八 角 形 に ゅ ー す
2009年1月11日
聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会
目次
生を分かつ交わりから・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・司祭 岩間
第36回藤沢市民クリスマス・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂1区 鈴木
クリスマス会に参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢1区 南
マンドリン・コンサート・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼2区 石川
壮年部鎌倉巡礼旅行記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・善行 辻垣
典礼暦と祭服の色・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・典礼部
鈴木神父の川柳(9)
生を分かつ交わりから
司祭 岩間
「これからは、doing よりもbeingを大切にして生きようと思う」こう語ったのは、早朝のミサの分かち合いの当番であった聖心会のシスター広戸であった。そのとき、シスターが何を言おうとしたのか分からなかった。当時彼女は日雇い労働者の街、山谷のいろは通りに面した聖心会共同体に住んでいた。大学で教えつつ、長らく社会的活動にも熱心に取り組んできていた。実際、フィリピンで去年お会いした時も、セブ島でマイクロ・ファイナンスの組織を立ち上げた。彼女が語った言葉は予期せぬものであった。数年後、ある出来事が私にミサの時の言葉を思い起こさせた。困窮する人々への数多くの奉仕が、キリスト者のグループによってなされてきた。しかし、必ずしも良い便りをもたらすとは限らない。しばしば、福音的な関わりを築くことよりもサービスを行うことが重視される。教会は世におけるイエスの宣教を受け継ぐために立てられた。宣教に際して、イエスは弟子たちが無力な者として留まることを求めている。なぜ、イエスは弟子たちを何も持たない状態で派遣しているのか。宣教が実り多いものとなるには、何が必要なのか。
隅田川沿いに多くの路上生活者がすむ山谷で、理解しがたい出来事に出くわした。その頃、路上生活者や日雇い労働者たちの手助けをするNPOの活動のボランティアをしていた。ここの労働者たちの平均寿命は55歳だ。これは日本人の平均寿命と比べると、ほぼ20年も短い。過酷な労働と生活環境、及び不養生が災いしているようだ。一旦病院に入ると彼らは他の病気を併発して、あっけなく亡くなることがよくあった。凍てつく冬の初め、NPOのスタッフと協力して、急いで一人の路上生活者が入院できるようにした。彼は病気で動けなくなり、路上に横になっていた。しかし数日後、彼が再び路上に戻ったことを知った。一人のNPOのスタッフが「歩けるようになると、すぐに病院から出て来てしまう人は多い」と説明してくれた。なぜ出てくるのか、私には不可解だった。もし医療施設に留まるならば、治療ばかりか、食事や住まいも受けられるはずだ。病気が治っていないにも関わらず、なぜ彼らは路上に戻ってきてしまうのか調べてみた。後日、病気の友を心配し、彼の帰りを待っていた数人の路上生活者がいた。もし、仲間が3ヶ月見えなくなると、彼らは「入院したんだ」とお互いに言い、6ヶ月見ないと「死んでしまった」と言う。その後、彼の仲間たちはワンカップと花を添えて無くなった友の弔いを始める。しかし後日、彼らの前にひょっこり、死んだはずの当人が現れると「生きていた!」と喜んで宴会を始めた。確かに彼らには住むべき家はなかった。しかし互いをケアし合うというホームがあった。
私たちは手助けを必要としている人々に仕えることを重視してきた。これはイエスが命じている。問題は奉仕が溢れ出る源、つまり生命の交わりをもつことを軽視してきたことではないか。ヨハネ6章におけるパンの出来事は、生活と運命を分かつことを象徴的に表している。イエスは弟子たちを2人ずつ、貧しく無力な者として派遣している。貧しさにおける分かち合いは、豊かさをもたらす。イエスのぶどうの木と枝の譬に示されるように、生命を分かつことを通して神の祝福がもたらされる。良き業はこの交わりから溢れ出たものである。かつてラルシュ共同体で暮らすヘンリー・ナーウェンは言った「共にあるという神秘に参与するとき、仕えることが起こる。受肉の全ては、第一にエンマヌエル−共におられる神−が民と共に在ることだ。ケアするとは、共に叫ぶことを意味している。コンパッションは文字通り、苦しむ者と共にいることをいう」。ヘブライ書によれば、コンパッションがイエスの祭司性だ。イエスにとってはどの人間も異邦人ではなかったので、彼は憐れみ深い大祭司となった。イエスは初めから「私たちと共に在る神」であった。単に3年間仕えたということではなかった。ナーウェンはこう結んでいる「イエスは私たちの生を分かちあった。神は私たちと共に在る神である。イエスの奉仕は病む者、死にゆく者と共にいることだ。そして民がどこにいても、また彼らの問題が何であれ、人々と共に在ることである」。
