八 角 形 に ゅ ー す
2010年6月15日
聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会
目次
「互いに愛し合いなさい」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・司祭 宮内
叙階式に参列して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・教会委員長 牧野
叙階準備委員会より・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・準備委員長 曽根
鵠沼ブロック集会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼1区 八子
藤沢ブロック歓迎会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢3区 若林
北1黙想会「召命−神の招きを聴いて」・・・・・・善行 辻垣
合葬の園から(3)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・建設委員会 辻垣
今年のバザーについて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢ブロック バザー企画委員会
「互いに愛し合いなさい」
司祭 宮内
互いに愛し合いなさい。何度読んでも、何度耳にしても本当に素晴らしい、美しい言葉だと思います。キリスト教は愛の宗教であるとよく言われますが、まさにその神髄が今日読まれた聖書の箇所には書かれていたのではないかと思います。私たちにとっても非常になじみ深い聖書の言葉であると思います。
さて、この互いに愛し合いなさいという掟は、「新しい掟」であるとイエスさまはおっしゃっています。「新しい」というのは、いったい何を意味しているのでしょうか。もちろん、旧約の掟に代わる、あるいはそれを完成するという意味での「新しい掟」であるということが出来るでしょう。しかしこの掟が与えられてから2000年を経た今の時代を生きている私たちにとっても、やはりこれは「新しい掟」です。「新しい」というのは決して時間的なことだけではなく、もっと深い意味をここでは表わしているのではないでしょうか。
ここで、私たちが新しい何かと出会う時、どういう気持ちになるか考えてみましょう。ある場合は驚き、またある場合には喜びの気持ちが湧いてきます。場合によっては、拒絶反応が起こることもあるかもしれません。このように、「新しい」という言葉の中には固定化されない、安定しきっていない、生き生きとした何かというようなニュアンスが含まれているのではないでしょうか。
互いに愛し合いなさい。本当に一言ですらっと言えてしまう簡単な短い言葉ですけれども、その中には私たちを常に揺さぶり続ける「新しい」メッセージが含まれているのです。
聖書の他の個所でイエスさまは、新しいぶどう酒は新しい革袋にいれるものだ、とおっしゃっています。イエス様の愛の掟を私たちが本当に深く理解し、またそれを実践していくためには、やはりわたしたちが日々心を新たにしていかなければならないのでしょう。つまり、「互いに愛し合いなさい」という言葉をよく味わい、本当に自分のものにしていくことが求められているのではないでしょうか。
そして、もう一つ忘れてはいけないことがあります。「互いに愛し合いなさい」という言葉の前には、「私があなたがたを愛したように」と書かれています。愛というのは私たちから出るものではなくて、神様から出るものです。神様が私たちを愛してくださったこと、そのことが私たちに愛する力を与えてくれるのです。愛するという行為はもちろん私たちの主体的な行動かもしれませんが、それは神様からまずいただいた愛を、他の人に分かち合っていくことなのです。だからこそ私たちは、神様が私たちを愛してくださっている、という真実をよく味わって深めていくことが求められているのです。神様の愛を受け取っていくことと、互いに愛し合うことこれは別々のことではなくて、一つのことなのです。
(5月2日初ミサ説教より)
宮内神父司祭叙階おめでとうございます |
神からの賜物であり恵みである司祭職
梅村司教の説教
今日の司祭叙階式は横浜教区司祭の叙階式としては私にとって8人目となります。市岡神父様から始まって一昨年谷脇神父様まで7名、そして今日新たに8人目の教区司祭の誕生を迎えました。横浜教区にとって大きな喜びであります。私自身にとっても大きな喜びでありますが、それ以上にこのお恵みに本当に感謝をもって応えていくことができればと新たな思いでおります。
叙階式のたびごとに司祭の人格、司祭の人間性に係わる事柄に触れながら説教してまいりました。それには一つ理由があります。神学校での司祭養成は教皇ヨハネ・パウロ二世の使徒的勧告「現代の司祭養成」に従って4つの次元に及んでいます。人間的養成、霊的養成、知的養成、そして司牧的養成であります。しかし同じ使徒的勧告のなかで次のような重要な指摘がなされています。「適切な人間的養成がなければ全ての司祭養成はその必要な基礎を欠くことになるでしょう」という指摘であります。
