八 角 形 に ゅ ー す
2010年11月28日
聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会
目次
「死者の月」にあたり…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・司祭 トゥ
国際ミサを振り返って・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ヴィラ
鵠沼ブロック集会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼1区 八子
第43回横浜教区一粒会大会 ―絶えず祈りなさい―・・・・・・・・一粒会 鈴木
一粒会大会に参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼3区 井出
合葬の園から(7)最終回―キリストのお墓―・・・・・・・・・・・・・・・・建設委員 辻垣
パスカのバス遠足・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂2区 中山
マドレーヌの会 年間報告(平成21年9月―22年8月)・・・・・・・・マドレーヌの会一同
藤沢教会を訪ねて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・池田市在住 廣瀬
2010年バザーへのご協力ありがとうございました。・・・・・・・・・・・バザー企画委員会
Q & A 「守護聖人」そのものの説明を平易にお願いいたします。
秘跡について考える (全12回) 第9回 いやしの秘跡※(2)―病者の塗油の秘跡・・横浜教区司祭 宮内
「死者の月」にあたり
司祭 トゥ
11月に入ると、冬の寒さを感じるようになり、また、今年も何とか1年が過ぎ去っていく気がいたします。教会典礼においても、間もなく待降節に入り、新しい1年が始まるのです。この1年の締めくくりとして、教会は私たちに「死者のために祈る」という「死者の月」を定めました。死者のために祈るとは、復活の信仰において、「死者が罪から解かれるよう彼らのために贖いのいけにえを献さげたのである(マカバイ記二12:43―45参考)」という大昔からの習慣を受け継いで、彼らが永遠の安息に与れるよう、祈ると同時に、私たち一人ひとりに「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう(ヨブ記1:21)」ということばを真剣に考え直すチャンスの時でもあります。
恐らく、人間の私たちは人生において、誰でもが次にあげる3人の親友を伴い、また必ず必要となります。
第1の親友は金銭です。人間にとって、金銭は大変魅力あるもので、生涯をかけて、絶えず求め続けるものです。この親友は人間に安定・安心をもたらすのです。第2の親友は親族です。親族は私たちにとって、同行しながら私たちを励まし力づけてくれます。しかし、場合によっては、私たちの妨げとなるかもしれません。そして、第3の親友は良心です。良心は私たちの耳もとで囁く親友です。時には、正しく導くために批判してくれます。そして自分たちに犠牲を払うことを教えてくれます。
人間の私たちが死を迎える時には、金銭である第1の親友は直ぐに私たちから去っていくのです。親族である第2の親友は私たちのために、涙を流してくれます。その後、私たちのことを忘れてしまうのです。しかし、良心である第3の親友はずっと私たちと付き合って、最後の最後まで私たちと一緒にきて、弁護してくれるのです。
11月のはじめに、「諸聖人」を祝うことによって、神様のもとへ召された先輩を思い巡らし、私たちが復活の信仰を信じ、すべての死者も、また将来の私たちも、永遠の安息に与ることができることを確信できます。それは私たちにとって希望と目に見える証になります。
この死者の月にあたって、永遠の命に招いてくださる神様に思いをよせて、私たちの先に天に召された方を祈りながら、自分の心を大切に育てて参りましょう。
教会委員会報告(2010年10月16日)
穏やかな雰囲気の中、各コミュニティーから大勢の方々が参加し、ミサが捧げられた
10月11日に開催した見学会は200名以上の方々の参加を得て大盛況であった。今後、管理委員会を6〜8人程度で発足したい。納骨室は720名分あり、現在約220名申し込み頂いた。第5地区の教会にも案内をしており、他教会からの引き合いもある
裏口階段手すり追加工事は完工。下の花壇は追加手すり側を広く空け、歩きやすくした。手すりは直線にして費用を削減した。約18万円
(予算は25万円)
聖堂冷房設置検討委員会を立ち上げる。メンバーが集まり次第発足予定。費用対効果を検討する事が大切であるので、専門家と一般の方を構成員とすることにする
4.バザー
詳細の詰めを進めているが、基本的には例年の通りの準備状況となっている。会場設置作業などについて男性の手助けが必要となっているので、呼びかけをしている
和野神父司式で祝福式を11月7日12時から行う。 申込用紙は聖堂入り口にある
11月14日9時半は司教様司式ミサ。ミサ後、前庭とホールを使用して信徒との懇談を予定。昼食後、第五地区宣教司牧委員会からの報告会が催される
秋の会が11月22日〜23日、鎌倉十二所黙想の家で開かれる
来年2月6日(日)に開催予定。第2部の分かち合いテーマを募集中。次回委員会までに牧野委員長まで提出のこと