2002年の11月、良い知らせが日雇い労働者の街に広がった。「希望の家」がオープンした。ここは在宅医療型のホスピスだ。代表者の山本さんは奥さんと共に、4階建ての家を死にゆく宿無しの人たちのために建てた。「平和の内に、彼らが最後まで生きられるように支えていきたい」と語った。自身はカトリックだが、看護婦の奥さんは聖公会の信徒だ。建物の屋上に小さな聖堂を設けた。この家を訪れたとき、まだ数千万の借金が残っていると淡々と語った。30人ほどのボランティアたちが交代で、毎日皆を支えている。入所者たちは5平方メートルの部屋に暮らしている。彼らは最後までここに留まることができる。印象深かったのは、大きな借金を抱えた山本さん夫婦と共にガンの末期を迎える入所者たちも、外来者を笑顔で迎えてくれることであった。そのホームには不思議な平安がある。確かに、彼らは生命を分かち合って生きていると感じた。イエスが苦しむ民と共に歩まれたことは、誕生時のみすぼらしい飼い葉桶と、最後に刑死したエルサレム場外の十字架が端的に物語っている。「神の祝福は台に据えられたダイヤモンドのように、私たちの小ささの中に隠されている。それでイエスは言った。貧しい者、悲しむ者は幸いである。丁度、私たちが自らを助けることができない所、貧しく叫んでいる処に、愛と喜び、平和と信頼が保たれる。神の祝福は世が小さく貧しい、弱く無益な、そして周縁にいると見なす人々から私たちにもたらされる」(ナーウェン)。
教会委員会報告(2008年12月20日)
近隣教会で助け合う、コラボレーションをしていく、このことについて来年度は時間をかけて話し合っていく。2008年度お世話役として大船教会の久我神父、梅津委員長、シスター松坂にご尽力いただいたが、2009年度の世話役は藤沢教会鈴木神父、浮田委員長、シスター松坂(留任)という体制になった。2009年度の初会合は2月15日藤沢教会で開かれる予定
今年から第5地区共同宣教司牧委員会第2部門「伝える」の活動に組み込まれることになり、11月29日大船教会にてテーマ「あなたは大切な人」で開催。詳細は八角形にゅーす12月号に掲載済み
工事完了。12月5日より使用開始。かねてより要望のあった高齢者、赤ちゃんをつれたお母さんへ配慮されたものとなっている。費用は663万円当初の予定より15万円ほど安くなった。併せてセンター内は土足歩行可能となった。不用となった下駄箱の有効利用についてアイデアを募集中
家族である教会にもっと若い人を、という願いから4月特命プロジェクトとして発足。鈴木神父より「謙虚さを大切にしつつ、若い人の居場所作りを」とのアドバイスをいただいた。"友達と会える場所つくり"ということで、中高生は第1、第3主日のコーヒーショップ、青年会は第3主日ミサ後ティエン神父にかかわっていただいて、ぶどうの木で例会を開く、さらに外国コミュニティの若者にも声をかけていく、30代グループは9時半主日ミサ後岩間神父に加わっていただいて集まりをもっていく、また新年会を1月18日におこなうなどそれぞれ順調に進行中(詳細別掲)
2009年度は2月8日に開催する予定
1月29日(木)に開催予定。昼食、余興など、会費は1,000円。詳しくはおってお知らせする
合葬の園は、聖心の布教姉妹会の修道院聖堂付帯設備として来年早々確認申請をおこなう。また今後保健所に対して事前協議書を作成し、本格的協議を開始
聖心の布教姉妹会の資産となるため諸手続きを修道会を通して行う必要があること、6,500万円程度かかる総費用をどのような形で手当てしていくか、修道会へ寄付という形をとるのか、建設着手時点で教会手持ちの資金から立替え払いにする必要があり、他の設備関係費用との兼ね合いを含めた資金計画などが問題となる。信徒の意見を反映させた形で、信徒総会で計画説明をおこないたい
6月14日(日)9時半ミサにおいて梅村司教をむかえて堅信式をおこなう。 宣教部からこのミサ後、司教と若者達とで分ち合いの場を設けたいとの案が出されている。司教との時間の持ち方で他に希望があれば、教会委員会までお寄せ頂きたい
鈴木神父より「人間が計画することが多いと神様から離れてしまう。なにも計画しないで神と人の声がよく聞こえるようにしていきたい」とお話があった。さらに「宮内神学生が来年3月に助祭、再来年3月に司祭叙階の予定。司教の意向は地区でなるべく叙階式の準備をしてほしいということなので、第5地区として藤沢教会を中心に準備をしていきましょう」と話された
(教育)来年度日曜学校は1月11日始業式、6月28日(日)初聖体。ボーイスカウトは1月1日初日の出ハイキング。青年会は1月11日成人式ミサ、若い人で奉仕
