"Simbang Gabi"とよばれる夜明け前のミサから始まり、三人の王の祝日である1月の第一日曜日まで9回のミサが捧げられ、この期間が公けのクリスマスシーズンです。しかし、フィリピンのクリスマスの慣わしは、最初の"ber"の付く月、すなわちSeptemberからそのムードになってきます。クリスマスカードやツリー飾りが店に並び始め、すべての店やレストラン、道を走るジープニー(小型バス)に突然ライトが光り始めます。週末の買い物の第一目的がクリスマス商品であるのはふつうのことです。このようなことは、10月、11月になるとますます熱が入ってきます。
12月がやってくると、昔ながらの教会共同体の儀式が活気づいてきます。クリスマス聖歌、家々を訪れて回るクリスマスキャロラーたち、降誕劇を道路で演じる人たちなど。都会でも田舎でも、家、店、街灯などに飾られたクリスマス"parol"(カンテラ)が点滅し、道端の馬小屋にも回転灯がともります。前述のように正式のクリスマスは12月16日から1月の第一日曜日までですが、祝い好きなフィリピン人は、もっと長い期間この季節を楽しみます。隣接の田園地域の人々も元気にパレードを繰り広げます。皆が好きな"Panunuluyan"という行列は、ベトレヘムで宿を探しているマリアとヨゼフを再現するものです。音楽やダンスもクリスマスを称える大切な役割を演じます。12月16日、フィリピンの人々は夜明けと同時に起きて冷たさに立ち向かいながら"Misa de Gallo"(雄鶏のミサ)にあずかるため、教会に行きます。そしてクリスマスまでの9日間毎朝ミサが捧げられます。私はこの夜明けミサの後に、温かい"salabat"(しょうが茶)と一緒に出された焼き立ての"bibingka"(米で作ったケーキ)の香りが忘れられません。それは本当に嬉しい時でした!
クリスマスイヴは、一年で最も大切な食事"Noche Buena"に続いて、"Misa de Aguinaldo"(贈り物のミサ)を待ちます。このお祝いでは、家族一緒に"hamon"(ハム)、"queso de bola"(熟成したチーズ)、"relleno"(スタッフドチキン)、"castanas"(焼きくるみ)、フルーツケーキ、果物など、クリスマス季節のご馳走を食べます。フィリピンの人々は、この夜はすばらしい夜なので眠る夜ではないと信じています。12月25日はまぎれもなく"Pasko ng Mga Bata"(子供たちのクリスマス)として知られています。それは子供たち"Ninong"(代父)、"Ninang"(代母)、そしてお年寄りの親戚を訪問する日でもあります。子供たちは彼らの手をとりその手を額に当てて尊敬の念を表します。そして、子供たちはお返しに祝福を受けたり贈り物をいただきます。
12月31日には"Media Noche"(深夜)というもう一つのお祝いがあります。"lechon"(子豚を焼いたもの)、"pancit"(幸せをよぶヌードル)、もっと幸せになるぶどう、繁栄するためのオレンジなどがテーブルに並びます。幸せになるよう赤いものを身につける習慣があり、また、水玉模様の服も幸先のよいものと思われています。1月1日は妙な話ですが、新年のお祝いのほかに"Pasko ng Mga Binata't Dalaga"(未婚者のクリスマス)を祝います。中国の慣習によって、新しい年への大切な移り目に、悪霊を除けるために爆竹が発されます。1月の第一日曜日、「三人の王」の祝日、すなわち"Tres Reyes"(「主の公現」)の祝日で、正式にはクリスマスシーズンは終わります。この祝日は"Pasko ng mga Matatanda"(お年寄りのクリスマス)としても知られています。古い伝統の中で、さらに贈り物をもらえるという幸せな日々の延長と言えるでしょう。サンタクロースではなく東方から来た三人の王様が、子供たちが前の晩から窓の下に下げておいたピカピカに磨いた靴の中に、キャンディ、りんご、コインなどを入れてくれます。また、もしクリスマスにプレゼントを上げ忘れたり上げ損ねたら、1月末か2月始めに行われる中国の旧正月に再度その過ちを償うチャンスがあります。これでも、クリスマスの精神はまだ続いています。クリスマスシーズンの飾りつけは依然としてそのままです。家庭でも、特定の場所にずっと飾られています。クリスマスキャロルの旋律はまだ流れ、遠くから来た親戚や友人が皆帰り終わるまで楽しい集いが続きます。
私たちのクリスマスは終わりがありません!そういうわけで、フィリピン人は皆クリスマスが大好きなのです。フィリピン人がクリスマスに終わりを告げるのは、四旬節が始まる時です。クリスマスリース、天使、種々のライトはやっと倉庫に入ります。しかし、クリスマスの思い出 −家族との再会、お祝い、プレゼントの交換、そしてこれほどまでにするほど意義深いキリストの誕生――は、次のクリスマスが訪れるまでずっと心に留まっています。
"MALIGAYANG PASKO SA INYONG LAHAT !" 皆様、クリスマスおめでとうございます!