次回委員会で検討をするので、11月14日までに財務担当に申請書を提出すること
(宣教)
・幼児洗礼を教育部と共同で企画。12月25日9時半ミサ中で行う
・一粒回大会が9月23日に行われ、藤沢教会から25名参加。宮内神父が説教
・神学祭が11月23日に日本カトリック神学院東京キャンパスで開催予定。今年も第5地区一粒会で バスを出すので、多くの方々の参加を希望する.申し込みは一粒会委員鈴木崇代さんへ
・市民クリスマスが12月11日(土)カトリック藤沢教会で例年の通り開催される。今年は事前のキャロリングが1週間前の12月4日(土)午後3時に小田急デパート1階玄関前で行われる予定
(典礼)バザー当日の10月31日(日)午前8時のミサにおいて、予定通り信徒教話を行う
1.小教区内三部門の進め方について
・祈る力:典礼関連
祈る力を育てることは、信仰のおおもとになるはず。また、すべての活動部は信徒の活動に対するサポートをするために存在する。現在は典礼奉仕について、典礼部サポートのもと各ブロックが輪番で担っているのは一例である
・伝える力:宣教関連
洗礼・初聖体・教会学校を卒業すると来なくなる人も多い。次世代を担う信徒を育成する観点から、今教会に来ている人が、より教会活動に関われるような施策が必要。例えば、中高生リーダーは日曜学校生徒の中から養成していくなど。第5地区の中でも次のリーダー育成をどうするかが『伝える』部門の重点項目になっている
・証しする力:福祉関連
福祉活動には海外支援も入れて欲しい。しかしながら、福祉活動は、まだ信徒全体の動きとなっていないので、皆への呼びかけを含めて具体的な広報活動もやっていったらどうか。教会の福祉活動らしく、祈りの中で神の言葉を伝える活動も取り入れながら進めてほしい。今年のバザーは、他からの福祉関連団体が25団体参加予定。活動についてオープンにして分かりやすくするため、毎月第2,3日曜日に福祉コーナーを開催している
2.教会委員会規約改正について
規約の精神、議決権、運営委員会との役割分担などに関する改正提案説明が、宣教部の岡田部長からあった。時間の関係で、次回の委員会で討議することとした
巡礼の旅:藤沢教会主催で、「出エジプト・聖地巡礼の旅」を計画している
国際ミサを振り返って
ヴィラ
藤沢カトリック教会はカトリック教会のさらなる豊かさと布教に向って国際コミュニティが協力していけるよう、異なる国からやって来た教区の人々の一致のために、あらゆる努力をしています。
2010年9月26日、国籍の異なるコミュニティの霊的交わりをより強めるために、藤沢カトリック教会において国際ミサが捧げられました。この意義深いミサは主任司祭の鈴木神父とトゥ神父によってとりおこなわれ、そしてより確固たる使命への道を励んでいく全ての教会員に力を与えてくださいました。参加したのは日本そしてベトナム、ラティノス、韓国、アフリカ、フィリピンのコミュニティです。各々伝統ある民族衣装に身をつつみ、喜びをもってミサ聖祭にあずかり、聖歌を共にうたい、それぞれの母国語で福音の言葉を分かち合いました。
実行に向けてさまざまな準備をしてくださった皆様、特に国際部の皆様に感謝いたします。この国際ミサによって外国籍信徒の間に実際に友情と前向きで積極的な力が生まれました。そして強い一致と仲間意識がもたらされました。藤沢教会フィリピンコミュニティは次回の国際ミサでの交わりを楽しみにすると同時に、神、教会そして人々への私達の使命を果たすことの出来るあらゆる教会行事への参加を待ち望んでいます。
鵠沼ブロック集会
鵠沼1区 八子
10月3日、秋の鵠沼ブロック集会がセンターホールで行われました。約50名が集まり盛会でした。ブロック集会は春秋の2回行われています。その時期の問題になっているテーマについて話し合います。
9月に行われたブロック連絡会でこの集会での議題をもとめたところ4つの提案がありました。(1)共同宣教司牧(2)合葬の園(3)高齢化するブロック(4)ブロックの葬儀―― この4つの議題を集会で話し合うのは多いかなと思いましたが、4つとも関連があるのでそれぞれ提案者から報告をしてもらいました。(1)はこれからの祈る、伝える、証するの進め方、(2)は10月11日の見学会の案内、(3)は近隣の方の助け合い、(4)は皆で行う葬儀について話がありました。この報告をもとに皆さんから意見を求めました。ブロック活性化のためにはブロック集会でのテーブルの座り方の提案から、司祭減少の中でブロックのの役割等活発な意見が出されました。
やがて昼食の時間となり、有志の作ってくれたちらしすしと豚汁をいただきました。食後は、11月は鵠沼ブロックのミサ当番なので役割分担を決めることができました。楽しく有意義な集会でした。
10月24日(日)9時半ミサにおいて、ボーイスカウト藤沢16団の入団上進式が行われました。トゥ神父様からネッカチーフを祝福していただいてから、ビーバー隊からベンチャー隊までの入団上進スカウト17名が「やくそく」や「ちかい」を立てました。
ちかいの言葉は、元気よく言えました。チーフを首にかけてもらったとき、とてもかっこいいと思いました。チーフリングもキラキラしていて、カブ隊になって、がんばるぞ〜と思いました。
しきは、リハーサルよりも大きく言えました。けいれいもちゃんとできました。カブたいになって、もっともっとがんばりたいです。
きんちょうしました。ぼくはしつかりやります。(本人キーボード初操作!)
