八 角 形 に ゅ ー す
1997年12月7日
聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会
自分を愛していますか・・・・・・・・・・・・・・・李 鍾昇 神父
「カリタスジャパン世界を歩く」・・・・・・・・・・北2 米谷三郎
教会とヘルメット・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼1区 窪田直明
すてき!人と人との支え会い・・・・・・・・・・・・鵠沼1区 川辺千佳子
七五三の祝福式に参加して・・・・・・・・・・・・・藤沢2区 河合みゆき
七五三の祝福を受けて・・・・・・・・・・・・・・・六会 古郡愛子
壮年部 秋の旅行・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼2区 石黒栄一
「望まれて生きる」・・・・・・・・・・・・・・・・北1 岡村 正
人類は救い主を待つ(2)・・・・・・・・・・・・・シスター 稗田操子
李 鍾昇 神父
教会に通いながら、少しいやだと思う事があるのでしょうか。もしあったら、ゆるしの秘跡かもしれません。教会は年2回ぐらいゆるしの秘跡をうけるように薦めています。それと当教会では、毎週土曜日の午後4時から5時まで、小聖堂でゆるしの秘跡を行っています。
ところが、私自身もゆるしの秘跡を受けるのには少し嫌がっていますし、苦手です。皆さんはどうでしょうか。もし受ける場合は対面式より告白部屋の方が良いと思いますか。
さて、いよいよ、今年もそろそろ年末に近づきました。教会の暦によると待降節になりましたので、新しい年があけました。そう言えば、すぐ前は教会の暦の年末でしたので、1年の反省の時間等を持つ方が良いしょう。勿論、12月になりましたので、これからは忘年会やパーティー等がたくさんあると思います。
皆さんがご存知のように教会の暦の末になると終末や審判のこと等が出てきます。つまり、反省の時間を持つように私たちに薦めているように感じるのです。
先ほど、ゆるしの秘跡のことを申し上げましたが、年末になりましたので、一緒にゆるしの秘跡のことについ考えてみたいのです。
多分、皆さんはゆるしの秘跡の時、こんな罪を何回犯しましたとおっしゃるでしょう。
例えば、子供を叱ったことがあれば、子供を何回叱りましたという風な告白になるかと思います。でも、叱ったことより大切なことはどうして叱ったかということだと思います。つまり、自分が持っている罪の傾向が分かるようになれば、助かるでしょう。先の話しの続きですが、もし子供を叱る時、叱る理由や背景等を自分で考えた方が良いと思います。もしわからない場合は霊的指導者の所に尋ねて、相談しながら、自分のことについて相談した方が良いではないでしょうか。義務的な形でゆるしの秘跡を受けるよりもっと良いと思います。そうするためには少し時間を持って、自分のことを考えた上、指導を受ければ、良いなと感じます。
皆さん、自分の子供のことを全部愛していますか。もし、子供が二人以上いる場合、平等に愛していますか。こういう風に聞くと、皆さんがうなずくかも知れません。少し、質問を取り替えて、もう一度聞きます。皆さんが兄弟二人以上いる場合、親から、平等に愛されたと思いますか。いいえという答えが出てくるかもしれません。一般的に言えば、人間は自分の中で自分が好きな部分があれば、いやな部分も持っている様です。自分の中の素敵な部分は皆に見せたいのは当然です。反面、見せたくない部分については劣等感等を持っているかもしれません。ところが、自分の子供の中で、自分が持っている素敵な部分を沢山持っている子を愛するのは当たり前でしょう。それから、自分が人の前で見せたくない部分を沢山持っている子には厳しい態度を持つようになるでしょう。それと、自分の奥さんとか、旦那さんの中にある、良い面と悪い面についても同じことになると思います。つまり、自分と配偶者の中にある素敵な部分を持っている子を自分も知らずに、愛するのでしょう。もしかしたら、自分の子供を叱っているということではなく、自分のことか配偶者のことを責めているかもしれません。