ベトナムのクリスマス
ダン・ビィー
私は、ベトナムの南部、ナーチャンという所で生まれました。そこはホーチミンからバスで北東へ6時間かかる所です。かなり田舎ですが、緑が多く静かな所です。12月になると日本の春ぐらいの気温で、あまり暑くなく気持ちの良い日が続きます。クリスマスの2週間ぐらい前になると、教会では皆で馬小屋を作ります。また、教会のまわりにたくさんのきれいな飾り付けをします。12月24日の夜は、子供たちが馬小屋の中で天使や博士になります。マリア様、ヨゼフ様とイエス様は、人間ではなく大きい人形をおきます。藤沢教会の馬小屋よりももっともっと大きいです。私の教会では、人が多く場所がなかったので、パーティはできませんでしたが、子供たちはプレゼントをもらうことができました。24日のクリスマスイヴのミサが終わると家に帰って、家族でパーティをしました。お母さんはいつもフォーや春巻きなどを作ってくれました。日本では、クリスマスにはケーキを食べますが、私の家ではケーキを食べません。その代わりに、ベトナムのおせんべいや甘い物や、飲み物を用意しました。皆でごちそうを食べて楽しくおしゃべりをしました。友だちや親戚の人にはカードを送りました。私は、イースターよりもクリスマスの方が楽しく心に残っています。クリスマスの頃になると、お母さんは昔のクリスマスのことを思い出してよく話してくれました。それを聞くのは、とてもうれしいことでした。今は、家族が皆、藤沢で暮らしていますが、クリスマスが近づくとベトナムを思い出して帰りたくなってしまいます。
ペルーのクリスマス
クララ
クリスマスは一年中で一番楽しい季節です。12月25日はイエス様が生まれた日です。ペルーでは、日本と同じように家の中や外を、いろいろなデコレーションやクリスマスツリーなどで飾ります。だから、12月24日は家族みんなで集まってお祝いをします。夕食前に「おんどりミサ」(Misa del Gallo)にあずかるために、教会へ行きます。皆さんは「おんどりミサ」という言葉を聞いたことがないかもしれませんが、ペルーではクリスマス深夜ミサを「おんどりミサ」と言います。その「いわれ」は二つあります。一つは、最後の晩餐でイエス様がペトロに「あなたは、今日雄鶏が鳴く前に三度私を知らないと言うだろう」と、言われたこと。もう一つは、イエス様がお生まれになった時、「雄鶏が鳴いた」という伝説からそのように名づけられたようです。または、夜中のミサが終わる頃、雄鶏が朝を告げて鳴くことを意味しているのかもしれません。「おんどりミサ」から家に戻って12時まで待って、12時になったら皆で抱き合いながら「メリークリスマス」と言います。シャンパンで乾杯をした後は、テーブルに並べられた料理を食べます。家族や親戚の人たちがそれぞれ作って持ち寄ります。料理は、七面鳥やパネトンと呼ばれるフルーツケーキのようなお菓子を食べたり、ホットチョコレートを飲みます。子供たちは、昼寝をしてプレゼントを楽しみに頑張っています。素敵なプレゼントがあることで、すばらしい世界に生きているのだろうという気持ちになるからです。
札幌でのクリスマス
大庭 池田
82歳になる。ご趣味は、と問われるなら、知らない町に降り立つこと、と応えよう。その大きな旅で(つまり私の人生で)途中下車が4度あった。札幌がその3度目で、ご当地の藤沢が4度目。多分ここが終焉の地となる。団地とはいえ、北海道では観ることのなかった山茶花に囲まれた家で死ねる。こんなうれしいことはない。
クリスマスが近づくと札幌のメーン・ストリートは華やかに浮き立つ。東急、西武、三越、マツザカヤ、歳末特別セールの垂れ幕ばかりではない。大きなサンタクロースが側面の七階から吊がって手足を動かしている。ジングルベル、聖夜、ホワイトクリスマス、聖者が街にやって来る、などなどの音響が鳴り渡り、人々は、ああ年の瀬なんだ、と一種哀愁にみちた気分になる。
特にイヴが間近になる頃からのススキノの夜の情緒は美しい。ギターを抱えた若者が数人、赤、黄、青、紫……派手な原色のレイを首から下げて、粉雪の舞い降りる路地に飛び出して来たりする。爆竹がはぜる。雪の降る空にシャンパンを逆さに立ててラッパ飲みする若者を、グループらしい女のコたちが腰を振ってリズムを取り、高い音程で、ウォっなどと囃し立て、気分はいやが上にも昂まる。
―信徒のみんなが、明後日の午前零時、ベツレヘムの重大ニュースを待ちながら静修の夜を過ごしておられるときに、僕は池田さんをこんな、あられもない場所に誘った。君は怒っている…のかな。
―キリストをだしにして祝杯を上げるやつらを、ですか?
―そういう言いかたは、好まない。ねえ池田さん。この国の祭りとか、祝の日の中に<よい知らせ>を持っただれかが、向こうからやって来るという。その日を待つんだ、という高揚感、嬉しさ。そういう形の祝日が、この国にあるだろうか?
―神様はどこにでもおられる。つまり八百萬の神なんだ。どこからでも見ていますよ。ぼくの祖母はそう言ってこわい顔をした。
―「わたしはあなたたちを友と呼ぶ」(ヨハネ15・15)と、主は言われる。そういう、二人称で関わって下さる愛の主を迎えるんです!という意味も知らないのに、「やってくる、迎えよう、ウエルカム!」という喜びで、街はこんなに弾んでるんだ。ねえ、池田さん、認めてあげようじゃないの。主の栄光に賛美!
―分かった。今日また一つ、君を見直した。
彼、小椋紀夫とは、ある年の札幌地区聖体大会で知り合った。最前列の朗読者席で隣合ったのだ。彼は決して電話を用いない。いつも手紙で、屈折した或る日の信仰のことや、パスポートの無いフィリピン女性と鉄の網越しに面会してきた話など、こまめに書いて送ってくれる。
現在彼は基督教系の某大学の助教授だが、いつも、彼とあって水割りを互いに2杯空ける時が終わると別れる。その帰路、何かしらの充足感が残る。これは彼の徳の至らしめるところだろうか。
雪が熄まない。
私の思い出の中のクリスマスに必ずと言ってよい、付帯しているのは、雪だった。いま札幌の街。微やかにさんざめくクリスマスの詩的情緒の中を、二人は互いの想念を黙想しながら無言で歩いている。
小椋が、抑えた声で歌い出す。
シオンよ 喜べ
エルサレムよ 歌え
見よ わたしたちの王
主が 来られる
大通公園駅でふたりは別れた。小椋の答唱は、きれいだった。私はまだ耳に残っている彼の歌声の伸びを、美しいと思い返していた。