私は、カブになって龍(兄)や友達と一緒に活動できるのが、とてもうれしいです。キャンプも早く行きたいし、チャレンジ章もたくさん取りたいです。
じょうしんしきのときはどきどきしました。カブたい、がんばれるかな?と思いましたが、がんばろうとも思いました。
上しんしきの時、ぼくはきんちょうしました。まわれ右だったのに、まわれ左をしてしまいました。ビーバーたいの時は、おかあさんがいたけど、カブたいからは一人でがんばりたいです。
最初は予想以上にドキドキだったけど、とっても楽しかったです。
ぼくは、初めてカブスカウトになって入団をしました。入団式はとても緊張したけれど、とても楽しかったです。がんばって、かっこいいボーイスカウトに上がりたいです。♪♪!!(※“♪♪!!”も付けて欲しいとのことです。)
僕はビーバー隊に入隊してからボーイスカウト活動を続け、今年で10年目に入ります。
楽しいことと同じくらい辛いこともありましたが、今振り返れば良い活動ができたと思います。10年目の活動でベンチャー隊として初めて兄弟で活動するので、少しだけ楽しみです。今になって考えると、ボーイ隊に上進したときに立てたちかいとおきてを実践できたのか少し疑問に思います。これからは、ちかいとおきてについて改めて考えて行動していきたいと思っています。
第43回横浜教区一粒会大会 ―絶えず祈りなさい―
一粒会 鈴木
9月23日鶴見の聖ヨゼフ学園で、今年も横浜教区の一粒会大会が開催されました。藤沢教会からはトゥ神父様、小学生7名、幼児1名、青年2名、その他大人14名の計25名が参加しました。子供たちにとっては普段乗らない電車やバスでお友だちと一緒に出掛け、一緒に遊んだり、お弁当を食べたりしたことが一番楽しかったようでしたが、そういう体験を通して、神様が身近になって行ってくれればと思いました。
午前中は「絶えず祈りなさい」の大会テーマの下、日本カトリック神学院の大山悟神父様による講話がありました。前半は子供と大人の両方を対象にご自分の召命について話され、そのお話からは、生活が苦しくとも家族の中に常に祈りがあり、家庭の中で信仰が育まれたことが伝わって来ました。後半は大人向けに司祭養成の現状と課題についてのお話があり、その時間子供たちは、別の場所でグループに分かれリーダーとともにお祈りについて話し合い、折り紙に自分の祈りを書きました。祈りの折紙はモザイクアートの台紙に貼り、完成図はイエス様となりミサで奉納されました。後半の講話では、熱心に話されるほどにスピードが増す大山神父様のお話を、十分には聴き取れなかったのが少し残念でしたが、一部をご紹介いたします。大山神父様は「存在する人すべてに対して『キリストを具体化していく司祭』『キリストを呼吸し示す司祭』を養成していこうとしている。キリストの心を分け与えていくのが司祭の仕事であり、今の時代にあってキリストを映し出すアイデンティティを持つためには、知的な面と共に霊的な部分つまり祈りや黙想が大切である。信徒の霊的、人間的なニーズに応えられない司祭では困る」と話され、召出しを困難にする種々の理由として、平和で豊かで安全な世界で神が見えにくくなっていること、そのため信仰に対する有益性がわからないこと、外へ外へと私たちを引っ張っていく力が強く、私たちにとって心の奥底へ入って行くことが難しいことなどを挙げられました。また、どういう意味で信仰が大切か、ということが、他の物事と同じ様に"物の次元""社会的次元""頭の次元"で説明されることが多いが、"宗教的次元"が大切なのだ」と強調されました。「私たちは神の似姿として生かされて生きる存在であり、神が分ち合って下さった様に吸う息、吐く息の中で分ち合っていく。キリスト者は"救い"を大切にする。イエスが人となられたことは救いの業であり和をつくりだすこと。父と子と聖霊の関わりの力は、向き合い同伴し一致すること。私たちはその様に招かれている」「イエスの御言葉が、私が今日生きる力になっているか?私が癒されているか?"イエスは今私とここにいる"のだ。それが隣人の力となるのだ」。
午後の梅村司教様主司式のミサでは、30数名の司祭団とともに700名以上の参加者が召出しのために祈りを捧げました。お説教は、宮内神父様が祭壇のある場所から下におりて子供たちに向かい、「自分がいい子だと思う人、悪い子だと思う人、わからない人」と質問し手を挙げさせるところから始まりました。「皆、神様から種をまかれて生きている、種は一つひとつ全部違う、悪い種は1つも無い。それがわかるためには、神様と関わり、自分が神様から抱っこされている赤ちゃんということを思い起こそう。その神様の愛をまわりの人に伝えていくことが出来ますように」とのお話でした。