みなさん、今度のゆるしの秘跡のときには先ず自分のことをよく考えてみて、自分がどういう傾向を持っているか見てみませんか。それで、もし分かるようになれば、神様に、感謝しながら、自分の良い面も悪い面もそのまま受け入れる知恵をくださるように頼んでみましょう。私たちは弱い人間なので、いつも同じ罪を繰り返しています。人間の力ではできないかもしれませんが、神様に頼めば、少しずつ私たち自分のことのありのままの姿を愛せることになると思います。
11月22日に定例の教会委員会が開かれましたので、ご報告いたします。
1.バザー実行委員会より。
2.維持費等財政問題に関して。
3.クリスマスの飾り付け及び庭の手入れについて。
その他。
ブロックだより
「カリタスジャパン世界を歩く」の講演会を聞いて
北2 米谷 三郎
11月22日(土)湘南台センターで、山口道孝神父様をお招きし標題の講演会を開催いたしました。
当日は50名をこえる出席者と若々しい神父様の講演に質問も続出し活気あふれたひとときであり、特に若い人達の出席も目立ち今後の教会に力強さを感じました。
冒頭、神父様の基本的考え方、生き方として、神は最初から答えを出してるのではなく、私達が色々な人生をのり超えてはじめて、答えにたどり着く生き方を望まれており、それがキリストの真理の証しを本当に聴くということなのではないかという事である様に思われました。
さて、当日の講演会の演題は「カリタスジャパン世界を歩く」という世界から見た日本という趣旨のものであり、以下その内容をのべてみたいと思います。
1. 信徒宣教者会の活動
信徒宣教者会は教会の正式な組織として1984年以降延べ60名以上の宣教者を世界に派遣しており、現在も20名を「パラオ」「フィリピン」「カンボジア」「中国」「ロシア」「ネパール」「カメルーン」に派遣しており、年間予算は2千5百万円(但し海外プロジェクト予算を除く)をすべて募金・寄付で賄っております。皆さんのご理解とご支援を是非お願いいたします。
2.カリタスジャパンの活動
カリタスジャパンでは「プロジェクト即ち人間開発」と「緊急災害援助」を海外で行っており、例えば「ベトナム台風」「イラン大地震」「メキシコ大地震」「北朝鮮食料援助」等であります。
年間予算は2億5千万円でありますが、その半分が四旬節の特別献金で賄われ、残りが募金によるものです。
3. 現在の活動例
以上、講演の要旨をご紹介いたしました。
最後に神父様が今日の結びとして話されました「AAの祈り」をご紹介致します。
(AAとはアルコール中毒だった人達が立ち直って社会復帰をし毎日祈ってる祈りです) 「主よ変えるべき変えられる事を変える勇気を、変えられぬ事を受け入れる平和を、その区別をつける知恵を与えて下さい。」
バザー委員 鵠沼1区 窪田 直明
教会とヘルメットというとどうも馴染まない取り合わせのようですが、今回のバザー終了後の撤収作業では、新しい白いヘルメットで身を固めた壮年と青年の一団が活躍しました。
これは、今年から取り入れた鉄パイプによる洋服ハンガーの解体作業です。そもそも、この洋服ハンガーは、藤沢教会のバザーの一つである古着コーナーを支える影の立役者としてK1斎藤さんのご尽力でタルキと針金により作られていたもので、傍目にみるといとも簡単な様ですが、組立にはかなりの熟練と技術が必要でした。
今年は斎藤さんのご都合が付かず、何か代替手段は無いものかと、バザー委員会でも頭をひねっておりました。当初は、多少経費が掛かっても、レンタルを頼もうかと考え調べて見ましたが、数が多いことと、準備も含めて1週間の借用が必要ということで費用的に難しいことが分かり断念しました。
そこで皆さんもご存知の工事現場の足場に使われている鉄パイプとクランプというネジ止めの金具を使ってみてはとの意見が出され、早速検討を開始しました。当初は、ネジ止めならば素人にでもすぐできると簡単に考えていましたが、いざ具体的に作るとなると分からないことだらけ、早速斎藤さんに基本的な構造と寸法を教えていただき、これを基に簡単な図面を書き、さらに細部の設計や組立方法、安全上の配慮など事細かな指導をいただきました。
また、パイプも壮年部の方よりご寄付をいただき、下準備の作業を進め、バザーの1週間前には多くの方々に集まって頂きいよいよ組み立て作業、予定通り約1時間半でおおよその組立が終わりほっとしました。
