ボーイスカウト藤沢16団・キリスト教章受章者レポート
藤沢1区 岡田 友季子

ボーイスカウト藤沢16団ベンチャー隊・ボーイ隊の3名が、名誉あるキリスト教章を授与されました。

藤沢16団ではキリスト教章を重視して、20回にわたるキリスト教入門講座への出席、体験学習(ホームレス「火曜パトロール」参加)、レポート提出という一連の課題を課しており、さらにテハン神父様、カトリックボーイスカウト指導者協議会の審査を経て、ボーイスカウト日本連盟の手続きに則り、授与されたものです。

テハン神父様、さらにカトリックボーイスカウト担当の築地教会川原神父様より、お褒めの言葉をいただきましたので、ここにそのレポートを掲載いたします。



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キリスト教章講座を受けて
鵠沼1区 山本 篤

 このレポートのテーマは、「自分の生活において、キリストの教えをどう実行しているか、今後の心構え」ということでした。自分の生活で、キリストの教えをどう実行しているかと聞かれても、それに答えるのは簡単なことではありません。

 まず、誓いと掟から考えてみることにしました。3つの誓いについては概ね自分の生活で実行することはできると思います。しかし、誠実、友情、礼儀、親切、快活、質素、勇敢、感謝という8つの掟すべてを自分の生活で実行することは難しいです。

 そこで、掟はどのようにキリストの教えとつながっているのか考えてみました。誠実は、マタイ7章15〜17のみことば、ヨハネ1章47でナタナエルを見られたときのイエスのみことば、マタイ5章8で山上の説教にある心の清い人たちの姿などに見られました。友情はヨハネ15章13におけるイエスが語られた「友のために命を捨てる愛」、フィリピ2章17に見られるパウロの「殉教することも喜びだ」との愛の姿などに見られました。礼儀はマタイ22章11〜14で披露宴の席に礼服をつけずに入った姿、一テモテ5章17以下にある長老への尊敬の姿に見ることができました。親切は、使徒言行録20章35にある弱い者を助ける姿、ローマ12章9〜12、一ヨハネ3章17〜18にある他者への愛などに見られました。快活は、神を信ずる心の奥底から出てくる喜びとしてフィリピ4章4〜7に身の回りの出来事や困難に左右されない心と結びついてあります。それと、ルカ10章12にキリストが聖霊によって喜ばれた姿あるいは喜びの理由として。あと、ルカ10章20の天に名がしるされていることなどに見られました。質素は、ルカ6章20のみことば「貧しい人々は幸いである」の深い意味を黙想させ、ルカ12章13〜21に描かれている愚かな金持ちの声、使徒言行録20章33〜35に伝道の合間にテント造りの労働で生活費を稼いだパウロの苦労として、また、一ペトロ3章3〜4には妻のあるべき姿などとして見られました。勇敢は、イザヤ50章10〜11のみことば、また、死をも恐れず勇敢に確信をもって生きた人として。そして、マタイ3章7〜12と14章1〜12にある洗礼者ヨハネの姿、あるいは使徒言行録6章8〜7章60にあるステファノの殉教までの働きなどに見られました。感謝は、マタイ6章25〜34のみことば、すべてのものを生かし守っている神の愛、中でも人の心と体を支える神の摂理を説いているところなどに見ることができました。

 今回のキリスト教章講座で、スカウトの3つの誓いと8つの掟を実行することはキリストの教えを実践するということにつながることがよくわかりました。

 ところで、キリストの教えを一言でいうと、よく「愛」だといわれます。それは、聖書のルカ10章29に『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』と書かれていますし、その他いろいろなところにも愛について触れられています。だからキリストの教えが「愛」ということはぼくもそのとおりだと思います。