4度も途中下車をした私たちのことを、「ひょっとして故郷化してしまうことが、お嫌いなんじゃないか」といった方が札幌にいて、凄い言い方をなさる、と私は愕然とした。
―17年も何不足なく仲よく暮らしていた札幌が、突然に嫌いになる。そんな失礼なことあるか?こちらの言い分を聞く時間もくれない。ここが面白い。陰に回ってから、どうやら胸のすっとする結論が出たらしい。「あの夫婦は変人です。」
それほどにも愛されていたことを想い、そのことを感謝し、すでに藤沢に来て9年目に入ろうとする、教会共同体の皆さんの分け隔てないサポートに深甚、感謝するものです。
子ども頃のクリスマス
大庭 里原
私の故郷は鹿児島県の奄美大島です。ふるさとのクリスマスについてということですが、子どもの頃のことを思い出したいと思います。私は奄美大島の大和村のある集落で、子どもの頃に洗礼を受けました。家庭の事情で中学校の途中から市内の方へ転居し、高校までそこで過ごしましたが、その頃は教会へあまり熱心に行かなかったと思います。
私の生まれた所は海辺に面した小さな集落ですが、小さな集落にしては十分な大きさの教会だったと思います。昭和30年代ですが、村のどの集落にも小さな教会がありました。大人から子どもまでたくさんの信徒が家族で教会に集い、とても活気に満ちていました。その当時、どの家族でも最初に母親が洗礼を受け、その後、子ども達、父親という順に洗礼を受けていくという傾向があったと思います。私の家族も同様でした。神父様も教会の隣の建物に住んでいて、日曜日のミサにはシスターも2、3人来ていました。その頃は、日曜学校に参加し、ミサの侍者もやっていました。神父様と侍者の仲間で一緒に椎の実を採りに行って、それを売って、日曜学校の子ども達のための野球のバットなどを買ってもらったことなどを懐かしく思います。時間があるときは、教会の庭で野球をしたりして、よく遊んで過ごしたことを覚えています。
クリスマスが近づくと、信徒の大人の方々が、教会入り口の右側に馬小屋を作り、左手の大きな木をツリー用に準備してくれました。そのツリーに子ども達が飾りや願いごとを飾りました。そして、家族と一緒にクリスマスの深夜ミサに参加し、集落の信徒の方々と一緒にクリスマスを祝いました。ミサの後に日曜学校の子ども達は、日曜学校の建物に集まって、プレゼントなどいただいてから帰ったように思います。
たまに帰省すると、教会の建物は古くなり、庭の様子もだいぶ変わっていることを感じます。現在、ミサは集落ごとに巡回で行われ、信徒数もかなり少なくなっています。特に、教会の庭で遊んでいる子ども達の姿が見られないのは、とてもさびしいです。あの頃の活気はどこへ行ってしまったのかと思いますが、島を離れた者として、その一因を感じます。高校を卒業して島を離れ、20代の青年期は全く教会へ行かないで、教会とはかけ離れた生活をしていましたが、ある時、あるきっかけから教会へ戻ることができたことを考えると、子どもの頃の教会での働きが心に残っていたからだと思います。こうして、今年もクリスマスをお祝いできることを神様に感謝しています。
神さまにつつまれて
藤沢2区 兼子
信仰とは知性が愛の光を受けてつつまれるという体験です(シモ−ヌ・ヴェィユ)
阿部仲麻呂神父様の『神さまにつつまれて・キリストをとおしてあったまる』(オリエンス宗教研究所刊)は短くて読み易いけれど、読んでいるうちに心が文字通りあたたかくなるようなご本です。まず次の文章を味わってみて下さい。
<風が吹く。ときに激しく、嵐のように。ときに穏やかに、そよ風のように。すべてのものは、風となって吹き寄せる空気を呼吸しています。息はいのち。息は愛情。太古の昔から今日に至るまで、空気は風の流れとなって世界中のすべての地域に広がっています。その空気を私たちも呼吸しているのです( 自然のなかの風= 人体を吹く呼吸) 。空気をもらい、空気を返す......。まさにいのちは一息の間において営まれています。呼吸の不思議さ。つながり>
声にだして読んでみると、これは殆ど詩といってよい文章です。全編、このような言葉で神様の愛がやさしくのべられています。もっと引用してみましょう。キーワードは「神さま( キリスト) の愛」「つつまれる」「あったまる」の三つです。
<神さまのぬくもりを実感していない人は、まだほんもののキリスト者ではないのかもしれません。..中略..弟子たちも宗教指導者たちも「自分の弱さ」に気づかなかったわけで、イエスのあったかさにつつまれることを無意識のうちに避けてしまっていたのかもしれません。とにかく弟子たちは、最初、イエスのもとにやってくる弱く傷ついた人たちの気持ちがまったくわからなかったのです。だからこそ、子供たちをじゃけんにし、異邦人をイエスのもとから遠ざけようとしたのでしょう。しかし、イエスは近づきます。自分の弱さに泣く人のそばに。そっと。そう、ありのままに、すなおに泣けばいい。どうしようもなさに打ちひしがれているあなたのそばにこそ、イエスは今日も身をかがめてよりそってくれるのだから>
これを読むと私は「ミゼレ−レ」というルオ−の絵や遠藤周作の「同伴者イエス」を想いだします。このような神様とは、けっして人を必要以上に掟や規則で縛り、裁こうとされるかたではない筈です。私たちが弱さから罪を犯したり人を傷つけたりして絶望的になっているとき、私たちを厳しく罰せられるかたではない筈です。次の句はそれを証ししています。
<信仰とはイエスが神さまを信頼して「おとうちゃん!」と呼びかけて祈ったときの「おさなごの道」です。教訓ではない。倫理でもない。むしろ、すなおな心に戻ること。信頼して、神さまのふところに帰ること>
こういう気持ちさえあれば、私たちも「ゆるしの秘蹟」をもっとらくに受けられるのではないでしょうか。最後に紹介するのは「救い」という箇所です。
<(救いとは)つつみこんでいただくことによって「つながりを回復する」こと。つまり誰からも受け入れてもらえずに悩み苦しむ人が、最終的な「全肯定」を体験することが「救い」だと言えるでしょう。「救い」とは、あらゆる面で、何一つ欠けることのない円満な状態のことです。>
母のように、やさしくつつみこんでくださる神さまのあたたかさ。 あるいは、父のように忍耐強く待ちつづけてくださる神さまのあたたかさ。つまり、両親のように親身になっていつくしみ育んでくださる神さまのあたたかさを実感して新たに歩みはじめるときに、人は本当の自分を取り戻せるのでしょう。神さまに信頼して、あたたかいコミュニケ−ションを回復するよろこび。これこそが、「福音」(めでたい知らせ)そのものなのです。