しかし、反省の結果、やはり鉄パイプは多少の危険も伴うので作業にはヘルメットをかぶった方が良いとのことになり、早速ヘルメットを買いそろえました。こうして教会にヘルメット集団が登場することになったわけです。
今回の洋服ハンガー作りでは、大変楽しませていただきましたが、それ以上に、教会をささえる多くの仲間が集まって、知恵を出し、意見を出し、汗も出し、本当に多くの人々の協力の輪が広がった事に深く感謝しております。
このパワーが次のクリスマス準備につながりますように。そしてこのヘルメットがこれからの作業の安全につながりますように。教会でケガをしてはなんにもなりませんからね。
バザー委員 鵠沼1区 川辺千佳子
何と大勢の方から『おはようございます』『大変ね。ごくろうさま』と声を掛けて頂いた事でしょう。バザー目標に向かって心を一つに働いた数日間、ステキなんです。人と人の心が支え会い、10月26日バザー当日目指して少しでも多くの人々に幸福を、出来る事は何でもやりましょうと、祈りと働きが惜しみなく注がれた日々。一人が何でもやってみようと考える毎日でした。藤沢近辺のおにぎりを食べつくし、コロッケ、お漬け物、お庭の柿等、本当にごちそうさまでした。何もかもわからないバザー委員の先頭に立って働いてくださった方の助言と行いは、誠にありがたく、何度感謝と喜びをかみしめた事でしょう。
ところで我が家のある朝の様子をごらん下さいますか。『今日はどこへ行くの』「はい、教会に1日おります。バザーの準備で。」『そう、いってらっしゃい。』と、送り出してくれた義母のいい顔と、落ち着いてくれていた病です。私自身は、教会でたくさんの方のお顔と声に接する事が大きな喜びだったんだと今思います。母中心の日課を変える理由を捜していたのかも知れません。母も納得の行く毎日。私に向けられるたくさんの顔と声、そして暖かな心・・・。嬉しくて、楽しくて、くるくると走り回る事が何でもなかったのでした。わからない事にぶつかっても何でもなく、やればやっただけの喜びと、ねぎらいの言葉・・・。私を大きな満足感に導いてくれたのです。多くの事がありました。あれもこれもわかりません!。いやいやこれだよ、こうだわかった。よかったねー。の連続でした。
終わってしまえば、「ありがとう、よくやったね」とあふれんばかりの感謝と満足感をいっぱい頂いた事となったのです。疲れなんかふっとぶ程でした。ステキでした。一人が皆の支えになっていて・・・。
今一つ私の大発見。男性の方々の働きぶりです。会社で仕事をしていらっしゃる時もさる事ながら、私の目の前でのテキパキとチームワークのよい、実に気持ちのいい。ステキな姿が最高でした。見とれてしまう程だったんです。それぞれのご家庭で、家庭の方々が目にしておられるとは存じますが・・・? 特に奥様に見て頂きたかった。ステキなんですよ。我が家のステキな主人はこの中に入っておりません事をここに書かねばなりませんが・・・。残念・・・お二人仲よく毎日働いておられた方、当日ご主人様の為にお食事の確保に家族の方の出番のステキな方々等、本当にステキな姿でございました。私もいつかはあんな風に二人で・・・。
いろいろな出来事は人と人との心の支え合いになくてはならない針と糸。仕上がりは上々です。大きな成果と喜びを持たらしてくれました。
ステキなお一人、そして皆様の心とお祈りに感謝いたします。
ありがとうございました。
11月5日の「こけら落とし」の午後、スタッフで反省会をしました。その席で真っ先に、そして異口同音に出た言葉がベネディクションの『コーラスが綺麗で素晴らしかった!』という感想でした。神様が歌がお好きなのは無理無いと思わされたと言う人も居ました。美しい歌声で花を添えて下さった野沢先生初めコーラスの皆様本当に有り難うございました。
さて、バーガー神父様の「エルダーズの会」に因んだお話しがとても印象に残り、且つ勇気づけられました。
尚、そのベネディクション、日本語の正式な呼び名は『聖体降福式』で、14世紀以降行われて来た〔ラテン式典礼のカトリック教会で行われる聖体に対する信心業であり儀式の終りに讃歌「タントゥム・エルゴ」が歌われる〕というものだそうですが私共スタッフもその程度のことしか実は判って居ません。
関心のある方はキリスト教関係の辞書などで調べて見て下さい。
反省会でエルダーズの会の今後の在り方について幾つかの問題を話し合いました。
