八 角 形 に ゅ ー す
1998年12月19日
聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会
隣人への光・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・主任司祭トーマス・テハン
「大聖年・21世紀へ向けて」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・編集部
21世紀へのビジョン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼3区 高橋 弘
2000年に向けて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼3区 清水裕子
中高生会一同・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中高生会代表
青年会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山部哲史、西田琢、荒井善博
教会とともに新しい世紀に向け歩むボーイスカウト・・・・・・・・・・・・藤沢1区 岡田芳明
大聖年に向けて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢2区 平野和子
ココ湘南台を訪ねて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・福祉部 小野精司
次は2000回・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂1区 梅田文一
神に感謝・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・湘南台 森 常美
贈り物・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂2区 佐々木美奈子
東京砂漠・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼1区 八子俊吉
フィリピンからのたより・・・・・・・・・・・・・・・・・・サンパギータを子供たちに贈る会
“こころのともしび”・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼1区 上條 俊
「終末的な生き方」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・北1 岡村 正
大聖年のクリスマスに思うこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼2区 野村純一郎
保護者の方々との勉強会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・シスター我妻志づ枝
北2ブロック黙想会に参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・長後 福嶋淑恵
隣人への光
主任司祭 トーマス・テハン
クリスマスと大聖年おめでとうございます。
2000年前、私たちのために救い主イエス・キリストがユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。
イエスは人間と同じように時間の中で生き、死に向かいました。ご受難・十字架・死と復活を通して神の子でありながら復活されたキリストは、今も私たち一人ひとりの心の中に生きておられます。このすばらしい神秘にあずかって、そこから力を受け、生きる喜びを味わうことができるでしょう。この喜びを私たちに与えるために、救い主イエス・キリストはこの世にお生まれになりました。
隣人の隣、すなわち「となり」の漢字の中に、前述した神秘のまとめが含まれていると思います。「隣」は、三つの部分から成っています。一つは「大里」二つめは「米」三つめは「舞」です。「おおざと」は大きな村です。昔の村の特長の一つは、みんな心を一つにして生活しました。そのような村にとって、米は豊作となり、平和に暮らすことができました。幸せな生活を表す舞、すなわち舞うことになり祭が生まれました。祭の意味は、一人ではなく大里のみんなと神がいっしょに、あふれる喜びを表わすために大きなおどりに参加することだったのです。それは、心から一生懸命に、自分なりにいきいきした生活をし、永遠の命に前もって与ることのようだと思います。
『ある時イエスは三人の弟子を連れて、高い山にお登りになりました。祈っておられると、お顔の様子が変わり、衣は真っ白に輝いた。 そして、二人の人がイエスと話し合っていた。それはモーセとエリヤであったが、彼らは栄光のうちに現れました。ペトロが目を覚ますと、イエスの栄光とイエスと共に立っている二人の人とを見た。彼はイエスに「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです」と言いました』
2000年前、イエスがお生まれになったことは、イエスの変容したすばらしい経験でした。今、復活されたキリストのおかげで、私たちは心の中でキリストと深く交わり、神の愛をいただき、世の光になることができるでしょう。闇の中で太陽の光を受けているお月様のように。
皆さまご一緒にご降誕祭を心からお祝いいたしましょう。
− 大聖年の祈り −
◇父よ、あなたをたたえます。
あなたは限りない愛をもって、御ひとり子を遣わしてくださいました。
2千年前、聖霊によっておとめマリアのうちに宿り、ベトレヘムでお生まれになった御子キリストは、わたしたちとともに生き、歴史に新たな意味を与えてくださいました。
苦しみと困難にあっても、愛と忠実のうちに、新しい天、新しい地に向かって、ともに旅してくださいます。そこでは、もはや死は克服され、父よ、あなたこそすべてにおいてすべてとなられます。
▼三位の神、唯一であるあなたをたたえます。
◇父よ、あなたの恵みによって、大聖年が深い回心のとき、あなたに立ち帰る喜びのときとなりますように。
人々が和解し、国々の間に平和が回復されるとき、剣が鋤に打ち直され、戦闘の音が平和の歌に道を明け渡すときとなりますように。
父よ、わたしたちが聖霊の導きに従い、あなたのことばを熱心に聞き、恵みの泉に近づき、この大聖年をキリストに忠実に生きるとができますように。
▼三位の神、唯一であるあなたをたたえます。
◇父よ、教会が新しい福音宣教に、力強く取り組むことができるように強めてください。
わたしたちが生活を通してキリストを告げ知らせ、この地上の旅路を、光輝く天の都に向かわせることができるよう、わたしたちの歩みを聖霊によって導いてください。
キリストに従う者が、貧しい人や圧迫されている人々に愛を示し、困難にある人々と一つになり、愛のわざを行うことができますようにすべてにあわれみ深くなり、わたしたちもあなたからのゆるしと免償をいただくこができますように。
▼三位の神、唯一であるあなたをたたえます。
◇父よ、キリストの弟子たちが過去を省み、あやまちを認め、皆が一つになることによって、世があなたを信じるようになりますように。
