八 角 形 に ゅ ー す
2010年8月20日
聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会
目次
「イエスに従う道」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・司祭 トゥ
青桐の木・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢2区 曽根
御宿巡礼に参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・六会 赤松
一日バス旅行と聖骸布のDVD・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・湘南台 笠島
グリフィン神父様との思い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂2区 佐々木
ガールスカウト湘南地区合同キャンプ・・・・・・・・・・・・・・ガールスカウト105だん まつむら
ガーデンパーティ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・実行委員会
長崎原爆65回忌―ある浦上キリシタン家族の記録―・・藤沢1区 中島
バザーについてのお願い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・バザー企画委員会
ユースの会の3年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ユースの会 千古
小グループ活動紹介 「聖書百週間」・・・・・・・・・・・・・・善行 淺野、神山
合葬の園から(5)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・建設委員会 辻垣
八角塔の上棟式に臨んで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・建設委員 高野
「イエスに従う道」
司祭 トゥ
皆さんおはようございます。2か月間ほど日本語を全く使っていませんでしたので、日本語でお説教の時にすごく緊張して、原稿に頼りながら皆さんにお話しさせていただきたいと思います。
ルカによる福音(ルカ9・51-62)「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向う決意を固められた。…」今日の福音書を読み、皆さんはどう思われましたか。少し厳しいなぁと思われた方が多いと思いますが、キリストに従うことはすべてに優先されることです。キリストに従うことが最重要課題なのです。難しいでしょう。
こんなたとえ話があります。苦行をしたお坊さんが自分の先生である偉いお坊さんから独立を許され、一人で暮らし始めました。はじめのうちはよく祈り、苦行をして町に出て托鉢をして生活をしておりました。袈裟つまりお坊さんの洋服は1枚しかなかったので、毎日洗濯して干して次の日のために準備しておりました。しかし貧しい生活をしていたので他に食べるものがなかったのでしょう、ネズミがその袈裟をかじるのです。ネズミは餌としてお坊さんの洋服を食べるようになりました。お坊さんは困ってしまい、大切な袈裟ですから食べられないようにと考えてネコを飼いました。今までは一人暮らしをしていたけど、今度はネコに餌をあげなくてはいけません。もちろん袈裟をネズミに食べられないために、ネコにネズミを退治してもらうためです。そのためお坊さんは畑を耕し、米も作ることにしました。ネコの餌のために一生懸命働きました。水田を耕すためにまた牛も飼いました。いろいろと用事も増えて日々の生活の中でまた忙しくなりました。祈ったり苦行したり、また町に出て托鉢する時間が減りました。その代わり食べるものは増え、身の回りの品物も増えました。あるときお坊さんの先生が弟子の様子を見に来てびっくりしました。弟子のお坊さんの周りには物が増え、以前のお坊さんとは違っていました。たくさんの物に囲まれて忙しく働いている弟子を見て、先生は物に縛られる人間は自由に生きることはできない、心も縛られてしまう、そうすれば自由に生きることが難しくなる、と諭しました。弟子は袈裟を大切にするあまり自分の本当に大切にすべきことを忘れてしまい、違う方向に歩いていたのでした。日本には「本末転倒」という言葉があります。まさにこのことです。
今日の福音に戻りますが、イエスに従う道といってもいろいろな道があります。キリスト者として生きることは迫害されることもあります。平らな道ではないこともあります。私のように神父として生きる道、皆さんのように父として母としてまた子供としていろいろな生き方があります。また多くの皆さんは社会の一員として働く道だったりといろいろあります。生きる道はいろいろありますがどんな人間も弱いものです。パウロが言うように良いことだと思ってもやらなかったり、悪いことだと知っていてもすぐやってしまう、これが人間の弱さです。自分が頂いた命を通して、ただ自分のできることで神様に従っていくことです。私たちができることは、それはよく祈ることだけかもしれません。神様の助けを願うことを忘れず神に向かい多くの人々と出会いながら、そこから自分の従う道が少しずつ見えてくるのではないでしょうか。どうぞ今日のミサをささげる中で神様を忘れないで正直な心で祈って助けていただけるような自分になれますように祈ってまいりましょう。
(6月27日の藤沢教会での初ミサ説教より)
トゥ神父プロフィール パウロ・ハー・ミン・トゥ(HA MINH TU) |
教会委員会報告(2010年7月17日)
7月10日に上棟式。躯体は屋根も含め完成。教会関係、工事関係の人々も多数参加。盛況であった
・ 湯沸かし器交換:緊急工事として、司祭館2階の湯沸かし器(20年間使用したもの)を交換した。費用は約18万円。事後承認された
・ 裏口階段手すり設置:裏階段の、上る方の左側に手すりをつけるので、階段踏み板部分、花壇、案内板などの修繕が必要となり、8月下旬から逐次施工をする。工事費用25万円以下で発注することで承認された
