八 角 形 に ゅ ー す
2009年11月13日
聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会
目次
里杏ちゃんとの思い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・司祭 ティエン
宣教フォーラム・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・その他地区 古川
辻堂ブロック集会――ひとつになった思い・・・・・・・・・・・辻堂1区 山本
バザーのご報告とお礼・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・バザーチームリーダー 牧野
北1ブロック集会報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・善行 辻垣
ボーイスカウト入団上進式・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢16団 団委員長 清水
第42回横浜教区一粒会大会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一粒会 鈴木
横浜教区一粒会大会に参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢1区 渡辺
主日のみ言葉の分かち合い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宣教部
三浦神父様と聖書・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢1区 緒方
「からだ」に聴く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ユースの会(30歳代未婚者の分かち合い) 千古
秘跡について考える その1「秘跡」とは何か?・・・・・・横浜教区助祭 宮内
里杏ちゃんとの思い出
司祭 ティエン
さて、イエスが行って、ご覧になると、ラザロが墓に葬られてからすでに4日経っていた。ベタニアはエルサレムに近く、15スタデイオンほど離れたところにあった。マルタとマリアのところには、大勢のユダヤ人が兄弟のことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいて下さったら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いすることは何でも、神がかなえてくださると今でも私は知っております」。イエスは、「あなたの兄弟は復活する」と言われた。マルタは言った。「終わりの日の復活の時に、復活することは存じております」。イエスは仰せになった。「私は復活であり、命である。私を信じるものは、たとえ死んでも生きる。生きていて、私を信じるものはすべて、永遠に死ぬことはない。このことを信じるか」。マルタは答えた。「はい、主よ、あなたがこの世に来られるはずの神の子、メシアであると、私は信じております」。(ヨハネ11-17)
マルタはイエスの言葉を信じました。この時、マリアは信じているかどうか分かりません。私たちはイエスのこと、すなわち、「イエスは復活であり、命である」ことを信じているでしょうか。
8月5日の午後、御聖堂の中で、私は里杏ちゃんのご遺体と会い、里杏ちゃんがもう亡くなったことは信じられませんでした。寝ているかのようでした。幼い子供の死は、特に、本当に大きな悲しみでした。唇が祈りの言葉を唱えても、心は嘆き悲しんでいました。泣いていらっしゃる家族を見て、何も出来ませんでした。一体どのような神様が、愛する家族から子供を取り去ることを許されるでしょうか。神様は私たちのことを心にかけてくださっているのでしょうか。神様は私たちと共にいてくださっているのでしょうか。これらの質問に答えるのは簡単なことではありません。
「主よ、もしここにいて下さったら、私たちの兄弟は死ななかったでしょうに」。私もマルタとマリアのようにイエス様に叫びたかったです。「主よ、もしここにいて下さったら…」。肉体的には里杏ちゃんと会うことが出来ません。こう考えると、すごく悲しくなりました。しかし、霊的には、どうでしょうか。「私は復活であり、命である。私を信じるものは、例え、死んでも生きる。生きていて、私を信じるものはすべて、永遠に死ぬことはない」。私はこのことを信じているでしょうか。皆さんもこのことを信じているでしょうか。もしこのことを信じれば、私は今でも里杏ちゃんと会うことが出来ます。なぜなら、信仰によって、里杏ちゃんは生きているからです。このように考えると、私は平和になり、希望を持つ事ができます。
今月、特に亡くなった私たちの家族を思い出し、イエス様の言葉を信じることが出来るようにお互いに祈りましょう。