絶えず祈ることの大切さを、一人ひとりが改めて思い巡らした1日となりました。
一粒会大会に参加して
鵠沼3区 井出
去る9月23日秋分の日、肌寒い小雨の天気の中、日曜学校の子供たちを引率して横浜市鶴見区の聖ヨゼフ学園へ行ってまいりました。トゥ神父様、子供たち7名(2年生4名、3年生2名、5年生1名)、保護者の方1名と幼児、日曜学校リーダー6名、中高生会リーダーの若者2名で、電車とバスを乗り継ぎ、元気のいい子供たちにちょっとハラハラしながら到着すると、会場には藤沢教会の信徒の方々もおいでになっていました。
今年の大会テーマは「絶えず祈りなさい」。日本カトリック神学院 大山悟神父様から、「私の召命」としてご自分の司祭召命について、子供たちへお話くださいました。長崎は平戸のご出身、農家でご家族が多く経済的に苦しく、またお母様がご病気であったこと、食べるお米がなくなると小学1・2年生であったご自分がご近所へお米を借りに行く役目であったこと、その経験から人のお世話にならないと生きてはいけないことを学ばれたと。テレビ・ラジオの無い家の真ん中の囲炉裏を囲み、お父様が聖書のお話をし、祈り、とくに正座をしながらのロザリオの祈りは、子供にとっては苦痛であったとのこと。お母様の胎内にいたときから、ご両親はこの子が男の子なら神父に、女の子ならシスターにと決めておられたこと(ご兄弟姉妹のうち、神父様の兄上が司祭、妹さんがシスター)。中学から小神学校へ行ったが、ちょうど反抗期、神様なんかいないと思っていたこと。ここで、神父様は子供たちへ「神様がいると思う人、いないと思う人、わからない人」と質問をされ、「神様を疑っても構わないんだよ、疑問は持ち続けていいよ。周りの大人に問いかけてみたらいいよ」と、自分の命を見つめる時、その答えが見えてくると、でも神様との出会いの場である教会を大切にしてほしいと、お話くださいました。
大人に向けての講話の中で、特に私の心に残った言葉は、「キリスト者の召命は、神が私たちを愛してくださっている事を伝えていくことです、神学生は信徒の皆さんの後ろ姿をみています、皆さんの信仰を輝かせて下さい」。「日常の中では、欲ではなく、キリストを中心にすると宝物が見えてきますよ」。平和で物質的に豊かで、自由な世の中にあって、子供たちに神様から愛されているんだよと伝える使命の重みを感じた一日でした。
帰る時には宮内毅神父様も一緒になり、電車が藤沢駅について解散する時、皆でちいさな円をつくり今日一日の感謝の祈りを共にいたしました。子供たちの心に、神様のお恵みの種がまかれた一日でした。
わたしは、9月23日、聖ヨゼフ学園に第43回一りゅう会大会に行きました。電車とバスにのって行きました。おひるでは、おにぎりを2つ食べました。全ぶ食べました。トゥイちゃんとティちゃんとでたべました。おやつはピザポテトとぷっちょを食べました。その後にミサがありました。1時間ありました。その後しんぷさまのしょうかいがありました。3時30分におわりました。つかれたけど楽しかったです。
わたしは、おひるのおべんとうがおいしかったです。たのしかったです。またいきたいです。いくときもかえるときもつかれました。次はどこにいくの?
しんぷさま、リーダーありがとうございます。今日一日たのしかったです。
わたしは、遠足でティと、かいりちゃんとミーちゃんとわたしで、おにごっこをやりました。おには、わたしでした。たのしかったです。あと、わたしと、トゥアンと、ティと、ニュットでかくれんぼをしました。おには、ニュットでした。つぎに、おにになったのは、ティでした。たのしかったです。あとティちゃんとおべんとうをいっしょにたべたり、はなしたりしたのがたのしかったです。あと、グループにわかれたときおねえさんとじこしょうかいで、わたしは、名前をいうとききんちょうしました。おねえさんは、やさしくゆっくりとおしえてくれたので名前をいってみました。わたしはおねえさんはやさしいとおもいました。
合葬の園から(7) 最終回 ―キリストのお墓―
建設委員 辻垣
9月20日合葬の園は完成し、引き渡されました。10月11日(祭日)には良い天気の中、10:30〜15:00迄見学会が行われました。善行駅からシャトルバスも20分毎に運行され、200人近い藤沢教会の方々だけではなく第5地区の信徒さんも参加されました。和野神父さん、川辺さんが運行を担当し、道案内役は建設委員会のご婦人方が活躍して下さいました。
この報告も最終回になりますので、一寸脱線して「キリストの墓はその時どうだったのか」を四福音書を読んで想像してみました。
