八 角 形 に ゅ ー す
2012年5月8日
聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会
目次
かけがえのない一日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・聖心の布教姉妹会 Sr.菅原
「キリスト教章」と被災地ボランティア・・・・・・・・・・・・・・・藤沢16団副団委員長 岡田
支援に感謝・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・桜の聖母学院高校 濱野
靴の紐を結ぶ時間・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大庭 池田
茅ヶ崎にあったベネディクト会修道院・・・・・・・・・・・・・・鵠沼3区 高木
俳 句 (亡くなられた風間さんを偲んで)・・・・・・・・・・・・藤沢3区 前田
かけがえのない一日
聖心の布教姉妹会 Sr.菅原
若葉の緑も清々しく風薫る5月となりました。聖母月にあたり愛に満たされた方、聖母マリア様と共に、今も深い心の傷を負い、困難な生活を強いられて苦しんでおられる被災地の方々と心を合わせて、今日一日の全てを神様にお捧げして過ごしたいと思います。
聖家族のご生活も山あり、谷あり・・そして何よりも平凡な毎日だったことでしょう。私たちの生活も単調ですが、その中に神様からのサプライズ・プレゼントが用意されています。今日も合言葉は「fiat」。そして子どものような単純なまなざしで生きることができますように・・・
私は小学生の頃、母とお菓子作りをすることが好きでした。何か違う材料を入れた時に取り除くか、かき混ぜてしまうかにより出来上がりが違うものとなったことを思い出します。それは人生のレシピを考えた時に、かき混ぜたほうが(希望とか、悲しみ、不安、喜び、痛み、恐れなどの体験)神様の望まれる自分になっていくという「恵み」を日々の体験から頂いているということ。そしてこの体験こそが「聖なること」ではないでしょうか。そこで私の内なる「聖なること」について分かち合いたいと思います。
ふと、ある神父様が「一人ひとりの人生が第5福音書です。」とおっしゃっていたことを思い出し、「年齢を重ねれば重ねる程、愛し愛される女性に、シスターになって下さいね。」という言葉とリンクしました。自分の内なる「聖なること」との出会い、また、他人の内なる「聖なること」との出会いにより、愛は深められていくのではないでしょうか。出会う人に、「どんな状況であっても、あなたに対する神様の愛は変わりませんよ。」と伝えていきたいですし、それが私にとってキリストの命を生きることです。神様の恵みは汲みつくせません。いのちは毎日新たに始まります。
神聖な生地になるには一生涯を要します、ね。イエス様・・
教会委員会報告(2012年4月21日)
1. 聖週間
・ 聖木曜日:侍者の立場からは洗足式の場所が祭壇の前でやりやすかった。使用後のタオルの置き場所を来年は考える必要がある
・ 聖土曜日:蝋燭を300本用意したが足りなかった。来年はもう少し多く用意すると共に「マイ?燭」を持参していただくことも提案してみたい
・ 復活の主日は大変に大勢の参加者だったので、聖体拝領の時にオルガンの横が混雑した。来年は案内の人を増やす
・ 朗読について国際部から「母国語で朗読したい」という希望がでている。国際ミサなども含めて話し合いを続けていきたい
2. 入信式(4月7日)・幼児洗礼(4月15日)
復活徹夜祭で9名の入信と1名に堅信が授けられた。4月7日に1名と4月15日に1名幼児洗礼が授けられた
3. トゥ師送別(4月8日)
簡単な茶話会を実施した。トゥ神父様は元気に雪ノ下教会へ赴任された
4. タム師叙階式(5月29日)
ベトナムで行われる叙階式には司教様の代理として鈴木神父が列席の予定。その日に向けて、4月22日(日)から共同祈願に入れる
1.藤沢教会の将来ビジョン
小教区のありのままの姿を様々な角度から見ることで、よりよい取り組みを識別していくことができるように、2020年ビジョン アンケート(案)の使い方やたたき台についての説明があった。アンケートの目的はあるべき姿を描いてみて基本方針の4つを考えるためのもので、やり方として各ブロックと活動部はこの趣旨のわかる範囲の方から、聞き取りや記入をしてほしい。集まった意見から現状把握や意識の確認ができるのではないかと思っている。6月の共同宣教司牧フォーラムで反映できると良いと考えている
・ 4月末までに各委員は「2020年ビジョン」に関しての意見を提出する
・ 5月6日(日)までに各委員はアンケート(表現も含めて)についての意見を提出する
・ ブロックの特性に合わせて工夫する
・ 若い人たちの意見は教育部・ユースの集い・中高生会の協力を得たい
・ 国際部はヒヤリングで協力をお願いしたい
・ 難しいという意見も多かったが、教会の未来について問いかけられたことは良かったという感想もあった
2.訃報等の連絡について
・ 教会からは各ブロックの代表に連絡がいくがその後、各ブロックでどのように伝えるか(メール・ファックス・電話など)検討してほしい
・ 八角形ニュースが発行された翌週(基本は第2日曜日)の共同祈願で、名前が記載されていた方のために祈る
(鵠沼) ヘルプ喫茶や中高生会が喫茶をやらない日に、お茶をだしたい。長期的にできる方法考えている
(北1) 6月2日に黙想会を聖心の布教姉妹会本部修道院で実施予定
(北2)北ブロック(北1・北2)として5月20日にバザーティームを立ち上げる
(宣教)
・ 5月26日に第21回キリスト教セミナーを開催(主催:第5地区7教会) このセミナーは未洗者やお知り合いの方を誘って来ていただくことを目的にしている。案内を聖堂に置くので「受講者カード」をプレゼントしてあげてほしい
・ 4月22日から「堅信」の準備講座開始 中高生24名、ベトナムコミュニティー13名、フィリピンコミュニティー11名、大人6名の申込があった