(典礼)2月11日教区典礼研修会、3月1日梅村司教をむかえての合同入信志願式、6月21日、7月19日大船教会にて聖体奉仕者研修会、各ブロックで候補者の推薦をいただく予定
(宣教)12月13日におこなわれた近隣のカトリック、プロテスタントの教会が集っての市民クリスマスは280名参加、説教は鈴木神父で好評であった。
復活祭に受洗される方の3月1日の合同入信志願式にむけて準備中
(福祉)バザー収益金として福祉関連でいただいた839,658円を8団体に分配寄付
アシストホーンは利用者の使用感は好評
(広報)八角形にゅーす、教会ホームページなどへ若い層の積極的投稿をよびかけたい
(北2)1月24日(土)湘南台1周年記念のミサ、パーティ。1月31日(土)1周年記念黙想会。指導司祭下窄神父
(藤沢)12月7日(日)におこなわれたブロッククリスマス会は60名の参加を得て好評であった
ユースプロジェクト進捗状況報告
ユースプロジェクトチーム
ユースプロジェクトって何をやってるの?というご質問を受けましたので、現在の進捗状況をご報告いたします。当プロジェクトは、教会委員会の特命プロジェクトとして昨年4月に発足しました。浮田委員長の「教会は家族なのに若者がいないのはさびしい」という思いと、岡田前教育部長の「教会の持続可能性」への危機感がマッチしたことを端緒として、井出教育部長、鈴木宣教部長、中高生会、学生会(現青年会)、30代の集いの各代表をメンバーに加え、鈴木神父から「謙虚さを忘れず、押し付けないこと。若い人の居場所づくりが必要」とのメッセージを頂戴してスタートし、月1回のペースで議論を重ねてきました。
謙虚さを大切に、関係者や成功事例をヒアリングしようということで、メンバーの他、日曜学校・中高生会の保護者6名、石井由さん(湘南台)に紹介頂いた雪ノ下教会の青年会メンバー5名、30代既婚カップル4組、興膳国際部長と各年代層別に話をうかがいました。その中で、若い人の教会離れを防ぐには、やはり定期的に友達と会える居場所づくりが重要であり、かつ大人の信仰へと育てていくために、若手の神父様か、若い人を育てるセンスがあり、適切な距離感を保てる大人の支援があることが不可欠であるとの認識が共有されました。各年代グループでも以下の通り、具体的方向性が見えてきました。
中高生会;居場所として、毎月第1・3日曜日のコーヒーショップをベースに集まる。多忙なリーダーのサポートを保護者にお願いする。担当:山本さん(K1)
青年会:居場所として、毎月第3日曜日9時半ミサ後、ぶどうの木で集まる。ティエン神父に指導いただく。ベトナム、フィリピンコミュニティの若者にも参加を呼びかける。担当:岡田さん(F1)、清水さん(K3)
30代未婚:居場所として、30代の集い(毎月第2日曜日9時半ミサ後開催、岩間神父指導)を受け皿として広げていく。千古さんの力作『こひつじ』1、2号を発刊。クリスマスのお知らせ配布の際、各ブロックにご協力をいただき、当教会に籍のある30代の方にアンケート実施(1月15日締切)。1月18日(日)11時30分より204号室で新年パーティ開催。担当:千古さん(長後)、嶋永さん(大庭)
30代既婚:居場所として、育児真最中であり、不定期でもよいので神父にも参加いただくランチミーティングを希望。小聖堂を泣き部屋として使っているが、壊れ物を片付ける等の配慮が必要とのこと。
また、中高生会、青年会は第5地区の他教会への働きかけも始めています。
今回列福された殉教者の多くは家庭人であり、家庭を通じて信仰が着実に伝えられ、長い潜伏時代を経て再宣教を迎えました。現代社会に生きる私達に迫害はありませんが、神・教会から引き離そうとする誘惑は圧倒的で巧妙です。教会共同体として、親・祖父母として、若者や子供に信仰を伝える責務を果たすには、先達に倣って自らの信仰のあり方を見直し、具体的に行動を起こすことが求められていると感じます。当プロジェクトへのご理解・ご支援、特に若者の居場所の確保と、ご関係の30代未婚者のアンケート回収と新年パーティへの参加呼びかけをよろしくお願い申し上げます。
今年の聖劇は、「一人のみどり子が私達のために生れた、一人の男の子が私達に与えられた・・・、永遠の力、平和の君ととなえられる」というイザヤの予言の歌を皆で歌い、始めました。
10月に聖劇をどうするか、子供達やリーダーとの話し合いがあり、祈りの内に再確認し行うことにしました。幸い神様に呼ばれるように子供達は集まって来ました。練習不足が心配な子もおりましたが、本番では、76名の子供達のパワーが花開きました。ミサに与っていらっしゃる皆様の祈りの力がほどよい緊張感を与え、子供達の力を押して下さっているという事を強く感じました。最後のテゼの歌はK君のオカリナとピアノの音がひびく中、2年生がろうそくの光を祭壇に献げ、光として来て下さったイエス様に感謝いたしました。
私は、聖劇をやるたび、(マリア様の役ってすてきだなぁー)とずっと思っていました。マリア様は神様にヨゼフと結婚し、イエスという男の子を生みなさいと望まれ、すごい事を受け入れました。とても勇気がある人だと役をやってわかりました。