・ 屋上防水工事:予定通り6月末完工。皆様の駐車などの対応に感謝。教区への報告も完了
・ 高級アンプとスピーカ(2台)の寄付:これを活用すべく、アンプはセンターホールで、スピーカーは聖堂で音響改善のために使用させていただく予定
上期は一般会計で、半期約300万円黒字、特別会計では、水道漏水対策工事など臨時修繕があったので、支出が多い。売店売り上げは、ほぼ横這いであるが、利益は多くなった。下期は、上期の屋上防水工事費用を含めて、少なくとも修繕費800万円ほど出る予定であるので、赤字が残る予想。合葬の園支払い分赤字の予想であるが、ほぼ予算どおりである
4.トゥ神父初ミサ、歓迎会 (6月27日)
ベトナムコミュニティからも多数参加。花束、祈りの花束、お祝い金をお渡しした
8月1日夕方から開催予定。外国人コミュニティも、事前打合会から積極的に参加をしている。近隣教会にもお知らせした
当日のミサは聖母被昇天のミサ。また、8月14日(土)午後5時からはベトナムコミュニティの聖母行列及び被昇天ミサが行われる。
恒例の敬老会は9月16日(木)11時から開催される。又9月19日(日)9時半のミサはお年寄りのために祈るミサとなる
(北1)7月13日(火) 御宿海岸に巡礼遠足。当日は荒天であったが、男性参加者も多く、良い時を過ごした
(北2)
・7月30日(金)調布教会に巡礼遠足予定
・7月17日(土)湘南台地区のフリーマーケットに参加。収益は湘南台センター運営費用に追加する
(藤沢)バザー企画委員会を開いた。皆で分担し、皆で責任を持つので、特定の代表責任者はいない。キャッチフレーズは、「ともに、感謝して」とする。なお、10月28日(木)が当教会守護の聖人である聖シモン・聖ユダの祝日に当たるので、今回のバザー会場に両聖人の関連展示を行う予定。10月28日(木)には感謝ミサを開催するよう典礼部会に提案した。収益金は教会と福祉関係に1/2ずつ配分することにした
(国際部)
・フィリピンコミュニティから教会委員会に秋元ミーアさんが参加する予定
・国際ミサを9月26日(日)開催する。歌の練習や、奉納については国際部で検討をする
(福祉部)
・救急救命講習会を8月21日(土)の9時から12時、センターホールで開催する。片瀬教会からも5,6名参加予定。初めての方を主な対象とする
・片瀬・藤沢両教会の傾聴セミナーを、11月10日(水)と11月17日(水)にセンターホールで開催する。講師は戸塚教会の阿部氏
(典礼部)奉仕者の所作確認の集いを8月22日(日)に予定
小教区内での3部門の進め方について
・ 前回教会委員会に引き続き、典礼部(祈る)、宣教部(伝える)、福祉部(証しする)から改めて出された叩き台をもとに3グループに分かれて自由討議を行った。この話し合いをまとめ、更に9月に下記の共同宣教司牧委員会で出てきた内容とともに、9月の教会委員会で藤沢の概要をまとめていきたい
・ 第5地区における共同宣教司牧委員会には、祈る、伝える、証しする、の分科会ができている。9月5日に開催される共同宣教司牧委員会で3部門分科会から出される報告内容を参考にしながら、本日の教会委員の意向を入れてまとめていく
・ 鈴木神父からのコメント
冊子「教区長の時間」をみて欲しい、そこでは、上からでなく下からの積み上げが大切と言っている。又藤沢は教会が大きく、自己完結的な運営ができているので、他教会とのブロック化を考えることに真剣みが足りない。それとは逆に小さい教会は、やりたくてもできないこともあるので、大きい教会から小さい教会への支援も考える必要があるのではないか。これらを含め、総合的に何ができるかを信徒レベルで考えていく必要がある
青桐の木
藤沢2区 曽根
1945年8月6日広島に原子爆弾がおとされました。一面焼け野原になり、50年草木は育たないと言われましたが、小さな芽が力強く出てきました。この木が広島から藤沢にきました。大きく育って欲しいという願いから祈りの庭のマリア様の前に植えました。是非、皆さまと一緒に大事に育てて生きたいとおもいます。
御宿巡礼に参加して
六会 赤松
一行24名は、8時にマイクロバスで藤沢教会を出発しました。つゆ空のもと時折雨がガラスに当たる涼しい日で、高木先生の歴史解説をお聞きしながら、恵みいっぱいの旅となりました。初めて通るアクアラインで、あっとゆう間に千葉に入り木更津沖の海苔養殖筏をみながら、やがて狭い国道は、青々とした水田が広がる中を走り、山を越えて茂原教会に着きました。 4月に宮古から着任されたメキシコ人のフェリペ神父さまと3人のご婦人が迎えてくださり、一緒にミサに与りました。冷たい麦茶とコーヒーが用意され、お菓子を頂きながら暫し団欒感謝のひと時を過ごしました。大多喜街道の道の駅で私たちを待っていたのは、おいしいおそばとてんぷらと祭り寿司の昼食でした。売店で新鮮な野菜などを求め再びバスは今日の目的地御宿に向かいました。
御宿岸和田のメキシコ山には白くかがやく高い塔が立っていました。この塔は昭和3年日本・スペイン・メキシコ交通発祥を記念して建てられたものです。今から401年前御宿の岸和田沖でメキシコ船サンフランシスコ号が台風に遭い遭難し50数名は行方不明、317名が田尻の浜に泳ぎ着き助けを求めました。当時、浜は岸和田村から山を越えて2キロ位のところにあり、海女さんたちが磯漁をするところでした。スペイン人ドン・ロドリゴはメキシコの役人でフィリピン長官の1年の任期を終えてメキシコに帰る途中でした。台風の去った海岸には色々なものが漂着していて村の人達は役に立つ物を拾うのが習わしでした。浜には裸同然の者や破れた服を着て苦しんでいる人がごろごろしていて、初めて見る異国の人を村の人たちは介抱したりして村に連れ帰り、相談して大宮寺に収容、婦人は素肌で抱いて冷えた身体を温め衣服や食料を分けあたえました。数日後、大多喜城主本多忠朝がやってきて家康の指示あるまで食料いっさいを供給することを約束しました。一行は37日間岸和田で過ごした後本多忠朝にお礼をのべ、江戸へ出発しました。江戸城で将軍秀忠に会い、引退した後も最高権力者だった家康のいる駿府城もおとずれました。家康の計らいによって京都見物をし、大分の中津浦からメキシコに帰りました。サンフランシスコ号の船長はマニラに帰り修道会に入りました。ドン・ロドリコは1人残り1年後に家康のもとに居た三浦按人が造ったサン・フェナベントウーラ号120トンで日本の商人22人が同行して帰国しました。これが日本とメキシコの交通発祥の契機ともなりました。ドン・ロドリゴは日本での体験に感激して本を書きメキシコやヨーロッパで知られることになったそうです。