今年はベネディクト十六世教皇の発意により聖ヨハネ・マリア・ビアンネの没後150年を記念して「司祭年」とされています。司祭年にあたって司祭にあてられた教皇の手紙のなかで次のように言われています。「親愛なる司祭職にある兄弟の皆さん、聖ヨハネ・マリア・ビアンネの司牧方法を学ぶ恵みを主イエズスに願おうではありませんか。まず私たちが学ばなければならないのは、自分の職務と完全に一致することです。イエスにおいて人格と使命は一致していました。」そう言われています。なぜそのようなことを教皇はおっしゃるのか、その理由が手紙の後半で明らかにされています。「現代世界においても、司祭の生活と活動は『福音の力強いあかし』を特徴とするものでなければなりません。パウロ六世がいみじくも述べたとおり、私たちの時代の人間は教師であるよりもあかしする人に喜んで耳を傾けます。」
一昨日の司祭の月集の時、司祭叙階60周年、ダイヤモンド祝を迎えられたカンペンハウド神父さんが私たちのために説教してくださいました。その中で、次のようにおっしゃっておられました。「若い時恐ろしい職業があると聞かされた。それは教師だ。でももっと恐ろしい職業があることに気づかされた。それは司祭だ。」60年司祭を務められた方の言葉であります。私も神学校に入るときに、その時未信者でありました父から言われました。「教師は電話の受け答えもままならないのに、大学を卒業して学校に赴任すると途端に皆から先生、先生といわれる。司祭も同じではないか。司祭も同じように神学校を卒業して教会に赴任したと同時に神父さま、神父さまといわれるだろう。でも気をつけなさい。」そう苦言を呈されました。カンペンハウド神父さんも同様な思いをもってのことかもしれませんけれども「司祭は本当のところが真実が見えにくくなってしまうのだ」と、そのようにおっしゃっておられました。この言葉は私にとっても忘れられない言葉であります。今日の叙階式を迎えて宮内神学生はようやく司祭にという思いでいると思いますけれども、一生かけて司祭になっていくものだと思います。その司祭職の第一歩をこれから踏み出そうとしているということを心にとめていただければと思います。一生かけて師であるキリストが望む、神様が望む司祭になっていっていただきたいとそう願ってやみません。
さて司祭はキリストの受肉の神秘と過越しの神秘を自ら生きる者として選ばれています。なぜなら神の御ひとり子は人となられ、ご自分を献げることによって大祭司となられたからであります。真の人間となられることによって真の大祭司となられた。ヘブライ人の手紙では次のように語られています。「人は血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。イエスは神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって民の罪を償うためにすべての点において兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」真にキリストの司祭になるためにはキリストのようにまず真の人間性を身につければならないということであります。ヨハネ・パウロ二世教皇が使徒的勧告「現代の司祭養成」のなかで、先程述べましたように適切な人間的養成がなければ全ての司祭養成はその必要性を欠くことになるでしょうといっておられるその意味が、ここをもってして皆さんにもなんとなく見えてくるのではないかと思います。キリストにおいて示された真の人間性とは三位の神の愛の交わりに倣うことであります。自分の全てを謙遜をもってしかも無償で相手に明け渡すことのできる人、それと同時に相手のすべてを忍耐と寛容をもってしかも無条件に受け入れることのできる人ということです。「われわれ」という関係を容易につくりだすことができる人が求められています。奉仕者である司祭はまさに交わりの人となることができるかどうかということが問われています。
そのためにはさらに次の点に注目すべきであります。それはご自分を献げることによって大祭司となられたという点であります。キリストに倣って人びとのために自分を献げることが必要なのです。先程ふれた司祭年にあたっての教皇書簡のなかで次のようにいわれています。「ビアンネはミサをささげるとき、いつも自分の生活をささげました。『ああ、司祭が毎朝神に自分を生贄としてささげるのはなんと素晴らしいことでしょう。』」ビアンネ自身の言葉が引用されています。この自分のすべてを献げることによってという点において、神学校で特にさまざまな養成を受けてきたと思います。朝早く起きて祈りをし、ミサに与かり、そして食事の片付けをし、掃除をし、そして授業に臨むその一日一日がこれからの司祭としての日々の生活と無縁ではないということを心していただければと思います。