さまざまな宗教を信じる人々の間に対話が広がり、すべての人が、あなたの子どもである喜びを見出すことができますように。全教会とわたしたち一人一人が、信じる者の母であるマリアのとりなしにより、使徒と殉教者、あらゆる民族、あらゆる時代の神の前に正しく生きた人々と心を一つにして、この聖なる年を新たな希望のとき、聖霊による喜びのときとすることができますように。
▼三位の神、唯一であるあなたをたたえます。
生ける神、時と歴史の主であるキリストによって、すべてのものを聖とする聖霊のうちに、全能の父、世界と人類の創造主であるあなたに、讃美と誉れと栄光が今もいつも世々にありますように。
アーメン
−「2000年大聖年のための教皇ヨハネ・パウロ二世の祈り」−
「大聖年・21世紀へ向けて」という集いが、11月7日に開催された。
テハン主任司祭は「大聖年に向かうということは、未来に橋を架けることであり、みんなが共に未来に向かうことであり、各自の持っている宝物を分かち合うことである」と述べられた。
左の像は彫刻家三木勝氏の作品であるが、この作品をごらんになったテハン主任司祭は「この像は大聖年を表現している。作品の中からエネルギーが現れ出てくる、生命の豊かさあふれる愛が大聖年のハトと関連している」と感想を述べられた。三木氏は作品について「大聖年に因んで製作したものではないが、鳥の飛び立つ姿を通して新しい生活、生命が未来に向って行こうとする姿を表現している。 またハトが数羽いるが、それは人、動物、植物この地球に生きとし生きているもの全てを表現している。鑑賞する人によって作品が、どのようにでも内容が豊かになっていくものである。私は祈りを込めて作品を生み出しているのであり、私に与えられたタレントをどのように生かすか、この作品は私のこのようにありたいという希望を表現しているのです」と説明された。
つづいて、日曜学校のリーダーたち、中高生会、青年会、ボーイスカウト、キリスト教講座の各グループから意見や主張が述べられたので、特集として掲載させていただくことにしました。
編集部
21世紀へのビジョン
鵠沼3区 高橋 弘
現在日曜学校へ出席する子供は毎回80名ぐらいで、多い時にはリーダーを入れれば百名もの人達がセンターホールのミサに集い、その後1年から6年まで、各クラスに分れてリーダーの話しに耳を傾けます。リーダーはサブ、アシスタントを含め14名で担当しています。
李神父様が日曜学校の校長先生になられてからは、今まで全ての役割、責任を代表一人が負っていたものを、各リーダーへ役割を分担するようになり、リーダー達もそれぞれの責任のもとで事に当たっています。
子供達は毎年の行事として5月の遠足、夏休みのキャンプ(今年はデイ・キャンプだった)、バザーの魚作り、そして聖劇を授業中、あるいは特別の日を設けてやっていますが、この辺り、ちょっと行事が多いかなァとも思っています。どうしても、カリキュラムの組み方は典礼暦に即したものになってしまうのは仕方のないことですが、これからはもっと、中高生会や、他のグループ、あるいは教会以外の行事への参加も考えなくてはならないかも知れません。例えば自然の中へもっと積極的に入って、それが野鳥の観察であったり、天文の観望であったり、その中に天地万物を創造された神様の業を見ることも大切ではないかと考えています。いずれにしましても日曜学校は家庭の信仰教育のお手伝いだということです。
子供達が一人でも多く日曜学校へ来て、そして良い人間関係が出来るように、リーダー一同願っています。
2000年に向けて
鵠沼3区 清水裕子
大聖年とは、1000年毎に来る節目の年であるということを伺い、自分自身がそのような時に生きているということを、神に感謝いたしたいと思います。日常、家庭のみにいるとどうしても、世界が狭まってきます。いつもアンテナを張り巡らし、自分でも色々なことに注意を払って情報を得ようとすることを心がけていることが必要であり、また自分自身を成長させていくのだと思います。そして、けっして背伸びするのではなく、自分が出来ることを出来る範囲で、そして努力をもって行っていきたいと思います。来年に向けて、実際具体的に何をしようということは、現在の所、見つかっておりませんけが、何時もどのようなことでも受け入れられる心と、体を持っていたいと思っております。柔軟な姿勢を持ち続けているうちに、いつか聖霊のお導きがあることを信じてやみません。
十代の頃、2000年が来るときは、自分がどうしているのだろうと考えたとき、ただ漠然とその時の自分自身の年齢を考えておりましたが、いざその時を迎え、冷静に今一度自分自身を見直してみたいと思います。そして、いつも希望、夢を持ち膨らませ続けたいと思います。
日々己を研鑽していき、自分に与えられた課題が見つかったとき、努力を持って成し遂げていきたいと思います。宝石だって原石を磨いて、価値のある高価な石へと変わっていくのです。多数の方々に助けられながら、一歩ずつ成長し、向上することが出来たらと思っております。
私達中高生会では、21世紀の教会はどうあるべきか、ということについて話し合った結果、私達(子供たち)から見た大人とこれからの教会はどうあってほしいか、ということが出ました。
私達、子供から見ると大人は本当の自分をだしていないと思います。 言っていいことと、悪いことの区別をつけるということは、いいことだと思うけれど、自分の意見を大切にするということも、とっても良いことだと思います。次に、これからの教会はということでは、今、流行っているアロマテラピーなど、心を落ち着かせるものなどがあるように、教会はいろいろな人が集まり心を休める場となってほしいと思いました。
青年会を代表して3人の意見を発表しました。
山部哲史
毎日仕事が夜遅く、やりたいこともろくに出来ない。時間的には充実しているが心が満たされない。不景気の中で自分達を取り巻く厳しい現実がある。また、環境問題がある。この前ビデオで見たが、深刻さがよく分かった。一人だけでは解決できない。身近かな所から手をつけていきたい。
西田 琢
今、福祉の勉強をしている。化粧品が売れるのは歳を取ることが「悪」であるという風潮があるからだ。これからは高齢化社会で様々な問題があり、取り組んで行かなくてはならない。
荒井善博
自分は音楽をやっていて、仕事をしているから音楽が出来るので、どちらも自分の中でつながっている。今特に未来のことは考えていない。過去があって現在があり、現在があって未来がある。だから“今”を考えることが未来を考えることにつながる。一日一日“今”を一生懸命生きている。話の中で「若い頃はいろいろ悩むけれども自分の目標を決めてそれを必ずやり遂げるというパワーが希望となる」という先輩のコメントがあり、とても勇気づけられました。きびしい中で一日一日を精一杯生きるという積極的な意見があり、パワーを分けてもらったような気持ちになりました。
教会とともに新しい世紀に向け歩むBS藤沢16団
藤沢1区 岡田芳明
1.はじめに
ボーイスカウト達が考える教会の好きなところとは本当はこの「大聖年に向けての集い」にスカウト達も出席させたかったのですが、昨晩から「オーバーナイトハイク」で市内25キロを今朝5時まで歩いて、今はぐっすり寝ていることと思いますので、私が代表で話すこととなりました。