「はい、主よ、あなたがこの世に来られるはずの神の子、メシアであると、私は信じております」
「死は命につながるもの。これが永遠の命の意味。私たちの魂は神と共にあり、神を見、神を語らい、神を愛し続けるため、神のもとに行く」(マザーテレサ)
教会委員会報告(2009年10月24日)
日本人・外国人ともに生活困窮者が増えているが、事情は各人様々で一律に言うのは難しい。外国人についても在留資格のある人と無い人とでは対応が異なってくる。路上生活者に関してはシャワー、洗濯、ラーメンおにぎり支援が効を奏しているので引き続いて実行していく。実態を把握する必要があり且つ緊急度に応じて迅速な対応が望まれる。福祉部を中心に当教会内に核となる支援チームを作っていくことになった
共同宣教司牧に関する梅村司教の基本的考えをまとめたパンフレット「教区長の時間」が配布された。小教区の方向性、これから目指すことが書かれているので今後読み合わせをおこない、信徒への浸透を図る。新役員はじめ多くの人に読んでほしい。まず11月の教会委員会で話し合いの時間をもつ
第5地区7教会に呼びかけて、司教様とともに、第5地区の将来展望そして「祈る、伝える、証しする」について一緒に話し合う。第1希望日・11月14日、第2希望日・10月31日
女性17名、男性6名の申込
好天に恵まれ盛況裡に終了。収益は250万円程度と予測。11月28日(土)にアフターバザーコンサートを予定。チケットは10月25日より販売
今年9月教会委員会から議事録を作成し保存することになった
船員への毛糸帽子プレゼントを10年来教区ビンセンシオ会経由で行ってきたが、今年からは直接AOS向けとする
7.宮内助祭叙階準備委員会から
藤沢教会からカズラとストラをお祝いに贈呈したいので、1月の正式許可をまって、みなさまのお気持ちをいれていただく箱を用意する。予算は10万円程
建築確認がおりたので正式手続きにはいった。来年早々の着工を予定。目下2社の業者の推薦があるが、4業者程度を選んで見積もりを依頼する。現在までの申込は150人程度
(鵠沼B)10月18日のバザーを担当。皆様のご協力で成功。感謝
(藤沢B)11月29日クリスマス会を兼ねたブロック集会
(辻堂B)9月27日ブロック集会
(北1B)11月はミサ当番。10月25日和野神父様によるミサ勉強会を兼ねたブロック集会。40名ほど参加予定
(北2B)9月30日岩間神父様をたずねて富士教会訪問
(教育部)第5地区内教会学校に呼びかけ、希望する教会学校と一緒に夏期キャンプを計画中。若年層のリーダー不足が問題
(国際部)9月27日の国際ミサはみなさまのご協力でよいものとなり感謝。今後はそれぞれの国の歌を日本人含め、他の国の人も歌えるよう一緒に練習してはどうかという案がティエン神父様から出された。バザーは話し合いの段階から各コミュニティの代表も参加したのでスムースにでき、また今年は外国籍の若者の撤収作業までの熱心な手伝いがあった。今後の行事として11月15日(日)カラカサンパーティ、無料健康診断。11月29日(日)英語ミサのあと神奈川国際交流協会から相談員来所
(福祉部)11月8日(日)9時半ミサ後、センターホールにて介護フォーラム開催
12月13日(日)クリスマスミニバザーを予定
(宣教部)
10月4日(日)第4回宣教フォーラム開催。「誰のための宣教か」。40名参加。
鈴木神父様のプレゼンテーションの後グループに分かれて分かち合い。
10月12日(月)一粒会大会。第5地区から80名ほどの参加があった。子供は9名(藤沢から8名)。詳しくは後記参照
11月7日(土)14:00より中和田教会にて湘南キリスト教セミナー。講師はフランシスコ会中谷神父テーマは「イエスと出会うー山谷の寂しさと豊かさ」会費300円
*鈴木神父様より渡辺神父様はドミニコ会への入会が正式に決まったとご報告があった。したがって横浜教区司祭からは外れることになったとのこと
宣教フォーラム
その他地区 古川
2009年10月4日(日)のよき日、カトリック藤沢教会信徒会館において、第4回宣教フォーラムが開催されました。神父様、シスターをはじめ40名近くの信徒が集い、ホールは活気に満ちました。聖霊も来て、寿いでくださっているようでした。今回のテーマは「誰のための宣教か」でした。私たちは一人ひとりが「善いサマリア人」(ルカ10.25-37)として行動し、一人でも多くの人にキリストの救いに与って欲しいという思いで福音の宣教に励んでいるわけですが、そのことをもう一度振り返ってみるよい機会であったと思います。
最初にテーマに沿ってプレゼンテーションが行われ、鈴木神父様からお言葉をいただきました。そして、その後、5つのグループに分かれ「分かち合い」が行われました。一方的な説教(preach)形式ではなく、参加者に働く聖霊の声を聴き合うカタチで集いが進められたことは、大きな恵みであったと思います。各グループそれぞれにおいて、魅力的な体験の分かち合いがありました。福音の宣教に身を捧げる誓いをした喜びや身近な人にキリストの救いを伝えられた喜びの声が響き合いました。
