八 角 形 に ゅ ーす

1997年4月6日

聖シモン&聖ユダ

藤沢カトリック教会


 目次

 幸せと自由・・・・・・・・・・・・(神学生 ジェリー・ドイル)

 教会委員会より

 典礼暦「ご復活への道」に参加して・・・・(湘南台センターだより)

 静修の集い『縛りの信仰』・・・・・・・・・・・(宣教部 大泉 仁)

 「ミサの歴史と私達の霊性」辻堂講演会・・(辻堂3区 鈴木和子)

 藤沢ブロックの集い・・・・・・・・・・・・(藤沢3区 落合良仁)

 キジト神父様から藤沢のいとこの皆様へ・・・(辻堂1区 浮田久子)

 ネパールとの出会い・・・・・・・・・・・・・・・(信徒宣教者会 米谷和枝)

 佐藤初女講演会を終えて・・・・・・・・・・・(鵠沼3区 今 満里子)

 4月の主な行事予定

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幸せと自由

神学生  ジェリー・ドイル

 最近、四旬節の意味は私自分にとって何の意味があるかと聞かれた事があります。ここで、私は昔は四旬節の事については深く考えた事がなかったのを告白しなければなりません。カトリックの国の私の祖国のアイルランドでは習慣的に、四旬節の間ではあれをがまんする、これもがまんするという感覚がありますので、私自身も、友達も皆、考えずにがまんだけをしました。

 四旬節のことについて考え始めるとアイルランドでひいおばあさんから聞いた話が頭に浮かびました。彼女は自分の人生に起きた事を話すのが好きだったのです。彼女は若いころ、アイルランドの都のダブリンで小さな店を持っている青年と結婚しました。昔のダブリンは、今と違って人々も少なかったし、忙しくなかったのです。

 私のひいおじいさんがなくなった後でも、ひいおばあさんはその店を続けて運営しました。

 その後、ダブリンはどんどん大きくなって、人々も沢山ふえました。ある日、あるビジネスマンがひいばばの店にきて、彼女の店と土地を売って欲しいといいました。

 そのビジネスマンの会社はひいばばが住んでいる街に大きなビルを建てるためにひいばばのお店と土地が欲しかったわけです。

 でも、ひいばばは自分の店が大好きでした。彼女は毎日、自分の店にいらっしゃるお客様との出会いや地域の事について話をするのが大好きだったのです。そして、近所の貧しい人々のためにちょっと時間がたったパンなどを用意してあげたのです。彼女は子供が好きで、一緒に遊んだり、時々飴玉もあげたりしました。

 さっきのビジネスマンの話ですが、彼は大金でひいばばのお店を買おうとしましたけれども、彼女は周りの人々や町の事が好きで売ろうともしなかったのです。何日か過ぎて、さっきのビジネスマンがまたきて、もっと沢山払うからお店を売ってくださいと頼みましたが、ひいばばは断りました。そのビジネスマンはびっくりして、彼女に聞きました。「近所の店主は大金で売ってしまいましたが、あなたはどうして、断るのですか。もし、この店を売ったら、もらうお金で、今の店と同じぐらいの店を10軒も買えるし、余生を楽にすごせるのに、私には理解できません。」と言いました。でも、ひいばばの答えは簡単でした。

「今、私は何を考えているのか分かりますか。」という一言でした。四旬節の間、私達は2つの事について考えたら良いと思います。一つは自分にとって、幸せと自由は何でしょうか。2つは私達はどうすればイエス様が私にくださろうとしている、幸せと自由に達する事が出来るでしょうか。

私は自由というそのことが復活ではないかと思います。




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教会委員会より

 3月15日に定例の教会委員会が開かれましたのでご報告いたします。

1、信徒総会について。

 4月6日に予定されている信徒総会の議題の確認をするとともに資料の草稿を検討した。 従来と違う点は、口頭のみで行ってきた会計現預金残高の公表を書面による公表(総会出席者と当教会信徒の希望者には金額を明記した書面をお渡しする)としたことである。

 又、教会委員会のあり方等も話し合われ、今後各活動部の代表の方にも随時委員会に出席していただくことになった。

2、壮年部歓迎会について。

 4月27日に壮年部の転入者、受洗者の歓迎会を行う予定である。転入者、受洗者は招待とし、その他の方からは会費を徴収するが不足分が出た場合は教会会計から支出する。

3、湘南台センターのミサについて。

 湘南台センターのミサでは侍者、オルガン奏者、朗読者、先唱者が決まってないことがある。典礼部、侍者会、オルガンの係の方々と相談し教会のミサの当番に組み入れ、当日になってあわてずにすむようにしたい。






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典礼暦セミナー『ご復活への道』に参加して

湘南台センターだより

(3月15日(土)湘南台センターにおいて最近洗礼を受けられた方を対象に行われた)

▼湘南台センターで行われました典礼暦セミナー『ご復活への道』に出席させていただきました。なんとなく解っていても、そのなんとなくが不安のまますごして参りましたが、この度の懇切丁寧な説明を聖書をつかってのお話でより深くその意義を知ることができました。初歩的な小さな質問も気軽に出来、有意義な一時でした。この様な時をつくって下さった事に深く感謝しております。又、この様な機会があればと期待しております。               H.T.