それにしても、日本人キリスト者が世界全体に向けて貢献していけることは、「つつみこまれること」の尊さをあかしすることではないでしょうか。
この本は、今年中に出版された多くの本のなかで、あなたがクリスマスに信者・未信者を問わず、キリストの愛を知って貰うためにプレゼントする本として最適の本だと思います。
教会委員会報告(11月17日)
副委員長:荒井康昌(大庭)、曽根和子(藤沢)佃 朋子(鵠沼)
ブロック長:風間孝子(藤沢)宮崎照子(辻堂)
活動部部長:<財務部>篠澤敏雄(藤沢)<教育部>井出真理(鵠沼)<広報部>益満雅晴(辻堂)なお壮年部長・福祉部長は未定にて努力中。
2008年2月3日(日)9時半ミサ後、信徒総会を開催予定。
第1部は諸事項報告、新委員、活動部長紹介など例年どおり、第2部の分ち合いの【テーマ】を検討中。候補としては第5地区共同宣教司牧委員会において掲げられている「祈る力」「信仰を伝える力」「神の愛を証する力」を育てる3つのことについて、具体的にどういうことができるのか、について考えてはどうかとの提案があった。
10月28日(日)バザーが行なわれ、313万円の収益があった。今年は宣教、収益、共同体一致の3つの目的のもとで行なわれ、無事終わったことに感謝。詳細については、別掲参照。
また今年は第5地区の7教会のうち、4教会のバザー開催日が10月28日となったが、相互の交流を図る意味でも次回以降は開催日が重ならないようにできる限りお互いに調整した方がよいのではないかとの意見があった。
教会全体にスタッフのボランティア募集を呼びかけたところ、32人の方々から協力する旨申し出があった。
運営チーム:笠島真佐恵(リーダー、北2)、天ヶ瀬 順(北2)、増田幸子(辻堂)、米谷すみ江(北2)
運営時間:10時〜16時 常時2人体制
運営経費:利用者の方々の献金、使用料、運営賛助金等で経費の半分の確保を目指す。
最近の日本における大型地震発生頻度が増えたことの影響で、人が居住しない建物についての地震保険料が保険金のほぼ1割と大幅アップ、しかも保険金の上限が1000万円であることから聖堂については火災保険のみとする旨、財務部より説明があり、了承された。信徒会館、事務所棟(司祭の居住区が含まれる)は火災+地震保険となっている。
湘南台センターの引越しと新しい場所の掃除、お手伝いの方、募集中。
12月8日、午後4時より、市民クリスマスが当教会で開催される。大勢の参加を期待している。
12月1日(土)日本語教室の人たちが友人を連れて、日本語でクリスマスパーティーを予定している。皆さんもご参加ください。
毎月1回ミサ中に唄われる各国の聖歌を皆で唄えるようにミサの最後に練習してはどうか。
2006年9月25日付「藤沢教会のセンター化について」という梅村司教様のお手紙に対して、センタープロジェクトチームより答申書を司教様に提出された。(別掲を参照)現在も、教区、地区のいろいろな行事が、藤沢教会において行われているし、今後も行われるであろう。従って、当教会としてどのような整備をしていくことが必要か、司教様の答申に対する最終ご判断を待って、検討していくことになろう。
第3回委員会(11月11日開催)の報告があった。
新たに発足した3つの部門が夫々1回目の会合を開き、今後の進め方について話し合われた。「祈る力」「信仰を伝える力」「神の愛を証する力」を育てる3つのことについて、どういうことができるのか。
祈る力:今、私達が関わっている典礼を生き生きとしたものとしていくにはどうしたら良いか。各小教区のミサは祈りや信仰を励ますものになっているか。教会に祈りの雰囲気がどのようにできているか。
伝える力:信仰を伝えるとは誰に?そしてどのように? 直ぐにやれることは?
神の愛を証しする力:どのように理解すればよいのか?何が福音的であるかを見抜く力を育むこと。お金をばらまくこと、善意の押し付けは福音的ではないのではないか。各小教区、修道会ではどのような福祉活動を行っているかの調査。
また、課題として:
活性化のためには30代、40代の人々が教会で活躍してもらうことが肝要。そのためにはどうしたらよいか。そして、50代60代はどんな手伝いができるか。
藤沢、大船教会は神奈川県全体を考えた役割を要求されているのではないか
第5地区の司祭の数を減らし、司祭不在の地区に配置していくこともあり得る。
などの意見が出された。
「湘南短期キリスト教セミナー」は「信仰を伝える力を育てる」部門の所属とし、「教会学校リーダー」の集いも委員会としてサポートしていくことになった。
梅村司教様 2006年9月25日付の「藤沢教会のセンター化について」と題された司教様のお手紙に基づき2007年2月と9月締め切りで2回アンケートを実施し約1年をかけて教区の信徒、修道者、司祭の皆様の意見を伺いながら、検討を進めてまいりました。その結果以下のような結論に達しましたので答申とさせていただきます。 1.2002年に閉鎖された横浜カトリック・センターのような一個所集中型の多機能センターを望む声はほとんどなく、今のところ必要とされていないと判断します。 2.司教様のお手紙にふれておられる「教区行事や小教区を超えた集まりを行う場」について再度アンケートをとりました。「藤沢教会を全面的に建てかえること」については、維持管理を含め経済的負担の大きすぎることを懸念する声が多く、その犠牲を引き受けても大聖堂・大ホールが必要という機運は今のところあまり見受けられませんでした。むしろ今あるものを大事にしながら活用し、教会と大きな施設を持つ学校などが協力していく道を探る方が共同宣教司牧の精神にも合致し、福音的ではないかという考えが示されました。私達センター・プロジェクト・チームはこうした意見を踏まえ、藤沢教会の土地の広さ(約850坪)なども考慮に入れて検討した結果、藤沢教会をこの目的のために全面的に建てかえることは、現状では見送ることがよいと考えます。 2007年10月12日 センター・プロジェクト・チーム |