 では、自分の生活で「愛」を実行するにはどうしたらいいのでしょうか。マタイ25章31以下に、「お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」とあり、「私の兄弟である最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」と書いてあります。たとえ小さなことでも、人の喜ぶこと、人がしてほしいと思うことをしていくのは愛の実行であり、キリストの教えの実行になると思います。小さい者とは体の小さいもの、幼い者ということではなく、引き篭もる人、望まれていない人、愛されていない人、アル中の人、死にかけている困窮者、捨てられた人、孤独な人、浮浪者、除け者、ハンセン氏病患者など自分の身の周りにもたくさんいます。そのひとつとして、ホームレスの人たちに対する奉仕として食事や毛布などの配給をしました。経験は少なかったけれど、それからは普段何気なく通り過ぎてしまっていたことが、目に止まるようになりました。マザー・テレサの言葉に次のようなものがあります。「どこにでも孤独な人がいますが、それらの人は時としてその部屋の人にだけしか知られていないのです。このような人がとにかく存在することを私たちは本当に知っているのでしょうか。品物は豊かであっても、人間的接触のない人がいます。彼らは愛に富む人間の声に憧れている人なのです」勇気がいるけれど、これからはもっと積極的にこのような人達に関っていきたいと思います。



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宗教章レポート
藤沢1区 岡田 牧人

 私が宗教章を希望する理由は、カトリックボーイスカウトの一員としてキリスト教章はとっておかなければならないものだと思ったことと、上進式で「神と国とに誠を尽くし、掟を守ります。」と誓いを立てたように、イエス様の教えに従って行きていくための第一歩になると思ったからです。それに何と言っても宗教章を胸につけているのは、かっこいいからです。そしてこれからは、私達のためにいろいろなことをして下さったイエス様のようなやさしい心をもって生きていきたいです。

1、隣人愛について私は善いサマリア人の話を読んで、たとえ差別されていても、憎しみの心を持たずに倒れている人を気の毒に思い介抱し、ロバに乗せ、宿に運び、宿代まで払ったということに尊敬の念を抱きました。僕もこのサマリア人のように憎しみだけで、人を見ないで、困っている人は誰でも助けて上げられるような人になりたいと思いました。また、小さい人々の奉仕で神様が言われたように立場の弱い子供やお年寄りに対しては、一段と深い愛情をそそぎ、少しでも役に立ちたいと思います。

イエス様の言われた隣人愛、神様に対する愛はこれからも大切にしていかなければならないと思いました。

ベーデン・パウエル 最後のメッセージより

 ボーイスカウトの偉大な指導者べーデン・パウエル卿が私達に残してくれたメッセージには、金持ちになることとも、社会的に成功することとも、わがままが言えることともちがう、本当の幸せについて書かれていました。本当の幸せとは、世の中の役に立ち、他の人に自分の幸福をわけあたえ、自分が受け継いだ世の中を、受け継いだ時よりも少しでもよいものにするように努力し、後の人に残すことができた時に感じられるものだということです。私は、これを読み本当の幸せとは、思ったよりも手に入れるのは、難しいと感じました。しかし、その後に書かれている、幸福に生き、幸福に死ぬために、この考えにしたがって、「そなえよつねに」を忘れず、大人になってもいつもスカウトの誓いとおきてを堅く守りたまえというところを読み、やはり、基本は「そなえよつねに」とちかいとおきてであることを知りました。このことを忘れずに日々実践していき、体を鍛え、こつこつと本当の幸せに向かって進んで行きたいです。

2、自分の生活の中で、キリストの教えをどのように実践しているか私が生活のなかで実践しているキリストの教えというと、まだ完璧とは言えないけど隣人愛だと思います。たとえばバスの中でお年寄りに席を譲ること、道がわからなくて困っている人がいたら自分ができる限りの案内をしてあげること、悩んでいる友達の相談にのってあげること等です。こう思うと、実践していることは少ないと思います。特に小さな子供に対してのものが少ないと思います。まだまだできることはたくさんあると思います。たとえば、小さい子は何かやりたいことがあるのにそれを黙って隠していることが多いから、それを、いち早く察してあげることや、迷子のためにお母さんを探してあげるなど、他にもたくさんあると思いますが、一日一善を心がけてもっとキリストの教えを実践していきたいです。

3、キリストの弟子になるということは…

 キリストの弟子になるということは、イエス様の教えに従い、イエス様やその弟子が

なさったこととおなじようなことをする事だと思います。たとえば、良きサマリア人のたとえを使い「そうしなさい。」と、おっしゃったように、苦しみ困っている人がいたら、すぐに手をさしのべるということや、幼い子をいたわるということや、まだイエス様や神様のことを信じていない人達に福音をのべ伝えることだと思います。