▼昨年4月6日復活徹夜祭にて、入信式を受け1年が過ぎようとしております。今回、典礼暦セミナー(ご復活への道)に出席し、過越からご復活の主日迄の道のりをあらためて学習させて頂き、1段階進めたように感じます。又、久し振りに静思のひとときが出来ましたことうれしく思いました。お祈りとお話を教えて下さいました大泉様に感謝いたします。            杉村 絢子

▼このセミナーでお話を聴くことができたことを神様に感謝しています。心から四旬節を過ごしたいと思います。   秋元万寿子

▼受洗して初めて四旬節を過ごしている時に、なにもわからなかった私には、このお話を聞かせていただいて、とても感謝しています。「静思のひととき」から始まり、リーダーの大泉さんは聖書と照らし合わせ過越の意味・聖週間についてなどお話をされました。
 二千年前、キリストが過ごした時の苦しみや私たちへの愛を現在の私にも感じることができました。        石坂 純子

▼過越の意味と四旬節・聖週間についてお話を伺い、洗礼志願をしました私は、その意味を深く胸に刻み、あと数日を過ごし3月29日の洗礼式に臨みたいと思いました。このセミナー開催も新会員を暖かく迎えて下さることと嬉しく思いました。  香川 悦子

▼受洗をして2年、毎日曜のごミサに与りながら本当は何にもキリスト信者としてはわからない事だらけの自分に気が付き、丁度湘南台センターで典礼暦セミナーがございましたので参加させていただきました。過越・四旬節・聖週間について大泉様のお話を伺いながら、なんとなく分かっている様ないない様な曖昧な形で昨年は過ごしてしまいましたこの時を恥ずかしく思い、いろいろ教えていただけました。今年はこれからの御ミサの与かり方も違って参りますのではと思って居ります。何もわからずに祈りますよりも其の時の意味を理解して祈りましたならばよりキリストに近づけ、よりよい祈りに繋がりますのではと勝手に納得のいく時をいただけましたことを嬉しく存じました。まだまだ学ぶ事が多い私自身を神様が再認識させて下さいました半日でもございました。 御指導下さいました大泉様、お世話下さいました増田様・落様いろいろ有り難うございました。       R.S.

▼プロテスタントからカトリックへ導かれて数カ月、毎回の御ミサが思いの外、新鮮です。御ミサは「主と
共にある」ことを強く意識させ、これこそが信仰の原点であることに気付かされます。
 形式ばっていると思われがちのカトリックですが、この度大泉リーダーから四旬節の一つずつのお話と共に、キリストの言われる愛の大切さや信仰はいかにあるべきかというお話も添えて伺え満足いたしました。少しかけ足でしたが・・。      西山 紀子

▼今回の典礼暦セミナー(ご復活への道)では四旬節からご復活の主日までを詳しく解説していただき、今年のこの期間をより大事に過ごそうという気持ちを新たにしました。
 特に灰の水曜日、枝の主日、大斉、小斉に関する質問と回答は私も伺いたかったところなので大変ためになりました。
 又、以前はごミサのために教会へ向かう途中雪が口に入ってしまっただけでも、ご聖体をいただけなかった事など、ご自分の体験をお話しして下さり、「形だけにとらわれないで本来の意味を大切にして」とおっしゃっていたのが印象的でした。
 受洗後やっと1年、こんな時はどうしたら?とか、これはどんな意味が?と思った時になかなかすぐに聞けずにそのままにしてしまう事も多く今回のような機会があればできるだけ参加したいと思います。ありがとうございました。        香川 典子

▼私は昨年のクリスマスに洗礼を受けました。只今四旬節の最中ですが、色々の儀式が初めてなので参加させて頂きました。リーダーの大泉仁様から過越の意味と四旬節・聖週間について等お話がありました。洗礼は受けましたが色々と解からないことばかりで心細く思っておりましたところご丁寧な説明を伺って一安心すると共にこれからも勉強して参りたいと思います。今後共よろしくご指導頂けます様お願い致します。イエズズ様は死者の中から復活されたと信者の方々は不思議な出来事を信じています。私はそんなことってあるのだろうかと思いましたが聖書にも弟子達はご復活のイエズズ様に出会って復活を信じたとあり私も信仰します。神様は目で見えませんが私達を生き生きと生かして下さっている事を感謝して神様と一緒に過ごしていきたいと思います。        原賀 美代






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静修の集い『縛りの信仰』      

宣教部(六会)大泉  仁

 去る2月23日大阪教区の和田幹夫神父様をお迎えして、恒例の静修の集いが催されました。四旬節第2の主日に当たります当日は、本当に沢山の方が参加され、有意義な1日であったことと思います。

 主のご受難と死そしてご復活を迎えようとする、準備と回心の大切なこの時期に、私たちの信仰の原点を再考する貴重な講話をいただきました。そこで、ミサの中での説教そして講話を要約してみたいと思います。

 ミサの中で朗読された“みことば”の内、創世記22章を中心として、「イサクの献げ」のテーマから、神の御旨に従うということは、『息子イサクを縛って祭壇の薪の上にのせる』この縛りの信仰に要約されると言われます。つまり、自分の最愛の息子(自分の命)を献げるほどまでの絶対帰依の中に、信仰の原点があることを教えてくれます。

 聖母マリア様の受胎告知、或いは長崎26聖人の信仰の原点は、神との縛りの信仰のうちに確認されます。キリスト教徒としての私たちも、ペトロの投げた網に捕らえ(縛り)られ、舟に乗せられて素直に岸(彼岸)についたとき、復活されたイエスに出会うことを約束されています。

 この縛りの信仰を講話の基流として、今から50年前の1947年、死海のほとりクムランの地で偶然発見された“死海文書”とイエスの教え“新約聖書”の関連を概説されました。

 発見されて間もない“死海文書”は、十分な研究もされないうちに、キリスト教信仰を揶揄するような解説書が出回っております。しかし、同文書の研究が進むにつれて、この中にBC150年頃ヨナタンによって追い出され、やむをえずクムランに移り住んだ「義の教師」によって創設された教団の文書も発見されました。その結果同文書は、当初律法遵守に熱心なエッセネ派のものではないかと思われていましたが、或いはサドカイ派のもという説も有力になりました。  いずれにせよ、禁欲と律法(外なる律法)の遵守を通して、神を恐れる心、神への畏敬の念を大切にする素晴らしい精神性を持った教団といえます。そこには旧来の祭儀宗教から一歩前進し、律法本来の精神の高揚を中心とした教団の在り方が見出されます。