司祭は神と人とをつなぐ人ともいわれます。司祭は人々の兄弟としてたてられていますが、また同時に神の人でもあることを忘れてはなりません。ヘブライ人への手紙は確かにキリストが真に人々の兄弟となられたことを語っていますが、また同時に真に神の子であるということについても語っています。キリストのうちに神をして神ならしめているものを見ることができるということが示されています。これをもって神と人とをつなぐ大祭司として、キリストご自身が、神の側に立つものであるというひとつの条件を完全に満たしているということがあらわされています。大祭司は全て人間のなかから選ばれ罪のための供え物や生贄を献げるよう人々のために神に仕える職に任命されています。みじめな人間に同情できる祭司であっても神によって受け入れられていなければ人間を救うことができない、そのような祭司の同情には実りがない。またそれとは反対に神の前で信頼のある祭司であっても人々との連帯の絆を欠いているならばみじめな人間を救うことはできない。キリストの祭司職の真の価値は祭司職を果たすうえで必要とされている二つの特徴をキリストご自身が完全に備えているということを、ヘブライ人の手紙は述べています。その意味でイエスは神の前において憐れみ深い忠実な大祭司といわれています。
キリストご自身のうちに権威があると同時にまた交わりがある。キリストは父である神によって遣わされ、復活をとおして天と地のすべての権能が与えられ、神の子としての権威をもっておられる。またそれと同時に私たちの兄弟として私たちを愛し、私たちの愛の応答を呼び起こし、ご自分の息吹として私たちにその霊を分け与える者として交わりを生み出す方でもあります。ですからキリストによって遣わされた教会の役務者もまた人々との交わりを大切にするとともに、また同時に権威をもつ奉仕者として人々に仕えるよう努めなければなりません。この二つの関係が調和をもって守られるときにこそ教会の役務者の姿は正しいものとなります。前者だけが重んじられるならば司祭はたんなる権威者となってしまう。神の子らの自由を束縛しよい賜物を消すことになりかねない。逆に後者だけが顧みられるならば、司祭は風のように変わりやすい教えにもてあそばされたり引き回されたりする、とエフェソの信徒への手紙でいわれているようなことになりかねません。教会の奉仕者として正しい姿を現すよう努めてください。
叙階式のたびごとに特に信徒の皆さんに喚起しておりますが、司祭職は神の恵みであるということを心にとめるようにしていただけたらと心から願っています。叙階式の儀式書に従えば司教による説教の後、叙階者自身が司教の前に進み出て行う約束の儀があります。その結びに「あなたのうちに良い業をはじめになった神ご自身が完成へと導いてくださいますように」という司教の言葉があります。司祭の召命にあっては最初から最後まで神ご自身の業であるということが述べられています。その意味で司祭職は神からの賜物、神の恵みであります。
聖職者といわれる司祭、人間的な見方をすれば確かに罪多き人間なのかもしれません。しかし、司祭職そのものはあくまでも神様からの賜物であります。司祭職は私たちの信仰生活にとってどうしても欠かすことのできない大切な奉仕職であって、叙階の秘跡はイエズスさまが私たちのために残してくださった神様からの賜物であり恵みである、尊いものであるという信仰を今一度取り戻していただきたいと願っています。司祭職がなければ永遠の命の糧である聖体の秘跡に与かることもできません。今日そのような尊い司祭職が新たに与えられることを感謝してこの叙階式を進めてまいりたいと思います。
叙階式に参列して
教会委員長 牧野
宮内神父叙階式はこの上なく素晴らしい好天の下、4月29日(木)11時から聖園女学院講堂にて挙行されました。早朝から式に向けて途切れることのない人の列が、聖園女学院への坂道を辿っていくのが見られました。式に参列された方々は、神父様方93名を含めて1,400名以上という大きな人数になり、講堂に入りきれない方々は、隣接するマリアホールに設けたビデオ中継室での参列となりました。
荘厳かつ厳粛な叙階式は梅村司教の主司式により行われ、司教様の按手と叙階の祈り、司祭団の皆様の個別按手(何と90名以上)、祭服の授与(カズラとストラは私たち藤沢教会からの贈り物です)、塗油、カリスとパテナの授与と進み、恙なく新司祭宮内神父が誕生しました。その後、ごミサは宮内神父も司祭団に加わって進められ、閉祭では宮内神父による祝福をいただきました。
ご挨拶の言葉として印象に残ったのは、梅村司教からの「宮内新司祭は生(き)がつくほど真面目なので・・・」、牧山神学院院長からの「やっと収容所から解放されたが、今度は若いのに神父様と持ち上げられるのが心配・・・」などです。30才という若い神父のご誕生、我々信徒も出来る限り協力して、これからのお働きを支えていかなければと心に念じた次第です。ごミサが終わり、しばし休憩の後午後1時30分から、場所をマリアホール体育館に移して祝賀パーティーとなりました。立食形式によるパーティーは鈴木勁介神父による乾杯のご発声で始まりましたが、1,000人近くの参加者のため混雑が激しく、食べ物はあっという間に無くなった模様です。舞台では聖園女学院のハンドベル部の演奏、藤沢教会ストリングアンサンブル"プリエ"の演奏などが行われ、パーティーに興を添えていました。午後2時30分にパーティーはお開きになり、その後、4時頃まで片づけをして、叙階式・パーティーは大成功の内に終了しました。