2010年前キリストが埋葬された墓は当初から準備されたものではなく、父親ヨゼフ様の埋葬されていた先祖代々の墓に入った訳でもなかったようです。「夕方になってヨセフというアリマタヤの金持ちが来た。彼もイエズスの弟子であった。・・・ヨセフはイエズスの体を受け取って、清らかな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、その入口に大きな石を転がして置いて、立ち去った(マタイ27:57−61)」と書かれています。「合葬の園」がコンクリートと鉄骨と木材を用いてできているのと異なり、岩をくり貫き木の扉ではなく大きな石が使われていたようです。岩そのままではなく、多分合わせ目はしっかり石屋さんが閉めた時隙間の無いように加工したと思われます。祠の中は自然のままではなく、くり貫かれた空間で高さ2.0メートル、広さは3畳間位あったかなと当初は思っていました。広さについては、マグダレナのマリアともう一人のマリア(ヤコブとヨセフの母)の2人に現れた「主の使い」のマタイとマルコとルカの記述が異なっていて興味深いものがあります。
「主の使いが天から下って石に近づき、それをわきへ転がして、その上に座った(マタイ28:2−3)」、「墓の中に入った彼女らは、右手の方に真っ白な長い衣をまとった若者が座っているのを見て・・・(マルコ16:5)」、「中に入って見ると、主イエズスの御体はなかった。それで彼女たちは途方に暮れていた。するとまばゆいばかりの衣を着た2人の人が彼女たちのそばに現れた(ルカ24:3−5)」とあります。即ち主の使いがマタイでは墓の外に、マルコとルカは墓の中に存在したと書かれています。しかもマルコは1人が石棺(あったと想像)の右手に座っていたのであり、ルカは座ってとも立っていたとも書かず2人が現れたとなっています。大事なのは「なぜ、あなたがたは、生きているかたを死人の中に捜すのですか。そのかたはここにはおられません。復活なさったのです(ルカ24:5−6)」で、四福音書が共に「復活された」と書かれているところです。これぞ福音であり、キリスト者として生きるための源なのです。しかし、本質から外れますが3人の弟子達の記録からキリストのお墓を舞台として復活されたキリストを中心に、2人のマリア、主の使い、ペテロとヨハネのドラマをイメージすることは楽しいことです。お棺を中心に4人の役者が演ずるにはやっぱり8畳間は必要かなと推測して見ました(別図参照)。皆さんはどう思われますか。
パスカのバス遠足
辻堂2区 中山
10月20日、雨もようの天候を心配しながらの出発でしたが、降られることなくすばらしい一日となりました。以前の婦人同志会、現在のパスカ(過ぎ越しの意)は高齢司祭のための祈りと奉仕の会です。藤沢教会では松尾さんと八木さんがお世話役で、遠足、黙想会、新年会、観劇会、総会等の行事が行われています。今回は浦和教会を訪問しました。
さいたま教区長、谷大ニ司教司式のミサ、昼食をはさんで講演が行われました。テーマは憲法20条「信教の自由について」一見難解なので心配でしたが、スライドを使ってわかりやすく話して下さったので、昼食後の眠い頭でもしっかり理解することができて幸いでした。「キリスト者として、教育基本法、憲法20条を考えるために」と表題され、古代エジプトと現代を照合、現代社会に於いて搾取され、疲れ果てているサラリーマン世代は、古代のエジプト社会の奴隷と変わらぬみじめな状態なのではないか。古代エジプトのイスラエルの民、民自身の中にある奴隷根性について言及、民の解放に向けての主の証し、「エジプト」という地からの脱出と、染み付いた奴隷根性からの脱出とのために、「モーセの十戒」が新しい共同体作りの指針として与えられたのである。そしてこれは近代のヨーロッパ社会、アジア、日本にもあてはめることが出来るのでは?「モーセの十戒は世界で最初の人間宣言」。今までは字面を追うだけだったモーセの十戒が身近に迫り、遠い存在であった憲法にも触れることによって、とても充実したものになりました。
帰りがけに訪れた埼玉県近代美術館は広い公園の敷地の中に立つすてきな建物、開催中のアンドリュー・ワイエス展も素晴しいものでした。65才以上は無料、券を必要な方は僅かで、嬉しいような哀しいような心情の中で、茅ヶ崎教会の91歳のご婦人の参加は頭下がる思いでした。長い間この活動に携わられ、今も参加されているお姿は、お年を召されて色々な支障を抱えられる方も多い昨今、私達に一服の清涼感と励ましを与えて下さいました。バス2台分のメンバーの感謝と充足感を満載して、楽しいパスカのバス遠足は終了しました。神に感謝!