私が参加した第5グループでは、今はもう帰天されたご主人に福音を伝えられた喜びのお話や、ご高齢のお母様への介護の日常の中でキリストの救いを伝えるお話が私の心に響きました。キリストの恵みがそこにありました。私はお話を伺いながら、福音のインカルチュレーションに思いを馳せました。無神論や形骸化した仏教に阻まれて、日本の福音化は道半ばですが、日本文化にカトリックが受容されて行くとは、いかなる現象となるのでしょうか。日々の愛と信仰の実践の積み重ね、それこそが鍵となると感じました。今、日本は年間自殺者が3万人を超えるという未曾有の状況です。人心は荒廃し、人々は飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれています(マタイ9.36)。また、この状況を利用し、人々を迷わす輩が澎湃と出現し、跋扈跳梁しています。今ほど、真に人々を救うことができるキリストの福音が求められているときはありません。それも大上段にキリストの正義を振りかざすのではなく、日々の愛の実践を通して。その姿が、ここ藤沢教会にはありました。これは聖霊の恵みなしには成しえないことです。
インカルチュレーションということで言えば、未だ、カトリックとは堅苦しく、敷居が高いと感じている大多数の日本人のために、その心に沁み込む信仰実践形式が考えられてもいいのではないかとも思いました。一例を挙げると、「神体験」を得て、キリストと人格的に交わることは信仰生活の中心でありますが、その手段としては主として黙想や観想が考えられると思います。しかし、現代日本人は時間がなく、また素養もありません。そうした状況の中では口祷(射祷)がもっと強調されてもよいのではないでしょうか。今でもロザリオの祈りが広く実践されているわけではありますが、さらに身近に実践できる祈り、例えば「イエスへの祈り」とよばれ東方教会の人が好んで口にする祈り、「イエス・キリスト、神の御子、主よ、罪びとであるわたしをあわれんでください」(『カトリック教会のカテキズム』435番参照)は、もっと用いられてもよいのではないかと思いました。日本人は念仏(浄土真宗等)や唱題(日蓮宗等)、真言(真言宗)という形で口祷(射祷)には馴染んでいます。口祷(射祷)は日本人に受容的であり、宣教における武器になるのではないかと感じます(射祷であれば、「主よ、憐れみ給え(kyrie eleison」、「聖霊来てください(Veni Sancte Spiritus」)。
最後に罪びとであるわたしたちは、「善いサマリア人」として行動しているつもりでも、そこに利己的な動機が入り込むことがあるので、それは常に自覚して、傲慢を避けなければならないとのお話に大きく同意して、私は分かち合いを終えたのでした。恵みの時間でした。福音書に「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18.20)とあります。今回の分かち合いにおいて、主キリストが現存してくださったことを深く感じます。この恵みをもっと多くの人に味わっていただきたいとの思いで、筆を置きます。
辻堂ブロック集会――ひとつになった思い
辻堂1区 山本
9月26日9時半のミサ後、辻堂ブロック集会が催されました。約40名の参加で、今回男性の参加者が多かったように思いました。遠藤さんの心からなる祈りによって始まり、和やかな司会で進められました。
先ずブロック長の宮崎さんより今年度の経過報告、次いで委員長のAEDについて現物を作動させての説明がありました。もしもの時は事務所入ってすぐ左側に置かれているので,講習を受けた人にお願いするようにとの事でした。鈴木神父様がご出席下さり、予め係から出された質問―神父になられた動機は?神父になられて良かったナと思う点。又大変だと思う点は?―という問いにお答えになるという形で話されました。お父様の奨めで経済学を修めたが、どうも自分が競争社会に向いていないように思われ、興味のあった神学校で改めて学んだ。現在世の中や人間を枠にとらわれず広い角度から見る事が出来るし、自由な生き方や考え方が持てる。またある程度のゆとりの時を得ているとの事。それは充実した日々を過ごされておられると受け取りました。神父様のお考えの広さ、豊かさ、型にはまらぬ導き方、肩ひじ張らない自然体の生き方、ちょっぴりロマンチックな面等、人生観の一端を垣間見る思いでした。神父様との距離がグッと近づいたように思います。
用意されたサンドイッチ、スープでランチとなり、デザートは桜井さんの手作りの素敵なケーキの数々に歓声が上がり、皆ニコニコ顔となりました。相原さんからハンディキャップを持つ子供達の絵画教室で、こころ癒されているとの話、いくつかの絵を展示して下さいました。子供たちが描き始めるまで辛抱強く待つ―という言葉が印象に残っています。益満さんからは合葬の園の件、いよいよ動き出しつつあると説明。5年ぶりに帰られた森田さんは、この教会の皆様が生き生きと活動されているのを再認識したとご挨拶。最近転入された藤本さんの自己紹介と続きました。