 こういったことを、日々行うことがキリストの弟子になる事だと思います。

 そして、イエス様が最も重要な掟であるとおっしゃった。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」を守ることがいちばん大事だと思います。

宗教章レポートのまとめ

 宗教章講座の中でいろいろなイエス様の教えに触れることができました。これからは、それをただ知っているだけでなく、毎日の行いに表していきたいです。宗教章をとることは、それにつながると思います。

  2002年8月4日



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宗教章課題
藤沢2区 平井 敏之

 私は自分の生活の中において、イエス・キリストの教えをどのように実践しているか、という課題を出されてから、自分の日常生活をよく見直し、どれだけイエス・キリストの教えを理解し、実践しているかどうかを確かめてみました。まず家の外に出てみれば、ホームレスの人達や、小さな子ども、ご老人などが、病気や怪我、迷子、経済的な貧困など、いろいろな苦しみによってうめつくされています。イエス・キリストは、病気や怪我、食べ物や着る物に困っている人達を助け、その人達がどんなことで困っているのか話を聞き、その人達を励まし、生きるためのアドバイスをして、生きる力を与えていたと聞きました。私もどうしたら、そういうふうな行動ができるかと考え、まず初めに教会で行われている、ホームレスの人達のための、ボランティア活動に参加してみました。このボランティア活動では主に、ホームレスの人達に食料や毛布などを配って、それからその人達の体調とか、病気や怪我はしていないか、今仕事にはついているのか、他の仲間は何をやっているのかなど、こういうふうな質問をして、あとに県や市になにか補助をしてもらいたいことはないか、苦情や意見などはないかなどを聞いて、それが終わったあとに代表の人が今藤沢市や他の市がホームレスの人達にどういうふうな援助などをしているかを話してくれました。1回のボランティア活動は約2時間位だけど、たった2時間程度のボランティア活動でも、かなりハードでとても疲れます。イエス・キリストはこんな大変なことを弱音もはかずに毎日行っていたことを考えると、とてもすごい人だと思います。こういうこともありました。ある時私が丁度学校の帰宅途中に駅で切符を買おうとしていると、一人のご老人が何か困っている様子で一人でオロオロしていたので私が「どうしましたか?」と声をかけると、そのご老人は、切符の買い方と目的地に行くにはどのホームに降りればいいのかがわからなくて戸惑っていたそうです。私は切符をそのご老人に買ってあげ、どのホームに降りれば、目的地につけるかを説明してあげました。

 今の社会、ごくごく当然で普通のことだけれども、そのごく当然の行為が今の現代人に求められていることだと思います。今の現代人は他人と干渉することを避け、自分が面倒くさいと思ったら、どんなに他人や周りの人が困っていても、その人に見向きもしない傾向にあります。私はそんなサビついた心を持った人にはなりたくはありません。どんなに面倒だろうと、どんなに辛くても、私は人を思いやる心を大切にしたいと思います。私はホームレスの人達のボランティア活動を通じて、様々な現代社会の歪みと法律や規則の矛盾さを感じました。だれか一人でも大きな声をあげて、この矛盾さを県や市、そして日本全国に教えてあげれば必ず何かが変わるはずだと思います。どんなに恥ずかしくても、どんなに辛くても、最初の一歩があれば周りもそれに気が付きそのことに関心をもってくれるはずだと思います。そうしなければ日本は、いや世界はドンドン心のサビついた人間が増えていくようになってしまいます。このごくごく当然で、ごくごく当たり前なことをこなすのがイエス・キリストの教えだと思います。

 今後の心構えについては、スカウト活動や教会の奉仕活動、そして自分の日常生活の中で、他の人達を思いやる気持ちを忘れずに、自分がしてきたことを自分の後輩たちに教え、技術だけではなく、自分の信念もちゃんと受けついでいってもらうように、努力をしたいと思います。また自分も、生涯ずっとこの心を忘れずに神と国とに誠をつくすボーイスカウトの「おきて」を実践し、スカウト活動と奉仕活動を続けられたらいいなぁと思います。そしてこの自分の「信念」を生涯曲げることなく生きていきたいです。「一つの志をつらぬくことは何よりも難しい」と剣道と空手の両方の師範はいつもいっていました。この言葉を両方の師範にいわれてから私はその言葉を深く自分の心に刻みこんでいます。これから何年自分は、ボーイスカウトと教会の信仰活動を続けられるかわかりませんが、自分の生きている元気なうちは、この志をつらぬき通して頑張って行きたいです。スカウトソングの「永遠のスカウト」の歌詞にあるように「死してのちもスカウトだ」といわれるようなスカウトになりたいです。