リハーサルの時、私はドキドキしました。前の日に練習したのですがちゃんと言えるか心配で、でも言えたので良かったです。本番はまちがえないで、きちんと言いたいと思いました。今年聖劇をやれてよかったです。本番の時は、緊張しすぎておぼえていないけど、ちゃんとセリフだけは言えたのでよかったです。
私は最後の聖劇で、あぁ、これで終わりなんだなと思うと、少しさみしい気もします。でも、けっこう他の人とも話せたし、ミサの先唱もやったのでいい思い出になりました。宿屋の役は断るだけでちょっとだけだったけど、自分もそれが良かったので楽しかった。
セリフは一つ言いまちがえてしまったけど、宿屋は楽だった。練習もがんばったし楽しんでやれてよかった。
クリスマスは毎年お祝いしていたけれどイエス様のことはくわしく知っていませんでした。でも聖劇をやることで少しイエス様のことを知ることができました。友達もできて、とても楽しかったです。羊飼いの役も最初は少しいやで、ナレーターがよかったけれど、練習していくうちに一生懸命できるようになりました。今までより神様の事を近くに思えるようになりました。
ぼくは、この聖劇で博士の役をやりました。聖劇で博士達がエルサレムに行く時、車がないので歩いて行ってかなり疲れていたと思いました。それからまた、ベトレヘムに行くので大変だと思いました。でもイエス様に会えたので「イエス様に会うためにこれだけ疲れて良かった」と思っていたと思います。ぼくは博士の役をやって良かったと思います。
見知らぬ土地で旅をしてきて、やっと馬小屋に着いた時、博士たちはとても大きな喜びに満たされたと私は思います。聖劇は何度も参加してきたので、今年は落着いて演技することができました。とても楽しかったです。
私は、最後の聖劇で博士の役をやりました。博士は星をたよりに、ずっと歩いて大変だったと思います。でも、あきらめないで歩き続け、すごいなぁと思いました。一つの目的のために、あきらめないで努力する、そうすればいつかむくわれる。私はその言葉を信じていきたいと思います。博士をやって良かったです。次、博士をやる子供達もわかってくれたら、うれしいです。
第36回藤沢市民クリスマス
辻堂1区 鈴木
12月13日(土)当教会聖堂で恒例の藤沢市民クリスマスが開催されました。藤沢市内キリスト教連絡会のメンバーであるプロテスタントとカトリックの諸教会、修道会が協力して毎年開催し、今まで続いて来ているものです。午後4時から始まった第1部クリスマスの祈りでは、皆でみことばを聴き、共に賛美歌を歌い祈りのひとときを持ちました。今年のテーマは「人は草のようなもの」。鈴木勁介神父様が説教を担当されました。
「一人ひとりに神が語りかけてくださる。その邪魔にならないようお手伝いが出来るといい」という言葉で説教は始まりました。「私たちは小さな弱い者なんだ、でもそれは悲しむべきことではない。そこに本当の幸いの鍵がある」と神父様は述べ、「私たちは、強い者になりたい、大きなものになりたいということを、自分の生き方の中心に置いている。それが過ぎてしまうと小ささ、弱さで挫折してしまうこともある。同じ弱さを持つ者だというところでともに生きる、ということが難しくなる。大きい者、力が強いと思われる者が行き詰まったり、倒れたりした出来事が今年もあった。人間は本来小さな草のようなもの、そのことに気づけると、そこに生命があることにも気づける」と、またマタイの福音から「ヨセフが優しい心でいた時に天使の声が聴こえた。人間は素直な心になる時に神様の声が聴こえる。救い主の名はインマヌエル、神がともに居られるという名。神様の力強さは、人間の力強さをはるかに越える。一人ひとりとともにいてくれる力強さ。小さな弱い者とともにいることが出来る神様だと福音書は教えてくれている」と話されました。そして「私たちは草のように弱い小さな存在だと、この季節に特に思い出すことによって、私たちを救ってくれる神が"ともにいて下さる神"で、どんなに大きく力強いかに目が開かれる。"ともにいて下さる神"が一番力強い救い。他のものは失われていくし、人間の"ともにいてくれる"は限りがある。しかし神はいつもともにいてくれる。私たちは小さな草のようなやり方で伝えていくが、それは見捨てられた小ささではない」と結ばれました。
5時からの第2部ではソフィア・ハンドベル・クワイヤと藤沢福音コールの素晴らしい演奏があり、その後の愛餐会では豚汁が皆に振舞われました。聖園の畑で育った野菜が沢山入り、大鍋で作られた豚汁はとても美味しく、何杯もおかわりされた方が大勢いらっしゃいました。当日の参加人数は280名程でした。
当日の準備と片付けに多くの方にご協力を頂きました。特に、YMCA高等学院の生徒の皆さんが、土曜日の午後、時間とエネルギーを惜しまず、若い力を発揮して下さいましたことをお伝えします。開催に御協力くださった皆様、演奏者の皆様、そして参加してくださった皆様に感謝致します。ありがとうございました。