・ 6月3日に共同宣教司牧フォーラムを実施し、藤沢教会の将来ビジョンについて話し合う予定
(典礼)
国際部からの「母国語」で朗読したいと言われている件について
・ 日本語のミサに外国籍の人たちも参加しやすくなるように工夫する
・ ミサ全体を損なわないように、典礼部と国際部で相談しながら考えていく
(教育)
・ 4月15日(日)日曜学校入学式6名
・ 5月13日(日)日曜学校保護者会/スカウトバザー
・ 5月20日(日)第5地区教会学校運動会
(福祉)
・ 南相馬の仮設に行ってきた。今後、生活復興のためにできるものを考えていきたい
・ 5月20日(日)10時30分から二宮教会で「放射能測定グループに聞く福島の人たちの現在」という講演がある。主催は第6地区福祉委員会
・ 共同宣教司牧ティーム神奈川から「2012年度研修・養成コース」の案内がきている。全体から募るが参加は教会からの派遣です。活動部は窓口担当として推薦してほしい。詳しい書類は事務所にある
・ 盗難注意 イースターに貴重品の盗難があった。ミサ中も貴重品は手放さないでほしい。
理加と藤沢教会の親愛なる皆さま「実り多き四旬節、そして、幸せな御復活祭に」
今年の御復活祭はとても早くて、新年のカードを書いてから数日しかたっていないような気がします。同時に、あなたの美しい国、日本そして福島が地震に襲われ、恐ろしい津波に破壊されてからちょうど一年が経ったのですね。月日の経つ早さに驚かされます。そのようにひどい災害がもたらす日本の人々の苦しみと衝撃を私たちは知っています!壊されてしまった全てのもの、社会や人々のネットワークを復興復旧するその苦悩を知っています。私たちも自然災害や民族の争いが続く中で苦しみ続けています。地滑り、洪水、飢餓などの自然災害に対する苦悩、そして、内戦あるいはウガンダ近隣の国々、例えばスーダン,コンゴ、ルワンダ、ブルンディ、ソマリアそして緊急事態に直面しているリビア、との紛争という罪悪に対する苦悩。目下のところこれらの国々からの避難民20,597人を私たちは預かっています。さらに国境には何千という難民が国境を越えるのを待っています。
私たちは日本の皆さんの苦しみと共にあります。長年の私たちの間の絆を通して、また精神的、物質的援助を通して、とてもたくさんの勇気を感じています。とは言え、私たちの方はもっぱら皆さん一人一人に対する思いと祈りにとどまりますが。これが私たちに出来る全てなのです。
ここでの生活は通常通りに繰り返されます。2011年10月から何カ月もの間。気温はひどく高く30〜40℃です。全ての水源が枯渇しあらゆる場所で火事が起こり、難民の小さな小屋や野菜までも燃えてしまいました。雨季はまた新たな地滑り、洪水、さらにマラリア、コレラ、エボラ熱などの病気の恐怖と共に今やって来ようとしています。これらの困難の中、56歳になる私はありがたいことに健康です。皆さんの支援で法学を学んだヘンリーも元気に勉学を再開しています。パルチェリアも家族と共にカムパラで活躍しています。
最後にお伝えしたいことは、私たちの一人が栃木県のARI(アジア学院)で9カ月の研修をうけることになったことです。彼の名前は、エマニュエル セムピラ(Emmanuel Ssempira)、私の素晴らしい助手です。研修を終えると避難民たちからコミュニティの総会長に選ばれたNtegyeyeを引き継ぐ予定です。どうぞエマニュエルのために祈って下さい。また日本にいる間、彼を暖かく迎えて下さい。
皆さんの愛と支援に感謝し、この四旬節と御復活祭の間私たちの思いと祈りを届けます。エマニュエルは2012年3月29日に栃木県に到着し、そこからこの手紙を投函します。
アレルヤ、アレルヤ、キジト神父
(鵠沼2区 徳永)
復活祭で9名の入信と1名に堅信が授けられ、2名の幼児洗礼が授けられました。藤沢共同体の仲間になられた皆さまを心から歓迎しお祝い申し上げます。
4月7日、聖堂いっぱいの信者の方達に祝福の拍手を受け、生涯忘れ得ぬ洗礼式になりました。心から神父様はじめ信者の方にお礼の言葉を声を大にしてありがとうございましたと申しあげます。数日前より洗礼のことを考えると眠れぬ日が続きましたが、代父の高野修様より気を楽になさいとの言葉にかなり楽になり、当日は落ち着いて式を終えることができました。これも神様のお陰です。式でのトゥ神父様の一言一句を理解することができて倖せでした。共に洗礼を受けた方達に遅れることなく神様を信じ教会行事に参加致したいと思います。
さて洗礼を記念して日ごろたしなんでいる短歌を詠みましたのでご一読下さい。
・ 心からつつましやかにひかえめに生きると決めて洗礼を受け
・ 神様の御指示と思う洗礼は心あらたに生きると決める
・ 教会を支える者と目覚めたる神の御意志と胸に刻みて
・ たっぷりと枝を広げて桜咲く復活祭の教会広場
・ わが柩まもる人など居なくても神に祈るをよろこびとする
洗礼を受けるにあたり代父の高野修先生、聖書勉強会での前山委員長様、岡田友季子様、通山イツ子様、その他教室でお世話になった方々に心よりお礼を申し上げます。皆々様、心より御礼もうしあげます。最後にマザーテレサの言葉でしめくくらせていただきます。
「この世で最大の不幸は貧しさや病ではありません。誰からも自分は必要とされていないと感じることです。」
皆様のおかげで洗礼を受ることができました、ありがとうございました。まだまだ勉強が足りませんが、とてもさわやかな気分で毎日過ごさせていただいております。皆様にお教えいただきましたように、毎日お祈りを欠かさないことを心がけております。入信を決めてから何が変わったかと申しますと、それが一番変わったことかもしれません。
毎日お風呂を終えて、1日の汚れを落としてから、鏡の前に座り、鏡を見ながら、化粧水をつけながら、自分の顔を見つめて、そして、
思い、あっ、あれがほしいこれがほしいと考えてしまっている!
言葉、あっ、噂話に花を咲かせてしまった、あっ、嫌味を言ってしまった!