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フィリピンからの便り
サンパギータを子供達に贈る会
辻堂1区 海老原 美子

 クリスマスおめでとうございます。

 日頃はおなじみのマドレーヌを通してフィリピンの子供達への学資、学校設備充実送金にご協力戴き有難うございます。 今年も藤沢カトリック教会サンパギータを子供達に贈る会より50万円を現地で働く石川神父様、聖母訪問会を通じて活用していただくようお送りしました。奨学金を受けたグーレースさん、ロザナさんよりお礼の手紙、マニラ聖母訪問会シスターからは、マニラやミンダナオ島の現状を知らせる手紙をいただきましたのでご報告します。

 ミンダナオ島では、反政府勢力との戦いを通して島民の生活はおびやかされています。その中で相互理解、地域の平和のために働く神父様、シスター方は文字通り体を張っていらしゃいます。8月にコロンバン会のハリー神父様が凶弾にたおれられた事は私たちも忘れられない出来事です。この中で神父様、シスター方はいつも真の平和をめざすのに教育を欠かすことは出来ないと訴えられます。藤沢教会から送られる善意が、平和の道具に役立ちますようこれからも引き続きご協力よろしくお願いいたします。

 

 親愛なる皆様

 お元気でいらしゃいますか先週私はFr. Ryu(石川隆三郎神父様の現地の呼称) から、皆様がお送りくださった奨学金を頂きました。本当に有難うございました。

 私は、貧しい家庭の5人兄弟姉妹の2番目に生まれました。兄は大学3年生ですが私までが大学に行かれるとは思っていせんでした。 神様の恵みがキリストを通じて贈られたこと、神様は必要な時にいつも助けて下さる方、夢をかなえて下さる方を実感し感謝の祈りをしております。

 皆様もいつの日にかここパルアンにいらっしゃってください。ここは小さいけれど美しく平和なところです。皆様のご好意うれしく厚く御礼申し上げます。神様の恵みがいつも皆様の上にもあります様に。

祈りのうちに

           グレースより

 親愛なる皆様

 お元気でいらっしゃいますか

 この度私はFr. Ryuから、皆様からの奨学金を頂けることを知らされました。この素晴らしいニュースは、私はもちろん私の両親もどれほどありがたいことと感謝しているかわかりません。 私はロザナ.T.デロス・サントスと申します。サンタテレサの出身で、今、神言会の大学に入ることが出来ました。一生懸命勉強したいと思っております。皆様のご好意心から感謝致します。有難うございます。

 神様のお恵みが皆様のうえに豊かにありますように。

  祈りのうちに

           ロザナより

 主の平安

 先日は教会報を送ってくださり、有難うございました。藤沢教会の信徒の皆様の活躍はすばらしいですね、読ませていただいて皆様の信仰の熱意が伝わって来るようでした。サンパギータの皆様には、続けてマドレーヌを焼いて下さっているとのことありがとうございます。2000年の度報告書がそろわず遅くなりごめんください。先日、ミンダナオで働くシスター・エドナが報告書を持って訪問してくれました。コピーを同封致します。皆様の御援助によって無事 Ms. Maricelが高校を卒業いたしました。、また、Newyearineは大学2年を終了、今年度からは従兄が学費を助けてくれるということで私共の手から離れました。残るは神学生のAlexonder Doria、大学2年を終了し、今年から3年生になります。まじめに勉強しており成績もよいようで、司教様も彼の成長を楽しみに待っているとのことです。彼が幼少時、両親が離婚、それぞれ他の人と再婚し、彼はみなしご的な状況で、今はシスター達が母親代わりになり、神学校を訪問し、彼を励ましています。今年は彼の学費の為18000ペソ(約4万5千円)を出しました。 シスター・エドナの働いている所はイスラム教、キリスト教信徒が半々のところで、教区の高校には半数の人がイスラムだそうです。ですからカトリック教の宗教の時間には、イスラム教の生徒はイスラム教の勉強をします。イスラム教の先生はとてもまじめで、コーランもむずかしく、ある生徒はカトリックのクラスに参加しているというおもしろい話をシスター・エドナがしてくれました。しかし、イスラムの中には、ミンダナオをイスラムの地にとりもどそうとする過激派の人々が、たえず問題を起こしており、とても緊張して毎日を過ごしているとのことです。