マドレーヌの会 年間報告(平成21年9月―22年8月)
マドレーヌの会一同
東テイモールの子供達支援の作業をこの1年間も予定どおりに続けることが出来ました。何時もお買い上げくださる皆様のご協力に感謝申し上げ、簡単な年間報告をいたします。会計の詳細は紙面の都合で記載いたしませんが、販売(マドレーヌ、ママレード、花布巾)の純益は232,200円、クリスマスチャリティコンサートその他のご寄付合計が181,600円で、総額413,800円の入金となりました。それを前年からの繰越金で補い、45万円を清泉侍女修道会"ラファエラ東テイモール子供募金"に寄付いたしました。なお教会には光熱費その他と僅少ながらホームレス支援お米代を納めました。
東テイモールの子供達の幸せを祈りながらのささやかな働きも9年目になりましたが、今年も来る12月4日(土曜日)午後2時より聖堂にて「クリスマスチャリティコンサート」を予定しております。今回は湘南マンドリンアンサンブルとアカペラコーラスグループ「シルバーセインツ・クインテット」のご厚意による開催です。入場無料です。どうぞお誘い合せの上ご来場くださいませ。
藤沢教会を訪ねて
池田市在住 廣瀬
・お茶の接待に感激
私たち夫婦2人は旅の途中、突然ながらカトリック藤沢教会に立ち寄った。以前から平野勝さんを存知上げており、機会があれば教会の庭を拝見したいと思って訪ねた。当日、教会では朝から庭の手入れや倉庫の整理をされている方々が来ておられ、シスターもお忙しい様子であった。ピアノの調律の音もしていた。そこへ私たちが飛び込んだ恰好で、時間の約束をしていなっかたが、平野さんとお会いしたいと告げると、「探してあげる」と言って、倉庫から出て駆けまわって下さった親切なご婦人が、「残念ながら、ご用でお帰りになったそうです。どーぞ、ごゆっくりなさって下さい」と一言。そのお言葉に甘えて庭を一巡りした。
思いを込めて植えられた数々の草木は、祈りの庭、憩いの庭、学びの庭、と名があった。懐かしい桑の木が大木となって葉を茂らせ緑陰に吹くそよ風が爽やかであった。葡萄棚の下には憩いのテーブルもあって、お茶の用意も忘れなく心がなごむ。びわ、ゆず、アロエなどが華やかな花の蔭にあり家庭的な温かさを感じさている。庭の管理は手がかかる仕事で、その日は皆さんが下刈りや草引きの奉仕をされていて、その中を拝見させてもらった。聖堂は八角形のユニークな建築で座席は堅苦しさがなく、天井は見上げるほど高くヨーロッパの雰囲気があり、おしゃれな淡い色ガラスが印象的であった。外に出ると、イギリス人と日本人の2人ずれが自転車に乗ってきた。しばらく彼らと話した。帰ろうかと思っていると、ティールームに招待して下さったのは森下さん。お茶とクッキーに感激。一介の旅人にお茶をもてなして下さったのが嬉しかった。夫と会話に入れてもらった。泉さん、片桐さん、夫の横に2人のご夫人と森下さんが同席。また、ベトナムのトゥ神父様にもお会いできた。帰りに売店にも立ち寄り、笑顔の応対に嬉しく思い帰阪した。
・藤沢教会に見る隣人社会
話は変わるが、最近の日本社会は親が何処に行ったか分からないとか、家族の誰かが出たまま帰らない、といったことがある。隣の人が誰か、何をしているも知らないというのは、昭和の時代には今ほど耳にしなかった。このような現象はそれなりの原因があると思われる。一つにはコミュニケーション不足と、お互いを思う気持が薄らいだ無縁社会の現われではないだろうか。これを止めるには、コミュニケーションの回復が必要で、まず声をかけることから始まるのではないかと思う。その意味から藤沢教会では人々を大切に思い旅人にさえ、茶をもてなす隣人愛の共同体が作られていると感じた。しかも国際的であることがすばらしい。かつて、イエズス会のヴァリニャーノが東インド巡察使に任命され、日本に3回来日した。その時、彼は古い日本文化に惹かれ、キリスト教の土着化にとって重要な布教体制を再編している。彼の著わした「日本イエズス会士礼法指針」の中には「茶の係り」がある。それは教会内外の接客の役目もあり、「看房(かんぼう)」と呼んで茶をもてなす重要な役割を担っていた。
藤沢教会では現代版「ティールーム」という形で、それを実行されているような気がする。「花一輪、茶一杯」という優しい接待に私たち2人は、心のぬくもりを覚え、楽しいひと時をともに過ごすことができた。
註:廣瀬敦子さんはキリシタン史研究家で『聖母の騎士』他に縷々寄稿されています。著書に『よみがえる明治の宣教師ハルブ神父の生涯』(サンパウロ)があります。(鵠沼3区 平野勝)
2010年バザーへのご協力ありがとうございました。
バザー企画委員会
皆様のご協力のおかげで、今年も無事にバザーを終了することができました。楽しい時間は瞬く間に過ぎますね。この喜びが、より良い共同体になっていく糧となりますように。また藤沢教会から周りの方々にも伝わりますように。守護の聖人、聖シモンと聖ユダに感謝して。