その代わりに、先日スカウト四人に教会についてのアンケートを行いましたので、結果を報告させて頂きます。どのような質問かと言いますと、あなたにとって神、キリストはどんな方ですか、教会のどんなところが好きですか、これからも変わってほしくないところは、教会のどんなところが嫌いですか、変わってもらいたいところは、・あなたが教会に役立てることは、というものでした。
回答結果の詳細は省きますが、私としてはミサがつまらないとか、若い人が少ないとか言った不満の声を期待していたのに、ピュアな回答が出てきて驚いたというのが結論です。
特に教会の好きなところ、変わってほしくないところとして、「何かあったかいところ、神父様やシスターが優しいところ」とありました。別に神父様に胡麻をすっているわけではありませんが、一体どう受け止めたらよいのでしょうか。
2.『スカウティング・フォア・ボーイズ』を手がかりとして
回答してくれた四人のスカウトは、中1、中3、高1、高2で、カトリック家庭に育ち、小学校低学年からボーイスカウトを続けている点で共通していますが、私自身どう受け止めるべきか自問自答していたときに、スカウトの基本書である『スカウティング・フォア・ボーイズ』の一節が目に止まりました。長くなりますが引用させて頂きます。
「若い人の教会や日曜学校への出席率の低下は宗教離れから来ているのではないかと憂える人がいるが、心の中には宗教的感情が前と変わらない程度にあって、教会に行くという形には表れないが、すぐ下に隠れているように思われる。私達が宗教を本来の単純な形でとらえている限り、それは現代に通用し時代遅れにはならないというのが真実である。
新しい世代は個人の自由と自己決定の面でも教育の面でも進化しつつある。私達年長者はそれを認めて現代に追いつかなければ若者に理想を伝えることはできない。最近の30年を見ても新しい世代は規律を外部から決められていた時代の繭から出て、自分で自分の行動を規制する、より自由な段階に生まれ変わっている。
宗教においても同様で教義に規制されようとはせず、自分で信仰について知ろうとし、その根拠を尋ねようとする。彼らは基本を求め、それが色々に変形した物には興味を示さない。」これは実は、1926年(大正15年)にボーイスカウトの創始者ベーデンパウエルがイギリスのスカウト指導者会議で述べたものですが、20世紀と21世紀を結ぶ大聖年を迎えようとする現代日本の教会、藤沢教会にも十分通用するものではないでしょうか。
3.「宗教の本来の単純な形、基本」とは
では「宗教の本来の単純な形、基本」とは何でしょうか。
私は先程のアンケートで教会の好きなところとしてあった「何かあったかいところ、優しく迎えてくれるところ」が大きな手がかりとなるのではないかと思います。
先日、ミサ中にスカウトの入団・上進式を行いました。その時スカウト達が三条のちかい(神と国とに誠を尽くしおきてを守りますいつも他の人々を助けますからだを強くし心をすこやかに徳を養います)を立てたのを覚えていらっしゃるかと思いますが、そのちかいを立てる前に、ベーデンパウエルは「スカウト達に大自然を通して神を認識させ、神がスカウトの周囲と心の中に働いている愛であることを認識させる」よう勧めています。愛され受け入れられた体験と神、教会が結びつかないと信仰は成り立たない、基本的安定感が必要ということでしょう。
その上でベーデンパウエルは「ちかいの内容である神に誠をつくすと言うことは、隣人を愛することによって、神の意思を実現することであり、それが自分の真の成功、幸福につながることを教える」 よう勧めています。つまり神と人々に対する奉仕は、信仰の自然な表れとして、義務ではなく喜びとして実感され、実行されるものだと言うことでしょう。
来るべき21世紀は、日本的な集団主義が廃れ、市場競争原理と個人主義が優勢となることが予想されます。それはいい面もありますが、影の部分として、力と声の大きい者が勝ち誇り、他人の痛みや傷には無関心となることが考えられます。
それに対して教会が、反対価値あるいはもうひとつの価値としての神の国、すなわち一人一人が神から一方的に愛され、受け入れられ、互いに仕えあうよう招かれていることを行動によって示していかなければ、それこそ塩味を失った塩として打ち捨てられることでしょう。
4.ボーイスカウト藤沢16団が貢献できること −21世紀に向けてのビジョン−
このような時代にあって当団が教会に対して貢献できることは何でしょうか。その前に当団と当教会の関係について述べますと、25年前の昭和49年4月、当時の主任司祭ブランチフィールド神父により創設され、当教会を育成団体とするカトリック・ボーイスカウトであり、信者であることを入団条件とはしていませんが、スカウトのほとんどが当教会の信徒であり、日曜学校、中高生会、侍者会にも積極的に参加しています。またリーダーも、スカウトの父親が増え、自分は信徒でなくても家族が信徒という場合が多く、教会との人的つながりがますます強まっています。
このような状況の下、当団は21世紀に向けて、次の三つのビジョンを掲げ、教会に積極的に貢献していきたいと考えています。
よき社会人・信徒の養成これはスカウト運動そのものの目標ですが、特に中高生年代のボーイ、ベンチャースカウトにおいて「キリスト教章」取得のための講座、これはキリスト教入門講座をスカウトのためにアレンジしたもので、今年も四人が受講を始めていますが、この講座を通して、愛され受け入れられた体験と神、教会とをしっかりと結び付け、大人の信仰への自然な成長をバックアップしていきたいと考えています。
教会・社会への奉仕次にその信仰の表れ・行動として、教会行事への奉仕、海岸清掃、缶拾い等社会奉仕を実践していきます。先程のアンケートでもスカウト達自身が貢献できる事として上げていました。今回のバザー準備でもスカウト達がテント張りを手伝い、私を含む壮年部の体力の衰えを十分にカバーしてくれたと思います。
グローバリゼーション・地球環境保護への取り組み当団のスカウトにはベトナム、ペルー、フィリピンから来られた信徒の子供が所属しており、自然な形で先輩、後輩、仲間となっていますし、また大自然の中でのキャンプを通じ、地球環境の美しさ・神秘を体験しその保全を実践していますが、さらに今後外国のカトリックボーイスカウトとの交流や地球環境保護プログラムを検討し、実施していきたいと考えています。これら三つのビジョンは、この分裂の千年紀の実りとも言うべき第2バチカン公会議の『教会憲章』において信徒の役割として示された、神の民としてキリストの祭司職、王職、預言者職に与ることにつながっていると思います。2千年前にイエスが行われたように、生活と祈りを統合し、仕えられるのではなく仕え、社会の中で御父の御旨を見極め宣べ伝えていくという、信徒としての生き方を統合する観点から、新しいミレニアムに向け、新しいビジョンが構築されるべきでしょう。当団のビジョンも目標であり、現在完全に実行できているものではありませんが、藤沢教会とともに神の国の完成に向け旅をする当団の活動にご理解賜り、お子さん、お孫さんに是非入団を勧めて頂くようお願いします。先程も述べましたが、小さい時からカトリックスカウトとして育てることで、ピュアな信仰心が培われるものと確信します。
大聖年に向けて
藤沢2区 平野和子
まず、大聖年という千年に1度のこの時期に生を与えられ、リーダーをさせていただいていることは、大きな恵みであり喜びであります。