 シスター・ピラールは任地が変わるとかで忙しく、マニラに出て来る時間もなくお便りをいただきました。マニラで勉強している Ms.Glendaは今年大学4年生になります。正規な資格を取る為、5年生まで勉強を続けたいと言って来ているとのこと。今年度分として 35000ペソ(約8万8千円)必要とのことで送金致しました。

 今朝、シスター梅本が会議のため帰国しました。時間があれば皆様の所へと思いましたが、時間が取れないということで、私が8月に黙想会の為,帰国いたしますので平日になると思いますが訪問させていただきます。

 きょうは国会議員、州知事、市町長の総選挙日でした。シスター・エベリンは監視員のボランティアとして1日働いて来ましたが、投票所で相談しながら書いている人に注意したら、いや味を言われたり、酔っぱらった男性が使用人の女性といっしょに来て、女性の投票用紙に記入しようとしたので、注意をしたらどなられたとかで精神的にとても疲れて帰って来ました。今までに立候補者が58人も殺され、今日はミンダナオで6人が死亡とのことで今年の選挙は大荒れです。エストラダ前大統領の支持者も多く(それもお金を

バラまかれた貧しい人々に)選挙の結果がどうなるか心配です。

 フィリピンの平和の為お祈り下さい。皆様の御健康と御活躍をお祈りします。 (5月14日)

    シスター・コンソラータ芝崎



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親と子のかかわり
・・愛されるよりも愛することを・・
藤沢1区 綿貫 明宏

 私の父は、私が7歳の時、戦争で亡くなり、細かい記憶はありません。残っているのは、毎日チョコレートを1枚買ってきてくれて、そのため虫歯がいっぱいできたこと、時々温泉に連れて行ってくれたこと位です。遠い昔を思い出すような、しみじみとした懐かしさとほんのりした温かさを感じます。

母は、今から24年前に亡くなりました。母は戦中戦後の生活が大変な時期を乗り切ってきました。特に、戦後の収入があまりない中で、持っていた着物をほとんど手離して子供たちを育ててくれながら、グチを言わず、優しい笑顔で通してきた、芯の強さが私の記憶です。大切にされた実感と優しさが残っています。 しかし、今私たち2人で関われる親は、光江の母一人だけです。 最近、少し言動がおかしくなってきましたが、それでも我々と一緒に温泉や花見を時々楽しんでいる姿を見ると、私の母と一緒にいるような安すらかな気持ちになってきます。光江と2人で案内役になることで、光江の母が喜んでくれると、私が、死んだ母にほとんど何もできないままに別れてしまったので、今、それができるのは、子供としての喜びのようなものを感じています。

 光江の母は、整理好きでした。私たちの子供が小さかった時、光江が子供たちを連れて母に会いに行こうとすると、「片付いていないから今はだめ」と断られ、傷ついたことが時々あったようでした。 光江はそれが母に対しての不満として強く残っていましたが、最近体も小さくなってきたうえに、時々記憶もあやしくなり、行動面でも気になることが見えて来た母に対して、光江は昔のような強い否定的感情が無くなってきたと言います。

 むしろ、光江が母を気遣い、しばしば顔を会わせ、外に連れ出そうとしている姿に、温かさと優しさを感じ、私も自分の母と一緒にいるような、落ち着いた気持ちになれ、喜んで協力しています。このような状態がいつまで続けられるか分かりません。

だから、今、光江の母に出来ることは、今、やらねばという思いが強いのです。それが私の出来る大切なことだと思っています。

 また、時間をつくってゆっくりと温泉に行こうと思います。それは、親子3人でゆったりした時を、心ゆくまで味わえる豊かなひとときとなると思うと、わくわくしたうれしい感じです。

 