この叙階式準備については、司教様のご方針で第5地区として準備委員会を立ち上げ、1年に亘って周到な準備を重ねてきました。末尾をお借りして、叙階準備委員会の皆様方、特に藤沢教会の曽根和子準備委員長に改めてお礼申し上げます。本当にお疲れさまでした。
叙階準備委員会より
準備委員長 曽根
2010年4月29日(木・祝日)藤沢の聖園女学院に於いて宮内毅助祭の司祭叙階式が、90名以上の司祭、1,000名以上の列席者のもと執り行われました。この1年間、横浜教区第5地区の7つの教会(片瀬・大船・戸塚・鍛冶ヶ谷・中和田・原宿・藤沢)がひとつになって各分野の様々な準備を進めてまいりました。会場をお貸しくださった聖園女学院、叙階式前日及び当日のお手伝いに係わってくださった方々、祈ってくださった方々、ご自分たちの経験をきめ細かく教えてくださった第2、第4地区の方々、叙階式に参加してくださったすべての方々、そして私たちを見守り続けてくださった神に心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
5月に入ったある日、宮内新司祭と友人とで食事をした。
「思えば、初めて会った時の澄さんの印象は悪かったですね。」10年も前のことだ。ひどい話だと思うが、しかし、この発言は否定できない。食事中、笑い話のネタにされる。きっとマイナスイメージだったから、今の友人関係が続いているのかも知れない。
大学生だった私が、離れていた教会に戻るきっかけを作ってくれたのは、当時藤沢にいらしたティム神父様と宮内新司祭だった。
「中高生会をお手伝いしてもらえませんか?」その一言に、断る理由も見つからず…。そこで紹介されたのが辻垣君と宮内新司祭。同じ教会にいる学生というだけで、あとは全然違う3人。ほどよいバランスのメンバーだった。中高生たちと過ごす時間の楽しさもプラスされて、次第に「教会嫌い」だった私が「教会好き」に変わっていった。
周りが就職活動で忙しくなる頃、「神学校に入ろうと想います」と言われた。宮内新司祭の想いを当たり前のように受け入れていた。嬉しかった。それからも夏休みや春休みに、また神学校がお休みになる度に中高生達と共に時間を過ごした。合宿では夜中までカトリックかるたをして遊んだり、ひたすらおやつを食べたり・・・。宮内新司祭の脚本で紙芝居を作ったり、クリスマスに劇をしたり、行動を共にしながら徐々に神父様になっていく姿を見ていて微笑ましかった。
振り返ると、私の節目節目に宮内新司祭の存在があるようになった。
私がアフリカにボランティアに行きたいと話した時も、その数年前に、キジト神父様の所を尋ねていた彼は、親身になって相談に乗ってくれた。「ワールド・ユース・デイ」に行きたい!と話した時も、前回大会に参加していた彼は勧めてくれた。なんだかいつも私は彼の後を歩んでいるのかもしれないけれど、違うタイミングで同じように神さまからの働きを感じ、それを分かち合っている。
「私は、アンドレだから仲介役でしょう?宮ちゃんはフランシスコらしいよね。聖人を通して働かれる聖霊って、本当に不思議だね。その人その人の性格に反映されている。」
自然体で居られる同年代の仲間達は素晴らしい。それも性別も気にせずに過ごせる仲間。そして、そこに、司祭職のお恵みに与った友人が居るというのはなんと幸せなことだろう。
神父様であるとともに、宮内新司祭は、私たちにとって大切な友人の一人だ。
神さまから頂いた召命を、これからもっと色々な形に拡げていかれますように。
司祭叙階、心からおめでとう。
宮内神父様の司祭叙階式に侍者として奉仕する恵みをいただいた私は、新司祭の誕生を、肌で感じるほどの距離で大きな喜びのうちに体験しました。神父様自身がおっしゃったように、2時間程の式中で、人間には何か計り知れないことが起こったと思います。叙階には本当に大きな恵みがあると感じました。
また千人を超える司祭、修道者、信徒が集まったことからも明らかなように、宮内神父様はそばにいる人に安心感を与え、ひきつける方です。特に中高生会、侍者会で宮内さんにお世話になった私達は、大きな信頼を寄せてきました。「宮内くん、宮ちゃん、宮しん」など、親しみの込もった呼び名は自然についたものです。神父様には、呼びかけに応えてすぐに駆けつける多くの仲間、後輩がいます。これは神父様に与えられた特別の賜物だと思います。宮内神父様は、これからその賜物によって、多くの人々をキリストに導いて下さると確信しています。
叙階式で同期として奉仕されたトゥさんもベトナムで司祭叙階され、6月には帰って来られます。宮内神父様とトゥ神父様の司祭叙階に与かる恵みを頂いた私たちが、若い牧者に導かれ、キリストに至る道を歩んでいくことができるよう、お祈りしたいと思います。
わたしは、みやうちしんぷさまのじょかいしきにいきました。いっぱいうたをうたい、のどがからからになりました。ほんとうにおめでたいしきでした。みやうちしんぷさま、おめでとうございました。
4月29日にじょかい式に行きました。ミサは長くてちょっとつかれました。でもたくさんの人がいた中で、新しい神父様が生まれて、私もうれしかったです。あんなにいっぱいの神父様を見たのは初めてでした。宮内神父様の夢が叶って良かったと思いました。宮内神父様には藤沢教会にときどき来て、ミサをささげてもらいたいです。