昨年サンフランシスコ号御宿漂着400年を記念してこの記念塔の下で東京大司教区幸田和生補佐司教様によりミサがささげられ、皇太子殿下が出席されました。その説教の中でこの御宿の出来事のキリシタン史の位置づけを講和されています。
1603年徳川幕府が成立し家康は最初はキリスト教を黙認していました。ポルトガルやスペインとの貿易が必要だったからでしょう。この時代に起こったのがこの御宿での出来事でした。ところが、このわずか2年後キリシタン禁制の動きが強まり1614年には全国的な禁教令追放令が出されることになっていきました。この背景には宗教色なしに日本と貿易しようとしたオランダとの関係が確立し、もはやスペイン・ポルトガルとの関係を断絶してもよいという判断が幕府にあったからでした。そして250年にも及ぶ過酷なキリシタン禁制の時代が始まっていったのです。そして御宿の出来事も日本では忘れられてしまいました。私たちにとって400年前の御宿の人々の行為は何かほっとする話ではないでしょうか。昔の普通の日本人がキリスト教に対して攻撃的であったり、外国人に対して排他的であったりしたのではなく本当に困っている人を見て出来る限りの手を差し伸べようとした、キリストを知らなくてもキリストの愛を実行した、そのことを大切なこととして今日思い起こしたいとおもいます。そしてそのことを記念しながら世界中の人々のなかに、また私たち1人ひとりの中にキリストの隣人愛の心がもっともっと実現していきますように心を合わせて祈りたいと思います、と結ばれています。私は眼下に広がる太平洋を船で渡って来た先人の勇気と御宿の人々の温かい心に触れ、胸を熱くしたのでした。
私たちは田尻の浜に寄り岩瀬酒造にむかいました。岩瀬酒造には昭和初期の海女達の貴重な写真が展示してあり、漁の合間に子供に乳を与えている様子や休みながら雑談している様子など見られました。甘口辛口の酒を試飲させていただき、おみやげを求めました。そして大多喜城を左遥かに眺めながら朝来た道を帰ってまいりました。海ホタルで休憩し夕暮れが迫る6時50分に藤沢教会に戻りました。
一日バス旅行と聖骸布のDVD
湘南台 笠島
去る7月30日、北2ブロック企画のバス旅行で調布のサレジオ神学院にあるチマッティ資料館とその近くの神代植物園に行ってまいりました。総勢24名、朝8:30に湘南台センターに集合、途中、時間を間違えて1時間前にセンターに来て、誰もいないので家に戻ったという80代の方の家近くで、その方をお乗せして出発しました。バスの中では、配布されたパンフレットの冒頭に印刷されていた「旅の保護を願う祈り」を全員で祈り、その後、聖歌を歌いました。今回はご遺体が不思議に死後12年を経ても全く生前そのままの姿で皮膚には弾力があり、関節も柔らかで、棺の中にあったというチマッティ神父様の資料館をお訪ねすることでしたから、チマッティ神父様の作曲なさったアベ・マリアの歌も歌いました。
その後、出発前に六会の松尾さんがご親切に教えてくださった、前日のカトリック新聞声の欄のガエタノ・コンプリ神父様の投書の紹介がありました。ガエタノ・コンプリ神父様はチマッティ資料館の館長です。「現在、天使祝詞の文章を改正することが考えられているが、文語体から口語体に直す時に、天使ガブリエルのマリア様への挨拶が抜けてしまった。改定にあたっては、マリア様への挨拶の言葉は、ラテン語そのまま、アベ・マリアを用いたら良いのではないか、仏教の南無阿弥陀仏の南無は日本語ではないが、そのまま日本では使われているし、アベ・マリアという言葉は日本人に慣れ親しまれている言葉だ」ということでした。
気が付くと、バスは通称海軍通りと呼ばれる一直線の桜並木の通りで渋滞に巻き込まれておりました。予定より少し遅れて調布のサレジオ神学院に着きますと、小柄なガエタノ・コンプリ神父様が満面に笑みを浮かべて待っておられました。ブロック長の山根さんが「神父様の投書を読みました」と申し上げると、「どうですか、良いと思われたら皆で応援してください」とおっしゃり、直ぐに時間が限られているからとまず神学院に入り、「関西に送ることになっていた聖骸布の実物大の写真を、皆さんが来ると言うので特別に今日まで取っておいた」という写真の前でいろいろ興味深い説明をして下さいました。それからチマッティ神父様のご遺体が安置されている地下聖堂にご案内くださり、僅かの時間ですが大理石の棺の前で全員お祈りを捧げ、次に資料館です。膨大な量の作曲資料、生前に集められた化石、昆虫、植物の標本、帰天されて棺に納められた時、身につけておられ、12年後に染み一つなかったという衣服、祭服も展示されていました。「日本の聖人は全員殉教者ですが、チマッティ神父様が聖人に上げられれば、日本で始めての殉教者でない聖人の誕生です。現在足りないのは奇跡だけ」とのこと。帰り間際に、資料館にあった印刷物を、「なんでも持って行ってください。チマッティ神父様と聖骸布のDVDは良かったら買って行って教会の皆さんで見てくだされば、いろいろ詳しいことがよく分かります」とのこと。湘南台センターでは月に一度ビデオ会をしていますので、そのために二つのDVDを求めました。チマッティ神父様の列聖の日が近いことを祈りつつ、名残惜しいサレジオ神学院を後にしました。
それから神代植物園にむかい、急いで銘々名物の深大寺蕎麦をいただき、無料ボランティアが待っておられた植物園正門に行き、ブロック委員が手配してくださったボランティアの方々5名と共に、小グループに分かれての植物園見学を終わりました。幸いお天気は曇り、さわやかな緑の中、珍しい色とりどりの睡蓮の花々、巨大温室、広いバラ園、武蔵野の雰囲気の残る木立、また、朝の連続ドラマ「ゲゲゲの鬼太郎」ゆかりの深大寺を拝観したグループもありました。