行い、あっ、食べ物を粗末にしてしまった、あっ、物を大切にしていない!
怠り、あっ、洗濯面倒くさいな、明日にしよう、あっ、友達にありがとうというのを忘れてしまった!
毎晩山のように神様に告白をおえ、そして1日の終わりにお祈りをします。
最近はこの告白とお祈りによって、何か気持ちが落ち着いて安らかになります。明日を大切に過ごすエネルギーをいただきます。いつか告白が減ったら、神様に近づくことができるでしょうか?そんな日が来ることを期待しながら、今日もたくさん告白することがありそうです。
さて、人生というシナリオの、色々な悲しい場面、苦しい場面、怒りの場面、喜びの場面のなかで、色々な自分の役をこなしてきました。どれも自分にぴったりの役をいただいたとは思えませんでした。しかし、今いただいている自分は、今まで子供の時からずっと探していた自分らしい自分の役をやっといただいたのではと思っております。とくに今、社会的に素晴らしいことをしているわけではありませんが、素直に自分を受け入れられる、そういう自分を探し当てたことをちょっと誇らしく思っております。そのためにも、いつまでも入信を決めた時の気持ちを忘れず、お祈りして生きて行きたいと思います。どうぞこのような私ですが、よろしくお願いいたします。
洗礼を受けようと思ったのは、結婚がきっかけでした。洗礼を受けるにあたり、イエスのことをもっと知りたくて入門講座へ通い始めました。全く分からなかったことも徐々に分かるようになり、講座が終わった日には主人と分かち合っていました。
講座に通っている途中に悲しい出来事が起こり、精神的に落ち込みました。自分がこんなに落ち込むこむなんて信じられませんでした。何をしても楽しくない、やる気も起こらない、目の前も見えていない状態・・・。自分でも何かが変だと分かっているのに、変え方が分からない。そんなもどかしさが5ヶ月ほど続きました。
そのような中、ある人から言われたことがありました。「大人になりなさい」と。最初は理解できませんでしたが、数週間その言葉を考えるようになりました。なぜこの人に言われたんだろう、なぜこの状況なのだろうと。ある日、ふと気が付きました。これは、イエスが何かをもたらしてくれたのかもしれない。そう思いはじめると、こころがスッとしはじめました。そして次の朝、卵の殻を薄皮から破って出てきたかのような感じでした。生まれ変わったかの様で嬉しさが溢れていました。
ところで、10年ほど同じ内容の夢をしばしば見ることがありました。夢の中の私は、探し物が見つからなく焦っているのです。洗礼を受けた数日後、私の夢に変化がありました。その探し物が見つかったのです!この夢に続きがあるなんて驚きました。夢で見ていた探し物は私にとっての何の意味かはまだ分かりませんが、私は救われたんだなぁと感じました。これから探していたものが何なのかが生きていくうちに分かっていくのだと思います。これから色々な事があると思いますが、皆さんと共にイエスと共に歩んで生きたいと思っています。
4月7日聖土曜日、満開の桜がこぼれる中、復活徹夜祭で洗礼のお恵みをいただきました。この日を迎えるにあたりまして多くの人々の支えと励ましをいただき、感謝の気持ちでいっぱいです。当日は、今までお世話になった方々がお祝いに駆けつけてくださり、ご挨拶を交わすうちに、皆さまが私の心に蒔いてくださった種の芽生えを感じました。
これからは共同体の一員として、神様からいただいたお恵みを、私にできる形で表していきたいと思っています。どうぞ皆様のお導きをよろしくお願いいたします。
今、キリスト者として毎夕静かな祈りの時を持てることはこの上ない喜びです。私の人生にこの様な素晴らしい日々が待っていてくれたことを改めて感謝申し上げます。神に感謝。
この春、洗礼のお恵みにあずかり「おめでとう」「よかったわね」とたくさんの方から笑顔で祝福していただき、心から嬉しく思いました。
自分と神様との出会いといえば、祖母と母がクリスチャンなこともあり、幼い頃は祖母の家に泊りに行くと日曜日の朝は一緒に教会につれていってもらったり、寝る前にお祈りをしたりと身近なところにあった気がしますが、大人になってからは、興味はあるものの忙しい日々の中今一歩前に進めないまま、これまでを過ごしてきてしまいました。
自分が人の親になり、子供のためにも自分のためにも強くて優しい人になりたいと思った時に、ふとクリスチャンだった優しくて芯のある亡くなった祖母のことを思い出し、教会にいってみようかなと思い再び教会の門戸を叩きました。そしてこの1年間出会ったいろいろな方に支えられて、この日を迎えることができました。みなさまありがとうございました。そして、導いてくださった神様に感謝しています。
日常生活が劇的になにか変わったわけではありませんが、なにか心の中に柱ができ少し強くなれたように思います。神様を信じ、日々の一つひとつの出来事に「ありがとう」と思えるように、そして、どんな時でも神様がそばにいてくださることに安心して、こころの中に大きな柱のある人になっていけると嬉しいです。神様とともに、神様のお導きのもと、みなさんと一緒に過ごすことができますように。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
4月7日の夜は、念願の洗礼を受けて安堵感で一杯でした。それから日が経つに従い洗礼、堅信、聖体の儀式等が思い出され洗礼への実感が次第に湧いてまいります。2年前突然病で他界した妻への想いから洗礼を決意したのは、敬虔なカトリック信者で結婚以来50年余りの間、日曜日には嵐の日も雪の日も又旅先でも、絶対に欠かさなかった教会での祈り・・・。それ故に人並みの日曜の朝寝坊は遂に叶う事がなかった生活ではありましたが、不思議に悔いもなかったのは妻へのささやかな協力であったのかも知れません。長い間の故人の生活を支えた凛としたバックボーンは、きっと神への祈りにあったと思われます。そんな故人の生きざまに感動し、残り少なくなった今少しでも亡妻と同じ想いをしたい一心で洗礼を受けました。