藤沢1区 綿貫 光江

 

 私の父は、10数年前前に亡くなりました。今、父のことを思い出すと、懐かしさとほろ苦さと少しの寂しさを感じます。 明治生まれで封建的な人でした。私は心の中でいつも反発を感じていました。 しかし、信仰心があり、真面目で几帳面で、手先の器用なところは、子供ながら尊敬したり、お手本にしたいと思っていました。私は両親から、強く叱られた記憶も、愛情いっぱい受けて育てられたという思いもありません。5人兄弟姉妹の真ん中で、いつもおとなしくて物分かりのよい、手のかからない良い子として見られていました。ですから、父や母に甘えた経験はほとんどありませんでした。甘えるということを知らないできたような気がします。伯父さんのように距離を置いて関わっていた私を、父はどう思っていたのだろう。そのことを思い出すと、肉親の愛情を感じられなかったことに、切ないような淋しい感じがします。

 今、私たちふたりにとって、親は私の母一人だけとなりました。 ここ数年、母に急に痴呆が現れ始めました。それで、最近の私たちは、母から声がかかると、どんなに忙しくても、母の所に飛んで行きます。それは、私を心にかけていてくれる、私を頼りにしていてくれる、だから応えなくては、という思いが強いからかも知れません。

 むかし、私は若かった頃、出産の時の手伝いや、子供が入院した時、私が入院した時の手伝いを頼んだ時、いつも応えてはもらえませんでした。私は大切にされていない、愛されていないのだと思いました。ひどく傷ついて、悲しみと怒りの感情が、恨みの気持ちに変わっていきました。その時、これから先、母がどんなに頭を下げて孫を連れて遊びに来て欲しいと言われても、「決して行かない」という、悲しみと淋しさの入り交じった強い感情でした。

 それが、今、昔の否定的な強い感情はありません。心も体も小さな子供のようになってしまった、年老いた母を見ていると、「愛されるよりも愛することを」が自然に出来ている自分に驚いています。今のありのままの母がとても大切でいとおしく思えるのです。

「愛されたい」と求め続けていた私が、MEに参加し、明宏に受け入れられ、愛されている実感がもてるようになって、私は変われたのだと思います。

 私たちは、今、母に楽しい思い出を沢山作って欲しいと思い、突然「泳ぎたい」という母の要望に応えたり、「花火が見たい」という母に、2人で抱えるようにして鎌倉の海岸まで連れていったりしています。子供のようにはしゃいだり喜んだりしている母。幸せそうな母の笑顔と「ありがとう」「ごめんね」がよく出てくるようになった最近の母を見ると、もしかしたら、私たちにとって、今が、一番幸せな時なのかもしれないと思います。

 これから先、母も私たちもだんだん難しくなっていくことでしょう。でも、「愛されている」実感が私にありますから、MEの仲間に支えられながら、「対話の旅」を続けることで、「愛されるよりも愛すること」を祈りのうちにやっていけるような気がしています。



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聖書100週間
藤沢1区 渡辺 義夫

 私たちの聖書100週間の勉強は1998年10月に初まり、3年余りを経て、来年4月には終わろうとしています。最初、この勉強に参加し、創世記から始まった頃はとにかくなじめないで、こんな調子で果たして3年以上も続けられるのかと思いました。

 それで、私は何か聖書になじめる方法はないかと思い、この講座で買い求めた聖書年表、地図を活用したのです。戦争世代の教育を受け、世界史など殆んど学ばなかった私にとって、生来の歴史好きなこともあって、聖書の進行と共に、年表を繰ると当時の時代背景の中で、聖書に出てくる人物が生き生きとイメージされてくるように思いました。未だ見たことのないイスラエルの地、王朝や民族の栄枯盛衰を思い、「旧約」を読み進んで行きました。「旧約」の中で心に残ったのは強いてあげれば「ヨブ記」と、「コヘルトの言葉」です。義人ヨブが何故あれほどまで試練、苦しみを受けるのか、限界状況下のヨブの心境と信仰との関連をこのとき考えさせられました。「コヘルトの言葉」はあくことなく生の空しさを説いていて、何か日本的な無常感を感じたせいかも知れません。このようにして200年の末になって「旧約」が終わりました。