帰りのバスでは、コンプリ神父様の投書を応援するのはどんな方法があるのかと考えておりましたら、ふと、先日湘南台センターでの鈴木神父様の主日のミサの分かち合いで、「神様にお願いするとは、じっと心のそこでそのことを考えていると神様は思いもよらず不思議な方法でかなえてくださる」とおっしゃったことを思い出しました。なにも大きなことをしなくても、じっと心の中で考えていれば良いのだとちょっと心が軽くなりました。そうこうしているうちにバスは湘南台に近づき、ご自宅近くでバスを降りることを希望された方々もおり、バスの運転手さんも快く途中下車することを取り計らって下さいました。今回のバス旅行ではサレジオ会の佐藤神父様のお母様もご一緒してくださり、コンプリ神父様も佐藤さんとお会いになって喜んでおられました。佐藤神父も頑張っていますよ、とのこと、私ども全員にとって、恵みの一日でした。神に感謝です。
なお、湘南台センターでは9月24日、1:30より4:00まで今回購入にした「聖骸布」を、また10月22日も同じ時間に「音楽・自然・日本を愛したチマッティ神父」のDVDの上映をいたしますので是非おいでください。
グリフィン神父様との思い出
辻堂2区 佐々木
私が初めて神父様とお会いしたのは丁度30年前、キリスト教入門講座のリーダー養成コースでの事です。50代半ばの神父様は威厳に満ち、一寸近寄り難い雰囲気がおありでした。司祭8名、シスター7名、7つの教会から信徒17名の参加者でした。研修会が始まりますと、とても熱心にご自分の思いを伝えられていたお姿を、今でも懐かしく思い出します。ある時、参加者がご一緒に写真を写そうと云うことになり、神父様にお声をかけましたら、「何故ですか、何の目的ですか」と尋ねられて困ってしまい、「特別の理由はありませんけれども、ご一緒に・・」で、やっとニコニコされてカメラに収まりました。神父様はとても真面目で誠実なお人柄です。何か質問や相談したいことがある時は、心から耳を傾けて、一生懸命に聴いて下さいました。依存ではなくしっかり自分で考え祈り、選べるようにご指導くださり、心からの信頼と尊敬をもって長い年月を関わらせて頂きました。
この時私は30代半ばでした。研修会終了の前に「講座を始めてください」と言われて躊躇していた私に「やりなさい。困ったときには何時でも聴きますから。あなたの体験を分かち合いなさい。実感のある言葉は人に伝わります。特にT期は大切です」とおっしゃってくださり、今日までずっと神父様の思いを大切に、誤らないように伝えたいと願い続けて参りました。神父様は日本全国の教会にワークショップに出かけられ、講座が高い評価を受けられ、大変お忙しい日々を過ごされていました。折りに触れてお会いし、神父様の講座への熱い思いをうかがったものです。
今から12年前、初めのリーダー養成から18年を経て私は再びこの養成コースに参加する恵みをいただきました。その時、一番強く感じましたことは、神父様がとても柔和になられたことです。先ず、ご自分の弱さから分かち合われました。70代半ばになられていらした神父様にとっても、この年月はご自分と深く出会われ、頭ではなく本来のご自分を良しとされたのだと、深い感慨を覚えました。それと共にこの講座の第T期「自分に出会う」ことの大切さ、自分を先ず肯定することの意味を深く実感いたしました。
グリフィン神父様は司牧されている中で、ご自分の司祭職に深く悩まれたとうかがいました。その折に1年間の休暇を利用されてマニラのアテネオ大学で要理研究をされ、その後カナダのオタワ大学でカウンセリングの研修を受けられたそうです。ご自分の苦しみの体験を通して、ご自分なりの要理教育の在り方を模索されたとうかがいました。これが私達に伝えられたキリスト教入門講座の出発点になったのでしょう。
神父様が金祝を迎えられた時に「講座は素晴らしい実りですね」と申し上げましたところ、「まだまだ、V期は満足出来ません」と言われました。私が「神父様、完全主義は良くない」と講座で申し上げるとニヤリとしてウィンクされました。その後アイルランドへの帰国が決まられてから、何回かお会いしました。その折に「神父様は、花咲か爺さんみたいですね。枯れ木に沢山の花を咲かせて・・」と申し上げると、とてもうれしそうに「そう、キリストとの出会いの中で、自分自身を知り、肯定して、生き生きとした活発な人になって欲しいと願っています」といわれました。そして、「シメオンの心境です。大きな報いをいただきました」と安らいだ穏やかな笑顔を向けてくださいました。
私はグリフィン神父様と関わらせて頂き、人生の大きな方向を示して頂きました。神父様との出会い、講座との出会いは私の人生の宝です。「講座を通して人々に福音を伝え続けてください」と云い残されてアイルランドに還られました。信徒を信頼し、講座の場を与え、任せてくださった神父様への感謝を心に抱きつつ、これからも神父様との約束を果たして参りたいと思います。グリフィン神父様ありがとうございました。
グリフィン神父は今年7月4日アイルランドの聖コロンバン会本部にて逝去されました。86歳でした。同神父は1951年に初来日され、以降通算50年余りにわたり滞日、前半は横浜、東京両教区の6教会で司牧されされました。後半の30年は自ら編纂したテキストでリーダー・トレーニング・コースを国内で広く実施して、信徒宣教者養成に尽くされました。藤沢教会でもこのトレーニングを受けた信徒によって、キリスト教講座が今でも行われています。 |
ガールスカウト湘南地区合同キャンプ
ガールスカウト105だん まつむら
しょうなんちくごうどうキャンプにいってきました。ばしょは、やまなしけんあたごやましょうねんしぜんのいえです。たのしかったことは、ゲームでかったチームがカードをもらって、すいとんをリーダーにつくってもらってたべるゲームです。かんどうしたことは、かげえです。小人がかわいかったです。すごくつくるのがむずかしそうでした。はっけんしたことは、かがくかんにいって、たいけんしたそこなしぬまが、かたくりこと水でできていたことです。あるいていると、ひきずられていくみたいにしずんでいったことです。はしっていると、ひきずられていくみたいになりませんでした。うかんでいるようなかんじでした。おともだちがいっぱいできました。またあうのがたのしみです。