 これら福音書が書かれたと同時代の文書の発見により、福音書の解釈に少なからず影響を及ぼすことは考えられます。更に、同文書の研究が進み、同時代の背景が少しずつ明らかになることによって、福音書の更なる豊かな意義をえることが可能になりましょう。その意味からも死海文書と福音書に関する研究は、21世紀の学問といえます。

 しかしながら、聖書を通して伝えられるキリスト教の信仰原点は、死海文書に見られる律法の遵守の姿勢とは大きく隔たり、むしろ、律法遵守という当時の一般的な社会通念からはじき出された人々へのまなざしを起点とし、全ての人々に救いの手をさしのべるという、彼等にはない特性を見ることができます。

 勿論キリスト教は、神への畏敬の念を前提としておりますが、身近な存在としての神、共に歩まれる神として聖霊をいただきます。この聖なる霊こそ私たちにとっての“内なる律法”であり、洗礼をとおして私たちに、新しい心が与えられ、新しい霊をいただきます。この水を受けることによる縛りの秘儀によって、全ての人々が神の示された道を歩むように招かれています。

 以上要約を試みましたが、信仰の原点とこれを確かめる広範囲に亙るテーマを網羅することは、重すぎる荷といえましょう。

 しかし、ミサの説教から講話にいたるこの1日の集いは、和田神父様のメッセージの中からにじみでてくる深い霊性と信仰の喜びが、参加された大勢の皆様に深い感銘を与えてくれたものと思います。






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辻堂ブロック講演会

辻堂3区  鈴木 和子

 去る1月26日(日)、11時から辻堂ブロック講演会を開催いたしました。

 私達は、その題からお話をとても期待しておりました。1時間半にわたるもので、残念ながら全部を記すことは出来ませんが、録音したテープが事務所にありますので、御希望の方はお借り下さい。

バーガー神父  「ミサの歴史と私達の霊性」

 皆さんこの話題について、興味を持つということはあたりまえと思います。ミサはやっぱりカトリック生活の中心だと思います。この小さな絵をかいて最後の晩餐のときからずっと藤沢教会の日曜日までの線を引きました。本当はもっと長い二千年の線ですが、その間にいろいろの事がありました。場所によって時代によってミサはちょっと違ったのです。中心のところはずっと守ったと思いますがやはり時代によってそのやり方とか雰囲気はずい分違うようになったのです。その間にいろいろなアイデアとか出て教会は全部それを覚えています。例えば1966年頃公会議あったでしょ。その頃から教会では奉納行列が始まったでしょ。皆さんはうしろからパンとぶどう酒と献金を持ってくるということは新しい事が始まったと思っているかも知れませんが9世紀の初め頃あったのですよ。9世紀の教会では奉納行列の大きいのがありました。あまり献金はなかったのですが、この人は卵をこの人は麦をこの人は野菜をこの人は葱を持って一つ一つ祭壇まで持って来て捧げて、その間に司祭はパンとぶどう酒を捧げたのです。信者の捧げたものは司祭の生活費となったのです。そのことを今再発見したのです よ。そのような遠い歴史と私達の霊性とは関係あると思います。ここで皆さんにアンケートを配りたいと思います。目的は、ミサとかご聖体についてちょっと頭を動かす為です。試験ではありません。各文章のあとにスペースがありますから完全に同意するだったら1、全く同意できないは2、上手に逃げたいだったら3、を書いて下さい。書く時間は10分くらいです。

 感謝の祭儀とは

 感謝の祭儀について次にのべてあるものの中からあなたの考えと一致しているものを1〜5の程度に応じて番号を書いて下さい。

 1、完全に同意する。
 2、大体同意する。
 3、わからない。
 4、ほとんど同意できない。
 5、全く同意できない。


質問
1、パンとぶどう酒は言葉通りキリストの御体と御血になる。
2、パンとぶどう酒はキリスト教の象徴にすぎない。
3、感謝の祭儀はキリスト教徒の生活で最も大事なものである。
4、カトリック教徒は毎週日曜日に聖体拝領すべきである。
5、ミサが終わった後キリストは実際にパンとぶどう酒の中におられる。
6、聖書朗読と説教はミサの中で一番だいじなところである。
7、ミサの間自分の個人的な祈りを唱える良い時間である。
8、ご聖体はキリストに敬意を表するものとして、自分の手で頂くものではない。
9、感謝の祭儀ではキリストを十分に頂くためにパンとぶどう酒両方を頂く必要がある。
10、感謝の祭儀で何か他に敬意をもってされるものがあればパンとぶどう酒に代るものを使ってもよい。

 1。キリスト教の歴史ではこれは大きな問題です。一ばん古い新約聖書は、1コリントみたい。そこに「これは私の体です。これは私の血です。」とイエス様が言って下さったでしょう。カトリック教会はそのことをすごく大事にして昔から強く語っています。だから1。

 2。プロテスタント教会とか他の宗派の人はそう言っていますが、私達はそうではないのです。本当にキリストの体ですと昔から言っています。これは大事ですから図書室から教会専門語の辞典をもってきました。「聖体の秘蹟に於けるイエスキリストの臨在−ミサ執行中の司祭がパンとぶどう酒の上に聖変化の言葉をのべると御主イエズスキリストの御体と御血がその御霊魂並びに天主の聖諸々共パンとぶどう酒の外観と形色のもとに神的しかも本質的に臨在したもうのである。」です。キリストは本当にここに居るという信仰は私達の教会は言っています。