 さて2001年に至り新約聖書に入り、マルコ、マタイ、ルカ福音書、パウロの手紙等々を経て、あとヨハネの福音書、黙示録、手紙等々を残すのみとなり、2002年3月にすべて終わることになっています。聖書の読み方、理解の仕方は人さまざまでよいと教えられましたが、私は聖書に出てくる人物像に心ひかれて読みました。 例えば「ルカ」でペテロが三度イエスを否み、主はふりむいてペトロを見つめられた。ペトロ

は外に出て激しく泣いたというシーン、なぜあの方を見捨てたのかという恥ずかしさ、後ろめたさで何ともやりきれないようなペテロの気持ちです。

 また、エマオの道で弟子2人がとぼとぼと歩いていたとき、復活したイエスが現れたというシーン、これを描いた有名なルオーの絵を見ていると、何かほのぼのとした情感がするのですが、弟子たちが「あの場合、私たちはどうにも仕方なかったよね」と自己弁明しつつ歩いていたようにも感じるのです。そして主の復活を信じて後、直ちにエルサレムに戻ったこと、私たちの人生の投影のように思えました。

 あと4カ月もすれば終わる聖書100週間の勉強、皆さんと一緒に楽しく聖書の感想を分かち合えたことは忘れられない思い出です。今思うこと、それは「コヘルトの言葉」の最後のところです。

 

すべてに耳を傾けて得た結論「神を畏れ、その戒めを守れ」

  これこそ、人間のすべて

            神に感謝



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『あの人は今、林 大樹』
辻堂2区  本多 正昭

 先日、かって神学生時代、藤沢でも奉仕してくださった、林大樹神父(現、津久井教会主任)が、鎌倉イエズス会黙想の家に来られていることを聞き会いに行った。

 思えば5年前、司祭になられて僅か1年後、ガンで胃を全摘される直前にお会いして以来である。あの後、胆のうも全摘されたとのことであった。

 私は下手の横好き武道人生を歩み、特に空手道では早大人間科学部であったシンポジウムで、「中高年の初心者指導」について講演もした。また、NHKで放送された全日本や国体、世界選手権のチャンピオンにもなった・・人達と対戦し、マグレで1本取ったこともある。

 私にとって、アマチュア相撲の国体や全日本学生選手権でも活躍された強者であるにもかかわらず、神の前に弱くされ、司祭として召しだされた師は、敬愛ある兄貴であり、運動部の大先輩のような存在である。

 師の病症が良くないのを聞いた時、かつて私が献堂第1号で洗礼を受け、後に師も奉仕された日野の教会でも、教会を挙げて祈って貰ったものである。この日が迎えられるのが奇跡のような気がする。

 師は、かつての180cm・120キロの体から、30キロ減量され、骨太のスリムは一般人(?)になられていた。

意志が弱い師は、まだタバコを喫われ、酒も呑まれるというのが気にはなったが、食事には気をつけているそうであり、きっとまだまだ、この世で神と人のために働いてくださることを確信した。私はあと5キロの減量をお願いした。師と再会するために、修道院へ向かう途中の八幡様の近くで、思いがけず、あの“五体不満足”の乙武さんと出会った。炎天下、お仲間や奥さんと、あの上半身だけ宙に浮いたように見える電動椅子に乗られて鎌倉見物をされている。茶髪の彼に、「乙武さん! お元気でね!」と声をかけ手を振ると、会釈を返してくれた、乙武さんと出会い、少し勇気を与えられた気がした直後の鎌倉黙想の家。

 愛深き神の臨在の感じられる静寂の中。 病症から生還し、煙をモクモクさせているキリストの司祭。

 野太い、純朴さの感じられる声。

 大雨で教会の便所から人による肥料があふれ出た話をされている。

 生きていることの素晴らしさを感じる。 益々、日々、喜び、前進ある闘士が湧いてくるのであった。



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「聖霊による生活刷新セミナー」について
秦野教会 寺田 正明

 クリスマスおめでとうございます。神奈川祈りの集いが、今年で11年目となります。また、聖霊による生活刷新セミナーも7回を数えます。

 テハン神父様と皆様方のご支援とご協力により、順調に活動できますことを感謝しています。さて、この特集号では、今年のセミナーの参加者より感想文が寄せられましたので、以下にご紹介させていただきます。