教会の近くに住んでおられるH様ご夫妻がエルダーズの会発足以来殆ど毎回ご出席下さって居り、暖かな日向ぼっこの雰囲気を楽しんで下さっているようです。時間の取れる方は是非お話しの環に加わって見て下さい。
今年は12月11日迄とし、それ迄は毎週月、木曜日の2回開きます。来年のスケジュールは。お知らせ等で改めてご連絡させて頂きます。
最後になりましたがケルソ神父様が複数の。sをつけた形で。エルダーズと呼んで下さって居ますので成程と思い。ズを付けることに致しました。
藤沢2区 河合みゆき
11月9日に行われました七五三の祝福式に、長女の7歳の祝福をして頂くため参加いたしました。
4年前の3歳の時には、着物を着ているのが辛く、式の間、席に座っているのがやっとでした。この春に洗礼を受けて日曜学校にも通い、7歳になって、彼女なりに式の意味も理解し、微笑みを浮かべ嬉しそうに座っている成長した娘の姿を、横で見守りながら、今日、又、このように無事神父様から祝福を頂けたことを、心から神様に感謝いたしました。
7年前に神様から娘を授かり、親としての使命を頂きました。何もかも初めての事ばかりで精一杯の日々を送る中、彼女のちょっとしたしぐさや微笑み、寝顔を見ては、可愛いと思い、無条件の愛情を注いでいたように思います。やがて、弟を授かり、2人の子供を、無我夢中で育ててきました。いけないとは思いながら他の子と比べて娘を叱ってしまったり、私の感情のまま言葉を発してしまったり、日曜日、教会に来て十字架を見つめると、ふと気付き、「神様、ごめんなさい。私にもっと親としての深い心を下さい。」と、お祈りしてきたように思います。
そして娘は小学生になり、少しずつ彼女の人格が形成されてきました。私は最近になってやっと、娘を一人の人間として見てあげられる様になったように思います。彼女には彼女しかない良い所がある。私の娘ではあるけれども私のものではない。良し悪しの判断はしてあげることはできるけれども、押しつけてはいけない等々、私が一歩距離を置き、彼女を見てあげられる様になりました。娘は着実に一歩一歩成長をしています。
そして、今頃気づいた事ですが私もこの7年間の間に娘を育てることを通して親として成長することができたのではないかと思います。そして、これまでいつも神様が、私達親子を見守っていて下さった事を、改めて感じずにはいられません。
昨今、種々の出来事の中に、子供の成長の在り方が問われているように思いますが、神様を生活の中心において生きる時、”神様がいつも共にいて下さる。” 「神様、これは良いことですか、悪いことですか」と問いながら、日々進んでいけば、神様の愛の中に包まれて正しい生きる道が示されていくように思います。子供達と共に、子供達のために祈ることを忘れないようにして参りたいと思います。
七五三の祝福式に参加することで、7歳の節目に、このように、娘、親としての自分自
身、そして神様の事を改めて考え、感謝する機会がもてたことをとても嬉しく思っています。まだ未熟な母親ですが、これからも、神様の愛をもって子供を大切に育てることができますよう、又、娘が次の成長への歩みを続けるように心からお祈りいたします。
六会 古郡 愛子
私達夫婦は、3人の子どもを授かり、その子ども達が、それぞれ七五三の祝福を受けました。
11月9日、穏やかなとても良いお天気、親も子も少々緊張し、教会へ。普段は、子どもの世話や家事に追われ、忙しいと感じることが多いのですが、晴着姿で聖堂にすわった我が子達を目にした時、その成長ぶりと、可愛い子ども達に恵まれた幸福を感じました。そして、それぞれの子どもの洗礼式で心に誓ったことを思い出しました。夫婦共に幼児洗礼を受け、信者の家族の中で育った私達ですが、信仰をもっていてよかった、洗礼を授けてもらってよかったと思ったことが、今までに何度もありました。我が子にも、そう思ってもらえるように、日常の生活の中で、キリストの教えを伝えていこうと誓ったのです。
毎日の生活の中で、祈る心、感謝する心を育てたいと思ってきました。子どもも成長と共に、幼稚園や小学校へ通うようになり、子どもなりに、自分の力不足にくやしい思いをしたり、友だちとのトラブルで悲しい思いをしたりと、悩みもあるようです。そんな時、神様に「助けて下さい」と祈ることや、いじめられた時には、その友だちのために祈ることや、心細い時には、守護の天使に「守って下さい」と祈ることなどを伝え、一緒に祈りました。素直で純真な子どもは、「今日も一緒にお祈りして」と言って来てくれます。子どものきれいな心にふれ、こちらも索直な気持ちになることができます。