今日も昨日と同じように1日が明けました。さてどのように生活を変えていったらよいか全く分かりませんが・・・。小さい頃、カトリック系の幼稚園で過ごした懐かしい思い出、温かい教会の雰囲気の中で、優しい神父様に抱かれて無心に手を合わせた情景が今尚思い出されるのは何とも不思議ですが、そんな昔に戻って先ずは子供のような無心な心境で十字を切り、祈りを始めてみたいと思っております。それにしても洗礼を受けるに当たり、本当に多くのご厚情ご指導を頂いた皆様に感謝を致しております。
幼児洗礼を終えて
六会 大塚
4月15日(晴天)。この日、10ヶ月になった我が家の四男、和陽(かずや)が、晴れて神様の子供として仲間入りをしました。鈴木神父様のお説教の中で、「信仰心は親が育てるものですが、人それぞれ気付く時期が違います。出来るだけ教会へ連れて来て下さい。そうすれば、心配しなくても、いずれ気付かせて下さる時がきっと来るので、あとは神様に委ねましょう。」との有難いお言葉を頂き、少し気持ちが軽くなりました。
宮崎で育った夫は、この世に生を受けて2ヶ月の時に洗礼を受けたそうです。日曜日には必ず教会に通い、日曜学校や侍者、堅信と、熱心な信仰生活を送っていたので、彼にとっては信仰心が染みついていたようです。大学進学の為こちらで一人暮し、その後の就職により、忙しさのあまり暫く教会から離れてしまったようですが、神様の存在は常にあったそうです。一方、私は結婚するまでは宗教とは縁もゆかりもない生活を送っておりました。転機が訪れたのは結婚後、長男が小学2年生の時でした。日曜学校に入り、縁あって私も入門講座に通わせて頂き、信仰への道が開かれ、2年前に漸く3人の子供達と一緒に洗礼を受ける事が出来ました。
そんな訳で正直申しますと夫とは違い、洗礼を受ける前までは、幼児洗礼には少し戸惑いを感じておりました。意志を持たない幼い子供を入信させるのは親のエゴで、本人が納得して洗礼を受けた方が良いのでは…と。しかし洗礼後、教会へ足を運んでいくうちに変わってゆきました。家族が元気に過ごし、日々の何気ない幸せ、数々の試練も、心の成長の為に与えて下さったお恵み。神様の愛を感じられる素晴らしさを知った今では、夫のように幼いうちに神様の存在に触れさせ、生かされている事への感謝と祈る気持ちを育み、充実した意味のある人生を歩ませてあげる事が親の務めではないかと思うようになったのです。これからゆっくりと時間をかけ、子供達と共に勉強し、神様の愛を感じながら一緒に歩んでゆこうと思います。皆様どうかご指導の程よろしくお願い致します。
最後になりましたが、鈴木神父様をはじめ、快く代父母を引き受けて下さった清水様、宣教部の方々、パーティーの準備や後片付けに携わって下さった方々、お祝いのためにご足労いただいた方々に、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。家族一同心より感謝しております。本当にありがとうございました。
「キリスト教章」と被災地ボランティア
藤沢16団副団委員長 岡田
藤沢16団が所属するJCCS(日本カトリックスカウト協議会)横浜教区支部(担当:宮内神父)では、一昨年から中高生スカウトを対象にキリスト教章取得プログラムを実施し、自己認識とキリストの価値観の理解とともに、キリストの価値観を実践するための奉仕活動に取り組んでいます。第1期は、川辺さんのご協力のもと「火曜パトロール」参加、「ポルト湘南茅ヶ崎」訪問を実施し、昨年8月の支部キャンポリーで梅村司教様から当団スカウト2名(大森信、本間菜津香)がキリスト教章を授与されました。
昨年10月からは第2期として、当団スカウト1名(大森望)と雪ノ下教会所属鎌倉3団・ガール神奈川3団のスカウト計5名がグループを作り、スカウトの意思により被災地ボランティアを奉仕活動に選び、被災地の状況の学習等の準備をしてきました。そして3月25日〜28日の3泊4日で、カリタスジャパン米川ベースにスカウト3名(当団1名)と私を含むリーダー2名、大阪教区大船渡ベースにスカウト1名とリーダー1名が赴き、ボランティア活動を実施しました。以下、米川ベースからの南三陸町ボランティアを中心に報告します。
1日目は、丁度収穫時期にあたった養殖ワカメの収穫支援となり、ワカメの洗浄・箱詰め、メカブ切りを行い、大自然の再生を五感で体験する機会となりました。家も漁具も船も津波で流され、仮設住宅から共同作業に通う地元の漁師さん・奥さん達との作業は、本当に絆を感じさせるものとなりました。昼休みに基礎だけが残る家々の跡を私達が見学していると、漁師さんがわざわざ来られて、真黒な塊が一瞬にやってきて、横方向に逃げたから間一髪助かったと説明して下さり、大自然の猛威、生死の偶然と人間の小ささを痛感させられました。米川ベースに帰る途中、2月にプレハブ仮設で開店した「南三陸さんさん商店街」に立寄り、のりや菓子を購入しながら、店の人達と話を交わし、少しはお役に立てたと喜びを感じました。
2日目は、がれき処理で、土台のみが残る大きな住宅の敷地内に散らばるコンクリ、ガラス、建材等のがれきを分別する作業でした。昼食を敷地内のコンクリート土間でとった後作業を再開していると、所有者の70才前後の男性が来られてその土間は物干し場で、震災当日そこから奥様が津波で流され1か月後離れた場所で遺体で見つかったこと、お母様は玄関付近にいたようだが今も見つからないこと、仮設住宅にお一人で住む今、住宅復興計画が進まず、生きている間にこの敷地に戻れるかわからないことなどを淡々と話されました。私はただお聞きすることしかできず、その場で起こっていた人々の死に痛みと重たさを感じながら、祈りのうちに作業を続けました。その夜、ベースに戻っての分かちあいの最中も大きな余震があり、1年以上経っても終わらない大自然の力に畏れを抱くとともに「そなえよつねに」の大切さも再認識しました。