ガーデンパーティ
実行委員会
8月1日(日)17時から恒例の藤沢教会ガーデンパーティが開催されました。暑い夏の夕べのひとときを信徒・地域・近隣教会の皆様で楽しみ、おおいに交わりを深める催しです。信徒有志の皆様のご協力により、飲食物、アトラクション、会場設営の準備も滞りなく進められて当日を迎えました。天気はまさに猛暑で最高。会場となる聖堂前広場には時間前から大勢の人が集まり、今や遅しと開場を待ちました。ややアバウトな開場とともにビール片手の団欒の輪が広がり、会場の雰囲気は一気に盛り上がっていきました。近隣教会では片瀬、中和田、原宿、戸塚などからの来訪がありました。富士教会の岩間神父様もお見えになりました。17時30分からはアトラクションとして、日曜学校の子ども達の歌、ベトナムコミュニティの歌と子ども達の民族舞踊、ファミリーバンドの歌と演奏、レオハワイアンズの歌と演奏、ハウオリフラレディースのフラ、鈴木神父様の歌、フィリピンコミュニティのバンブーダンス、ラティノスコミュニティの歌と演奏と、19時15分までの目一杯の時間、盛り沢山のエンターテインメントが続きました。特に、最後のラティノスバンドの演奏では飛び入りの踊りもあり、フィナーレを飾る楽しくも騒々しい時間となりました。まさにインターナショナルな交わりでした。大盛況のうちに終了した今年のガーデンパーティは、皆様に十分お楽しみいただけたことと存じます。終了後の後片づけを含めて、裏方でご協力いただいた皆様にはこの場をお借りしてお礼申し上げます。
長崎原爆65回忌―ある浦上キリシタン家族の記録―
藤沢1区 中島
昭和20年(1945年)8月9日九州一円の空には雲ひとつなく真夏の太陽が輝いていた。その日、私は大村(現在の長崎空港の所在地)の歩兵46連隊の現役兵として衛兵勤務についていた。当時連隊は市中の屯営を棄て、大村の東側にある山に疎開し三角兵舎を草木で偽装していた。従って衛兵勤務とは山の稜線をつなぐ歩哨所を守ることであった。私が交替する歩哨所に近づいたとき、紺碧の空の中でピカリと光ったものがあった。その直後強烈な爆風に背中を押され数歩よろめいた。背後を振返ると南の長崎市方面に真白い水蒸気のようなものが立ち昇り、その次には黒灰色の柱となり不気味な稲妻を発しながら雲となり拡がっていった。時に11時7分であった。長崎市と大村市とは直線距離で約40km、爆発地点はよくわからないながら、多分ガスタンクか石油タンクがやられたのではないか?というのが私たちの推定であった。そうであれば私の生家とはかなり遠い、私には安堵感があった。
私の生家は長崎市の西側の山側の北の方にあり、しかもその山には二抱えもある松の大木の林があった。その奥に東南に向けて開けたスロープがあり、200坪ぐらいの畑があり、北側は岩山で北風を防ぐ良好な場所でもあった。松の林との間には狭いながら小川があり岩清水は飲料にもできると判断し、私は入隊前日の夜遅くまで、当時よく行われていた家屋の間引きで放置された柱を町中から集め、中学4年の弟と共にリンカーンの山小屋式のものを作り10人ぐらい寝泊まり可能なものにしていた。また松林との間には岩清水の流れの小川が、非常の場合の飲み水となり得た。これが私の楽観の根拠であった。しかしそのような楽観がナンセンスとなる実態が出現してしまったのです。
私の実家から約500メートル、疎開先からは1,000メートルの大伯母の話は次の如くである。「私は11時少し前、地下3メートルの防空壕に中食のソーメンを取りにいきハシゴで出口近くに来た時『ピカツードン』が来た瞬間、外の景色は世の終わりの様、人間が空に舞い上がりリヤカーやら人家の屋根もグルグル飛んで空は真っ暗でした。私は気を失ってハシゴから落ち3日間眠ってしまいました。」
さて8月9日からの私はこのような非常事態を想像もできず8月10日の朝自分の兵舎に戻り疲れて眠りこけていました。そして夢を見ました。あまり見たことのない感じはしましたが母だと思いましたので「母さん、母さん」と呼びかけましたが何一つ返事がなく、腫れぼったい顔でジット私を見詰め頷いて悲しそうな顔をしてスーツと消えてしまったのです。時計は10時を少し回っていました。変な夢だとは思いましたが眠気が強くすぐ寝入ってしまいましたが次の夢も奇妙なものでした。妹弟4人で庭で縄跳びをしているが中学4年の弟、猛がいないのと全員私の方に顔を向けないしいくら呼んでも返事をしない。続いた夢はショッキングなものでした。家がないのです。生家は北は大通りでしたが東南には小川がありその側にはクチナシの生垣がありましたが一本もないし大きな蜜柑の木もサルスベリの木もないのです。小川の向かい側の道を私の父と叔父が喪服で歩いていくのです。ここまで夢を見て只事でないと今迄の楽観が消え不安が迫って来たのです。その不安を抱えて8月10日は過ぎたのですが、生家では思いがけない強力な助っ人がいてくれたのです。父の弟、政利叔父が8月9日大浦神学校に泊っていたのです。彼は昭和12年8月東京武蔵関の大神学校在学中、長崎教区からヴァチカンのウルバノ大学留学を命ぜられたのですが神戸から出港前日召集令状を受け大村連隊に入隊しそれから8年間、主として北支で転戦し偶然帰休許可を受け生家に戻ったが8月8日の夜は大浦神学校に泊りにいき8月9日の朝の原爆には直接被害を受けなかったのです。次にその叔父の8月10日以降の行動と状況を述べます。
彼は午前2時ごろ神学校を出発し、いまだ燃えている市街を避け大迂回して生家に到着し自宅と父母の死を確認し、疎開先の山に辿りついたのが5時頃でして未だうす暗い頃であった。爆風を防ぐと思った松林の巨木は根こそぎ捲きあがられ、根元を爆風が通って行った方向に向かって倒れ、小川の上をおおっていた。そこに弟の猛(中学4年生で柔道2段、100メートル11秒5)がよろよろと畠を歩いて大きな釜をさげて水汲みに来ていた。「猛か!」と大声で呼んだら「政利兄さん助けて下さい」(叔父が若いので母から我々兄弟姉妹は兄さんというようにと命ぜられていた)と言ったらバッタリ倒れて二度と立ち上れなかった由。9日から大火傷を負いながら6人の母妹弟のために自分の飲みたい水を凡て皆に飲ませていたようで本人の上半身が最もひどいものだった。信じられないだろうが猛は自分が釜一杯の水を与えると全部飲んでしまったという。でも母サクほかの妹弟は叔父がついたときはまだ生きていた。