祝福式の際、バーガー神父様のお話に、いろいろな周りの人達のおかげで大きくなったのだとあり、親も子どもの生まれてからのことを思い出しました。家でもそれについて話し合い、感謝する人がたくさんいることに気づいたようです。
教会へ行くと、いつも感じることですが、たくさんの方々が温かく声をかけて下さり、共同体のつながりを強く感じます。この共同体のなかには、いくつもの「家庭」という教会があります。我が家も小さな教会のひとつとして、キリストの教えを伝え、大切に子どもを育てていく責任を感じています。子どもの成長のひとつの節目として、今年、七五三の祝福を受けることによって、いろいろなことを感じたり、考えたりすることができ、とてもよかったと思います。神に感謝。
鵠沼2区 石黒 栄一
大自然に抱かれて
美しい紅葉でした。湘南の海を横目にひた走り、箱根路を湯本から旧道をたどりながら、わさび畑の清流を足元にバスは一気に頂上を目指します。峠の茶屋で甘酒の一服をとりながらしばし休憩。さすが山の上は紅葉・黄葉と美しく、その彩色は絶品でした。
元箱根へ出て芦ノ湖を眺め、箱根神社の裏鳥居を見ながら竜宮館まで紅葉狩りは続きます。方向を変え、湯本目指してお正月の箱根駅伝のコースを下ります。葦の湯を過ぎ小涌谷・三河屋旅館の近辺が箱根紅葉の穴場です。「ビューティフル」「来て良かった!」の連発が・・・。自然の彩色に一同感動しました。更に湯本温泉場まで快調なドライブです。
温泉に入る
箱根の温泉は日本一。街道沿いの露天風呂で紅葉を眺めながらゆったりくつろぎました。
男子たる者たまには裸の付き合いも必要。往年の箱根街道を偲びながらしばしの長湯。
午餐会
教会の外で一堂に会しての午餐会は初めてとか・・・。盛り上がりました。世代の差を越えて、杯を交わしながら夢を希望を語り合いました。きっと2千年前もローマの温泉で同じように熱っぽく語り合ったのではないでしょうか。壮年部会は趣味にスポーツに多士才々なメンバーである事も再認識。今後とも頼りになる部会としてお役に立てるでしょう。
連帯と言う事
お土産などを買って帰路につきます。早川から海岸に出て快走します。やはり海の景観は湘南に限ります。国府津・二宮・大磯教会の下を通り、平塚・茅ヶ崎教会を見ながら藤沢教会に戻ります。この先片瀬・大船・鎌倉大町・雪の下・逗子教会と我々の連帯は頼もしいものがあります。イエズス様の福音を広めるべく、湘南の地のカラシ種になるように壮年部会は頑張ります。
海の青色と箱根の彩色、心洗われる1日でした。大自然の偉大さと美しさを、そして改めて藤沢教会の素晴らしさをこの旅行は満喫させてくれました。
「幸いなるかな心の美しき人、その人は神を見るであろう。(マテオ福音書)」
この旅行を企画して頂き、参加者一同、幹事さんに感謝。そして何より「神に感謝」の1日でした。
北1 岡村 正
神は変わらなくてもよい。変わらなければならないのはわたしたちの方です。
「聞く耳のある者は聞きなさい。」また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」マルコ4:23‐24
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」で、はじまる例え話にイエスが引用されるイザヤ6章9〜10節は、何を私たちに伝えようとしているのか不審で、私は長い間考えていましたが、昨日湘南台センターで栗山夫妻たち4人とその箇所を読んでいるうちに突如啓示を受け不審が解かれました。
蒔かれた種が育たないのは、蒔いた人の責任か、蒔かれた土地の責任かという私の問いに、蒔いた人の責任だという思いがけない栗山正雄氏の答えが返ってきたのです。
なるほど、神が居られるのに善くないことがこの世に起こるのは何故か、という問いに連なる考えから云えば、全能の神ならどんな善くないことも無くすことがおできになる筈ではないかと云うことになるでしょう。
その時そこに現れるのは、しかし、私たち一人一人に向けられた次の問いなのです。
「それでは、どうしてお前はそこに居るのか。何を思い考え何をしようとしているのか」と。