大震災は私達の生き方への大きな問いかけであり、私達は答えを見出せていません。取りあえず、よきサマリア人のたとえにあるように、被災者の痛みに共感して寄り添い、少々の労力とお金を捧げることしかできません。そしてイエス様を復活させられた神様の力が、被災者と犠牲者の上に働かれることを信じるしかありません。今回、キリスト教章プログラムにふさわしく、スカウト達の心にもしっかりキリストの価値観の種が蒔かれたと思います。交通費支援や現地情報提供の形でプロジェクトを支援いただいた雪ノ下教会の皆様に厚く御礼申し上げます。
当教会所属のボーイ藤沢16団、ガール神奈川105団では、スカウト活動を通して、信徒であるなしを問わず青少年にキリストの価値観を伝えています。5月13日(日)9時半ミサ後には「スカウトバザー」を予定していますので、よろしくご協力の程、お願い申し上げます。
山田神父様からのご提案により山梨地区と藤沢教会の中・高生の集いで、交流合宿が3月24日、25日に藤沢教会で行われました、以下は参加された方の感想文です。
藤沢教会との交流合宿に参加して、自らの見聞を広める良い機会となりました。交流会ということで、リーダー方が用意してくださった数々の企画は藤沢教会の中高生との親睦を深めるきっかけとなりましたし、楽しいひとときとなりました。信仰をともにする良き友人をつくることが出来て嬉しいです。また、このような機会があれば参加してみたいです。
2日間の交流合宿で 様々な体験をしました。
1つは県を越えての 新しい仲間との出逢い。私は藤沢教会で同 い年で同じ国籍の友達に出逢いました。 共通の話題から仲良くなり 新しい友達ができて嬉しかったです。 また、同じ山梨から来た仲間ともより一層 仲良くなる事もできました。話題からだけではなく 様々な企画から仲間と協力し 団結することによって仲良くなる事もあり ました。
2つめは感謝の気持ちを 忘れない事です。交流会をやろうと言って 簡単に出来た訳ではなく 中高生会のリーダー方や 藤沢教会の方々等多くの人が 関わってくれたからこそ 成り立ったものだと思います。ただ楽しかっただけではなく しっかり感謝することが大切だと 改めておもいました。
この2つ以外にも 楽しかった事、思ったことなど たくさんあります。 それをただ思い出にするのではなく 自分なりに考え今後の生活や また交流会があったときに 活かしていきたいです。 最後にこの場をお借りして 交流合宿を企画して下さった皆様 ありがとうございました。
僕は、山梨地区と藤沢教会の交流合宿に行ってきました。用事があったので分かち合いからの参加でした。分ち合いでは、どんな時にお祈りをするかでした。食事をする前や、食事後、感動した時などたくさん出ました。時間があったので、次の日のミサ曲を練習しました。歌練は、みんな盛り上がりました。
食事の時、面白かったのはリーダーが麺つゆと間違えてコーラでおそばを食べたことでした。夜のお風呂では水風呂にどれくらいつかれるか競いあったりしました。帰りには山梨の友達と勉強について話したりしました。
二日目の江ノ島散策では、班に分かれてクイズをしたり、猫と遊んだり、岩屋に入ったりしました。楽しい時間はあっという間に過ぎ、今回のお泊まり会での思い出はここに書ききれないほどありました。
また、このような合宿があったら、次回も参加したいと思います。
僕は今回、藤沢・山梨地区交流合宿に参加したことでたくさんの経験をすることができました。僕は用事があったので途中からの参加でしたが、とても楽しかったです。
分ち合いはお祈りについてで、どういうときにするかなどを話し、新たに気づくことがありました。そのあとはトゥ神父様のお話しを聞き、ゆるしの秘跡を受けました。初めてのことだったので少し緊張しました。夕食ではみんなでおいしくご飯を食べました。おそばの会からそば、片桐さんから唐揚げをいただき、お腹がいっぱいになりました。
次の日は7時のミサにあずかり、ごはんを食べて江ノ島へ行きました。江ノ島ではリーダーから送られてきた司令をこなしながら観光をし、みんなでの仲を深めていきました。
今回の交流合宿では、地域を超えて交流をし、みんなの輪を広げることができました。たくさんの人に支えられてこの合宿ができたことに感謝し、またできたらいいと思います。
支援に感謝
桜の聖母学院高校 濱野
この度は見ず知らずの私のために色々な支援をしていただき、本当に感謝しています。
今年も厳しい寒さが続いていますが皆様は元気でお過ごしでしょうか。
東日本大震災からもうすぐで1年が経ちます。私学ボランティア基金の方々をはじめ、たくさんの方々からの支援・励ましを受けたおかげで、再び希望を取り戻すことができました。最近になり、新生活の準備やこれから必要となる資格も取得し、ようやく手紙を書ける状態になったので、お礼を申し上げたくペンをとりました。以下は私の3.11の経験です。
私は震災前まで、福島県の南相馬市原町区に住んでいました。私の住んでいた家は、海から車で4〜5分の場所にあって、小さいころから毎日のように友達と通っていて、海は私の生活の一部みたいなものでした。3月11日は、学校は受験シーズンで家庭学習期間になっており、私は家の茶の間に一人でいました。私の家は自営業で父は外で仕事をしており、母はパート帰りで、部屋で少し休んでいたところでした。
14時46分、聞き慣れない携帯の着信音が聴こえました。その着信音というのが皆様もご存知である地震速報のメールが来た時の着信音です。携帯を聞いた瞬間地震が発生し段々揺れが強くなっていくのがわかりました。私はパニック状態になり、その場から動くことができませんでした。キッチンにある大きい食器棚が今にも倒れそうになっていたのを見て"やばい"と思い、とりあえずコタツの下に入って揺れがおさまるのを待っていました。2分経ってもおさまらない事に、さらにパニックになっていた時やっと揺れがおさまったものの、恐怖でコタツから動くことができませんでした。1回目の揺れがおさまったことを確認した父は、母と私のもとへきて、外に出るように指示し、外には近所の方々もいて、周りの家が大きく縦や横に揺れているのをみんなで見ていました。私の頭の中に一瞬"死"という言葉がよぎりました。