8月9日の11時7分の状況は猛が米の配給30キロを担いで「帰ったよー」と姿を現し「兄ちゃんご苦労さん」と全員が出迎えた時に原爆が落ちたのであった。従って、全員が真正面から熱線と放射能を受けたことになる。その惨状の詳細については叔父は絶対に教えなかった。「それを言うとお前が一生苦しむことになる。すべて私が墓に持っていく」と。実際そうなってしまった。8月10日は10時過ぎ(小生の夢の時刻)母サク子は自分のロザリオを叔父に渡し「形見に」と話し1才の花子をしっかり抱いて荒い息の末期の際にイエズス・マリア・ヨゼフと祈り叔父から最後の水を与えられ帰天した由である。叔父は主の祈りや天使祝詞を祈るのが次第に大変になるのを見て、「イエズス、マリア、ヨゼフ」とだけ唱えよと命じ懸命に介護してくれたようであるが11日は3人が帰天し、残るのは小学4年の智子だけとなり、何とか一人だけでもと救護所に通いながら治療の合間に自らの妹、雅子叔母の遺体に接した。雅子叔母は長崎県立高女卒業後、幼きイエズス会の大阪信愛女学校に修道女志願を前にして事務をしていたが、空襲が激しくなったので長崎に戻り、長崎医大の永井隆教授のレントゲン教室で働いていたので、絶対助かっていないはずという予想であった。事実そうであって叔父は多分この骨がそうであろうと一体の遺骨を拾って来たのであった。13日は叔父の願いもむなしく智子も帰天し、8人の墓の土饅頭が畑に並び小枝で十字架を作りその上に氏名の入った防空頭巾を認識表の代わりにして、叔父は最後の智子の墓の上をおおうようにして倒れ、15日の午前中、介護兵に発見されるまで4日3晩の不眠不休の介護の疲れで眠っていたのである。
大村連隊では8月15日の終戦の詔勅が出たとき色々ごたごたがあったが、其れはおいて私は8月16日早朝大村駅から長崎に向かった。長崎市に近付くにつれて異様な臭いが立ちこめた。それは死んだ人間の屍体の匂いであり、人間の腐肉にむらがる蝿の羽音もうるさかった。私は生家と疎開先の山の家跡を見て事態を認識させられた。ただ墓の様子で叔父が手助けしてくれたものと察し、救護所、大浦神学校と聞き歩き、叔父の入院先の外科病院に辿り付いた。その病院の個室で叔父を介護している叔父の姉のシスター静子と会えた。宝塚仁川の幼きイエズス会本部からモンペに着替え、握り飯に塩を多く入れて長崎に向ったが、食糧を持ち合わせない娘と会い食糧を分けたらその娘さんはクワサキ病院の娘さんだったと分かり、叔父をリヤカーで入院させ得たとの事であった。そこで前述の被爆から一家の10名の最後が前述の様に叔父から語られたのであります。
浦上教会所属の信者は当時1万2千人、西田主任司祭、玉屋助任司祭以下8千5百人が死んでしまった。特に両神父は聖母の被昇天の大祝日の前の「告解」(ゆるしの秘跡)を与え乍らの死去であった由である。猶、8月16日で忘れられないのは、その病院に50才位の漁師数名が米軍機の機銃でうたれて物凄い悲鳴をあげ乍ら担ぎこまれた事である。ポツダム宣言受託後、米軍機は海上ではこんな暴挙を行っていたのである。暗い悲しみ、怒りを胸に私は午後部隊に戻った。
わが家族は10名の死者を出したが、考えて見ればその中でも恵まれていたと思われる。その第一は大祝日を前に全員が告解を済ませていたことである。その第二は大神学校生の叔父が居合わせた事である。末期の水を与えられ、最後のすすめもしてもらった母弟姉妹達は恵まれていたと思う。遺骸さえ分からぬ人が多い中、埋葬迄してもらえたのは本当に幸せと思う。母は叔父叔母とはとても仲良かった。熊本の島崎の修道院で仏人ブルトース神父に教育を受けた母は、聖職者希望の義妹弟と教義論争するのが楽しみであった。特に叔父を誇りにしていた。叔父は原爆25回忌の折、叔母の「宗教教育はしっかりしたものであった」と誉めていた。第三に谷川の岩清水の存在である。被爆者はそのひどい火傷故に水分が体から蒸発してしまうので水を欲しがった。浦上教会の横を流れる浦上川の油が浮いた汚れた水も争って皆が飲んだとの事、それに比べれば弟猛の9日いっぱいの水汲みの努力で、きれいな冷たい水が与えられたのはお恵みと思う。
私は部隊に帰り色々ありましたが11月30日復員し長崎に戻り、祖母の姪の宮田えきさんの四畳半の部屋にお世話になった。彼女は後に被爆者同盟の副会長を勤め、主婦連の支部長も長く勤めた女傑で、その夫は県立高女の副校長さんでした。当時は進駐軍の使役が町会に割り当てられ事があったが、私が凡て受けた。12月に入りクリスマスが近づいた頃、私は長崎駅近くに用事が出来、そこでバッタリ父と出会いました。父は長崎医大の事務官でしたが、45才前で海軍に招集され鹿児島に行っていました。終戦になり長崎の原爆を知り母の実家に立ち寄り様子を聞いたところ、「99年不毛説」が流布されていたので母の兄達から暫く熊本に留まりなさいと言われ3か月以上お世話になったのですが、矢もたてもの気持ちから12月長崎に向ったとの事、感謝と感激の対面でした。とその時3人のみじめな少年たちが私の上着を握って放しません。「何か用か」と尋ねると「自分たちは小倉で戦災ににあい親は死んで苦しんでいる。長崎にはゼノ神父さんが居て自分達の様な子供の面倒を見てくれると聞いた。ゼノ神父さんのところに連れて行ってくれ」と。私はゼノさんは神父さんでなく修道者であると語り、父とは西山の宮田さんの家にゆく道迄一緒で、それから本河内の聖母の騎士修道院でゼノさんに引き渡した。人々は長崎を去り99年不毛との世評はあったが、コルベ神父の遺産には集まって来る人も多かったと云う事だろう。
明けて昭和21年には叔父も佐賀の嬉野病院の温泉療法へと長崎を去り、その後武蔵関の大神学校に戻った後を追って私もアロイジオ塾に戻った。そこには舎監のゲッペルト神父が私の昔のままの部屋をキープして下さっていた。お礼を言うと「20年の3月焼夷弾が屋根に突きささった時銅板の上を登って引き抜いて空き地に棄ててくれた功績のためだ」と笑ってくれた。