ぼくは、宮内神父様と日曜学校で一緒にせいげきをして大好きになりました。大好きな宮内神父様の叙階式に行けることになり楽しみでした。4月29日、みそのの大きいホールに遠足で行って出席しました。叙階式には百人くらいの神父様がいらっしゃいました。こんなにおおぜいの神父様を見たことがなかったので、とてもおどろきました。叙階式は普通のごミサよりも1時間くらい長かったです。宮内神父様には、楽しくて優しい神父様になってほしいです。
私は叙階式に行きました。その日はとてもよく晴れていました。叙階式の中で1番心に残ったのは、司教様と神父様が宮内新司祭の頭の上に順番に手をのせるぎ式の所です。司教様の後に、神父様たちがしました。その中には、ティエン神父様や高野神父様、山田神父様、和野神父様、岩間神父様がいました。ぎ式のと中に、色々な神父様がいるな、今、「宮内新司祭はどんな気持ちなんだろう」と思いました。神父様は全部で数十人ぐらいいました。宮内新司祭が退じょうする時に拍手がおきました。みんな宮内新司祭を心から祝っているんだなと思い、感動しました。とても楽しかったです。
神様の招きと導きによって、今日司祭叙階の恵みをいただくことになりました。この日を迎えられたのは、横浜教区の皆様をはじめ、本当に多くの方々の祈りと支えがあったからこそです。心から感謝申し上げます。
初めて司祭に憧れてから四半世紀が過ぎました。神学校に入ることを実際に考え始めたのが約8年前で、実際に神学校に入ったのが6年前です。振り返ってみますと、それらの日から今日まで、神様は本当に不思議な仕方で、私を導いてくださいました。私にとってつらい体験や恥ずかしい体験さえも用いて、私を司祭職へ招いてくださいました。神学校に入る前、そして助祭叙階の恵みをいただく前も同様でしたが、今でも司祭として生きていくことへの不安や心配があります。しかし同時に、ここまで私を助け、守ってくださった神様は、これからも私を導いてくださるに違いないという思いも私の心に芽生えています。神様の招きを信じてここまで来ることが出来たのだから、これからも信じて歩み続けたいと思っております。
もちろん、弱い私が一人で歩み続けることは出来ません。これまでもそうだったように、これからも本当に多くの方々の助けが必要になります。これまで以上に祈り、支えていただければ幸いです。また、共に歩んでくださる梅村司教様はじめ横浜教区の司祭団の皆様、信徒・修道者の皆様、家族・友人・知人の皆様、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
アッシジのフランシスコ 宮内 毅
新司祭略歴 1980年 東京に生まれ、カトリック本郷教会にて受洗 1981年 神奈川県藤沢市に引越し、カトリック藤沢教会所属となる 2004年 東京カトリック神学院(現日本カトリック神学院)に横浜教区神学生として入学 2009年 カトリック山手教会にて助祭叙階 2010年 聖園女学院にて司祭叙階 (叙階式当日のパンフレットより) |
★改めて「司祭叙階」とは?
☆洗礼と堅信によって神の民に属するすべての信者はキリストの祭司職に与ります。この祭司の民の中から、共同体の頭であるキリストの名において祭司としての役務を行う司教、司祭が立てられます。また、共同体への奉仕のために助祭が立てられます。これらの司教、司祭、助祭の務めに任じる恵みを与えるのが、叙階の秘跡です。
司教、司祭は叙階の秘跡によってキリストご自身から権能を与えられ、キリストの現存のしるしとして、キリストの名において行動する者となります。彼らにも人間的な弱さがあり、福音の不忠実が見られることもありますが、司教、司祭がキリストの名のもとに執行する秘跡は、必ずその秘跡の恵みをもたらします。その時、司教、司祭を通して働かれるのは、キリストご自身だからです。
1962年に開催された第二バチカン公会議によって出された教令によれば、司祭は神の民(キリストの共同体=教会)の中において、特別に選ばれているという意味で分けられています。しかしそれは、キリストの共同体や人々から分かれているという意味ではなく、その中でキリストが選んだ司祭としての仕事に、専念できるためです。このために司祭は「・・・天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることの出来る人は受け入れなさい」(マタイ19:12)とあるように、結婚しないで独身を保っています。
イエス・キリストは、ご自分を完全ないけにえとして捧げました。そして、最後の晩餐の席上、弟子たち(使徒たち)に、ミサを捧げ続けるように言われました。また、キリストは、弟子たちに「何でも、あなた方が地上でつなげれば、天においてもつながれており、あなた方が地上で解くなら、それは天においても解かれている」(マタイ18:18)、「あなた方が誰かの罪をゆるすなら、その人の罪はゆるされ、あなた方が誰かの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残る」(ヨハネ20:23)と言われました。