少し肌寒い11月11日(日)待ちに待った七五三の祝福式が行われました。10月の末に3才になったばかりの娘は毎日大きな声で「イヤダ〜!ダメ!」の連続で反抗期真最中、まわりの方々にご迷惑をかけずに大切な式の間静かにしていられるだろうか、と内心ひやひやして居りました。神父様のお話の後、1人ずつ祝福を受けお祝いの千歳アメとオメダイをかけて頂いた時(日頃は少々困り気味の・・)大きな声で、はっきりと「ありがとう」と言っている姿を見て、とても嬉しく思いました。子供達にもちょうど良い時間をお考え下さり、色々とご用意いただいた方々に御礼申し上げます。神様、今回一緒に祝福を頂いた子供達と、そして、神父様のお話しにもありました世界中の恵まれない子供達をこれからもお守り下さい。感謝のうちに。
わたしは、七五三でとてもきんちょうしました。でも、かぜもひかず、むかえてくれた神さまにかんしゃしています。みんなが、「おめでとう」と言ってくれてはく手でむかえてくれた時がとてもうれしい気もちでした。来てくれたおじいちゃんおばあちゃんにもかんしゃしています。さい後の楽しい七五三ができてとてもよかったです。神さまとたくさんの人に「ありがとう」と言いたいです。
11月23日勤労感謝の日、昨年に続き今年も第五地区一粒会でバスを用意し、神学院の「ザビエル祭」に参加しました。今年は第五地区7つの教会全てから参加者があり、100名を越える人数が2台のバスに分乗して石神井にある東京カトリック神学院へと向かいました。藤沢教会からは、日曜学校の子供たちが今年も秋の遠足として参加してくれました。
企画は一粒会でしたが、各教会の大勢の方々に取り纏めや連絡でお世話になり、一粒会大会に引続き教会を越えての人の繋がりの大切さ、素晴らしさを味わいました。バスの手配については平井様と清水様にお世話を頂きました。宮内神学生も皆が訪問することを心待ちにして下さっていたようで、事前に「今年は?」との問合せを頂いたと伺いました。
一粒会は司祭召命のため、神学生のため、司祭の成聖のために、祈りとともに献金を捧げる活動をしております。それとともに子供たちの召命に繋がるような活動のサポートも行なっております。藤沢教会の中で一粒会の活動に参加して下さっている方はまだまだ少ない状況です。多くの信徒の皆様のご参加を心からお待ちしております。
11月23日ザビエルさいに いきました。たくさんのしんぷさまと、たくさんのひとと、そとでごミサをしたのがうれしかったです。○×ゲームもたのしかったです。らいねんもいきたいです。みやうちしんがくせいにあえて、うれしかったです。ぼくは、ザビエルさいはディズニーランドよりたのしいです。かみさまにかんしゃします。
スタンプラリーが一番楽しかったです。グラウンドのおかで、ダンボールでころがったのもたのしかったです。おべんとうの後、友達とおかしのこうかんをしました。
800円をすべて、つかいきっていろいろなものを買いました。2年目のザビエル祭、去年とちがってたのしいことがあった。それは、クイズ大会。8もん中7もん、せいかいしたので、ごうかなプレゼントだった。また、来年もいきたいな。
今回のザビエル祭では、6年生全員と中和田教会の友達といっしょにお店をまわったり遊んだりしました。ミサのときは、とても寒くってこまりましたが、神父様のお話は日曜学校で勉強したこととにていたので、わかりやすくとてもいいお話でした。ミサが終わったあと、みんなで色々な所を見たり遊んだりとても楽しかったです。でも私はみんなが買った物を食べたりしているだけで、私のお金をつかっていませんでしたが、帰る前にすこし買いました。神学生達とも遊ぶ事ができたし、神父様のお話もきけたし友達とも楽しく遊ぶ事ができて楽しかったです。
ザビエル祭で一番心に残ったのは、野外ミサです。とても寒かったけれど、歌を歌ったり、お祈りをしたり、いつもとちがう外で受けるごミサは、なんだかとってもわくわくして楽しかったです。神学生のお部屋も見ました。おしるこやチヂミを食べ、宮内神学生をはじめ、たくさんの神学生に会ってお話しました。とても楽しい1日でした。
「葬儀を考える会」フォーラム報告
―「尊厳ある死」を迎えるために―
辻堂2区 佐々木
昨年のフォーラムは「元気な時に考える葬儀メモ」で、何人かの方が葬儀メモを渡して下さっているそうです。今回は葬儀を考える前に、「どのように死を迎えましょうか・・」を共に考えるためにフォーラムを開きました。以下に導入の話しをまとめます。
3、40年前には、「尊厳死」の言葉は無く、医療技術の進歩とともに考えなければならない問題になったと思う。昔は在宅死が多かったが、現在では90%位の人が病院で死を迎えている。最近老人ホームで亡くなるケースもあることで、ほんの少し在宅での死が増えていると言われる。
そもそも「尊厳死」とはどんなものか・・人間らしい死を迎えるために、過剰な医療をしないことが最大の点である。安楽死と尊厳死の違いをはっきり認識する必要がある。カトリック教会は以下のことを示している。
人が人の命をコントロールすることを望まない。
受胎の瞬間から死に至るまで、人が手出しをしてはならない。
安楽死に関しては、強く否定している。特に積極的な安楽死(薬物を用いて死に至ることを助ける、筋弛緩剤の使用など)は、絶対にノーである。但し消極的な安楽死と言われるもの(人間の尊厳を保つために、過度の苦痛を取り除くために何らかの処置をすること)は良しとしている。たとえば、大量の投薬により死期が早まるかもしれないが、他に痛みの緩和の手だてがない場合など、医療によって助かる見込みがなく、より人間らしい死を迎えるためになされる措置に対しては是とする。
積極的な延命措置をしない。人工心肺装置による数日の延命なら途中で取り外すことは許されている。
以上のことをベースにしながら、最近ご主人様を亡くされた八木さんから、体験を分かち合っていただきました。その後、10名ずつ6グループに分かれて、30分余り分かち合いました。その結果を各グループでまとめて発表しました。
元気なうちから延命などについて、家族で話し合っておくことが望ましい。
本人が延命を望まなくても、家族の思いも大切。
判断が難しいので、日頃話し合っておくことが大切。法的に考えるのは難しい。
年齢によって考え方が違う。尊厳死協会に入っている方のは話しから、私たちも考えておくことが必要と思う。
夫婦だけでなく、家族で話し合っておいた方が良い。前もって話し合っておくことが大切。
「延命治療」の言葉の理解や認識が、人によって異なる。「胃ろう」も延命なのか、専門家に聞きたい。