 

(1)主のへの賛美と喜びを味わいました

浅田教会 平岡 幸巳

 

 聖霊による生活刷新のセミナーに、参加することができました恵みを、心から主に感謝します。このセミナーを通して、今までに経験したことのない主への賛美と喜びを心から味わいました。また、私達のうちに主が現存しておられるという真実を、兄弟姉妹の方々の賛美の言葉の中に感じることができました。そして聖霊という愛に心を開くことの素晴らしさと大切さを知りました。家族の中で、ひとり祈るときにも、主の御言葉が生き生きと心に響いてきて、本当の喜びと光をいただきました。日常生活の中には小さな苦しみや、困難と思えることに出会いますが、そんな時も、このセミナーにおいて友達となりました方々と心を開いて語り合うことが出来ました。 分かち合いの中で主に出会い、生きる力と信仰の力をいただきました。この集いにおいては、恐れの気持ちも不安もなく、お互いに子供のようになれました。聖霊に満たしを受けました後は、異語の賜物をいただきましたが、ひとりで祈るときには心と舌を自由な状態にするのが難しいと感じますので、祈りの集いの中で少しずつこの賜物が成長するように願っていきたいと思っています。また、そのほかには、自己の意思を糾明する恵みをいただいたように感じます。 私は生まれつきの性質として、どのようなことにも夢中になりやすい情熱を持っていて、時には失敗することもあったのですが、洗礼の秘跡と聖霊の満たしのあとには、必ず反省と痛悔が生まれるようになりました。このことによって、ある種の苦しみが感じられています。それでも、古い自分の軽はずみな部分を主が作りなおして下さるのだと信じ、感謝しています。このセミナーに参加したことによって、とても大きな恵みをいただきました。これからもこの喜びを抱き続けて、多くの方々と主への賛美に心を開いていきたいと思います。

 

(2) 聖霊セミナーの感想

鎌倉雪ノ下教会 大井 花子

 

 ややスランプに陥り、霊的欠乏状態のまま、聖霊セミナーに通っていました。ただ、先輩の方たちの「休まないで!出来るだけ、休まないでください」という言葉をしっかりと胸に刻んで・・毎回出席しました。

 家では、テキストに沿って聖書を読み、祈るという習慣を身につけるため、徹底的に訓練されたようです。 従来、イエス様のみ言葉が、ちっとも、心に響かなかい日々が多かったのですが、「分かち合い」のグループリーダー高山さん、斎藤さんの確信に満ちた様子は、私にとって励ましでした。このセミナーを受け、聖霊の満たしを受けることが、私にとって、いま、もっとも必要で、しかも、最優先のことという思いがセミナーを重ねるごとに増していくのでした。聖霊の満たしの日、フォルテン神父様が、私に按手しながら、主を賛美する歌、ほか、2、3の歌を歌ってくださいました。その時、異言はいただけず、正直なところがっかりでした。これは、私の悔い改めが足りないのだろうと思い、その後2日間はよく黙想しました。木曜日の夕方、突然、異言が出ました。30分間、異言で祈った後、嬉しくて高山さんに電話してしまいました。リーダーに勧められた本「私はイエスの証し人」と「聖霊と教会」を読みました。読むことによって、私たちクリスチャンにとって聖霊と共に生きるということが、いかに大切かがよく分かりました。よろけながら、立ち上がり、第一歩を踏みしめたばかりの私です。これからもよたよたしたり、転んだり怪我をしたりするかもしれません。しかし、聖霊が、私を導いてくださるということを、信じることが出来ます。なんと幸いなことでしょう。リーダーの皆様、本当にありがとうございました。

☆ 以上です。いかがでしたか。 私たちは確信しています。この「聖霊による生活刷新セミナー」に参加してくださるなら、クリスチャンの生活を刷新し、私達の心を、イエス様への憧れと渇望でいっぱいにし、そして、イエス様に賛美と感謝を捧げつつ、活気ある生活へと変えられるのです。さらに、福音を伝える者に変えられていくことは間違いないと信じています。来年は5月から、第8回の聖霊による生活刷新セミナーを開催する予定です。どうか、皆様のご参加をお待ちしています。



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