リーダー会では、主にキリスト教講座を担当していますので、講座のことを少し説明いたします。講座を受講なさった方はお判りだと思いますけれど、講座の中でのリーダーの役割は先生ではなく進行役を務めています。
講座の目的は、洗礼を目指したものではありません。講座ではまず自分と出会い、そしてキリストとの出会い、共同体との出会いというプログラムで進められていきます。その中でキリスト教の価値観を知って、生き方を見つめなおしていくお手伝いが少しでもできるようリーダーとして努力していきたいと思います。
これはリーダーの力でできることではなく、聖霊の助けを借りながら、講座に参加なさっているメンバーの方々と分かち合いを通して一緒に講座をつくっていくことであり、決してリーダーからの一方通行的なものではありません。
1年から1年半の講座が終わったあと、受講者の方がどうなさるかは、全て神様と受講者自身にお任せということで無理に、受洗を勧めたりはしていません。受洗を望んでいらっしゃる方には、その方に相応しい代父母が与えられるようご相談に乗り、準備をいたします。
このように考えていきますと、大聖年だから特にということはなく、いつもの講座の延長線上に大聖年があると考えられます。ですから、リーダーとして結果を焦らず、待つ姿勢をとりたいと思います。「大聖年にむけてのビジョン」としては、より謙虚になり、講座のなかで、生活のなかで、信仰を与えられた喜びが伝わるよう努力することだと思います。また、リーダー自身も機会を見つけ、自分を磨く努力をし、黙想会、勉強会への積極的参加をしたいと思います。
このことは、リーダーだけのことではなく、宣教の使命を与えられた信者一人ひとりに当てはまることと思います。
ココ・湘南台を訪ねて
藤沢2区 小野精司
「自立と共生」を合い言葉に「元気印でいつまでも心豊かに生き続ける為に、出会い・触れ合い・支え合いの生活」をモットーに、今年5月から65歳以上の高齢者10名が共同生活を始めた『ココ湘南台』を福祉部15名が11月7日(日)に訪問・見学して来ましたので、その概要を報告致します。
初めに、ココ湘南台が出来上がるまでの経過を高齢者住宅研究会員の真野喜美子さん(市会議員)が説明。実際の生活状況について研究会代表・西條節子さん(入居者コlディネーター)から詳しい話を聞きました。次いで、木造一階/二階の共同生活設備と個室内部を見学。流石に女性デザイナーの設計による、全室床暖房を初め行き届いた配慮に感心させられました。最後に、入居者を交えて話合いが持たれ、質疑応答を含めて交流を深め合うことができました。
高齢化社会が急速に進む中、高齢者が僅かなお金を握りしめ、街という社会を丸裸で生活しているのが実態であり、「このままで良いのだろうか?」との疑問がきっかけで、『高齢者のためのバリアフリー・グループリビングを建てよう』との夢を実現させるための研究会が1996年3月に発足し、諸関係者・機関の絶大な協力を引き出して「ココ湘南台」が1999年4月に完成しました。
現在の生活者は男性1名・女性9名の計10名(うち障害者手帳持参2名、他に犬猫各2匹)、年令は60才代2名・70才代6名・80才代2名の構成です。個室は鍵付き15畳(洗面・ミニキチン・ トイレ・クローゼット付き)とテラスがあり、共用設備のアトリエ・食堂・厨房・トイレ・大小浴室・エレベーター・ランドリー・ゲストルームによる建坪146坪、庭を含む276坪の敷地があります。朝食は各自が自由に作り好きな時に好きな所で摂ります。昼食と夕食は契約先のコープ神奈川「キュービック」が届け、二階厨房で調理(弁当箱ではありません)。メニューは毎月話し合って決めます。共用部分の清掃は契約先のコープ神奈川「オリーブ」が毎週月水金に行います。生活費は月額13万6千円(家賃・ 食費・共益費・家政費)、入居者分担金は370〜400万円です。生涯生活型を目指し、近隣の健康医療機関およぴ生活支援団体とネットワークを組みながら、地域社会とのコミュニティを大切に協同して元気に生きて行こうとスタートしました。(ココとはCommunity Cor-porativeの意味)
入居者数名からの感想
入居して良かった、生涯ここで暮らします。暖かい人物ばかり、感謝しています(T氏)。
血縁者は妹一人なのに二人共、病気で数回倒れて心配していた。素晴らしい所に入れた、マザー・テレサのような西絛先生に会い感謝しています。ストレス解消に畑仕事を楽しんでいる(Mさん)。
自宅に居るのと同じで、違和感なし。教会からのご聖体訪問を楽しみに待っている(Kさん)。
入居者の人選には特に配慮した、性別年令別横成、個性尊重と全体調和など。スタートして半年間順調に経過しているのは各人と関係者の協力の成果。4月11日の内覧会で340名に見学して頂いたが、更に地域との交流を高めて行きたい(Sさん)。
安価な二人用客室(一泊二食:会員4000円、一般5000円)もあるので、機会を見て泊まり掛けで利用し、生活者とも交流して欲しい(Mさん)。
私たちへの要望・激励として、下記の意見が寄せられました。
高齢者住宅の理想や夢を持ち、その実現に向けて色々勉強して行政や民間の周囲を巻き込んでここまでやって来ました。皆さんも生活の周辺を見回し、問題意識を持ち行動して欲しい。藤沢市も財源不足だが、市民の知恵を市政相談所や市会議員を通じて発揮することができる。藤沢教会でも研究会を発足させては如何でしょうか。サロン・コンサートやバーベキューなど企画付きの各種の催し物を持ち込んで頂ければ、地域の皆さんとの交流拠点の活動として組込みたいので、ご検討願います。
なお、『ココ湘南台』は今年5月2日NHK総合TVの首都圏ニュース番組で紹介されました。また、毎月第1日曜日午後の見学会で公開されています(場所は湘南台駅より徒歩10分余り)。今までに約600名が見学し、「こういう住まいが欲しかった、私もぜひ入居したい、空き地(空き家)を提供するので高齢者の施設を計画して欲しい」などの意見が寄せられました。この研究会は、念願の特定非営利活動法人NPOの認証を7月に取り付けたので、これらの要望に応えるため第二期プラン検討の検討会を始めました。そのため正会員、賛助会員の募集中であり、上記ビデオテープも貸出されています。
次は2000回
辻堂1区 梅田文一
私達のレジオ・マリエは先頃11月2日に1900回の集会を、そして次の2000回を期して盃を交わしてささやかな祝いを致しました。藤沢に教会が出来ると間もなく1957年2月、ギル神父様(現在アメリカでご活躍)松本悟郎さん、今は亡き扇慎吾さん達のご尽力で創られ約40年間、少しも休むこともなく毎週定められた日、時間の集会を続けてまいりました。
時々レジオって何?かたいんでしょう!と尋ねられることがありますがそれは私達のPR、活動不足ゆえと思われ反省しています。
ろうそくをともしたマリア様のご像の前でロザリオで祈り、短い霊的読書、そしてマリア様の精神にならって一人ひとりの霊性を深めながら、謙遜、従順、そして優しさと寛容を旨としての割当てられた仕事について話し合い、レジオの祈り、マグニフィカト、マリア讃歌の含まれた素晴らしい祈り、神父様の短いけれど豊かな説教、定められた規則に従って集会は約1時間半で終ります。と申しますとレジオは決して堅くないとはいえないかも知れませんが、これはこれでよろしいのだと私は思います。私達の中から三人のシスターと素晴らしいカップルが4組も生まれておりまして、それは温かい綺麗な血の通っているグループであると自信を持って申し上げられます。