その後、まとめの話がありました。
医療の中で、何が延命か・・100年前には延命措置と言えそうなものは人工呼吸位しかなかったのではないか。「胃ろう」をしなければ食べられずに死んでしまう。「胃ろう」にしたことで元気になって海外旅行に行かれた人もいるので、「胃ろう」も、めがね、入れ歯、補聴器と同じように考えられるのかもしれない。
次いで、尊厳死協会のカードに印刷されている言葉が披露されたあと、アメリカで出されている「私の4つのお願い」が伝えられた。
私が延命について決定する。もし、私が判断、決定出来なくなった時、○○さんに決定して欲しい。(いつでも変更可)
望む医療措置、望まない医療措置を明記、選択する。
残された人生を快適なものにするための希望(例えば痛みの緩和、美味しいものを食べたい、優しくしてほしい、清潔にしてほしい、自宅のベッドで死にたい・・など)を明記する。
家族、友人に知っておいてほしいこと。(選択、自由記述)許してほしい、許している、私が死んでも悲しまないでほしいなど・・
以上のことから、人間らしく死ぬとは自分を大切に尊厳をもって死ぬ事で、このことは尊厳を持って生きることにつながり、命の大切さにつながれば良いと思う。これからも自分のこととして「どうしたら良いか」を共に考えていきたい。
今年も、穏やかな小春日和の中、皆さんとともに考え、分かち合う時間を過ごすことが出来ました。これからも皆さまとご一緒に歩んで行きたいと思います。
「パスカ」のバス遠足
大庭地区 八木
11月15日(木)秋晴れの中、横浜教区カトリック女性の会「パスカ」の遠足が行なわれた。毎年のことながら参加者も多く60人乗りバス2台、満杯だった。紅葉の美しさと共に久しぶりで出会った方々は一人ひとりが相変わらず輝いていらっしゃった。まるで子供達の遠出の遠足の朝のように・・・。やさしい運転手さんにも恵まれ一路甲府教会へ。
道中の眺めはそれは素晴らしく真白い雪帽子をかぶった冨士、穏やかな紺碧の海、赤黄緑の紅葉、全て神に感謝した。建立80年を迎えた甲府教会は年輪を重ねた樹木に囲まれ重みのある古い教会だった。この建物には長い間の信徒達の祈りが刻み込まれていた。祭壇、そこに飾られた6体の聖像、十字架の道行、全てをあたたかく支えている天井、この教会に集う信徒の方々の気持ちが伝わってくるようだった。細井主任神父様の明るいお元気な姿に教会の未来がみえてくるように思えた。甲府教会のご聖体はこの教会で作っていらっしゃるとのこと、香ばしい香りのご聖体を頂きながら神に感謝、そして甲府教会への感謝の気持ちを山々にして昼食会場へとバスに乗り込む。
昼食は甲府名物の「ほうとう」、たっぷりなお野菜が煮込まれ、元気なおしゃべりを友に舌つづみをうった。次の地県立山梨美術館は山梨を代表する美術館、広い敷地に一段と栄える紅葉の木々、眼を向けると富士山が秋の空に浮び上っていた。この美術館は山梨の風土に合った「ミレー」の作品を集めていて「ミレーの美術館」と呼ばれることもあるそうだ。「種をまく人」の作品の前では皆が釘付けになり70点以上ある絵画を堪能した。時間の都合でクリスタルミュージアムは見学中止し、無事に帰路についた私達・・・。バスの中で夕べの祈りを唱えお互いに楽しかった一日に感謝しつつ、明日からも又良き日でありますようにと願いあった。甲府教会での献金は全て老人司祭のために使われますとのこと。参加出来た喜びを再度感謝した。
壮年部の懇親旅行に参加して
辻堂3区 伴
初めて壮年部の行事に参加しましたので、ちょいと書いてみることにしました。行き先は「はだの湯河原万葉の湯」でした。小田急の藤沢駅改札前に集まり小田急の秦野駅まで行き、そこから万葉の湯へ直行する人達と秦野教会を訪れる人達に分かれ、私は教会へ行くことにしました。
秦野教会は、こぢんまりして非常に清潔な感じのする教会で信者は500人でごミサに参加する人は、およそ100人位と言うことでした。私達は神父様と一緒に祭壇に進み、主の祈り、聖母マリアへの祈り、そして栄唱を唱えて祈りました。ここの教会では、丁度クリスマスの飾り付けが行われていて、私達はコーヒーや、みかんをご馳走になりました。そして、もし藤沢教会に突然他の教会の人が来られた時、あの様な対応ができるのか考えさせられました。
万葉の湯は横浜にある店と同じで、従業員に接するのは入館時と退出時位で、他は殆ど自分で対処するよう合理的なシステムを採用しています。温泉にゆっくりと浸った後、昼食となり(ヤモメ暮らしの私にとっては大変なご馳走)、更に飲み放題とカラオケの歌い放題で3時間余り、皆さん中々の芸達者で極めて楽しい和気あいあいとした有意義な懇親の実を挙げられたと思います。初めての参加でしたが、今後この様な企画があれば、是非参加したいと思っています。
「地球温暖化と気候変動の現実」その中で
―マッカーティンさんのお話を聴く―
善行 辻垣
11月4日「地球温暖化と気候変動の現実その中」でをテーマにコロンバン会のポール・マッカーティン神父様の講演会がセンターホールで開催された。京都議定書で定められた、1990年ベースに戻るためには、日本は08〜13年の5年間平均6%の二酸化炭素削減を実行しなければならないが、現実には05年で逆に7%の増加である。マッカーティン神父は、スクリーンを通してわかりやすく述べた。温暖化の原因は@石油文明に頼る我々の生活を支える自動車、工場、事務所のエネルギー消費の増加A家庭の冷暖房電気に代表されるエネルギー、ポリ容器など石油化学製品の使用量の増加が上げられる。その結果、地球の温度が今世紀末で6.3度上昇、地球上のあらゆる氷河や、南北極の氷が融け、海面が58cm上昇、気候も不安定となり、洪水が頻発、生態系が崩壊し、毎年、生物が絶滅していくと忠告されました。実際、水害や旱魃がアフリカ、アジア、ヨーロッパ、南アメリカで起こりつつある。一方、先進国のガソリンを脱石油の名目で、バイオガソリンに頼ろうとしている。このため、アジアの貴重な原生林がみな伐され、パームヤシが植林され、ブラジルではアマゾンの原生林を伐採し大豆にかわってとうもろこしの畑が作物化されています。その結果、とうもろこしの値が上ったり、大豆や小麦の食料も高騰して、毎日の生活に影響が出ています。原生林は減り、逆にCO2が3倍も増加している。