 3。私達の生活の奉仕と、ミサの礼拝は別ではないです。これは愛がない生活をしてミサに出て祈るということではなくて毎日の生活のうちに愛を持って人を大事にして神を大事にしてそれからミサに出て心から祈るというのが私達の生活です。だからこれは1、だと思います。

 4。初代教会にはよく毎週集まって一緒に食事をしてその間にパンとぶどう酒を頂きました。中世世紀頃、これは本当にキリストの御体ですからおそろしい事です、心の準備をしないで頂くとその途端に死ぬとか迷信的なおそろしいような、考え方がありました。人はよく遠慮しました。17世紀頃、私達の生活は罪だらけですから本当に頂かない方がよいというような考えがあったのです。幸いに20世紀の初め頃、公会議の前、ピオ10世という教皇様が、ご聖体をできるだけ頂く方がよいと教えていたので、20世紀にはだんだん考えが昔の方に戻ってやはりよく頂く方が大事です。皆さんはミサに参加している時に頂くことは理想だと思います。これは新しい考えではなく昔のことを再発見したのです。

 5。ルーテル教の教会とか行くと最後の晩餐を記念してその式の間にキリストが本当に居ると本当に信じているが式が終ってからは居ないというように考えていると思います。私達は昔からの伝統で病人の為に残ったご聖体をおいて、ミサが終ってもキリストはまだそこにおられると信じています。私達の昔からの伝統。だからカトリック教会へ行くとやっぱりまだ聖櫃とか聖櫃の前にランプがありますね。聖公会だったら時々ある、時々ない。カトリック教会は必ずあると思います。そしてキリストは、そこに居られるというように信じています。

 6。カトリックの教えによると多分大事なところは奉献文のところでしょう。プロテスタント教会にはその神のみことばは一番大事ですから説教は大事です。やっぱりカトリック教会には奉献文より大事なところはないと思いますけどバチカン公会議によるとキリストは聖なるパンとぶどう酒だけではなくてキリストはどこに居られるかときくと公会議によるとみことばにはキリストはおられる。又祈っている共同体の中におられる。その3か所にキリストはおられる。ですからみことばは大事ではないと言ってないです。特に公会議の後、説教はよく準備しなさいと私達に言っています。旧約聖書とか新約聖書は人によく聞こえるようにとか、よく語るようにとかすすめています。昔のラテン語のミサの時、司祭はラテン語でパウロの手紙を読んだのですね。全然聞こえなかったでしょ。旧約の朗読もなかったでしょ、昔のミサ。今公会議のあとそれも神のみことばだからそれも大事です、みことばの中に神はおられるからそれを声を出して皆に語りましょう、そして説教はそのみことばの説明とかする方がいい。だから昔の説教は秘蹟についてとかしました。

 7。昔、公会議の前には司祭がこうやって小さな声で祈っている時に、皆さんはその間にロザリオを唱えたり自分の祈りとかすることはあたりまえだったと思います。公会議の後にミサを捧げるのは司祭と共同体ですから奉献文を自分の祈りにして神に捧げましょうということです。今は奉献文を大きな声で語るはずです。勿論個人的な祈りは大事じゃないと言ってないです。でも別な時に個人的な祈りをする方がいいと教会は言っています。 8。これも昔のことを再発見したということです。公会議の前は、一般の人はご聖体をさわるということは絶対にイケマセン、ということだったでしょ。カリスでもさわることはイケマセン、ということでした。けれども昔のエルサレムの聖キネウルフ(5世紀頃)という人の教えですがご聖体を頂く時について言っています。
「両手を重ねて玉座のようにして。アーメンを唱えて。」公会議の後に舌で頂くということは今はじまったことではなく昔の中世紀頃のことに戻りました。そして一般の信者もカリスから頂けるということは新しいことではなく古いことの再発見をしたのです。

 9。教会の教えによるとパンだけ頂いてもキリストの御体ですからぶどう酒を頂かなくてもいい。同じようにぶどう酒だけでもいいが、パンの方が配りやすいということもあります。教会の歴史には大きな意見とか爭いとかありましたがシンボルとしては両方頂く方が豊かに心に響きますがパンだけでもキリストを頂くことになるということです。

 10。これは神学生のような質問ですね。イエス様はイスラエルの人だったでしょ。パンはふつうの生活の食べ物、ぶどう酒は普通のお酒でした。それは地中海の文化の為にふさわしかったですが、北ヨーロッパへ行けばパンとビールがいいじゃないですかとか日本だったらご飯とお茶がいいじゃないですかとか、そうするともう1人の神学生がでもエスキモーの方へ行くと鯨のあぶらになるでしょうとか言うでしょう。でも教会はパンとぶどう酒に限ってやりますと教えているのです。いろいろなものを使うと多分可笑しくなるでしょうと思います。

 皆さん質問ありますか。このことについていいですか。

 教会の伝統にはいろいろあります。この最後の晩餐から今迄の間にいろいろあったんですよ。そしてその間にそれは間違いだからダメというより教会はこの歴史があるからいろいろの考えがあるから伝統が豊かだと考えているのです。1つのものの見方でなくて歴史が長いから古いからではなくて伝統が豊かだと思います。例えば最後の晩餐ということをみると初めから意見が違っていました。マタイ、マルコ、ルカは大体似ていますがヨハネによる福音書は違うのですね。マタイ、マルコ、ルカによると最後の晩餐は過越の祭りでした。けれどヨハネによるとその前の日でした。だから初めから意見が幾つもあったようです。そしてキリストが十字架で亡くなった時に神殿は小羊は捧げられたと同じ時に神の子羊イエス・キリストも命を捧げました。その教えは非常に大事です。ミサの時に使う言葉と聖書の言葉はちよっと違います。福音書は一つ一つ違うからそれをまぜて使っています。マタイは正しいマルコとルカは間違っていると語りたくないからパウロは正しい福音書は間違っていると語りたくないからその4つを混ぜてミサの言葉にしてあります。