昭和22年3月19日叔父は山口司教に大浦天主堂で司祭の叙階を受け直ちに長崎神学校の校長を命ぜられた。当時如何に神父が足りなかったか察せられる。前任校長は浦川和郎司教、里脇枢機卿で自分で良いのか?と悩んだそうである。叔父はその後、大浦天主堂の主任司祭、国宝大浦天主堂重要文化財旧ラテン神学校大司教館の管理、お告げのマリア修道会聖務司祭等等を勤めたが、75才を過ぎ原爆病が頭をもたげ始め、2004年4月13日88才に1日足りぬ生涯を閉じ帰天した。葬儀は長崎教区教区葬を以って行われ、浦上教会の北にある赤木のカトリック墓地の聖職者墓地に主の再臨と復活を望み深い眠りについている。
バザーについてのお願い
バザー企画委員会
今年のバザーは、藤沢ブロックが中心になって企画しておりますが、皆様のご協力を是非ともお願い致します。5月にバザー企画委員会を立ち上げて協議を重ねておりまして、今までに以下のことが決まりました。
開催日時:10月31日(日)9:30〜14:00
開催目的:
1.福祉関係支援と教会建物維持のために、
2.バザーを通して協働の喜びを味わうこと、
3.藤沢教会の守護聖人 「聖シモンと聖ユダ」に感謝して楽しく行うこと
キャッチフレーズ:「ともに 感謝して!」
聖堂内外、駐車場、センターホールを使い、売り場も大体例年同様です。9月上旬頃から、各売り場の準備及び全般的な運営にご協力いただける方々の募集に入らせて頂きます。聖堂入り口に例年のように「お手伝い表」を準備致しますのでどうぞ奮ってご記入下さいます様お願い致します。9月5日(日)ミサ後にセンターホールで1回目の売り場責任者会議を開き、具体的な準備作業を始めようと思っております。また各ご家庭にお配りするバザーのご案内及び賛助金の袋は10月1日の初金ミサの時に、各ブロックへお渡しする予定でおりますので、どうぞ宜しくお願い致します。
なお10月28日(木)「聖シモンと聖ユダ」の祝日には、典礼部に諮りながら、感謝の思いを表したいと思っております。十二使徒の一員である聖シモンと聖ユダが教えて下さる恵み、常にイエスから学び、イエスを証し続けたことへ想いを馳せる機会になる事が出来ればと思います。
今年もバザーが無事に行われますように、またバザーを通して共同体としての交わりが深まり、社会との関わりが広がりますように、皆様のご協力とお祈りを重ねてお願い致します。
ユースの会の3年
ユースの会 千古
30s(サーティーズ)と言う名で、2007年に会が立ち上がってからもう丸3年以上が経過しました。「3年なんてあっという間」と言いたい所ですが、このユースの会での3年は私にとって意外と長い3年だったような気がします。
ユースの会は、大きな藤沢教会の中で、日頃なかなか接点を持てない同世代間の交わりと、霊的な分かち合いをすることによって、皆が教会との関わりあいを深めることが目的です。よって一部おしゃべり好きなご婦人方から「あの会は合コンだ」と、お話の肴に会話を楽しまれていると聞き及びますが、そうではないので悪しからず…。ただ、男女間の出会いも色々。きっかけも色々。この会がその出会いなりきっかけとなれば、それはそれで素晴らしい事だとは思います…。
さて、話を本題に戻します。会では当日のミサの聖書箇所を中心に分かち合いをしています。立ち上げ当初は、人見知りなメンバーが多いせいか「分かち合い」と言うよりも「沈黙の会」と言っていい程おとなしい会でした。しかし会を重ねるごとに徐々に打ち解けて、今では積極的に分かち合って下さる方が増え、分かち合いの内容も多岐に渡り充実してきました。共同体との関わりが深まっていることを感じます。そして次の成長へのステップとして、今度は「聴く姿勢」で(積極的に分かち合っている方以外にも)参加者全員が分かち合いのお恵みにあずかることができるよう、分かち合いを深めて行きたいと願っています。
子供の頃長く感じられた1年間が、齢を重ねる毎に短く感じられてくると言います。それは子供の時に、生きていくための多くの体験や学習をしているからだそうです。この文頭で「3年間が意外に長かった」と感じたのは、私がこの会を通して多くの霊的な体験や学びをしたのだと思います。そして、同じようにメンバー一人ひとりにも神様のお恵みがあれば良いなぁ、と願っています。
★毎日曜どうしても通いなれた藤沢教会に足が向きます。他の教会の情報にも少し接したいのですが…。
☆最近共同宣教司牧の一環として近隣教会との交流がいわれています。相手を知ることがお付き合いの第一歩ですが、当教会には下表のとおり各教会から広報誌が届いています。
内容で共通しているのは巻頭言として主任司祭のメッセージ、委員会報告、活動部報告、行事報告、行事予定あるいは教会日誌、信徒の異動などですが、それぞれの教会固有のトピックスが中心です。ときには教皇庁の方針、横浜教区の課題に触れていることもあり、先の宮内司祭叙階式についてはすべての広報誌で取りあげていました。
個性的なのは由比が浜で、政治・経済・思想など時の社会問題への所見、提言などが「私の視点」として個人の経験を交えて毎月ページ別建で掲載されています。ちなみに7月号は「普天間問題」と「中国人就学生のエネルギー」でした。茅ヶ崎は4・9・12月の年3回発行ながら毎回約30頁の力作で、4月号には裁判員制度の紹介と解説、司祭年にカトリック新聞に掲載された「司祭燦燦」を模した第6地区司祭の登場など読みごたえのある記事が組まれています。また片瀬教会でも司祭年にあたっての特別企画として3月号から「歴代神父様の思い出」を連載しています。
これらの広報誌はホール2階の図書室入り口左側の一角に備えてありいつでも閲覧できます。少し続けて見ているとその教会の輪郭がおぼろげながら浮かんできます。お互いを知るための一助となるかもしれません。
夏休みも半ばを過ぎて、子供たちの日焼けした顔は益々輝いています。でも今年の夏は暑くて暑くて、ちょっと古くなった体はついていくのが大変です。今年は残暑も厳しいとか、皆様どうぞご自愛ください。暑さの中、今月の新刊をご案内します。 「人生の旅の目的地」─ときを生きる小さな試み集─ 「ガリラヤヘ─新たな出会いと出発のキリシタン史」 「修道院へようこそ」 |