クリスマス会に参加して
藤沢1区 南
去る12月7日ミサ後11時半より、恒例の藤沢ブロックのクリスマス会がセンターホールにおいて鈴木神父様も参加され行われました。参加者は59名でした。最初にブロック長の風間さんより簡単な教会委員会の報告、来年度の活動予定、新旧連絡委員の紹介がありました。そして楽しい食事のひととき、テーブルを数箇所に分け、自由にグループを作り、楽しいおしゃべりが始まりました。そして3区の役員の皆様が何日も前から準備され、作られた心のこもった手作りビーフシチューとサラダ等がきれいに並べられました。全てがおいしくてシチューはおかわりされる方もいらっしゃいました。お腹が一杯になったところで、楽しいゲームです。ジャンケンゲームや思考をこらした紙組み合わせゲームには、神父様も加わり、皆、年を忘れて大はしゃぎ。プレゼントまでいただき、大満足でした。最後は堀部さんのピアノの伴奏に合わせ、クリスマスソングを合唱して会を終えました。
この様な素敵な集いを計画、準備、実行されたブロック長、連絡委員の皆様、その他協力して下さいました皆様に心から感謝すると共に、素晴らしい集いに参加出来たことを神様に感謝いたします。
マンドリン・コンサート
鵠沼2区 石川
毎年楽しみにしてお聴かせ頂いている、マドレーヌの会主催「チャリティ・マンドリン・コンサート」を、12月6日(土)に今年も聴かせて頂きました。藤沢教会での演奏は5回目、私は第1回目から楽しみながら聴かせて頂き、指揮者、演奏者の方々とも何となくお近づき頂いたような気持ちで聴き入りました。マンドリンの明るく華やかな音色が、チェロ、ギター、バス等の重厚な音色と解け合い、上品なメロディの中に引きこまれてしまいました。最後には、演奏に合わせて、会場の全員でクリスマス・ソングを歌い終了いたしました。
当日の献金はすべて東チモールの子供達の教育費として、東チモールに送られるそうです。どうぞまた来年もあの美しい音の調べをお聴かせ下さいますようお願いいたします。
2008年12月13日開催
出席: 鈴木主任司祭、浮田教会委員長、小藤前委員長、片桐元委員長、川辺事務局長
広報部:竹内、佃、益満、三神 (文中敬称略)
広報:今日はお忙しいところをお集まりいただき、有難うございました。201号をむかえて八角形にゅーすをより良いものにするためにご意見を伺いたく、皆様にお越しいただきました。今回教会内にアンケートを実施し、その結果は200号に掲載いたしましたが、それについて少し触れてみます。54名の方から回答をいただきました。巻頭言、教会委員会報告など教会からの発信を始めとして全般によく読まれているようです。今後何を期待されているかについては、神父様のメッセージ、教会の動き等のみなさまへの発信が一番大切であると同時に、外国コミュニティとの連携、堅い記事ばかりでなくトピックス、書籍紹介、趣味のコーナーなどやわらかい記事もほしいという思いも伝わってきました。更に第5地区の諸教会の広報部にもその活動について伺ってみました。(詳細別掲)他教会広報部はホームページの作成に携わっているところが多く、また戸塚教会の英語版作成、片瀬、大船教会の書籍紹介、その他、年2回の文集発行、短歌コーナーなど、それぞれ特色がありました。
浮田:現在は立場上よく読んでいますが、以前はあまり読んでいなかった。何故か、それは内容が堅いということがありました。また位置づけとして単に広報誌なのか、機関誌なのかということがあります。もっとやわらかい身近な記事もほしい。その点鈴木神父様の川柳は良いと思います。また幅を広げるということで、若い人のセンスをもっと盛り込めたらいいと思います。難しいことですが。
小藤:私はよく読ませていただいています。八角形ニュースは広報誌の役割と交流の場としての役割の2つの要素がありますが、私は広報誌として読んでいます。巻頭言、教会委員会報告をよく読んでいますが、活動報告は詳しくは読んでいません。当教会はこれだけ外国人信徒がいるのだから彼等への発信が大事だと考えます。また若い人への発信はホームページ、ウエブサイトで呼びかけていくのもいいと思います。
広報:八角形にゅーすは通常750部、クリスマス号などは800部刷っていますが、いつも50部位しか残りません。近隣教会へ送ったり、普段教会へ来られない方のために有志が持ち帰ってお届けしたりしています。又、ホームページは川辺さんに担当していただいて続けています。
片桐:200号まで毎月発行して来られたことをまず感謝します。自分が所属しているところへの関心から、私はよく読んでいる方だと思います。文字のミスなども気がつく方です。ご病気の方へお届けすると喜んでくださり、巻頭言、教会委員会報告をよく読んでおられるご様子から、もっと詳しくしてほしいと思います。また、どこへ発信していくのかを考えなくてはいけないのではないでしょうか。当教会だけでなく案外他教会の方々の目に触れていることに気づかされます。インターネットで八角形にゅーすを読んだと言われたりします。他方、八角形にゅーすに載った情報を知らないと言われることもあります。教会を知っていただくためのツールとしての役割の重要さを思います。また神父様の川柳がたった17文字で宣教になっているという意見も聞きました。