さてお待ちかね出来たてホヤホヤのアンサンブル「プリエ」生田、牧野、森田各氏に特別出演の土田さん(鵠沼)を加えた弦楽器四重奏で、ラルゴ他3曲の心なごむ演奏となりました。こんな直近に生で四重奏が聴けるなんて貴族になったような至福のひとときでした。最後にいつ迄も若々しい浮田久子さんが、朝の国際ミサに引き続いてひとつになった思いと心こめたお祈りで結ばれ、感謝のうちに散会しました。
バザーのご報告とお礼
バザーチームリーダー 牧野
10月18日(日)に開催されました今年の藤沢教会バザーは、好天に恵まれ、盛況の内に終了することができました。準備を含めてご支援・ご協力いただきました皆様にこの紙面をお借りして厚く感謝申し上げます。
今年は長引く不況、お手伝いの方々の高齢化、新型インフルエンザの脅威と、大変厳しい環境下でしたが、開催を決めてからは、選んだモットー「みんなで楽しく」に沿ってなるべく無理をせず身の丈での準備に心懸けました。頼りないリーダーの下、スロースタートではありましたが、8回の準備委員会で徐々に企画を詰めていき、皆様にかなりご負担をかけながら最後の追い込みを行いました。本当に「みんなで楽しく」になっていたかとやや反省していますが、これまで長年にわたり積み重ねられたバザー準備のノウハウはしっかりと生きており、教会全体が自律的に動いていくのを見られたことは本当に素晴らしいことでした。
まだ最終集計は出ておりませんが、概算収益は220万円を超える予想で例年のレベルまでは達しませんでしたが、諸般の事情を考慮しますと大きな成果といえるでしょう。なお、今回新たな企画として11月28日(土)に開催するアフターバザーコンサートの収益もバザー会計に合算されますので、引き続きご協力よろしくお願い申し上げます。
今年のバザー収益は、教会建物修繕と福祉関連に活用させていただきますが、バザーに関与された皆様の絆の深まりも大きな収穫であったと存じます。継続は力なりと申しますが、今回のバザーで確認できた司祭団・信徒の皆様の豊かな交わりの絆を来年のバザーにつなげていけるよう祈りつつ、ご報告とお礼の言葉といたします。 神に感謝。
北1ブロック集会報告
善行 辻垣
10月25日北1ブロック集会がセンターホールで和野信彦神父をお迎えして開かれました。30分間11月18日と25日担当ミサの奉仕分担を決め11時30分から典礼暦年の仕組と歴史的成り立ちを図に依って解り易く解説して頂きました。
(1) 主日のミサの福音朗読配分はA年マタイ、B年マルコ、C年ルカの共観福音書の3年周期で構成され、ヨハネ福音書が毎年挿入される
(2)教会での元旦は待降節第一の主日である
(3) 復活の主日が典礼暦の最大の主日でありクライマックスである。復活祭は「3月21日以降の最初の満月の以後の最初の日曜日」で太陽暦と月の運行に依存する陰暦を併せて決められるとの事。東洋の思想を合わせもった興味ある暦です
(4)灰の水曜日から始まる復活祭と四旬節、聖週間の意義
(5) 祭服の色は年間緑、紫、白、赤の4色で決まっている
等々、カトリックの信仰篤き家族で育ち、まさに教会暦のリズムで育まれた神父のレクチャーは説得力のあるものでした。集会は続き楽しい食事となりました。50人程の参加者は秋満載の何と松茸も入った松茸ご飯、とろけるようなポテサラと吸い物を頂きました。準備して下さった方々に感謝申し上げます。
久し振りにお会いして会話ははずみましたが、新しく転入された方の紹介、担当ミサを通じての分かち合いなど出来たらもっと良かったと思いますが、とても2時間程では無理なこと。信仰生活は日頃の家庭での祈りが大事ですが、それを支える地区の活性化、コミュニケーションがあってこそと思います。社会は政権が変わりCHANGEしつつありますが教会もキリストのもと宣教共同体として少しでもCHANGEする事が求められているのでは無いでしょうか。この2年間ブロックを引っ張って下さった八木京子さん、各連絡委員の皆様ご苦労様でした。新しい浅野士良ブロック委員、各連絡委員の皆様と共に来期も神のもとでの一致ができますように。
ボーイスカウト入団上進式
藤沢16団 団委員長 清水
10月11日9時半ミサで行われましたボーイスカウト入団上進式の際は、スカウトたちへのお祈りをいただきまして大変ありがとうございました。
自立心のある大人へと成長して行く大事な過程である青少年時代を、今の子供達は本当に有意義に体験しているのでしょうか?子供達が主体的となって、年齢層の異なる仲間や大人と共に活動することによって培われるコミュニケーション能力やそれに伴うルール、けじめなどが子供達の中から自発的に作られていくという経験を、今の子供達の中でどれほど経験出来ているでしょうか?