只今、教会の中にはロザリオを中心にしたお集まりもあり、またレジオが無いからと他の教会のレジオの集会に出席されておられる方もいらっしゃるとお聞きいたします。以前には昼間のレジオ・マリエも盛んに活動しておりました。
どうぞ皆様がレジオ・マリエについてお考えになられて一歩お進みになられたならさぞかしマリア様もお喜びになられるだろうなと老生愚考いたしましたので失礼ですが申し上げました。
なおレジオ・マリエにつきまして八角形にゅーす第96号で石岡信吾さんが詳しく書いておられます。どうぞお読み下さい。
神に感謝
湘南台 森 常美
待降節そしてクリスマス。昔聖テレジア病院にいた頃、学校卒業したてでした。クリスマスの馬小屋を作るわら1本を一つの犠牲でとシスターのすすめで喜び勇んでそれこそ小さな小さな犠牲を1本2本と藁に託して、夜、誰もいない御聖堂に入り、イエズスさまと私のヒミツとばかりそっと馬小屋に入れてコソコソと出て来た私、その頃が人生で一番幸福なときでした。でもそれから数年、結婚して共働き、多忙で心の中にいばらが生ように心が世の煩わしさでどんどん汚れて行くような悲しさを味わいながら今日こそイエズス様に会いたいと思った日々。ある時「如何ですか」等と患者さんに問いかけた時、「ええ、今日は調子よくって」とほほえんでおられるのですが瞳はカラッポの水呑の方へ、顔は?唇は?私はハッとしたのです。「一寸待ってね」と言って水呑みを洗ってお茶をいれに行く、幸いなことにお茶がありました。お茶をついで持って行くと、喜んでグビッグビッと音を立てて呑んで下さったのです。便器もいっぱいでした。 手洗いもかえてやっと気がついたのです。そうです。イエズス様は私のすぐ傍にいらしたのです。大体世間知らずで何も気付かなくて、勉強だけが好きな私に看護婦が出来るわけがないと思っていました。 それに気付いて人の思うことがわかった!というのは、やはり私の傍で「顔を見て!して欲しいことが出ていますよ」と教えて下さったり、ある時は患者さんになったりいつも傍にいてくださったのです。
切断して無い足が痛むと訴える方、さすってあげるより方法がありません。振り返って決して良い看護婦ではなかった私ですが、多くのお恵みによって生かされて来ました、何時も傍にいらっしゃるイエズス様!、本当に神に感謝です。
贈り物
辻堂2区 佐々木美奈子
10月末、デパートのカード売場に行ってみましたら、殆ど全てがクリスマス用のものに入れ替わっていました。一瞬「今、何月?」と戸惑ってしまいました。暑い暑い夏からあっという間に9月、10月になり、夢中で走りつづけて、気がつけば今年も待降節が近づいてきました。毎年、この季節になりますと過ぎ去った1年を振り返ってみます。
2千年前、神である御父は、私達への愛ゆえに、御子キリストを世に遣わして下さいました。クリスマスに交換し合う贈り物のプレゼントと、存在しているという意味のプレゼントが、全く同じ英語のPresent というつづりである事は、キリストの存在そのものが神様から人類への贈り物に他ならないとしみじみ納得させられます。以前、ある神父様が「人を訪問したり、お見舞いに行く時、すぐに何を持って行こうかと心配するけれども、大切な時間をその人と共に過ごすということが最高の贈り物ですよ」と言われました。 この言葉は私の心に深く響きました。
昨春、大好きな伯母を看送りました。40日間の闘病でした。その間何度も見舞いながらとても心細く感じました。でも88歳の伯母は最後の最後まで私には想像も出来なかったような形で、プレゼントを贈りつづけてくれました。伯母との別れは本当に辛く悲しいものでしたが、彼女のことを思い出す度に心がほのぼのと満たされます。人は死ぬまで何かを与えつづけることが出来ることを実感した、大変貴重な体験でした。伯母との最後の日々は、神様と伯母からの大きな大きな贈り物であったと深く感謝しております。
人間は誰一人として何時、何処にどんな父母の下に生まれるのか、自分で選んだり、希望して生まれた人はいません。それこそ生命は神様からの最大の贈り物です。これは長さも中味も一人一人全く異なったプレゼントです。それ故、私達は何年いただいているのか全く判らない命の日々を出来るだけ良いものにして生きられたらと願います。
作曲家や画家、彫刻家など特別な才能をいただいた方は、目に見える作品として遺したものによって多くの人びとに慰めや、よろこび、やすらぎを与える事が出来ます。何も特別な才能のない私でも人と関わる時、私自信の存在がせめて小さな贈り物になれたらどんなに嬉しいだろうかと思います。
クリスマスが近づき、1年を振り返って見る時、私はこの1年人からどんな贈り物をいただいただろうか、また私はどんな贈り物を人に差し上げる事が出来ただろうかと考えてみます。
私は毎晩歩いていますが、こんなとき自分がどれ程人に助けられ、支えられて日々を過しているのか、また神様からどれ程大きな恵み(プレゼント)をいただいているか、祈りながら思いめぐらすことが多いのです。
毎月第3土曜日に開かれているケア・セミナーに関わらせていただいて3年半になります。テハン神父様のご指導のもとに、毎回色々なテーマで分かち合いがなされています。はじめは「自分が誰かのお世話をしてあげる」ためのセミナーと思っていましたが回を重ねるたびにその感じが変わってきました。人をケアーするために自分がどのようであったら良いのかそれを毎回強く問われているのを感じます。準備の段階で、テハン神父様はテーマを何も決めていらっしゃいません。はじめのうちは指導司祭が先ずテーマを決めて下さるのが当然と思っていました。でも神父様が大切にされているのは人との関わりのなかで、「今」何が求められているのかに心を傾け、共に導かれて行こうとする心であると気がつきました。 ケアーセミナーを続けるうちに少しずつ「今」に対する心構えを身につけられるようになったことを嬉しく感じています。
私自身とても多忙な毎日を過しております。1週間の予定を眺めて、あれもこれもと気が急ぎます。下手をすればどれもこれも中途半端になってしまい、その結果は不満と空しさ、苛立ちと大きなストレスだけが残ってしまいます。そんな時私は「明日を思い煩ってはならない。その日の労苦はその日で充分である」との聖書の言葉を思います。余分な計画や思い込みではなく、与えられたその時に精いっぱい心を開いて向かい合うなら、「今」を大切に生きることになるのです。そうしてみますと人との関りも物事も全て無理なく運んで行くから不思議です。更に妙な疲れも空しさも感じず、しみじみとしたよろこびだけが残ります。
今年は2千年に向かう最後の年です。その意味で千年に1度の「時」の流れの中にいることに特別の感慨を覚えます。いつの日にか神様に呼ばれる時、自分なりの存在を感謝を込めて神様にお返し出来たらよいと、より一層自分の在り方を考えさせられるこの頃です。
東京砂漠
鵠沼1区 八子俊吉
「東京砂漠」という唄をご存知でしょうか。「長崎は今日も雨だった」を歌ってデビューした内山田洋とクールファイブの歌で、今から20年位前大ヒットしました。美しいメロディーの曲です。