川辺:八角形にゅーすが出る前は年4回藤沢教会報がありました。初期の段階では八角形にゅーすは編集部が取材してニュースとして発行していく形でした。そのことを考えると編集部が各集まりに参加してニュースとして載せていくというそんな形もあっていいのかなと思います。報告だと同じ方の文章が多くなるのではないでしょうか。
鈴木神父:よく毎月出されているなと思います。そのほかは皆さんと同意見です。
広報:編集委員は記者でなくてはいけないというお話がありましたが、今は確かにお願いして書いていただく原稿が主なので、そのことは考えていきたいです。かなり体制を充実させないと難しいですが。現在は記者の代弁をしているのが原稿を書いてくださっている方々です。若い人のセンスを取り入れた記事やイラスト、写真がもっとあればいいし、国際グループとの交流も考えていきたいことです。若い人が参加して毎号1ページを担当するなどというのはどうでしょうか。
片桐:若い人はパソコンメール、ホームページなどで情報交換をしているようですが。
広報:教会のホームページには八角形ニュースも掲載されていますが、ホームページの外部発信力は強いですね。
川辺:外国、遠方の方へ発信しやすいですし、教会以外の方、知らない方も見ているようです。
広報:宣教的視点から見ると八角形にゅーすは内部発信、ホームページは外部に向けて、そして未信者の方も読むことを考え充実していかないといけないのですが。ここにも若い力がほしいところです。
川辺:ホームページ作りに若い人を対象に人材を募集するのですが長続きしません
浮田:若い人との接点はユースプロジェクトへ問いかけてみます。
広報:活動記事も教会へ来られない方のために大切だと思いますが、もう少し短くて良いとの声もありますが、記事の長さはどうでしょう?
片桐:800から1200字はほしいです。また子供の文章もご家族、おじいちゃま、おばあちゃまが喜んで読んでおられ、他の記事もあわせて読むきっかけとなっているようで良いことだと思います。
川辺:依頼して記者として書いてもらうか、当事者として書いてもらうかで違ってきます。今は何が起こったかではなく、何を感じたかが主になっていますね。各ブロックに広報担当を置くとか、記者を募集するということはどうでしょう。
浮田:ニュースとして書くか、参加者として書くかですね。
小藤:ただ記事として書いたのではつまらなくなってしまわないか。自分の考えが入っているから面白いのではないでしょうか。
川辺:一番関心が深いはずの歴代の教会委員長が記者となるのはどうでしょう。(笑い)
広報:ここで広報の役割を確認すると、1.何が起きているか(活動記事、行事予定)2.教会の考え方(巻頭言、委員会報告)3.神の教えにかかわること(典礼、川柳、セミナー)4.皆が何を考えているか(投稿、フォーラム)などの情報提供があると思います。今は並列的になっていますが、どこに重点を置くべきかを考えていかなくてはいけない。また、若い人、外国人など多様化に対応していかなければ、と考えています。英語版についてはどうでしょうか?
川辺:1980年代の教会報の時代はしばらくベトナム語、英語のページがありましたが、なかなか大変で立ち消えとなった経緯があります。彼らが受け持って書いていましたが、日本語の記事に対応するものではなかったと記憶しています。国際部でお知らせを外国語でという案も出ましたが立ち消えとなりました。ローマ字で出したこともありましたがこれも中途半端で終わっています。
片桐:外国人信徒は現在各コミュニティのリーダーが必要なことは伝えていると思いますが。
広報:その情報ルートを続けていただきたいと思いますが、共同体としての一体感がほしい。教会の姿勢をかれらにも発信していく、そんな心構えが必要ですね。他の信徒との一体感をもって、外国人信徒が藤沢教会にそってみよう考えてくれるようなページを提供できたらいいですが。
小藤:例えばベトナムの方たちのイベントを、記者が取材して紹介するなどというのもいいのではないですか。
浮田:共同体としての一体感ということでは、一般的に自分たちの広報誌として読む人からみて距離感があるかもしれない。
片桐:その点では、小教区と同時に他教会、他教区の情報もほしい。教区全体の視野、日本のカトリック全体を見渡す視野もほしいと思います。
広報:第5地区の教会が共通ページを作るのも一案ですね。
片桐:全ての信徒がお互いに支えあっていることを、八角形にゅーすで伝えていけたらいいですね。
広報:アンケートに、議論の巻き起こるようなテーマを、という要望がありましたが、共通の問題意識を一貫して取り上げていくというのは如何でしょうか。例えばいま課題となっている第五地区共同宣教司牧の問題など。神父さまのご意見は?