揺れがおさまり、カラオケ教室に行っていた祖母が帰ってきました。私は冷静を取り戻し、みんなで部屋の片付けを始めているところ、父のもとに1本の電話が入りました。相手は父の弟で、"津波が来るから早くこっちに来い"という内容でした。父の弟の家は山寄りなので、津波が来ることはありません。外に出てみると、"津波が来るぞー!""早く逃げろ!"近所はパニック状態になっていました。私たちも父の弟の家に非難することにしました。
夕方になって家を見に行きました。私の家は無事でしたが、家から海へ向って200〜300m先には今まで私たちが暮らしていたところだとは思えないくらい変わり果てた姿になっていたのです。海へと繋がる道路は津波で流されてきた木とガレキなどで埋まっており、道路わきにあった精米機は道路のど真ん中に傾いて立っていました。私の家の裏の方にある畑は一面が真っ黒で、海に繋がる細い道はガレキの山でふさがれている状態でした。見るものすべてがCGの様で、テレビの世界にいるような感覚でした。私は、今、目の前で起きている事がしばらく理解することが出来ませんでした。その夜は、父の弟の家にみんなで泊まることにしました。
翌日12日、私は朝から気になっていたことがありました。それは、友達の安否確認がすべて終わっていなかったこと。ある程度の人の確認は終わっていたのですが、2人ほど連絡が取れないままだった友達がいました。1人は中学の時の部活仲間で、高校に入ってからも、たまに連絡を取り、中学校にバスケットをしに2人で行ったりしていました。もう1人は、高校の友達で、何をするにも一緒ですごく信頼のできる友達です。連絡の取れた友達と私で色んな人と連絡を取り、2人の居場所を探しましたがなかなか見つけることが出来ませんでした。
数日後、2人の友達は遺体となって発見されたことを知りました。私は信じることができませんでした。数日前まで一緒に遊んだりしていたのに、地震前までずっと連絡もとっていたのに、あんなに元気だったのに、まだ生きているに決まってる!と自分に言い聞かせていました。私は父と一緒に遺体安置所に行きました。中に入ると、係りの人に"名前は?"と聞かれ、友達の名前を言い、友達のいる場所に案内してくれました。棺桶には名前が貼ってあり、私は一気に現実に引き戻された様な感じでした。係りの人に"最後だから顔見ていったら?"と言われた時、思わず横に首を振ってしまい、それと同時に涙もこみあげてきていました。父は"最後なんだからきちんとさよならしよう"と私に言いました。係りの人は棺桶をあけ、ビニールのチャックを開き、そこには毛布に包まれている友達がいました。私は、"起きろ!起きろって!起きないとマジで怒るよ"と言いながら泣き崩れていました。その時私は、この人にどれだけ甘えていたのか、守ってもらっていたのかを改めて思い知らされました。あの時に見た友達の顔は、しばらくの間頭から離れませんでした。今でもはっきり覚えています。時間が経ち冷静を取り戻した私は、友達に"よくがんばったね、辛かったね、ゆっくり休んでね、また会いに来るからね"と言って、その場を出ました。
14日の夕方、父の弟から連絡がありました。原発の温度がまた上がってきているらしい、福島市の方に避難しないか?とのことでした。私達は急いで準備し、必要最低限のものと、食料、毛布などを持ち、夜9時過ぎに父の弟家族と合流し、福島へ向いました。夜も遅かったため、途中にある川俣のみちのえきで仮眠をとり、翌朝8時頃福島に到着しました。市内にある集会所でしばらくの間、生活することにしました。その時期、原発は核爆発が何回も起き、福島市にいることも危うい状況だったときがありました。でも震災でガソリンが手に入らなくて県外に避難することができませんでした。ですが近所の方々が集会所に訪ねてきて、何か困っていることとか、欲しいものはありますか?と色んな人が訪ねてきました。そのたびに、温かいスープやおにぎり、毛布やストーブなどを持ってきてくれて、毎日感謝、感謝の日々でした。
避難生活がはじまってあっという間に1ヶ月が経ちました。余震、原発、津波に対する不安は大きくなっていく一方でした。夜は、寝るのが怖くて眠れない日もよくありました。友達の死があって、心の底から笑えなくなってしまったのです。みんなの前では明るく振舞わなきゃと思って頑張るのですが、夜は毎日泣く日々が続いていました。
ある日地元の通っていた学校から"避難区域が解除されるまで、サテライト授業をする。日時は未定なので決まり次第連絡します。"という連絡がきました。正直、今まで学校はあまり好きではありませんでした。けど、震災があって、初めて早くみんなに会いたい!と思いました。
数日後、桜の聖母高校の校長先生が訪ねてきて、「サテライト授業が始まるまでの間、聖母高校にきませんか?」というお誘いをいただき、私はサテライト授業が始まるまでの間、正直不安はありましたが、聖母高校に通うことにしました。初めて会った私に、みんなは優しく接してくれてすごく打ち解けやすかったので、通うことに苦はありませんでした。毎日、聖母高校で過ごしていくうちに段々気持ちに余裕が出来てきて通う以前より、考え事をする時間が減りました。
地元の学校から連絡がきて、サテライトは相馬の体育館でやることが決まりました。私は、福島市の学校へサテライトを希望していたのですが、人数不足でできなくなったのです。相馬でやるサテライトに行くか、転校の2つの選択に私は悩みました。私は、実家に帰ることはできます。ですが、震災で津波が近くまできて実家で夜寝るということが、恐怖に変ってしまったのです。"夜地震がきたらどうしよう""怖い"など、さまざまな思いが過ります。父も母もそんな私を見ていて、これからの進路のこと、将来のこと、色々なことを考えてどっちが私のためになるのかを考えて出した結果は、転校でした。丁度その頃、聖母高で、私の面倒を見てくれていた先生が聖母高への転校を進めてくれていました。それを機に、地元の学校と、聖母高に話をつけ、聖母高に正式に転校することが決まりました。6月中旬、避難所から借りたアパートへ移動し、3ヶ月にも及ぶ避難生活も終わりました。アパートに入居してから、プライベートのある生活に戻ったのは、凄く嬉しかったです。でもずっと一緒に避難していたいとこ達と離ればなれになるのはとてもさみしかったです。