ボーイスカウトの活動、とりわけ、私共カトリックスカウトの活動は様々なプログラムを通して子供達の自発性を誘発し、神様との出会いを求め、自然を通して、自然の中での体験をビーバー隊、カブ隊、ボーイ隊、ベンチャー隊、ローバー隊へと年代に相応したプログラムで活動を進めています。
今年も新しいカトリックスカウトが誕生し、また、上級隊へ上進して新しい体験の場で、神様へのつとめ、他人へのつとめ、そして自分自身へのつとめを果たしていくことを誓いました。この子供達が神様へのつとめを果たすことのできる自立心のある大人へと成長していくことができますよう皆で見守って行きたいと存じます。今後ともよろしくお導き下さいますよう、お願い申し上げます。
ぼくは、ビーバースカウトから、カブスカウトになりました。教会でちかいをしたとき、きんちょうしました。制服がかっこよくなるから、カブスカウトになりたいと思いました。カブスカウトになるとキャンプがふえるから楽しみです。そして、チャレンジしょうがあるので、たすきにいっぱいつけるようにがんばります。
じょうしんしきは、すごくたのしかったです。いつも日曜日になるのをまっています。チャレンジしょうには、じしんがあります。だけど、むずかしいので、どうかわかりません。カブになると、いきなりむずかしくなるので、ちょっとふあんです。でも、カブに上がれたことでも、すごくうれしかったです。いっしょうけんめいします。
ぼくは、ボーイ隊の上進式に出席しました。お聖堂に入る前はぜんぜん緊張しなかったけど、お祈りをする頃からはすごく緊張しました。岡田さんが「やまうち ふうが」とよんだ時、僕の緊張はピークでした。その後、ちかいを言うとき少しつっかかったけど柴田隊長のおかげでうまくいきました。前の夜練習したときは、完璧だと思ったけど、朝も練習しておけばよかったなぁと思いました。ミサに出ている大勢の人の前で緊張したけど自分の中では、まぁまぁうまくいったと思いました。
第42回横浜教区一粒会大会
一粒会 鈴木
10月12日、第42回横浜教区一粒会大会が開催されました。神奈川第5地区の7つの教会から70名以上の方の参加があり、第5地区一粒会では貸切バスを2台用意し、会場の静岡県裾野市にある不二聖心女子学院へ向かいました。和野神父様、小林神父様、宮内助祭が御一緒して下さいました。
「私自身の召命とは何か」のテーマで、午前中は、大人向には講堂でシンポジウムが行なわれ、子供向には、色々な立場・職業の方のお話を部屋に分かれて聞いた後、それぞれのお祈りを手の形のカードに書いたりするなどのプログラムが行われました。午後は、耐震工事が済み広くなった聖堂で、梅村司教様主司式でミサが捧げられました。30名以上の司祭団と800名を越える参加者が召出しのために祈りを捧げました。ミサでは、子供たちの祈りとアフリカのベナンの聖歌と踊りが奉納されました。太鼓がリズムを刻むベナンの聖歌はとても心に沁みるものでした。
ミサの説教の最後に梅村司教様は次の様に結ばれました。「私たちは誰しも神様から必要とされて命を与えられている。私たちは教会だけでなく、あらゆる機会、あらゆる方法で様々な働きに召されている。一人ひとりがそれを考えていかなければならないし、応えていかねばならない。真の意味で、大きな意味での召命を考え、若い人たちに伝えていかねばならない」―召出しは単なる個人のものではないこと、だからこそ皆がともに召出しの為に祈ることが必要なのだということを改めて思った大会でした。
横浜教区一粒会大会に参加して
藤沢1区 渡辺
体育の日にふさわしい秋晴れの中、今年の横浜教区一粒会大会が開催されました。例年と同じく20分程の全体会の後は、大人と子どものプログラムに分かれました。
私の参加した大人プログラムでは、「召命とは何か」…私の召命…というテーマで5人の講師によるシンポジウムが行なわれました。講師は、進行役の聖パウロ修道会の澤田神父様、そして清泉小学校のSr.堂平、神山復生病院看護師の井坂さん、富士教会信徒でブラジル出身の横山さん、宮内助祭です。例年と違い、講師の方の職業や立場が様々でした。これは、今大会のテーマが「私自身の召命とは何か」で、司祭・修道者に限らず、私達一人一人が自分自身に与えられた召命について考えるためです。
講師の方々のお話を伺っていると、人生の中で、人や出来事との出会いをとおして、そこに神様の導きがあったということでした。ある方は、抵抗しきれない神さまの力によって、よく知らないままに修道会に入ったとおっしゃいました。またある方は、人生の分岐点での様々な人との出会いによってここまできたということでした。修道者となっても、召命は今も確証のあるものではないと話されました。神様の呼びかけはその時は気付かなくても、あまり考えずに踏み出してもよいのではないか…続けていくうちにわかってくる、そんな中で、人々の祈りに支えられていると感じている…。講師の方々がこれまでの体験をもとに話をして下さいました。神の声に耳を傾け、それに応える勇気を一人ひとりが育んでいく…そこに召命は生まれ、その延長線上に司祭や修道者への召命があるということでした。