神父は、なお警告しています。1000人以上の世界の気候学者の集まるIPPCでは、2020年には、40億人の人々が、水不足で生活が成り立たなくなり、難民化する。と・・・・。これらの災害は先進国のあくなき経済活動が原因であるが、被害者はいつも貧しい国の貧しい人々である。キリスト者として、この現実を直視し、神が造られたものを宇宙を含む生態系としてとらえ、人は勿論全ての生物と命を共有することが、今、何より大切であると云われる。
当日のミサで読まれました「あなたは存在するものすべてを愛し、お創りになったものを何一つ嫌われない」(知恵の書)の御言葉が胸に突きささってくる。今、温暖化にブレーキをかけなければ、人類は滅亡する。
政治家も企業もキリスト教徒もイスラム教徒も、一番の優先課題であり、この問題をどう実行するかではないかと具体的に我々キリスト者としての日常生活での反省を促された。地球はもう人間を必要としないし、むしろ、邪魔者として扱っている。生態系の仲間からもはじき出されている。人類は滅びるかも知れないが、地球は滅びない。この時、キリスト者として、温暖化の問題に対して行動することは特に大切であると最後に話されたのが印象的であった。
森羅万象に賛美を呼びかける
藤沢2区 家田
かみさまのあいはしみとおる
わたしたちのこころにひのひかりのように
山も丘もいっしょに賛美の歌を歌おう
海も小川もいっしょに賛美の歌を歌おう
森も林も、鳥も獣も、子供も大人も、男も女も、
さあ皆、いっしょにいつまでもいっしょに、
賛美の歌を歌おう
と喜びをもって神を讃える、この「こどもとともに」歌う高田三郎の典礼聖歌は、詩編148番の賛美の言葉から作曲されています。詩編148番は、全能の神によって造られた森羅万象の一つ一つを数えながら、それらに主を賛美せよと呼びかける壮大な詩です。
ハレルヤ。天において主を賛美せよ。
高い天で主を賛美せよ。
御使いらよ、こぞって主を賛美せよ。
主の万軍よ、こぞって主を賛美せよ。
日よ、月よ主を賛美せよ。
輝く星よ主を賛美せよ。
天の天よ、天の上にある水よ主を賛美せよ。
主の御名を賛美せよ。
主は命じられ、すべてのものは創造された。
地において主を賛美せよ。
そして詩はさらに、海に住む竜、深淵、火、雹、雪、霧、嵐、山々すべての丘、実を結ぶ木、杉の林、野の獣、家畜や地を這うもの、鳥、地上の王、諸国の民、君主、地上の支配者、若者、おとめ、老人、幼子、すべてのものは主の御名を賛美せよ、と呼びかけます。それは「御名がひとり高く、威光は天地に満ちている」からで、また、その主を賛美することは、「主の慈しみによって生きるすべての人の栄誉」であるからであると、イスラエルの民に呼びかけています。
13世紀に生きたアシジの聖フランチェスコは、この詩編を喜び、亊あるごとにこの詩編を唱えていました。「回心」して神に向かって方向転換したフランチェスコは、キリストに従い聖書の言葉を文字通りに実行した聖人でした。サン・ダミアーノの庭の小屋で病苦と精神的苦悩のどん底にあった時に作った『被造物の賛歌』は、詩編148番と同じ精神です。『兄弟太陽の賛歌』ともいわれているこの歌は、いつくしみ深い全能の神にすべての被造物の賛美を受けてくださいと願う賛美の歌です。しかも善く美しく造られた被造物をフランチチェスコの兄弟・姉妹として一緒に感謝を込めて、素晴らしい賛美を捧げる歌になっています。
とくに私の兄弟太陽の
賛美を受けてください。
太陽は昼をこさせ、その昼の間、
あなたは私たちに
光を注いでくださいます。
太陽は美しい、大きな輝き。
高くましますあなたのお姿は、
太陽の中にうかがうことができます。
これに続いて、姉妹月と星、兄弟風、大気と雲と晴れた空、姉妹水、兄弟火、姉妹、母親大地の賛美を受けてくださいと歌っています。水と火については、「水は役立ち、つつましく清らかです」「火を使ってあなたは夜を照らしてくださいます。火は美しく楽しく、勢い良く力強いものです。」と美しく造られたものを与えられた喜びを感謝し、すべてのものと共に神を賛美しています。賛歌のおわりは、次のように結ばれます。
賛美しよう、歌をささげよう。
深くへりくだって、主に仕えよう。
このように、森羅万象が神を賛美している姿は、鎌倉中期の一遍上人が興願僧都へ送った消息の中にも見られます。「よろづ生きとしいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預かるにあらず。・・・」森羅万象すべてのものが念仏を唱えている、阿弥陀如来の救いに預かるものは人間だけではないのだ、と記されています。この宇宙のすべてのものが神的存在を讃えて救われるということは、キリスト教ばかりではなく、すべての宗教には何らかの真理があるという、第二ヴァチカン公会議いらいの精神の中にも含まれています。
詩編148番や『兄弟太陽の賛歌』を味わいながら自然界とともに父なる神を賛美したいものです。
遺言になる
善行 岡村
私たちの引き合わされる出来事のなかで、人の言葉や行いが、遺言になるということがあるのです。遺言とは、生死を超えてその人の言葉や行いが、後生を生きる私たちに意味とはたらきを伴い生き続けることではないでしょうか。そこに常に、私たちの選べない引き合わせが介在しているのをわたしは認めます。何時、何処でも、誰でも私たちは、すべてに結ばれてある唯一のいのちを生きているのではないでしょうか。すべてに結ばれてある唯一のいのち、ということが実は、私たちの選べない引き合わせであると気付きました。しかし、そのことを見たり知ったりするのは難しいので、その人に触れるのは、常に、ごく一部分に過ぎません。先に亡くなられたK氏も、その例外ではありませんでした。
九州で受洗され、十年ほど前に藤沢教会に移ってこられて間もなく、湘南台センターに居たわたしを突然訪ねてこられました。信徒同士で聖書を読み分かち合うには、どのようにしたらよいか、また何に気を付けたらよいか、それがK氏の用件でした。わたしは既に十数年前に、日曜のミサの後、その日朗読された福音を、信者同士集まって読み分かち合うことを始めていましたが、それまでに誰にもそんなことを問われたことはなかったのでびっくりしました。その時からK氏は、わたしの希望の星になったのです。