ボーカルの前川清は「東京砂漠」を情感あふれる声で絶唱しています。現在ソロとして活躍している彼は、歌謡曲だけではなくポップスも歌い、桑田佳祐をはじめ多くの若い歌手にも影響を与えた日本を代表する歌手だと思います。出身地は長崎でカトリック信徒とも聞いております。
「東京砂漠」は題名でもわかるように東京を砂漠にたとえて、大都会で一人暮らすきびしさを歌っています。都会で幸せに暮らす歌には、大田裕美の「木綿のハンカチーフ」がありました。この歌の主人公は幸せでした。今まで家族友人に囲まれて暮らしてきた若者が、はじめて親元を離れて都会で一人生活した時どのような体験をするでしょう。会話のない満員電車、黒い人の流れの雑踏、自分一人のアパート、生まれてはじめて孤独を味わうのではないでしょうか。
前川清が歌います。
「空がないてるすすけ汚されて人はやさしさをどこにすててきたの」
砂漠で一滴の水を求めるように若者はこの都会で何を求めるのでしょう。
「あなたがいればあああなたがいれば陽はまた昇るこの東京砂漠」
「あなたがいればああうつむかないで歩いて行けるこの東京砂漠」
あなたとは誰でしょう。恋人でしょうか。または神でしょうか。それは聴く人の自由です。
私達はミサの時、典礼聖歌10番をよく歌います。
「荒れ地の乾きはてた土のように神よ私はあなたを慕う」
「私の心はあなたを慕い体はあなたを乾き求める」
この聖歌を歌うたびに私は「東京砂漠」を思い浮かべます。
音楽と共に人生を歩んでこられた八代正雄様は、昨年12月の藤沢教会報で次のように述べておられます。
「私はどの時代の音楽にあっても、それは心を豊かにし、やすらぎを与え、心をいやしてくれるものであり、そしてすべては宗教的なものに通じるものであると思っています」
私も同感です。「東京砂漠」は宗教的であり、聖歌といっても良いと思っています。皆様はどうでしょうか。
フィリピンからのたより
サンパギータを子供たちに贈る会
クリスマスおめでとうございます。
大聖年・2000年を迎え皆様と共に神様を礼拝し讃美出来ることを感謝いたします。
私共、サンパギータを子供達に贈る会は、アジアに住む子供達が21世紀も豊かな環境で神様の愛に応えて活躍することを願いつづけております。そこでお隣の国の一つフィリピンの子供達に目を向けメッセージを送りはじめて7年になりました。毎週金曜日に教会のお台所を使わせて頂き有志が腕をふるってマドレーヌを焼き、日曜日には主旨賛同して下さる方々にお買い上げいただいて集った浄財、バザー収益金から戴く浄財を合わせて、今年も60万円を現金で司牧中の石川神父様を通じてお届けすることが出来ました。皆様のお心尽し、ご協力のたまものです。本当に有り難うございます。 現地では今年もこの奨学金によって5名の学生が高校、大学で勉強しています。皆優秀な成績を修めているそうです。又ミンドロ島にあるアボリック、サンタテレサ小中学校では贈られたお金を衛生管理や学校の設備充実に活かし、生徒も先生も希望をもって勉強しているようです。私どもにとってもうれしいのは、現地に住む人々が未だ見ぬ藤沢の人々に想いを馳せ、感謝の祈りを捧げていること、祈りの輪が日本、フィリピンを結んで神様に捧げられていること、有り難いと思います。それを伝える現地からの便りと写真が届きましたので要約をお伝えします。
親愛なる藤沢教会の皆々様
皆様御元気でしょうか。いつも私共に沢山のご好意をお送りくださり本当に有り難うございます。今年は6月から8月にかけて雨が多く仕事がはかどりませんでしたが、今は教室も校庭も整えられ生徒はよい環境で勉強しております。ミシンも入りました。 運動具も充実しました。バスケット、バレーボールを手によろこんでいる子供たちをごらんください。ご好意は活かされて学校は希望と活気に満ちております。
生徒は無論のこと、先生も父兄もこの学校を誇りとしております。 これはすべて藤沢教会の素晴らしい運動のお蔭様です。本当に有り難うございます。私共は毎日藤沢教会の皆様に向けて感謝と共にご健康、お幸せを神様にお祈りしております。喜びの様子をお伝えする写真と共に心からのお礼状を送らせていただきます。
皆様本当に本当に有り難うございます。感謝を愛と祈りにこめて
エルサ・バルアルテと学校一同より
このようなつながりが来るべき21世紀も豊かなものになって行きますようお祈り下さいませ。
(文責:辻堂1区 海老原美子)
“こころのともしび”
鵠沼1区 上條 俊
人のつらさ本当にわかりますか?
「人の気持ちを察しなさい」それが人間関係をうまく築くために必要なことだそうあなたもいわれたことがあるに違いないと思います。相手の気持ちを察しなさい、その人の辛さを想像しなさい、自分がもし同じ立場に立たされたら一体どうなるかを考えてごらんなさい。なるほど正論である。足を踏まれて痛がっている人に、「私は足を踏まれたことがないからわからない、わからないから関係ないの」では相手の心がずたずたになってしまう。「わかります、痛いでしょう。私と一緒に痛みを取り除きましょう」といえば、相手は「この先どうなることか」という不安からひとまず解放される。 あなたのことを救世主だとは思わないまでも、理解してもらえたということで、ほっとするだろう。しかし、人の心の痛みが本当にわかるものなのだろうか?踏まれているのはあなたではない人なのだ。 痛いだろうことはわかるが、それがどの位の痛さなのか、そこまではとうていわからない。
「人の気持ちは推測したり、判ったつもりになったりはできるが、本当のところはよく判らない」
それが正しいのではないか。わかったと思い込んでしまうのは、不遜というものだ。わかったつもりになるなど本当の優しさではないだろう。結局私達は「私にはあなたの痛みが全て判るわけではないけれど、わかろうとする気持ちはある」ということでしか誠意を示せない。謙遜にこう考えていたほうが「わかったつもりになっている」人よりもはるかに人の心の痛みやつらさを自分のものとして考えられると思うのだが、どうでしょうか。
「水に流せる人」には、心の底力がある。私達が一生のあいだに、いちばん頭を使うことは何か。将来のこと、仕事のこと、人類の戦争と平和について、夕食の献立まあいろいろあるだろうが、おそらく広い意味での人間関係である。それほど頭を使っているにもかかわらず、人と人というのは必ず行き違いが起き、トラブルになりその修復のために大きなエネルギーを費やすことになる。
人と人との関係なんてもうイヤだ「とにかく人の世は住みにくい」といった所でどこへ行けばいいのか。どこへ行っても「人の世」だ。結局向こう三軒両隣のなかでやっていくしかあるまいというのが、夏目漱石の「草枕」の冒頭だ。
私達人間というのは、そんなに頭のいい動物ではない、何とかいい関係でありたいと思って考えぬいても、その目的を達成することはまれだ。そういうことなら、もうヤケクソになって人との関係はかならず綻びていくものと考え方を改めた方がいいかもしれないではないか。そしてトラブルを起こさないための対策を考えるのではなく、起こってしまったトラブルをどう処理し、どう仲直りしてゆくかにエネルギーを注いだ方がいいようだ。
まあしかし、わざわざ文句をいいにくるのもナンだが、だからといって根にもっていては、自分も損である。ここはさらりと「水に流して」はどうか。これ迄のことを改めてとがめ立てたりせずに、なかったことにしようというのである。これも長生きの秘訣かも知れない。これからのいい関係、向こう三軒両隣の関係でいるための現実的な知恵の一つと思うがどうだろうか。