午後は、リニューアルされた素敵な聖堂で、梅村司教様と司祭団による司式で、参加者全員でミサを捧げました。その中で、アフリカ・ベナンの音楽の奉納が、静岡東部教会学校の子ども達によって行なわれました。太鼓などの打楽器に合わせ、主にお捧げする心を体の動きで表し、踊りながら奉納を行なってくれました。聖堂に集まった私達は、その子ども達の踊りと生の演奏により、一つにまとまってミサを捧げることができたように思います。神様のお恵みに満たされたこの日、静岡東部地区の皆様の献身的なご準備により、感動に包まれた一日となって、大会は無事終了いたしました。
私は、しずおかの学校の一りゅう会大会へ行きました。バスで行きました。プログラムの内容を聞いて、神父様の話を聞きました。話を聞いていると中、私は人生はきびしいなと思いました。次に、楽器を作りました。材料はすず3こと太いたこ糸と細いたこ糸とぬの一まいでした。ぬのには、あなが空いていました。ぬののあなにすず3こを太いたこ糸で通してはじのあなに細いたこ糸を2本通してむすべばできあがりでした。と中、すずを通す所で最後の一このすずが通りませんでした。そこで、神父様に手つだってもらいました。最後にミサに出てバスで帰りました。バスには4時間のりました。とても楽しかったです。
すそ野の不二聖心で、一粒会大会がありました。教会からバスで行きました。着いたらお茶畑が、いっぱいありました。ぼくは子どもプログラムでした。まずおみどうに入ってせきにすわって話をきいたり、歌のれんしゅうをちょっとだけやりました。それから、何十人かでわかれて話をききました。お天気がよかったのでお外でお弁当を食べました。最後にごミサにあずかりました。神父様がいっぱいのごミサははくりょくがありました。楽しかったので、また行きたいです。
ぼくは、10月12日の一粒会大会で静岡の女学校に行きました。ぼくは行って、子どもプログラムに別れた時、知らない人ばかりで「いやだなぁ〜」と思いました。ぼくのグループでは、トゥー助祭の『自分の召命について』を聞きました。ぼくは話を聞いていろいろなことを考えました。話が終わったら、お祈りの手カードとすずの楽器を作りました。作っていたら最初のいやだと思っていた、モヤモヤがなくなりました。作ったらお弁当を食べて、ミサをしました。ミサで神父様の説教の時、寝てしまいました。ミサの後、バスに乗って帰る時、渋滞で4時間半くらいかかりました。とてもいい経験になりました。
私が、一粒会大会に行って印象にのこったことは、谷脇神父様のお話「召命とは人生そのもの」の中の『召命』のことについてです。私は、谷脇神父様のお話を聞いて『召命』は神様が私達一人一人にやってほしいことだと思いました。たとえ自分がどんなにいやなことをやらないちいけないとき、それは神様が望んでいること。それが私は『召命』だと思いました。私はこれから楽しいことうれしいこと悲しいことたくさんあると思います。でもそれは神様がいっしょにいてくださっているからこそ感じられることだと思います。普段の生活、この感想文を書いているのも『召命』だと思います。これからの人生を神様といっしょに楽しいときも悲しいときもいっしょにすごしていきたいです。
今回初めて一粒会大会に参加しました。私が一番心に残ったのはグループに分かれて神父様やシスターの話を聞くプログラムで、私は元パイロットの方に「パイロットの召命」の話を聞き、自分の召命について考えました。また、今回の一粒会は会場が静岡で貸し切りバスだったのでたくさんお喋りしたりたくさん寝れたのが嬉しかったです。
主日のみ言葉の分かち合い
宣教部
宣教部主催で毎月第3日曜日9時半ミサ後の「み言葉の分かち合い」が行われています。当初はなかな定着せず行われない月もありましたが、最近は毎月行われています。参加者が少なくても分かち合うことが大切と細々と続けてきた結果、7、8人が輪を囲むようになりました。ミサの福音と説教で心に響いたことを日常生活の出来事と合わせて分かち合っているので、神様から参加者それぞれへのホットなメッセージを聴き合うようになっています。
「家族の中で一人だけ信者なので、心にとまったことや感じたことがあっても家に帰って分かち合うのが難しい。ミサ後に分かち合うことで、福音がさらに豊かになっていくのを感じた」との感想も寄せられています。せっかくミサにあずかっても、日常生活とのつながりがなければ、その場限りの気晴らしや個人的な信心業で終わる恐れもあります。ミサ後の分かち合いによって、ミサでいただいた恵みが何倍にもなり、その余韻が日常生活の中でも持続するように感じるのは不思議です。
まだまだ小さな輪ですが、様々の年代の方、外国人の方などに広がればいいなと思っています。日曜9時半ミサ後はそれぞれ活動があるでしょうが、活動前の15分間、分かち合いをしませんか。お待ちしております。
三浦神父様と聖書
藤沢1区 緒方
ちょうど聖書のヨハネによる福音書を、聖母訪問会のグループで購読したいと話し合っている時、三浦神父さまのヨハネ入門講座のお知らせを聞き喜んで皆で申し込みました。
4年の予定がもう3年を迎えヨハネ編は終わって使徒行録を経、ペトロの第2の手紙に入っております。そのお話は聖書を通して神の恵みはどんな人にも与えられ、謙遜する心によって信仰が得られることを信念を持って話され、大変分かり易く心に響いてまいります。三浦神父さまは、はじめは栄光学園内の司祭室におられ、近くに住んでいる私は時折お会いすることがありました。他の神父さまとお近づきになったことはなかったので、声をかけられた日はほのかなときめきと静かな安らぎを感じました。昨年から鎌倉の十二所の方へ移られましたが、204号室で続けて話を聞くことができ、不安な心を癒されております。