夏になり、聖母生としての新たな生活に慣れてきたとき、進路を決めなければいけない時期になりました。私はこんな不景気な時にもかかわらず就職希望を出しました。震災を経験して、みんながみんな苦労していて、心に大きな傷を抱えている人達がたくさんいて、そのような人達のために今自分ができること、人の役に立てることをしたい!という思いと、避難所にいる間、近所の方々をはじめ、ボランティアできてくれたたくさんの方々、支援物資などを送ってくれた方などを見て、私も「ありがとう」と言われるような人になりたいと思い、私が選んだ道は、介護福祉士になることです。一人でも多くのお年寄りに笑顔と充実した毎日をプレゼントできるようになるのが今の私の夢です。10月には山形県の方の介護施設に就職が決まり、最近になってヘルパー2級をとり、運転免許の資格取得にも成功しました。2012年の2月には4月から住むところも決まり、新生活への準備もできてきました。そして、2012年3月1日、無事に桜の聖母高校を卒業することができました。
震災で友達を亡くして、実家にみんなで暮らせなくなって、原発、放射能、余震、本当に嫌なことばかりだと思っていたけど、家族、友人の大切さに改めて気づけて、新しい学校で新しい仲間に出会えて、自分の本気でやりたいことが見つかって、いいことだって沢山ありました。聖母高校にきて新しい仲間に出会えたことは、震災以降、わたしの中で一番の神様からの贈り物です。そのくらい自分にいい影響をあたえてくれたのです。これからも、この神様からの贈り物を大切にしながらも、夢を叶えるためにこれからも頑張っていきたいと思います。
以上が私の3.11です。この経験は、絶対忘れてはいけないことです。これを読んで、改めて"命の大切さ、普通の生活ができるというありがたみ"を感じていただければいいなと思います。この1年間、支援、励ましをしていただき本当にありがとうございました。
桜の聖母学院より震災支援金のお礼と生徒の作文がとどきました。編集上の都合で掲載が遅くなりました。
風薫る青葉若葉の季節です。野に山にと出かけるシーズンですが、ジューンブライドを控え、人生のひとときを落ち着いて考えたい人のために下記2冊を紹介いたします。 「結婚 生涯ともに誠実に」 「時間について100の言葉」
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靴の紐を結ぶ時間
大庭 池田
「ちょっと大変よ。玄関にね、変な男が前屈みになって座ったまま動かないの」
「そんなァ。押し売りだなんて時代遅れ……あ、やってるゥ、パパの瞑想だあ」
「えっ、パパが、まだ居たの?呆れたァ。20分もそうしてたわけ?」
靴の紐を結ぶ姿勢のまま20分。こうして我が家に新しい伝説が生まれるらしい。瞑想のタネは、いつどこからともなくやってきて、ひょいっと、我が尊厳なる個人の中に入りこむ。
「あなたの瞑想の内容なんだけど、何かに心を奪われている状態らしいって分かるんだけど……何考えてんの?」
「その質問には数え切れないほど応えてるけど……そのつど違うしさぁ。え、やき妬もち餅なの?」
「ばあか」
「考えているって言うけど、私に考えさせる映像はね、先に向こうから来るんだ」
「いよいよ分からなくさせようとしてる。……あなたねえ、・・本当・は何考えてんの?」
本当は?なんだね、今日のママは――供述調書を作るのかな。こんな状況は好ましくない。脱却の道は一つ。私の瞑想の主題をママと共有することだ。靴の紐を握っている私に、ひょいと浮かんだのは2千年前、エルサレムにも程近いベタニア村の映像だった。
――ママ、新約のヨハネ11章の21〜24を通読して。
「あのね、ママ。21世紀の、今だ。本屋さんで最も売れている本のタイトルを掻き集めて煮込んだら、何というタイトルになって出てくると思う?」
「辱ずかしいけど、ズケっと言ってしまえば<死後は、どうなる?>かな」
その通りだと私も想う。ところが<正答>を知ってる人はだれもいない。・・・・解らない、ということほど不安なことはないのです。
「でも一面、痛快よね。何不自由なく優越感だけで死を迎える人も、差別的な社会に耐えて亡くなる人も、みんな・・平等に死後の事が判らないという不安や恐怖をもつ」
ところでヨハネ11章に戻ろうか。23節でイエスは『あなたの兄弟はよみがえるであろう』と言われたのに対するマルタの応答は(私たち21世紀の人たちにとって)注目に値しよう。ラザロは復活するであろう。そのイエスに感謝の応答もせず、死後の復活なら知っている、などという。当時の人たちにとって死後の不安は(煉獄や地獄へ行く負い目のある人以外)なかったのかもしれない。この、死後の復活の常識化には、多くの黙示録や黙示文学の影響があると考えられているようだが、割愛する。
「ねえパパ。あなたがいった朗読範囲の少し前なんです(14・15節)。『ラザロは死んだのだ。そしてわたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それはあなたがたが信じるようになるためである』ここがよく分からないの」
なるほど。私の日本語特有の、おん音読みとくん訓読みの盲点にやられていたようなんだ。復活は蘇生ではないし、蘇生は復活ではないよね。しかしくん訓では蘇はよみが蘇えりなんです。聖書は蘇を用いない慎重さが理解できる。