ちょっと失礼なことをされても、言われてもへこまず、さらりと「水に流せる」のは力のある人だ。いくら頑張っても、いくらもがいてもなるようにしかならないのが人生、来年2000年、また一つ年をとっていくのである。
「終末的な生き方」
北1 岡村 正
「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」マタイ25:13
存在のすべて。「かってあり、今あり、またあるであろう」「唯一の神」に結ばれて唯一、一回切りのことは絶えずわたしたちに到来していると考え、ある限りのいのちを「今ここに」共にある創造の必要に注ぎ込む生き方を、終末的な生き方と言ってよいでしょう。
有名な掟(マタイ22章37節)は、その終末的な生き方を表しているので、その中の「あなたの神」とは具体的に言うなら「今ここに」共にある「唯一の神」のことです。
持ち物をすっかり売り払って畑を買う人の話マタイ13:44や塔を建てる人、進軍してくる敵を迎える王の話、で終わりの一言ルカ14:33も、また、イエスの厳しいことばルカ14:26 も「唯一の神」に仕える終末的な生き方を示すことばとして受け止めることができます。
予め知って生きることを望み、善いと分かっていることを選んで生きたいわたしたちにイエスは、どうして「時代のしるしを見ることができないのか」マタイ16:3「今の時を見分けることを知らないのか」ルカ12:56 と問い、「ヨナのしるしの他には、しるしは与えられない」マタイ16:4と言います。
ヨナのしるしという意味は、また別の機会に考えるとして、現代のわたしたちの生活には、「今ここに」共にある「唯一の神」 の必要という唯一、一回切りのいのちの創造を見る姿勢が欠けがちのように思います。そんなことがあるとは思いもしない人も多いのです。
それで、何時、何処でもものごとを通して共にある「唯一の神」の引き合わせを感じて、その必要に応える人はごく僅かです。
何時、何処でも、誰にでも通用する一般的な考えを、わたしたちはその思いや考えの支えにして物事を判断し選んで居ます。
「唯一の神」に結ばれて、わたしたちの一人一人に与えられている、選べない位置付けと、その結果である互いの違いを生かす交わりがわたしたちに欠けています。つまり、わたしたちに「唯一の神」との交わりが欠けているのです。
殆どの場合わたしたちは、一般的な考えで物事を説明して片付けているので「唯一の神」に結ばれて夫々唯一である一人一人を、必要としない生活をして居ます。また、選べない「唯一の神」の引き合わせを意識するようなことは稀なのです。従って「今ここに」という唯一、一回切りの「時のしるし」を見分けることをしないのです。
わたしたちが、ものごとに対して不安になったり心配したり気遣いするのも、その分かっているところでの一般的なそれであり、唯一、一回切りの「今ここに」ある「唯一の神」の必要を考え、それに応えようとはしないのです。まして、それは「唯一の神」の実現なさることだと信じてそれに仕えようとはしません。
物事を、その分かっている一般的なところで求め、また応じるに留まる限り、それは繰り返しであって、「唯一の神」との交わりはわたしたちにありません。 「今ここに」ある「唯一の神」即ちわたしたちの未来のところに触れて変えられるのでなければ、わたしたちにいのちの創造はないのです。「唯一の神」との交わりはない、ということです。
むしろわたしたちは同じままで居たいので変えられる事、いのちの創造を恐れ避けているように見えます。ですから、そんなわたしたちに剣を投げ込み散らされる神の到来が、救いになるのです。
わたしたちの打ち砕かれた魂こそ、神へ最上の捧げものになる、と言われるのは、「唯一の神」との交わりがどのようなことなのかを表しています。
聖霊の介入なしに、わたしたちの意志では「唯一の神」との交わりを目指す回心は出来ません。では、一体わたしたちの何処に、わたしたちの何をとおして聖霊は働いているのでしょうか。
わたしたちの今までして来なかった事の故に、生きられなくなっている人たち、わたしたち自身の生きられなくなっている部分。
わたしたちが「唯一の神」との交わりを避けているので、わたしたちの社会に欠けている足りない状況。其処にイエス・キリストが立っておられ、聖霊も共に働いているのです。
「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」ヨハネ1:26と洗者ヨハネが言うのは、そのことを指しています。
わたしたちは、その方を知ろうとしませんし、物事を、その分かっているところで求めまた応じているからです。善いと分かっていることばかり追い求め、わたしたちのなかにある悪いことに、こころを留めないばかりでなく、何故わたしたちの中に悪いことがあるのか、わたしたちに何が欠けており足りないのかと反省し考えようとしないからです。
人の思い考えに囚われて居て「今ここに」共にある「唯一の神」との交わりに気付かないわたしたちは、悪いことも、またそれを癒す「福音」も、すべての人に結ばれてあるのだということを理解しないのです。
ミサ聖祭で「キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに、聖霊の交わりのなかで」と唱えながらわたしたちは、からだに響くものを感じないのでしょうか。
信徒でない多くの人々と共にある日常の生活の至る所に、「今ここに」共にある「唯一の神」の必要を伝える言葉であるキリストが見えないのでしょうか。
典礼が、制度と組織としての「教会」のなかに留まる限り、「教会」は、神のみこころに適っているとはいえないでしょう。
テハン神父は「聖年を迎えるわたしたちに沈黙と静思と単純さが必要です」と言われますが、それは常にわたしたちの派遣される先すべての人の「今ここに」ある「唯一の神」の必要に目覚めているために必要なのではないでしょうか。
選べない「唯一の神」に結ばれて引き合わされる一人一人、そしてその唯一、一回切りの時と処と関係の必要とする創造に応える生き方こそ、終末的な生き方であろうと思います。
大聖年のクリスマスに思うこと
鵠沼2区 野村純一郎
旺文社の国語辞典の文学史年表によれば、キリストの降誕後、150年後?に「新約聖書」(教典)が完成するとある。
東洋では、紀元前500年?頃すでに中国の儒教の教典があり、更にインドでは紀元前500年に釈迦がインドで仏教を始めたとある。このことが事実であるとすればキリスト降誕の500年?も前に論語や仏教が中国、朝鮮、日本に伝播した種があった。しかし、近代文明の利器はキリスト教国である欧米諸国から生まれている。東洋の各国はこれから欧米諸国なみの近代社会を築こうとしている。
これからの千年で東洋にどれほどキリスト教を布教できるかと思うと、東洋にキリスト教の種を蒔かれた聖フランシスコ・ザビエルの偉業が重要なことだと思います。
そして第2次世界大戦後、日本、韓国、中国に近代的なカトリックの布教が行われ西暦2千年を迎え、やっと東洋人にキリスト教信徒が根づき、藤沢教会もその一つとして大きく羽ばたこうとしています。すでに八角形にゅーすは藤沢教会のインターネット・ホームページとして世界中に情報を発信しています、このことは幸いにも私たちは今、2千年に生きていて、キリストの教えを伝える人達でなくてなんであろう。