去る7月22日、46年ぶりに皆既日食が起こりました。あいにく曇り空のため肉眼で見ることはできませんでしたが、テレビの映像で金色に輝くコロナに包まれた黒い太陽にしばし見とれました。月が400倍大きな太陽と重なる瞬間は宇宙の奇蹟でした。「神様のなさることは完璧です」といつも言われる神父さまのお言葉が聴こえてきて、その神秘の中で神の栄光を感じました。科学の進歩により計算されて一日一分の狂いもなく言い当てる人の力にも感激いたしましたが、その人智をも包み込む自然の営みは神の創り給うこととして自ずと頭が下がります。
三浦神父さまは喜寿を超えられた高齢にもかかわらず、病気で休まれたことは一日もありません。糖尿病で高い数値(364)が出ても薬に頼ることもなく、規則正しい低カロリーの食事と食後30分歩くという渡辺昌先生の提案を守り、1カ月余りで113に下げて克服され、野菜作りにも励んでおられます。私は加齢とともに体のあちらこちらに故障ができてしばらくお休みしたりいたしましたが、八木さんをはじめ皆様の温かい笑顔にお会いしたくて出席しますと、いつも変わらない席を空けて迎えてくださいます。この会との出会いによって多くの恵みをいただいております。どうぞ神父さまいつまでもお元気に204号室にお越し下さるよう心からお祈りいたします。
「からだ」に聴く
ユースの会(30歳代未婚者の分かち合い)千古
キリスト者として私たちは、日々の生活の中で、常に神様のみ旨に従って歩んでいくことが求められています。しかし実際は、それを忘れてしまったり、時に無視して、せっかくの「いのち」の道を見失うことが多いのです。そして何か問題にぶちあたった時とか、人生の岐路に立たされた時に、ふと「迷子」になった自分に気づくのです。そんな時、私たちは「すくいのみち」に立ち返ろうと、祈ったり聖書を読んだり、教会に行ったりして、神様からの「道しるべ」を求めます。確かにそれによっても神様は道を示されます。しかしさらに、近年もう一つ有効な方法として、自分の「からだ」に聴くこと(フォーカシング)が注目を浴びつつあり、藤沢教会の一部でもそれを学び活かす試みがすでに始まっています。そして、ユースの会でも今夏より少しずつフォーカシングについての学びを始めようとしています。
からだに聴くとは何でしょう・・・不快なことを思うと「はらわたが煮えくり返る」、恋しい人を想うと「胸がドキドキする」、難しい問題を思い出すと「頭が痛い」など、からだはその時の思いに応じて様々な形でメッセージを送り続けているのです。そのメッセージをもっと意識的に、心を静めて敏感に感じ取っていこうというもの。そうすると、現在の自分の正確な立ち位置や心身の状態を客観的に理解し、さらにそこから解決の糸口が見出せるというのです。本当でしょうか?私たちのからだは、聖書の中で「肉の体」という表現でとかく良い意味で使用されていません。それは、私たちの罪の結果であり、罪に支配された「肉の体」が本当に弱いからです。しかし本来私たちのからだは、神様がご自分をかたどって塵から創られたものだと創世記は記しています。いわば本来私たちのからだは、からだも含めて神様の似姿なのです。ですから、心静かにからだのメッセージに耳を傾ける時、罪に対する弱さのために普段隠され、感じることができない、からだを通しての神秘的な語りかけ(もしくは助言)を感じることができるのではないかと、私は理解しています。
フォーカシングはキリスト教だけのものではなく、心理療法のツールです。私自身始めて間もないので、理解が合っているか、的を外れているのかは、解りませんがこれから少しずつユースの仲間と共に理解を深め会い、それぞれの神様のお導きに皆がこたえて行ければ良いなぁと思っています。そして、さらに30代未婚の方でフォーカシングに興味のある方はユースの会のメンバーまでご連絡下さい。
小グループ活動紹介
奥村一郎選集読書会
受洗して、このクリスマスで5年になります。紆余曲折を経た遅い受洗でありましたが、絶えずこれでよいのかと自問する日々を送ってきております。そんな時に、毎月第4土曜日10:30に開かれる表題の集会に参加してみました。奥村一郎選集(9巻)を読みながら、読後の感想や疑問を述べ合い、魚津(辻堂2区)・浅野(善行)両氏のリードで、とても有意義な時を得ております。中々難解なところもありますが、仏教とキリスト教の比較解釈や事例が豊富に盛られており、目から鱗が取れるような箇所に接したときの喜びは、例えようがなく、夢中になっております。
奥村神父の学生時代は仏教に傾倒し、カトリックを荒唐無稽な邪教として捉え、その化けの皮を剥がす心意気で聖書に没頭し、結果的に悩みの種を増幅する結果となっております。師事してきた三島・龍澤寺の中川老師を尋ねたところ、キリスト教を頭で分ってきたようだが、受洗して体で覚える事だと喝破され、この選集が始っております。禅僧として、宗教の絶壁を越えた心広い中川老師が、純真な若者を禅導する人間味の深さと大きな度量に感動を覚えました。私自身、この9巻を読みこなす事は死ぬまで出来ない難題であると心得ていますが、何度も読み返して、行間に滲み出てくる珠玉を、心の糧としてみたい意欲が旺盛となっております。 (藤沢1区 李)
★11月は死者の月といわれていますが?