 イエス様の時代が十何年経ってからその間に初代教会が始まりました。大事なことは自分達がやっていることはイエスの言葉どうりにしているという意識がありました。初代教会には信者は日曜日に集まっていた。でも休みではなかったので仕事が終わって夕方に集まって食事をしてパンを捧げて一緒に食べるようになりました。(使徒2:46 マタイ18:20)公会議にはキリストはパンとぶどう酒の中にだけでなく共同体の中にもいるとおっしゃったでしょ。それは新しい教えではなくこのマタイの言葉、昔のことだけでなく教会に日曜日に集まるということは再発見したということです。公会議は教会の古い伝統から掘り出した再発見したということです。1コリントの終わりの方では、キリストが来られるまで、ということですね。

皆が集まってパンとぶどう酒を捧げてキリストがそこに居られるということは、昔のキリストだけが居られるということだけでなく将来もう1度来て下さるキリストも居られるということも信じています。♪信仰の神秘と言うでしょ。主の死を思い復活を讃えよう主が来られるまで。キリストが帰ってくるということも私達の信仰です。

 キリストは昔の人だけではなくて将来の人ですという信仰も大事です。共同体のもう1つの大事なポイントは共同体の一致です。パンは1つですが私達は大勢でも1つの体です。御聖体を頂く時に教会は一致するのです。

 1〜2世紀は人の家に集まっていましたがだんだん共同体に家を寄付する人が居て集まる所になって、最初の礼拝専用のところが出来たみたい。5百年頃、ローマ皇帝コンスタンティヌスは洗礼を受け、この時から教会の立場が随分変わりました。今までのように小さな所でひそかに集まるようなことはしないでもいい、ミサのやり方も変わりました。ミサも立派になりました。建物、衣服、行列など皇帝のことを真似しました。この時代からモザイクという美術もありました。教皇様の足に接吻するということも19世紀まで続いていました。雰囲気も変わってきました。この時代の奉献文、特に2番はよく似ています。このあと中世紀になると大きな変化がありました。教会は北ヨーロッパと東ヨーロッパに広くなりました。急に大勢の人に福音を伝えましょうとしましたがそれは簡単にできることじゃないです。やっぱり昔からの神々とかありましたでしょ。例えばドイツの方にはウォーデンという神様がありましたですね。そしてドイツ人々はウォーデンに自分の作ったもの捧げましたでしょ。そしてキリスト教になってもその麦とか葱とか同じように新しい神に捧げました。考えはそんなに変わらな かったのですね。そうなると考えがちょっと迷信的になることが多いと思います。そして勿論私達と同じように死者を大事にしたい、死んだ人をどのように助けてあげることができるでしょうか。

 贖宥という問題があったでしょう。新しい信者はこの言葉は聞いてないけれどもこの考えだったのです。専門語の辞典から「贖宥・天主は、罪人が天主と和解した後、罪に付随して残っている罰を贖罪の業に代えるかその罰をことごとく免除するか、する権能を公教会にさづけ給うた。罪ゆえに当然我々の罰の免除を贖宥というのである。そしてこれは教会が我々に命じてある善行を聖寵の状態に於いてなすことによって受けられるのである。」この考えが非常に大事になったのですよ中世紀頃。そうするとミサに参加するより巡礼をするとか、御聖体を頂くとかより、ミサを唱えてもらうとかそのようなことになったのです。ちょっとオーバーしたと思います。そういう時代があったのですよ。この関係で特に修道会の神父さん達は個人でミサをするようになったのです。大きな聖堂では沢山祭壇があり聖堂に入ると同じ時に三つか四つのミサは途中です。それぞれ個人の為に祈っていました。ミサに参加する為でなく聖堂に入ってきてウロウロしている人もいてそのような状態だからベルを鳴らすようになったのです。「聖変化ですよ。聖変化ですよ。」そしてその時まで司祭はパンをぶどう酒をこのよう にあげなかったです。けれども聖変化ですよと言って皆が見てあ、これはミサですねと言って御聖体を見るようになったのです。だからどうして最近ベルはないですか、まあ、ある教会にはまだやります。伝統ですが本当に必要ではない。と言うのは皆さんは参加しているのだったら聖変化ですよ、起きなさいと言わなくていい。皆さんはもう参加しているから司祭と一緒に祈っているからわかる、だからベルを鳴らすということは必要じゃない。だから教会は緕рテーマ繿Oの方に戻っています。昔の古いことを再発見しています。

 1517年、アウグスチノ会の修道士マルティンルーテルという人が教会をきれいにしましょうという自分の考えを出してヴィンテンベルグという町の御聖堂の入口にだしました。その時から宗教の革命が始まりました。ルーテル派の人達は新教になり、カトリックの伝統を守っていた方は旧教になったのです。公会議のあとずい分考えが変わったと思っている人もいるが、宗教の革命のときはもっと変わりました。トレントの公会議はその答えですね。ルーテルはちょっとオーバーしましたけどやはり教会のやり方を直しましょうということで厳しいきちんとした事しました。

私達の公会議までのミサはトレントからそのままだったのですよ。教会は外から色々な批判が来てましたから非常に固くなったのです。その時代にはいいかも知れないけど公会議では教会はこの様な筈じゃないですよと、やっぱり世に向ってキリストの愛と喜びを語るべきだという大きな考えをもって変わりました。1つのやり方だけでなく豊かな伝統を再発見しようということになりました。今のミサはその公会議のミサです。その霊性は私達の救いについての考え方と関係があります。共同体は本当に大事だという考え方です。だからこの時から、今は終点ではないんですよ。将来に何があるか。教会は何処に行くか。私は子供の時にいつもラテン語でないとダメと思っていた。聖変化は必ずラテン語でするということをシスターに聞いたことを覚えています。今私達は30年間にこのくらい変わったから将来も変わります。いま聖書と典礼に2つありますね。新しいのは、もう少し季節を大事にしましょう、もう少し日本的にしましょう、今はラテン語からの直訳ですからそうしなくて日本人の心からの祈りのようにしたいと思ってやっています。いま年間の日曜日に新しい祈りを使っています。皆さんそ のように変わっていると気がつかないかも知れないけどそれは私達司祭はそれを使ってみましょうということです。それについて意見があったら日本の典礼委員会に返事とか自分の意見を出すはずです。ですからここは終点じゃないですよ。まだ、まだ、ね。主が来られるまで。