鈴木神父:そういうことは自然にまかせて、必要に迫られるまでほおっておくのがいいと思いますよ。
川辺:無理にテーマを決めなくても、状況に応じて出てくるのではないでしょうか。一方で、近隣教会紹介を毎年テーマを決めて取材していくのも面白いかもしれない。
広報:神父様のいない小さい教会を訪問して、その在り方を記事にするというのはどうでしょうか。
川辺:例えば大磯、茅ヶ崎、平塚教会などの集会祭儀に参加して、記者として取材するということですね。
片桐:集会祭儀に対する理解を深め、共同宣教司牧のひとつの土台になることですね。典礼部からも記者を派遣するというのも良いですね。
広報:現在は企画不足を感じています。今回、皆さまから、またアンケートでいろいろヒントをいただいたので企画の多様化を目指していきたい、Q・Aコーナー、小グループの活動や講座の紹介、書籍紹介なども考えていきたいと思っています。
浮田:企画の多様化という点でも若い人へのページがあったらいいですね。同時にその年亡くなった方たちを、死者の月にでも振り返るというのはどうでしょう。
小藤:短い想い出や写真も入れたらどうでしょうか。ただ、ご遺族の意思を確認する必要もあるでしょうが。
川辺:1980年代の広報が参考になるのでは。季刊の教会報でしたが、いろいろチャレンジしようとしていました、とてもエネルギーのある時代でした。連続講演会などがあり、今の藤沢教会の礎ができた時代だったと思います。
広報:期待する広報とは、教会全体の機関とつながっているツールとして活用できるように考えていきたい。教会委員会も広報を利用できるツールのひとつとして考えていただければ有難いです。最後に神父さまのお考えは?
鈴木神父:特別な注文はありません。よい企画でも続けていくことは大変なことなので、皆さんあまり欲張らないでやりたいことを取り上げたらよいということだけです。
浮田:神父様にイラストをいただきたいですね。
広報:本日は貴重なご意見を有難うございました。アンケートでの皆さまのご提案もあわせて、今後、八角形にゅーすをより良いものとしていくことに役立たせて頂きたいと思います。
壮年部鎌倉巡礼旅行記
善行 辻垣
12月6日壮年部の鎌倉巡礼旅行に参加しました。この日は風が強く一寸寒い日でしたが快晴でした。一行8人は、気分を良くしてまず雪ノ下教会を訪問しました。大きな切妻屋根の聖堂にあるアルコーブに、鎌倉で捕まり品川の札の辻で処刑されたフランシスコ・ガルベス神父、ペドロ喜三郎、ジュアン長左衛門とヒラリオ孫左衛門と妻の5人の大きな殉教の絵が展示されていました。彼らは袖の浦海岸から船で逃げるところを密告により捕まり江戸送りとなったようです。我々8人はキリシタン時代のオランショ即ちパーテルノステル(主の祈り)アベマリア(聖女マリアの祈り)サルベレジナ(元后あわれみの母)を原文のまま大声で祈りました。まるで江戸の1600年代にもどったようでした。
次に大勢の観光客の間をぬって若宮大路を南へ歩き本覚寺に向かいました。この寺には転びキリシタンの墓がひっそりとありました。処刑場のあった六地蔵で一休み。途中住宅街の中カトリック由比ガ浜教会へ立ち寄り美しい道ゆきのステンドグラスの光の中再びオラショを唱えました。ここは森里さんの以前の所属教会でなつかしそうでした。
30分程歩き3時半頃小さな橋を渡って極楽寺の昔の金山集落に着きました。そばを江ノ電が走っているのですが、鬱蒼とした樹木に囲まれ深い谷を小川が流れています。キリシタンが潜伏するにはもってこいの環境のように思います。寂しいくらい静かな処です。迫害の時代どういう思いでここに信徒達が生活していたのでしょうか。私たちの今と比べると胸に迫るものがあります。ここで巡礼は終了です。
ここから15分お楽しみの稲村ガ崎温泉へ向かいました。鎌倉唯一の天然温泉だそうで国道に面しており純重曹泉で色は濃い茶色です。ここですっかり温まり元気を取り戻しました。地元の焼き豚を購入し、江ノ電に乗って打ち上げの地魚料理店に到着。舌つづみを打ちご機嫌となりました。鈴木神父をはじめ7人と合流して総勢15名の賑やかな晩餐会となりとなりました。「我らが日々御養ひを今日与え給へ」が実現した一日でした。188人の列福者の外にもこんな身近に人知れず殉教者や転び信徒、かくまった人々、密告者が居たという事実を知りキリストに従うとはどういうことかを深く深く考えさせられる一日でした。
次回は女性の参加者も募り和気藹藹といきたいのものです。世話役の岡田さん、高田さんに感謝。
典礼暦と祭服の色
典礼部