選ぶことのできない生を受けて私がこの世に生まれたのは、その与えられた位置付けにおいてしか実現できないことをするように望まれてでした。そしてどの人も、過去・現在・未来の存在のすべてに結ばれて他の誰もなりかわることは出来ない唯一の働きになることを望まれて居るのです。もしかすると、種を蒔かれるとは、存在のすべてに結ばれて唯一の働きになることを望まれることなのかも知れません。
「存在のすべてに結ばれて」を、神に結ばれてと言うこともできます。ものごとを、それ自体で考えるならば、どれも似たり寄ったりで互いのちがいがわかりません。
しかし、ソレが引き合わされているまわりのものとの関係から他とのちがいがわかります。ソレの存在がわかると言うのは、ソレと他との関係がわかるので、「全体の中のソレ」の働きがわかった時、ソレがわかるのではないでしょうか。
もちろん存在の「全体」がわかることはあり得ないので、見えるところと見えないところとを合わせて存在の「全体」を感じるだけです。しかし、見えるところだけを存在のすべてと思わない姿勢が、どんな場合にも真実を生きる私たちには必要なのです。
ものごとをその見えるところだけで終りにしてしまったら、私たちはどうしてこの先を生きることが出来るでしょうか。
「人間に出来ることではないが、神には出来る。神は何でも出来るからだごマルコ10‐27をその意味に受け止めることもできるでしょう。人は神に結ばれてはじめて生きることが出来るのです。存在の全てが神だからです。変わらなければならないのは神ではなく私たちの方なのです。ですから、「聞く耳がある」とは、物事のまだ実現していない未知のこの先に心が開かれている人の状態です。
物事をその見える分かっているところで思いや考え通りにしようとするのは、まだ実現していない未知のこの先つまり神に心を閉じているのです。私たちが力を手に入れようとするのはものごとの見える分かっているところにではないでしょうか。ですから、思いや考え通りにする支配や管理は常に反創造のわざです。「聞く耳」を持たない状態です。
存在のすべてに結ばれて生きること即ち神に結ばれて生きることにはなりません。
冒頭のイエスの言葉は、「聞く耳」を持つ者、と持たぬ者と聞き取ることが出来ます。
「なにを聞いているかに注意しなさい」種は神のことばである、と言います。ですから、わたしたちは常々、引き合わされるものごととの交わりのなかで、種を蒔かれている、神に語りかけられているとの自覚が必要なのです。
ものごとをその見えるわかっているところで終りにするなら「聞く耳」を持ちません。種を蒔かれる土地は、「聞く耳」を持つこと即ち引き合わされるものごとに未知のこの先のあることを信じることによって変えられて行きます。
「神にはできる。神は何でも出来るからだ」5つの土地の状態は誰にでもあるのです。ここで再び、先の質問にもどりましょう。蒔かれた種が育たないのは、種を蒔く人の責任か。蒔かれた土地の責任か。おそらく、この質問は、私たちの引き合わされるものごととの関わり方を根本から変えなければならないような契機がなければ意味がないのでしょう。
その契機とは、私たちに、見える分かっているところでソレを終りにすることはできない、終りにしてはならない、と思わせる事件ではないでしょうか。
イエス・キリストの十字架上の死は、こころの清い者にとってまさに他人ごととは思えないそのような事件だったのです。
それは、わたしたちを支配する死を打ち砕くいのちの創造のわざでした。
人類は救い主を待つ(2) 東方教会の典礼を考えながら
(十字架のイエス・ベネディクト修道会)シススター 稗田 操子
この内容は、10月10日(金・体育の日)藤沢教会センターホールで講演された原稿の一部です。(第75号よりつづく)
4.お告げ
お告げのイコンは天使が天から降りてきて、ひとりのおとめに「福音」(good news)を告げている場面を画いています。
大天使ガブリエルは私たちの救いのいとぐちを告げているのですから、それこそ最大のニュースです。東方教会のお告げの祝日のトロパリはつぎのように歌います。
今日われらの救いははじまり
とこしえよりかくされていた秘義は
あきらかになる
神の御子はおとめの子となられ
ガブリエルは恵みを告げる。
大天使と共に神の母に叫ぼう
恵み溢れる御方、よろこべ!