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藤沢ブロックの集い

藤沢3区 落合 良仁

 家族的繋がりを通して「喜びのメッセージ」を分け合い、味わい、そしてそれが自然に周りに広まって行くことを願い、「藤沢ブロックの集い」を企画していますが、今回は「家族の絆」をテーマに集いました。

 日時:97年3月8日
 場所:藤沢教会センターホール
 参加者:25名

  プログラム             

1、「家族の絆」についての話題提供
      落合 良仁

2、小グループでの話し

3、「家族の絆」をテーマにしたミサ
             テハン神父

4、お茶とお菓子のパーティ

 まず、はじめに落合より、体験を含め「親や兄弟との傷ついた絆とそれを通して気づき成長したこと。また、絆をロープに見立て、夫婦としての絆、さらに子供との絆を見直し、緊急の時にしっかりと支えることができるように結び直していくこと」が提案された。

 そのあと、小グループでお互いの体験を踏まえて「家族の絆」について話し合いが持たれ、家族との関わりにおける悩みや喜びなどについて活発に分かち合われました。

 「家族の絆」をテーマにしたミサでは、下記の図に示したように実際に6枚の紙を持ち寄ると、祭壇の上で「愛」という字が出来上がり、テーハン神父様が「お互いに愛を持ち寄って、愛を目に見える形にし、ミサでそして教会で得た愛を外に向けて分かち合っていきましょうと」と私たちを励まして下さいました。

 家族的で心温まるんミサのあとは「お茶とお菓子のパーティ」。「上から組織として提案されるのでなく、近所の苦しんだり悩んでいる人へ心を配るなどのボランティアが小さな核となり、その様な活動が集まり、ブロックの活動として広がって行くと良い」等の意見が出されました。各意見は今後生かしていきたいと思います。

 次回は夏休み前にレクレーション的な集いを考えていますが、アイデアや意見を下さい。






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キジト神父様から藤沢のいとこの皆様へ

         辻堂1区 浮田 久子

 1月以降、私はウガンダの人々、またホイマの皆様方のいとこ達のためのチャリティの仕事に奔走しておりました。皆様が送って下さったクリスマスのご寄付によって健康のためのユニット、毛布類、栄養不良の子らのための粉ミルク等を調達することができました。ヴィンセンシオ・ア・パウロ会がルワンダとザイールで活動していますが、彼らが私に代わってこれらの品々を届けて下さったのです。慣れない厳冬のさなかに、勉強に追われながらの仕事でしたが、アフリカで苦しんでいる人々のために皆様とご一緒に少しでも働くことができて嬉しく思っております。パウロ会は今後も私が助けを必要とする時には援助を約束してくれましたので感謝しております。酒井和林様が帰天された悲しいニュースは前便のようにホイマにも知らせました。私たちは心を合わせて哀悼の思いをこめて酒井さまのご霊魂のためにお祈りしております。

ホイマの皆に代って実り多き四旬節とすばらしいご復活のために私たちの祈りと愛を皆様にお送りいたします。神父様方にもどうぞよろしくお伝え下さい

  ご復活の主にありて祈りつつ

 2月22日     キジト神父

追記

 キジト神父様からは3月にはいって相次いでお便りがはいり、そのなかで、ウガンダでの状況が一段と厳しくなったので6月の日本訪問は中止してセミナーが終了次第、帰国されることに決まった由、ザイール、ルワンダの恐ろしい情勢に心を痛めながら情況にうとい日本の私たちはご来日の際にぜひ現地の事情を直接伺いたいものと願っておりましたのに残念でございます。3月7日付のお手紙では(先週)ザイールからウガンダに向っていた難民2万5千人が待ち伏せにあって全員殺害されたと云う眼を覆うばかりのニュースが伝えられました。私たちは心を合わせてアフリカに平和が来たりますように、同胞たちのため熱祷をお捧げしようではありませんか。






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 ネパールとの出会い

   信徒宣教者会   米谷 和江

 ヒマラヤとカレーとチャイ(ミルクと砂糖をたっぷり入れた紅茶)の国ネパールより、こんにちは! 12月16日、一番寒い時期に(首都)カトマンズ入りしました。私がホームスティしている家には暖房がなく、フィリピンから来た事もあり私は湯たんぽを抱いて寝ています。中流のネパール人家族に温かく迎えられ、ネパールの生活と文化を学びつつネパール語を習い始めました。3カ月後ここからバスで約28時間離れた村へ入る予定です。食事は3食カレー味、アメまでカレー味でフィリピン同様手で食べていますが、最近胃袋が黄色くなって来ている気がします。この寒い中家族は皆裸足で、ネパール語で裸足とはカレー食った(クッタ)と言いますが、この単語だけはすぐに覚えてしまいました。ネパールについて簡単に説明すると、正式な国名はネパール王国、インドと中国に挟まれた難しい位置にあり、人口1909万人(1991年)、面積14万で北海道の約2倍、宗教はヒンズー教が86%を占め、インド同様カースト制度があります。政体は立憲君主制、ネパール語を公用語としますが多くの民族・言語が存在し、主要産業は米・小麦・トウモロコシ、GNPは34億5300万ド ル、一人当たりのGNPはアジアで最も低い180ドル(1991年)一方ではODA、NGOとも多国の援助が入っています。中でも日本の援助額は莫大で日本の援助で作った、橋、ダム、日本式信号の話しはよく聞きます。