なお、会計報告は12月号の八角形にゅーすでお知らせいたします。
★7月号で「聖シモン・聖ユダ」についての解説をしていただきましたが、「守護聖人」そのものの説明を平易にお願いいたします。
☆カトリックの洗礼を受けるときにいただく洗礼名は殆ど聖人の名前ですが、それがその人にとっていちばん身近な守護聖人でしょう。
信仰の模範、先達である聖人の守護を求める祈りが、そのとりなしで神に通じるとされています。使徒パウロが第一コリント12章で「体は一つでも、多くの部分からなり、体のすべての部分の数は多くても体は一つであるように、キリストの場合も同様である」と説いています。キリスト者はただ一つの体である教会に連なっているという聖徒の交わりの考え方が守護聖人(天使の場合は守護天使)の背景にあります。
守護の聖人は個人のみならず職業、地域、国などにも及びます。たとえば聖ヒエロニムスは聖書をヘブライ語からラテン語に翻訳したことから通訳の守護聖人であり、聖アンブロジウスは4世紀頃司教として司牧にあたったイタリア・ミラノの守護聖人といった具合です。特殊な例として、ある病気の守護聖人というのもあります。たとえば聖アウグスティヌスは眼病の守護聖人となっています。これは眼病を守っているというのではなく、眼病の人がアウグスティヌスにとりなしを願うと効果があるという意味のようです。また、守護聖人は一対一の対応ではなく、一人の聖人が多くの職業や地域の守護聖人となっていることもあり、一つの職業、地域に多くの守護聖人がいることもあります。
日本の守護聖人には聖母マリア、日本26聖人、聖フランシスコ・ザビエルなどがおります。ちなみに、2011年度の典礼暦から、聖フランシスコ・ザビエル司祭の祝日(12月3日)の名称に下線部分が付け加えられ「日本宣教の保護者聖フランシスコ・ザビエル司祭」に変わるということです。直接ご利益を求める日本の民俗信仰の神々と違って、実在した先達の神への「とりなし」がキーポイントでしょうか。
これまで「Q&A」を連載してきましたが、実際にご質問があった場合に関係先の了解をいただき解答を掲載することといたします。教え、典礼、習慣など教会に関することでのご質問を気軽にお寄せください。
22年前、まだ婦人部という名称があった頃でした。婦人部の世話係をなさっておられた根本さん、大森さんから「クリスマスのオーナメントなどを作りましょう」と、お誘いを受けたのが始まりです。色々と相談した結果、ぬいぐるみを手懸けることにし、その型紙は、私が師事している青樹会の青木多賀子先生から戴けることになりました。グループ名は、大森さんの手元にあったペンションの本の中で見付けた「ふんわりこん」を名乗ることにしました。名前の如く、ふんわり、ふんわりの雰囲気のお仕事です。
永い間には、お仲間の中に、出産、子育て、入学、進学、病いなど数多くの出来事がありましたが、その度ごとに、まわりの皆さんの行き届いた気くばりと助け合いがあり、心暖まる感動を味わいました。お仲間の中には、教会外の方もいらして、話題も多く、賑やかで楽しく、時のたつのも忘れるくらいです。22年はあっと云う間に過ぎました。イースターグッズ、3月のお雛さま、5月の金太郎、ハローウィングッズ、クリスマス、お正月の干支などが主な作品です。恒例の10月バザーでは、手芸売場の一角で作品を販売しています。12月のミニバザーでは、クリスマス用品やお正月の干支を販売しています。毎度大勢の方が作品を心待ちしていて下さるので、とても嬉しく張り合いがあります。ふんわりこんの作業は毎月第2、第3火曜日の10時から16時までです。出入りはどなたも自由です。
(鵠沼3区 平野きく子)
秋も深まり寒い日々が続きます。大切な人々へのクリスマスメッセージに売店では数多くのカードを用意しております。来年のカレンダー共々早めにお求めください。なお、お当番が不足しております。月一度でも結構です、ご一緒にいかがですか? 「クレド(わたしは信じます)―キリスト教の信仰告白」 「信教自由の事件史」―日本のキリスト教をめぐって 「みことばフォトブック」 |
秘跡について考える(全12回) 第9回 いやしの秘跡※(2)―病者の塗油の秘跡
横浜教区司祭 宮内
※前回のテーマは、「和解の秘跡(1)−ゆるしの秘跡」となっていましたが、「いやしの秘跡(1)−ゆるしの秘跡」の間違いです。本文中の「和解の秘跡」も「いやしの秘跡」に訂正して下さい。「和解の秘跡」という呼称は、主にゆるしの秘跡に用いるものです。
今回は、病者の塗油の秘跡(以下、塗油の秘跡)を扱います。塗油の秘跡は、かつては「終油の秘跡」と呼ばれ、キリスト者の生活の完結のための秘跡であると考えられており、危篤の状態にあるキリスト者だけに授けられていました。
しかし、現代においては病気または老齢のために危険な状態にある人であれば、危篤であるなしに関わらず、つとめて塗油の秘跡を受けるべきであると考えられています。危険な病気のための外科手術の前や、老齢によって体力が著しく減退してくる場合なども、この秘跡を受けるふさわしいときとなります。