さて、ここからが私の瞑想の本領なのだ。主イエスの聖心(みこころ)の中をさまようのです。
――主よ。あなたは4日間も経過したラザロが蘇生することは有り得ない。その時期になってベタニアに入られます。間違いなく復活であることをアピールさせたのです。死んだ兄弟ラザロを慰める人たちの中にファリサイ派の人も何人かいることもご存じだと思います。かくて議会の召集、イエスの逮捕、受難、主の復活となります。
茅ヶ崎にあったベネディクト会修道院
鵠沼3区 高木
・ 2人のドイツ人司祭
昭和6年(1931)12月5日、南ドイツのボイロンから2人の修道司祭が横浜に上陸しました。彼等は神学や芸術の研究家であり、同じドイツ人のいる東京の上智大学や名古屋の神言修道会に仮寓することになりました。やがて、昭和8年(1933)2月25日、静岡県駿東郡小泉村に用地を入手したり、昭和9年(1934)1月15日には東京市田園調布4丁目187番地にスビアコ・ハウスを開設しました。
・ 憧れの湘南の地
昭和10年(1935)2月修道士は10人になりました。そこで6月には神奈川県高座郡茅ヶ崎町小和田(ひばりが丘)に一軒の別荘を借り、修道院を設立しました。院長のベルナルド神父様が美しい湘南の地に憧れていたからでした。昭和11年(1936)1月、彼等は近くの甘沼に用地を入手しました。それは聖書や典礼、音楽、絵画などの研究に相応しい場所だったからでした。そして2月25日には、東京からシャンボン大司教様を迎え盛大な祝別式を行いました。俗に殿ヶ丘修道院と呼ばれるようになりました。その昔甘沼の地は殿山と言われていたからでした。
・ ドイツ人から朝鮮人へ
昭和8年(1933)3月27日、日本は国際連盟を脱退しました。そのため複雑化した国際情勢の中で益々孤立して国内では昭和11年(1936)2月26日には軍部によるクーデターが起こりました。そこで内務省警保局では治安警察を強化し、とくに対スパイ警察である外事警察を強化しました。そのため昭和14年(1939)3月には「外国人ノ入国滞在及退去ニ関スル件」を策定して外国人の監視を一層と強めました。そのためか昭和15年(1940)2月1日、ドイツ人修道士たちは本国へ引き揚げてしまいました。その年、日本カトリック教会では外務省の圧力に屈して「戦時国防体制」名のもとに全国の教区長を日本人に代えてしまいました。一方、殿ヶ丘修道院の方へは昭和15年(1940)2月に朝鮮咸興代牧区の徳源にある聖ベネディクト大修院区から聖オデリア修族の修道士が来ることになりました。彼等は明治42年(1909)以来、日本の植民地となっていた京城代牧区で活躍していましたが、昭和2年(1927)から大修道院を咸興代牧区の徳源に移していました。
・ 宣教師のスパイ視
昭和16年(1941)10月15日、ドイツ人ゾルゲによる国際スパイ事件が発覚しました。それに12月8日日本はアメリカ合衆国、イギリス連邦国などと戦闘状態に入りました。とりわけ当時の日本政府が警戒していたのは朝鮮の独立運動でした。そこで外事警察も内鮮警察や宗教警察などを強化していました。同年7月10日の神奈川県警察特別高等課による事務分担表によると、朝鮮人の監視には第一係長藤井将久警部以下、茅根未蔵警部補、古山平吉巡査部長、吉留壮輔巡査部長、塩入岩治巡査、堀田賢巡査、中村金作巡査、斉藤定雄巡査の8人であり、キリスト教徒の監視には第二係長豊島永次郎警部以下、唐沢六治警部補、増浦秀之助巡査部長、御園忠二郎巡査、豊島勇太郎巡査の5人で構成されていました。
・ 殿ヶ丘修道院の閉鎖
昭和18年(1943)1月13日、日本政府は「治安対策要綱」を策定しました。そのため9月には軍の命令により甘沼の殿ヶ丘修道院は閉鎖され土地、建物は関東特殊製鋼に譲渡されました。そこで、10月頃修道士たちは中海岸の足立別荘(中海岸二丁目)に移され、更に翌昭和19年(1944)春頃には東海岸の徴兵荘(東海岸南五丁目)に移されてしまいました。そのような中で10月にはファビアン神父様以下修道士たちは朝鮮へ引き揚げてしまいました。
・ 聖母の園の移転
時恰も昭和18年(1943)2月5日、横浜市戸塚区原宿の聖母の園修道院に立退命令が出されました。それは6月に海軍病院が開設されるため衛生兵を養成する海軍衛生学校をつくるためでした。そこで茅ヶ崎町甘沼の殿ヶ丘修道院跡に移る計画が持ち上がりました。だが相模湾は本土決戦に備えアメリカ軍主力の上陸地点でもあり危険なため東京都下清瀬村のマリア会修錬院に移ることになりました。当時マリア会としても会員たちが徴兵や徴用で手薄になっていたからでした。マリアの宣教者フランシスコ修道女会は昭和11年(1936)11月、鎌倉郡大正村大字宮原蔵中荒勺に2万坪の用地を入手して昭和12年(1937)8月15日、東京市麹町区下六番町にあった修錬院を移していました。
・ 戦後の殿ヶ丘修道院
昭和20年(1945)8月15日、日本は戦争に負け、戦争中に接収した民間の施設を返しました。殿ヶ丘修道院も大蔵省理財局との交渉で返還されました。そこには昭和22年(1947)9月15日、小田原から聖血礼拝会のシスター方が来ました。彼女たちは昭和9年(1934)6月5日、鹿児島へ来ましたが、昭和11年(1936)9月6日錦江湾一帯が軍の要塞地帯となり熊本の第六師団憲兵隊によって追い出されてしまい、昭和12年(1937)5月2日、横浜市山手町129番地に落ち着き、そして昭和18年(1943)11月21日、小田原町新玉の教会に移りました。横浜市にも空襲の危険が迫ってきたからでした。そして昭和20年(1945)7月、更に足柄上郡仙石原に疎開していました。戦後昭和21年(1946)10月15日、小田原町緑町に修道院を設立していました。曾て殿ヶ丘修道院前には「修道院前」という神奈中のバス停がありました。今では「殿山公園前」となっています。
俳 句
藤沢3区 前田
(亡くなられた風間さんを偲んで) 遅き春天使のごとき友の病む 柩ゆく今年の花の遅れ咲き どれほどの幸せの種さくら草 |