 さて、私とネパールとの出会いは大学生の時インドに旅行した時から始まりました。ボンベイから電車で数時間の小さな街に住む友人石川神父様(ヒロ神父さん)を訪ねたのですその当時神父様は神学生でした。ヒロ神父さんは本当のインドの姿を見て欲しいと私を売春街に連れて行ってくれました。そこには道や小さな家の中に色とりどりのサリーに身を包んだ15才位の少女からおばあちゃんまでの様々な年齢の女性達があふれ、異常な熱気に包まれていました。ネパール女性はインド女性より色が白いため人気があるそうで、ここには多くのネパール女性がいました。彼女達の多くは山奥の貧しい村からブローカーを通し、たったの2万ルピー(約4万円)で売られて来て、その後、年老いても病気や、今、ネパールでも問題となっているエイズにならない限り、故郷ネパールには帰れないと言うのです。私と同じ年代の女の子達が1回何百円というお金で1日何人もの客を取らされている場に立ち、ショックを隠しきれない私にヒロ神父さんは2つの話しをしてくれました。まだ10代後半の美人で頭の良い女性が最近火に飛び込んで死んだと言うのです。インドのある地方では夫が先に死んだら妻は その死体を焼く火の中に踊りながら飛び込まなくてはならないという風習が残っているためだそうです。もう1つはインドやネパールでは結婚の際、女性は多額の持参金を夫の家に払わなければならず、その時に払えない場合は、何年後までに払うという約束を交わす場合があり、もし約束の期限が過ぎても払えなかった時には夫の家族からお嫁さんは殺される事もあると言うのです。この様な話を初めて売春街の近くの小さなチャイ屋(喫茶店)で聞いた私は突然お腹が痛くなり、近くの家のトイレに駆け込みました。その後、この街を去る前日、いっしょに売春街について行ってくれたネパール人の友人から「ネパールの話をしてあげるから」と言われついて行くと、何もない彼の部屋には大きく真っ青な空に白く輝くヒマラヤのポスターが何枚かはってありました。このヒマラヤは美しく、こういう美しい山々のある故郷へ帰りたくても帰れない売春街の女性達の気持ちをふたたび考え、私にはわからないと思ったものです。それから約4年、私は今自分の目でヒマラヤを見、ネパール人と暮らしています。今朝はお父さんの靴を履き易いようにそろえてあげたら、「和江、私は気にしないけどネパールでは 父親の靴は息子しか触れないんだよ。」と教えられました。又カーストも複雑で汚れるという意識より触れてはいけない物や入ってはいけない場所もある様です。ムズカシイです。

 それでは、最後に今日読んだ本からの言葉をそえて「人が不幸になってゆくという事は、単にその人間の問題だけではなく、環境や才能やめぐりあわせなど、いろいろな条件の不調和という事もある。」

 1997年1月12日

    ナマステ(さようなら)

      米谷 和江(Kazue Yoneya)

 KAZUE YONEYA

  c/o Mr David Karki  p.o Box 2395 Kathmandu Nepal

 お手紙お待ちして居ります。(郵便局から送って下さい。切手を張ると封筒ごと取られることがありますので)

 2信

1ルピーちょうだい

 こちらネパールも少しずつ暖かくなり、赤レンガの民家の前に菜の花の黄色が美しく彩りを添えています。

 先週カトマンドゥからバスで約30分離れた、古都バクタプールを訪れました。その日はヒンドゥー教のお祭りの日で、広場にはお面をかぶり神様に扮した人が踊りながら50人余りの子供を相手に鬼ごっこの様な事をしていました。子供達は右手を口にあて、インディアンのする様に「ワワワ・・・」と大きい声を出し、左手をまっすぐ前に伸ばし、「こっちにおいで!」と神様を誘います。そして、その誘いに乗って神様が近づいて来ると、全力で逃げるのです。子供達の余りに楽しそうな声と表情に誘われ、私も子供達に混じって参加してみました。また、その私に「つかまってはダメだよ」と真剣に教えてくれる子供達の表情があまりにかわいくて、思わず私は一番小さい子を抱きしめ、ホッペとホッペをくっつけてしまいました。気付くと私の周りにはたくさんの子供達、「僕にも!私にも!」と期待にうるむ大きな目が、まっすぐに私を見つめていました。その子供達を抱きしめいっしょに遊び私にとって心の柔らかくなる一時を過ごしました。

 次の日、バスで帰ろうとしていた私に5才位の2人のハダシの女の子が「1ルピー、1ルピー」(ルピーとは、ネパールのお金の単位。1ルピーは約2円)と少しこびた、大人の様な仕草で掌を出して来ました。貧しいとされている国を旅する多くの人が出会う光景です。バスの出発まで時間があったため、私はつたないネパール語で、「名前は?年はいくつ?お家はどこにあるの?」としゃがみこみ話かけてみました。しかし、何を質問しても彼女達は「1ルピー」としか答えてくれません。負けてたまるかと彼女達の手を握り質問し続ける私に、彼女達ははずかしそうにポツポツと答えてくれるようになりました。さらには自分から生き生きと話し出したのです。その瞳は昨日会った子供達と同じものになっていました。きっと彼女達にこの様に話しかける人は少ないのでしょう。疲れている時、私もお金をせびる子供達に眉をひそめた事があります。多くの場合、子供達に乞食をさせているのは彼らの親で、子供達もどうしたら同情を引くのか良く知っています。観光ガイドブックにはしつっこくつきまとはれた時、「ジャウ!(行け!)」と言うように書かれています。きっと彼女達も「ジャウ」と何 度も言われたのだろうなと思いつつ彼女達はわずか5才の小さな子供の心を持っている事を「フッ」と気付かされました。そしてバスが走り出しても彼女達は手を振り続け、最高の笑顔を見せてくれました。その笑顔に感動しながら私は、次に会う時は「1ルピー」ではなく「ナマステー(こんにちは)」と言えるといいね。と、心の中でつぶやきました。 今も、世界のどこかで笑う元気もなく、多くの子供達が死んでいっている事を信じられない様な、おだやな夕暮れでした。