それでは、塗油の秘跡は何のために受けるのでしょうか。このことに関連して、2つの点を指摘したいと思います。
塗油の秘跡の大事な目的の1つは、この秘跡を受ける人に神への信頼を深めさせることです。病気の時、わたしたちは不安や絶望に囚われ、周囲の人に対して心を閉ざしてしまいがちになります。同時に、神を信頼する気持ちを持ち続けることも難しくなるでしょう。実際、神への信頼が失われると、生きる希望そのものも萎えてしまいます。
しかし、神への信頼を保つことができるならば、病気は自分の成長・成熟のための機会となります。病気によって、人は自分の限界や無力さに直面することになり、ありのままの自分を神に向かって差し出すチャンスを与えられるからです。つまり、塗油の秘跡は、病の苦しみの中にある人が、神を信頼する心を持ち続けることができるように助け、その人に生きる希望をもたらすためにあるのです。
2つ目の大切な目的は、この秘跡を受ける人がイエス・キリストの受難に一致する・与るということです。福音書において、イエスは病者を特に大事にされました。同時に、彼は十字架上での計り知れない程大きな苦しみを経験されました。ですから、病に苦しむ人が、病者の秘跡を受ける時には、特別な形で、すすんで受難に向かわれたイエスと出会います。イエスはその人を慰め、力づけてくださることでしょう。
また、福音書において、イエスは御自分と出会った人々を、召し出し、使命を与えて派遣なさいました。ですから、塗油の秘跡を通して、イエスはその人を召し出し、病者としての特別な使命をお与えになります。どんな使命でしょうか。それは、御自分の苦しみをすべての人の救いのためにおささげになったイエス・キリストと共に、自分自身をささげていくということです。
なお、塗油の秘跡は、ゆるしの秘跡と聖体の秘跡(聖体拝領)と共に行なわれることが理想とされています。ゆるしの秘跡も聖体の秘跡も、塗油の秘跡と共に「いやしの秘跡」であり(聖体は入信の秘跡でもあります)、これらを連続して受けることが人間全体のいやしと救いのために望ましいと考えられているからです。
鈴木神父の川柳(続8)
編集部編
今回はC年その3です。( )内は鈴木神父の注記です。
2010年
6/6
パン五つ魚二匹はわたしたち
(キリストの聖体)「ルカ9・11b-17」
(聖体が意味するキリストの生き方は五千人以上の人々に差し出された
五つのパンと二匹の魚であり、そこに神の救いの不思議がある)
6/13
赦された思いがあればそれなりに
(年間第11主日)「ルカ7・36-8・3」
(神の赦しには人間誰しも気づくことがある。
その人なりにそのことを大事にすれば救いが見えてくる)
6/20
「捨てられぬ」思うわりには捨てている
(年間第12主日)「ルカ9・18-24」
(人間はなかなか自分を捨てられないと思う一方、
当たり前のように意識せず十字架を引き受けているのは不思議)
シスターも土曜の夜にミサ済ませ
(日曜日は主の日というのがキリスト教の伝統だが、現代は変わる時なのかな???)
6/27
覚悟する時がくるまであちこっち
(年間第13主日)「ルカ9・51-62」
(聖霊がちゃんと働いていらっしゃるのでわたしたちでも時が来れば覚悟できる)
7/4
どれ明日は何も持たずに出かけるか
(年間第14主日)「ルカ10・1-12,17-20」
(何か自信のある所で証しや奉仕を考えがちだが、イエスは何も持たずに行けとおっしゃる)
7/11
問い方で答えも変わるやわらかさ
(年間第15主日)「ルカ10・25-37」
(イエスは相手が真意を出してくるのを待ちながら導いている)
7/18
「ありがとう」いつかマルタに言わなくちゃ
(年間第16主日)「ルカ10・38-42」
(マルタの失敗のおかげで人間の常識を超えた必要を学んだ。失敗も充分意味がある)
7/25
求めてももらわぬうちにあきらめて
(年間第17主日)「ルカ11・1-13」
(求めたら与えられると信じられる経験があるだろうか)
8/1
よく見れば似て非なるもの貧と貪
(年間第18主日)「ルカ12・13-21」
(神の前に豊かになるのが分ける貧しさ、自分のためだけに豊かになるのが貪欲)
8/8
逆境の中でもじっと待てるかなあ
(年間第19主日)「ルカ12・32-48」
(人間にはどうも平和を実現する力が足りない。神の救いを待たねばならぬ)
8/15
五十年信じ続けて疲れたかい
(聖母の被昇天)「ルカ1・39-56」
(主がおっしゃったことは必ず実現するという信仰を生き続けるだけで素晴らしい)
8/22
手放して戸口をくぐる賢さが
(年間第21主日)「ルカ13・22-30」
(なかなかこの賢さがねえ…)
8/29
外野手も下がれないほどへりくだり
(年間第22主日)「ルカ14・1、7-14」
(どこまでバックしましょうかねえ)