教会は、「待降節」に始まり「王であるキリスト」の祭日に終る一年を周期として、とくに福音の朗読によってキリストの生涯の神秘を記念しますが、その間のそれぞれの祭儀に用いられる祭服の色は、典礼暦に従ったその日の典礼の内容によって使い分けられます。ローマ・ミサ典礼書の総則345項には「祭服の色の多様性は、祝われる信仰の神秘の特徴や、典礼暦年の流れにおいて進展していくキリスト教生活の意味を、外面的にも効果的に表すことを目的としている」と書かれています。
祭服の色については聖書の中に記述がみられます(出エジプト記28章)が、典礼の色は直接その根拠を聖書にもっているわけではなく、歴史的に宗教祭儀のために様々な色が用いられ、理解されてきたもので、教会の典礼祭儀における色は12世紀頃から公に用いられはじめたといわれています。上記総則346項には「祭服の色に関しては、伝統的な使い方を守るものとする」とあり、白色、赤色、緑色、黒色、紫色とばら色の6色が挙げられています。それぞれの色が表す意味についての解釈は様々で、一概に示すことは困難ですので、ここでの記述は省くことにします。以下にそれぞれの色の祭服が用いられる主な時を挙げてみます。
白色 : 復活節と降誕節の"教会の祈り"とミサ、受難の日以外の主の祝祭日
赤色 : 受難の主日と聖金曜日、聖霊降臨の主日、主の受難の諸祝日
緑色 : 典礼暦の「季節」以外の「年間」の"教会の祈り"とミサ
紫色 : 待降節と四旬節
黒色 : 死者のためのミサで用いることができる
ばら色: 待降節第3主日(喜びの日曜日)および四旬節第4主日に用いることができる
祭服の色は、単に決められた色というだけではなく、その典礼を表現する一つの印として受け止める必要があると思います。その色を用いることによって、あるいはその色をとおして、参加者がその日の典礼では何を想起し、何を祈るべきかをどれだけ感じ取っているかが大切なのではないでしょうか。
鈴木神父の川柳(9)
今月号はA年その3です。
2008年
5/25
このパンに分かち合うこと教えられ
(キリストの聖体)「ヨハネ6・51-58」
(イエスは言われた「わたしは、天から降って来た生きたパンである」)
6/1
知ってるかいみ心知らない幸せを
(年間第9主日)「マタイ7・21-27」
(わたしの天の父の御心を行う者だけが[天の国に]入るのである)
6/8
憐れみがあるというほどあるじゃなし、ないというほどないじゃなし
(年間第10主日)「マタイ9・9-13」
(わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである)
6/15
初めてのお使いのときの可愛いさが
(年間第11主日)「マタイ9・36-10・8」
(イエスは十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた)
6/22
信仰をどこまで深めりゃそうなるの?
(年間第12主日)「マタイ10・26-33」
(人々を恐れてはならない…)
6/29
選ばれて知らんぷりするのは誰だ
(聖パウロ聖ペトロ使徒)「マタイ16・16-18」
(わたしはあなた[ペトロ]に天の国の鍵を授ける)
7/6
寿命だけ生きるとわりきる恵みなし
「愛し合え」軛(くびき)背負って幾歳ぞ
年間第14主日)「マタイ11・25-30」
(わたしの軛を負い、わたしに学びなさい)
7/13
伝えたきゃたとえ話でやめとけば
(年間第15主日)「マタイ13・1-23」
(イエスはたとえを用いて彼らに多くことを語られた)
7/20
良し悪しはゲタをはくまでわからない
(年間第16主日)「マタイ13・24-43」
(畑の毒麦のたとえを説明して下さい。..イエスはお答えになった)
7/27
美しき誤解を君は何とする
(年間第17主日)「マタイ13・44-52」
8/3
結局は心が動けば奇跡生む
(年間第18主日)「マタイ14・13-21」
(五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈を唱え...)
8/10
いばるなよ花火ていどの信仰で
(年間第19主日)「マタイ14・22-33」
(信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか)
8/17
何事も気づかぬうちに変わるもの
(年間第20主日)「マタイ15・21-28」
(小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです)
9/7
教会の仲間はどこかちょとちがう
(年間第23主日)「マタイ18・15-20」
(二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである)
(文責益満)