それからも氏の活動は前向きで目覚ましく、最近は、キリスト教講座の担当者たちの集まりを他の活動をも含めてまとめ、優れたコーディネーターとして皆の信頼を一身に集めて居られたのです。最後にお目にかかったのは、亡くなられる十日前8月5日(日曜日)でした。その日7時のミサの先唱者をつとめて終わり、聖堂入り口に行くと、わたしに近づくK氏を認め挨拶すると、頂いたお手紙で一つお訊ねしたいところがありますと言う。二人でルルドの聖母マリア像前のベンチに腰を下ろしました。先のキリスト教講座担当者会で話題になった、担当者たちの学習についてわたしの感想を書き送った手紙でした。K氏とゆっくり話し合ったのは、湘南台センター以来でした。
その話し合いの終わりに、氏はわたしに次のような話をしてくれました。「あなたが3年前に八角形にゅ−すに書かれた、聖堂内の配置の新しい試みと、その意味とはたらきについてを読まなかったら、入り口の透明ガラス戸を不透明ガラスに変えたのが、よくないとは分からなかったでしょう」と。このK氏の話に、わたしは大いに驚き、うれしく思いました。わたしの伝えようとしたことをK氏は、きちんと理解してくれたのです。あれから3年、信徒の誰がわたしに、このように確かな反応を伝えてくれただろうか。一人もいなかったのです。
「人となられたキリストが、私たちの中にはいってこられ、私たち人に望まれていることを語り、かつ行われた後にまた、私たちの中を歩まれて、未知のこの先、私たちに生まれはじまるいのちを妨げるはたらきを取り除くために、十字架につけられて死に葬られ私たちの中に復活されたのです。」 この出来事を、そのままの順序で、今もまた、私たちの面前で行われるのが、ミサ聖祭ではないでしょうか。その呼びかけに応えて、私たちは毎回人々に派遣されるのです。八角形の聖堂を生かして試みられた聖堂内の配置の新しい試みは、以上のミサ聖祭の姿を、私たちに生き生きと現して見せ感動的でした。
キリストの呼びかけであることばの典礼と、キリストのからだが生まれる感謝の典礼の二つの場を、聖堂の奥と聖堂の入り口とに分け、向かい合わせに配したのは、ユダヤ民族の宗教を超え全ての人に向かうキリスト教として、全世界に広がって行ったという、絶えざる乗り越えの方位を、聖堂から外へ向かう軸線として表しています。 キリストが十字架にかけられたのは、エルサレムの中ではなく、エルサレムの出入り口であったという事実。復活されたキリストのからだになった信徒たちが、聖堂内から、新しいいのちの生まれた祭壇の背後に、これから派遣される全世界を望み見るというのは、なんとも革命的な配置ではありませんか。
K氏のわたしに残してくれた希望の言葉は、選べない引き合わせの介在によって、見事に遺言となりました。こうして今でも、これからも、K氏は、永遠にわたしの希望の星でありつづけるでしょう。
レオと枢機卿
鵠沼3区 平野(レオ爺)
ステファノ濱尾文郎枢機卿様は、私どもの手の届かない地位の方でしたけれども、多くの信者に目線での親しみを感じさせるお方でしたように思います。特に私どもレオは、汗流す教会活動を通して、稀にでしたけれどもお話出来る機会に恵まれましたご縁もあり、早すぎたご帰天をとても残念に思います。
藤沢教会の祈りの庭についてはこの紙面で何回かご紹介しましたように、以前はごみの焼却やボーイスカウトの鍛錬にも使われていた潅木林でした。奥のルルドの参道は、日曜学校の生徒が茅ヶ崎海岸から小石を拾ってきて敷き詰めました。隣家との境の石塀は、身障者が涙ぐましい努力の末に積み重ねました。ルルドの洞はレオが受け持ち、土台、側面、天井の石にはそれぞれに工夫と苦労が重ねられ、その他の作業は信者の全員参加の形で完成されたものです。
ルルドの左側面石の一つに「濱尾司教の石」と呼ばれる一際大きい石があります。石工経験者ともども、ご一緒に汗を流して積み上げて戴いたものです。体重に比例して大石を割り振ったわけではありませんが、結構苦労されたようです。体重といえば、濱尾枢機卿様は恰幅のいいお方でしたからでしょうか、司教の時から大司教と呼ばれたこともあったそうで、その都度「見てくれは大ですが司教と呼んで下さい」とお答えになっておられたとか。祈りの庭の完成を大変に喜ばれ「これからはますます横浜教区の行事のために藤沢小教区を利用させて下さい、とお話がありました」と、時の教会委員長から聞かされた時は、レオは横浜教区からも頼りにされているのだと、皆で喜び合ったことでした。以来、しばしば教区の行事に役立っていることは嬉しい限りです。
1988年、横浜教区発足50周年の祝賀式典が栄光学園の運動場で盛大に催されました。「会場の設営は藤沢教会におねがいしますと実行委員会の席上で、横浜教区長 濱尾司教様からご指名があり、喜んで引き受けてきました」とガラハ主任神父様から告げられた時、反対する人は一人もいませんでした。そして見事にやり通しました。大事を成し遂げた後の満足感を味わえたことを、今も濱尾枢機卿様に感謝しています。現在もなお、バザーの時などに使用している食事用の長テーブルの支柱は、その時の式典の大舞台を支えたウマなのです。
2007年バザー通信 E バザーチーム・リーダー 高久 10月28日バザーは、前日大急ぎで通過した台風の残した落ち葉掃きから始まりました。幸いにも台風一過の秋晴れに恵まれ、2007年バザーが開催されました。 今回は教会へのきっかけとしてWelcome券の発行を試みました。おかげさまで皆様より多くの関心をいただき、170枚の売り上げはお客様増につながったのでは、と思われます。私もお隣に差し上げましたところ一家で訪れ魚釣りやボーリング、買い物にランチとバザーを楽しんで「また来年も!」といううれしい声をいただきました。山田神父様のチャンチャン焼きをはじめ外国コミュニティーのお国料理などたくさんの美味しいメニューを楽しみながら、20人を超える編成のゴスペルの歌声に手拍子も加わりバザーが一層盛り上がりました。 皆様よりご提供いただいた寄付品を大切にとの思いから、衣類を中心に「ぶどうの木」でアフターセールを試みましたところ、通りすがりの方や多くの方々のお買い上げで驚きの15万円の売り上げとなりました。また5日間売り場に立たれた皆さまからの「楽しかった」というひとことは売り上げ以上の喜びでした。 今回、企画から運営、設営、賛助金、抽選賞品など皆様から多大なご協力をいただきました。厚く御礼申し上げます。バザーを通して共同体の絆がより深められることを願い、神に感謝、そして皆さまに感謝。 最後に会計報告を申し上げます。経費など差し引き後の総収益313万円。総収益の半額ずつを教会維持と福祉のために活用いたします。 |