≪小グループ活動紹介≫「聖書百週間」
善行 淺野、神山
新しい「聖書百週間」がこの秋に始まります。世界最大のベストセラーと呼ばれる聖書は、神様から世界中の人一人ひとりに深い愛を込めて贈られた愛に溢れた神様からのラブレター(愛の書)です。聖書百週間では、この豊かな愛に充ち満ちた聖書を1週間に1回(2時間)、季節的な休みも含めて約3年半を掛けて味わいながら読み通してゆきます。
ほとんどの方が、この長いように思える3年半を、完全に読み通すことのできる恵みに与るのは、やはり神様の深い愛に導かれてのことでしょう。参加されたそれぞれの方がそれぞれ一人ひとりに贈られた神様の愛を、他の方々にも分け合って下さることによって豊かな恵みに5倍にも10倍にも包まれる事が出来る2時間です。一人だけでしたら読み通すことの難しいと思われる聖書も、ともに旅する方々を通して喜びを何倍にも増やしながら読み通せることは嬉しいことでした。
「ヨハネの第一の手紙」の最初にこう書かれています。
◆命の言
1: 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。
2: この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。
3: わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
4: わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
9月5日には、淳心会(スクート会)のロベルト神父様が、より詳しい説明のために藤沢教会にお見えになられます。
合葬の園から(5)
建設委員会 辻垣
合葬の園の建つ「聖園の森」は濃い緑に囲まれ伐り開かれ、ぽっかり開いた明るい空間に様々なアゲハ蝶が梢を舞っています。7月10日(土曜日)、和野神父、聖心の布教姉妹会のシスター達、門倉組の社長、社員、職人の方に藤沢教会の信徒が加わり50人程で上棟式が行われました。手作りの料理が用意され、職人さん達とよい交流ができたようです。
四角錘の屋根の頂点に透明硝子のトップライトが入り礼拝室にやさしい光を振りそそぎます。今はまだコンクリートの荒々しい壁肌ですが漆喰が全面に塗られ、正面に榎(現場で伐採された樹の一部)の十字架が設置されます。その空間をイメージするだけでワクワクします。
3つの納骨室が礼拝室の廻りを取り囲んでいます。3つの納骨室に囲まれた礼拝室は死者と生者とを結びつける大切な空間でもあります。未完成ですが礼拝室を出てホールからゆっくりとこの納骨の部屋、部屋を回って見ました。縦長の窓が連続しています。その窓から南の樹、西から見える樹、北へとその時々の森の緑を見、湘南の潮風を感じることができます。納骨室も今はコンクリートの壁ですがやや赤味を帯びた珪藻土(七里の原料)が塗られる予定です。珪藻土は湿度を調整すると同時に臭気も吸ってくれる素材です。天井は間伐材の杉板が張られて欄間を通して礼拝室の高みへと登って行きます。納骨室には桧で出来た納骨棚が納められています。その中を歩くのは真に道行にふさわしい回廊になりそうです。屋根も葺け、全体像が見えています。「合葬される」喜びが徐々にですが実感できます。大地と合葬の園とを結ぶ橋を設置され、どなたでも室内を覗くことができます(現地工事責任者に声を掛けて下さい)。
今は大工さんと左官屋さんが仕事をしています。天井を張ったり、床の栗の板を張ったり、外壁の杉板や軒の板を張っています。その後を追い掛けるように左官屋さんが鏝を握って漆喰や珪藻土の下地を作っています。これから仕上がりに入ります。面白いです。8月に完成する予定でしたが、大工さんの仕事が思った以上に時間が掛かるようで9月迄1ヶ月延長することにしました。今年は何時になく雨が多く降り続きました。門倉組の大矢主任を始め職人さん達は休日も頑張って遅れを取り戻してくれました。本当に感謝です。あと2ヶ月足らず、安全な工事を祈りたいと思います。
八角塔の上棟式に臨んで
建設委員 高野
7月10日、前日までの雨は嘘のように快晴となった。合葬の園の八角塔の上棟式が和野神父の祈りと建物への聖水による祝別が挙行された。この日をどんなに待ったことであろう。この場所に決まるまで紆余曲折、悩みに悩んだ末に神様から与えられた地が聖園の別天地であった。聖心の布教姉妹会に感謝申し上げたい。神様のなさることは私どもに一番良い事であるということは、頭では理解しているのであるが、実際に困難にぶつかると、不平が出てしまう。しかしこの場所に、しかも多くの人々の協力を得て、門倉組という素晴らしい建設施行業者に恵まれ、辻垣さんの複雑な細部にまで心の通った設計を、20種以上の職方さんが現場に携わって建物を作り上げている姿は、一つ一つ違う音を出す楽器を纏め上げていく交響楽の指揮者を中心とした調和を醸し出しているようである。
この喜びを神様に感謝すると同時に、上棟式まで漕ぎ着けて下さった門倉組と多くの職方さんにお礼を申し上げたい。とくに今年の梅雨は雨が多く、工事も予想以上に困難であったことは、途中で何度か現場を訪ねた時に垣間見ている。たしかに合葬の園としての環境は素晴らしく、現時点では、この場所以外に何処にこんなに素晴らしい場所があるというのか、最高の場所を神様は選び与えて下さったのである。しかし、それは工事には多くの困難を伴うものでもあったのです。でももうすぐ完成です。
日本の寺にはその境内地に、墓地があるのは当たり前として不思議に思わないが、キリスト教の教会に埋葬施設が少ないのを不思議に思うことなく、今まで過ぎてしまったようである。私ども合葬の園を当教会にということで、最初に話し合ったのは、現在の教会の庭に合葬出来る園を作ろうということであった。しかしこれは保健所から拒否された経緯がある。でも神様の計画はやはり、現在地に私どもを導いてくださったのである。「神様は私どもの背負い切れない荷物は決して与えるようなことはなさらない」と、私は信じている。9月には、聖園の合葬の園の八角塔の竣工式を無事故で迎えることが出来ることを願うと同時に、信者のみなさまにご報告申し上げることの出来ますことを嬉しく思います。