主はあなたと共におられる。
この最大ニュースを人間が理解できるように、神は歴史の流れという長い時間をかけて、人間を教育されます。神はユダヤ民族の間から預言者たちを立てて、人間と対話されます。神はこの民にメシアを送ると約束してくださいます。旧約聖書で明らかなように、この民には数えきれないほどの不忠実があったとはいえ、ともかくこの約束を信じて希望のうちに生活しました。
東方教会ではお告げの祝日の晩の祈りで、ヤコブの梯子を黙想するようにと、すすめます。
「ヤコブは夢を見た。先端が天にまで達する階段が地に向かって伸びており、しかも神の使いたちが、それを上ったり下りたりしていた」(創28:12)
地は私たちであり、天は神を指しています。そして両者がひとつに結ばれるという意味です。天使は天からマリアのところへ降りてくるわけですが、その降りてくる運動のために翼は、まだ、震えています。天使に翼がついているのは天使の出所を表すためです。つまり神の使いとして天から遣わされたことを意味します。
大天使ガブリエルがマリアのところへ降りてくること、それを教会はヤコブの夢の実現の第一歩と解釈します。
やがて、イエスご自身も言われます。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たち
が人の子の上に昇り降りするのをあなたがたは見ることになる」 (ヨハネ1:51)
「地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る」(創28:14)
パウロがガラテアの信徒への手紙で言っているように、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫はイエスです。
「ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して『子孫たち』とは言わず、一人の人を指して『あなたの子孫』にと言われています。この『子孫』はキリストのことです」 (ガラテア3:16)
神が受肉されたとき、天と地が結ばれました。イエス・キリストはまことの神、三位一体の神の第2のペルソナ、天の御父の右に坐しておられる方ですが、同時に、まことの人間、第2のアダムです。
しかし、この奇跡が実現するために、人は神を迎えいれなければなりません。ところで、マリアは迎えいれたのです。マリアがご自分の胎内に神を受けいれること、誰にも強いられないで自由に承諾したとき、この奇跡が行われたのです。
このことを深く味わうとき、「わたしは主のはしためです。おことばのとおり、この身に成りますように」 (ルカ1:38)というマリアの返事の重要性が理解できるのです。
これが東方教会でお告げの祝日に歌うトロパリの意味です。これは、また、すべての人の心から湧き出る喜びの叫びでもあるでしょう。
5.しるしのおとめ
「ダビデの家よ、聞け・・・」
わたしの主が御みずからあなたたちに
しるしを与えられる。
見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7:13-14)。
「しるしのおとめ」という名は、上記のイザヤの預言に由来します。この預言はおとめのマリアが天使のお告げを受けいれた日に成就しました。
「わたしは主のはしためです。おことばのとおり、この身に成りますように』(ルカ1:38)と返事をしてマリアは神の母となられました。
マリアのこの自由な返事がなかったら、神は人となること、受肉することがおできにならなかったでしょう。神は決して人間の良心を強制なさいませんから。神はいつも人間が自由に答えるのを待っておられます。
私たちが愛において神に帰依するために、神は私たちひとりひとりを完全に自由にしておかれます。
神の母となることを受諾する前に、マリアは天使に「どうしてそのようなことがあり得ましょうか。私は男の人を知りませんのに」と尋ねます。天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」と答えます。マリアが受諾するや否や天使のお告げは実現します。
天使のお告げはイザヤの預言と全く一致しています。紀元前2世紀にギリシャ語に訳された70人訳聖書では、ヘブライ語のalma(若い婦人)という言葉に、ギリシャ語のparthenos(処女童貞)という言葉が当てられています。
「しるしのおとめ」のイコンは、すべての預言者、太祖、キリストの先祖に為された約束の成就を示しています。
東方教会の典礼では福音を泰持して行列をするときの第1交唱として、つぎの詩編を歌います。 「主はダビテに誓われました。
それはまこと。
思い返されることはありません。
「あなたのもうけた子らの中から
王座を継ぐ者を定める」(詩132:11)
(次号につづく)
1(月)15(月)子連れで集まろう
午前10時
5(金)初金ミサ・婦入部例会
午前9時30分
6(土)市民クリスマス午後5時
7(日)ミニバザー
20(土)ケア・セミナー午前10時
28(日)聖家族
編集後記
クリスマスおめでとうございます。
これからもよろしくおねがいします。
広報部