司祭は三つの役務を持っています。つまり、キリストを宣べる人(預言職)、祭儀を司る人(祭司職)、牧する人(王職)として神の民に仕えます。司教によって叙階され、司教から派遣される司祭は、司教の忠実かつ賢明な協力者として福音をのべ伝え、カトリックの信仰を教え、神のことばへの奉仕を行い、キリストの神秘、とくに感謝の祭儀を挙行し、自分にゆだねられた民のために祈り、教会共同体とともに、貧しい人、苦しむ人、助けを必要とするすべての人に神のいつくしみを示すのです。
教会委員会報告(2010年5月15日)
・叙階準備委員会及びご協力いただいた各位に感謝。参加された司祭93名、参加者は1300名以上。教会から寄贈のハートと取り囲む人々を象徴している図柄が施されている祭服が印象的であった。レセプションでは、当教会のプリエアンサンブル、聖園女学院のハンドベルなどをバックに1000名程度参加された
・5月2日の初ミサは、晴天にも恵まれ、多くの参加者を得て執り行われた。恒例の記念植樹も行われた
基礎ができあがり、その上に建物のコンクリート土台ができる段階まで進んだ。上棟式は6月下旬の予定。今年1年で250件の申し込みを予定しているが、現在170件以上の申し込みがある
・屋上の防水工事は、5月17日から着工され、6月末完工の予定である。その間、駐車場はほぼ使用不可能。葬儀などの緊急時には対応する
・台所のロッカー使用については、当日限り使用を徹底するが、継続使用を要望する方は申請書を提出し、受理後運営委員会で承認をする(5月末目標)
・2階倉庫については、整理をした後、保管物の責任者名をつけて所有責任を徹底する。その後、ロッカー設置を検討する
当面は、月1回程度のペースで委員長間で連絡を取り合い、情報交換などによって相互理解を深めていく
第5地区内の7教会の司祭、修道者、信徒の連携を強め、それぞれ、「祈る」「伝える」「証しする」の分科会が動き始めている。その一つとして、秋頃から3つのセミナー「病者の訪問」「葬儀について」「集会祭儀」が行われる
5月25日、ベトナムにおいて叙階式が執り行われる。鈴木神父が参加予定。6月6、13、20日の各日曜日にお祝い金を募る予定。藤沢教会での初ミサは6月27日9時30分。その後前庭でお祝いパーティを行う
8月1日(日)夕方に例年並みで開催予定。通常ベトナム語ミサは3時30分であるが、この日は繰り上げて3時からとする。なお、当日午後6時のミサは無い
湘南白百合学園の教諭をされていた伊藤 淳新司祭(3月に東京教区で叙階)の藤沢での初ミサを6月13日(日)9:30に予定
教会委員会での共同宣教司牧の3部門(祈る・伝える・証しする)の進め方について、4月度委員会での話し合いを受けて討議した。秋口には具体的議論に入れるよう準備を進める
(北1)黙想会は英神父指導のもと、前年に続き、祈り、伝える、証しする、ということの発展形で行われた
(宣教)共同宣教司牧フォーラム事前アンケートをお願いした。大いに参考にしたい
(教育)6月6日に初聖体を予定している
(典礼)5月23日9時30分ミサ後、先唱、朗読、詩編唱者の研修会を予定している。夜ミサの奉仕者は、夜ミサに参加する人が行うことを基本としたいとの鈴木神父からの要請
(広報)「八角形にゅーす」行事予定掲載の活用を望む
(福祉)教区障害者とともに歩む会が、5月22日(土)に雪の下教会で行われた
(国際)福祉バザーでコミュニティーからの参加各店がともに完売した。コミュニティーの壁を越えて皆が分かち合う雰囲気ができてきたことは喜ばしい
(福祉)片瀬との共同で「傾聴セミナー」を企画している
(財務)出金要求については、各日曜日の9時15分までに財務に申し出て欲しい
(鈴木神父)5月22日、23日は葉山で社会人召命錬成会に出席。翌日からはベトナムへ4日間出張予定。その間、和野神父一人となる
鵠沼ブロック集会
鵠沼1区 八子
4月25日の日曜日、11時から鵠沼ブロック集会が行われました。約50名の方が集まり、楽しい集会でした。ブロック集会は年2回、春と秋に行われています。その時必要とされている議題について話し合います。今回の議題は「共同宣教司牧」についてです。
最初に新ブロック委員の挨拶から始まり「楽しいブロックにしよう」と抱負がのべられました。続いて新連絡員の紹介、今年の受洗者、転入者、帰天された方の報告があり、いよいよ本日の主題である共同宣教司牧について鈴木神父さまからのお話を聴きました。その後参加者から質問、感想等が交わされました。「これから司祭が減少するが葬儀やミサはどのようにすればよいか」「私は時々片瀬教会のミサに参加するが良い経験になる」といった具体的な意見です。共同宣教司牧の方針でも「司祭の力によらないでも信仰を伝え、祈りをささげ、人々に愛をそそいでいけるような共同体」「小教区中心主義の克服」とあります。我々も少しずつ実践の方向に進んでいると思います。全体の話し合いを通じて共同宣教司牧の輪郭が見えてきたのではないでしょうか。皆が空腹を感じた頃、有志が作ってくれたおいしい昼食をいただきました。充実した2時間半でした。参加された皆さん、ありがとうございました。
藤沢ブロック歓迎会
藤沢3区 若林