☆教会は11月2日を「死者の日」とし、亡くなったすべてのキリスト者を記念します。
キリスト者の間では2世紀頃から死者のための祈りを唱える習慣が生まれ、次第にミサが伴うようになりました。亡くなったすべてのキリスト者を1年の特定の日に記念することは、7世紀初めにスペイン南部のセビリヤの司教インドルスが、聖霊降臨の祝日の翌日に死者を記念するミサを行なうように指示したことに始まるとされています。さらに、諸聖人の祭日(11月1日)の翌日にすべての死者を記念する習慣は、998年にフランス・ブルゴーニュ地方のクリュニー修道院(ベネディクト会系) オディロン院長によって始められ、その修道院の修道士たちの影響によって11世紀には広く行なわれるようになりました。ローマ教会では1311年の暦に初めて記されていますが、それ以前から死者の日の記念日が行われていたと思われます。この記念日は西欧諸国に広まり、15世紀には、スペインのドミニコ修道会で盛んに行なわれ、司祭がこの日に3回のミサをささげるようになったのもこの頃だといわれています。現在はこのような規定はありません。
11月が「死者の月」として定着してきたのがいつからなのか定かではありませんが、死者への思いがミサをはじめとする様々な祈りの形で表され、それが広がりを見せ、伝統・習慣となって次第に死者の月になったと考えられます。(中央協議会「ひとくちメモ」より)
ちなみに司祭が黒い祭服を着用してのいわゆる「死者のためのミサ」は第二バチカン公会議の典礼刷新により行われなくなりました。そのいきさつについては長くなりますので別の機会に解説していただきましょう。
今年もがりらやに2010年のカレンダーが多数入荷しております。お早めにお越しください。 ドン・ボスコ社 聖母の騎士社 エンデルレ書房 天使印刷所 師イエズス修道女会 女子パウロ会 日本カトリックボランティア連絡協議会 |
秘跡について考える −その1「秘跡」とは何か?
横浜教区助祭 宮内
これから一年間にわたって、秘跡について考えていきます。初めに、教会の七つの秘跡を確認しておきましょう。洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、結婚がそれにあたります。
さて、今回のテーマは、「『秘跡』とは何か?」です。みなさんは、「秘跡」という言葉を聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。きっと「洗礼の秘跡」とか「聖体の秘跡」といった、個々の秘跡のことだと思います。また、わたしたちが秘跡について誰かに聞かれたときには、個々の秘跡についての説明の方がしやすいのではないでしょうか。つまり「洗礼の秘跡はこういうもので、聖体の秘跡はこういうもの」というような話の方が、秘跡一般について説明するよりも、しやすいのではないかと思います。しかし、第1回目の今回取り扱いたいのは、そのような個々の秘跡についての教えではなく、それらの秘跡に共通の要素、あるいは「秘跡」という言葉の意味です。これらを知っておくことで、個々の秘跡についての理解も深まるのではないかと思います。
実は「秘跡」という言葉は、教会の長い歴史の中で、いつも同じように理解されていたわけではありません。現在のカトリック教会は、秘跡が七つであると教えていますが、「秘跡は七つである」ということが公式に言われるようになったのは、13世紀以降のことです。また、現代に至るまでの秘跡についての基本的な理解が、カトリック教会の中で固まったのは16世紀のことです。そして20世紀には、秘跡についての新しい視点が生まれてきました。
今回は、規範的な定義の一つを提示して、それについて少し考えることにします。その定義とは、「秘跡とは、キリストによって制定された、恵みを効果的に与える外的しるしである」というものです。この定義は、三つの部分に分けて考えることが出来ます。一つは「キリストによって制定された」、二つ目が「恵みを効果的に与える」、そして三つ目が「外的しるしである」という部分です。これらの三つは、すべての秘跡に共通する要素でもあります。まず「キリストによって制定された」というのは、諸秘跡が教会によって制定されたものではなく、主イエス・キリストご自身に起源を持つものである、ということを意味しています。また「恵みを効果的に与える」とは、諸秘跡の執行によって神からの恵みが実際にもたらされる、ということです。なぜ効果的に恵みが与えられるかというと、聖霊を通して主イエス・キリストご自身が秘跡の中ではたらかれているからです。ですから秘跡は、基本的にはそれが正しく行われるならば、そのことだけで恵みをもたらすものなのです。最後の「外的しるしである」というのは、秘跡が目に見えない神の恵みを、目に見える形で表している、ということです。
次回は、これらの点について、秘跡についての新しい視点も踏まえてもう少し考えてみたいと思います。