一人でも多くの人がキリストの教えを知り、伝えるようになることです。世界の人々が天災にあった時、国や宗教を超えて、人を助けようとする行動に出る、これは神様から授かった人間性ではないだろうか、東洋にキリスト教が徹する時は次のミレニアムには来るだろうか。神の国、東洋を希望してクリスマスを迎えたい。
神に感謝。
1.静思のひととき
マタイによる福音25章31〜46について黙想と分かち合いをおこなった。
2.バザー関連について
反省点
- 衣料売場にて、陳列台がくずれて怪我人が出た。今後その原因を調べて対処することになった。
- 代金の支払いについて、万引きをしているかのように扱われたとのクレームがあった。購入された客にたいして、その応対等について注意したい。
収益金は4,489,611円(うち賛助券2,221,500円を含む)で、配分金2,250,000円は福祉部で配分先を決定する。
なお、聖堂をイベント会場にすることについては、賛否あるが、参考までに当聖堂建築時に検討されたことは、小聖堂に聖櫃を設け、大聖堂はイベント会場として使用することも出来るようになっているとのことである。また、聖堂を会場として利用しない場合、会場設営のやり方やバザー規模なども根本的に見直しが必要となる。しかし、昨年のバザーアンケートのあったように聖堂を会場として利用することへの反対論も少なくなく、当然見直しもあってよいので今後おおいに議論を深めて行くこととなった。
3.「大聖年・21世紀へ向けて」の集い報告
11月7日に開催された内容を報告された。今後は、何かの結論を出すのではなく、年代を越えた信徒が自由に意見を出しあうことによって、一致できればよいのではないだろうか。「一致すること、動いていることを認め合うこと、活動していることが大切なのである。むしろこれが目的なのではないでしょうか」(テハン神父談)。
4.Y2K問題に関して
カトリック正義と平和横浜教区協議会から、コンピューターの誤作動が懸念されている「2000年問題」について、各教会としても危機管理計画の作成を行なって対応するように提案されていることについて、とくに広範な連鎖的影響を社会に及ぼすことになるので、災害時のことを予知した対策は必要であろうとのことで意見が一致し、壮年部に設置されている防災委員会において、危機管理委員会的のものが可能か検討していただくことにした。
当面の問題であるY2K問題に関しては、保存食などの備蓄を準備する方向で検討することになった。
6.来年度の活動計画や予算案作成に関して
例年のことであるが、各活動部の年間活動計画および予算書を作成していただくが、その書式を12月委員会で配布することになり、2月に事務局に提出することになった。今後は活動部同士の日程が重なることのないように、行事のデータベース化も考えているとの報告がなされた。但し実現については未定である。
7.委員会規約改訂案について
改訂案のたたき台が示された。今回の改訂の問題点は、教会委員会に活動部代表が正式に教会委員として参加していないので、宣教部・典礼部・教育部・総務部・国際部・広報部・福祉部の各代表委員が参加出来るようにすること。また祈りの会代表も参加すべきであるという意見もあり、さらに規約案を委員会で検討することになった。
8.その他
年末年始の装飾の手伝いをお願いしたい。
12月11日4時からの市民クリスマスに参加を呼び掛けて欲しい。
ホームレスに対するパトロールを定期的に行っている藤沢火曜パトロールのグループが、月1回炊き出しを検討しているが、その炊事準備の場として当教会の厨房を使用したいとのこと、また配膳場所としても庭を使用することを検討した結果、協力することになった。信徒の皆様にもご理解いただきたい。
保護者の方々との勉強会
シスター我妻志づ枝
イエス様のお誕生おめでとうございます。きっと、お子様とご一緒によい準備をされて、この喜びの日をお迎えになられましたことでしょう。幼きイエス様の祝福が、皆様のご家庭の上に、そして世界の貧しい人、苦しみにある人、子供たちの上にありますようお祈りいたします。
さて、昨年5月より隔月、ミサ後、子供たちが各クラスで学んでいる間30分位、保護者の方々とホールで分かち合い学びあって参りました。日曜日のホールは、使用予約が次々あり、次の方も準備をなさりたく、落ちついての集まりが、あまりできませんでしたことをお詫びいたします。来年1月からは、部屋を確保して落ちついた時間を持ちたいと思います。
新しい年、新たな気持で始めましょう。
北2ブロック黙想会に参加して
長後 福嶋淑恵
11月7日、鎌倉黙想の家にて行われた北2ブロックの黙想会に参加させていただきました。 当日は多少風が強い日でしたが、天侯に恵まれ、静寂の中で心安まるひとときを過ごすことができました。
黙想会は「大聖年に向けて、御父の慈しみ」をテーマに、イバニエス神父様より、神様が「御父」と呼ばれる由縁を説明しながら、「御父」がどのような方であるかを解説していただきました。マタイによる福音書を読みながらのお話でした。大聖年を迎える準備として、御父の特色である慈しみ深さ、あわれみ深さを確認することができました。お話の合間に、2回ほど自由に黙想する時間をいただき、最後に聖堂で御ミサにあずかりました。解散前のティータイムには、テハン神父様が同席して下さり、参加者全員で感想を述べ、交流の時をもちました。
仕事に追われ、日曜日の御ミサにあずかることもままならぬ状況の中で、日常から離れ、神様とゆっくり向き合う時間が欲しいと願っていたところ、この黙想会へのお誘いをいただきました。私にとって、黙想会もブロックの催しへの参加も初めてのことで、期待と不安のうちに、気付いたら黙想会が終わっていたという大変短い一日でした。もっと長い時間、神様の御声に耳を傾けていたかったというのが正直な感想でしたが、この続きは日々の生活の中でとの思いをいただき、明日につながる信仰が得られた、実りある黙想会でした。
共助組合では、インターネットのホームページで、共助組合についての様々な情報を紹介しています。
http://member.nifty.ne.jp/jcu/
共助組合のご紹介、田中弁護士の法律相談JCUニュース、「老いは恵み」(上智大学吉山神父記念講演)などです。
共助組合では経済面だけではなく、様々な情報提供を通じて、会員の皆様がたに奉仕して行きたいと思っています。いつでもお待ちしています。
共助組合は御聖堂入口右側にあります。
《行事》
以下の通り司教ミサが行われます。
1999年12月25日 (土)正午
大聖年開始司教荘厳ミサ於山手教会
2000年4月30日(日)静岡県大聖年ミサ
2000年5月7日(日) 長野県大聖年ミサ
2000年6月18日(日)山梨県大聖年ミサ
2000年8月13日(日)神奈川県大聖年ミサと平和旬間の集い
◎ 各県でのミサの企画、場所、日程は各県で相談して準備してください。
《 巡礼指定聖堂》
神奈川県 山手司教座聖堂 末吉町教会 戸塚聖母の園の聖堂
静岡県 神山復生病院の聖堂 静岡教会
山梨県 甲府教会 富士吉田教会
長野県 軽井沢教会 松本教会
◎ 巡礼の方法や連絡方法など詳しいことは、12月中に発刊される教区報42号をご覧ください。
1999年11月30日 横浜教区事務局 細井 保路