5月2日(日)のミサ終了後11時ころから、センターホールで藤沢ブロックの新しい人(対象者20名)の歓迎会が開催され、最近受洗された3人と藤沢地区に転入した3家族ほどがお招きに応じて出席させていただきました。6つのテーブルに分かれ、お招きをうけた側と教会の古参の有志の皆さん約50人が入り交じり、弁当とお菓子をいただきながら、和気あいあいの雰囲気で歓迎会は進行しました。古参の方々は我々新参の人たちが緊張しないように、種々気を使って会話を盛り上げてくださり、とても有難かったです。ブロック長の萩田さんの歓迎の挨拶から始まり、お招きを受けた側がそれぞれ自己紹介をしました。現在の藤沢教会の登録者は約3,700人とのことで、その人数の多さに驚きましたが、その中に加えていただけることはとても嬉しいことでした。アトラクションとして守田さんがヴァイオリンの演奏をしてくださいました。Ave Maria, ユーモレスクなどプロ並みの演奏を楽しみました。萩田さんの指導で聖歌を合唱できたのも緊張をほぐすことでした。最後には酒井さんのお出しになる10問のクイズにテーブル対抗で正解数を競いましたが、これも面白い趣向でした。我々新参者にはとても難しい内容でしたが、古参の人たちの手助けで盛り上がりました。藤沢教会の皆さんが暖かく我々をお迎えくださることが実感出来た1日でした。
私は母が熱心な信者であったために、幼児洗礼を受けておりました。小学、中学を岡山で過ごしましたが、小さな教会だったので、信者の数も少なく弟と2人で「ミサ答え」(当時の言い方)を拝命し、毎週熱心に教会に通いました。しかしその後大阪、東京に移り、大学卒業後は貿易会社に就職したため海外出張がやたらと多くなり、教会とはすっかり無縁となってしまいました。2年ほど前から教会に復帰して驚いたのはミサの進行方法です。60年近く昔に私たちが侍者をしていたころは、ミサはラテン語で行われていました。神父様がラテン語で唱えるお祈りに侍者がラテン語で答える方式でした。子供であった侍者も一般の信者もその内容は全く分からなかったと思いますが、なかなか荘厳な雰囲気があったと思います。現代では言葉の典礼、感謝の典礼などが日本語で行われ、信者の歌によって進行しているようで、これはこれで分かりやすく、親しみのもてる方式です。祈祷文の文章や告解の仕方など、私が慣れ親しんでいた方式とかなり変わっていますので、戸惑うことも多いのですが、皆さんのご指導をいただいて教会の生活を楽しみたいと祈念しております。よろしくお願いします。
北1黙想会「召命−神の招きを聴いて」
善行 辻垣
黙総会は5月8日(土)指導司祭を英 隆一郎神父(イエズス会)にお願いして、聖心の布教姉妹会本部修道院を拝借して行われました。当日は五月晴、素晴らしい天候に恵まれ他の地区の方々も多勢参加、53名の出席者となりました。昨年は横浜教区による3つの使命の一つ「祈り」がテーマでしたが今年は「召命神の招きを聴いて」となりました。即ち「いつも聞こえていますか、応えていますか」過去を振り返り未来へ向かっての黙想となりました。昼食を挟んで3回の講話と黙想14:00からミサがあり、最後にグループに分かれて分かち合いがありました。
1部は今までの人生を振り返って
「幸せ、ドキドキ、失敗」など心に今も残っていることを想い、不思議な巡り合わせ、意図とはしない出会い、受洗のきっかけとそれにかかわった人々の出会いを思い浮かべました。
2部は召命と使命
何故クリスチャンになったか。神に倣って行動しているか、いつも逃げ妥協していないかを振り返ってみました。
3部はどういうイエスに感動して使命を果たすのか。
貧しく生きるキリストを鑑としてアシジのフランシスコは実践し生涯を貫きました。宣教するキリストはパウロの回心後のすさまじい行動力に表れています。弱者に向うのキリストの優しい眼差しはマザーテレサなどによって私達の心を揺さ振ります。私はキリストのどこに惚れてクリスチャンとなり愛を社会に伝えているのだろうか?自分の霊名や名前にヒントを求めて黙想しました。
ミサを八角形夢殿のような木造の香りのする聖堂で行いました。鶯の声も聞こえ、恵み豊かな自然からも神を感ずることができました。ヨハネの福音15・12−17が読まれ「あなたがたが出掛けて行って実を結び、その実が残るように」の言葉が印象に残りました。実を結ぶではなく「残る」というところです。
フィナーレはグループに分かれて最後は分かち合いがあり、神が私たちに各々望まれていることを、自分の洗礼から今までを振り返って話し会いました。
英 隆一郎神父さんは昨年お招き、今回2回目の指導でしたが、来年も指導してくださるとの事、楽しみです。神の招きに応えられるよう心を磨かなければと思った一日でした。
合葬の園から(3)
建設委員会 辻垣
4月29日は宮内毅神父さまの司祭叙階が合葬の園の建設されている同じ敷地内で行われました。この記念すべき年に合葬の園も竣工することに何か意義があるように思います。当日も50名近い方々が帰路立ち寄って下さいました。