  1997年3月5日 米谷 和江






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佐藤初女講演会を終えて

       鵠沼3区  今 満里子

 3月15日(土)佐藤初女さんの講演会は夜来の雨は上がったものの冬に戻ったような寒さの中午後4時から聖堂で開かれました。日頃は八角形の上から陽光のさしこむ聖堂が好きでしたが当日はビデオの上映もありましたのでスクリーンが見やすいように曇天であれされど観客の出足が鈍らぬように雨天にはさせて下さるなとスタッフ一同の甚だ身勝手な願いを寛容な神様は聞き入れて下さり(と信じて居ります)灰色の空の下寒さにもかかわらず聖堂いっぱいのお客様を送り込んで下さいました。佐藤初女さんは龍村仁監督の映画「地球交響曲第2番」に出演された青森に住む素朴な感じの一見普通のご婦人です。決して弁舌さわやかではありませんしむしろ東北訛で咄々と話されます。お話の内容も身近な事を例にとって親しみ易いものです。それがどうして龍村監督の感度の鋭いアンテナに引っかかったのでしょうか。それは初女さんが尊いものとして意識している母性的なものと龍村監督が地球を母なる存在として捉えている意識が一致したからだと私は思って居ります。初女さんは若い頃結核とカリエスにかかりその闘病生活を食物によって克服した経験から食物の持っているエネルギーを人の体 に移しかえる辮命の移しかえによって人は生かされる、食は生命であると云う固い信条の下に手間を惜しまず自然の素材を最大に生かすよう心を配ったお料理を作り自宅に訪れる悩み苦しみを抱えた人にお食事を提供しました。「私はカウンセラーじゃないからただ話を聞いて上げるだけなんですよ」と初女さんは云われますが訪れた人は胸中にある鬱積を吐き出し話している中に自分で解決の緒を見つけ心をこめたお食事をいただく事で癒されて帰っていく、その数7百人にものぼるそうですが東北の片隅のその話が龍村監督の耳に入った時監督はこの人だ!と直感したと云う事です。監督はすぐ弘前へ飛んで行き初女さんに会ってその日の中に映画への出演依頼を決断し初女さんは出演の意味もよく解らぬ儘何の不安もなくすぐ承諾したと云う話です。初女さんが「私は面倒くさいという言葉が嫌いなんですよね。大切なものが逃げていくようで」と云えば監督は「その面倒くさいという思いが今地球を破壊しているのです」と応えると云う風に二人の間には通じ合うものが多くあったようです。藤沢教会では去年の4月27日龍村監督の「地球交響曲第1番」の上映会をセンターホールで行い2百人位の方に 観ていただきました。その時実行委員になった下村洋史さん恵津子さん斎藤菊代さん片桐福子さんそして私が今回も実行委員をつとめました。初女さんのご実家と私の実家が偶然すぐ近所だった事などから私もスタッフの一人に加えさせていただき教会のリーダー的存在の方々と一挙にお友達になれて嬉しい副産物でした。下村さんのお宅で度々開かれたスタッフ会議の楽しかった事!卆直な意見がとび交い皆この講演会を成功させたいとの熱意が溢れていました。当日午後4時、オカリナの澄んだ音色がどこからともなくひびき聖堂の中が静けさで満たされました。幼ないお子さんもかなり居たようでしたが小さな胸にもよくひびくものがあったのでしょうか。不思議な位静寂でした。そのあと「地球交響曲第2番」の中から初女さんの登場場面だけをまとめたビデオテープの上映があり「今を生きる心」のテーマで講演に入りました。昨日と違う今日を、今日を大切に生きる事によって新しい発見があり向上につながって行く事。物慾出世慾子供の将来に対する過度の期待それらにまどわされず信念をもって生きる事の大切さを体験を交えて話されました。「地上の富を積んではならない富は天に積みなさい。 あなたの富のあるところにあなたの心もある。」(マタイ6章19〜21節)私はこの聖句を思い出しカトリック信者として信念を貫いて生きて来られた初女さんの強さが直接伝わって来て深い感銘を受けました。そして「私はどこへ行ってもカトリックを伝えたいと云う気持で話します。」と云われた初女さんの言葉をはっきりと思い出したのでした。神父様方はじめ多くの教会関係の方々のお助けがなかったらこの講演会は実現しなかった事でしょう。

心からの感謝を捧げます。そして当日いろいろな形でお手伝いして下さった沢山の方々ありがとうございました。曇天といっぱいのお客様をプレゼントして下さった神様 ありがとうございました。






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4月の主な行事予定

3/31(月)〜3(木)韓国巡礼

4(金)初金ミサ・婦人部例会午前9時30分

5(土)北1ブロックお花見ハイキング(新林公園)

5(土)9(水)12(土)16(水)19(土)23(水)26(土) 結婚準備セミナー  午後7時

6(日)藤沢教会信徒総会              午前9時30分ミサ後 

7(月)神のお告げ

7(月)21(月)子連れで集まろう午前10時

10(木)テレサの会     午前11時

13(日)日曜学校新学期(1年生は5/11から)

    鵠沼ブロック集会

19(土)ケア・セミナー   午前10時

20(日)初聖体   午前9時30分ミサ中

   ミサ先唱者研修会  午前11時

27(日)壮年部 受洗者・転入者歓迎会




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