新緑に萌える杉、椨、榎、竹、枇杷など様々な樹々に囲まれ、現場は順調に進行しております。連日10人程の鉄筋工、型枠工が仕事をしており、3回目のコンクリートが打ち終わり。蝋燭状の塔の全体が地上に表れて来ました。6月の下旬には屋根がかかり、全体像を見ることができます。職人さん達への感謝も込めて、上棟式を行いたいと思います。皆様の参加をお待ちします。
植物たちの恵みの季節、外の雨音を聞きながら今月の新刊をひも解いてください。 「八月六日の朝ぼくは十四歳だった」 「からだのはなし」 「路上からの復活」 「イエスの聖テレサ霊的な人々の母」 「愛についての100の言葉」 |
今年のバザーについて
藤沢ブロック バザー企画委員会
今年のバザーは藤沢ブロックが担当です。宜しくお願い致します。
3月28日にブロック集会があり、今年のバザーは10月31日(第5日曜日)に行うことが決まり、4月の教会委員会で承認されました。5月9日、第1回バザー企画委員会を開き、目的・テーマなど大枠が決まりつつあります。バザーの形としては従来通りですが、10月28日の藤沢教会の守護の聖人「聖シモン・聖ユダ」の祝日を祝いつつバザーをするのが特徴になると思います。聖シモン・聖ユダに関して、またバザー全般にわたってのご意見・ご要望・ご提案などを戴けましたら有り難いことと思います。まだ先のことですが、10月31日はバザー!とご予定下さい。教会を挙げての皆様のご協力をどうぞ宜しくお願い致します。
禅宗に身を染め、キリスト教を打ちのめす事を信条に宗義を学んだ挙句、キリストに帰依された奥村一郎師が著された選集は九巻まであり、読む人の心を惹き付けて止まないところがあります。難解な点では匙を投げ出したくなるところもあり、読む会で意見を交換する意義は計り知れないところがあります。
4月の例会では、「遠藤周作の世界」を著している兼子盾夫さん(藤沢2区)を講師にお迎えし、奥村師のスペイン旅行まで秘書役を引き受け、知られざる逸話を含め、豊富な造詣は興味の尽きないところがありました。
表記の「奥村一郎選集を読む会」は毎月第四土曜日午前10:30よりセンターホール303号室で開かれております。7月25日(土)例会から第4巻「日本語とキリスト教」に入ります。1巻毎を3〜4ヶ月かけて読みながらすすめておりますので、途中から参加する方も難しいことはありません。
どなたでも歓迎しますので、ご参加下さる様お待ちしております。お申し込み、問い合わせは事務所或いは世話人の浅野士良、魚津靖太郎までお願い致します。
鈴木神父の川柳(続6)
編集部編
今号よりC年(2009-10)に詠まれた句をご紹介します。先ずC年その1です。
( )内は鈴木神父の注記です。
11/29
白髪は目覚めて待ったしるしかも
(待降節第1主日) 「ルカ21・25-28、34-36」
(ずいぶん生きてきたもんだ)
待つ方はまだ見えないか白髪増え
12/6
荒れ野では全身をほら耳にして
(待降節第2主日) 「ルカ3・1-6」
(神のことばは荒れ野でヨハネに下った)
12/13
犠牲してホッとできれば本物さ
(待降節第3主日) 「ルカ3・10-18」
(得することばかり考えていては神の国にふさわしくない)
12/20
本当に大事なことは突然に
(待降節第4主日) 「ルカ1・39-45」
(マリアもエリザベトも突然のお告げ・懐妊)
12/24
この生命誰かの粋なはからいか
(クリスマス夜半) 「ルカ2・1-14」
(主イエスの貧しい誕生が意味がある神のはからいなら、この私の生命も...)
12/25
プレゼントもらうべき方誰かしら
(クリスマス日中) 「ヨハネ1・1-18」?
(プレゼントは産まれた人にあげるもの)
12/27
時くればゆだねられるさ今はまだ
(聖家族)「ルカ2・41-52」
(マリアにもわからない時があった。何事にも時がある)
2010年
1/1
羊飼いほどの信用で十分と
(神の母) 「ルカ2・16-21」
(羊飼いは社会的信用があったのかしら。むしろなかったのではないか)
1/3
その広さ天文学的数字だね
(主の公現) 「マタイ2・1-12」
(東方の国から誕生祝にくるとは)
1/10
若さとは足枷と見る洗礼を
(主の洗礼) 「ルカ3・15-16、21-22」
(洗礼は恵みなのに重荷に感じるのはなぜかしら?)
1/17
ふられてもめげないマリアは名女優
(第2主日) 「ヨハネ2・1-11」
(「この人が何か言ったら、その通りにしなさい」とマリアはいう)
1/24
評判の良さで信じるわけじゃない
(第3主日) 「ルカ1・1-4、4・14-21」
(イエスを主と信じるのは不思議なこと)
1/31
み旨はねわからないけど信じちゃう
(第4主日) 「ルカ4・21-30」
(神のなさり方は人間にはわからないことが多いが信じられる関係って不思議)
2/7
言いなりに手なりに歩み今となり
(第5主日) 「ルカ5・1-11」
(自分の意志で生きるというより生かされているのでは)
2/14
見上げれば雲の影には太陽が
(第6主日) 「ルカ6・17、20-26」
(物事には奥行きというものがある)
2/21
信頼と神を試すは紙一重
(四旬節第1主日) 「ルカ4・1-13」
(主を試す誘惑は信仰者特有の危険か?)
2/28
十字架を担うときこそ主がわかる
(四旬節第2主日) 「ルカ9・28b-36」
(金で困った時こそイエスの話がわかる)